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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

戦国家族

作者: 小城

 その人を知る方法には二つの方法がある。ひとつはその人、個人を知ることである。そしてもうひとつはその人の関係を知ることである。前者はその個人を深く知ることができる。後者は社会や人間関係の中でのその人という存在を明らかにしてくれる。典型的な例としては、組織と個人、家族とその一人という関係だろうか。これらの中には、どちらにも自己という個人とその集団としての個人のどちらも存在しており、それは、日々、葛藤を繰り返すが、けっして、ふたつに分かれることはなく、どちらも重要で、どちらもなくてはその人は成り立たない。


お船

せんは、1557年。上杉謙信の右腕とも言われた武将。直江景綱の娘として生まれた。

「父様。」

景綱には男子がいなかった。お船は直江の一族や家中の子どもたちと育った。

「お船。」

合戦から帰国した景綱が、青い草原が広がる越後の直江屋敷の前で、お船を抱き抱えたまま、屋敷へと入っていく。

 この頃の上杉家の当主は輝虎(謙信)であった。律儀な彼は天下布武などには興味がなかったのか、当時、もっぱらやっていたことといえば、他の大名からの要請による出兵か、領内の反乱の鎮圧ぐらいであった。そのため、比較的、越後領内は安定していた。直江景綱はそんな当主の政務役として勤めることが多かった。上杉家中では、直江家は最大規模の家門であった。

本与板城下の直江屋敷での生活は特に不自由ということはなかった。侍女や乳母たちとお船は暮らしていた。お船は景綱の49歳の時の子どもである。母は幼くして亡くなった。兄姉たちも小さくして亡くなっていた。父の子の中で残ったのはお船一人だけであった。それだけ、お船は直江景綱にとっては、箱入り娘で大切な存在であった。

「つまらない。」

手習いの稽古が終わった後、齢十を越えたお船は思った。子どもの一人歩きは危険であるし、父や乳母や侍女たちはお船が遠くへ行くことがないように気をつけていた。

「遠くへ行ってみたいなあ。」

屋敷の寝屋の中で、昼間取ってきたねこじゃらしを振りながらお船は思っていた。

 あるとき、直江景綱はお船を伴い春日山城へ行った。お船は輿に揺られながら道を行く。道行く時々、お船は乗り物から簾を上げて外を見ていた。そこには越後の海が広がっている。

「直江大和守推参にござりまする。」

「よく参ったな。景綱。」

「勿体なくございます。」

お船と景綱の二人は、上杉家当主、輝虎の前にいた。輝虎44歳。

「その娘御か。」

「はい。」

お船は景綱に言われて顔を上げた。お船16歳。

「直江大和守の娘。お船にございます。」

「上杉不識庵謙信にござる。」

お船の前にいた上杉家当主は、袈裟を着て、頭巾を被っている。当主の顔は丸く穏やかであった。お船も謙信の噂は家中の侍や侍女たちから聞いていた。

「(母親のような感じ。)」

お船には母親の記憶はなかった。しかし、世間一般の母親のイメージ。それを上杉謙信は持っているようだった。

「私の顔に何かついているか?」

「いえ。乳母のお篠のようだと思ってしまって。」

「そんなに似ているのか?」

謙信は大和守の方を見た。

「滅相もございませぬ。ところで、御館様…。」

「ああ。そうか。大和守よ。今日は城に泊まっていけ。部屋は用意してある。」

「は。」

そう告げると謙信は奥へ引き下がってしまった。

春日山城の直江屋敷で景綱とお船は夕餉を食べていた。

「御館様とお篠が似ているのか?」

「そう見えたのだから仕方ありません。」

「左様か…。まあ、あまり、滅多なことは口にするまい。」

「はい…。」

夕餉を済ませたあと、お船は渡り廊下から月を見ていた。

「(本与板から見る月と一緒。)」

そのことになぜか安心していた。

「お船様。」

一緒に来た侍女が静かにやってきた。

「御館様がお呼びにございます。大和守様にはお気づかれないように入り口まで来られよと。」

「御館様が?」

お船は足音で気付かれないようにそっと入り口まで行った。

「すまぬな。こんな夜更けに。」

夜更けというほどではないが、気を遣ったのだろう。

「大和守にはこれを渡しておいてくれ。」

謙信はお船についてきた侍女に手紙を渡した。

「お船。参るぞ。」

「どこへ行かれますか?」

「城の本丸よ。」

謙信とお船は春日山の夜道を歩いて行く。

「歩けるか。」

「平気にございます。」

「そなたは強いのだな。」

謙信とは不思議な人物であった。一緒に歩いていても威圧感というものがない。

「御館様は戦がお強いといいますが…?」

「大和守がそう言ったのか?」

「家中の皆が申しております。」

「そこ、段違いになっておる故、気をつけよ。」

「あっ…?はい。ありがとうございます。」

謙信はゆっくりと歩を進めてくれているようだった。

「戦が強いのは、私ではないよ。家中の侍たちだ。」

「御館様は軍神の生き写しだと申されてます。」

「若い頃はそうだったが、今はただの謙信よ。もうすぐだ。」

本丸には御殿が建てられていた。

「今宵は月がきれいだな。」

謙信は、どこかから壺と杯を運んで来て、御殿の縁に腰を据えた。

「お船もここに座わるがいい。」

謙信は酒を飲んでいた。お船は謙信の隣に座った。きれいな半月が出ていた。

「きれい。」

「そうだな。」

謙信は酒を飲み続けている。

「そんなにお飲みになり、帰りは大丈夫なのでしょうか?」

「私はここで寝るから大丈夫だ。」

「御冗談を。」

お船は笑ってしまった。

「ところでお船よ。本題なのだが。お主、何故、城まで連れて来られたか知っておるのか?」

「御館様への御挨拶にございます。」

「大和守。やはり伝えていなかったか。あやつ、一人娘が怖くてならぬということか。」

「何のことでしょうか?」

相変わらず謙信は酒を飲み続けている。相当の量を飲んだはずだが、様子が変わる気配もない。

「大和守が私に頼んだのは、お船の婿の話だ。」

「婿?」

「大和守にはお船以外の子がおらぬから、どこかから婿を見つけて、直江家の跡取りとしないといけない。」

婿。お船には初めてのことである。春日山へ来たのも、初めてだったし、上杉家当主に会ったのも初めてだったし、春日山のてっぺんからこうして月を見て話をするのも初めてだった。

「私に婿ですか…?」

「うれしくはなかろうかな…。まあ、しかし、直江の家がなくなるのも私にとってはつらい。」

「はあ。」

お船はただ聞くだけであった。

「なのでな、せめて、お主がどのような男が良いのか尋ねておきたくてな。」

「それで、ここまで呼んだのですか?」

「そうだ。」

変わった人だなと思った。それとも、一国の主というのは皆、このような者なのだろうか。

「好きな男はいるのか?」

「いえ。」

小さい頃に遊んでいた男の子たちはいたが、そんなことを考えたこともなかった。男と言われて思いつく者、それは、父直江景綱と…。

「御館様…。」

「私か…?私は婿にはやれないよ。」

杯に満たされた酒を一息に呑む。

「私は男ではないのだ。」

「御館様が?」

「うむ。」

「女子なのですか?」

「女子でもないな。」

男、女。そんな言葉がお船の中ではどうでも良い概念になっていた。

「好きな人が良いです。」

「でも、好きな者はいないのだろう。」

謙信は杯を置いた。どうやら壺が空になったらしい。

「大丈夫でございますか?」

「大丈夫だ。」

謙信はそのままごろんと横になった。

「婿は私に任せよ。」

「はい。」

お船は婿のことより、このあとのことが心配であった。

「(まさか本当にここで眠るつもりなのかな…?)」

おもしろさを通り越して不安になって来た。

「御館様~!お船~!」

「父様。」

直江景綱の声であった。従者数人とともにやってきた。

「無事だったか。」

「大和守。持って来たか?」

「はい。ただいま。」

直江景綱に言われて、従者たちが寝具を奥に運んでいた。

「あとは頼んだぞ。」

そういうと謙信は奥へと消えていった。

従者を残して、お船は景綱と山を降りていった。

「お船。すまなかった。婿養子のことを黙っていて。」

帰り際、直江景綱はお船に謝った。

「いいえ。御館様が良い婿を見つけて下さるとおっしゃっておりました。」

「それは良かった。」

父を心配させるまいと、そう言ったが内心はまだ見ぬ婿のことが心配だった。


長尾景孝

 翌年の春。お船に婿が来た。名は長尾景孝。上野国総社長尾家の一族である。上野国に武田信玄が侵攻して、総社長尾家の居城蒼海城も落城し、一族は越後の上杉謙信のもとに避難していた。

