1. ずたぼろの子猫
森の中の田舎道をトボトボと歩く男がいた。
斜めがけしたカバンからはスケッチブックがはみ出している。
薄汚れてはいたが、質の良い上品な身なりをしていた。
王都を出て3日。
ナイジェル・レヴィは当てもなく彷徨っていた。
爵位も財産もこれまでの人間関係もなくなった。
自分の愚かな行動のせいで。
愛する彼女を密かに見つめる権利さえ失ってしまった。
ナイジェルは川岸の木の下に座り、スケッチブックと鉛筆を取り出す。
ササっと素早く鉛筆を走らせ、大好きだった彼女の顔を描いた。
何度も繰り返し描いたせいで、今では記憶だけで描けるようになってしまった彼女の顔。
黒く波打つ豊な髪と真っ赤な唇。
大輪の薔薇のような美しい女性だ。
ナイジェルは自分の描いた絵をしばらく見つめていたが、やがて上着を脱いでスケッチブックを包み、大切にカバンにしまった。
「幸せになれよ。……さようなら」
カバンを木の下に残し、川の中にざぶざぶと入って行く。
死ぬつもりだったーー。
自分はこの世にいてはいけないのだ。
自分の居場所は何処にもない……そしてそれは自業自得だ。
彼が存外安らかな気持ちで速い流れに身を任せようとしたその時。
視界の隅に何かが引っかかった。
岩と岩の間にグニャッとした何かが流れてきて引っかかったのだ。
気になって目を凝らしてみるとそれは動物だった。
ナイジェルはその動物に近寄り、水の中から掬い上げた。
小さな黒い猫だった。ぐったりしている。
慌てて、岸に上がり猫の後脚を持って逆さまに持ち上げる。
そして二、三度軽く振ると、猫は水を吐き出した。
苦しそうにではあるが呼吸が戻りホッとする。
ナイジェルは自分が着ているシャツを脱いで、猫の身体を拭いてやった。
そしてそのまま懐に抱いたまま、荷物を掴むと急いで来た道を引き返した。
来る途中に小さな宿屋を通り過ぎたことを思い出したのだ。
粗末で汚らしい宿だった。
これまでのナイジェルが足を踏み入れたことのない庶民の世界だ。
部屋を取ったあとで、ナイジェルは自分が一文無しであることに気づいた。
王都にいた頃はお金のことなど気にしたことはなかった。
欲しいものがあれば、支払いは従者に任せ、自分は選ぶだけ。
持ち合わせが足りなければ後で従者に届けさせればいい。
レヴィ家の信用があるため、これまで王都ではツケでも許された。
「すまない、持ち合わせがないのだが……何か労働で補えないだろうか」
働いて宿代を賄おうとするナイジェルを鼻で笑い、店主は目の前の客を値踏みした。
「そのカフスボタンで2週間。食事付きだ」
目ざとくナイジェルのカフスボタンを見つけた店主はそう言った。
本当はその宝石がついた金のカフスボタンはその倍の価値があったのだが。
世間知らずのナイジェルは猫が一緒でもいいと言ってくれた店主に感謝し、部屋を借りたのだった。
ベッドと小さなテーブルと椅子が一つずつの粗末な部屋だった。
トイレもシャワーもない。
「シャワーもないのか……参ったな」
先程まで死ぬつもりだったくせに、お坊っちゃま育ちのナイジェルは部屋の質素さに落胆する。
すると小さくドアがノックされた。
開けると、小さな女の子が桶に水を入れて立っていた。
ちょっとつり目気味の痩せた女の子だった。
髪もボサボサで、服も薄汚れている。
「これ……どうぞ」
なるほど。風呂の代わりに桶のお湯を提供するサービスなのか。
「終わったら、この水は何処に流せばいいのかな?」ナイジェルが尋ねる。
「私が受け取りに来ますのでドアの外にでも置いておいて下さい」
洗面所がないので、外に捨てるのか…ナイジェルは納得した。
少女はヨタヨタしながら重い桶を部屋の中に運び入れ、ペコリとお辞儀をすると去っていった。
あんな小さな子供が労働していることにナイジェルは驚いた。
