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1.電卓部、入部へ!

 商業高校に入学したはいいものの、やはり女子が多すぎることが畠中虹介はたなかこうすけにとって身の縮む思いがあった。虹介のクラスに男子は五人で女子が三十五人、はたから見れば羨ましいのかもしれない。


 視線を向ければ女子ばかりで、一瞬でも目が合うと視線を少し逸らすような気弱な性格だ。――あなたの上にあるシミみたいなの見てましたよー、みたいなとぼけた顔をしてやり過ごす。終始、心臓の鼓動がうるさかった。


 若干ハゲた中年の担任教諭が教室に入ると、この後に対面式があることを告げ、皆廊下に出て並んで、体育館に向かった。

 その道中、肩を叩かれた感触を覚え、後ろを振り向くと人差し指が虹介の頬をむにっと刺した。正体は、中学からの友達である松村綾仁まつむらあやとだ。綾仁は罠にはまったことに喜び、ひっひっひ、と不気味な笑い声をあげた。


「なに?」と虹介は不機嫌そうに訊いた。

「相変わらず純粋だなーって。それより女子を怖がるなよ? さっきの挙動不審ったら不審者レベルだぞ」

「そればっかりは……成長しないと」

「おう、俺が教えてやろうか?」

「それだけは嫌だね」

「相変わらず正直者だねー」


 虹介は綾仁の額にデコピンをした。なぜか嬉しそうな反応を見せ、虹介は苦笑いをして正面を向いた。


 初々しい春の香りは、窓の隙間を縫って校舎内に入り込む。日差しが眩しいにもかかわらず照らす照明は新一年生をお祝いしているようだった。


 茶色が光り輝く体育館に着き、対面式が始まった。ほとんど意識を飛ばしていた虹介は内容をほとんど覚えておらず、いつの間にか部活動紹介が始まっていた。


 野球部、サッカー部、バスケ部、バレー部と次々部活が紹介される。そして後ろにいる綾仁が「部活入るの?」と訊き、虹介は「特に考えてない」と答えた。


 すると運動部の紹介が終わり、文化部の紹介に入った。パソコン部、簿記部、新聞部、文芸部、茶道部などの説明が終わり、簿記部は将来的に役立ちそうな部活だと、そういう感想を抱いた。


「では続いて、電卓部です。お願いします」


 司会がそう言うと、体育館におしとやかな返事が木霊こだまする。静かな足音で女子四人がステージに並んだ。

 虹介はその四人に目を通すと、一人の女子に惹かれるものがあった。単純に好きなタイプなのか、世間一般から見て美人なのか、そういうオーラがある人なのか分からないが、虹介はとにかく目を奪われた。


 あの人、芸能界とかそういう人なのかなぁ、まぁ、こんな田舎にいるわけないか。東京で歩いてたら、即スカウトされるレベルだと思うなぁ。


 その人を見つめているだけで部活の説明は終わってしまい、彼女たちは姿を消した。虹介の頭には、凛とした気高い彼女の姿が焼き付くように残っていた。



 

 教室に戻るや否や「なあなあ」と綾仁が話しかけてきた。虹介は「なに?」と振り返らずに、プリントを整理しながら答えた。


「それで部活は入らないの?」

「んー、迷ってる」

「じゃあさ、電卓部の見学行こうぜ」


 虹介は眉をピクリと動かし、動作を止めた。『電卓部』という単語を聞いたとき、焼き付いた女性の姿がすぐに思い浮かんだ。虹介はプリントを雑に机上に置いて振り返り、「なんで?」と冷静な面持ちで訊いた。


「志乃が行きたいんだって」

「え、志乃って、深川志乃ふかがわしの?」

「そうだよ。他に誰がいるんだよ」

「一緒の高校なんだ。初めて知った」


 綾仁の彼女である志乃から、電卓部の見学に行ってみたいと連絡を受けたようだ。二人で行くのも寂しいから、ということで誘ってきたみたいだ。虹介は綾仁に見えぬよう小さく笑みをこぼした。

 そして綾仁から受けた質問については「行ってみようかな」と答えた。


 すると綾仁は虹介の背中を小さな子どもを撫でるように触る。その行動に虹介は怪訝な顔で「なに?」と言うと、「俺は嬉しいんだよ」と鼻の下をこすりながら言った。


 放課後、二人は志乃が来るのを待った。人混みをかき分ける志乃は誰かに追われているようにも見えた。志乃が虹介たちの姿に気づくと、顔より高く手を上げ、恥ずかしさと嬉しさがぶつかり合うように手を振っていた。それに反応し、綾仁は周りの目を気にせずに大きく手を振り返す。

 よくこんなに堂々とできるな、と思い、下唇を軽く噛んで冷めた目で見ていた。。


 綾仁が視線を上に向けながら電卓部の部室を探しながら歩き、前から学生や先生が来ると虹介は綾仁の腰を掴み、壁に押し付ける。ときどき勢い余って顔をぶつけ、かすかにどやされる。志乃はそのやり取りを見て、楽しそうに笑っていた。


「ここだな」


 綾仁が部室を見つけた。思っていたより教室のような部室だった。そして綾仁が「誰から入る?」と言い始め、「ジャンケンして負けたやつ先頭な」と理不尽な提案をする。志乃と綾仁がやる気満々であるから虹介は従うしかなかった。

 そしてジャンケンをすると、一発負けをしてしまった。声を殺して笑っている二人の目を睨むように見たが、その表情は一切変わらなかった。


 覚悟を決め、深呼吸をした虹介は引き手に手をかける。数秒静止していると、綾仁にくすぐられ、「ごめん」と何故か口にした。そして引き手を思いきり引いて、一歩足を踏み入れた。


 戸を引いた瞬間、部室内にいる四人が一斉に虹介を見た。その視線を浴び、思わず息を呑んだ。


 どんな顔をされるんだろう、嫌な顔をされたらどうしよう、なんてことを考えていた。


「あー! 新入生キター!」

「いらっしゃい! ささ、入って入って!」


 四人は溢れるような笑みを浮かべ、黄色い歓声を上げながらハイタッチをしている。勝手に緊迫した空気を予想していた虹介だが、それを見て拍子抜けをした。

 虹介は寄ってきた二人の女子に腕を掴まれ、部室の奥にある机に案内された。続けて連れて来られた綾仁も志乃も並んで座る。

 部室内を見回すと、数多の優勝トロフィーや賞状があった。背後にはプリントが入った棚が天井に届きそうなくらい置いてあった。


「改めましてこんにちは!」


 元気のよい声が聞こえ、正面を向いた。そこには四人の女子が並んでいた。さっき見た人と全く同じで、虹介にとって一人の女子に惹かれるものがあったことも同じだった。


 そして部長らしき人が小さな声で、せーの、と言うと、


「電卓部へようこそ!」と揃ってそう言った。


 皆、笑顔で迎えてくれて本当に安心した。そして、またその煌めく笑顔にも虹介は見惚れていた。


「私が電卓部部長、漆原うるしはらみのりです。隣にいる美人が三年の橋本陽彩はしもとひいろ、そしてこのちょっと大人びたのが二年の千葉純礼ちばすみれ、少女漫画見たいな目をしているのが新井優南あらいゆうな。少ないけど、これで部員全員なの。ちなみにだけど、君たちは入部する? するよね?」


