3. 心の中にはいつも君がいた
ナイジェルは家庭教師や似顔絵描きをしながら街から街へ転々とした。
ユーニスのことをよく思い出した。
スケッチブックを開くと無意識にユーニスの顔を描いてしまうのだ。
成長したユーニスの姿を想像してみる。なぜか胸がちくりと痛んだ。
幸せになっていることを願った。
更に4年の月日が経った。ナイジェルは28歳になった。
ある日、ユーニス以外の何かを描こうと決め、ふとディアンドラのことを思い出した。
あれほど恋い焦がれていたディアンドラのことをもう何年も忘れていた自分に驚く。
鉛筆でささっとディアンドラを描いてみる。
ところが出来た絵はどう見てもディアンドラのコスプレをしたユーニスだ。
あれ? もう一度描いてみる。
おかしい。何度描いてもユーニスの顔になってしまう。
5年間、ほぼ毎日ユーニスの顔を描かされてたせいだろうか。
記憶で書こうとするとユーニス以外の顔が描けないことに愕然とする。
いつの間にかディアンドラの顔が描けなくなっていたのだ。
「はは…」
なんてことだ。
自分は猫のディーにまでディアンドラを重ねていたはずではなかったか。
一体いつの間にそれがユーニスに取って代わられたのだろうか。
ふと、ユーニスが今どうしているのか気になった。
もう17歳になっているはずだ。
結婚して幸せにやっているだろうか。
ナイジェルは4年ぶりに男爵家を訪ねた。
ユーニスの幸せをこっそり確認したらさっさと去るのだと自分に言い聞かせて。
ところが、男爵家でもたらされた知らせは予想外のものだった。
「1年前に結婚を前提に付き合いを申し込んだら、出て行ってしまったんです」
男爵家の息子は肩を落として言った。
「まさか、君無理やり迫ったりしていないか?」
「とんでもないです! 手すら握らせてもらえませんでした」
ユーニスはナイジェルから連絡が来るのを男爵家でずっと待っていた。
しかし流石に結婚の申し込みを断ってしまったので、このまま男爵家に居座り続けるのが申し訳なくなったのだろう。
ユーニスは王都へ行くと言う書き置きを残して出て行った。
ナイジェルから連絡が来たら伝えてほしいと書き添えて。
男爵夫妻はがっかりしていた。
ナイジェルは心配になった。
王都は危険が一杯だ。
田舎娘を騙して食い物にする奴は至る所にいる。
いても立ってもいられなくなり、ナイジェルは9年ぶりに王都へ向かった。
自分の過去を知る者が沢山いる王都。
怖くて9年間ずっと避けていた。
知り合いに会ったら格好の噂の対象になりそうだ。
が。
実際に戻ってみると全く知り合いに会わなかった。ホッとした。
高級な洋服に身を包んだ青白く傲慢な貴族の面影はもうない。
今のナイジェルは質素な身なりの日焼けをした平民だ。
街で会っても分からないのかも知れない。
或いは単に貴族社会の一員でなくなった彼に誰も興味がないだけか。
9年ぶりの王都の予想外の気楽さにすっかり気を良くしたナイジェルは、道端で似顔絵描きをして宿代を稼ぐことにした。
『似顔絵描きます』と書いたプラカードを首から下げ、スケッチブックを持って街角に立った。
さすが王都は人口が多いだけあって、すぐに似顔絵を求める客がやってきた。
「はい、すぐ出来ますので少々お待ちください」
そう言ってスケッチブックに鉛筆を走らせているとーー
「見〜つけた」
顔を上げると、スラリとした美しい金髪の美女が居た。
少しつり気味の勝ち気な瞳が真っ直ぐにナイジェルを見据える。
誰だか分からないが、美しい。
ナイジェルはしばらく見惚れていた。
「お久しぶりですわね、ナイジェル様」
「えっ!?」
ユーニスであった。
「どうぞ」
ユーニスが紅茶を淹れナイジェルに勧めた。
4年ぶりの再会を祝し、ユーニスの部屋でゆっくり語ろうと言うことになったのだ。
ユーニスは王都に出てから、お針子として働いていた。
最近やっと独立して個人で仕事を貰って食べていけるようになったそうだ。
「なんで男爵家を出て行ったんだ? 貴族になれるチャンスだったんだぞ」
ナイジェルは一番疑問に思っていたことを尋ねた。
「だって私はナイジェル様と結婚するんですもの」
