2. 家庭教師
ナイジェルたちは数日かけて小さな村に辿り着いた。
そこで運よく、地元の男爵家の息子の家庭教師の職を見つけることができた。
住み込みだ。
交渉の末、少女も小間使いとして雇ってもらえることになり、一安心だ。
少女はナイジェルの妹と言うことにしておいた。
少女はユーニスという名前だった。
あの宿屋の主人が適当につけた名だが。
8歳らしいが、捨て子だったため正確な誕生日は分からない。
生後間もなく捨てられていた所を、宿屋の主人に拾われたそうだ。
大した期待もなく息子の家庭教師を頼んだこの家の主人は驚いた。
この何処の馬の骨とも分からない男の教養レベルがあまりに高かったからだ。
代々官僚を務めるレヴィ家は教育熱心な家系だった。
ナイジェルも幼い頃から最高の教育を受けてきた。
そんなわけで、田舎の男爵家の息子の家庭教師なんて、ナイジェルにとってはお茶の子さいさいであった。
文学、歴史、算術、化学、芸術、ダンスからマナーまでオールマイティーだ。
乗馬も出来ればバイオリンとピアノも弾ける。ナイジェルは自分の持っている知識を惜しげもなく伝授した。
ユーニスにとっても小間使いの仕事は楽勝だった。
重いものは持たなくていいし、おやつの時間まであり、宿屋で牛馬の如くこき使われていた時に比べたら天国だった。
ディーも赤いリボンを結んでもらい、屋敷のみんなに可愛がられた。
但しディーはとても気まぐれな猫だった。
機嫌の良い時にしか触らせない。
「ディーったら、ナイジェル様に命を助けてもらったくせに」
と、ナイジェルに平気で爪を立てる猫を見て少女が呆れると、
「いいんだ。媚びなくて我儘なところが好きなんだ」
とナイジェルは嬉しそうに笑った。
ナイジェルとユーニスは広くてゆったりした客間を与えられており、二人で使っていた。
毎日朝食と夕食は自室で二人で食べた。
これまでまともにナイフやフォークを使ったことがなかったユーニスに、ナイジェルは根気強くテーブルマナーを教えた。
生まれてからずっとあの宿屋の主人と客しか知らなかったユーニスは、ナイジェルの食べ方が綺麗なことに驚いた。
そして自分もそうなりたいと一生懸命練習した。
毎晩食事の後、ナイジェルはユーニスに色々なことを教えてくれた。
文字の読み書きやダンス、そして世の中の色々なこと。
ナイジェルは決して叱ったり、声を荒らげたりせず常に優しかった。
屋敷に来たばかりの頃はガリガリだったユーニスも段々ふっくら健康的になり、よく笑うようになっていった。
男爵家の息子はユーニスより3歳年上だ。
彼はユーニスのことを妹のように可愛がり、二人は仲良く一緒に遊んだ。
遊ぶ、と言うことを知らずに育ったユーニスは男爵息子の子供部屋の数々のおもちゃに目を輝かせた。
ナイジェルはよく暇な時にスケッチブックに絵を描く。
彼は大抵綺麗な女の人の絵を描いていた。
黒髪の女王様のように綺麗な女の人。
ナイジェルはいつも描き上がった絵を切ない表情で見つめるのだ。
それがなぜかユーニスには面白くなかった。
「私の絵を描いて」
ある日、ユーニスはそうナイジェルにねだってみた。
「いいとも」
ナイジェルは二つ返事で承知してくれ、ユーニスの顔を描いた。
「わあ! すごいそっくり!」
ユーニスは大喜びだ。
それからと言うもの、ユーニスは毎日ナイジェルに自分の絵を描くようせがんだ。
優しいナイジェルは、嫌な顔一つせず、せがまれるままに描いた。
◇◇◇◇◇◇◇
4年の月日が流れた。
黒猫のディーが肺炎を拗らせ死んだ。
初めは風邪かな?と思ったそれは徐々に悪化し、段々餌も水も飲まなくなり、最後は静かに息を引き取った。
屋敷中のみんなが心を痛めたが、ナイジェルの悲しみ方は尋常ではなかった。
男爵夫人が庭の片隅にディーのお墓を作ってくれる。
ナイジェルは長いことその前で一人泣いていた。
その日の夜更け。
ユーニスはムクっと起き上がり、自分のベッドから降りた。
そしてナイジェルのベッドまで歩いて行き、潜り込む。
「どうした? 怖い夢でも見たのか?」
「違う。ナイジェル様が泣いてるかと思って心配で来たの」
ほぼ図星だったので、ナイジェルは苦笑いした。
23歳の男が12歳の少女に慰められようとしているのだから。
ディーは機嫌が悪い時はナイジェルのことも容赦なく引っ掻くくせに、眠る時だけは当たり前のようにナイジェルのベッドに潜り込んでいた。
