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ささやかな惨劇

作者: 黒森牧夫

 惨劇の後の様なむごたらしい朝焼けの中を、私は歩いていた。ぼんやりと濁り霞んでぐでっと延べ広がる大気には、背筋を這い回る蟻の大群のそれの様な悍ましさが充満していたが、それは夜の、闇の、世界が昼の眩しさとは別種の輝きで満たされ、遙かなる空間の中へと瞑想を誘う時間の超然とした悍ましさではなく、一晩中寝かせてもらえず浅い眠りをうとうとと繰り返して来た、人の生活に汚れ切った街の、大都市の、密集した群衆の情け無い悍ましさだった。黄色く濁った半月はもう何処かへ雲隠れしてしまっていたが、西の彼方にはまだ腐敗して悪臭を放つ沼の底の泥の様な青黒い闇もどきが蟠っていて、得も言われず胸のむかつく色彩をした境界領域を、下卑た魔物が乳飲み児を攫う時に使うぼろぼろの毛布の様に、街の頭上から覆い被せていた。打ち黙して無用な口を噤み、静寂の中に身を浸すことを知らぬこの毒々しい風景は、只でさえ胸掻き毟る狂燥に身を焦がし、脱出する術も無い儘凶暴に彷徨を続けていた私を一層苛立たせたが、私一人が歯噛みしたところで何がどうなる訳でもなく、私は、やがて完全に明けてまた騒々しい昼の領域が尊大な顔をしてのさばり出して来るであろうことに苦々しい思いを抱き乍らも、そろそろみすぼらしい自分の巣へ逃げ帰るしか無さそうだと、帰り道の算段を探り始めた。神秘も深遠さも剝ぎ取られた薄闇は、化粧も着衣も崩れた安物のベッドの上の娼婦の様に身も蓋も無い有様でごろんと地上に寝転がっていたが、ものみなの形と陰翳がくっきり浮かび上がるまでにはまだ間が有り、私はその残された僅かな闇の谺のおこぼれを乞食の様に漁り乍ら、遠くから車の走る音の聞こえて来る迷宮の様に入り組んだ、しかし余りにも雑然と無計画に過ぎて迷宮の様な美しさは欠片も無い、人通りの絶えた路地を、負債に急き立てられる者の様にせこせこと急いで行った。

