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2.全道大会に潜む魔物

 それから二週間が経ち、全道大会前日を迎えた。とはいえ開催される場所が札幌で、ここからバスで六時間程度の距離にあるため前乗りをする。出発が木曜日で、大会当日は金曜日である。そのため水曜日である今日は、学校でできる最後の練習だ。

 部室にいる皆の顔が引き締まる。緊張感に支配された空気を呑み、虹介は体を強張らせる。


 だがそこに陽彩の姿は見当たらなかった。親睦会の次の日を休んだあたりからしばしば休むことはあったが、最後の練習にもかかわらず陽彩は休んだ。


 前に谷坂は「陽彩は予備校の関係で都合が難しい」と話していたが、あんなに部活一筋の人が休むのだろうか、と疑問と心配が入り交じっていた。


 だがただの部員には分からない親の事情が絡んでいるとなると、何も思うことは無く、明日会えることを願うだけだった。


 余計な心配なのだろうが、虹介は陽彩のことを気にかけていた。この部室にいる誰よりも——その自信がみなぎっていた。



 大会前最後の練習は、特に大きなミスはなくいつも通りだった。谷坂からも「その調子なら入賞できるかもね」と声を掛けられた。


 それに全道大会は予選も兼ねている。全国大会の切符をつかむには予選で学校として優勝——つまり学内の上位三名の合計点数が一番高ければその三名が全国の団体メンバーとなる。それに加え、その三名を除いて個人で見たとき、一番成績の良い選手一名も全国大会に進むことができる。

 そのため、北海道から計四名が進むことができる。だが例年、この四名は全て北陵商業が占めているみたいだ。そのため二、三年の四名がその枠を占めるのだと誰もが思っている。それは谷坂も先輩も、一年生も、参加学校らも。


 だから虹介たちが目指すものは、一年生にしては上出来である『佳良』である。一等が一席、二等が二席、三等が三席あり、そのあと十二席ほどある賞が佳良である。その説明をされたとき、目指せるものなのだろうかと不安を抱いた。だが今日、谷坂から掛けられた声によりその不安はほとんど消え去った。


 だが残りの不安を消すことができるのは、陽彩が言う「大丈夫」の一言だろう。その一言を欲しがっていることに気づいたとき、体が熱くなる感覚を覚えた。プリント整理をしているとき、みのりに「耳がゆでだこみたい」と揶揄されるほどだった。


 大会のことに思考を寄せ、体を冷ます。結果、また不安を抱いてしまった虹介はまた陽彩からの一言を欲しがっていた。輪廻のような思考を断ち切るため、部活が終わると同時に部室を出た。


 夏の入口をこじ開けようとする生温い風が虹介の髪の毛を動かす。昨日降った雨が濡らしたコンクリートから拒絶するような匂いが鼻を通る。遠くに見えた広告でも流れる塾を見て、そこに陽彩がいるのではないか、と考えていた。

 街灯は道を案内するように永遠と続いていた。それを辿りながら、空に散らばっている星屑に視線を向けた。


 もしそれが輝いていなかったら誰もが生きる気力を失っているだろう。その星屑から勇気をもらったが、あの輪廻は終わっていなかった。



 翌日、学校に集まったのは午前六時。その場所に向かうと、バスの近くで陽彩とみのりが談笑している姿があった。その姿を見て昨日までの輪廻はすっかり消え去った。


 いつも通りの気持ちを持って虹介は二人に近づく。いち早く気付いてくれたのは陽彩だった。

 陽彩が顔の横で手を振る。その姿を見てみのりもマネする。虹介は手を振ることはせず、何度も会釈をして近づいた。


「お久しぶりです」

「久しぶりー。調子はどうだい?」

「まずまずです。お二人はどうですか?」

「私は好調だよ」とみのりが自慢げに言った。

「ミートゥーだよ」と陽彩も自慢げに言った。


 そんな話をしていると、続々と人が集まる。綾仁は「楽しみだな」と虹介の背中をバシバシと叩く。遅れて志乃も「明日は負けないよ」と闘魂を燃やしていた。


 そして虹介たちはバスへと乗り込む。谷坂も乗り込み、続けて見知らぬ教師が二人乗った。出発するころには校長や担任教諭など数人の教諭が見送りに出ていた。彼らは手を振り、みのりと陽彩は大きく手を振り返した。

 まるで最期の別れのような挨拶だった。


 バスの中では精神年齢が低くなったような気がした。ババ抜きで盛り上がったり、女子は自撮りをし、一癖のあるしりとりなどもやった。こんなに人と遊んだのは小学生以来だろう。

 途中、サービスエリアに止まると一斉に降りてお昼ご飯を調達するため、皆おにぎりや飲み物、サンドウィッチなどを購入する。その際、陽彩は「なにか奢ってあげるよ」と言い、断ったが頑なに「大丈夫だから」と言ったのでそれに甘えた。


 全道大会の会場はとあるホテルの大広間で行われる。その近くにあるホテルに北陵商業は泊り、かつそのホテルの大広間で他学校と合同練習を行う。


 その空間に身を乗り出すと、緊張と不安で飽和した空気に呑まれて一気に体が重くなる。谷坂の指示に従い指定された席に着くと、また別の重圧の空気が虹介を襲う。さすがの綾仁も、この空間に来てから顔が強張っている。だが陽彩とみのりの表情は部室で見るようなものと全く同じだった。経験の差が顕著に表れている。


 練習が一斉に始まると、周りの電卓の音やペンを書く音に恐怖を覚えた。この中で誰よりも遅いのではないか、字を書くのも遅いのでは、考えるとどんどん体調が悪くなりそうだった。


 一セット目を終え、結果は散々だった。全てが本来の実力ではなく異質な空気に負けていた。次のセットが始まるまで十分ほど、虹介は解ける問題の解きなおしを行っていた。


 いつもならこの形式の問題は解けるのに……。頭がいつも通りに機能しない。


 虹介はペンを持って電卓の上に手を置いたまま固まった。まるで石像のように。周りの声が虹介の耳を刺激する。


「この問題が本番ならいいのになー」

「応用問題全部合ってた、凄くね?」

「この問題は余裕だろー」


 周囲の声が全て自分に向けたミサイルのようだった。次第に固定していた手は頭を抱えてうずくまっていた。

 何も聞きたくない。いつもの環境に戻りたい。弱音ばかり吐いていた。


「虹介くん、どうした?」


 暗闇に迷い込んだ虹介に一条の光が差し込んだ。その光をたどった先には陽彩がいた。陽彩は自分の復習を終え、明らかに様子のおかしい虹介を見つけ、駆け付けたようだ。

 虹介は出来の悪い成績を見せた。陽彩はそれを見て目を細めた。


 さすがに怒られるか……。虹介は怒号に耐える準備をした。


「まぁそれは仕方ないのよ。私も同じ経験したから」


 虹介は予想外の反応に間抜けな顔で陽彩を見上げた。


「環境が変わってこんだけ人がいると緊張するものなのよ。私も最初は、電卓を思うように叩けないわ、頭はいつも通りに動かないわで苦戦したのよ。何にだって言えるものなの。普段通りの力が出ないって」


