3.最良の選択とは
みのりは虹介が緊張しながらも快く返事をする姿を見て、可哀そうと感じた。みのりは泣きそうになる気持ちをこらえながら重い頭を必死に頷かせた。
淀んだ空気の部活を終え、一人寂しく帰り道を歩くみのりは、《《あの事実》》を知ったときを思い出し、過去を振り返った。
陽彩が私と谷坂先生を呼び出して「脳腫瘍」だと告げられたのは、親睦会を終えて次の部活終わりだった。彼女の表情と話す内容は合致しなく、激しい動揺を覚えたことを今でもはっきり覚えている。
それに今思えば、あのとき感じた違和感は病気の予兆だったのかと考える。
一つ目は体育の授業でバスケをやっているときにシュートを外したことだ。陽彩は完璧と言えるくらい運動センスがあった。それに彼女の腕は百発百中。だからゴール前にいる陽彩にパスをすることができたら点を確実に獲得することができる、そう思っていた。
ゴールを外した瞬間、私を含めたその場にいる人が「珍しい」や「嘘だ」という声で溢れていた。陽彩は特に気にする様子ではなかったが、内心どう思っていたのだろうか。
二つ目は頭痛に悩まされていたことだ。四月半ばあたり、陽彩は具合悪そうにしていた。だが私は陽彩が生理に悩まされていることを知っていたから、生理による不調だとばかり思っていた。だから白湯をゆっくり飲めばいいよ、とか言っていたが、その不調は脳腫瘍の始まりだったのかもしれない、そう考えると私が気づいて病院に行くように促せばよかったのだと深く後悔をしている。
最後は親睦会の帰り道だ。これに関しては明らかに不調だった。きっと虹介くんも気づいていただろう。いつもモデルのような立ち姿で歩くのに、あの日の千鳥足のような姿は違和感しかなかった。だから私は病院に行った方がいいと言った。
私はそのとき、脚のどこかをケガしているか靭帯かなにかを損傷しているのだと考えていたため、次に会うときに余命宣告を受けたと言われるなんて微塵も考えていなかった。
それ以来、私はとにかく心配だった。いつ彼女がこの世界から消えてしまうのか、それを考えた夜は泣かずにはいられない。私にとって世界で一番の親友だ。失いたくないけど、いつかは失う。けど、そのときが早すぎる。
当たり前の存在を失う恐怖に襲われるが、陽彩のことを考えると私が恐れおののくことではない。むしろ陽彩のために何ができるのかを必死に考えて、やってあげるくらいしかできない。陽彩の隣にいつもいたのに何もできない私の無力さを実感すると、私の生命が淡く儚く感じる。
でもあの日、陽彩は願った。全国大会で優勝したい、と彼女は言った。本当に病を抱えている人の笑顔なのかと思えるくらい、虹がかかったような笑顔だった。陽彩の言葉は胸を震わせるものだった。私ができることはそれしかない、だから叶えてあげるんだ。そう決心をした。
みのりは陽彩のことについて、谷坂から相談を受けていた。
「おそらくだが、全道まではもつが全国に陽彩が行けるとは、悔しいが思えないんだ」
谷坂は苦い表情でみのりに言う。みのりも悔しそうに頷いた。
「だから、ここは部長であるみのりに判断をしてもらいたい。もしそうなった場合、全国を辞退するか、一年生を入れて全国に行くか」
「私は……、やっぱり陽彩の願いを叶えたい」
「……わかった」
このやり取りが意味のないものになりますように、と願っていたが二人のやり取りは願わずともその通りになってしまった。陽彩が倒れたとき、みのりは一心不乱になって真っ先に駆け寄った。
お願い、陽彩。死なないで。
聞こえているのか分からないが声を必死にかけ続けた。悔しいが、そのときは答えが返ってこなかった。
幸い、まだ死ぬときではなかったが時間は短い。みのりは大会明け初めての部活の前、谷坂と例の相談した。
「しっかり話すべきです。陽彩が何と言おうがもう隠すことはできません」
「……だよな。わかった」
「それから——」
みのりは一呼吸おいて話を続ける。
「畠中虹介くんを全国のメンバーに入れましょう」
「……なんでだ? 成績でいうなら松村が妥当じゃないか。それに応用計算が得意な点も見ると畠中じゃないと思うが」
谷坂は当たり前の反論をする。
そんなことわかってますよ、先生。でもこれは、陽彩のためでもあるんです……。
「お願いします」
みのりは深々と頭を下げた。床と背中が平行になるくらいの姿勢を保ち、震えながらその返事を待っていた。
「そこに何か深い意味があるんだな」
