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7. 聖域

カルマン百貨店での一件以来、店に行くと店員さんたちが親しげに話しかけてくれるようになった。


友達がほとんど皆無の私にとっては嬉しいことなんだけど。

関わらないようにしようと思っていたロバートと頻繁に顔を合わせるようになってしまうのが悩みの種だ。


先日のお礼がしたいと何度も何度も誘われたけど、丁重にお断りしていた。

しかしあまりにも何度も誘われ、店員さんたちにまで懇願されるので、とうとう根負けした。



「評判の良いオペレッタがあるんだ」

ロバートの提案で喜歌劇を見に行くことになった。


舞台を見るのは楽しみだけど、男性と二人きりで出かけるのは気が重い。


約束当日の朝、カルマン百貨店から荷物が届けられる。

上品なワインレッドのドレスだった。

『これを着た君をエスコート出来るのを楽しみにしています』というカードまで添えてあるので、受け取ることにした。


着てみたら、意外なことに胸元が隠れるデザインだった。

ベース部分はワインレッドのベルベット生地で、胸元は同系色のレースになっている。


胸元が隠れるデザインでホッとした。

これでジロジロみられなくて済む。


でも正直ロバートがそんなドレスを選んだことは意外だった。

初めて会った時、あんなに胸元ばかり見ていたくせに。


やがて夕方になりロバートが馬車で迎えに来る。

ドレス姿の私を見て

「綺麗だ。さすがは僕の見立てだな」と言って目を細めた。


馬車の中でロバートは青いビロードの薄い箱を取り出した。

中には見事なルビーのイヤリングが入っていた。


「そんな高価なもの受け取れません」遠慮でなく、はっきりと断った。


「大丈夫。受け取らなくていい」

分かっているとでも言いたげに頷く。

「貸すだけだ。うちの店の宣伝になると思って付けてくれると嬉しい」


絶対嘘だと分かっているんだけど。

そう言われると断れない。

ロバートがそっと手を伸ばし、イヤリングを付けてくれる。


「うん。何を付けても似合う。君は最高の広告塔だね」

にっこり笑って明るく言う。


「そうそう、もう一つあったんだ」

ポケットからもう一つ小さな小箱を取り出して開ける。


「それ…………!」

私は息を呑んだ。


ロバートは私の手を取り無言で『それ』をはめてくれた。

その何の変哲もない小さなルビーの指輪は紛れもなく、あの日私が売った祖母の形見の指輪だった。


いつの間に買い戻してくれたのだろう。

祖母の形見であることは知らないはずなのに。

私は唇を噛み締め窓の外を眺め、涙が出そうになるのを必死に堪えた。




劇場について馬車から降りると、人々の視線が集まる。

私への悪口もちらほら聞こえて来る。

平気だ。いつものことだもの。


人混みの中にナイジェル・レヴィを見かけた。

ロバートと一緒に馬車から降りて来た私を驚いた目で見つめていた。




劇場に入り、席に向かった私は案内された先でギクリと立ち止まった。


(ボックス席……!)