「陽彩さんはどうやって対処してますか?」

「私は楽しむようにしてるの。まぁ私の性格上、ずっと楽しそうだけどさ。これでいい点数取ったらみのりにお菓子奢ってもらおうとか、あのときのドラマ面白かったなって。もちろん全部が全部じゃないわよ。ふと思うことがあるだけで心が軽くなって自然と部室の感覚になってるの。やってみて、っていうのは難しいかもしれないけどなるべく部室の頭の中をどこにでも持ってけば克服できるよ」


 陽彩は手を後ろに組んで安心させるような笑顔を見せた。それを見上げる虹介は心が熱くなる。加え、彼女の笑顔が虹介の周りにまとっていた闇を追い払った。


「こう言われるのは嫌かもしれないけど、虹みたいに輝いているときの虹介くんを見たいな。そうなれば、きっと今抱えてる悩みが全部解決して、いつも通りに戻れるよ」


 虹介は頭の中で『虹』を思い浮かべる。今まで対極的な存在にある虹と虹介。中学生のころ、一度言われた悪口により『虹』が嫌いだった。それ以来、自分の名前を変えることができたらなんてことをよく考えていた。だが陽彩はそんな名前を褒めてくれる。家族以外でそんな風に言ってくれたのは彼女が初めてだった。


 虹介は陽彩が言ったことを頭の中で反芻する。虹みたいに……。丸々受け取るのは難しいが、覚悟を決めた。

 すると仄かに視野が明るくなる。今までも輝いていた陽彩の笑顔はさらに光り輝いていた。


 虹介が陽彩にお礼を言おうとすると、次の練習が始まろうとしていた。


「じゃあ頑張ってね」


 あのときみたいに陽彩は握りこぶしを差し出す。虹介は自分なりに虹を取り組んで表情を作る。そして握りこぶしを差し出し、コツンと重ねた。


「その調子だよ」


 その一言はどんな薬よりも効果のあるものだった。虹介は陽彩からもらったエールを胸に刻み込み、次の練習に取り組んだ。


 次のセット、その次のセットではベストに近い成績を残すことができた。心配してくれた陽彩はセットが終わるたびに点数確認をしてくれる。終わるたびに見る笑顔が目的にもなりつつある練習は成果が出た。普段から思っていることはそのようなことだったのだと再び思い知った。


 全ての練習が終わるころ、時刻は十八時を回っていた。重圧な空気での練習を終えた虹介たちは激しく疲弊していた。二年生の純礼も優南も疲れた面持ちだった。だが陽彩とみのりの目は激しく輝いていた。白と黒で構成される眼球から食欲が溢れ出ていた。


 食事は十九時を予定しており、それまでは軽い自由時間が与えられる。ホテルの外に出ることは厳禁だが、各々リラックスタイムをとる。


 基本二人部屋であるため虹介は綾仁と同じ部屋となった。綾仁が志乃とやり取りをしているのかスマートフォンを肌身離さず持っていた。水道水を一口飲むと虹介はベッドに仰向けで寝ころんだ。

 虹介もスマートフォンを取り出すと、訳もなくグループトークのメンバーを見ていた。

 女子は皆、自撮りをアイコンとしていた。何気なく陽彩のアイコンをタッチしてしばらく眺めていた。吸い込まれるような瞳に目を奪われ、気づいたら右手の握力が薄れ、スマートフォンが虹介の額を直撃する。


「いでっ」


 思わず出た声に綾仁が「どうした?」と反応し、虹介は額を押さえながら「大丈夫」と返した。

 おそらく何が起きたのか把握したであろう綾仁はぷっと吹き出し、「俺、自販機行ってくるからカードよろしく。あ、虹介の分も買ってくるわ」と言い、「分かった」と言い部屋を出た。


「もしもーし」


 どこかから聞こえる悲し気な女性の声に虹介は鞭を打たれたかのような衝撃を受けた。虹介は周囲を見回すが誰もいない。

 ついに僕は幽霊と遭遇してしまうのか……。


 虹介は背筋を凍らせながらベッドの下に落ちたスマートフォンを拾う。画面を見ると、なんと陽彩と通話が繋がってしまっていた。

 あのときか……。


「おーい」


 スマートフォンの向こうから聞こえる陽彩の声に虹介はびくびくと怯え、冷や汗をびっしりとかく。ベッドの上にスマートフォンを置き、その前に正座し、「すみませんでした!」と土下座をした。


「おぉ、びっくりした」


 通話越しに驚く陽彩はすぐに笑い出した。


「間違えて掛けたんだね。まぁそうだろうと思ったよ」


 笑いを混ぜた声で陽彩はそう言った。虹介は恐る恐るスマートフォンに近づき、「怒ってませんか?」と訊いた。


「怒ってないよ。それくらいで怒る人いないって。……まぁびっくりはしたけど」


 少しいじけたような声で言う陽彩に再び「ごめんなさい」と頭を下げて謝った。


「いいのいいの。それよりこれは秘密にした方がいいよね? 虹介くんの性格的に恥ずかしがるでしょ」

「……そうしていただけると嬉しいです……」

「了解。じゃあそろそろご飯だから移動しよっか。また数分後ー」

「はい、本当にすみませんでした」

「いいんだって——」

「陽彩ー。薬持った? あ、誰かと話してた?」


 通話の向こうから同部屋のみのりの声が聞こえる。

 薬? 陽彩さんは風邪でもひいているのか? それともビタミン剤とかそういう薬なのか?