谷坂はそう呟くと、「分かった。そうしよう」と言った。みのりは頭を下げたまま「ありがとうございます」と言った。その声は若干涙ぐんでいた。
そしてすぐに全国に虹介を連れていくことを部室で伝えた。やはり不穏な空気になってしまった。なぜなら、優南と純礼は綾仁に視線を向けていたから。とくに優南の視線は敵対視するようなものだった。不当な選手決めであることは分かっていたが、ここだけはわがままを聞いてほしいとみのりは祈った。
そしてみのりは部活が終わった後、陽彩が入院している病院に駆け付けた。陽彩は今日の昼ごろに移動してきたらしく、酷く疲れた様子で、うなされているような表情で眠っていた。
今日話すことは難しいと察したみのりは足音立てずに病室を出た。その瞬間、心が空っぽになったのか、その穴を冷たい風がビュービューと通っていく。みのりは自分の全身を包むように体を抱き、ぶるぶると震えた。
これからどうなるかなんて考えたくない。陽彩の余命なんて計算しないであげたらよかったのに……。本心から溢れ出る『失いたくない』という気持ち、陽彩はかけがえのない存在。
その日から部室の空気は酷く靄がかかっていた。心なしか、優南の虹介に対する当たりが強くなっている気がした。よく指導する際にアメとムチを使うというが、みのりから見る景色は、アメを届かないところに置いてムチでいじめているように見えた。そんな状況に耐えられなかったみのりは優南と、念のため純礼を呼び出した。
みのりは普段使わない空き教室に二人を連れ、三人で椅子に座って話をする。
「さっきのことだけど、虹介くんに当たり強くない?」
優南と純礼は目を合わせ、沈黙を続ける。
「そりゃあ実力上げなきゃいけないのは分かるよ。でもあんなに強く指導しても伸びるものも伸びないよ。だから——」
「でもみのりさん」と優南が口をはさむ。
みのりは「なに?」と優しい表情で訊く。
「おかしいですよ。いくらなんでも」
「……おかしい?」
「はい。だって全道の成績だったら松村くんが選ばれるのが当然っていうか必然じゃないですか。それなのに成績が松村くんより下の彼が選ばれるのが意味不明というかなんというか……」
そう言うと優南が徐々に俯きはじめる。自分でも、ゆえに強く当たるということは間違っているということに気づいている様子だ。
「みのりさんは畠中くんが選ばれた理由って知ってますか?」
純礼が援護するように訊く。
「私は知らないかな」
みのりは笑顔を振るまい、白を切る。すると優南が顔を上げてみのりを見つめ、「あの」と口を出す。
「陽彩さんが言ったんですか? 畠中くんを大会に出すようにって」
「私は知らないけど、そうかもしれないね」
「……はぁ」
優南が生温いため息を吐く。
「どうした?」とみのりが訊く。
「それって自分の感情ですよね? そういうので決めるのはさすがに違うと思うんです」と優南が怒り気味の声で言う。
「……え?」
「陽彩さんが畠中くんのこと好きなのみんな知ってますし、その逆もそうだって知ってますよ。だからですか? そんな理由で全国大会に出る選手を決めたんですか?」
「……いや、私はなにも——」
「感情を重視する理由も分かりますけど、実績を重視して優勝に近づく人選をして優勝した方がいいんじゃないんですか? 優勝した姿を見せることができれば陽彩さんも喜びますよね?」
優南は息づきせずに言葉を発した。そして軽く息を吸った優南はみのりを見つめる。まるで肉食動物が獲物を見つけたような瞳だった。
「本当は知ってるんじゃないんですか?」
優南はほんわかした表情を一変させて眉を顰める。みのりは核心をつかれたことによる動揺を抑える。
「知らないわよ。とりあえず、平等に接してあげてね」
みのりはそう言って立ち上がり、我先にと教室を出た。
みのりは火を消すつもりだったが、油を注いでしまったかもしれないと思い、猛省する。
良かれと思ってやったことは輪を崩すようなことだったのかもしれない。みのりは責任感を感じ、これから虹介の様子を見守ることにした。
だが彼女たちの気持ちは治まらない。部活が終わるまで、圧迫指導のようなことをしていた。だがみのりは何も口を出すことができなかった。
部活が終わって虹介は一人居残り練習をしている。みのりは真っ先に虹介のもとに駆け寄る。
「……大丈夫?」
「いや、だいぶ精神的にきました……」
「だよね」
「やっぱり実力不足だから無理にでもやらせるって感じなんですかね」