ユーニスはさも当たり前のように言った。
「は?」
「言いましたよね? 私が大人になって、誰にも身体を触らせず、ナイジェル様も他の人と結婚していなかったら……って」
「それは……」
ナイジェルは絶句した。
言った。確かに言った……けど。
「私を探しに王都に来てくださったんでしょう? その気がないとは言わせませんよ」
ユーニスが心配で王都まで追ってきたのは確かだ。だけど……。
「だいたいナイジェル様が『身体を触られたら好きな人と結婚できなくなるぞ』なんて脅すから、恋人も作れなかったんですよ私!」
「す、すまない」
「いいんです。だって私も意地悪なことしましたから」
「ん?」
「ナイジェル様……記憶で誰かの顔を描こうとすると、全部私の顔になったりしません?」
悪戯っぽくナイジェルを見上げて笑う。
ユーニスはナイジェルがディアンドラの顔ばかり描くのが気に入らなくて、記憶の上書きをしてやれと思ったのだ。
だから毎日毎日自分の絵をねだった。
そして思惑通りナイジェルの心に住み着くことに成功した。
ナイジェルは4年間、一日たりともユーニスを忘れる事が出来なかったのだから。
「俺は……育ての親としてお前が心配だっただけだ。俺から見ればお前はまだまだ子供だし恋愛の対象ではない」
ユーニスがジロリとナイジェルを睨んだ。
「あらそうですか。それならそれで結構ですわ。昔のように同じベッドで眠らせて頂くまでですから。子供として」
ユーニスは立ち上がりナイジェルの背後にやって来た。
「こんな風に昔のように背中から抱きついて眠りますわ、ええ、ぐっすりと」
そう言うとナイジェルの背中に抱きついた。
背中越しに伝わる柔らかな感触にナイジェルは動揺する。
ユーニスは意地悪く、ナイジェルのお腹に回した手でぺたぺたと身体を触りまくった。
「こ、こら、やめないか」
「嘘つきですわね、ナイジェル様。昔はこんなになっていなかっ…」
「言わなくていい!」
健康な男性の生理現象を指摘され、ナイジェルは赤面した。
ナイジェルはため息をついた。
「ずっと内緒にしてたけど……俺は前科者なんだよ」
「それが何だと言うのです」
ユーニスはキッパリと言った。
「世界中の人にとってあなたが前科者だとしてもーー私にとっては英雄です」
英雄ーーそう、あなたはあのひどい場所から私を救い出してくれた。
ユーニスは初めて会った時からナイジェルが大好きだった。
「今の君ならもっといい人が見つかるだろう? だから」
ナイジェルは大人になったユーニスに急速に惹かれていく自分を感じながらも、必死でその気持ちを押し殺そうとしていた。
自分は地位も財産もない平民だ。彼女を幸せに出来る自信がない。
ユーニスは眉を落とし口を尖らせる。
「仕方ないじゃないですか。最初に私を救い出してくれたのも、最初に色々なことを教えてくれたのも、最初に優しくしてくれたのも全部あなただったんだから。最初に好きになっちゃったんだから、もう他の人なんて目に入らなくても仕方ないじゃないですか」
「でも、俺は君に何も買ってあげられない。ドレスも宝石も」
「宝石ならもう頂いてます」
「え?」
「宿屋で私のためにあんな高価な宝石を迷いもせず手放してくれたじゃないですか」
あの時からあなたは私の英雄なのですよーー。
そう言ってユーニスはにっこり微笑んだ。
本当に自分なんかが幸せになってもいいのだろうか。
ナイジェルは心の中に残った最後のひとかけの理性で自問自答する
「英雄と言って貰えるのは嬉しいけど、俺…恋人にしたらかなり鬱陶しい男だよ?」
「そうですか? 構いませんよ」
彼女に触れるのが怖い。だから誰か自分を止めて欲しい。
もし一度抱きしめてしまった二度と引き返せなくなるから。
自分はきっと彼女に溺れてしまうだろう。
「愛がメチャクチャ重たい上に独占欲も死ぬほど強いんだ」
本当に俺なんかでいいのか? いいわけないだろ。
心では自分を否定し続けるも、身体が勝手に動いてしまう。
まるで磁石に引き寄せられるように。
ナイジェルはゆっくりと腕を伸ばし、ユーニスの髪に触れた。
昔より随分と長くなった絹糸のような髪を掬って遠慮がちに指を通す。