「大和守、お船いるかな。」

あるとき、上杉謙信自らが馬に乗って、本与板の直江屋敷まで来たことがあった。

「婿を連れて来たよ。」

「総社長尾顕景の子、右衛門佐景孝にございます。」

お船と同じ年頃の男子であった。

「大和守と私から一字づつ取って、信綱が良いかな。これからは直江信綱を名乗ると良い。」

その翌月、春日山の直江屋敷で略式の婚儀が行われた。謙信らは関東へ出兵しており、不在だった。

「お船にございます。ふつつか者ではありますが、末永く宜しく御願い致します。」

「長尾景孝改め、直江信綱にござる。拙者こそ、謙信公の右腕と言われる直江の家を継がせて頂き光栄にございます。」

信綱は物腰の低い若者であった。総社長尾家は謙信の一門衆とはいえ、今は亡国の一族である。関東は騒乱も多いと聞く。苦労も耐えなかったのではないだろうか。

 信綱は景綱に就いて城中へ出仕し政務に励んだ。

「直江の家は、上杉家の政務や外交を担っている。その職責は重い。」

「承知仕りました。」

謙信の関東出兵中は景綱と信綱の二人は春日山の屋敷で過ごすことが多かった。

「お船、今、帰った。」

直江景綱と信綱が戻って来た。この頃、直江屋敷は本与板から与板へ移っていた。

「お船。この屋敷にも慣れたか。」

「ええ。」

景綱と信綱の二人は与板の屋敷に来るのは初めてであった。

「お船殿。お久しぶりです。」

信綱はお船のことをお船殿と呼んでいた。

「信綱様もお元気そうで何よりにございます。」

その日の晩、三人は夕餉を共にした。景綱と信綱は酒を嗜んでいる。お船も父子が集まったときには共に酒を嗜んだ。

「関東の兵乱も収まりつつある今、御館様は上洛の兵をお出しするつもりらしい。」

「上洛というと京ですか?」

「左様。長年、対立してきた、本願寺や武田とも和睦した今、当面の敵は織田信長になるだろう。」

「父様は、京へ参られたことがお有りなのでしたよね。」

お船が生まれる前のことである。

「お船殿は京へ行ってみたいのですか?」

「一度、将軍様や帝様にお会いしてみたいです。でも…。」

「でも、何ですか?」

「越後を離れるのも嫌です。」

「ふふ、お船殿らしい。」

「あっ…。笑いましたね。」

「これは失礼…。」

平和な時間が過ぎていた。お船はこの時間がいつまでも続いて欲しいと思う。

「上洛したときは、御館様が大変でな。毎晩のように、若衆を集めては酒盛りをしていたものだ。」

いつか、謙信はお船に、自分は男でも女でもないと言った。

「父様。御館様とは一体、何者なのでございましょうか?」

「は?」

「以前、春日山の頂きで、御館様は『自分は男でも女でもない。』とおっしゃっておりました。」

「御館様がな…。」

「それならば御館様は何者なのですか?」

お船は少し酔っていたようである。

「ふふ。お船殿、お船殿がお船殿であるように、御館様は御館様なのですよ。」

信綱が酔ったお船を嗜めるように言った。

「あっ…。また笑いましたね。」

「これは失礼。ふふ。」

お船がお船であるように御館様は御館様。信綱のその言葉に、お船は妙に納得してしまった。


上杉景勝

 翌年。上杉家は上洛を目指した。手始めに能登国を攻めた。直江景綱は正月より、病に伏せり、政務は代わりに信綱がこなしていた。お船は与板の直江屋敷で父の看病をしていた。

「父様。御加減はどうですか?」

「お船か…。」

景綱は日に日に痩せていくようであった。

「お船。わしはもう長くは持つまい。」

「そんなことを言わないで下さい。」

「お船。わしが亡きあとは、信綱殿と共に、御館様にお仕えするのだ。」

「はい。」

「もし、御館様にもしものことがあったときは、景勝様にお仕えするのだ。」

「景勝様?」

「信綱殿にも伝えてあるが、このことは他言無用だ。」

「承知しました。」


あるとき、直江屋敷に見舞いと称して、一人の若者が現れたことがあった。

「御無礼仕ります。直江大和守様の御見舞いに推参致しました。」

謙信の姉の子であるというその若者はお船と同じ年頃ではあった。

「(御館様とはあまり似ていない。)」

そんな印象を受けた。春日山城で会った謙信は柔和な感じがしたが、この若者は剛勇な若武者という感じだった。

「直江大和守の娘。お船に御座います。この度は父景綱の病気見舞いに足をお運び下さり、有難く存じます。父景綱に代わり、御礼申し上げまする。」

「丁寧な御挨拶痛み入ります。」

景勝は景綱とひとしきり話をしたあと、見舞いの品を置いて去っていった。


「(あの方が、次の御館様…。)」

お船は、上杉景勝もそうであったが、その横にいた少し年若い侍のことが気になっていた。

「(信綱様に似ている。)」

直江信綱が屋敷に帰って来たとき、そのことを話した。

「景勝様の隣にいた若侍?」

信綱は頭を捻って考えていた。

「御小姓衆の一人だとは思うが…。」

「信綱様に似ていました。」

「私に?」

「ええ。どこか柔和な感じが。」

「思いあたらぬな。」

話はそれきりになってしまった。

3月。直江景綱が没した。齢69歳。葬儀には謙信ら上杉家中の士が皆参列した。その中には、上杉景勝とあの若侍の姿があった。葬儀の後、直江信綱は正式に直江家の家督を継ぐことになった。

「略式の婚儀しかやっていなかったのか。」

謙信はそれを聞き、家中の士を集めて、信綱の家督相続とお船との婚姻を家中に知らしめて正式な婚儀を開いた。

「某が亡くなりましたら四十九日を待たず、娘お船の婚儀を執り仕切り致したく御願い仕る。」

それが、直江景綱の遺言でもあった。婚儀の場には、景綱の位牌が一緒に置いてあった。


御館の乱

 景綱没後、正式に直江の家督を継いだ信綱とお船は一倍忙しくなったように思う。信綱も上杉家中の直江家当主として、お船も直江家の大方様として重なる諸用に追われて、こなす日々であった。そして、残念なことに、その翌年には、上杉謙信が急死した。脳溢血と言われる。謙信没後の上杉家はその翌日より、家督相続を巡って、謙信の姉の子である上杉景勝と北条家からの養子で謙信の義理の甥にあたる上杉景虎との間に家臣が別れての内紛に突入した。『御館おたての乱』という。

「お船殿。直江家は亡き義父上の遺言通り、景勝様につきます。」

「承知致しました。」

越後は戦乱となった。景勝が春日山城本丸に、景虎が春日山城三の丸に籠もると、信綱は近臣を連れて春日山城の直江屋敷に籠もることになった。

「与板はお船殿に任せる。」

与板城にはお船ら一族の者と与板衆が籠もった。

「(嫌だなあ。)」

与板城に籠もったお船は思った。上杉家中が別れて戦っていくのは、自分の育った家が分裂していくようで悲しいのか、寂しいのか、とりあえずも嫌なことであった。与板衆は他の景勝派の城主たちと、景虎派の武将が籠もる近隣の栃尾城を攻めに行った。

「御武運をお祈りしております。」

出陣して行く与板衆を見送った。その後、直江信綱から手紙が届いた。

「(この人は…。)」

信綱からの手紙を持って来たのは、いつか景勝の隣にいた若侍であった。手紙には上杉景虎が春日山城を退去し、五智の御館に籠もったということやお船や与板城の者たちを気遣う言葉が書いてあった。

「信綱様はご無事でございますか?」

「御息災にされております。奥方殿からの手紙があれば私が持参致しますが?」

「お待ち下さい。」

使者には屋敷へ上がってもらうことにした。

「失礼ながら御名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」

「これは失礼しました。景勝公の近侍を勤めております。樋口兼続と申します。」

少しの間、兼続には居間で待ってもらった。

「(こちらはお変わりもなく…かしこ。お船。)」

信綱への手紙をしたため終わるとそれを兼続に渡した。

「それでは。失礼仕ります。」

与板城には栃尾城攻めで傷ついた兵たちが運ばれてきた。お船は井戸から水を汲んできて彼らの傷を洗ったり、侍女たちと傷の手当てをしたりした。

「(こんなに傷ついて可哀想…。)」

兵の中にはお船と同じ年頃やそれより若い者もいた。お船は月の物で具合が優れない日もあったが、そのときもせめて傷病人の見舞いだけはした。それは、直江家の大方様としての振る舞いであった。

「(早く戦が終わらないかしら…。)」

お船はそう思いつつ、日々を過ごしていた。

 御館の乱は翌年の春に景虎の籠もる五智の御館が落城し、ようやく終息に向かった。その間、約1年であった。

 乱終息後、上杉景勝は武田家から姫を室に迎えて同盟を結ぶことになった。姫の名は菊姫。武田家当主武田勝頼の異母妹であった。1579年の夏。景勝と菊姫の婚儀が執り行われた。