虹介は弱った声で無理して笑い、目を伏せる。その姿に心を弱くしたみのりは「ごめん」と呟いた。虹介は「え?」と戸惑いながら訊く。
「いや、なんでもない。分かんないことあったら私が聞くし、教える」
「あ、ありがとうございます」
虹介は軽く頭を下げる。みのりは「そろそろ閉めるよ」と言ってカバンを取ろうとした。すると背後から「あの」と虹介の低い声がみのりの体を止める。
「陽彩さんは、元気なのでしょうか」
みのりの背後でどんな表情で言っているのか分からないが、みのりは振り返ろうとはしなかった。
「うん、元気だよ。心配しないで」
みのりはカバンを背負い部室の外に出た。奥では虹介が戸惑いながら支度をしていた。心を痛めるみのりは唇を強く噛んだ。
虹介を見送った後、みのりは病院に足を運んだ。訪れるのは二回目だが道のりや病室は記憶した。
面会時間に間に合うか分からないがみのりは必死に歩く。歩きながら『もうすぐで着く』とメッセージを送ろうとしたが、陽彩のスマートフォンは母親が電源を切って保管していることを想い出し、画面を消した。
信号に足を止められると気持ちが焦り、青になった瞬間走り出した。一分一秒も無駄にしたくない思いでみのりは駆け抜ける。
病院に着くとみのりは急いで病室に向かう。あと数分というところだが間に合ったためみのりは病室に入る。
陽彩がこちらの姿に気づくと、「あ、みのり」と蚊の鳴くような声を出す。その声に心が弱りそうになるが、それを押し殺して明るい表情を作る。
「陽彩、元気?」
「うん、なんとか」
とは言うが、起き上がることすら難しいようだ。喋りだけは症状として現れていないようだ。だが微かに動く手を見ていると、よく前まであんなに元気に電卓を打てたな、という尊敬の念を抱く。
「いいよ、そのままで」
「あ、うん。部活はどう?」
「ぼちぼち。上手くいきそうにないんだ」
「それはどうして?」
「一年生が急に全国のメンバーに入るってなると、優南がスパルタになっちゃって」
「ありゃー、ちなみに誰が入ったの?」
「……虹介くん」
「え? そうなの?」
「……そうなんだ」
「大丈夫かなぁ」
陽彩は微動だにしない視線のまま言う。みのりは心配する陽彩に対して「なんで?」と訊く。
「あの子、私のこと好きでしょ」
陽彩は表情を少し柔らかくして答える。それを聞いたとき、やっぱり気づいていたのか、と安心した。
「さすがの陽彩でも分かってたんだね」
「分かるよ。さすがの私でも気づくよ」
「それで、なんで心配なの?」
「私の代わりだからって責任を背負いすぎると、あの子まで体壊しちゃうかもよ。追い込まれて伸びる子じゃないから」
「……確かにね」
「みのりが決めたの? 全国のメンバー」
「……やっぱりバレた?」
「うん。たぶん虹介くんが私のこと好きだって気づいたのみのりが一番早いでしょ。もしかしたら私より早いかも」
「それはないよ」
陽彩は小さな声で笑う。
「私のためを想ってか分からないけど、お節介は程々にね」
「……え?」
「忠告ね」
陽彩は微笑んでそう言った。すると看護師が面会終了を伝えに来て、陽彩と別れを告げた。
やっぱり、私のやってることって間違いなのかな……。でも陽彩に辛い思いをさせたくないし、後悔無く天国に行ってほしい、それだけなのに。
みのりは涙を流しながら、淡い夜に吹く空虚な風を浴びながら歩いた。
陽彩がいない学校生活はとても退屈なものだった。気づけば、みのりに周りにはいつも陽彩がいたからクラスに馴染んでいるように思えたが、現実は陽彩という掛橋があったから馴染んでいたのだ。一人だと何もできないことを知った。
みのりは昼休みになるといつも陽彩と向かい合ってご飯を食べていたが、これからは独りぼっちだ。一日の大半を過ごす教室が窮屈に感じ、みのりは財布を持って教室を出て、一階の購買に向かう。
階段を下りていると、虹介の姿を見かけた。みのりは虹介の背中に向かって名前を呼んだ。虹介は振り返ると、丁寧に一礼した。
「これからどこ行くの?」
「飲み物買いに行きます」
「付き合うよ」
「みのりさんはなんでここに?」
「暇だったから」
適当に会話を終わらせ、一階に着く。みのりは購買でおにぎり一個買ってベンチに座る。虹介は自動販売機で飲み物を買うと、おにぎりを見つめるみのりの隣に座った。
「何か飲みますか?」
「後輩が気を遣うもんじゃないよ」
「でも、疲れてそうですし」
みのりはその言葉に反応して刹那のため息を吐き、おにぎりを腿の上に置き、両手を頬に当てる。そのままこめかみをマッサージするような動きをして、「老化かな」と笑ってごまかす。