「ふふ。どうぞ。翻弄させて楽しませていただきますわ」
ナイジェルは人を愛するのも人に愛されるのも下手だ。
そのくせ寂しがりやで繊細なのだ。
過去に酷く拒絶された経験が、彼をさらに臆病にする。
ナイジェルは恐る恐るユーニスの腰に腕を回す。
壊れ物を扱うようにそっと。
そして触れるだけの軽い口づけを落とした。
ユーニスは潤んだ目でナイジェルを見上げる。
そして頬を染め、口づけを返す。
ナイジェルの心に温かいものが広がった。
初めてだった……こんな風に受け入れてもらえたのは。
喜びと自信が彼を満たす。
ナイジェルはユーニスを力強く抱きしめ、彼女の唇に自らの唇を重ねたーー。
翌朝、ナイジェルの胸に顔を埋めて眠っていたユーニスは目を覚ますと嬉しそうに言った。
「このポジション。私いつもここで眠っているディーが羨ましかったんです」
黒猫のディーはいつもナイジェルの懐で眠っていた。
「ディーが死んだ時に、私がディーの代わりになるって言ったのに、ずっと背中側だったから」ユーニスは口を尖らせる。
ナイジェルがクスっと笑う。
「君、寝相が悪かったから、背中を向けてると夜中にベッドから落ちそうで心配だった」
だから、実はユーニスが眠ってからは体の向きを変えて腕の中に抱えて眠っていたことを白状する。
もっとも、ユーニスがベッドから落ちそうだったからと言うのは口実だ。
黒猫のディーが懐からいなくなった寂しさから安眠出来なくなったナイジェルがユーニスに縋っていたのだった。
認めたくはないがナイジェルは寂しがりやなのだ。
一人寝は大嫌いだ。
目覚めた時に腕の中に誰かがいるーー。
ナイジェルが一番幸せを実感する瞬間だ。
今朝はユーニスの寝顔を眺めながら、幸せすぎてちょっと泣いてしまった。
みっともないから彼女には内緒だが。
ナイジェルはまだ夢を見ているような気分だった。
8歳だった傷だらけの痩せた少女がこんなにも美しい17歳の娘に成長した。
まるで蛹が蝶になったみたいだ。
「……綺麗になったな、ユーニス」
眩しそうに彼女を見つめ、そっと頬を撫でる。
「俺のものだなんて……夢みたいだ」
自分の愛が重すぎて、彼女に嫌われたらどうしようと心配しつつも、抱きしめるユーニスの柔らかさと甘い香りに酔いしれる。
自分を見つめるナイジェルの熱っぽい眼差しにユーニスは大いに満足した。
4年前はまるっきり相手にされなかったのだから。
ユーニスにとってナイジェルは初恋の人だ。
10年近くかかったが、ようやく一人の女性として見てもらえたことが嬉しかった。
11歳も歳が離れた二人だったが、幼い頃から苦労してきただけあってユーニスは逞しかった。
恋愛において、主導権は完全にユーニスにあり、ナイジェルはうまく転がされていた。
二人で街を歩くと、ユーニスの美しさに男性の視線が集まる。
ナイジェルは気が気ではなかった。
彼はもともと恋人は家に閉じ込めて誰にも見せたくないタイプの男なのだ。
「ユーニス、外に出るときはもっと露出の少ない格好にしなさい」
あれこれ煩く口を出すが、ユーニスはナイジェルの言うことを一切聞かない。
むしろ煩く言われれば言われるほど、逆に肌が見える服を来て、見せつけるように外を歩きナイジェルをハラハラさせた。
ナイジェルがユーニスの機嫌を損ねるようなことをすると「お触り禁止令」が一方的に出される。
ユーニスは懇願するナイジェルを焦らしに焦らした後、一転して天使のように可愛く甘えてみたりと、ナイジェルをとことん翻弄した。
翻弄されればされるほどナイジェルはユーニスに夢中になった。
「10年越しで練った対策を舐めないで下さい」
ユーニスは小悪魔のように笑う。
ナイジェルは我儘で気の強い女性が好きなのである。
それをユーニスはよく理解していた。
ユーニスのお手本は猫のディーだ。
ディーは可愛がってくれる飼い主に平気で爪を立てるような恩知らずな猫だった。
そんなディーに引っ掻かれ、嬉しそうにしているナイジェルをユーニスは見てきたのだ。
そして……ユーニスのナイジェル操縦法は恋愛においてだけに留まらなかったーー。