「お船殿。戻りました。」

「信綱様。お帰りなさいませ。」

五智の御館が焼け落ちて後、直江信綱が与板城へ戻ってきたときがあった。お船と信綱の二人は久方ぶりに夕餉を共にした。

「景虎公は自害遊ばされたが、越後にはまだ景勝公に反旗を翻す者が多くいる。」

近隣の栃尾城の本庄秀綱もまだ城に籠もって抵抗している。栃尾城は上杉家の武将が取り囲んでいた。

「戦はまだ続くのですか?」

お船と信綱の二人は酒を嗜んでいる。

「しばらくは治まらないでしょう。私も当分は春日山城で景勝様の補佐をしなければなりません。」

「菊姫様にはお会いなされましたか?」

「婚儀の席で見たよ。」

「どんなお方でしたか?」

乱の鎮圧もあり、景勝と菊姫の婚儀は略式で執り行われたので、お船は立ち会っていなかった。

「どんな方と言われてもなあ…。」

信綱は香の物をこりこりと噛みながら考えていた。

「菊姫様はお船殿に似ていました。」

「私にですか?」

「年の頃も、お船殿くらいでしょう。あとは見目華やかで、可憐なところも似ていた。」

「からかっているのですか。」

「ははは。御冗談を。」

「(よかった。)」

お船の心の中は安堵感で満ちていた。父が亡くなり、その翌年には戦が始まってしまった。そのまま、平穏な日々は失われてしまうのではないかという気持ちがどこかにあった。しかし、今、またこうして、夫と二人で夕餉を囲む刻が戻った。お船にとって、それは幸せなこと以外の何物でもなかった。

「そういえば樋口兼続殿に会ったようだな。」

「ええ。」

「お船殿が言っていた人は樋口殿のことであったのだな。樋口殿と私が似ていますか?」

「そうですね。背格好や年格好もそうですが、あとはお優しいところと、物腰低く丁寧なところとか。」

「…御冗談を。」

「そうやって、照れてしまわれるところもそっくりでございます。」

「お船殿は、酒に酔ってしまわれたらしい…。」

永遠にこの刻が続いて欲しい。お船はそう思っていた。


樋口兼続

 五智の御館が陥落した翌年。直江信綱が与板城へ客を伴い来たことがあった。

「お船殿。客人をお連れしました。」

「失礼仕ります。」

客人は樋口兼続であった。この頃、信綱と兼続は景勝の側近として親しく付き合いをするようになっていた。

信綱と兼続は酒を共にした。今日はお船は飲酒は控えていた。

「お船殿は、私と兼続殿が似ていると申すのですよ。」

「左様ですか…。」

お船は信綱の隣にいた。

「信綱様。余り余計なことはおっしゃらないように…。」

「これは失礼。」

信綱は直江津で獲れた魚を食っていた。

「奥方様は何故、某が信綱様に似ていると思われるのですか?」

兼続はお船の顔を真っ直ぐに見つめた。

「それは…。」

兼続の真面目さにお船は言葉に詰まってしまった。

「お船殿は、兼続殿の丁寧で物腰柔らかなところが私に似ていると言うのですよ。」

「左様ですか…。」

兼続は香の物をこりこりと噛んだ。そうして考え事をしているようだった。

「(この人も同じ癖…。)」

それは信綱も同じ癖があった。しかし、気付いているのはお船のみであるようである。

「それはおそらくは、上杉家の家風ではないでしょうか。信綱様も謙信公に小姓としてお仕えしたと聞きますし、私も景勝公にお仕えしておりましたので。」

「でも、物腰丁寧ではないお方はたくさんおりますよ…。あっ。申し訳ありません。」

お船は恥ずかしくなって顔を伏せた。

「ははは。お船殿。余り余計なことはおっしゃらないように。」

「すみません。」

客人の兼続の反応が気になりちらと見てみた。

「奥方様はおもしろいお方だ。」

兼続は少し頬を上げて笑っていた。

「(笑い方も似ている。)」

お船は心の中で一人感じていた。

 その翌年。直江信綱が亡くなった。

「(なんで…。)」

春日山城内で家老の山崎秀仙と話をしている最中に、毛利広秀が秀仙を襲撃し、その巻き添えで斬り合いの末に亡くなった。御館の乱の恩賞問題から来る遺恨であった。お船はそのことを与板城で知った。すぐに春日山城へ向かった。信綱の亡骸と対面することになった。

「信綱様…。」

突然のことに、お船はその場に倒れこんだ。

「奥方様。お気を確かに。」

樋口兼続がお船を支えていた。お船は直江家の大方様として夫の旅路を見送らねばならなかった。

葬儀がすぐに執り行われた。当主上杉景勝や菊姫も参列した。

「大方殿。誠、済まぬ。」

上杉家当主景勝がお船にそう言った。

「私が至らぬばかりにこのような由々しき事が起こってしまったのだ。」

このお船と変わらない年頃の当主は深く頭を下げた。

「御館様。頭をお上げ下さいませ。夫信綱は立派な最期を遂げました。」

直江信綱は山崎秀仙に斬りかかった毛利広秀と斬り合いの末に倒れた。毛利広秀は他の侍に討ち取られたが、傷を負った信綱はそのまま帰らぬ人となった。信綱とお船の間には子がなかった。

「直江家をこのままにはせぬ。私に任せてくれ。」

当主はそう言って後にした。

「(私に任せよ。)」

春日山の頂でかつて、謙信がお船にそう言ったのを微かに覚えていた。景勝は謙信の姉の子であるらしいが、やはり謙信に似るところはあるのだろうか。それともそれは上杉家の当主という役目がそうさせるのだろうか。

「(私は誰に似ているのだろうか…。)」

「(菊姫様はお船殿に似ていました。)」

信綱のそんな言葉を思い出した。

「(菊姫様…?)」

景勝の後を行く菊姫の姿が見えた。

「(私と菊姫様が似ている…?)」

上杉家中で甲斐御寮人と呼ばれるこの姫は、武田信玄の娘だという。武田信玄の死を知ったとき、謙信は嘆き悲しみ、喪中として家中での音楽を3日間停止させたという。そんな謙信の宿敵の娘は今、越後で上杉家の姫として暮らしている。

「(菊姫様も本当は寂しいのかもしれない…。)」

「奥方様。」

樋口兼続であった。

「信綱様は御立派であられました。御冥福をお祈り申し上げまする。何かあればこの兼続に申し付けられませ。」

お船より3つ年下の若者はそう言って去っていった。

 葬儀の翌日、お船は春日山城の景勝の前に呼ばれた。

「大方殿。矢継ぎ早で済まぬが、話がある。直江家の今後のことだ。」

直江家は上杉家にとっても役目上重要な家柄であり、このまま断絶させるのは苦しかった。

「大方殿には改めて婿養子を迎えてもらい、直江の家を存続させていってもらいたい。」

「はい。」

それはお船にとっては辛いことであった。信綱の死の悲しみが癒えていない矢先に新たな婿を取れという。しかし、それは上杉家中の直江家の大方として仕方がないことであるのはお船も重々承知していた。

「なので、大方殿にはこれまで通り与板の城に詰めていてもらいたい。」

景勝の言葉は以上であった。葬儀と信綱の供養が終わり、お船は与板城へと戻った。

「御位牌が増えてしまいました。」

屋敷の仏壇には父景綱のものと夫信綱のもの、二つが並んでいた。

 お船は涙を流した。泣いた。永遠に続いて欲しいと思っていた刻はもう二度と戻ることはない。そう思うと心が遣る瀬なく、耐えられなかった。

 与板へ戻って10日ほど経った頃、訪問客があった。上杉景勝と樋口兼続だった。

「(あのときと同じ。)」

直江景綱の見舞いに来たときである。

「上がらせてもらってもよろしいかな。」

二人は居間へ上がった。

「この前の話は覚えていて下さるかな。」

「婿養子の話にございますか?」

「左様。」

少し間が空いた。

「聞けば、大方殿と兼続とは顔見知りらしいの。」

「信綱様と懇意にして頂いておりました。」

「婿はこの兼続にしようかと思うておる。」

「兼続様が…?」

お船の体を何故かふわっとした感覚が襲った。

「兼続は今、奉行にも任じておって、その役目に恥じぬ働きをしておる。彼の者ならばきっと直江家の重責にも恥じぬと思う。」

「…。」

お船の体はまだふわっとした感覚から抜け出せないでいた。

「嫌か…?」

「私は…。滅相もありません。兼続様ならきっとの父景綱や夫信綱も喜んで下さるでしょう。」

「ならば決まりじゃな。」

景勝は安堵の表情で屋敷を後にした。その間、兼続は一言たりとも話をすることはなかった。

 その日の夜、再び訪問客があった。

「御免。」

兼続であった。

「昼間は景勝様の御前故、申せませんでしたが…。」

「はい。」

お船は兼続の顔をじっと見つめていた。その顔は凛凛しい若武者のものであった。

「その…。大方様は本当に某でよろしいのですかな…?」

「はい…?」

兼続は自分で言っていて恥ずかしいのか顔を横に向けたり咳払いをしたりしていた。

「ですから、その本当に私などを婿に迎えてもいいのでしょうかと思いまして…。」

「兼続様は嫌でございますか?」

「そんな…、滅相も御座らぬ。」

「ならば私も構いませぬ。」

兼続はお船の目をじっと見つめた。そこからはお船の意思を感じた。直江家の大方として、一人の女として、一人のお船としての。兼続はこれ以上、聞くのは無粋であると悟った。