 また一つ余計なことを思い出してしまったのだった。私が永遠に気を取られて手を拱いて傍観している内に過ぎ去ってしまった機会、或いは機会だったかも知れないものどもが、中途半端に棚上げにされた儘の私のささやかな時間を見付け出し、意識の表層にまで引っ張り出して来て、またぞろちくちくと針の先でいたぶる様に私を責め苛み、その余りの鬱陶しさと、殆ど自動的に湧き上がってしまう自責の念とにいたたまれなくなって、私は、あの言葉で埋め尽くして武装した私だけの領域を飛び出し、当ても無く彷徨っていたのだった。私は自分の余りの進歩の無さに流石に情け無くなって、これ見よがしに投げ出した幾度もの吐息と共に、その焦燥感を振り払おうとしたが、予想通り何度やっても果たせず、うるさく付き纏い、殆ど私の意の儘にはなってくれない雑多で腹立たしい想念達にうんざりし、それでも心の何処かで秘かにときめき乍ら、全くスマートとは言えない混乱した頭の中から、そろそろ悲鳴のひとつも絞り出したい気分になっていた。私が私と思い成したがっているものの周辺には、常に図々しくも境界を侵犯し、我も我もと名乗りを上げる様々な記憶達が雲霞の如くに群がり集って来ていたが、私は、指先から、足の裏から、背中の肌から、頭皮から、鼻孔から、そして何処(いずこ)とも知れぬ彼方から這い寄り来るそれらの融解点の低い青醒めた亡霊達を、不様にも平静ならざる眼差しを以て見下ろし乍ら、道を間違えた挙げ句にうっかり蚊の大群の中に突っ込んでしまった間抜けな探検家の自嘲と自棄と諦念と共に、この口許の戦きが一秒でも早く立ち去ってくれないものかと、何とも逃げ腰な望みを最後に残された唯一の財産であるかの様に後生大事に胸に掻き抱いていた。自分のしていることがこの儘では単に何処へも行き着かぬ逃避行の真似事であり、過去と現在とを指の間から滑り落ちさせてしまったが為に未来をも失う羽目になる愚か者の抱く恐怖が、やがては私が張り巡らせた小賢しい思慮分別を全て出し抜いて、私を手応えの有る世界の外側に弾き出してしまうであろうと云うことを、私は理解していた。だが理解しているからと云って、解決法まで解っていると云うものではない。私は自らが仕掛け、構築し、私の牙城として造り上げて来た体系がその儘自らを閉じ込める罠と成って、がっきりとその(あぎと)を私の両側で閉じた音を聞いたのだが、柔軟性には富んでいるものの、余りにも念を入れてしっかりと仕上げてしまったが為に、根本的な可塑性には乏しくなってしまったのであろう私の形は、焦る心の儘に幾ら焦点をずらして違う色に塗り替えてみようとしても上手く行かず、却ってその頑なな生硬さを見せ付けるかの様に、元の姿を変えようとはしなかった。他人事であったならば滑稽事として片付けられる徒労と見当外れが、浜を濯う波の様に、私が私であると云うこと自体に関する自尊心を梳り、引っ掻いて、徐々にその原型を変容させ、珍妙な姿に鋳直して行くのを、私は只阿呆の様にぼけっと突っ立って眺めていることしか出来なかったのだが、そうした動揺と不安定感には全くお構い無しに私はこの薄汚い陰々滅々たる赤の暗がりの中に溶け出して行き、だらしない夜明け時が夢現の儘目覚めの意味すら知らぬ薄呆けた朝へと流れ込んで行くのに合わせて、どんどん自堕落な崩壊を進行させて行った。

 私はほとほと嫌気が差し、全ての具体物に呪詛の言葉を吐き連ねたい気分だった。だから、目の前で一寸した惨劇が繰り広げられた時も、私は目を奪われるどころか、また下らない三文芝居が上演されるのかと、物憂気な一瞥を呉れただけだった。これと云って何の特色も無い、有り触れた小さな路地を通っていた時のことだ、十メートル程先の電信柱の上から何か騒々しい塊が落ちて来たかと思うと、何かの工事の後放置された儘らしい錆だからの低いバリケードにぶつかって派手なバシャンと云う音を立て、その儘道路の真ん中に転げ落ちてもんどり打った。何か白く軽そうな細かい欠片がふわりと一面に舞ったかと思うと、それは鳥の羽毛で、塊はよく見ると縺れ合った烏と鳩だった。烏の太い嘴は鳩の首根っこをがっちりと銜えていて、鳩の首はあらぬ方向を向いた儘、マネキン人形か何かの様に空ろだが妙に取り澄ました感じのする顔付きで、赤魚の切り身を思わせる色をした宙空を見ていた。烏はその鳩の………鳩の死骸を銜えた儘今度は無茶苦茶に振り回し、私以外には車どころか全く人すら通らないのを幸い、堂々とその場で朝食を始めた。驚く程白い羽根がまた目覚ましく舞い上がり、地面から私の胸位の高さまでをすっかり覆い尽くして、烏の手際を周囲の一切の視線から隠してしまった。私の目は見るとも無しに血の赤さを求めて更にちらりと興味の無さそうな一瞥を呉れたが、赤いのはあの仰々しい朝焼けの光ばかりで、血の色は全く見えなかった。私はその見事な技術に感心すると共に、その派手派手しさの陰に惨劇が隠されてしまったことを少し残念に思った。私が立ち止まったのは一瞬のことだったが、私はそれ以上観劇を続けようとはせず、その儘すたすたとその場を立ち去った。結局、起こったのはよくある捕食劇に過ぎなかった。通常は余り人の目に触れることは無いが、この人工物で固めたニッチの要塞にも野生の、人間達へ直接的に隷属してはいない動物達が棲息している以上、毎日必ず何処かで起こっている筈の、日々を繋いで行くための当然の有り触れた営為のひとつであった。ひとつの個体が活動を停止し、そのことによって別の個体が活動を持続させた、それだけのことなのだ。どれだけ人が自分達の目から変化を示すものを排除しようと、死と生は余りにも当たり前に世界に満ち溢れている。それは私が呼吸したり心臓を脈動させたり歩いたりものを考えたりするのと同じ位当たり前のことで、現に私がひとつの生命の受け渡しに背を向けて遠ざかっていたその瞬間にさえ、私の気付かない所で無数の死が、無数の生が、この世界の中で己が存在に与えられた役割を全うすべく、休むこと無く忙しく立ち働いていた筈なのだ。何の感慨も無く私は歩き去った。私が私自身から遠く離れているのと動揺に、その惨劇も私からは殆ど無縁の出来事に過ぎなかった。ひとつの風景が私の背後へ遠くなって行った。だが目の前から訪れる新しい風景もまた、私にとっては思い出せない様な過去や想像もしたことの無い未来と同じく、遠くぼんやりとした、霞み掛かった沈黙に包まれたものどもでしかなかった。私は一度だけ半ば振り返ったが、何がそんなに嬉しいのか華々しく散開する白い羽根と、痙攣した様にひくつく、地面に蹲った黒い影の他は、何も見えなかった。