そして自分がいかに世間知らずだったかを痛感する。
桶のぬるま湯で顔や体を清め、猫を包んでいたシャツも洗濯する。
石鹸がないのが残念だが仕方ない。
弱々しく震える猫を懐に抱いて眠った。
やがて朝日が窓から差し込む頃には、子猫の身体も温かくなった。
子猫は安心したように安らかな寝息を立てていた。
「死ななくて良かった」
ナイジェルは腕の中の温かい毛の塊に頬擦りした。
子猫に対して言った言葉なのか、自分自身に言った言葉なのかは分からない。
彼はその時、確かに子猫の温もりと鼓動を感じていた。
そしてその事実は彼を驚かせた。
なぜならあの事件以来、ナイジェルは一切の感覚を失っていたのだから。
疲れも空腹も感じず、生きた屍のようになっていた彼は、この毛玉によって現実世界に引き戻されたのだった。
久しぶりに空腹を覚え、眠っている猫をベッドに残し、階下の食堂に向かった。
昨日使った桶をついでに持って階段を降りる。
水が入った桶はズッシリ重かった。
これをあんな小さな子が持って階段を上がって来たことに驚く。
「おはようございます」
「ああ、お客さん、朝食はあっちに用意出来てるよ」
そうぶっきらぼうに言った宿屋の主人はナイジェルの手にある桶に気がつくと、さっと顔色を変えた。
「おいユーニス! てめえお客さんに桶を持たせて自分の仕事を怠けやがったな!」
そう怒鳴ると、あの小さな少女をナイジェルも見ている前で張り倒したのだった。
吹っ飛んで壁にぶつかった少女はすぐに身体を起こし、
「す、すみません」
そう言うと、ナイジェルの手から桶をもぎ取り部屋を出て行った。
ナイジェルは眉を顰めた。
こんな野蛮な行為を目にしたのは初めてだったからだ。
「すまない、俺が勝手なことをしたのがいけなかった。娘さんをどうか叱らないであげて欲しい」
「あんなの娘じゃあねえ! ただの穀潰しさ。お情けでここに置いてやってるんだからどうしようと俺の勝手だろう」
宿屋の主人は吐き捨てるように言った。
朝っぱらから嫌なものを見てしまった。
ナイジェルはため息をつきつつも、朝食のテーブルに向かった。
生まれて初めて食べる硬くてゴワゴワのパンとカサカサで香りのないチーズ。
野菜のサラダは割とイケた。
かつてのナイジェルのお気に入りの朝ごはんは、サラダにポーチドエッグを乗せ、トリュフを散らしたものと、薄く切ったパンにレバーペーストを塗ったものだった。
特にレーズンやイチジクを焼き込んだ少し甘いパンとレバーペーストの塩気の組み合わせが最高だ。
紅茶はストレート派だ。少し青臭い夏摘みの茶葉が好きだった。
この宿屋には当然紅茶などなかった。
飲み物は酒か、水か、牛乳の3択だった。
「ミルクを部屋に持って行ってもいいかな?」
子猫にあげようと思ったナイジェルは尋ねた。
「勝手にしろ」
衰弱している子猫はミルクを上手に飲めなかったので、ナイジェルはハンカチに浸して一滴ずつ与えた。
子猫はミルクを飲んで眠るのを繰り返し、少しずつ元気を取り戻して行った。
ナイジェルは毎晩子猫を抱きしめて眠る。
毛玉はふわふわで温かくて柔らかい。
昼間はすることがないので、宿の外を子猫を連れて散策したり、日向ぼっこをしたりした。
時々あの少女が仕事の合間に話しかけてくる。
猫が気になるようだ。触らせてあげたらものすごく嬉しそうな顔をした。
少女から聞き齧った話によると、彼女は捨て子だったのを拾われたらしい。
宿屋の主人は恩着せがましく育ててやっていることを自慢するが、孤児院にでも預けられた方がこの子は幸せだったのではないかと、朝から晩までこき使われている少女を見てナイジェルは思った。
「この猫の名前は何と言うの?」ある日少女は尋ねた。
「そうだな。そろそろこいつの名前を考えなきゃいけないな」
ナイジェルは子猫に名前をつけることにした。