「さすがにそれはないでしょう」
虹介も合わせた笑いをする。
「やっぱり心配ですよね。僕もずっと気になってます」
虹介は飲み物を見つめながら言う。
「みのりさんは知ってたんですか?」
虹介のその発言に、汚れた床を見つめながら頷いた。すると虹介は「そうですか」と掠れる声で言った。
その声を聞いてみのりは抱えていた罪深さを思い出し、抑制することができなかった。
「私ね、虹介くんに悪いことしたよ」
「……え?」
「メンバー入りさせたのって、私なんだ」
「……あぁ、そうだったんですか」
「虹介くん、陽彩のこと好きでしょ?」
「ば、え、は、な、何ですか? 急に」
明らかに動揺を隠せていない虹介を見て自然と笑みがこぼれた。
「みんな分かってるわよ。だから隠さないで正直に答えてほしいんだ。どうなの?」
「……好きです」
「……そう。なら良かった」
「……あの、これとあれはどう関係あるんですか?」
「さぁ、分かんない」
みのりはそう言うと両手で頭を抱え、膝で頭を挟むように体を丸める。虹介から「大丈夫ですか?」と心配する声が聞こえ、「大丈夫」とだけ返した。
「でもね、それが良いと思ってたんだけど、そう思ってたのは私だけみたいなんだ」
「どういうことですか?」
「陽彩に最後の思い出としてさ、愛弟子のような虹介くんが頑張る姿を見せることができればいいなって、思ってたんだけどさ」
「……重いっすね」
「あ、これを言っちゃあダメだよね。やらかしたなぁ」
「大丈夫です。もともとそのつもりでしたから」
虹介はそう言うと、飲み物を一口飲んだ。
「ありがとうございます。僕、頑張ります」
「うん、ありがとう」
「あの、陽彩さんに会うことってできないんですかね」
虹介にそう聞かれると、昨日の陽彩の顔が甦る。
「できるんだろうけど、陽彩に訊いてみてからかな」
「分かりました」
みのりは近くにある古びた木製の振り子時計に視線を向けると、もうすぐで昼休みが終わろうとしていた。
「あ、じゃあそろそろ戻ろうか」
「そうですね」
二人は並んで階段を上りはじめ、各々教室に戻った。
そして部活の時間を迎えると、みのりは胸が締め付けられる思いだった。それは目の前で怒号が飛び交っていたから。
「全国の問題はこんなに簡単じゃないのよ? 今までパターンで解いてたと思うけど、これからは全てが応用なんだから」
「……すみません」
「優南、落ち着いて」
純礼が優南の気を静めようと善処しているが、暴れ馬のような優南は訊く耳を持っていなさそうだった。
委縮している虹介を見ると、これを招いた原因がみのりにあると思い、みのりは震えていた。
「みのり先輩」
その声の方に視線を向けると、綾仁が心配そうな面持ちで立っていた。
「あの、あいつ大丈夫なんですかね」
「……こうなったのって私のせいなのかもね。もっと私がちゃんとしてたらこんな状況になってなかったのかなって。それに松村くんにも悪いことをした」
「え、俺ですか?」
「うん、全国大会のことでね」
「あぁ、成績で言うなら選ばれるのは俺じゃないかってことですか?」
核心をつく言葉にみのりは怯んだ。
「でも、俺はみのり先輩のその選択が正しいと思います」
「……え?」
「みのりさんが決めたことなら、それなりに深い意味があると思うんです。入部当初からあいつは陽彩先輩にお世話になってました。本当は一年後、二年後に恩返しができればそれでいいんですが、どうやらその時間はないですから。だからあいつのためにも、陽彩さんのたねにも、これが一番いいと思うんです、”俺は”ですけどね」
みのりの心は少し温まっていた。それは自分の考えを理解してくれる人がいたからだ。するとみのりの目頭が熱くなり、ポロッと涙がこぼれた。
「え、大丈夫ですか?」
綾仁は若干引いたような声で心配する。みのりはポケットからハンカチを取り出し、拭った。仄かにつけたアイシャドウも一緒に落ちた。
「なんでもない、大丈夫」
みのりは席を立ち、「優南」とだけ声を掛けた。優南はぷいっとみのりから視線を逸らした。それが効いたのか、さっきまでの怒号は大きく静まった。
その後、みのりはそのまま目の前にある問題の解きなおしを始める。電卓をゆっくりと叩く音が突然懐かしく思えた。
*
……難しすぎる。