どうしよう。

てっきり平土間か中央バルコニー席あたりだと思っていた。


ボックス席は怖い。薄暗い密室だからだ。

男性と二人でボックス席に入るとろくなことにならない。

過去に何度か危ない目に遭ったことがあり、思い出しただけで足がすくむ。


「ディアンドラ」

私の心を見透かしたようにロバートが優しい声で言った。

「今日は君へのお礼と言ったはずだ。大丈夫、信じてくれ」


ボックス席のカーテンを開ける。

「あ……」


本来なら椅子が5つ配置されるはずのボックス席。

そこに椅子が二脚だけ置かれていた。

端と端に思いっきり離されて。

間には小さなテーブルもあった。


観劇の最中に手を握ることも肩を抱くことも叶わない距離。

男女のカップル用の席としては有り得ない配置だ。


ロバートが私に気を遣ってくれたんだと言うことはすぐに分かった。

ホッとして、握っていた拳の力を抜く。


上演が始まるとロバートは私には構いもせず、舞台を鑑賞し始めた。

「ははは」時々笑い声まで聞こえてくる。


私も肩の力を抜いて舞台を堪能した。

そのボックス席はまるで聖域だった。

貴族たちの誹謗中傷も

男性のいやらしい視線も

何も気にしなくて良い空間。

私が笑っても「笑顔で男を誘っている」なんて言われる心配もない。


コミカルなシーンが多い喜歌劇で、私も声をあげて笑った。

笑ったのなんていつ以来だろう。


嬉しくて。


笑いながら泣きそうになったーー



「今日は本当にありがとう。とても楽しかったわ」

帰りの馬車の中で、お礼を言った。


「こちらこそ。君のような美女と観劇出来るなんて光栄だ」

優しい微笑み。

さりげない気遣い。


「何だかあなたがモテるの分かるような気がするわ」

「はは。接客業だからね。社交的でないと務まらない」


「…………あなたって、良い人よね」

「……………………」


目と目が合う。

数秒後、ロバートが少し眉尻を下げて目を逸らした。

「僕を信用しない方がいい。下心の塊だからね」


分かっている。

あなたの目を見れば分かる。

アドニスが私を見る目とは違う、熱を孕んだ目。


それでも


少なくともあなたは私に胸元の隠れる服をプレゼントしてくれた。

私の気持ちを考えてくれたその思いやりが嬉しい。


自宅の前で馬車を降りる。

「ありがとう。でもやっぱりあなたは良い人だと思うわ」


ついうっかり五箇条を破って微笑んでしまった。


ロバートは真顔で私の顔を見つめた。

二人の視線が絡み合う。


あ、まずい。

この流れは……抱きしめられるか、キスされるかの流れだ。

しまった、ムードを自分から作ってしまった…?


男性といる時、気を抜いてはダメだと分かっていたのに。

迂闊だった。


………と思ったら、彼は目を瞑って大きく息を吐き、

「じゃあね。おやすみ」

そう言うと、私に指一本触れることなく背を向けて馬車に乗り込み去って行った。



私はホッとして肩の力を抜いた。


ーーほら。やっぱり良い人だわ。




◇◇◇◇◇◇◇


ディアンドラの故郷、ヴェリーニ子爵領。

子爵の屋敷ではディアンドラの父が客人と酒を酌み交わしていた。


「馬を休ませることができ、助かりました。ありがとうございます」

「いやいや、困った時はお互い様です」

ヴェリーニ子爵はニコニコしながら男の杯に酒を注いでやった。


男は行商人だった。

ヴェリーニ子爵の屋敷の近くで馬を休ませていたところ子爵に声をかけられた。

もう直夜になるから、移動は翌日の方がいいと。

男は一晩ヴェリーニ子爵の屋敷に泊めてもらうことになった。


滅多に客人も来ない田舎だ。

子爵は話し相手ができ上機嫌だ。


男の話によると彼は行商人で、きゅうりの苗を売って王都へ戻る途中だそうだ。

最近きゅうりの苗が飛ぶようにうれているらしい。


貴族のお茶会できゅうりのサンドイッチが流行っているのが原因だ。

この国の気候はもともときゅうり栽培には向いておらず、きゅうりは高級品だ。


「しかし、私共は品種改良に成功しましてね」男が声を潜めて言う。

「簡単に栽培出来る様になったんです」

ヴェリーニ子爵もきゅうりの供給が需要に追いついていないことは知っていた。


「きゅうりは高く売れますから。大麦の5倍近い収入になるんですよ」


5倍……! ヴェリーニ子爵は息を呑んだ。


「苗だと成長は早いんですけどね。どの領地でも争奪戦ですよ」


ヴェリーニ子爵領は赤字続きである。

単価がもっと高い野菜を作れば収入が増えるのではないだろうか。


きゅうりは最初こそ苗を買う必要があるが、種を採取すれば次からは原価がかからない。


話を聞いているうちに、子爵はきゅうりの苗が欲しくなった。

聞けば聞くほど、赤字を脱却するにはきゅうりしかないような気がしてきた。


「苗を入手することは可能だろうか?」


男はしばらく考えていたが、やがてにっこり笑って言った。

「あちこちの領地から注文を受けているんですが、ここで知り合ったのも何かの縁です。なんとか都合しましょう」

「本当か!」


ヴェリーニ子爵は喜んだ。

しかし、もしかしたら途方もない金額をふっかけてくるのではないかと少し警戒していた。

なので、男が提示してきた苗の金額を聞いて安心した。

予想通りの常識的な金額だったからだ。


商談は成立した。

ヴェリーニ子爵は今シーズンの領地の全ての作物を大麦からきゅうりに変更することにし、男に苗を注文した。

「では1週間後に苗を配達するよう手配しますね」

そして自分は後日、苗の代金を受け取りに来ると言って男は去って行った。


きゅうりが出来たら王都のディアンドラに持って行ってあげよう。

子爵は王都で頑張っている一人娘のことを想った。




ヴェリーニ子爵はまだ知らなかったーー


領地で植えたきゅうりが娘の口に入ることなど永遠にないことを。








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[一言] この喜劇ってもしかしてもしかしてでは…!? 何も隠していないアレでは!? プライバシーの辞書がないあの家では!?
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