 それから十分か、十五分程も歩いたことだろうか、不意に、あの烏と鳩は、共に私だと云う直観が閃いた。疲れて、些かならずげんなりしていた私は、それを自分の頭の中に押し込めて分析するのに数瞬持て余して当惑したが、長年の習慣で私の思考に刻まれてしまった轍の跡が、直ぐにどう云うことなのかを教えてくれた。それらは世界が私の(、、)世界であり、全て私の視野の内に収まっていると云うて点に於て、私と同一であった。そしてそれらは、そうした私の(、、)世界の外部に存在している世界に於て、私と同じ根を共有していると云う点に於ても、私と同一であった。そしてそれらは私と同室の世界の中には存在していないと云う点に於ては私とは異質なものではあったが、私が私と成る為の情報をそれらが提供し、それらがそれらと成る為の情報を私が提供していると云う意味に於て、相補的に我々は同一であった。我々は不可分のシステムであり、組織であった。複雑に絡み合った有機体であり、離れ難い和音であった。私は世界であり、世界は私でもあり、世界はそれらでもあった。私はつい先刻殺されたのであり、つい先刻殺したのでもあった。私はその殺戮を見ていたし、全く何も見てはいなかった。部分的に私は白い羽毛でもあったし、全体としてあの血ではないが血を思わせる下卑た赤色だった。今、私は生きていて、殺されてもいたし、殺したものによって腹を膨らませてもいたし、歩いてもいた。或いは私はアスファルトの舗道の上に付着したどす黒い染みでもあった。恐怖が消え去った彼方に、果てし無い荒涼とした地平線が、あらゆるものに対して無差別に、無関心に、時間も空間も没し去って、伸びていた。

 私は焦点の合わない儘鏡を見る時の様に己の内面を覗き見ようとして果たせず、合わせ鏡の様に無限に続く平板な深淵に眩暈を憶え乍ら、世界に線を引こうと試みた。何でも良い、あれ(、、)これ(、、)との境目をはっきりさせて、恐怖をこの界域に呼び込み、全てを〈原理〉の統一の下に整理し直そうと思ったのだ。私は暫く立ち止まって自分でも良く解らない芝居染みた仕種で何か言おうと口を開いた。だが何も言葉も出ては来なかった。私の胸の肉を乱暴に喰い千切る真っ黒い目が私を覗き込んでいた。

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