「承知仕りました。この兼続。直江家と大方様の名に恥じぬよう精一杯勤めまする。」

兼続は深々と頭を下げた。

「こちらこそ宜しく御願い致します。」

お船も同じように頭を下げた。

「(あのときと同じだ…。)」

信綱が長尾景孝と名乗っていた頃、謙信と一緒に直江屋敷に来て、同じように頭を下げていた。

「(やはり、この方と信綱様は似ていられる。)」

何故かお船の目には涙がこぼれて来て、畳を濡らしていた。それに気がついたのか兼続は挨拶をしてその場を去っていった。

 翌月、お船と兼続の婚儀が執り行われた。樋口兼続は直江家の家督を継いで、名を直江兼続と改めた。お船25歳。兼続22歳であった。


菊姫

 年が変わり1582年。菊姫の実家、武田家が滅亡して間もなく、京都本能寺で織田信長も没した。世の情勢は混沌としていた。

 直江家を継ぎ、与板城主となった兼続は、その後、上杉景勝の家老を勤め、上杉家の内政と外交のほとんどを担うようになった。

「お船殿。実はお願いがございます。」

兼続もいつのまにか、お船のことを『お船殿』と呼ぶようになっていた。

「春日山城に出仕して菊姫様の側に仕えてもらいたいのです。」

「私がですか?」

「景勝公直々のお願いなのです。」

お船は菊姫の侍女として、春日山城に出仕することになった。

「大方殿。久方ぶりだな。」

「御館様にあっては御息災な様で何よりにございます。」

「今日は、そなたたちに頼み事があってな。」

お船の隣には兼続がいた。

「そなたら夫婦に養子をもらって欲しいのだ。」

「景勝公。養子でございますか。」

「まあ、養子と言っても直江の家を継ぐことはない。その子はいずれ、寺に預けるつもりなのだが。今しばらくの間は、まだ家中にいることになる。」

景勝は言葉を濁したようだった。

「隠し立てをしても仕方がない。すべてを話すこともままならぬのだが、その子は甲斐から来たのだ。」

甲斐。菊姫の故郷で武田家が滅亡した国である。

「(武田勝頼公の遺児か、その一門の子か…。)」

聡明な兼続は悟った。お船もそのことは分かったようである。

「承知仕りました。」

お船と兼続は御前を後にした。

その子の名前は清宗丸せいしゅうまると言った。齢9歳になる。今は菊姫のところにいる。それもあり、お船を菊姫の側仕えにしたのであろう。

「お船にございます。」

「菊と申します。」

対面するのは初めてであった。

「清宗丸の養育を受けてくれたことまことに感謝致します。」

「滅相もありませぬ。」

菊姫の隣には清宗丸がいた。

「お清様。御挨拶致しませ。」

「清宗丸にございます。」

聡明な子である。

「お船にございます。」

「お船殿がこれからお清様の養母となられます故。」

菊姫が言った。

「宜しく御願い致します。母上。」

「はい。(母上か…。)」

それからお船とお清の生活が始まった。

「母上のお生まれはどこでしょうか?」

「越後の与板というところですよ。お清様はどこでございます?」

「越後にございます。」

この聡明な子は自分の立場や生い立ちのことが分かっているのだろう。そして、自分の行く先のことも。

「お清様はお偉いですね。」

「母上あれは何ですか?」

城からは越後の海が見えた。甲斐には海がなかった。

「越後の海にございます。」

「どこに続いているのですか?」

「どこまでも続いております。」

お清は海をずっと眺めていた。

「お船殿は見目麗しく美しくあられるな。」

あるとき菊姫が言った。

「奥方様も十分お綺麗にございます。」

「ふふ。お船殿はおもしろいの。」

自嘲なのか何なのか。菊姫の顔は悲しげに見えた。甲斐の武田家は滅亡して一門がほとんどいなくなった。菊姫の身近にいるのは甲斐から連れてきた侍女数名と清宗丸ぐらいだった。

「(可哀想なお方だ…。)」

お船にも身内や肉親はほとんどいない。ただ直江の家は滅びたわけではなかった。滅びかけたが、景勝や兼続に救われたというところだろうか。そういうところはお船と菊姫は似ていた。

「海を見に行きませんか?」

春日山から直江津までそれほどかからない。お船は清宗丸にも海を見せたかった。数日後、侍女たちと共に菊姫、清宗丸らは直江津まで出掛けることになった。景勝から警固の侍も付き従っていた。

 一刻ほどで直江津についた。直江津は上杉家の外港であり、荷の集積場所でもあった。

「広いの…。海は…。」

菊姫は間近で海を見てその感情を和歌に閉じ込めておきたいようであった。

「広いですね。母上。」

「広いですね。」

お船と清宗丸は並んで海を行き交う船の姿を見ていた。

「お船殿。」

「兼続様。」

「直江津でお役目がありまして。こちらが…。」

兼続はお船の隣にいる少年に目をやった。お船は小さく頷いた。

「清宗丸様。某、上杉家で家老を勤めております。直江兼続と申し上げます。」

「私の夫であり、あなたの父になる人です。」

お船が付け加えた。

「清宗丸にございます。父上。」

「父上…。は。宜しく御願い致します。」

菊姫にも挨拶をして、兼続は役目に戻っていった。

一刻ほど直江津で過ごしたあと一同は春日山城へと帰った。

「お船殿。今日は楽しかった。御礼申し上げる。」

「とんでもございませぬ。」

「これからも宜しくお頼みします。」

翌年、清宗丸は昼はお船の出仕とともに菊姫の御殿で、夜はお船とともに春日山の直江屋敷で暮らすことになった。この年、上杉家は羽柴秀吉という男の味方をすることに決めた。

「羽柴筑前守とはどんなお方なのですか?」

清宗丸もいるので、近頃はお船も兼続も酒を嗜むのを止めている。

「織田家で主君の敵を討った者です。」

「偉い方なのでございましょう。」

「もとは足軽の出と聞き及びましたが。」

「はあ。」

足軽の出身と言われてもぴんと来なかった。

「頭の賢いお方らしいです。」

「へえ…。」

「ご馳走様にございます。」

清宗丸が食べ終わった。

「某、書を読んで参ります。」

清宗丸は、最近、和漢の書を嗜んでいる。分からないところはお船や兼続に聞きに来る。

「清宗丸様ですが、来年には京の高野山へ預けるとのことです。」

「来年にございますか。」

「父上。ここは何と読みますか。」

書を持って清宗丸がやって来た。

「はい。これはですね。お待ち下され。」

兼続は清宗丸についていった。

「(私はなんて幸せなのだろう。)」

そんな感情が溢れてくる。直江信綱が亡くなったときは、もう二度と幸せな刻を取り戻すことはできないと思っていた。しかし、今はこうして、兼続と清宗丸に囲まれている。それは何よりの幸せであった。

「(これもお二人が見守ってくれているおかげです。)」

お船は景綱と信綱の位牌に向かって手を合わせた。

 年が明けて、春が来た頃、清宗丸は景勝の家臣たちに連れられて高野山に向かって旅立った。

「父上。有難う御座いました。」

「清宗丸様。何卒、御息災に。」

兼続が見送る。

「母上も有難う御座いました。」

「清宗丸様。」

お船は清宗丸を優しく抱きしめた。お船は清宗丸を我が子のように可愛がっていた。

「清宗丸は、父上と母上の子になれてうれしかったです。」

そう言って、12歳の清宗丸は旅立っていった。


羽柴秀吉

 越後では豪族の反乱が完全には収束していなかった。御館の乱の恩賞に不満を持った越後北部の新発田重家が謀叛を起こして3年が経つが未だ抵抗を続けていた。

「新発田殿は強い。」

鎮圧に向かった直江兼続も謙信の下で勇名を馳せた剛将重家の攻勢の前に兵を退かざるを得なかった。

 中央では織田家の内紛に勝利した羽柴秀吉が三河の徳川家康と和睦し、藤原氏以外では異例の関白に就任していた。

「羽柴筑前殿が越中へ大軍を寄越すらしい。」

春日山城の直江屋敷で兼続とお船は夕餉を共にしていた。清宗丸が旅立って以来、この頃はまた二人で酒を嗜むようになった。越中では織田家臣、佐々成政が秀吉に抵抗していた。