「じゃあまたね」


 陽彩のその一言で通話は途切れた。一抹の不安を抱いた虹介はベージュ色の天井を見上げた。

 呆けたようにしていると、ガチャンとドアが開く音が聞こえる。綾仁が帰ってきたようだ。


「よっすー。これあげるー。お? なにしてんだ?」


 綾仁は二本のペットボトルを抱えながら虹介を見て訊いた。


「幽霊が見えたかもなーって」

「え? マジ? 俺も見たい!」


 無邪気な綾仁は虹介の隣に寝転がり、同じ場所を見つめようとする。もちろん幽霊などここにはいない。


「どこにもいないじゃんかー」

「”かも”だから」

「んだよー。あ、そろそろ飯の時間だから行こうぜ」

「了解」


 虹介はルームキーを両手で握り、その他何も持たずに部屋を出た。

 しっかりドアが閉まったことを確認すると、虹介はルームキーをポケットに入れる。綾仁は歩きスマホをしながらエレベーターまで向かう。


「歩きスマホ危ないよ」

「分かってても止められないんだ」

「分かってんなら止めなよ」

「すまんな。寂しいのか? かまってちゃんだな」

「そういう訳じゃないから」


 エレベーターは一つ上のフロアで停滞している。そのエレベーターが動き、二人がいるフロアで停まり開くと、そこには電卓部のメンバーが集結していた。


「うわ、みんな揃った」とみのりが驚きながら言う。

「ここで集結されてもなぁ」と優南が笑いながら言った。


「なんか入りづらいな」と綾仁が虹介の顔を見ながら言う。虹介も女子ばかりの空間に入ることを躊躇っていると、「ほら、早く」と陽彩が手招いた。そこに十分とは言えないがスペースが作られていた。

 謙虚な心で二人はエレベーターに入り、綾仁とくっついてエレベーターを過ごす。


 絶対に、間違っても女子に触れるなんてことをしたら、まずい……。


 虹介は手を力強く握りしめ、目的のフロアまでやり過ごす。我先に降りて手を見ると、爪が刺さった後がはっきりと残っていた。努力の代償と捉え、虹介は先頭を歩く先輩たちについて行く。


 さっき言っていた薬のことを訊いてもいいのかなぁ……。


 虹介はみのりと笑い合う陽彩を見て、思いを払拭した。


 食事場に着くと、谷坂が先に待っていた。谷坂が「座る順番は適当でいいよ」と言い、席を見ると四人席テーブルが二つあり、どこに座ろうか悩む。

 綾仁と志乃は隣同士に座り、そこへ二年生の二人が合流するかのようにその席に座ったため、虹介に残された席は、三年生の二人と座ることだった。

 みのりと陽彩が隣同士で座る席に行こうと思い、視線を向けると、各々隣を空けていた。


 なぜ? 普通隣になって座るんじゃないの? これじゃあどっちかの隣に座らないといけないじゃないか……。


 虹介はその席に視線を向けたまま静止する。しばらく天を仰いでいると、「虹介くん」と呼ぶ声が聞こえる。声を聞いてそれが陽彩の声だと一瞬で分かった。


 虹介は観念したようにその席に向かい、迷う素振りを一切見せずみのりの隣に座った。


 みのりと陽彩の会話をラジオのように聞いている虹介はこの室内を見渡す。パッと見た感じ、他学校の生徒や教諭も利用しているようで、大会の存在を忘れているようなテンションを持っていた。

 ここのホテルはそれなりの値段がするのではないかというくらいおしゃれだった。床や壁は大理石を用いており、照明はシャンデリアのようなものだった。それに誰が描いたのか分からない絵も飾られ、高級感をまとった一室だ。


 大人たちはワインやシャンパンを頼み、大人の嗜みとやらを楽しんでいる。その風景が益々高級感を彩る手助けをしている。場違い感を感じながら虹介は口に空気を含む。


「どうした? 頬なんか膨らませて」


 陽彩が頬杖をつきながらそう訊ねる。虹介は眉をしかめる。するとみのりと陽彩がひそひそと何かを話している。何か変なことを言われては困ると思い、虹介は「ホテルってすごいなって」と駆け込み乗車のように言った。

 みのりと陽彩は一度虹介の顔を見ると、お互い顔を見合わせる。そして笑い合って「そうだよねぇ」と言った。


「毎年ここなんだけど、本当に綺麗なところだよね。料理もおいしいからまぁまぁな値段するんじゃないかな」


 そんな話をしていると、料理が到着した。虹介たちに差し出された料理は、前に陽彩から言われていたすき焼きだった。ウェイターの説明によると、A3ランクの黒毛和牛を用いているようだ。

 そんな説明を初めて受ける虹介は目を大きく見開いた。目の前にある生卵は夕焼け空のように黄色い黄身を持っており、鍋の中にネギ、焼き豆腐、しめじに水菜が入った割り下が茹っていた。


「嘘……ですよね……?」


 虹介は殺人現場を目撃したような言い方で陽彩とみのりに訊く。


「それがホントなのよ」

「しっかり味わって食べなさいね」


 そして遅れて肉が登場する。一目見て高級だと分かる霜降り肉だった。


 陽彩とみのりは目と鼻と口を輝かせて迎えた。肉が目の前に届くと、恐怖すら覚えてしまう。虹介は唇を強く噛む。

 そしてみのりが「手を合わせて」と言い、陽彩と虹介は手を合わせた。


「いただきます」


 みのりが心からの感謝を込めたような声で言う。それをマネするように陽彩と虹介も「いただきます」と続けた。


 割り箸を綺麗に割り、それで肉をすくい、鍋に入れる。徐々に割り下が染み込み、赤い肉は食欲をそそる色に変貌する。陽彩とみのりをお手本としながら焼き加減を調整する。みのりは若干赤めで、陽彩がよく焼いて食べていた。