 みのりが前のめりで一年生に訊いた。虹介たちは目を合わせながら苦笑いを浮かべた。そして綾仁が一年生を代表して口を開いた。


「えっと、とりあえず見学っていうことで来たので……」

「あ、そうだよね。ごめんごめん。パワハラみたいなことしちゃったね」

「いえいえ、優しそうな先輩だなっていう印象です」


 綾仁がニコッとした笑顔で答えると、目の前の四人ははにかみながら小さくガッツポーズをとっていた。

 そして部長は手に持っていたクリアファイルから一枚のプリント取出し、その紙を見つめながら咳払いをした。


「じゃあ、おそらくもう来ないので、オリエンテーションを始めますよ」


 部長の隣にいた陽彩は小さな声で「イエッサー」と小さな拳を掲げて言っていた。すると陽彩は虹介の視線に気づき、屈託のない笑顔を見せた。心臓が動く一定のリズムが何倍にも早くなった。


「ではまず、この部活について説明しますね。ざっくり言うと電卓の大会に出ます」とみのりが言うと、「へぇー、電卓にも大会ってあるんですね」と綾仁が答えた。

 綾仁の肝っ玉の大きさは相変わらずで、少し憧れる。


「そうだよー。でも大会は大きく分けて二つあります。一つが電卓競技大会、二つ目が新人戦です。一つ目の大会は予選が五月中旬、全国大会が八月頭にあります。新人戦は十一月にあります。それは——」

「はい、質問です」と綾仁が説明を遮って手を上げて言った。


「はい、そこのイケメン君。何でしょうか」

「予選が終わったら全国ということは、予選は一回しか無いのですか?」

「そう。いいところに気が付いたわね」


 そんなにいいところなのだろうか、と心の中で呟いた。


「電卓競技大会って、要は全国の商業高校が集まるの。それって野球部みたいにたくさんあるわけじゃないでしょ? だから競技人口がすんごい少ないの。だから予選って言っても全道大会を兼ねたものなの。OK?」

「OKです。めちゃくちゃ分かりやすかったです」

「……とはいったもののこれで説明が終わりです」


 虹介は説明の少なさに少し驚いたが、その電卓競技大会というものが少し気になった。


「じゃあこれからは電卓の使い方について教えます。じゃあ皆さんは一年生の方へ行ってくださいな」

「はーーい」


 小学生のような返事をして残る三人が移動した。そして陽彩が茶髪のセミロングの髪をさらさらと動かしながら虹介の前に移動してきた。陽彩は中腰になり、「改めまして橋本陽彩です。よろしくね」と僅かに顔を傾げて言った。


「よ、よろしくお願いします」と虹介は言って、机に額がつきそうになるくらい頭を下げた。


「そんなに下げなくてもいいのよー。先輩に怖い人いないから」


 優しげな声に導かれるように頭を上げると、陽彩が柔らかく微笑んだ。さらに心臓の鼓動が早くなることを覚えた。


「二、三年のみんないい?」

「大丈夫でーす」

「じゃあ各々好きなように教えてください、どうぞ!」


 そう言うとみのりは部室を飛び出していった。残像のように残ったみのりを見ていると、「おーい」と目の前を手で振られた。我に返ったように陽彩の目を見ると、心配そうな目で見ていた。


「すみません」

「……君、名前は?」

「え、は、畠中虹介です……」

「虹介くんってもしかしてさぁ……」


 何を言われるのか怖くなり、目を伏せて、歯を食いしばって心構えをした。


「私のこと怖がってる?」


 あれ……? 思っていた言葉と違った……。


 陽彩に目を向けると、陽彩はしゃがみ、覗き込むように虹介の顔を見ていた。


「私ってそんなに怖い? そうなのかな、みんなも我慢しているだけで私ってそういう風に見えているのかー。あー、反省しなきゃ。大丈夫だよ。私は全然ね、そういう怖い先輩とか演じてないしなりたくもないから。ね?」


「いや、違うんです。ちょっと失礼な態度とっちゃったかなって」

「え? そんなとこあった?」

「はい、あの部長が急にどっか行っちゃったのを見てて、は、橋本先輩の話を聞いてなかったのかなって」

「あー、なんだそのことね。それならまだ説明をしてないし、みのりがあんな行動とるのは珍しいことじゃないから、気にしないでいいのよ。でもよかった。怖がられなくて」

「橋本先輩は凄く優しそうだなって印象持ってます」


 虹介が顔を伏せて照れながら言うと、「えー本当?」と上ずった声で陽彩が言った。


「虹介くん優しいねぇ。あと私ね、陽彩さんって言われるの好きなんだ。これからもそう呼んでね。あ、今言ってみて」


 そう言うと陽彩は虹介をじっと見た。だんだん頬の位置が上がり、唇も中に入れ始めた。

 逃げられない、そう感じ取った虹介は息を吐いた。


「ひ、陽彩さん……」

「ありがとーー! よろしくね!」


 陽彩の行動全てにクリティカルヒットを受けた。だんだん顔が熱くなり、風邪でもひいたような感覚になった。


「ちょっと雑談長引いたね、じゃあ部活の説明するから電卓出して」

「あ、は、はい。分かりました」


 虹介はカバンから入学式前に五千円で購入した電卓を取り出し、右手側に置いた。


「虹介くんは左利き?」


 陽彩は電卓を置いた瞬間、そう訊いた。虹介は右利きであるため「いえ、右利きです」と答えた。


「だったらねー、電卓は左に置くの。電卓部ではね、利き手の逆で電卓を打つの」


 陽彩は電卓を手にすると虹介の左手側に置き、「あとは自分が叩きやすいなっていう位置を探すって感じかな」と言った。


 試しに左手で電卓を叩こうとすると、思うように動かず指がつりそうだった。苦戦している虹介を見て、陽彩は「最初は難しいよー」と言った。


「まだ電卓の打ち方とか習ってないと思うけど、どんどん教えるね。まずは数字だけ。0⃣は小指で、1⃣4⃣7⃣は薬指、2⃣5⃣8⃣は中指、3⃣6⃣9⃣は人差し指を使って入力するの」


 そう言われ実践してみると、やはり一つ一つの動きがとてもぎこちなく思えた。それに入力する際、手を大きく動かしていると、「そんなに動かしちゃだめだよ。指だけを動かすの。ちょっと貸して」