ナイジェルの胸はディーの眠る時の定位置だった。
「俺はディーがいなかったらとっくに死んでいた」
ナイジェルは自殺しようとしてた時にディーが流れてきたことを話した。
ユーニスはナイジェルの過去を知らない。
だけどナイジェルがディーを通して他の誰かを見ていることは薄々勘付いていた。
「私がディーの代わりになるから、泣かないでナイジェル様」
そう言ってユーニスはナイジェルの背中に抱きついた。
それから毎晩、ユーニスはナイジェルのベッドで眠るようになった。
そして1年後。ユーニスが13歳になったある日。
仕事中、なんとなくお腹が痛くなってトイレに行ったユーニスは下着に赤い血がついているのを見てびっくり仰天した。
慌てて、先輩メイドにそのことを伝えたら、先輩たちは笑って優しく説明してくれた。
おめでとう。これは病気ではないから怖がらなくていいのよ。女の子が大人になった印なのよーー。
ユーニスが初潮を迎えた件は男爵夫人経由ナイジェルの耳にも入った。
「おめでとう。大人の仲間入りだね」
ユーニスはちょっと照れ臭くてモジモジしている。
「もう、俺のベッドに潜り込んではダメだ。今日からちゃんと自分のベッドで寝なさい」
「えっ! どうして」
「大人の淑女はちゃんと自分のベッドで寝る決まりだから」
ナイジェルは真面目な顔で、ユーニスを諭すように言う。
「いいかい? これからは結婚したいくらい好きな人以外には身体を触らせたり、見られたりしてはいけないよ」
「どうして?」
「どうしても。そうしないと好きな人と結婚出来なくなるよ」
ユーニスにはナイジェルの言うことが理解出来ない。
「私ナイジェル様と結婚出来る?」
「子供だから無理」
「じゃあ同じベッドで寝てもいい?」
「ダメ」
「なんでよ。おかしいわ」
説明に困るナイジェル。
「じゃあ、私がもっと大人になったらナイジェル様と結婚出来る?」
「その頃は俺は別の人と結婚してるかもよ」
「じゃあもしナイジェル様が誰とも結婚していなかったら出来る?」
「とりあえず簡単に身体を触られたり見られたりしないこと! わかったな?」
「じゃあもし私がもっと大人になってナイジェル様も結婚してなくて、それまで誰にも身体を触らせたり見られたりしなかったら結婚してくれる?」
ナイジェルはユーニスのしつこさにげんなりした。
「ああもう! はいはい分かったから。早く寝ろ」
「じゃあ寝るから私の絵を描いて」
もはや日課となったユーニスの似顔絵描き。
ナイジェルはささっと数秒で何も見ないで完璧に描いてみせた。
男爵家の息子は、5年に亘るナイジェルの指導のもと、立派な青年に成長した。
こんな田舎にいながら、王都の名門貴族にも引けを取らない教養を身につけられたのはナイジェルのおかげだと男爵夫妻は心から感謝をした。
今後男爵家の息子は父親の元で領地の運営を学び、社交シーズンには王都に滞在する生活を送る。
ナイジェルの家庭教師としての役目は終わりだ。
ユーニスは全く気づいていないようだがナイジェルは気づいていた。
男爵家の息子が眩しそうにユーニスを見つめていることに。
11歳だった彼は16歳の立派な青年になった。
16歳……ナイジェルが初めてディアンドラに出会った時の年齢と同じだ。
ユーニスは13歳になった。
まだまだ子供だが、読み書きやマナーなど、貴族の娘と比べても遜色ないくらいの教養は身につけられたとナイジェルは思っている。
男爵夫妻は善良な人たちだ。
お礼がしたいと言う夫妻の言葉に甘えて、ナイジェルは一つ頼み事をすることにした。
「俺はここを離れますが、ユーニスはこのままこちらで雇っていただけませんでしょうか?」
そして年頃になったら、良い縁談を紹介してやって欲しいと頼んだ。
夫妻は二つ返事で承諾する。
さらにナイジェルの予想通り、自分たちの息子とユーニスの縁談について打診して来た。
平民で孤児だったユーニスが男爵夫人になれるのだ。
しかも夫となる青年は彼女を愛しているし、義父母も優しい人たちだ。
ユーニスにとってこれ以上の良縁はないと思われた。
自分は爵位を剥奪された上に前科者だ……ナイジェルは考える。
自分の存在はユーニスの将来にとっては邪魔になる。
ナイジェルは彼らにユーニスを託し、彼女の前から姿を消したーー。




