11. カルマン邸とロバートの五箇条
(ロバート!)
髪が乱れるのも気にせず、私は馬車を降りると全力で走り出した。
足がもつれてうまく走れない。
間もなくたどり着いたそこは、カルマン家の本宅の玄関だ。
今日、いつものようにカルマン百貨店に行ったら、番頭さんが血相を変えてやってきた。
知らせを聞き、ショックのあまり目の前が真っ暗になった。
ロバートが崖から転落して、意識不明の重体らしい。
私は無我夢中で馬車に飛び乗り、カルマン家にやってきたのである。
(神様! ロバートを助けて!)
ドアが開けられるのを待ちきれず、私は両手の拳でドンドンドアを叩き続けた。
「うるさいわね! なんなの!」
ドアの向こうで怒鳴り声が聞こえ、キャロラインが顔を出した。
「めっ、女狐っ!? なんであんたがここに」
「ロバートは!? 崖から落ちて昨日から意識が戻らないって番頭さんが…」
「そうだけど……ってアンタ何勝手に入って来てんの!?」
「ロバートはどこ? 2階?」
「2階の右奥だけど……いや、ちょっと待ちなさいよ! どこに行くのよ女狐!」
キャロラインの怒鳴り声は私には聞こえなかった。
ロバートのことが心配で心配で、私は半ば強引に家に上がり込み、2階に駆け上がった。
「ロバート!」と泣きわめきながら二階を彷徨いていたら、通りがかった綺麗な中年のご婦人がロバートの部屋を教えてくれた。
「ロバート!」
私は勢いよくロバートの部屋のドアを開ける。
淑女にあるまじき乱暴さだったけど、そんなこと言ってられない。
部屋の中央にあるベッドに、包帯でぐるぐるまきになったロバートが横たわっている。
「ひっ……!」
痛々しい様子にショックを受けた。
「ロバート! 死なないで! お願いよ」
ロバートの手を握りしめオイオイ泣き叫んでしまった。
「ーー君のお願いなら、死ぬわけにはいかないな」
「ロバート!?」
どうやら私は早合点していたらしい。
『昨日から意識が戻らなかったが先ほど戻った』のだそうだ。
嬉しくてホッとして…私はロバートに抱きついて泣いた。
ーー『タイム』と言うのも忘れて。
ロバートはいつものように私の髪を撫でてくれたが、目は何かを考えているように忙しなく動く。
私が少し身を離すと、彼の手は逡巡するようにしばし空中を彷徨ってから、ゆっくりと私の頬に触れた。
大きくて無骨な手には似つかわしくない優しさで、そっと頬を撫でられる。
初めて感じる感触にゾクっとした。
タイムの時とは違う……男の人の手だ。
ロバートの視線が私の視線を捉える。
私たちは無言のまま見つめ合う。
ロバートは親指で私の唇にそっと触れた。
左から右、右から左へと親指が私の唇の上を行ったり来たりする。
触れられたところが熱い。
身体中の神経が唇に集中しているようだ。
込み上げる切ない感情に胸が一杯になる。
ただの指なのに、まるでキスをされているような気分になるのは何故だろう。
私は目を開けていられなくなり、まつ毛を伏せた。
ロバートがごくりと唾を呑むのが聞こえる。
少し間があってから、彼は掠れた声で、
「タイムって言うの忘れてるよ、ディアンドラ」
そう言うと、咳払いをして横を向いてしまった。
ロバートは崖から落ちたものの、上手いこと木の枝に引っかかったらしい。
切り傷や打撲はあるものの、骨折はなかった。
軽症で済んだのは奇跡だと言っていた。
「なぜそんな怪我をしたの?」そう尋ねても、
「ふふ。名誉の負傷ってやつかな」と言って教えてくれなかった。
帰り際、キャロラインの何か言いたげな視線が気になった。
気のせいだろうか、以前のような険がなくなったような……。
その晩、家に帰った私は一人自室でロバートのことを想う。
