2. 女たらしの成り上がり貴族は見た
「ディアンドラ・ヴェリーニ……」
なんていい女なんだろう。
初めて間近で見る彼女はあまりに綺麗で、人妻との情事を目撃されたことも忘れ、しばし見惚れてしまった。
女性とはかくあるべきとも言うようなメリハリのある曲線美。
思わず顔を埋めたくなるようなふくよかな胸元。
偶然の出会いを無駄にするのはもったいないので自己紹介した。
「ロバート・カルマンだ。よろしく」
僕の名はロバート・カルマン。
家はカルマン商会と言う貿易商だ。
祖父の代に小さな洋品店から始まった商売は親父が継いでから飛躍的に成長した。
今では百貨店経営などもやっている。
親父は商売の功績が認められて、男爵に叙せられた。
由緒ある家柄の貴族たちからは「金の力で爵位を買った成り上がり」と言われている。
別に気にしないけどね。
父は国や企業相手の商売を担当している。
百貨店の方は僕の担当。
いずれにしてもうちの商売は接客業。
人脈と情報が全てだと言っても過言ではない。
僕もパーティーや夜会などに積極的に顔を出して情報収集に励んでいる。
今日のパーティーでもいい収穫があった。
ドルージェ伯爵令嬢とリュヴロニク子爵令息の婚約が決まったそうだ。
結婚式はいい。
新居の調度品、婚礼衣装、食器や銀器など色々な商品が売れそうだ。
出席者が金持ちだと尚良し。
主催者が見栄を張るので、高級品が売れるのだ。
「…と言うわけで、婚約パーティーの出席者を教えていただけませんか、ランバルド伯爵夫人」
「ほほ…ロバートったら。聞かれただけでホイホイ答える人などいると思うの」
伯爵夫人は猛禽類のような瞳をギラギラと光らせた。
「さあ! 私が教えたテクニックで私の口を割らせてみなさい」
僕とランバルド伯爵夫人の関係は……師匠と弟子のような関係だ。
何の弟子かと言うと……まあ……閨房術…とでも言うべきか。
貴族社会では不倫は日常茶飯事だ。
結婚前に自由に恋愛することが許されなかった深窓の令嬢の中には、結婚してから遅い青春を謳歌する発展家が、少なからず存在する。
ランバルド伯爵夫人もそんな一人だ。
夫は政府高官で財務省の副長官を務めている。
あれは僕がまだピュアな少年だった頃、伯爵夫人注文の品を届けに上がったのがきっかけだった。
伯爵夫人はエネルギッシュな上に研究熱心な女性だった。
その上面倒見も良かった。
僕はあっさり喰われーーもとい、貴重な体験をさせて頂き、その後も手取り足取り個人教授を受けることとなったのだった。
その後僕は立派に成長し、晴れて免許皆伝となった。
夫人と僕は互いにドライな価値観を共有しており、変に泥沼化することもなく、今では夫人が入手した商売の情報と僕が入手した政治の情報を交換する仲だ。
「侯爵位以上の出席者はいますか?」
そう尋ねながら僕は夫人の頬から首筋に沿ってそーっと撫でる。
「いきなり本題から入らない!」扇子で手をピシャリと叩かれた。
「チッ! 美しい人、あなたは僕を焦らしているのですね?」夫人の耳にそっと息を吹きかける。
「どうかこの哀れな愛の道化師にパーティーの出席者をお教え下さい……」
芝居がかったセリフを吐き、手に持っていたワイングラスのフットプレートで伯爵夫人の首筋をゆるゆると撫で上げる。
夫人は嬉しそうに頷いている。
「素晴らしいわロバート! 緩急をつけた指使い。ワイングラスという小道具の活かし方。もうあなたに教えることは何もありません。これからも精進なさい。ではご機嫌よう」
「いや、待って、だからパーティーの出席者教えて?」
「仕方ないわね。じゃあキスで私を満足させてみて」
「いい加減情報下さいってば!」
「いいじゃないの。この前だってトラの毛皮売るの手伝ってあげたでしょ」
「ああ、あれはなかなか売れなくて困っていたので助かりました」
そう、先日夫人の情報のお蔭で、高価で趣味の悪いトラの毛皮を財務長官に売りつけることに成功した。
何に使うんだろう、頭つきのトラの毛皮なんて。
夫人がガバッと抱きついてきた。
「な、何をするんです!」
「大丈夫よ主人にはバレないわ」
「いやそれは流石にマズ……んんんっ!」
無理矢理キスを奪われてしまった。助けて〜!