虹介は過去の全国大会に出題された応用問題を解いてみると、十五問中三問しか合ってなかった。全国大会の問題は非常に練られており一年生が解くのは至極難しいとされる。実際、スパルタ指導をする二年生の二人も十問正解がやっとのようだった。
「よっすー」
綾仁が肩を組んで話しかけてきた。
「……なに?」
若干テンションが下がっている虹介は低く冷たい声を発した。
「実はな、志乃と別れた」
「……はぁ!?」
虹介の声は予想以上に大きく響き、部室全員の視線を浴びた。すると二年生の二人から感じる視線に恐怖を覚え、ゆっくり頭を下げた。
その後、辺りを見回すと志乃がいないことに気づいた。
「でけぇ声出したな」
綾仁はくすくすと笑いながら言う。
虹介はひそひそ声で「なんで別れたのさ」と訊く。
「始まりがあれば終わりがあるってことよ」
「あんなにお似合いだったのに」
「だからお前も、始まりのきっかけを言うべきだな」
「……きっかけ?」
「鈍感バカ野郎だな、ほんと」
綾仁はそう言うと、虹介の耳に近づいて「陽彩さんだよ」と耳打ちをする。すると見る見るうちに虹介の顔が赤くなる。
「無理だよ……」
「お前なぁ、その気持ちずっと持ったままで放出しねぇのかよ。結果はどうあれ、お前の気持ちを伝えたらどうだ?」
「無理だって……。ただでさえ陽彩さんは大変なんだ。そんなことで陽彩さんの大切な余命時間を使えないよ」
「弱いなぁ。そんなんじゃ誰も喜ばないぞ」
すると綾仁は自分の席に戻り、そのころには次のセットが始まろうとしていた。心に大きな靄を被ったままの練習は、さらに成績が落ちる一方だった。
そして部活終わり、虹介は毎日の如く居残り練習をしていた。すると帰ったはずのみのりが姿を現した。
「そろそろ帰った方がいいよ」
「いや、できないなりに一生懸命頑張らないと」
みのりは鼻息を強く吐き出した。
「それより、陽彩のことだけど——」
虹介はその言葉に強く反応し、手を止めてみのりを見た。
「えぇっと……、病気で弱ったところを見られたくないから通話でならいいよって」
「……本当ですか?」
「うん、じゃあこれ」
みのりは手に持っているスマートフォンを差し出すと、そこから懐かしい声が聞こえた。
「やっほー」
かなり弱った声をしているが、それは紛れもなく陽彩の声だった。虹介は両手でそれを受け取り、ゆっくり耳に当てた。
「ひ、陽彩さん?」
「陽彩だよー、元気?」
「……はい、元気です。陽彩さんは?」
「私もなんとか生きてるよ」
その言葉から元気ではないみたいだった。
「みのりから聞いてるよ。全国。おめでとう」
「いえ、僕は何も……」
「やるからには全力を出すんだよ、大会のことだけを考えて」
虹介はその言葉に、はい、と答えることができなかった。
「何かあったらみのりが全部責任取るから、大丈夫だから——」
「簡単なこと言わないでくださいよ」
虹介が苦しみの言葉を漏れるように言った。陽彩から返答は何もなかった。
「僕は、……僕は、ひ、陽彩さんが……」
その言葉の続きは何も出てこない。ここで臆病な性格が前面に溢れでてしまった。
「何も考えなくていいの。どうせ三月になったら私はいなくなる、でもそれが早く迎えに来ただけだから」
「だっていなくなるんですよ? この世から。そんなの卒業の別れよりずっと辛いんですよ」
「大丈夫。私はちゃんと見守ってるから、みんな頑張れって応援してるから」
「それだけじゃ——」
「私の分とか背負わなくていいから、楽しみなさい」
「……分かりました」
虹介はそう言うとみのりにスマートフォンを返した。虹介はしばらく俯いていた。みのりが通話でなにかやり取りをし、「分かった」とみのりが言った途端、みのりは虹介を優しく包み込んだ。
虹介は何故か分からないが、みのりの背中に手を回して抱き寄せるように強く抱いた。虹介の右肩は直系数センチの濡れた後が二つあった。
それ以来、陽彩とは連絡を取っていない。陽彩は部活の連絡グループからも退出し、友達登録していない虹介は完全に連絡手段が途絶えた。
噂によると陽彩が面会を許している人がみのりと谷坂、家族のみだった。二年生の二人は手紙をときどき書いたり、綾仁と志乃はみのりを通して連絡しているみたいだった。
あのとき、綾仁が言っていた意味がはっきり分かった。次は、結果はどうあれちゃんと伝えようと決心をした。
だが、陽彩と話すことに許可が下りなかった。
全国まで残り一か月を迎えたとき、学校では文化祭の準備が行われている。全国大会の出発日は文化祭終了日の翌々日であるため、並行しなければいけない。