ロバートに指摘されるまで、自分が『タイム』を忘れていたことに気づかなかった。
抱きついてしまったことを思い出し、恥ずかしくなる。
でも……。
ロバートは気づいていたわけだ。
どうしてあの状況で私にキスしなかったんだろう。
『タイム』って言っていなかったんだからルール違反にはならないのに。
ロバートはそう言うことに奥手な人ではない。
初めて会った時、彼がどこかの人妻とキスをしていたことを思い出す。
「……どうして私には」
キスされなかったことを残念に思っている自分に驚いた。
◇◇◇◇◇◇◇
翌日、見知らぬ老人が私を尋ねてきた。
「君がディアンドラ・ヴェリーニ嬢? ほほう。これは別嬪さんだ」
いきなりジロジロ眺め回されて不快だった。
ついキツイ態度で応対してしまう。
年寄りだからと言って油断は出来ない。
以前、ヨボヨボのおじいさんに手を貸してあげたらキスを迫られたことがある。
私は五箇条を頭の中で復唱した。
「何か御用ですか」
「そう警戒しなさんな。フォッフォ」
老人は髭を揺らしながら面白そうに笑う。
「ワシはデミトリ・アーデン。王立科学アカデミーの地質学者じゃ」
王立科学アカデミーの?
地質学者?
「依頼されたヴェリーニ領の土壌調査の報告書を持って来たぞ」
「……………………?」
「なんだ、何も聞いておらんのか。あいつめ、格好つけおって」
何が起こっているのか分からない。
ポカンとしている私をよそに、老人は勝手に座って、ばあやが持ってきたお茶をゴクゴク飲んだ。
「さて。ヴェリーニ領では作物の収穫が落ちて困っているそうだが」
出されたお菓子を全て平らげ、老人はようやく本題に入った。
「はい。土の中のリン酸の成分が不足していると言われました」
「そうか。でも一番の問題はそこではないのだよ」
一見胡散臭そうに見えたこの老人は実はちゃんとした研究者だったことを私は後ほど知ることになる。
彼は王立科学アカデミーでも五本の指に入る研究者だった。
地学・地球科学分野の第一人者と言ってもいいだろう。
時折、私の胸元をチラチラ見ながら、アーデン教授は一つ一つ説明を始めた。
ヴェリーニ領は海の近くだ。
畑の土も少し砂っぽくて、粒子が粗い。
粘土のように養分をしっかりキープしてくれる土ではない。
だから雨が降る度石灰が流れてしまう。
加えて同じ作物を連続して栽培していた。
この二つの要因によって、うちの領地の土地は『酸性』になってしまったのだという。
酸性の土壌というのは土の中の金属が多い。
金属はリンと化学反応を起こす。
本来、植物の栄養として使われるはずだったリンが金属との化学反応に使われてしまい、植物は栄養失調になってしまったというわけだ。
だから酸性の土壌を改良しない限り、リン不足はいつまでも続く。
「酸性の土壌をアルカリ性に近づけるには石灰を投入するんじゃ」
「石灰?」
「カルシウムと言った方がわかりやすいかの」
「わかります。でも……骨粉とかのことですよね。高くて買えません」
老人は嬉しそうに笑った。
「ふぉっふぉっふぉ。骨粉以外にもある」
「?」
「ヒント、お前さんの領地にタダで転がっているものじゃ」
「えー?」
「貝殻じゃ」
あ………………。
「貝殻を粉にして撒けば問題はほぼ解決する」
海の塩分による被害ーー塩害も石灰を撒けば解決するのだそうだ。
今まで、植える植物の組み合わせを変えたり、間に放牧や家畜の飼料を植えたり、休耕の周期を変えたり、色々試したがどれもダメだったことを相談してみた。
するとアーデン教授は
「ほう? よく調べたの。大したもんじゃ」と褒めてくれた。
そして
「酸性でない土壌ならそれも上手くいくはず」と言ってくれた。
良かった。
行き詰まっていた問題解決の糸口が見つかったのだ。