 初心者の虹介はよく焼き、そして鍋から取り出す。といた生卵に着地させて口へ運ぶ。


 それは天国に上るような美味しさだった。蕩けるように肉は崩れ、甘い脂が口の中で暴れる。


「うまいです……」


 虹介が涙目で二人に訴えるように感想を言った。


「本当に最高だね」


 陽彩も共感するように言う。みのりは我慢するように目を強く瞑っていた。


「みのりって去年もこんな感じだったの。よっぽどこれが好きみたい」


 はにかむ陽彩にただ笑い返すことしかできなかった。


 ここで訊いたら空気をぶち壊すんだろうなあ。


 虹介は目の前にあるすき焼きを貪り続けた。自分なりによく味わって食べていたが、二人より先に食べ終え、水を流し込むように飲んだ。


「早いねー、食べるの」

「凄く美味しかったですよ」


 陽彩は一つ一つの動作がゆっくりで、品がある食べ方をしていた。みのりは味噌汁を飲み終えると、「ごちそうさま」と言い両手を合わせた。


「どう、明日。緊張する?」


 みのりが口を拭きながら虹介に訊く。


「緊張はしますけど、お二人はどうなんですか?」

「そりゃあするよ。なんなら去年より緊張してるかも」


 みのりは陽彩の端の動作を追うように見つめて言った。その視線に気づいた陽彩が「食べづらいんだけど」と笑いながら言った。


「私が見守ってあげる」


 ボケのつもりで言ったのかもしれないが、みのりの表情は至って真剣だった。その様子をいぶかしげに見る虹介は唇を中に入れ、舌を動かす。


 陽彩はみのりを追い払うように手を動かし、「なんか最近おかしいのよ」と虹介に向かって言い、残っているすき焼きを食べ進める。


 するとみのりは虹介の方に体を近づけ、「ああやって私のことあしらうの、冷たいでしょ」とひそひそと話す。

 そして箸を咥えたまま陽彩は虹介たちを睨みつけるように見つめる。


「きゃー、虹介くんこわーい」


 全く感情のこもっていない声でみのりは言い、虹介の腕を触れた。陽彩は咥えていた箸を取り出すと、「そこ、離れなさい」と指をさして言った。


「嫉妬してんの?」とみのりが刺激するように言う。

「そういうのじゃないから、公の場でそういうのしないの」


 その答えに若干の悲しみを覚えながら腕からみのりの感触が離れていく。みのりは小さな声で「どんまい」と励ましとは思えない表情で言った。苛立ちはしないが、口を慎んでほしい、とは思った。


 しばらくして陽彩が「ごちそうさまでした」と神社で願い事をするように両手を合わせ、その後ポーチから薬を取り出し、四錠ほど水と共に飲んだ。虹介はそれを見て、陽彩に話しかけようとすると「じゃあ行こっか」とみのりが言う。


 陽彩も虹介も頷き、席を立ち、どのグループよりも先に移動した。


 部屋に戻る前に1Fの売店に足を運んだ。ここでも陽彩が「何か好きなの買っていいよ」と虹介に言う。電卓部では先輩が後輩に奢るということが伝統なのだろうか。虹介は気になり、「なんでそんなに奢ってくれるんですか?」と陽彩に訊いた。


「バイト代が貯まったからね」と一瞬の沈黙を終えてから笑顔を見せるだけだった。


 陽彩からバイトの話を聞いたことがない虹介だったが、知られてはいけない事情があるのだと思い、それを率直に信じた。


 虹介は後輩として甘える姿勢を残しつつも遠慮をして、お菓子一つを頼んだ。「これだけでいいの?」と促されるが、虹介は固い意志を貫いた。


 そして遠くから谷坂が手を振り、「みのりー」と呼ぶ。みのりは陽彩にルームキーを渡し、何か耳打ちをしてから谷坂のもとへ向かった。


 一人レジに向かう陽彩の後ろ姿を見守った。陽彩は何種類のスイーツを購入していた。愛想が良いのか、陽彩が離れるときには真顔だった店員の顔に笑みが溢れていた。


「はい」と言って虹介が頼んだお菓子を渡す。


「明日は早いから、ちゃんとお風呂入って寝なさいね」

「了解です」


 二人で歩き、エレベータードアの前まで行くと、かなり上のフロアで停滞していた。待ち時間に訪れる沈黙は針だらけの床に落とされそうになる緊張感が漂った。虹介が気まずくしていると、陽彩は「明日は緊張する?」と訊いた。


 みのりが訊いた質問と全く同じだが、初めて答えるように「緊張します」と答えた。受け取った鉛のようなボールを返すように「陽彩さんはどうですか?」と訊いた。


「緊張するよ。いつになっても。それに緊張はしなきゃいけないんだよ」


 その言葉に違和感を覚えた虹介は「どういうことですか?」と訊いた。陽彩は顔を曇らせ、停滞していたエレベーターが動き出し、だんだん自分たちがいるフロアに近づく数字を見つめる。


「去年かな。新人戦の前日に優南から『緊張しますか?」って聞かれて『今はしない』って答えたの。そしたら谷坂先生が『今はしなくてもいいけど、当日になって緊張しなくなったら終わりだよ』って笑って言われたんだよね。その言葉が今でもずっしり響いてるんだ。だから緊張はしなきゃいけないんだよ。それに緊張するってことはそれだけ真摯に取り組んでる証拠だから」


 陽彩が喋り終えると、エレベーターはこのフロアに着き、扉が開く。陽彩が先に乗り、ボタンの前に立つ。虹介はその姿を見て自覚の足りなさに悔やんだ。


 そして見知らぬホテルの客が入り、このエレベーターでは言葉は一切なかった。先に虹介のフロアに着くと、その客が先に降りた。後を追うように降りて振り返ると、エレベーターが閉まる瞬間を目にした。


 虹介はそのエレベーターが上昇するのを見送ってから自分の部屋に戻った。そして奢ってもらったお菓子をカバンの中にしまった。


 まだ綾仁は帰ってこないが、先に湯船にお湯を入れ、溜まってもない湯船に体を入れる。


 気のせいか分からないが、いつもより笑顔が少なかったように思えたなぁ。陽彩さんも、みのりさんも。まぁ、長いバスの移動で疲れたんだろう。それに、良い言葉を頂いた。


 緊張はしなきゃいけないんだよ。


 虹介はその言葉を、その言葉を言った陽彩の声で反芻させる。


 するとチャイムが部屋に鳴り響く。虹介はそれが綾仁だとすぐに気づき、急いで体を拭いて下着を身につけずに部屋着を身につけ、出迎えた。案の定、綾仁が待っていた。


 綾仁を部屋に入れ、虹介は浴室に戻り、安らぎの時間を過ごす。


 風呂から上がると、綾仁は明日のために練習をしようと虹介を誘う。その練習に付き合い、自分の出来を再確認して、ベッドに入った。




 カーテンを閉めずに寝たことにより、部屋に太陽の光が差し込む。視界に高低差があり若干目をくらますが、次第に慣れていった。

 虹介はスマートフォンで時間を確認した。時刻は六時三十分。朝食の七時三十分まで時間に余裕があるため、虹介は先に着替える。顔を洗い、跳ねた髪の毛を直す。

 そして応用計算の利益率を求める計算を確認していると、時刻は七時を過ぎていた。


 まだ起きない綾仁をそろそろ起こそうと思い、綾仁の体を揺さぶり起こす。体を動かすが目を開けようとしない綾仁。虹介は辺りを見回し、自分のスマートフォンでお経を大音量で流した。