 虹介は陽彩に電卓を貸した。少し打ちずらそうな体制だが陽彩の電卓さばきは圧倒させるものだった。

 陽彩の手の位置はほとんど動かず、指一本ずつが生きているかのように滑らかな動作だった。

 陽彩の手ばかりを見ていたが、彼女はどんな顔をしているのか、ふと視線をずらした。すると目が合った。虹介は驚いて目を大きく開いた。陽彩は嬉しそうにニコッと笑った。


「当たり前でしょ? パソコンのキーボードを見ずに打つ人と同じで電卓も見ないで打つのよ」


 虹介は陽彩の電卓さばきを見て不安の波にのまれた。虹介は眉尻を下げた。


「そんな顔しなくてもすぐにできるわよ。スタートラインはみんな同じなんだから、焦ることないわよ。じゃあいいこと教えてあげる。電卓打つ準備して?」


 虹介は電卓の上にうっすらと触れるくらいの位置に左手を置いた。


「指使いはさっきと一緒で、1⃣9⃣3⃣7⃣4⃣6⃣8⃣2⃣5⃣0⃣って打つの。それを打ち終わったら⊞を押す。それを十回計算して、計算結果が打った数字の十倍になっていれば正確に打ててるってこと。ちょっとやってみて?」


 実際にやってみると、まだ指に力が入りすぎて指がつりそうになる感覚を覚えた。


「ちょっと、いや、すごい指が痛いです」

「最初はそんなもんだよ、練習するのみ! あとね、その練習方法はお兄ちゃんから教えてもらってやってたやつなんだ」


 そう言って陽彩は近くの席から椅子を持ってきて、再び虹介の電卓を使って今の特訓方法を見せてくれた。今度は陽彩の電卓さばきに加え、計算結果を打ち出す画面を見ていた。


「ほい!」


 陽彩は計算を終えて真剣な面持ちから柔らかい表情に変貌を遂げた。そこに写しだされた数字は、不規則で先ほどの説明に脈絡のない数字が並んでいた。

 不安気な気持ちで陽彩の顔を見ると、笑いをこらえるように目を力いっぱい閉じていた。そして屈託のない笑顔で虹介の方を見ると、


「間違えちゃった」と言って恥じらいもなく笑い出した。


「凄い偉そうにして教えてねぇ、それでやってドヤってやるつもりがねぇ、間違えちゃって、あー、バカみたいだね」


 陽彩はツボにはまったのか、一瞬涙を流してから虹介の机に伏せるように笑っていた。初めての部活見学だが、今まで緊張による曇っていた心が一気に晴れ、虹介は部室で初めて笑顔を晒した。


 陽彩は十分に笑い終えた後、一枚のプリントを虹介の前に置いた。表には乗算が十問、除算が十問、裏には足し算や引き算が混ざった計算問題、いわゆる見取り算が十問あった。


「これは何ですか?」

「これは大会で実際に使う形式の計算問題。通称”普通計算”。それぞれ百点あって合計が三百点になるの。制限時間は六分」

「ひ、陽彩さんは全部解けるんですか?」

「さすがに無理よ。これを制限時間内に解くにはかなりの技術と速度が必要なのよね。私は合計二十八問が限界かな。でも私が一年生のとき解き終わった先輩がいたのよ。そのときすごいなぁって思った。だから、私もって思うんだけどね」


 陽彩の顔から笑みが消えかけたとき、凄く寂しい気持ちに襲われた。陽彩が笑顔を取り戻し、もう一枚のプリントを差し出した。

 裏は白紙で、表に算数のような問題があった。


「これも大会用ですか?」

「そうだよー。これは”応用計算”。これは計算能力というより頭の方が大事かな。それで普通計算と応用計算がセットなの。三百点と三百点で六百点満点。応用計算は十五問あるけど私みたいなバカでも解けるから解き方覚えれば大丈夫だよ」

「陽彩さん頭良さそうですよ」

「お世辞が上手だねー」


 先輩の優しさに触れながら説明を受けていると、ガラガラと扉を開けて一人の男性教師が入り、後を追うようにみのりが帰ってきた。


「はいこんにちわー」


 その低い声に反応した現部員の四人は「こんにちわー」と返した。その教師は虹介たちの姿を確認すると、「今年は三人も来たんだ」と仄かに笑みを浮かべた。

 しかしこの人イケメンだなー、と心の中で呟いた。


 そして手に持っていた荷物を置いて虹介たちがいる方に近づいた。


「はじめまして。顧問の谷坂やさかです。三年生の担任だから一年生にはほとんど顔出さないけど、こういう教師もいるんだなっていう感じで覚えてください」


 爽やかな笑顔を見せ、「もう入部するの?」と冗談めかして訊いた。虹介たちは無理して作った笑いをした。


「先生、それ脅しになるから気を付けてくださいよ」と陽彩が笑いながら言った。この関係性を見る限り、かなり温かい部活だと察した。


 谷坂は虹介を見つけ、「どう?」とだけ訊いた。虹介は「面白いです」と答えると、陽彩が「本当? 嬉しいー」と胸の前で両手を合わせ、目を細めた。


 そして陽彩が前のめりになり虹介の目をまじまじと見つめ、「一緒に電卓やろ?」と言った。目の前でふわりと香るフローラルの匂いは虹介の脳を刺激した。


「や、やります!」


 思わず入部を決意する言葉を発してしまった。自分でもバカだと思うくらい不純な理由だった。

 だがその言葉を聞いた陽彩は「いえーい!」と言って握りこぶしを虹介に向けて掲げた。

 これはグータッチなのか? 陽彩さんに触れてしまうけどいいのか? でもそれで違ったらすごく恥ずかしい……。


 虹介も恥じらいながら同じように握りこぶしを掲げた。すると陽彩からその手は近づき、コツンと交わした。その瞬間に恥じらいは消え、安堵の胸をなでおろした。


「君たちはどうする? 入る?」


 陽彩は輝くような笑顔で綾仁たちに問いかけた。志乃は少し迷いが生じていたが、綾仁は「入ります!」と立ち上がり人当たりの良い笑顔で答えた。それを見た志乃は「私も」と付け加えるように言った。


 部員の四人は、まるで優勝が決まった高校球児のように抱き合って喜んでいた。谷坂も目尻にしわを寄せて微笑んでいた。


「今年も難を逃れたね、良かった良かった」と陽彩が言った。

「……難ですか?」と虹介は陽彩に視線を向けて言った。


「そう。見ての通り部員が少ないからさ。毎年廃部の危機に襲われながら活動してるんだよね。私の兄がここにいたときも同じ感じだったみたい。でも北陵商業って毎年全国行く実力校だから、その伝統を終わらせたくないんだ。だから君たちが入ってくれて本当に嬉しいよ」


 陽彩の強い思いに虹介は感銘を受けた。一年生ながらに責任感を持ってこの部活で活動しようと覚悟を決めた。


「でもあれだな。一回普段の部活の風景を見せた方がいいんじゃないか?」


 谷坂はみのりに視線を向けて問いかけた。みのりは「それもそうですね」と答え、胸の前で音を立てて手を合わせた。


「じゃあ普段通りで一回やろっか」


 みのりの声に反応して「はーい」と三人は気力のない返事をして、机に座った。各々電卓や文鎮、シャープペンを用意し、みのりがプリントを配り始めた。そしてみのりはストップウォッチをいじっている。