「筑前守様は朝廷で関白の位に任じられたとか。」

お船は今も時折、菊姫のもとに出仕している。なので、お船も城中の噂には詳しかった。

「いずれ、上杉家のところへも何かしらの沙汰があるのではないかと思っております。」

このとき、直江兼続は上杉家の内政と外交のほとんどを担当していた。その後、関白秀吉より、佐々成政攻めに上杉家も出陣するように沙汰があった。

 その年の夏、秀吉は越中富山城を10万の大軍で包囲。佐々成政は降伏した。

「天下の権は既に決しましたな。」

「うむ。」

上杉景勝と直江兼続は糸魚川に陣を張っていた。しばらくして、陣から少し離れたところにある越水城の須賀盛義からの使者がやって来た。

「秀吉殿が会いたいと申しているそうだ。」

「秀吉殿が?」

景勝と兼続は越水城へと馬を飛ばした。

越水城での会見で、上杉家は羽柴秀吉に臣従することを誓った。

「秀吉公は豪胆であったよ。」

兼続がお船に言った。夕餉の刻である。

「僅かな供回りだけで乗り込んで来られた。」

「それだけ信頼されておりましたのでしょう。」

「秀吉公の臣下の石田治部少輔という方にお会いした。」

「石田様。」

「聞くところ、私と同い年らしいが利発なお方であったよ。」

「兼続様も負けてはおられますまい。」

「私などはまだ若輩者です。」

静かな刻が流れていた。

「そういえば、来年、景勝公と共に上洛することになりました。」

「京へ参られるのですか。」

「何かお土産を買って参ります。」

翌年、6月。上杉景勝と直江兼続は上洛。豊臣となった関白秀吉に謁見した。正式に上杉家は秀吉の臣下となった。

「これを買って来ました。」

「これは綺麗ですね。」

西陣の織物と京扇であった。

「有難う御座います。」

「私はこれです。」

「書物ですか?」

兼続は書櫃から本を取り出した。

「利休居士に茶の湯に招かれました。」

「茶の湯に御座いますか。」

「秀吉公は茶の湯も嗜むそうだよ。」

その後、上杉家は北部の新発田重家への攻撃を本格的に始めた。

 翌年、城を落とされて新発田重家は自刃。6年に渡る新発田の乱は終息した。

 越後平定を果たした上杉家は、新発田の乱終息の翌年、1588年に上杉景勝、直江兼続が再び上洛し、秀吉に挨拶をした。このとき兼続は山城守に叙任された。

「景勝公。少し寄りたいところがありまする。」

「うむ。」

景勝と兼続は高野山に上った。高野山には僧となった清宗丸がいる。このとき15歳であった。

「兼続様。お久しぶりに御座います。」

4年ぶりの再会であった。

「御立派になられましたな。清宗丸様。」

「はい。名を清融と申します。」

清宗丸改め清融は立派に僧としての務めを果たしている様子であった。

「奥方のお船様にもよしなにお伝え下さい。」

景勝、兼続は高野山を後にした。

「戻りました。」

「お帰りなさいませ。」

「母子ともに息災でしたか?」

「ええ。大丈夫でしたよ。」

お船のお腹には新しい命が宿っていた。初めての子であった。

「高野山で清宗丸様にお会いしました。」

「それは、まあ喜ばしいことです。清宗丸様は御息災でしたか?」

「名を清融と改めて立派に務めを果たしておられるそうです。お船殿にもよしなにと申しておられました。」

「それはよかった。」

「そういえば、お腹の子のことを伝えそびれてしまったな。」

「また、お伝えする機会もございますよ。」

お船はお腹の子をさすった。

「お腹に宿った子はこの子が初めてですが、私たちの子は清宗丸様が初めてにございました。」

「左様ですな。」

この年の夏、お船は女の子を出産した。名を菊姫の姉に預かり『お松』とした。


竹松丸

 直江兼続とお船の間にお松が生まれた翌年。景勝とその室である菊姫は京へ上ることになった。

「秀吉公が諸大名の妻子を京に住まわせるように御沙汰されたのです。」

「また家族と離れ離れになってしまわれるのですか…。」

この頃、お船の菊姫への出仕はなくなっていたが、交流は続いていた。甲斐から越後へ、そして一族をなくした菊姫のことをお船は我が事のように思っていた。翌日、お船はお松を伴って菊姫のもとへ行った。

「菊姫様。ご無沙汰しております。」

「お船殿か。お松殿も息災でしたか。」

「はい。お蔭様で元気に育っております。」

「なによりです。」

「菊姫様はこの度、京へ向かわれるとお聞きしました。」

「人質であろう。」

菊姫は扇で顔を隠した。なので、それはどういう感情から言ったものかは分からなかったが、物言いからお船は菊姫の寂しさを感じとった。

「景勝様の正室として仕方ないことです。」

「お船はこの越後から菊姫様の事を思っております。」

「お船殿。明日はお暇ですか?」

「えっ?はい。」

翌日、菊姫はお船とお松を伴って直江津へ出掛けた。

「お船殿。少し寒いでしょうか?」

「いえ。大丈夫です。」

お松はお船の手の中ですやすやと眠っている。

「あれからもう5年は経ちますか…。」

「左様にございますね。」

「あのときは清宗丸様がお船殿の隣にいましたね。」

「そういえば、清宗丸様は高野山で立派に成られておられるそうです。」

「景勝様もそう申されておりました。名を清融と改めたと。」

「京へお着きなされたら是非お会い下さいませ。」

「楽しみですね。」

「はい。」

それから数ヵ月の後、景勝と菊姫一行は京伏見に向かって行った。

 一方の直江兼続はこの頃、上杉家筆頭家老として東奔西走の毎日であった。佐渡平定、小田原征伐、文禄の朝鮮出兵。その合間に京と越後の間を度々往来した。その間、うれしいこともあった。兼続とお船の間に第二子が生まれた。名をお梅と名づけた。