虹介は女子の言いなり人間としてしっかり役目を果たす。買い出しに行って女子の荷物持ちになったり、力仕事を引き受けたり、販売する原価の計算を手伝った。
すると外から「陽彩大好きー!!」と大声で叫ぶ数十人の声が聞こえ、虹介は急いで窓の外を見た。
そこには陽彩と同じクラスだと思われる数人の男子と数十人の女子がいた。どうやら陽彩にビデオレターのようなものを作成しているようだった。
「入院中は辛いかもしれないけど、元気になったら一緒に騒いで遊ぼうねー!!」
「陽彩のハッピーオーラ、早くほしいよー!!」
「陽彩の役、残しておくからねーー!!」
「陽彩ーー!! 俺たちは待ってんぞーー!!」
そこにいる彼らは紛れもなく、本心から陽彩の帰りを待っているようだ。
虹介はその様子を見て、陽彩は本当の病気のことを言っていないのだと気づいた。だって元気になるはずがないのだから。
文化祭の準備を抜け出し、部室へ向かう。そして決められた二セットを行う。成績はまずまずと言ったところだが全国平均を考えると底辺に近い点数だ。
すると部室の戸が開き、みのりが入ってきた。
若干気まずそうな空気が漂うが、それを断ち切るように「こんにちは」とみのりが言った。虹介は頭を軽く下げた。みのりは自分の世界に入ったかのように黙々と練習を始める。
虹介は解き終わった問題をカバンに入れ、部室を出ようとすると、「ちょっと待って」と練習中のみのりが声を張る。虹介は足を止めた。
みのりは普通計算の時間が終わると、虹介の方を見る。
「気づいてると思うけど、陽彩の病気は私たちしか知らない。絶対に言っちゃだめよ」
「分かってますし、誰にも言うつもりはありませんよ」
虹介はみのりに背を向け、部室を出ようとすると、「最後に」と声を掛けられ、虹介はもう一度みのりに視線を向ける。
「気持ちは変わらない?」
「……変わりませんよ」
みのりは小さく頷き、「わかった」と呟いた。虹介は仄かに残っているみのりの感触を振り払うように部室を出た。
そして計三日ある文化祭の一日目を迎える。
初めての文化祭だから心の底から楽しめると思っていたが、虹介の顔に笑顔はなかった。虹介は自分たちのクラスの出し物である『射的ゲーム』の受付係をこなしていた。来る客は皆、童心に帰ったかのような笑顔を振りまき、この空気を賑わせている。
ときどき志乃を見かけると、綾仁のこと何も思っていないのか、など余計なことを考える。
そして二年生の先輩二人も遊びに来た。相変わらず冷たい対応をされるが、後輩のクラスの売上に貢献するのは伝統のようだ。
ひたすら出納帳とにらめっこする時間だったが、有意義なものだった。
現金実際残高と帳簿残高に差異が無かったことを確認し、これらをリーダーに渡し、虹介は部室に向かった。
これから三日間は文化祭終わりに部活が行われる。例年なら浮かれているようだが、今年は張り詰めた空気で切り傷を作りそうになるほど緊張感がある。
全国メンバーが揃い、練習を一斉に始める。
一セット終了し、またも点数は底辺を彷徨っている。虹介はその点数を見て悔しがると、それを見た優南がつかつかとこちらにやってきて虹介の点数を見て、「やる気ある?」とドスの効いた声で訊く。
虹介は怯みながらも「あります」と弱々しい声で答える。
「だったらなんでこんなに点数が上がらないの? 教えた問題もほとんどできてないし式すらも書けてない。もう練習時間ないんだよ? 分かる?」
優南の高圧的な態度に目を瞑る。
「聞いてる? 困るの、こんなに酷い成績を残されると」
「……すみません」
虹介はただ頭を下げることしかできなかった。すると奥の方で椅子から立ち上がる音が聞こえた。
「優南、そこらへんにしときなさい」
みのりが優南の怒りを鎮めようと動いた。優南がみのりの方を向くと、虹介への怒りをそのまま移動させた。
「こんなんじゃ優勝なんて夢のまた夢なんです! どうしても優勝しなくちゃいけないんです! 陽彩さんに喜んでもらいたいからこうやって私も必死なんです!」
優南はみのりの顔に向けて怒りを含んだ声を投げかける。
「そういうやり方をしても、陽彩は喜ばない」
みのりは優南の目をロックオンしたかのように見つめる。
「まぁ、そうですよね。みのりさんは敵ですもんね」
「……敵?」
「自分の采配ですもんね、彼を選んだのって。だから彼の味方をするんですもんね。実力が劣ってる人を優先するなんてありえない。実際、松村くんの方が応用計算の覚えが良いのよ、知らないでしょ? ずっと彼のことばかり気にかけてるから他の子の成績なんて知らないでしょ。公正な判断をするのが部長の務めなんじゃないんですか?」