「では普通計算六分計ります。……よーい」


 みのりがそう言い、よーい、の声がかかった瞬間に四人は一斉にプリントを裏返した。


「はじめ!」


 同時にストップウォッチが作動する音も聞こえ、四人は一斉に電卓を打ち始めた。電卓の音とペンで書く音だけがこの部室に響き渡り、虹介は思わず息を呑んで見ていた。

 今回は分かりやすくこちらを向いているため、四人の顔つきから真剣さが心の奥まで伝わる。虹介の視線は陽彩に向いているが、彼女もまた真剣な面持ちだった。それに石のように固まった姿勢は美しかった。


「これが普段の練習風景」


 その四人の姿を見ながら谷坂は口を開いた。


「彼女たちはオンオフがしっかりしているから。普段はふにゃってしてるけど、練習となると顔つきも変わるんだよね。だからここの先輩にはお手本になる人しかいないと思うから、この人たちを見て自分もしっかりしようって思えるんじゃないかな。これは言っていいか分からないけど、他の部より人間性が優れてると思うよ」


 谷坂はまるで自分の娘のように彼女たちを褒めている。それだけ愛情注いで教えているのだろう。

 一定時間経つと裏返し、裏の問題にとりかかる。さっきの見取り算だ。一番早かったのは陽彩で、みのり、純礼、優南と続いた。


「今回も全国大会行けそうなんですか?」


 綾仁は持ち前の性格で谷坂に訊いた。谷坂は綾仁の方を振り返り、「全国はいけるよ」と満面の笑みで答えた。


「それに今年は四人とも実力あるから、全国優勝も見えてるかも。でもそう言うと彼女たちは緊張するから」


 谷坂は嬉しそうに彼女たちを見て言った。虹介も彼女たちに視線を向けると、なにやら苦しそうな顔をしながら電卓を打っていた。


 そして長いようで短い六分が終わった。


「ちょっと先生! あんなこというと緊張するじゃないですか」


 みのりが少しだけ声を荒げて、でも明るい雰囲気で谷坂に言った。


「あー、ごめんごめん」と谷坂が悪戯そうな笑みを浮かべて答えた。


「じゃあ今度はみんなで普通計算やって今日の部活は終わりにしようか」

「お、今日は早いですね」

「まぁ学校始まって最初だし、こんなもんだろ」


 そう言って谷坂は虹介たちにプリントを配った。谷坂はストップウォッチを手にして「やり方はさっきと全く同じだから。自分のペースで計算してください」と優しく言った。


 そして始まる、と思ったとき、谷坂は何かを思い出したかのように先生席の机から三つの文鎮を取り出した。


「これ、書くときズレるから、良かったら使って」


 谷坂から使い古した文鎮を受け取った。そして谷坂は「じゃあ始めまーす」とのんびりとした口調で言った。


「よーい」


 その瞬間、彼女たちのマネのように虹介は裏返し、貰った文鎮を置いた。


「はじめ」


 急いで計算しようとはするが、やはりまだ慣れていない左手は思うように動かない。まだ一問目を計算しているというのに先輩たちはもう書き始めている。


 一日目にしては遅い方なのだろうか、僕は出来の悪いやつなのか、大きな心配が募った。

 焦っているとシャープペンを落としてしまった。拾おうとすると谷坂が先に拾い、「落ち着いて、周りは気にしない」と声を添えて机の上に置いた。


 虹介はその言葉をしっかり呑んで、周りを気にしないように問題を解き続けた。隣にいる綾仁はマイペースでしっかり自分のペースを保てている。虹介も少しそれを意識し、周りを遮断するように意識をプリントに集中した。


 途中、裏返す音も聞こえるが、なるべく耳を傾けずに、ここは僕だけの場所、と言い聞かせて解き続けた。


 そして虹介が裏返したところで終了の合図をかけられた。裏の問題すら解けないことに忸怩じくじたる思いに駆られた。そして答え合わせをすると、虹介が解いた二十問中十二問しか合っていなかった。その結果にさらに落胆した。


 すると陽彩が虹介のもとに駆け寄り、「わぁ、おもて全部解いたの? すごいじゃん」と褒め始めた。

 あぁ、先輩に気を遣わせてしまった……。


「これはみんな伸びますね、先生」

「そうだな。これからの成長が楽しみだ」


 虹介にとって電卓の壁にぶつかって骨折をしたような日だった。しかし綾仁と志乃はやけに楽しそうな表情をしていた。よほどこの空間が気に入ったのだろう。


「虹介くん? どうした?」


 陽彩が心配そうな表情で覗くように見てきた。


「最初ってみんなこんな感じなんでしょうか」

「そうだよ。むしろできてる方だよ」

「いつも、焦っちゃうんです。周りより能力が劣ってるから、置いていかれるのが怖くて」


 思わず虹介は抱え込んでいた弱音を陽彩に吐いてしまった。


 余計なこと言っちゃった……。


 虹介は深く反省をして、目を瞑って頭を下げた。


「大丈夫だよ。みんなで成長するのがこの部活の特徴だから」


 そよ風のような声が虹介の体に触れ、顔を上げた。そこには陽彩のほかにも先輩たちが温和な表情で見守っていた。


「これから一緒にがんばろ?」


 虹介はこんな優しさに触れることがあるのか、と驚愕した。そしてしゃがれた声で「はい」と答えた。


 陽彩さんのためにも、一生懸命頑張ろう、そして陽彩さんみたいな性格になれるように頑張ろうと思えた初日だった。


  入部して一週間経ち、電卓の腕は少しだけ上達した。裏の問題を一問解き終わり、正答率が八割越えは確実となった。これも陽彩が教えてくれた《《あの練習方法》》のおかげだと、心の底から感謝した。


 この空間や空気にも慣れ、先輩という存在にも慣れたころ、慣れないことがやってきた。


「じゃあ今日から一年生は応用計算の勉強をします」


 それは前に陽彩から説明されたものだ。あのときは詳しく教えてもらわなかったが、とても難しそうだったと言うことは覚えている。


「本来は先生が教えなきゃいけないんだけど、生憎あいにく生徒の補習が入ってるから、誰かやってくれないか?」


 谷坂は来週に実施される情報処理検定に向けての補習があるため退室しなければいけない。谷坂は二、三年の四人を見ながら問いかけた。


「じゃあみんなで教えよっか」


 みのりがそう提案した。陽彩も純礼も優南も賛成した。


「じゃああとは頼んだ」


 そう言って谷坂は姿を消した。彼女たちが少し話し合いをすると、陽彩が虹介の方に来た。残りの三人は綾仁と志乃の方に行った。


 陽彩さんが申し出たのか? それとも僕が余りものだから? 