ガサリ……
不意に音がした。
やばい! 誰かに見られた。
伯爵夫人もサッと顔を隠し、走り去った。
逃げ足の速さはさすがだ。場数を踏んでいるだけのことはある。
音がした方を振り向くとそこには
ーーーー女神がいた。
神話の女神。実在したらきっとこんな感じかな。
絵画を眺めているような気分だった。
しばらくしてからそれがディアンドラ・ヴェリーニであることに気づいた。
ディアンドラ・ヴェリーニ。
王都の若者で知らない者はいない有名な令嬢だ。
性に奔放で気に入った男がいたら、人の婚約者でも平気で奪う。
そして遊んで、飽きたらポイ。
毒婦、あばずれ、妖婦……と噂される悪名高き令嬢。
男どもの間で彼女はもっぱら『エロい女』として語られている。
「ディアンドラと寝た」と吹聴する輩は大勢いる。
その中心は彼女の元婚約者たちだ。
そんな汚らしい噂ばかり聞いていたので、驚いた。
初めて間近で見る悪名高き令嬢は意外なほど清らかだったから。
いや、だからこそ毒婦なのかも知れない。
騙されないようにしないと。
まあでも、僕もあわよくば…………?
そんなよこしまな気持ちで自己紹介をした。
「別に言いふらしたりはしないから大丈夫よ。ふん」
そう言うと彼女はニコリともせず行ってしまった。
僕は慌てて追いかける。
このままで終わらせたくなくて。
ああ、なんていい女なんだろう。
ダンスフロアの大広間で彼女を見つける。
「ディアンドラーー」
ダンスを申し込もうとした僕の声はどこかの令嬢の金切声にかき消された。
「ディアンドラ! ニックを誘惑するなんて酷いわ!」
「クロエ? ……何のこと?」
バチン!
令嬢の手がディアンドラの頬を打った。
周りの貴族達の間でざわめきが起こる。
ディアンドラは呆然としながら頬を押さえた。
「え、ちょっと待って、誤解よ。ニックって…?」
「あなたが私のフィアンセのニックといるところを見た人がいたのよ。ニックに問い詰めたらあなたに強引に言い寄られたって……」
うわ。何だこれ。噂に聞く修羅場かよ。
ニックらしき男が泣きじゃくる令嬢をなだめている。
ディアンドラは唇を噛み締め、ニックを睨んだ。
気まずそうに視線を逸らすニック。
「酷いわディアンドラ! 一時でもあなたのこと良い人だと思った私が馬鹿だったわ。手当たり次第に男性に手を出すって噂はやっぱり本当だったのね!」
泣き叫ぶ令嬢。
みんな同情するような目で泣いている令嬢を見る。
「! そ、そんなこと……」
ディアンドラは大きく瞳を見開き、次に眉尻を下げ無言で床を見つめた。
肩が小さく震えてる。
「ディアンドラ・ヴェリーニがまた男性トラブル?」
「今度のお相手はニックですって」
「本当にあの人って………」
周りからヒソヒソとディアンドラを非難する声が聞こえてくる。
彼女を擁護する者はいない。
ディアンドラは拳をグッと握りしめ、肩を逸らし顔を上げた。
そしてキッと強気な笑みを浮かべてこう言った。
「ちょっと退屈だったから誘惑しただけよ。でもつまらない男ね。婚約者のことを愛しているから私の誘いを断るなんて」
腰に手を当て、フンっと鼻を天井に向ける。
本当だろうか。なんとなく腑に落ちない。
ディアンドラほどの女がこんなつまらない男に声をかけるなんてことあるか?