「(どうか兼続様が御無事であるようにお見守り下さい。)」

お船は景綱と信綱に祈った。朝鮮にいる兼続からお船のもとに手紙が届いた。上杉家の陣中で病に倒れる者が多く、近く日本へ帰国するということであった。

「(無事でお戻り下さい。)」

1593年の冬。景勝らは春日山城へ帰国した。

「来年にはまた、京へ戻らねばならない。」

「それまでごゆっくりして下さい。」

二人は久しぶりに夕餉を共にした。

「お松。どうした?」

お松は6歳になっていた。

「父上に甘えたいのでございましょう。」

「そうか。お松。こっちへ来るといい。」

兼続はお松を膝の上に抱えた。

「太閤殿下の唐入りはうまくはいかないでしょう。」

「左様にございますか。」

「あれは無益な戦です。」

朝鮮から帰って来た兼続の表情は少し暗かった。あまり良いこともなかったのであろう。

「太閤殿下には先月、お拾様がお生まれなされましたが、後継には関白秀次公もいられます。」

「お世継争いが起こるのですか?」

上杉謙信が没した後に起こった御館の乱のことが思い出された。

「父上。」

「なんだお松。」

「手習いを教えて欲しいです。」

近頃、お松は手習いの稽古をしていた。

「そうか。では父上が教えて進ぜよう。」

「よかったですね。お松。」

「はい。」

膳を片づけると兼続はお松を連れて行ってしまった。隣ではお梅がすやすやと眠っている。お船はお松の膳を片づけながらこの子らがいつまでも健やかにいられることを願った。

 翌年、春。上杉景勝と直江兼続は京へ上り、伏見城の普請工事に従事した。同時に伏見の上杉屋敷の普請も始めた。

 春日山城ではお船が男子を出産した。京にいる兼続にそのことを手紙で伝えた。

「名は『竹松』が良いのではないかと書いてあります。」

産後のお船は侍女のお春に言った。

「それは良い名にございます。」

お春はお船の乳母お篠の娘であり、お松やお梅の乳母でもあった。子は竹松丸と名づけられた。後の直江景明であった。

「お船殿。兼続にござる。只今、戻りました。」

数日後、兼続が春日山へ戻ってきた。

「普請作業の合間に景勝公に言って帰らせてもらいました。」

「それは、有難いことですね。」

「竹松丸はいずれに?」

「お春のところですよ。」

兼続は飛んで行って、竹松丸と対面した。

「これはこれは。凛々しい顔つきだ。」

「まだ生まれたばかりにございますよ。」

兼続は竹松丸を抱いて戻ってきた。

「わあわあ…。」

「これ竹松丸…。どうしたのだ。」

「ほらこちらへ。」

泣き出した竹松丸をお船が抱えると、またすやすやと眠ってしまった。その寝顔は幸せそうで母の腕の中で眠っていた。

「それでは私は京へ戻ります。」

「もう戻られるのですか?」

「竹松丸の顔を一目見られて十分です。」

「お体にお気をつけ下さい。」

「お船殿も。」

そう言って兼続は越後の青空の下を京へ向けて走っていった。


前田まつ

 竹松丸が生まれて1年経った頃、上杉景勝と直江兼続たちは一度、春日山へ戻って来た。

「今年の暮れには伏見の上杉屋敷が出来ます。」

「それはようございます。」

「出来次第、菊姫様には屋敷に移って頂きます。」

今までは仮の御殿暮らしであった。

「それでですな…。お船殿。」

「なんでございますか?」

「菊姫様なのですが…。近頃、病に伏せることが多くなりまして。」

もともと菊姫は病弱であった。

「お体が優れないのですか?」

「うむ。新しい上杉屋敷にもうまく馴染まれるか分からないと景勝公も心配されておりまして。」

お船には兼続の言わんとしていることがなんとなく分かった。

「お船殿に菊姫様が上杉屋敷に馴染まれるまで側に仕えてほしいのです。」

「それは景勝公の意向にございますか?」

「私の意向でもあります。」

「(兼続様は菊姫様のことが心配なのだろう。)」

お船自身も菊姫のことが心配であった。しかし、お松やお梅、竹松丸のことも心配であった。

「母上。姫様のところへ行ってあげて下さいませ。」

お松が言った。

「お梅や竹松丸のことはお松がちゃんと見ております。」

お松の名づけ親は菊姫であった。姉の名前にあやかって松と名づけた。

「お松も、ちゃんとお春の言うことを聞くのですよ。」

「はい。」

その年の秋。冬が来る前に景勝、兼続そして、お船たちは京へ旅立って行った。

 お船たちが京に到着した頃には上杉屋敷はほとんど完成していた。その隣には城郭とも思われる建物が広がっていた。

「お隣は何の建物でございましょう?」

「前田家の屋敷です。」

前田家は能登、加賀、越中3ヶ国を統べる大名だけあって規模が大きい。

「前田家は太閤殿下の信頼も厚いのです。」

上杉屋敷の中は新築の木材の香りがした。

「私と景勝公は太閤殿下へ挨拶に行って参ります。」

「私は行かなくてもよろしいのですか?」

「お船殿は…。ここにいて下さい。」

兼続の返答には少し間が空いていた。

「ここだけの話なのですが…。太閤殿下は非常に女子好きであって、そのお船殿が目をつけられると困るので…。」

「はあ。」

「それでは行って参ります。」

兼続は急いで行ってしまった。

「お船殿。お久しぶりですね。」

「菊姫様。」

菊姫一行は既に屋敷に入っていた。

「6年振りでしょうか。」

「はい。お体の具合が優れないとお聞きしましたが…。」

「景勝様はいろいろ気を遣ってくれるのですよ。少々私のことで心配性になり過ぎるところもあるのですが。」

「菊姫様のことが御大事なのございましょう。」

「ふふ。聞けばお船殿。越後に幼子を置いたままといいます。この度の上洛も景勝様よりの沙汰なのではないですか…?」

菊姫の顔に曇りが見られた。6年振りに会った菊姫は痩せたようであった。

「私も菊姫様のことが御心配でしたので、私の意向でもあります。幼子はお松がちゃんと見てくれておりますのでご安心下さい。」

お船がそう言うと菊姫はにこっと笑った。その顔は春日山城で見た笑顔と変わらなかった。

「お松は息災ですか。」

「はい。今は手習いの稽古に励んでいます。」

菊姫とお船はその後、二人で思い出話や子どもたちのことを話して刻を過ごした。

「そういえば、私も高野参りをして、清融殿にお会いしました。」

「お元気でしたか。」

「それはお元気そうでしたよ。」

二人が話していると菊姫の侍女がやって来た。

「菊姫様。前田家の大方様がお見えにございます。」

「まつ殿がですか。奥へお通し下さい。」

「(まつ?)」

お船は菊姫とともに前田家の大方と会うことになった。

「おまつ殿。本来ならばこちらから出向かねばなりませぬのに申し訳ありませぬ。」

「お菊殿は体が弱い故、無理をさせたくなくて、こうして私の方から勝手に参った次第です。」

「お心遣い有難とうございます。」

「お菊殿。こちらの御夫人は?」

「景勝殿の御家来衆で上杉家の家老を勤めておられる直江山城守殿の奥方にございます。」

お船は前へ進み出た。

「直江山城守の妻お船にございます。」

「前田筑前の妻のまつです。」

上杉家と前田家は領国を接する間柄である。そのこともあり、常日頃から前田まつは、上杉家の菊姫とはお互い良い関係を築いていた。前田まつは落ち着いた感じの人であった。

「(謙信公のようだ…。)」

かつて、上杉家当主謙信に感じたような安心感があった。

「お船殿はもう太閤殿下にはお会いになりましたか?」

「いいえ。まだにございます。」

「それならばよかった。」

「はい?」

「太閤殿下にお会いになるときは美しい格好や化粧をしていってはなりませんよ。」

「それは何故にございましょう?」

「殿下はたいそうな女子好きで女子癖が悪いのです。目を付けられないように気をつけなされ。」

「承知致しました。」

それを聞いていた菊姫が隣で笑っていた。

「ふふふ。お船殿。それは私もおまつ殿に会って始めに聞いたことです。」

「左様にございますか。」

「今度、北政所様にお会いなされるとよろしい。」

そのような話をして、前田まつは帰っていった。

「菊姫様。北政所様とは誰にございますか?」

「太閤殿下の奥方様のことですよ。」


北政所

 一方、上杉景勝と直江兼続は伏見城で太閤秀吉と対面していた。

「ところで山城よ。この度、其方の正室が上洛したそうだな。」

「はい。(なんという地獄耳だ…。)」

「名は何と申す?」

「お船にございます。」

「美しいのか?」

「滅相もございませぬ。ぷっぷくぷーのこんちんたんにございます。」

「まあよいわ。」

景勝と兼続は伏見城を後にした。

「(油断も隙もない…。)」

上洛する大名武将の妻子のことはすべて把握しているかのようである。

「戻りましてござる。」

屋敷へ帰るとお船は文を書いていた。さっそく春日山へ送るのであろう。

「どうかしましたか?」

「何か変わったことはないですか?」

「前田まつ様にお会いしました。」

「前田の大方様にございますか。」

「太閤殿下にはお気をつけなさいと言われました。」

「さっそく城でお船殿のことを聞かれたよ。」

「兼続様は何とお答えしたのですか?」

「それに関しては済まないことをしたと思っています…。」

兼続はそれ以上言わなかった。

 数日後、菊姫に花参りに誘われた。

「醍醐寺に参りましょう。」

前田まつも来るという。

「お船殿が来てから菊姫様はお元気になられたようだ。」

直江兼続はそう言っていた。

「行って参ります。」

輿で醍醐寺へ行く。連れているのは僅かな供回りだけである。

「醍醐寺は戦乱で荒れていましたが、太閤殿下の帰依の後、再興されたのです。」

菊姫はうれしそうであった。

「菊姫様。あそこに。」

参道の茶屋に前田まつともう一人の女性がいた。

「お菊殿、お船殿。こちらが北政所様にございます。」

「おねにございます。」

太閤秀吉の妻であった。

「北政所様。こちらはお船殿と申します。」

菊姫が紹介した。

「聞き及んでおります。殿下に目をつけられて大変だとか。」

「いえ。太閤殿下にはまだお会いしたことはありませぬ。」

天下人の大方ということでお船はかしこまってしまった。

「この美貌ならば、いつ目をつけられてもおかしくありませぬ。ねえ、おね殿。」

「あの人はしようがない人ですからね。」

そういうと北政所は一通の手紙をお船に渡した。

「これは…?」

「殿下がしつこくつきまとうようなことがあればこれを見せなされ。」

北政所はお船の懐にその手紙をしまった。

「有難く頂戴いたします。」

「では、参りましょう。」

前田まつが先頭を歩いた。まだ、桜には早かったかもしれないが、少しづつ咲き出している花もある。

「あら、きれいな。」

その中で一輪だけ咲き誇っている桜があった。

「本当ですね。」

麗らかな風の中で過ごすこのような刻も良いものだと思った。

 一方、上杉屋敷では、兼続が伏見城の作業場から呼ばれていた。

「わざわざ戻って来なくても良いものを。」

「太閤殿下。この度は何か御用にございますか。」

突然、秀吉が上杉屋敷に現れたのである。

「伏見の川を渡るふねを探しておったのだ。」

「(これはまずい…。)」

お船を見に来たのであろう。太閤秀吉は菊姫が伏見に上洛したときも何度も仮御殿に現れたという。後、景勝公から相談された前田まつと北政所の取りなしで事なきを得たという。