優南の一言によりさらに空気は張り詰める。優南はつぶらな瞳で最大限の恐怖を醸し出す。みのりは動じず、呼吸により胸が大きく動く。
「優南の意見は正しいよ。間違ってることは何一つない、でも私も間違ってるとは思ってない。結果はどうあれ、彼を入れることによって——」
「結果は優勝じゃなきゃダメなんです!」
優南は部室を揺らすほどの心からの声を上げた。
「優勝して恩返しをするんです! 陽彩さんは優勝を望んでるし、今までお世話になった分、それで埋め合わせするしかないんです! 新人戦までには、もう時間が、ないんです……」
優南の声は徐々に弱り、しまいには涙を流していた。
すると部室の戸が開き、谷坂がやってきた。
「どうした、職員室まで聞こえてたぞ」
谷坂は全員の顔を見る。そして幾つか情報を察知したのか、「メンバーのことか」と声を出す。虹介は肩身を狭くさせる。
優南は泣きじゃくった声で「そうです」と言う。谷坂は腕を組み、ここまでに至る経緯を求めた。みのりと優南が伝えると、谷坂は「なるほど」と渋い声で言った。
「畠中」
谷坂は虹介の名を呼び、ここにいる全ての視線が向けられる。四面楚歌とも言える状況だった。
「背負いすぎてないか?」
虹介は予想もしていない問いに驚き、息が止まった。虹介は「大丈夫です」と答えた。谷坂は微笑んだ。
「結果は優勝がベストだ。陽彩に優勝の姿を見せて、喜んでもらって天国に行ってもらいたい、その気持ちもわかる。だが陽彩の気持ちを考えたか? 確かに陽彩は優勝を目指していたが、あくまで優勝メンバーに自分がいることを望んでたっていう捉え方もできる。もし優勝してそれを陽彩が知ったら、『私がいない方が良かったのか』なんて思うかもしれない」
「陽彩さんはそんなこと——」
「あくまで”もしも”の話をしている。絶対にそうなるとは言ってない」
谷坂に遮られた優南はつぶらな目を伏せる。
「一年生の中では愛弟子とも言える畠中に大会に出てもらいたいみのりの意見は分かるし、それより実力がある松村を推す優南の意見も分かる。この答えに正しいことなんてない。一番に考えることは、陽彩が必ず喜べることってなんだろうってことだ。俺は、陽彩に教えられた三人が一生懸命、後悔無く競技が出来れば、それでいいんじゃないかって。結果ばかり求めて今みたいな喧嘩が起こると、それこそ陽彩は喜ばない。こういうことを顧問の俺が言うのはダメかもしれないが、優勝は目指さなくていい。自分ができる最大のパフォーマンスを陽彩に見せろ、それだけだ」
「……いやです」
優南が大きく首を振って否定した。
「優南、自分の思うことを言ってみてくれ」
谷坂は優南に熱い視線を向ける。
「陽彩さんが結果を知ったとき、中途半端な順位を見てどう思うと思いますか? そのときの気持ちを先生は考えましたか?」
谷坂は唸り、鈍い音を部室に響かせる。
「先生の言ってることが正しいことは分かってます。それにこの話し合いに結論が無いことも分かってます。各々が自分の言ってることが正しいっていうことがぶつかってることも分かってます」
優南が言ったことは的を射ていた。優南の持論、みのりの持論、谷坂の持論、それぞれがぶつかり交差するも、抜きんでた持論はない。
虹介はその様子を憂わしげな表情で見ていた。
「人生って難しいよな」
谷坂がため息混じりで言う。
「答えのないことに何が正しいかなんて、神様以外誰も知ることは無い。だから俺も正しい答えは出来ない。だけどな、答えが無いなら答えを作ればいいんだよ。だから一つ”逃げ”の提案をする。みんなの一番求めるポイントを組み合わせるってのはどうだ」
虹介は谷坂の言った言葉をしっかり読み解こうとする。
「それはメリットだけを考えろってことですか?」と優南が言った。
「そうだな、でもそれがみんなの求めるものになるだろ? 畠中が大会に出てそれでベストパフォーマンスを陽彩に見せて優勝する。どうだ?」
谷坂は笑みを分けるように皆の顔を見回す。優南たちは顔を見合わせ、微かに首を傾げる。
「そんなこと成し遂げられるわけが——」
「最初からそんな気持ちでいいのか?」
谷坂が挑発するように訊く。