「じゃあ色々教えちゃうよー」


 何故か張り切っている陽彩に対して虹介は純粋に抱いた疑問を問いかける。


「あの、なんで僕だけ一対一なんですか?」

「んー。私が一人で教えるのが楽だから、かな」


 なんだ。ちょっと深く考えすぎた。


「ありがとうございます。陽彩さんに教えてもらえるなんて光栄です」

「ほんと、言葉だけはいっちょ前なんだから」


 陽彩は応用計算のプリントを取り出し、順番に説明してくれた。割引計算や複利計算、仲立ち人や原価率、減価償却や積立金など、様々な説明をされたが一向に頭に入らない。

 その後、最低限出来なければいけない問題を選んでもらい、虹介はそれに没頭した。


「原価に見込み利益を含んだのが定価、定価に割引とか値引きとか色々いじったのが売価。OK?」

「OKです」

「あと買い主の支払総額から売り主の手取金を引いたら、両者の手数料の合計が出ます。OK?」

「……OKです」

「減価償却は……これは簿記で習うから後でね」

「りょ、了解です」


 一通り教えてもらうと、「虹介くんって、珍しいよね」と陽彩が突然そう口にした。虹介は何のことなのか全く把握できず、ただ緊張した。


「え、ど、どういうことですか?」

「虹介ってにじを使うんだね。初めて会ったから珍しく思ってるだけかな」

「名前のことですか。確かに、名前に虹が入っている人は僕も会ったことないですね」


 名前のことを訊かれることは珍しいことではない。だがこれといって上手い返しがあるわけでもないことがこの話の難しいところである。


「そうなんだ。じゃあ珍しいのか。でもいい名前だね」

「……本当ですか?」

「うん。虹って明るくてカラフルで、絶対に色褪せない誰もが知ってる美しいものでしょ? 素晴らしいと思うよ」

「虹について詳しく語る人、陽彩さんが初めてです」

「そう? 虹介くんの名前見たときから思ってたんだよね。いい名前って」


 陽彩さんが僕のことを気にかけてくれる、それだけで僕は嬉しい。でも……。


「でも、僕は虹と対極にいるような人ですよ。暗いし美しくもない、廃れた存在ですよ」

「そんなこと言うもんじゃないよ」


 陽彩は真面目な顔つきで虹介の顔を見ている。それに対して緊張の意味で心臓がバクバクと暴れる。

 余計なことを言ってしまった、と後悔した。


「誰だってその名前通りにならないことはあるよ。結局は親の遺伝子なんだから。でも子どもって親の遺伝子の他にも、ほんの少しかもしれないけど名前で変わると思うんだ。それに虹介くんはもうちょっと明るく物事を見なきゃダメだよ。ずっと否定的な考えしてるでしょ。そんなんじゃ幸福が去って行くよ」


 確かに、陽彩さんが去って行ったら嫌だな。反省しないと。


「その性格を私が叩きなおしてあげようか? いや、叩きなおすね」


 すると陽彩は制服の袖をまくり、白くて細い腕を露わにした。流れでとらえると、説教が含まれている暴力を振るわれると思い、虹介は目を伏せた。


「いや、暴力はしないからね?」

「あ、よかった……」

「そんな暴力的に見えるのかなぁ」


 陽彩は自分の腕をまじまじと見つめる。しかし彼女の腕は細い。表面の皮をめくったら骨が見えそうなくらい細い。しばらくその華奢な腕に見惚れていたが、陽彩という漢字を思い出し、良い名前だと感じた。


「でも、名前だったら陽彩さんもいい名前ですよ」と陽彩に伝えた。

「そう? 変な名前って言われること多いけど」

「なんか明るさの象徴みたいな感じがします。周りの人を幸せにする力を誰よりも持ってそうな感じがします」

「あ、それすごい分かる!」


 割り込んできたのは隣で綾仁に教えていた優南だった。優南は輝くような笑顔で陽彩に駆け寄り、その華奢な腕に抱きつくように掴んだ。


「陽彩さんって、いるだけで場が和むというか、心も穏やかにするんですよ。存在が太陽に近いんですよ。だからこの人は一生輝き続けるんだろうなって思うんです」

「なに? 優南ちゃんまで。凄く照れるんだけど」


 そう言った陽彩の顔はだんだん赤みを増してきた。それに彼女の耳たぶはトマトのように赤くなっていた。


「もういい! はい、虹介くん続きやるよ」


 陽彩は全てを振り払うように机の上にあるプリントに目を向けた。そして解法の式を書こうとしたためシャープペンを握った。


 このシャープペンは振って芯を出すことができるため陽彩はペンを振った。だが手からペンが離れ、遠くへ飛んでいった。ペンは机の脚に幾度と当たって心配するような音が鳴った。陽彩はすぐに「ごめん!」と大きな声で謝り、ペンを取りに行った。


 ペンを持って戻ってきた陽彩は改めて「本当にごめん!」と柏手をうつように両手を合わせた。「いえいえ、わざわざ取りに行かせてすみません」と虹介は言い、受け取ったペンのキャップをカチカチと二回押した。芯は現れたが、中で折れていたのか数ミリで折れた芯が落ちてきた。


「それにちゃんと使えるので大丈夫です」

「はー、良かった。でももしあれなら弁償するよ」

「大丈夫ですよ。気にしないでください」


 陽彩は釈然としないような表情でペンと己の手を見ていた。虹介は忘れてもらおうと思い、「これどうやって解くんですか?」と話題を逸らした。


 我に戻った陽彩は少し戸惑いながらもしっかりとした説明で教えてくれた。


 本当に優しい人だ。虹介はそう思いながら彼女の書く計算式を見ていた。


「そろそろゴールデンウイークだなー」


この日はゴールデンウィークに突入する前の最後の部活だ。部室までの道中の会話で寝ぼけた声で綾仁が言った。


「そうだけど、予定表見たら基本部活で終わるね」


 虹介は空虚な天井を見上げながら答える。


「まぁいいんだけどさ、もうちょっと遊びたいよなー。中学の友達にも会いたいし」

「僕は部活やってる方がいいかな。単純に友達いないからだけど」

「それは違うだろ? お前、陽彩先輩が気になってるんだろ」

「……まぁ、バレるよね」

「当たり前だ。お前の陽彩先輩見る視線ときたら、なぁ」

「なぁって。何か言ってよ」

「何か言おうとしたけど言葉にする能力が俺にはねぇんだよ」

「あんだけ現代文できるのに」

「テストはテスト。人間そんなもんだよ」


 綾仁が歩くスピードを速め、一足先に部室の引き戸に手をかけた。そして勢いよく開け、「こんにちはー」と無邪気な声で言った。それを追いかけるように虹介も歩いた。部室には陽彩と優南が親しげに話していた。


「こんにちはー」と陽彩と優南が返した。遅れて虹介も挨拶をし、二人も挨拶を返してくれた。


 すると綾仁は虹介の顔をにやけた表情で見て、「優南先輩、このまえの応用問題教えてくれませんか?」と言った。優南は清々しい顔で「いいよ」と答えた。


 あいつ、仕組んだな……。


 綾仁の思惑に気づいた虹介は不貞腐れた顔で自分の席に着いた。すると優しい陽彩は当然の如く「虹介くんは大丈夫?」と訊いてくれた。どこか意地を張っていた虹介は「はい、大丈夫です」と唇に力を入れて答えた。