「お船は今日は帰りが遅くなるとのことです。」

「それは良いことを聞いた。ここで待たせてもらおう。」

「(馬鹿なことを言ってしまったわ。)」

直江兼続はすぐにお船に文をしたためた。

「(確か行き先は醍醐寺と言っていたな。)」

「只今、戻りましてございます。」

ちょうどそのとき、菊姫とお船が帰って来た。

「(まずい…。)」

玄関先に行くと、騒ぎを聞きつけた秀吉が先にいた。

「(地獄耳め…。)」

兼続はその場に畏まった。

「其方がお船か。」

「はい。」

相手が太閤秀吉だと聞き、お船も畏まっている。

とりあえず、皆座敷に上がった。

「もう少し顔を上げよ。」

秀吉が盛んに言うが、隣で兼続が必死に首を振っている。

「(私にどうしろと言われるのですか!)」

春の麗らかな風の中で養ってきたお船の心は今は越後の荒海のようになっていた。

「山城守。先ほどから何かしておるのか。」

「とんでもございませぬ。」

「わしはお船に話しておるのだ。さあ顔を上げよ。」

お船はぱっと真正面から秀吉の顔を見た。

「(これが天下人…。)」

太閤秀吉は今年で齢60になるという。

「(まるで鼠のような…。)」

痩せて細った秀吉の顔はそう見えた。かつての主君上杉謙信は柔和であり大きく見えた。今の主君の上杉景勝も剛勇だか大きい。しかし、この天下人秀吉は小さく見えた。もともと小男だったせいもあるのか、かつて、織田信長から秀吉が『禿げ鼠』と言われたことをお船は知らなかっただろうが、奇しくも同じ印象を受けた。

「なかなかの美人だのう。山城。」

「有難く存じます。」

兼続は畏まったままである。

「ときに太閤殿下。」

「なんだ?お船。」

「今日、私たちは醍醐寺へ花参りに出かけましてございます。」

「そうか。そうか。あそこはわしが再興させたのだ。」

「そこで前田まつ様と北政所様にお会い致しました。」

秀吉の表情が変わった。

「おねに会ったと?」

「はい。そして、この手紙を頂きました。」

お船はその内容を見てはいないが、北政所に言われた通り、太閤秀吉にそれを見せた。

「…。」

秀吉はそれを無言で一読している。

「ふははは。まこと女子は恐ろしいものである。」

「(あっ…。)」

そうやって笑った瞬間、お船は太閤秀吉の中の秀吉を見た。

「(この人はこの笑顔と陽気で乱世を乗り越えて来たんだ。)」

そう思った。

「許せ。山城守。わしは帰るぞ。」

「はい。お見送りいたします。」

「無用じゃ。お菊殿もお船殿も邪魔をしたな。山城も妻を大事にせえよ。わしが言えたことでもないがよ。」

そうして太閤秀吉は帰っていった。

「ふう…。」

その場にいる皆の肩の荷が下りた。

「お船殿。あの文には何が書いてあったのでござる…?」

「知りません。」

腹を立てていたお船はそのまま行ってしまった。しばらく兼続はその場にへたっていたという。

 後日、秀吉からは金一袋と絹一反が届いた。


石田三成

 ある日、上杉屋敷に一人の客人が訪れた。

「石田治部少輔にござる。」

「景勝公は城からお戻りなされておりませんが。」

お船が取り次いだ。

「直江山城守殿への用向きにござる。」

「普請の作業場へ人を遣りました故、今しばらくお待ち下さい。」

座敷へ案内した。直江兼続が来るまでの半刻ほどの間、その座敷からは物音ひとつ聞こえなかった。

「戻りました。」

「石田様は奥におられます。」

「うむ。」

兼続の顔は若干暗く見えた。

一刻ほどして石田三成は帰った。

その日はお船と兼続は夕餉を共にした。

「顔色が優れませぬが…?」

「ああ…。すみません。」

「どうかされたのですか…。」

「いや、内々の話なのだが、実は、上杉家は転封されるらしい。」

「お国替えにございますか…。」

越後を離れることになるのかとまずそう思った。

「会津で120万石に御加増ではあるのですが。」

越後上杉家は90万石ほどなので30万石ほどの加増である。

「めでたいことではありませんか。」

「それはそうなのですか…。」

兼続は漬け物をコリコリと噛んでいる。何かを考えているときの癖である。

「(どうかしたのかな…。)」

その癖のことを知っているお船は話を進めずに黙っていた。

「治部少輔殿は上杉家を徳川家や伊達家の抑えにしようとお考えなのです。」

「もしものときではなくて…。」

「太閤殿下がお亡くなりになられたら戦は避けざるを得ないと治部少輔殿はお考えのようです。」

「兼続様もですか…?」

「私もです。」

『戦乱』。兼続は何度も合戦を経ていた。お船もそうである。それでもやはり、戦は嫌だった。

「まだ先の話にございます。それよりは御加増のことを喜びましょう。」

「そうですね。」

兼続は噛んでいた漬け物を飲み込んだ。


前田慶次郎

 1598年。上杉家は越後から会津へ転封となった。

「お船殿。達者でいて下さい。」

「菊姫様もご息災で。」

上杉景勝、直江兼続、お船らは一度、越後へ帰り、その後、会津へ向かう。しかし、菊姫は伏見に留まなければならない。

「お子たちにもよろしくお伝え下さい。」

お船たちが輿に入ってからもしばらく、菊姫は屋敷の前に立っていた。

「(この3年間は楽しかった。)」

行列が見えなくなって少ししてから菊姫は屋敷の中へ入った。

「只今戻りました。」

「お帰りなさいませ。」

越後与板城ではお船の帰りを皆が迎えた。

「お松。息災でしたか。」

「はい。母上。」

お松は11歳になった。

「お梅も息災でしたか。」

「はい。お帰りなさいませ。母上。」

お梅は9歳になった。

「竹松丸。大きくなりましたね。」

竹松丸は4歳。お春に連れられていた。

「大方様。お帰りなさいませ。」

お春が言った。

「皆、息災でなによりです。」

兼続は春日山の直江屋敷に行った。国替えのことは前もって知らされており、準備は整っていた。

「私たちは出羽国米沢へ向かいます。」

上杉景勝は陸奥岩代会津に行くが、それとは別に直江兼続は太閤秀吉特別の計らいで上杉家家臣ながらも出羽米沢6万石の城主となった。

「(兼続様の方は大丈夫かしら…。)」

直江景綱と信綱の位牌を櫃に入れながら、お船は思った。というのも、京を出た辺りから一人見慣れない男が行列に紛れ込んでいた。

 越後で準備を整えると直江家一行は米沢に向かった。景勝一行は少し遅れて会津へ向かうことになっていた。米沢へは2日ほどかかる。その間もあの見慣れない男は肩に長い槍を抱えながらついて来ていた。

「兼続様。あの最後列にいらっしゃるお方はどなたでしょうか?」

「うん…。ああ、あれは瓢戸斎殿ですね。」

「ひょっとさい殿?」

この穀蔵院瓢戸斎を名乗る一風変わった60歳近い男はまたの名を前田慶次郎と言った。

「加賀の前田利家公の甥にあたる御方です。」

利家の兄、利久の子であるが実の子ではなく、妻の連れ子という。

「何故、そのような御方がついてこられるのです?」

「瓢戸斎殿は上杉家に仕官なされたのです。」

上杉家への仕官は直江兼続が誘ったとも慶次郎から頼んだとも言われる。どちらにせよ、後年、この自ら『武辺者』を称する変わった男によって、直江兼続は命を救われることになる。