「陽彩はいつだってポジティブだったぞ。たぶんここに陽彩がいたら『それいいですね!』って言うだろうな。それに思い返してみろ。陽彩がいなくなってからこの部活は井戸の底みたいに淀んで仄暗い部活になっただろ。今の部活の様子を見たら、それこそ陽彩のためにならないだろう。陽彩がいたときみたいに、明るい様子を見せることができればそれでいいさ。どうなるか分からないけど、結果がどうあれ、それが答えになるさ」
「分かりました」
みのりがいち早く谷坂の言葉に反応し、返事をした。
優南は葛藤を終えたのか、苦い表情から決心したような表情をした。
「これでいいな、みのり、優南」
「はい、長々とすみませんでした」
優南は自分の頭頂部が谷坂にはっきり見えるような礼をした。谷坂はいつもの微笑みを見せ、「じゃあ俺は仕事あるから、また後で」と言って部室を後にした。
優南は谷坂の姿が見えなくなるのを確認すると、虹介の方に視線を即座に移す。そしてヅカヅカとこちらに歩み、「しっかりやってよね」と言った。
虹介は震える声で「はい」と返事をした。優南は片頬を膨らませ、自分の席に戻った。
谷坂の言葉を貰ってから、僅かながら変化はあった。優南の虹介に対する態度は軽減され、アメとムチを使い分けていた。それでも堪える部分はあるが、そのおかげか成績が少し上がった。それで喜んでいると、優南から「それくらいで喜ぶな!」と檄を入れられた。
だが全国大会までの日数が迫ると同時に虹介に責任が迫ってくる。結局は、優勝を目指さなければいけない。優南とみのりの点数はかなりハイレベルな数字で、虹介の点数は真ん中を超えるかどうかという悲しいものだ。
責任感に追われ、虹介は自ら居残り練習をした。文化祭で楽しい感情を持つことができず、ただ電卓のことを考え、陽彩のことを想った。
だからあっという間に文化祭は終わった。何の思い入れもなく、来年楽しみだね、なんて会話はできなかった。でも、それでいいと思った。やるべきことに向けて虹介は希望に満ちていた。
文化祭最後の日の部活も終えた。優南の愛情ある指導のおかげか、初めて上位三十パーセントに入るような成績を残した。そのときは優南もつぶらな瞳を最大限に活用させていた。普通計算も初めてミスをせず、二十五問正解した。虹介の勢いはうなぎのぼりだった。
翌日、部活は休みだが、虹介は勝手に部室に来て練習を始めた。十三時から十五時までは綾仁と志乃が応援に駆けつけてくれた。だが虹介は、この二人って別れたんじゃあ……、なんて心配をしていた。
綾仁がトイレに行った際、虹介は志乃に勇気を振り絞って訊いた。
「志乃?」
「ん、なに?」
「綾仁と別れたんじゃないの?」
「はぁ!? いや続いてるけど、なんで? え?」
志乃は酷く錯乱して虹介の胸ぐらをつかみそうになっていた。
「え? 付き合ったまま?」
「そうだって、え? ちょっとまって、冷静になるね。それは誰から聞いたの?」
「え、あ、綾仁から」
「益々分からないぞ……」
志乃は絵に描いたような困り顔を見せた。元から純粋な人だから表情の変化が豊かだ。そして綾仁がお気楽な表情で戻ってくると、「ちょっと綾仁! どういうこと?」と怒りをぶつけるように訊いた。
「はぁ? なんのことよ」
「虹介に私と別れたって話したんでしょ?」
「あ、やっべ……」
綾仁は舌を出して誤魔化すような笑いをした。
「それはだな、こいつがいつまでたってもうじうじしてっから、こんな嘘つけばこいつも真剣に考えるだろうって。だから別れるつもりはないって、な?」
「……それを早く言いなさいって。だったら協力したのに」
どうやら仲直りは一瞬で終わったようだ。それに志乃は態度を急変させ、「陽彩さんに告白しないの?」と圧迫するように訊いた。
それからは雑談がメインとなる時間を過ごし、二人が帰る時間を迎えた。
その後も虹介は周りの期待に応えなければいけないという使命感を背負い、練習に励んだ。白い光が赤みを増し、やがてその光を放つ太陽は顔を隠し、すれ違うように月が顔を出し、月は淡い光を放つ。その光すらも眩しく思えるくらい、虹介の心は弱っていた。
数字が見えにくくなると、虹介は部室にある掛け時計に目を向けた。時刻が十九時を回ろうとしていた。そろそろ帰らないと学校に閉じ込められてしまうため、帰る支度を始める。
忘れ物がないことを確認し、月の光が差し込む部室を出ようとした。
そのとき、虹介の心臓は止まりそうになるような衝撃が走った。その人と目が合い、虹介は全ての動きを静止した。
車椅子に座る陽彩はお化けでも見たかのような表情をしていた。そして後ろにいたみのりは真っ直ぐ虹介の方を見ていた。