 すると綾仁はおぞましい表情で目を開け、虹介を睨みつける。


「なんでお経流すんだよ」

「起きるかなって」

「いや起きたけど、もっとやり方あるだろうよ」


 虹介は、まぁまぁと言ってなだめ、「そろそろ時間だから着替えて」と言った。


「お経で起きるこっちの身にもなってよ?」と綾仁は困り顔で言い、制服に着替え始める。


 着替え終えるころには七時十五分を過ぎ、そろそろ部屋を出ようと虹介は言い、二人で荷物を持って部屋を出た。


 そして朝食の会場に向かうと、陽彩以外の姿を確認した。虹介はみのりに駆け寄り、「陽彩さんは?」と訊くと、「ちょっと先生に呼ばれてて」とひそひそと答えた。


 みのりは改まって、「先生と陽彩が帰ってくるまでゆっくりしてて」と言った。みのりの目は二人の姿を待っていた。

 二分ほど経つと、二人の姿が見えてきた。谷坂が指をさす合図をすると、みのりは頷き、「じゃあみんな、入ろう!」と活気づける声で言った。


 朝食はバイキング形式で、席も基本は自由だったが、必然と昨夜の席になる。眠たそうな陽彩は何度も目をこすっていた。


「じゃあ取りに行こっか」


 みのりの言葉に釣られるように虹介と陽彩は動き出す。そして三人はご飯を取り終え、席に戻る。

 虹介は白ご飯に鮭の塩焼き、卵焼きにウインナーといったごく普通の朝食で、女子二人はグラノーラを食していた。


「虹介くんは朝強いの?」


 陽彩は今にも眠りそうな口調で訊く。


「たまたま早く起きただけで、普段は弱いです」と食べ物を口いっぱいに頬張った虹介は答えた。


「へぇー」とふにゃふにゃした口調の陽彩はそのまま食べ進める。


 量は違えど、三人は同時に食べ終えた。二人は部屋で後片付けをすると言い、部屋に戻った。虹介はもう全て片付け、荷物を持ってきたため、ロビーの前でただ待つだけだった。遅れて綾仁と志乃がやってきて、二人も荷物を持ってきていたため、一年生だけで待っていた。


「こういうことならもうちょっとゆっくりできたんだな」

「まぁ早いことに悪いことは無いから、今回はごめんねってことで」

「うん、許すよ」


 志乃は、トイレに行きたいと二人に告げ、荷物を置いてトイレに向かう。


「ああ見えて志乃も緊張してるみたいだぞ」

「へぇ、いつも通りに見えるけど……、ってことは綾仁も緊張してるの?」

「当たり前だろ。最初は余裕ぶっこいてたけど、昨日のアレを見たら怖気づくよ」

「アレ?」

「こんなに真面目に取り組んでるのがいっぱいいてさ、そいつらから感じるてっぺん目指してるオーラ、みたいなやつ。飲み込まれて自我を失いそうになるくらいだった。ぶっちゃけ部活は志乃のついでで入ったようなもんだからそこまで真剣にやってなかったんだ。だけどそんなふざけた心は昨日で捨てた。俺もやるからには良い成績残すわ。だから覚悟しとけよ」


「分かった。絶対勝つよ」


 綾仁は微笑の表情を見せ、上を向いた。虹介は自分の左手を見つめ、右手で一本一本マッサージをする。そして開いて閉じてを何度も繰り返す。そしてなかなか動きにくい薬指だけを動かし、最後に目を瞑り、電卓の空打ちをする。


 ここでできるイメージトレーニングを終え、みんなが集うのを待っていた。


 そして八時二十分ごろには谷坂以外は集まっていた。数十秒後、チェックアウト等の手続きを終えた谷坂が駆けつけ、会場へ向かう。


 大会は九時半から十四時まで行われるため、間に昼休憩がある。そのため、虹介たちはコンビニに向かい、各々おにぎりやサンドウィッチ、飲料を購入する。谷坂からお金を預かっているみのりが全部支払い、一つの袋にまとめた。


 みのりが持つビニール袋を虹介が、持ちましょうか、と声を掛けようとすると、綾仁が先に動いた。

 ここで一つ負けた感覚を抱き、虹介は唇を強く噛んで控えめな炎を胸の中で燃やした。


 絶対に勝つぞぉ……。



 会場に着くと、北海道の商業高校が集結していた。参加者は、ひたすら練習する人や談笑する人など三者三様だ。ここにいる人が生み出す音が入り交じり、それが緊張感となって虹介を襲う。


 谷坂はみのりに耳打ちするとスタスタとどこかへ行った。そしてみのりが指揮を取り、座席を案内する。

 座席は高校ごとに並べられ、会場に入って右側から順番に埋められる。何故か北陵商業は一番初めなので、右端の先頭から座ることになる。学年順ということもあり一年生は後ろの方だが、それでも関係者との距離が近いせいか圧迫感を覚え、心臓の鼓動がうるさく鳴りはじめる。


 虹介はバッグから電卓、筆記用具、文鎮、昨日の練習問題を取り出す。シャープペンの中身があることをしっかり確認し終えると、壁際で体を伸ばしていた陽彩が虹介のもとへやってきた。


「どう? 会場の雰囲気とか、自分の調子とか」

「人がいっぱいいてめちゃくちゃ緊張してますよ……。本調子が出るのかなって心配です」

「分かるよー、その気持ち。私が一年生の頃を思い出すよ。でも意外となんとかなるもんよ」

「……そうなんですか?」


「そうよ。でも本番になると焦っちゃうかもしれないから、私から簡単なアドバイス。ほんと単純だけど、しっかり深呼吸するべし。なんだかんだこれで大抵乗り越えられるよ。まぁ能力的なことに関しては当てはまらないから、後でブーブー文句言わないでね」

「言わないですけど、とりあえずそれやってみます」


 虹介は今、試してみた。ほんの少しだが、心臓の鼓動が落ち着いた。陽彩に視線を向けると、春の風のような微笑みを向けられた。そのせいで治まっていた鼓動は再びうるさくなる。


「耳が真っ赤ですなー」と言って陽彩は虹介の耳を人差し指で突いた。

「や、やめてください……」

「ふふ、じゃあ頑張ってね!」


 陽彩は笑顔を保ったまま振り向き、ほんのりと香る匂いを残して自分の席に戻る。虹介は煩悩を消すように電卓を打ち始めた。




 そして大会が始まる。開会にあたって舞台に登壇する男に目を向けるが、その男は手元にある紙ばかり見ているため、気を抜いて話を聞いていた。そのおかげか、虹介に心の余裕が生まれた。