「そんな素っ気ないこと言わないでさー。お姉さんの話し相手になってよ。他に誰もいないんだし」


 陽彩は引き下がらず、壁に取り付けられている機能していない暖房に腰を掛けた。少し高い位置に陽彩の顔があり、見上げるように顔を向けた。


「それにゴールデンウィークが終わったら全道すぐだよ。楽しみだね」


 心の底からの喜びを表現したような顔で陽彩は虹介に笑いかけた。


「僕は、緊張の方がだいぶ勝ってますよ」

「そっかぁ。私も一年生のときは『雰囲気を覚えなさい』って感じだったからなぁ。だからそんなに深く考えなくていいのよ。自分の出せる力を出して、今の自分ってこれくらいかぁっていうのも把握できるし。それに前日のご飯は豪華なんだよ。高いお肉を使ったすき焼きがあるんだから!」


 すき焼きの話題が出たとき、陽彩の顔は食欲にまみれていた。だがその姿ですら可愛げが大半を占めていた。

 若干圧倒されたが、虹介は「それは楽しみですね」と微笑みかけた。


 ふいに綾仁に視線を向けると、こっちを見てニヤニヤしていた。虹介が不満げな顔をすると、そのニヤニヤを保ったまま応用問題に目を移した。


「それで、どう? 電卓の方は」

「どうなんでしょうか。僕なりに一生懸命やってるんですけど、なかなか上達しないなって言う感想です。綾仁も志乃も見取り算四問解けるスピードなのに、僕は一問のままです。やっぱり遅れを感じざるを得ないです」

「そうかー。じゃあ私と特訓しようか」


 陽彩は活力に満ち溢れた顔でそう言った。その言葉に嬉しくもあったが、戸惑いが大きく生じた。


「でも、そんな時間ないですよね?」

「まぁないっちゃないね。でも虹介くんが本気になってるのが嬉しいんだ。だから最初の数分とか、何かアドバイスするよ」

「……本当優しいですね。陽彩さん」

「ただのおせっかいよ。じゃあちょっと計算するとこ見して?」


 そう言われ、虹介はカバンから電卓を出して、昨日使った普通計算を取り出していつも通り計算を始めた。


「なるほどねぇ」


 まだ一問しか解いていないが陽彩は見透かしたような声を出した。陽彩は虹介の後頭部を掴み、「もう一回やって」と言った。要望通りもう一度やると、「やっぱり」と陽彩は言った。


 陽彩は手を暖房の上に置いて、真剣な面持ちで虹介の顔を見た。


「虹介くんね、首振り人形になってるね」

「首振り……ですか?」

「そう。間違わないように間違わないようにっていう気持ちが強いのか分からないけど、数字を打ったらすぐ電卓の画面を確認してるのよね。私たちは、計算し終わったときにしか画面を見ないの。もちろんそれだけ正確に打ててるっていう力があればの話。私も一年生のときそうだったから直さないとダメだよ。そのままだとなかなか成長しないかもね」


 言われてみればそうだ。確かに僕は慎重になりすぎて確認ばかりしている。それに初日の練習を振り返れば、先輩たちが電卓の画面を見ているときは計算し終わった後だ。


「それに最初に言ったあの練習方法をやれば数字の位置なんて体が覚えるから、空いた時間も電卓いじればいつの間にか覚えてるよ」

「ありがとうございます。早速やってみます。おかげで成長できそうです」


 虹介は普段見せない明るい表情で陽彩に言った。陽彩も「よかった」と微笑みかけると、何かを思い出したかのような表情をして、人差し指を虹介に向ける。


「余談だけど、字は綺麗に書いた方がいいよ。特に”0”と”6”の区別。じゃあ頑張って」


 改めて虹介は自分の練習問題を見たが、自分では汚い字だとは全く思わなかった。”0”と”6”の区別がしっかりつく。だが虹介はその言葉を頭の片隅にしまっておいた。


 部活が始まるまで虹介は1⃣9⃣3⃣7⃣4⃣6⃣8⃣2⃣5⃣0⃣を打ち続けた。谷坂が来るまでやっていると陽彩の言う通り、電卓を見なくてもしっかり数字を打てていた。そして虹介はアドバイスを受けたことを心掛けて電卓を見ないように普通計算をやると前回より二問も多く解けた。


 たったそれだけのことだが、それがあまりに嬉しくてそのプリントを持って陽彩のもとに駆け寄った。


「陽彩さん、三問目の真ん中くらいまで解けました。陽彩さんのおかげです!」

「おー! 良かったじゃん。その調子だよ!」


 陽彩も虹介の気持ちに合わせて一緒になって喜んでくれた。手元にあった陽彩の用紙を見ると八問目まで解き終わっていた。


「八問目まで解き終わってるの凄いですね」

「んー、でも結構間違えてるんだ。だから私も成長しなきゃ」


 陽彩は無理したような笑顔を向け、自分の手を見つめていた。虹介は、自分もちゃんと練習しなきゃ、と思いに駆られ練習に戻った。




 ゴールデンウィークを迎え、しばらくは部活に没頭していた。とはいっても部活の雰囲気が温和で楽天なものだから毎日を楽しく過ごしている。そして『こどもの日』である五月五日の前日の部活終わり、谷坂の口からこんな説明をされた。


「言い忘れてたけど、明日は例年通り親睦会を兼ねたバーベキューしますから。気楽な格好で来てくださいね」


 突然そんな話をされた一年生は顔を見合わせ、綾仁と志乃は喜びを隠せていなかったが、虹介は困惑していた。

 あまりそのような経験が無いから、楽しめるかどうか不安だった。




 そして翌日、部室に集まった部員は谷坂の荷物運びをする。部室の奥に息を潜めていたBBQ(バーべキュー)グリルが入った段ボール、ぼこりをかぶったテーブルと椅子を運ぶ。虹介と綾仁で小学四年生くらいの重さの段ボールを持つ。


 それらを谷坂のワンボックスまで運び、トランクを開けて押し入れる。場所は平成公園という花見客が多く、桜が美しい場所で花見するにはもってこいの場所だ。そこまで徒歩で十数分、部員たちは談笑しながら徒歩で向かう。


 綾仁と志乃は二年生の先輩と仲良くし、前でみのりと陽彩が先導していて少々独りぼっちだ。虹介は普段見ないような廃れた店に目を向ける。和菓子や洋菓子などのお店がこじんまりと営業している。そして近くには歩行者を包み込むように木の枝が垂れている。その隙間から刺さる太陽光は体の中まで刺激して、不安をかき消すような浄化する光だった。


 ふと前方を見ると、陽彩とみのりが二年生に何か言っている。するとみのりと陽彩が虹介のもとにやってきた。ティアードスカートをゆらゆらと動かしながらハンチング帽を被った陽彩と、肌色の七分袖のパーカーにキャペリンを被ったみのりが眩しく見えた。


「どうした? 一人で歩いちゃって」と陽彩が言った。

「お姉さんたちと一緒に歩こうや」とナンパのような口調でみのりが言った。


「ちょっとみのり。後輩に手を出さないの」

「いいじゃんかー。虹介くんはかわいい顔してるんだし。食べたいくらい」


 その発言に虹介は僅かに眉をしかめた。


「分かる。かわいいとさ、一緒に居たいより食べたいが勝るよね」


 同意した陽彩に目を大きく開けて凝視した。


 僕を食べたいという話題で盛り上がっている……。僕は食べられてしまうのだろうか……?