「ニ、ニック…本当に?」
「クロエ、本当だとも僕には君だけだ」
ニックが明らかにホッとした表情で婚約者をなだめている。
お騒がせな令嬢は婚約者と無事に元の鞘に収まったようだ。どうでもいいが。
音楽が流れ、ダンスが始まる。
財務長官の息子を始めとする何人かの男たちがディアンドラにダンスを申し込もうと近づく。
飢えた肉食獣の群れのようだ。
「お断りよ」すげなく断る彼女。
ふふ。僕の出番かな。
「美しいディアンドラ、どうか僕と一曲踊っていただけませんか」
「おことわ……」
彼女に最後まで言わせず、強引に手を引っ張ってダンスホールに引き摺り出した。
「ちょっと! 何するのよ」
そう彼女が怒鳴った時にはすでに僕の腕は彼女の腰に回って、踊り始めていた。
ディアンドラは最初は逃げようともがいていたが、やがて諦めてステップを踏み始めた。
無表情なディアンドラとフロアの中央に進む。
ウエスト細! 最高だ。
「さっきの……本当にニックってやつにちょっかい出したのか?」
話しかけながらも、僕の視線は彼女の胸元に釘付けだ。
ああ、なんという素晴らしい眺め! 眼福。
「さあね。あなたには関係ないわ」
「叩かれたところ痛くないかい?」
綺麗な顔に手の跡なんかつけて。可哀想に。
僕が慰めてあげたいよ……出来ればベッドの中で。
「よくあることよ。どうってことないわ」
ニコリともせず、ピシャリと言い放った。
……よく、あるのか?
もしかして僕もワンチャンいけるかも?
「ねえ。ロバート・カルマンと言ったわよね」
「ああ」いい女だなぁ。
「カルマン商会の人よね?」
「ああ。長男だ」ドレス脱がせてみたいな。
「おたくは農業用の肥料なんかも取り扱いあるのかしら?」
ん?なんだって?
僕の桃色の妄想をぶち壊すような単語が飛び出したぞ。
僕は豊な胸の膨らみから視線を外し、彼女の顔を見た。
お?顔も美しいな。
「堆肥はもちろん取り扱ってるよ」
「リンの含有量が多めの堆肥もしくはリン酸の肥料単体で欲しいのだけど、値段は交渉出来る?」
なんだこの会話。萎えるんだけど。
「堆肥のベースはなにかしら? 馬糞? それとも牛糞? 鶏糞?」
は?
嘘だろ勘弁してくれ。なんで今その話?
堆肥の話題を切り上げ、いいムードに戻さなきゃ。
予定よりちょっと早いが僕は彼女を口説くことに決めた。
彼女の腰に回した手を少しずらして、中指でそーっと彼女の背骨を撫で上げる。
ビクッと彼女の体が強張った。
ふふ……かかった。
馬糞の話よりもっと色っぽい話をしようよ、せっかくなんだからさ。ね?
彼女は頬をあからめ潤んだ瞳で僕を見上げ
「もうっ。イケナイ人ね」と甘い声でささやく。
…………はずだったのだが。
「ちょ、ちょっと何よ今の!?」
「ん?」
「い、い、今なんか背中を撫でなかった? なんで?」
なんだか間抜けな反応が返ってきたぞ。
なんでって……決まってるじゃないか。
「さあ? なんのことかな。ちょっと手の位置を変えただけなんだけど……。ごめんね?」
「そ、そう? 気のせいだったのかしら。大丈夫よ」
眉間に皺を寄せ、首を傾げている。でもちょっと頬が赤い。
いやいやいや。
気のせいのはずないだろ。
だって君、ちょっと感じてたでしょ。
へんだぞ。
なんか噛み合わない。
まさか。
彼女の手を握っているほうの手。
僕は自分の中指をゆっくり曲げる。
そして彼女の掌をくすぐるように軽くなぞる。
あ、コツは鳥の羽のようにソフトに…ね。
「なっ……!」
彼女が反応した。ほら、気持ちいいでしょ?
これ周りに気づかれずに女性を口説くのに使える技。
うちの店で女性に商品を買ってもらう際にもよく使うかな。
「あれ。どうかした?」わざととぼけて見せる。
ねえ? このまま今晩一緒に過ごさない?
もっと気持ちいいことしてあげるよ。
「な、なんでもないわ。……偶然?」
ツンとすました顔をするも、どことなくオドオドと視線が泳いでいる。
なんで僕の顔を見ないんだ?
さっきから視線で話しかけてるんだからこっち見てよ。
今晩OKなのかどうか聞いてるんだけど。
何ブツブツ言いながら視線泳がせてるんだよ。
ねえ、ねえってば!
…………………うん。
断言できる。僕の独自の統計から見てこの反応は。
このダサすぎる反応は。
ディアンドラ・ヴェリーニ……きみ、男性経験ないだろ。