 その男が降壇すると、数人の男が最前列の人にプリントを配り始める。虹介は固唾を飲んで彼らの行動を見ていた。

 合図があるまで後ろに配ってはいけないため最前列の人は配られたプリントを凝視している。そして新たに男が登壇する。


「では問題を後ろに回してください」


 男が重そうな口を開くと、地響きのような声で言う。プリント配る音がこんなにうるさく聞こえることは初めてだった。


 自分のもとにプリントが渡され、一枚抜き取り、残りを後ろに渡す。その際、志乃が牙をむくような笑みを見せた。


 ピアノ線が張るような空気に襲われて緊張する虹介は陽彩に言われた通り、深呼吸をする。


 登壇している男から指示を受け、プリントに机の端にある番号に気づき、それを書く。再び裏返すと、登壇している男は腕時計を見つめる。


 その間のほんの数秒がじめっとしていて、粘度の高い時間だった。


「では始めます。よーい——」


 その男は口を開くとすぐにそう言った。虹介は不意を突かれたような気になり一気に心臓が跳ね上がる。


「はじめ」


 太鼓のような声で男はそう言うと降壇する。虹介は目の前の問題を見て必死に手を動かす。

 すると何故か、だいぶ前に改善した癖がここになって再発した。それは首振りだ。虹介は一発勝負という不安に襲われ、自分のタッチミスを恐れていた。

 開始から約二分後、プリントを裏返す音が次々と起きる。その音が虹介をさらに不安にさせ、電卓を打つ手、ペンを握る手が極寒の北海道のように震えている。


 除算の途中、その癖に気づいた虹介は陽彩が注意してくれたあのときの言葉を思い出す。


「虹介くんね、首振り人形になってるよ」


 あのときの声で虹介は頭の中で反芻させる。


 間違えたっていい。デビュー戦なんだから、それにここはいつもの部室。それに谷坂先生が最初に言ってたこと……。


——落ち着いて、周りは気にしない。


 誰がどれくらい解いているのか、それを考える必要はない。僕が今できることは、自分の最高記録を超えること、ただそれだけだ。


 虹介は戦いの場を普段の部室と思い込んだ。その途端、震える手は止まり、首振りも最小限におさまった。


 あとは自分のパフォーマンスを終えるだけ……。


 虹介は無我夢中で問題と向き合った。解くスピードは先ほどより早くなり、文字を書く手も震えが無くなりスムーズになった。

 虹介は裏返し、すぐさま問題にとりかかる。打楽器を奏でるように電卓を打ち、血眼になって数字を見る。


 次第にペンに水滴がつき、問題用紙がうねる。手汗だけにとどまらず毛穴という毛穴から汗が噴き出す。虹介は一問目の計算を終えると額を手の甲で拭う。そして一度ズボンで手のひらを拭って問題用紙に答えを記入する。

 だがその答えに”0”なのか”6”なのか、見分けがつかないものがあった。ここで虹介は陽彩が言った言葉を頭の片隅から取り出した。


 虹介はその答えを消しゴムで消し、改めて答えを記入する。


 よし。今度はちゃんと読めるぞ。


 虹介は次の問題に移る。覚醒したのか、左手の指は一本一本意志を持っているみたいに動いていた。

 普段より早いペースで問題を解き、アドレナリンが溢れるように出ている虹介はこの状況を楽しんでいた。


 そして感情の起伏が激しく動いた六分が終わった。虹介は燃え尽きたように肩を大きく落とした。

 教員等に回収される問題用紙を未練なく見送った。


 全て回収されると、休憩を挟まずに応用計算が始まる。普通計算の後ということもあり緊張は無くなり、平常心に等しかった。

 送られてくる問題用紙は普段と同じようなもので、部室で受け取るような気持ちだった。振り返り、後ろにいる志乃に渡そうとすると青ざめた表情をして待っていた。


 これはやらかしたんだろうな……。


 虹介は特に感情を持たず、志乃に問題用紙を渡した。志乃の表情は一切変わらなかった。


 全て配り終えたことを登壇している男が確認すると、また腕時計を見るが、その時間はえらくすっきりしていた。

 そしてまた地響きのような声で掛け声をする。


 はじめ、の合図で虹介はゆっくり問題用紙を裏返す。これは決して余裕だからではない。いかに普段通りできるか、それを表している。


 問題は一部出来ないものがあるが、それはあらかじめ谷坂や陽彩から忠告されていることだった。


「教えてない問題あるけど、これは時間がかかるし、学校の授業でも学ぶことがあるので全道大会終わってから教えます」と谷坂は言った。

「教えてもいいけど、今教えた問題が絶対に解けるって言うなら教えてあげるよ」と陽彩が意気揚々と言った。


 そのため虹介は自分にできる問題だけをしっかり向き合って、冷静な頭でゆっくり解いた。減価償却の問題ではしっかり定率法だということにチェックを入れ、注意深く解いた。

 そして自分が解ける全ての問題を解き終え、確認作業に入る。


 割引計算の日数は合ってる、原価率、値引き額の計算も合ってる。複利計算もちゃんと同じ答えになる。利回りも大丈夫だ。


 一通り確認して間違いがなかったことに気づいたところで応用計算の十五分は終わった。

 思いのほか、楽しめた時間だった。


 全ての問題用紙を回収し終えると、登壇している男は「ではここで休憩を挟んで次の競技に移りたいと思います」と言った。


 ……ん? 次の競技? 何やるの?


 虹介の頭の中は?マークで満たされる。


「では休憩の方、十分ほどとります。十分後には自分の席に着席していてください」


 そう言って男は降壇した。すると場内はざわざわと人の声で飽和される。数十秒後、谷坂が緩慢とした動作で駆け寄り、それを見た先輩たちは立ち上がる。


 一年生らも立ち上がり、計八人で小さな円を組んた。谷坂が全員いることを確認して口を開く。


「お疲れさま、単刀直入に訊くけどどうだった?」

「私たちはいつも通りできたと思います」とみのりが答える。

「一年生はどう? 緊張した?」

「緊張しました!」と綾仁が自信満々に答える。


 谷坂はその姿に微笑んだ。ここで虹介はさっき言っていた次の競技とは何か、訊くタイミングはここだと思い、姿勢をかがめる。


「あのぉー……」

「ん? どうした?」と谷坂が心配するような面持ちで虹介を見る。


「次って何やるんですか?」

「あぁ、次はね、種目別競技ってやつをやるんだ」

「種目別……?」

「うん、実はこの電卓大会ってまだ歴史が浅いんだよね。ちなみに今やったのが総合競技ってやつ、最初はこれだけだったんだ。だけど昔の名残で、珠算競技の一部も受け継いでみてはっていうのが種目別なんだ。だけどまだ正式に取り入れるがまだ試験中ってこと。それに優勝すると景品もらえるから、まぁ軽い気持ちで楽しんでって感じかな」