「ちょっとみのり。虹介の顔が泣きそうになってるよ」

「あ、ホントだ。どうした少年」

「いや、お二人が僕を食べようと……」


 それを聞いた二人はお互いを見つめて手を叩いて笑った。それを見た虹介はおどおどした。


「うちの弟と変わってほしいくらいだよ」とみのりが言った。

「私はお兄ちゃんしかいないから貰えるかも?」と陽彩がずるそうな顔で言った。


「あーでもそろそろ虹介くん困りそうだからやめようか」と陽彩が言った。


「どう? 楽しみ?」


 陽彩が虹介の顔まで数センチというくらいまで近づいて浮ついた顔で言った。もしつまづいて前に倒れてキスなんてしたら……なんてギャグマンガのような妄想をすぐに振り払う。


「は、はい。めちゃくちゃ楽しみです」

「そう、良かった。私は一年生のとき、楽しめるのか不安だったけど先輩たちが優しかったからすごい楽しかったんだ。だから私も先輩の立場になってちゃんと後輩のことを思わないとなって。だから気を遣うことがあるのかもしれないけど気にしないで楽しんでね。今日はそういう日なんだから」


 陽彩の言葉を聞き、だからこの人は僕みたいな人にこんなに優しくしてくれるのか、ということに気づいた。

 それに彼女の弾けるような笑顔は、枯れた植物が息を吹き返すようなものだった。


 平成公園に着き、はじめに谷坂の車に向かう。そこでたくさんのものを持ち、移動する。ここで虹介は賑わう公園を見て気になったことがあり、陽彩に訊ねる。


「花見って結構人いますけど、大丈夫なんですかね?」と不安げな顔で訊いた。

「それなら大丈夫だよ」と明るい声で陽彩は答えた。


 なにがどう大丈夫なのか、詳細は聞かなかった。


 目的地のような場所に着くと、ブルーシートに見知らぬ男女が数人いた。彼らはこちらに手を振り、まるで「ここでーす」というような様子だった。それに谷坂が手を振り返したことにより、彼らは関係者なのだと確信した。


 そこに着くと、彼らは谷坂のもとに駆け寄った。


「先生、久しぶりです」

「おう、みんな元気そうだな」


 谷坂はこちらを振り返り、「この人たちは部活の卒業生」と淡泊な説明をする。一年生たちは警戒するように頭を下げる。そして隣にいた陽彩が「ね? 大丈夫でしょ」と自慢げに答えた。

 そのときは何が大丈夫なのかよく分からないし、その答えがわかることは無い。


 夏の扉をこじ開けようとするような日差しは体を火照させる。女性陣は日焼け対策をしているような恰好ばかりだ。あたりは花見客で埋め尽くしている。酒で酔う若者や中年男性、それを見て呆れる女性、それに炭の匂いが周囲をまとう。


「じゃあ準備するよー」


 谷坂の掛け声とともに動き出す電卓部員。それぞれが事前に役割が決まっているかのような動きだった。男性陣が炭を並べて着火剤の準備をしていたため、虹介はそこに合流した。


「なにやればいいですか?」と虹介は見知らぬ先輩に聞く。

「これ。それで俺たちが火をつけるから全力で扇いで」と団扇うちわを渡された。虹介はそれを受け取り、火が付くまで木偶でくの坊のように立っていた。


 そして火が付き、「よろしく!」と言われ、虹介は全力で扇いだ。途中、「なるべくここらへん」と指示を受け、調整する。自分では基準が分からないが、数分扇いだところで「OK!」と声がかかった。


 その間に女性陣がおにぎりや焼肉などの食べ物を準備し、最後に陽彩が紙皿と割り箸を配る。少し見えずらいところに立っていた志乃にそれらを渡し忘れ、虹介は恥ずかしがりながら「陽彩さん」と声を掛けた。陽彩はそのことに気づき「ごめんね」と言って志乃に渡した。


 そして谷坂が「準備は大丈夫ですか?」と言う。「大丈夫でーす」と先輩たちの太い声が反応する。


「OB、OG会も兼ねた親睦会です。じゃあ各々好きなように焼いて食べて飲んで遊んでください。乾杯」

「かんぱーい!」


 紙コップに入れた飲み物で親睦会は始まった。そして皆、肉を焼きだした。大量の肉が並べられていて食欲が掻き立てられ、口の中は洪水しそうだった。綾仁も志乃もその空気になじみ、楽しそうにしていた。

 一人置いていかれた虹介は焼かれた肉を受け取り、食べるという作業を繰り返していた。そこに陽彩が「楽しんでる?」と弱々しい声で訊いた。


「はい、楽しいです」と肉を含んだ口で答えた。

「それは良かった」と風になびく髪の毛をいじりながら答えた。そして陽彩は視線を移動させて「ふぅ」という可愛い声を出してブルーシートに座りだした。虹介は少し心配した口調で「どうしました?」と訊いた。


「太陽にやられたかな」と蚊の鳴くような声で答えた。詳しい状態は分からないが、具合が悪いようだ。日焼け対策をしているように見えても完全に防ぐことのできない今日の太陽は強敵だと知った。


 虹介は段ボールに入っている水を取り出し、それを陽彩に渡した。陽彩は少々顔を歪めながら「ありがとう」と受け取り、水を一口飲んだ。


「はぁー、今日ははしゃぐつもりだったんだけどなぁ」


 陽彩が肉を焼いている人に視線を向けて、ため息を吐くように言った。


「具合悪いんですか?」

「ちょっとふらっとしただけ。ちょっと座れば治るさ」


 陽彩は笑みを浮かべて水をもう一口飲んだ。虹介は視線をキョロキョロとさせると、「お肉持ってきましょうか?」と陽彩に訊いた。


「気つかわなくていいよ。それよりほかの人とたくさん喋っておいで」


 陽彩がそう言って微笑みかけた。このままその言葉に従うのはどうかと思い、行動を躊躇う。考えた虹介は一度立ち上がり、ある程度の肉と野菜を盛った紙皿を二つ持って陽彩のもとに行った。