 途中、磐梯山が見えた。

「きれいな。」

お船は輿から降りて、磐梯山を眺めた。

 お船たちが米沢に移り、半年ほど経ったとき、太閤豊臣秀吉が没した。兼続と景勝はそれぞれ京へ上った。

「お船殿は米沢にいて欲しい。」

その言葉には兼続の思慮を感じた。

 翌年、加賀の前田利家が没した。

「すぐに戻ります。」

この頃、直江兼続は頻繁に京と米沢を往来した。

「行ってらっしゃいませ。」

お船は山河を歩く兼続の無事を祈っていた。その一方で、直江家の大方様として米沢の人々の暮らしを支えるべく努めていた。

 あるとき瓢戸斎を尋ねたことがあった。兼続からの手紙を渡した。瓢戸斎は米沢城から少し離れた堂森というところで屋敷を構えて暮らしていた。

「ごめん下さいませ。」

お船が尋ねると、瓢戸斎自身が出て来た。

「(何なのだろうこの人は…?)」

その出で立ちは腰に褌を一丁巻いたままの素っ裸であった。瓢戸斎は手紙を受け取ると、その場で広げてふむふむと読んでいる。

「確かに承った。」

そう言うと手紙をお船に渡し奥へ引っ込んでいった。どうしようもないので、お船は手紙をそのまま米沢城へ持って帰って来た。

「変わったお人でした。」

米沢城へ戻ったあとお船は周りの者たちにそう言っていたという。

 翌年。1600年。この年は春になる前から会津で新城普請が行われた。

「(戦が起きる。)」

周囲の雰囲気がそう物語っていた。その頃から兼続は京へ行くことはなくなった。

「戦は避けられそうにありません。」

兼続はそう言った。

「左様にございますか。」

お船はそう言ったが、内心は嫌であった。

「いずれ京で治部少輔殿が挙兵をするでしょう。」

京と聞いて、伏見上杉屋敷の菊姫のことが気になった。

「菊姫様はどうなるのでございましょう…。」

「…。」

兼続にも答えられなかった。

 6月。度重なる上洛要請を拒否し、謀叛の疑いありと徳川家康率いる大軍が会津へ向かった。その途上、京で石田三成が挙兵。徳川家康は矛先を西へ向けた。

「行って参ります。」

「御武運をお祈り申し上げております。」

9月9日。直江兼続率いる上杉軍は最上家の統べる山形へ侵攻を開始した。上杉軍は諸城を落とし、12日には長谷堂城を包囲した。

「全軍、攻め掛かれ。」

15日。上杉軍は12000の大軍を持って長谷堂城を攻めた。城に籠もる最上勢は1000ばかりであった。

 同じ頃、美濃国関ヶ原では石田三成と徳川家康が対陣していた。

「退け!退け!」

「(落ちないか…。)」

夕暮れになり、直江兼続は兵を引き上げた。その日、長谷堂城は落ちなかった。しかし、関ヶ原での勝敗は既に決していた。石田三成率いる西軍は壊滅し、退却した。

 10日経っても長谷堂城は落ちなかった。25日には、援軍の伊達家の部隊や最上本隊が到着して陣を張った。

「(刻がかかり過ぎている…。)」

石田三成の動向が気になっていた。29日の総攻撃でも長谷堂城は落ちなかった。そのとき、関ヶ原での西軍敗走の報せがもたらされた。

「(死んだ。)」

西軍敗走の報せは相手にも届いているであろう。上杉軍はこのまま孤立して壊滅することは必死であった。直江兼続は脇差しを抜き、自刃を決意した。

「(すまない。お船、皆…。)」

小刀を喉に突き立てようとした手を誰かが止めた。

「ここで勝手に死なれては我々が困る。」

瓢戸斎であった。

「そのようなものでは大将という物は勤まらぬ。お急ぎなさるな。ここはわしに任せなされ。」

 10月1日。直江兼続ら上杉軍は長谷堂城の守りを解いて米沢への退却を開始した。同じ頃、伊達、最上の軍勢も関ヶ原での西軍敗走の報せを知った。伊達、最上軍は上杉軍を追撃した。

「(生きて戻れるのか…。)」

退却戦は困難と激戦を極めた。多いときでは一日に20回以上の戦闘が起こったという。

 殿を勤める瓢戸斎は3間はあろうかという皆朱の槍を振り回し振り回し、追撃してくる伊達、最上勢を何度も蹴散らしていた。

「(ここで死んでなるものか…。)」

兼続も鉄砲隊を率いて追撃を防いだ。諸将の奮戦の甲斐あって、上杉軍は米沢城へ戻ることができた。その後、上杉家は徳川家との和平を模索する。


貞心尼

 関ヶ原合戦の翌年。上杉家は家名は存続したが、大幅な減封となり、会津は取り上げられて、出羽米沢30万石だけが残った。上杉景勝の臣下たちが皆、会津から米沢へやってきた。

「土地が足りない。」

溢れる臣下全員を養っていくには30万石では足りなかった。直江兼続は町の整備と開墾、開発に尽力した。家臣が増えた分、兼続らの知行も減った。しかし、上杉家を去る者はほとんどいなかった。長谷堂の功労者、瓢戸斎もその一人である。

 1602年の9月には、直江兼続の実父、樋口兼豊が没した。兼豊は兼続が長谷堂城を攻めたとき米沢城で留守を預かるということもしていた。

 1604年。2月に京伏見の上杉屋敷で菊姫が亡くなった。お船はその報せを米沢で聞いた。

「(菊姫様…。)」

心から悲しみが溢れてきた。

享年47歳。芳名は大儀院殿梅岩周香大姉。墓は始め京都の妙泉寺にあったが、後、米沢の林泉寺に改葬された。甲斐から越後、京へと戦国の姫として生きた菊姫だが、今は静かに米沢で眠っている。

 5月には、上杉景勝と側室桂岩院との間に子が生まれた。名は玉丸または千徳。後の上杉定勝である。しかし、8月には生母桂岩院が亡くなってしまった。幼子の養育は直江夫妻が見ることになった。

 同じ頃、兼続とお船の子、お松に婿養子の話が来た。徳川家の重臣、本多正信の子、本多政重である。

同年、二人の婚儀が執り行われた。が、翌年、お松は亡くなってしまう。1月にはお梅が亡くなっていた。

「お松、お梅…。」

位牌が増えてしまった。

 後、本多政重は直江家の養女となった、直江兼続の弟、大国実頼の娘、阿虎を嫁に迎えるが、1611年に直江家を出奔し、阿虎と共に加賀前田家に仕官している。

 直江兼続とお船の子、竹松丸は元服して、直江景明と名乗る。近江大津の戸田氏鉄の娘と結婚した。生来、病弱であった景明は、大坂夏の陣に参戦後の1615年7月に享年22歳で亡くなる。直江家は兼続とお船の二人だけとなってしまった。

 直江兼続はその後も精力的に働いたが、1619年に体調を崩し、12月19日、江戸の鱗屋敷で病死した。享年60歳。

「(兼続様…。どうか安らかにお休み下さい。)」

直江兼続没後、お船は出家して貞心尼と名乗ることになった。

1631年の10月。高野山から手紙が届いた。清融が亡くなったという報せだった。

「(清宗丸様…。)」

清融の死にお船は涙を流して悲しんだという。

それから6年後の1637年1月4日。お船はこの世を去る。享年81歳。

 お船が亡くなる14年前の1623年には、上杉景勝も没し、上杉定勝が米沢藩2代藩主になっていた。

 お船の葬儀は家臣の妻には異例の藩葬で行われたという。多くの藩士、領民にお船は慕われていたのだろう。

「貞心尼様。安らかにお休み下さい。」

晩年、年月とともにお船の傍には位牌が増えていった。そして、最後にお船の位牌を取ったのは、お松、お梅、竹松丸の乳母のお春であった。

 直江景明が亡くなったあとも、兼続とお船は養子を迎えることはなかった。それは、多くの知行を得る直江家が存続し藩経済を圧迫することがないようにとの兼続とお船の配慮だったともいう。

 直江家は断絶した。

 米沢の林泉寺には直江兼続とお船の墓が傍らに仲良く並んで建っている。


 穀蔵院瓢戸斎こと前田慶次郎は米沢堂森で1612年に齢70歳前後で亡くなったともいう。前田慶次、前田利太の名でも知られる彼は天下のかぶき者として、今日も多くの話の種になっている。

 彼は当代の文化人としての一面もあり一流の武人でもあるが、一般的には変わった『かぶき者』であった。

 しかし、長谷堂城の戦いで彼がいなければ、直江兼続は命を落としていたであろう。

 織田信長然り、前田慶次郎然り、歴史上の偉人の中には往々にして、風変わりな人物がいる。彼らは一風変わった人物であったからこそ、常人には成し遂げられないことをしたのであろう。

 一方、菊姫やお船は普通の人であった。家族を子を夫を愛する普通の妻であり母であった。彼女らは普通の人間であったからこそ、偉人や奇傑には成し遂げられないことをしたのだと思う。

 今日、彼女らは良妻、賢妻と言われている。しかし、そのことを彼女らが知ったらどう思うのだろうか。けっして、彼女らは後世、そう言われることを願って生きていたわけではない。ただ、彼女らは、目の前の我が子や養子、夫や周りの人たちを大事に大切に思って毎日を暮らしていたに違いない。生前や後世の評判はその結果に過ぎない。

 かぶき者瓢戸斎と良妻お船。彼らのような人たちが日々、どこかで支え合っているからこそ、過去の歴史や今の世の中が成り立っているのではないかと思った。

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