「なるほど。種目別って何やるんですか?」

「たぶん、読上よみあげ算だけかな」

「ほぉ……」

「正直、これは二年前くらいに決まったことだし、練習するまでもないかなって」


 谷坂は心配することないよ、というような笑顔を見せ、胸の前でパンと両手を叩いた。


「ひとまずお疲れさま。しっかり休んで次に備えてください」


 谷坂の声に部員は「はい」と同時に返事する。


 そして解散すると、谷坂は真っ先に陽彩に駆け寄った。二人の後ろ姿しか見えないため何を話しているのかとても気になった。


 休憩を終え、次の競技が始まる。

 読上算はお経のような声で永遠と読み上げられ、それを電卓で計算するというものだ。

 桁数は最初に宣言されるが、とても高等テクニックが必要なものだった。


 三百二万や四千八など、ひとつの位が飛ぶとき虹介の頭はパニックになり、気づくと電卓の画面には”0”が表示される。結局虹介は一問も正解することなく予選を脱落した。だが脱落する人は過半数を超えている。残った人だけ前の方に残り、脱落者は後ろに詰めるように下がる。


 その途中、志乃と綾仁と三人で読上げ算に対する文句なんかを言ったりしながら歩いた。そして続きの競技を見ようと振り返ると、一人の姿に驚いて絶句した。


 陽彩がこちらに向かって歩いていたことだ。

 他の先輩は皆残っていることがさらにその違和感を刺激する。


 陽彩は虹介の顔を見ると微笑んで、「難しかったねー」と言った。虹介は返す言葉を必死に紡ごうとするが完成せず、妙な間を嫌った綾仁が「陽彩先輩でも間違えることあるんですね」と言った。


「読上算は苦手なんだよね。去年も残らなかったし」


 虹介はその言葉を信じられなかった。客観的に見れば、みのりと陽彩は同等の実力を持っている。それに後輩が出来ていることを考えると、少なくとも一年生がいないときに練習をしているはずだ。


 陽彩は苦笑いを浮かべると、虹介の隣に移動する。


「調子悪いんですか?」


 虹介は陽彩に訊いた。陽彩は口角を上げて俯き、「そんなことはないよ」と呟いた。


「でも陽彩さんが残らないっておかしいと思うんです。あんなになんでもできる人はこんな序盤で落ちるような人じゃないって」

「それは虹介くんの思い込みにすぎないわ。誰だって、思いもしないミスはするものなの」

「そう、なんですか……」


 虹介はなにも言い返せなかった。その言葉が本当かもしれないと思ったから。


 予選通過者が競技をしている最中、虹介たちはその姿をただ見ているだけだった。お経のような声が耳を通り、そのまま抜けていく。その時間をただ過ぎるのを待っていると、肩に手が置かれた。

 虹介は首をその手に向けると、陽彩が手を置いていた。それに気づいた瞬間、心臓が肋骨を砕きそうな勢いで跳ね上がる。だがその反面、陽彩に対する不安がまた募りだした。


 だが虹介はさっきのこともあり、また訊くとしつこいと思われることを懸念し、口を噤んだ。

 その手は競技が終わるまで置かれていた。



 読上算ではみのりが優勝した。皆、温かい拍手を送った。それが終わると、昼休憩を挟み、結果発表を迎える。

 みのりが預かっていたコンビニ袋から自分のおにぎりを取り、食べた。喉に突っかかりそうなおにぎりを流し込むようにお茶を入れる。

 陽彩の手の感触が仄かに残っているからに手を置いた。陽彩に視線を向けると、みのりと楽しそうに談笑している。


 ただの思い込み、だよな。


 虹介はそう思い、目の前のおにぎりを貪り続けた。周りを見ると、さっきまでの緊張感が全く感じられないくらい自由気ままだ。後ろで志乃と綾仁も仲睦まじい姿を見せる。そんなものに嫉妬することなく、虹介は学校の宿題を取り出し、それを遂行するまでだった。



 そして緊張感のない閉会式及び成績発表が行われる。もちろんと言えるが、優勝はみのりだ。名前を呼ばれたみのりは誇らしげな背中を虹介たちに向けて立っている。

 次に名前が呼ばれたのは陽彩だった。続けて優南、純礼が呼ばれた。ここでみのり、陽彩、優南が全国大会の団体メンバー、純礼が全国大会の個人メンバーとして全国大会に出場することが決まった。


 また、四人が立っていることもあって前に人はいなくなり、ガランとしていた。しばらく知らない学校の知らない学生の名前が呼ばれ、自分の名前はいつ呼ばれるのか、虹介の心臓は徐々に激しくなる。


 そして佳良に突入し、六人ほど呼ばれるがまだ呼ばれない。綾仁と志乃も然り。気づけば残り三席になった。まだ全員が入賞する可能性はあるが虹介は歯を食いしばって俯く。


 次に呼ばれる名前は、虹介でも綾仁でも志乃でもなかった。虹介よりだいぶ小さい女子だった。虹介は彼女の後ろ姿を泣きそうになりながら見ていた。

 残り二席、虹介は机の下で手を組んで、神様にお願いごとをする。


 お願いします……。どうか、僕の名前を……。


 虹介の顔は力を入れすぎてしわくちゃになっていた。そんな状態も知らない司会の男は声のトーンは一切変わらない。

 その声のトーンで、そして名前が呼ばれる。


「400点、松村綾仁、北陵商業高等学校」


 その瞬間、虹介をの頭の中は雪のように白くなった。いざ仲間に負けると、思わずとも悔しくなる。綾仁はいつものおちゃらけた返事ではなく、張りのある声で返事をして行った。


 残り一席、虹介は再び願う。接着剤をつけたように手を組んて天に願った。

 重い口を持つ男が最後の入賞者を発表する。


「390点、畠中虹介、北陵商業高等学校」


 虹介は気の抜けた顔で正面を見つめる。虹介はすぐに立ち、並んでいる人たちのもとへ向かう。足は震え、呼吸は荒くなっていた。向かう途中、一瞬だけ陽彩と目が合った。陽彩は煌めく笑顔で小さく頷いた。返事のように、虹介も小さく頷いた。