「一緒に食べましょ」


 持っている紙皿を見て陽彩は口角を上げた。陽彩が「ありがとう」と呟き、花見客の声でかき消されそうだったが、しっかり伝わった。


 虹介は人一人ひとひとり分の距離を開けて陽彩の隣に座った。その間に持っていた紙皿を二枚置いた。


「優しいんだね、虹介は」

「いつも優しくしてもらってるので、お礼です」


 陽彩は小さな口を大きく開け、肉を入れる。美味しそうに頬張る姿を見て、元気そうだと安心した。


「そもそもの話だけどさ、なんで電卓部の見学に来たの?」


 陽彩は肉を頬張りながら訊いた。


「だってあんなに魅力的な部活が他にいっぱいあるのにローカル中のローカルの電卓部を選ぶなんて正直おかしいもん」

「きっかけは綾仁と志乃ですけど、入りたいって思ったのは——雰囲気が良かったからですかね」

「雰囲気?」

「はい。そもそも部活に嫌悪感があったんですよね。中学のころ、運動部に所属してたんですけど全然良くなくて。先輩も悪けりゃ顧問も悪くて。自分の居場所が全くない部活だったんで、次は帰宅部か文化部にしようって決めてたんです。でもおかげで良い部活に出会いました」

「ふふん、それは良かった」


 陽彩は嬉しそうな顔をして玉ねぎを食べる。


「陽彩さんはお兄さんの影響ですか?」

「そうだね。お兄ちゃんがここの部活入って——それこそ虹介くんに似てるかな。電卓部入ってからのお兄ちゃんって凄く変わったんだよね。よっぽど楽しい部活なんだなって思った。元々商業に進学する予定だったから部活は電卓部にしようって最初から決めてたんだ」

「運命みたいなもんですね」

「そうだね。この出会いは偶然じゃないってことだね」


 自分のことを言われているのかと思い、虹介の心臓は一度大きく跳ねあがった。


「よし。なんか気分良くなってきた」と陽彩は言った。そして何かを思い出したかのように自分のカバンをガサガサと探し、電卓を取り出した。虹介はその様子に口を出すことなく見ていた。すると陽彩は電卓をいじると、電卓を見せてきた。

 計算結果を示す画面には”39”と並んでいた。


「なんですか?」

「サンキューってこと」と言って太陽のような笑顔を見せた。


 くだらねぇ……、なんてことを思ったことは絶対に内緒だ。


 そして陽彩は電卓をしまって「あっち行ってみんなと食べよー!」と言った。


 さっきまでの浮かない表情が嘘かと思えるくらい元気を取り戻していた。そして陽彩は向こうで固まって話しているグループに参加した。元気な姿に戻って良かったと安堵する。


「楽しそうにお話してたね」


 立ち上がろうとしたとき、後ろからみのりが話しかけてきた。みのりがさっきまで陽彩が座っていた場所に座り、虹介もその場所に留まる。


「何話してたの?」

「大したことは話してないです。なんか陽彩さん具合悪いみたいな様子だったので」

「へー、そうなんだ。いつも元気なのに珍しいね」

「普段から明るい人なんですか?」

「そうよー。でも……」


 急に話を止めて口を窄むみのりに「どうしました?」と訊くと、「これはちょっと女の子の問題だから」と唇の前に人差し指を立てる。何のことか分からない虹介は不思議そうな面持ちで見ていた。


「まぁいいのよ。それでさ、惚れてんの?」


 みのりは若干上ずった声で、虹介の顔を覗くように見て言った。大きくて透明な瞳には揶揄やゆするものを感じる。


「ち、違いますよ」


 少し焦ったが、みのりが思っているであろう仮定を否定した。するとみのりは「なーんだ」と空に向けて言い、口を尖らせた。


「何を期待してたんですか?」と全てを分かったうえで虹介は質問した。


「虹介くんが陽彩に恋してるんじゃないかなーって。仲良いっていうか二人が話してるところよく見るからさ。ちょっとはあるんじゃない?」


 ちょっとは、と言われると少し心が油断した。


「ちょ、ちょっとは……」


 虹介は親指と人差し指の間に微生物の大きさくらいの隙間を作って見せた。


「ちっちゃすぎるなぁ、じゃあないのか」


 みのりはため息を吐いて再び口を尖らせた。


「なんでそんな反応するんですか?」

「んー。あんなに可愛いのに陽彩って彼氏いたことないんだって」

「へー、意外ですね」

「でしょ? だから二人いい雰囲気だったからくっつけようかなって」

「いや言ってることだいぶやばいですよ」

「そうかな? 私が二人のキューピットになったら面白くない?」

「面白いかどうか、僕には全く分かりませんよ」

「そうかー、分からないかー」


 また口を尖らせるみのりは持っていた紙皿の上にある焼肉を食べ始めた。味の感想を言いながら陽彩を見つめていた。

 いつも陽彩さんばかり見ていたが、みのりさんも美人だよなぁ……。


「みのりさんは彼氏いるんですか?」


 虹介の質問がきっかけなのか、みのりはむせ始めた。慌てて「大丈夫ですか?」と訊くと親指と人差し指で丸を作り、それを虹介に見せた。


「すみません、変なこと訊いて……」

「そうだよ。変なこと訊くからこうなったんだよ」


 言葉とは裏腹にみのりは笑顔を見せた。その姿を見て虹介は安堵した。


「逆にいると思う? めんどくさい質問だけど」

「みのりさん美人だからいそうですけど」

「……はぁ、なんて可愛いの君は。そんな純粋な目で見られると恋しちゃいそうになるわ」


 まるでドラマのワンシーンのような口調でみのりは言葉を発する。白々しい言葉に虹介は反応に困った。


「それでいるんですか?」

「あぁ、ごめんね。いないわよ。陽彩と一緒で今まで一度も」

「先輩揃って意外ですね」

「でも二年の二人はどっちもいるらしいわよ。暇さえあればメッセージ送ってるんだから。ほらいま」


 みのりが指さすと、そこには純礼がスマホをいじっている姿があった。加え、優南も同じような動きをしていた。だがそれが恋人に連絡を取っているのか、虹介には判断できなかった。

 ふと隣を見ると、唇を強く噛み、頬に力を入れるみのりがいた。


「彼氏欲しいんですか?」

「なってくれるの?」

「僕は後輩ですけど、先輩の言うことなんでも聞く人じゃないですよ」

「分かってるよ。欲しいかと訊かれると分からないね。今の環境が一番楽しいし。それに陽彩が『みのりに彼氏できるまで一緒に住もう』みたいなこと言ってたから、多分これからもみのりと仲良くしてるのかな」

「本当に仲良しですね」

「これだけは負けないよ」


 みのりは軽く微笑み、飲み物をくいっと飲んだ。現状に満足しているような顔をしていた。


 虹介は陽彩に抱いている気持ちを隠してみのりとともに肉などが焼かれているグリルの周りにいる人々に交じった。


「あ、マシュマロ焼いてる!」


 みのりが子どもがはしゃぐような声を上げた。すると陽彩が焼いていたマシュマロを一つ取って、みのりに向けて「あーん」と言う。みのりは嬉しそうに小さな口を大きく開け、マシュマロが口の中へ入っていく。

 二人のやり取りは誰が見ても幸せそうだった。


「虹介くんも食べる?」


 陽彩が焼く前のマシュマロを一つ持ちながら言う。虹介ははにかみ、「はい」と言った。

 部員の中、特に三年生の先輩と仲が深まった親睦会だった。この部活に入って良かったと何度も思った。

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