暗い洞窟に太陽が差し込んだような、そんな気分だった。
今聞いた話を早く手紙で父に知らせなければ。
来季から少しずつ収穫量を増やして行けばいい。
もう無駄な肥料にお金を費やす必要もない。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
何とお礼を言って良いのかわからない。
「礼ならカルマン商会の若造に言ってやれ」
「え?」
なぜ突然ロバートの名前が出て来るのか。
最近やけに姿を見せないけど。
「たった1時間の調査のために、ワシに2週間もこき使われ危うく死にかけたんじゃからの」
「え? ロバートがあなたにこの調査を依頼したのですか?」
「あれで死なれたら寝覚が悪い。軽傷で何よりじゃった」
ロバートにしつこく頼まれ調査を引き受けたのだと教授は教えてくれた。
そして報酬代わりに彼が危険な手伝いを引き受けたことも。
ロバートが…………じゃあ、あの怪我は私のせい……。
「教授、私彼のところに行ってきます!」
「おお、ワシからも宜しく伝えておいてくれるかの」
白髭の老人はニッと笑い手を振った。
私は自宅にアーデン教授をほったらかしにしたまま家を飛び出した。
ロバートがわざわざ地質調査をしてくれる人を探してくれたなんて。
そんなこと一言も言っていなかった。
あんなに包帯でぐるぐる巻きになって……私のために。
涙が出てきた。胸が苦しい。
そして昨日訪れたばかりのカルマン邸に再び押しかけたのだった。
泣きながらドアを叩くと、呆れ顔のキャロラインが顔を出した。
「女狐……、またアンタなの」
階段を駆け上がっていると、昨日ロバートの部屋を教えてくれた中年の婦人とすれ違った。
「あら、ディアンドラさんご機嫌よう。ロバートは部屋よ」
ニコニコしている。
「こんにちは。ありがとうございます……?」
ロバートの部屋の扉を開けると、ベッドの縁に腰掛けた彼がいた。
寝巻き姿だ。
「ディアンドラ?」
「ロ、ロバートっ」私は大泣きしながら、彼の胸にダイブした。
「いてっ!」
普段なら私が体当たりしてもビクともしない彼だが、今は怪我人だ。
そのまま呆気なくベッドに倒れた。
まるでベッドの上で私が押し倒したようになってしまった。
「あっ! ごめんなさい」
慌てて、彼の上から降りようとしたら伸びてきた腕にグッと抱きしめられた。
「あ、でも怪我に障るわ」
「大丈夫だ」
「でも」
「……大丈夫だ」
そう言って彼は私の頭をポンポンと叩いた。
いくらなんでもこの体勢は……妙な気分になる。
ロバートを見たら赤い顔をしていた。
心臓がドキドキしているけれど、それは私と彼のどちらの心臓なのだろう。
「アーデン教授が訪ねて来たの」
「なんで泣いてるんだ。君に笑って欲しくてやったのに」
優しいロバートの声。
「私のせいで怪我までさせてしまって…ごめんなさい」
「君のせいじゃない」
涙が止まらない。
ロバートがあまりに優しすぎるせいだ。
「領地の収穫、来季から良くなるって……。ありがとう。本当にありがとう」
「よかった。もう心配いらないね」
彼はベッドに横たわったまま、私を上に乗せて抱きしめる。
ずっとこのままでいたい……そう思った。
「ねぇディアンドラ。僕の五箇条を教えてあげようか」
ロバートが天井を見ながら言う。
「?」
「君を笑わせる。君を甘やかす。君に優しくする。君を泣かせない」
ロバートの手が私の髪を優しく撫でる。
「ーーそして、君を守り抜く。これが僕の五箇条だ」
涙腺が完全に崩壊する。
彼の寝巻きの胸元は私の涙でびしょびしょになってしまった。
「はは。4つ目のやつが一番ハードルが高そうだな」
ロバートはそう言って笑った。
その日、私たちはどちらも『タイム』と言わなかった。