 隣にいる綾仁が「今回は俺の勝ちだな」とにんまりとした表情で言った。虹介も清々しい表情で「あぁ、負けた」と言った。


 並んでいると、優勝者から表彰が始まる。みのりが演台の前に行くと、登壇した偉い男が長々と称賛の言葉をみのりに言う。

 みのりは陽彩と笑顔を交わし、次に陽彩が演台の前に向かう。先と同じように、また男が喋り始める。二人は近くにいた谷坂に話しかけられ、「おめでとう」とニコッとした顔で言われた。虹介は笑顔で返し、綾仁も笑顔で返した。


 次の瞬間、その谷坂の顔から笑顔が消え、動き出した。そして虹介の前を通り過ぎ、それを追うように視線を向けると、信じられない光景を目にした。


 陽彩が地面に密着するように倒れていた。受賞者たちは避け、大人たちと先輩たち、隣にいた綾仁が近寄るが、虹介だけが全く動かなかった。

 虹介はただただ愕然し、呆けた顔で一連の様子を見ていた。




 大会は無事終えることができたが、陽彩は救急車で病院へ運ばれた。陽彩は無事ではなかった。その日は先生が札幌市内の病院に行き、残った虹介たちはバスに乗り込んで北陵商業高校に帰った。

 車内は誰の声も聞こえず、車が風を切り裂く音やすれ違う車の音ばかりだ。常に湿った空気が流れ、社内を照らすライトは今の皆にとって眩しすぎた。


 途中、サービスエリアでご飯を買うが食欲が微塵みじんもない。無理して食べようとすると喉に引っかかりそうだった。


 虹介は帰り道の流れる景色をつまらない映画のように見ていた。

 次第に雨が降り、雑音の仲間入りをする。窓に雨がぶつかって景色が歪んで見えても、夜になって何も見えなくなっても、虹介は息をすることを忘れたかのように動くことなく、気づけば学校についていた。


 特に連絡もなく、速やかに帰るように言われた。もちろん、「陽彩さんは大丈夫なんですか」とか「陽彩さんは元気なんですか」と先輩や綾仁たちは言った。だがまともな返答は返ってくることなかった。彼が言う根拠のない「大丈夫だ」は虹介の体をすり抜けた。


 元々土日は休みだった。本来は前日までの疲れを吹き飛ばすくらい休んだり、趣味に没頭したりするのだが、そんな気力はない。朝起きて、ベッドの上でボーっとしているといつの間にか日は沈んでいる。

 それが二日続き、目の下にクマを作った虹介は母親に心配されるが、無理した笑顔を作り、「ずっと本読んでた」と嘘をついた。


 部活までの時間はいつもより長く感じる。授業中もふいに当てられて答えられないことがしばしば起きた。体調悪いのか、と訊かれるが熱があるわけでも風邪をひいているわけでもない。珍しくクラスの女子が虹介を心配するが、それを温かくあしらった。

 掃除の時間も無言で取り組んでいると、向こうでひそひそと話す声が聞こえる。何の話か全く分からないが、自分のことを話しているのだとは分かった。


 重い足取りで部室を訪れようとすると、まるで希望を失った少年少女のように、皆が項垂れていた。その空気を取り入れ、虹介は部室に入った。部員がこちらを見たので虹介は目線を下に会釈した。


 雨雲のような空気が漂う中、虹介は彼女の無事を祈るばかりだった。大会の緊張感なんて比べ物にならないほど心臓の鼓動が激しい。


 そして戸が開き、「こんにちはー」といつもより暗い声の谷坂が姿を現す。遅れてみのりも入ってきた。


「先生、陽彩さんは? 大丈夫なんですよね」


 優南がものすごい剣幕で真っ先に谷坂に問いかける。虹介はただ谷坂を見つめる。谷坂の顔も部室の空気に呑まれたみたいに曇る。


「絶対に言うなって口封じされてたけど、これはしっかり話すべきだね」


 谷坂は独り言のようなことを皆に向けて言った。


「実は、陽彩は脳腫瘍のうしゅようを診断されてる。五月六日に医者に言われたそうだ。最近よく休むようになったのは、本人の体調が優れないときや病院に行ってたからだ。それでも本人の希望で全国大会までは生きるって言うし、親御さんもそれを望んだ。冥土の土産は全国優勝だって張り切ってた。それに陽彩は余命宣告をされている。……八月が終わるころにはってところみたいだ。あくまで医者の言葉だが、それを覚えていてほしい」


「治らないんですか?」


 純礼が間髪入れずに問う。


「治すことはできない。手術は困難と言われたみたいだし、なんらかの症状が出たときにはもう腫瘍は結構な大きさに成長してるみたいなんだ。それで脳浮腫のうふしゅの症状も起きて、ってところだ」


「で、でもあんなに元気そうにしてましたよ」


 純礼が泣きそうな声で声を荒げる。


「心配されたくなかったんだろう。陽彩は本当に明るいやつだし、周りを気にする人だ。自分のせいで、なんて思いたくなかったんだろう。だが普段の練習から症状は出ていたんだ。電卓のタッチミスも増えたこと、数字が抜けてること、たびたび手が震えてたこと。先生はそれに気づいたときに陽彩にちょっとは休めって言ったが、あのときに『病院に行け』って言えばちょっとは変わったのかな……」


 谷坂は悔しそうな顔をし、深く息を吐く。谷坂は鼻をすすると、「ここから陽彩に関する大事な話をする」と言った。


 たった今、陽彩に関する話をしたばかりなのに、ここから何を話されるのか、虹介はそれを覚悟して聞こうとする。


「全国大会の出場者についてだ。知っての通り、陽彩は大会に参加することができない。だが辞退するのは陽彩に悪い。だから出場はする」

「純礼が団体のメンバーになるんですか?」と優南が訊く。


「それは規約上できない。出場が決まってる選手を変えることはできないんだ。だが出場しない選手はまだ登録できるんだ」

「じゃあ……」


 谷坂と二年生の二人は目線を一年生に向ける。虹介は体を固くさせる。

 すると谷坂と視線がぶつかる。谷坂は微笑み、「畠中、できるか?」と訊いた。突然のことに心臓は熱くなり、バクバクと動いていたが、「は、はい」と声を震わせて答えた。


 だが皆の顔は先ほどよりも曇っていた。綾仁だけは無音の拍手をしていた。締め付けられるような空気に襲われ、苦しい気持ちで本日の部活を終えた。

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