子猫の真っ黒で艶やかな毛は、かつて愛した黒髪の女性を思い出させた。
「ディ…………ディー。うん、ディーにしよう」
かくして子猫の名前はディーに決まった。
ディー。
そう呼ぶときのナイジェルの声は優しい。
少女はその様子をじっと見ていた。
ナイジェルがこの宿にやってきてから2週間が過ぎた。
宿を出る日、朝食を食べ終わって部屋に戻ったらディーがいない。
見たら窓が開いている。
ディーが窓から外に出ることは何度かあった。
でも夜眠る時間になるとちゃんとナイジェルのもとに戻って来る賢い猫だった。
ただ、その日は午前中に宿を出なければいけない。
ナイジェルはディーを探して宿の外をぐるっと回った。
誰かのすすり泣きが聞こえて来た。
その声がする方へ行ってみると、ディーを抱きしめながら泣いている少女がいた。
「………………!」
少女の手足にはミミズ腫れのような赤い痕が複数付いている。
あれは……
鞭で打たれた痕だ。
ナイジェルも子供の頃、物覚えが悪いと家庭教師に鞭で打たれることがあった。
しかし、手を1度ピシャリとされるだけだ。それでも十分痛かった。
この少女のように身体中鞭の痕だらけになるなどあり得ない。
「君……大丈夫? 何があった?」
「き、汚い水が入った桶を……階段から降りる時…転んで…こ、こぼして」
少女は痛みと恐怖で震えながら泣いていた…ディーを抱きしめて。
ナイジェルはショックを受けた。
こんな小さな子に何というひどい仕打ちをするのだろう。
だいたいこの子はあの重い桶を持つには小さすぎるのだ。
少ない荷物をまとめたナイジェルは猫と少女を連れて宿屋の主人のもとへ行った。
「……あの少女を俺に譲って貰えないだろうか?」
宿屋の主人は目を見張り、こんな厄介者連れて行ってくれるならありがたいと快諾しようとして……考え直した。
もっと踏んだくれるかもしれないと思ったのだ。
「タダでは無理ですよ旦那。うちも働き手がいなくなるのは損失ですからね…へへ」
「……しかし…。俺も持ち合わせは…」
宿屋の主人はナイジェルを貴族だと思っているのだろうが、あいにく平民落ちしたため自由になるお金はない。
宿屋の主人は下卑た笑いを浮かべとんでもないことを言った。
「この役立たずも、そのうち成長すれば客を取れるようになるでしょうから、そこんとこも考慮してくれねえと」
ゾッとした。
この品性のかけらもない宿屋の主人に対し、激しい憤りを感じる。
怒りのあまり、ナイジェルはつい上着のポケットの中のそれを取り出してしまった。
一生手放すつもりはなかったそれをーー。
「ひっ…………」
宿屋の主人は驚きのあまり言葉を失った。
少女も口をあんぐり開けてそれに見入っていた。
あり得ないほどの巨大なダイヤモンドがついた指輪。
王族でもそう簡単には入手できない高価な品だ。
こんな寂れた宿屋の主人が一生目にすることも出来ないお宝。
かつてナイジェルがディアンドラにプロポーズするために購入した指輪だった。
宿屋の主人が一生かかっても稼げない金額どころか、人生5回分遊んで暮らせるくらいの価値があった。
「これで文句はないだろう」
ナイジェルは指輪を主人の手に押し付けると、少女と猫を連れて出て行った。
「あ、後から返せって言うのはなしですぜ?」
背後から主人の嬉しそうな叫び声が聞こえてくるが無視する。
「いいの? あれものすごく高価なものなんでしょう?」
少女が心配そうに聞いてくる。
ナイジェルは少女に手を差し出した。
「俺、一文なしになっちゃたけど。一緒に来るかい?」
少女はにっこり笑って手を繋いだ。
「野宿でも猫が温かいから大丈夫じゃない? 川の水もあるし、私、木の実採るの上手いのよ」
まさかこの子は木の実で飢えを凌いできたのではあるまいな、とナイジェルはちょっと心配になった。




