10. サンプル採集
ディアンドラを安心させてあげたい。
彼女の一番の懸念は領地の収穫量が激減していること。
次に優秀な婿が見つからないこと。
ただ慰めるだけでなく、僕はこれらの懸案事項を解決したいと思っている。
そうと決めたらさっさと行動しよう!
………ってなわけで、僕は今ヴェリーニ領から王都へ戻っている最中だ。
灯りもない田舎道を馬に跨がり駆け抜ける。
明るくなってから出発しても良かったが、一分一秒でも時間が惜しい。
不眠不休で全速力。
通常なら一日半かかる道を一晩で走り、明け方に王都に帰り着いた。
真っ直ぐに王立科学アカデミーの研究所に向かう。
人気のない暗い廊下の突き当たりの部屋の扉をノックする。
「サンプル採取してきました。早く分析をお願いします!」
「あー君、いいところに来た! ちょっとこれ抑えてくれるかな」
白い髭を長く垂らした小さな老人ーーアーデン教授は僕を手招きした。
言われるがままに瓦礫が詰まった袋を押さえるのを手伝う。
教授は怪しげな液体を注ぎ入れーー
ものすごい爆音と共に僕は吹っ飛ばされた。
「ゲホ、ゲホッ!」
「すまんすまん。次はもう少し濃度を下げないと」
少し前からディアンドラの実家の領地の土壌を調べてくれる専門家を探していた。
あちこちに聞いて回っていたら、僕の師匠であるランバルド伯爵夫人に紹介されたのがこの男だった。
優に70歳は超えているこの老人は王立科学アカデミーの地質学者だ。
ヴェリーニ領の作物の収穫が激減している事情を話し、原因と改善方法を教えて欲しいと伝えたらいくつか条件を出された。
一つはヴェリーニ領の地質サンプルと持ってくること。
もう一つは調査の報酬代わりに彼の手伝いをすること。
僕は二つ返事で承諾した。
そして今、ヴェリーニ領から土壌サンプルを採取して戻って来たところだった。
「さあ、早く調査してください!」
「まあそう焦りなさんな」老人は皺だらけの手で髭に飛び散った瓦礫の破片を取り除いた。
「教授の手伝いっていつまですればいいんですか?」
「ワシがヴェリーニ領の調査を終え、レポートを書き終わるまでじゃよ」
なんだ、サンプルさえ採って来れば即結果が出るんだと思ってた。
このジジイ本当に研究者なんだろうな? なんか胡散臭いんだけど。
僕は渋々承知した。
そしてヴェリーニ領から持ってきたお土産を手渡した。
「これ。お土産です。採れたてのムール貝」
「ほほう。美味そうじゃの」
教授は喜んでムール貝を受け取ると、上機嫌で次の指示を出した。
「では早速王都の東地区の下水のサンプルを取って来てくれるかの」
「あと、レト河下流のサンプルと」
「ガイヤの丘の断層の上部分に生えている植物を数種類とって来てくれ」
はー。人使い荒いな。仕方ないか。
早く調査が終わってくれることを祈るしかない。
僕は睡眠不足の体を引きずり、研究室を出て目的地に向かった。
僕が出ていき、一人になった教授は、
「さて……と」
ヴェリーニ領の土のサンプルを手に取った。
それを顕微鏡で観察したり、薬品を混ぜたりしながら同時にメモを取る。
そして1時間もしないうちに、分析を終えた。
そんなことは知る由もない僕は、それから2週間にわたりこのジジイに奴隷の如くこき使われることになる。
「若者よ、悪く思うでないぞ。この歳になるとフィールドワークもなかなかにキツいのでな」
体は老いてもそこは学者。
頭だけはしっかり…と言うよりはちゃっかりしていた。
「カルマン商会、なかなか気骨がある若者じゃ。少なくとも先日訪ねてきた財務長官の息子のように金で解決しないところがいい。フォフォフォ」
と独り言を言いながら、実験用のアルコールでムール貝の酒蒸しを作り始めた。
◇◇◇◇◇◇◇
昼間はアーデン教授にこき使われ、夜は百貨店の方に顔を出し番頭から報告を受ける。
「坊っちゃん、その格好はどうしたんですか。戦地にでも赴いていたので?」
毎日泥だらけでボロボロになって現れる僕の姿に店員一同ギョッとする。
今日はまだいいほうだ。
服に何箇所か穴が開いて、顔が真っ黒なだけだから。
一昨日は悲惨だった。
夜間のテンの生態を観察させられていたら、身体中蚊に刺された。
顔が腫れ上がり、別人のようになった時は悲しかった。
でもヴェリーニ領の畑もよくテンに荒らされてるって言ってたよなディアンドラ。
だから頑張った。
店のほうは特にトラブルもなく、売り上げもいつも通りのようだ。
…ああ、もう10日以上ディアンドラの顔を見ていない。
会いたいな。
禁断症状だ。辛い。
ディアンドラはちょくちょく店に顔を出していると番頭から聞いた。
なんも買わずにキョロキョロしていたと教えてくれた店員もいた。
僕のこと探してくれてたりしないかな。
そうだったら嬉しいのに。
「今日はディアンドラは店に来たのかい?」
なるべく平静を装って番頭に尋ねる。
「それがーー」
番頭が言葉を濁し視線をチラリと横に向けると、ひょっこりディアンドラが現れた。
心臓がドキっとした。
「ディアンドラ! こんな夜遅くにどうしたんだ?」
何かあったのかと心配になった。
「とりあえず送っていくよ」
僕はディアンドラを自宅まで送ることにした。
「ちょっと顔洗って着替えてくるから待っててくれる?」
ディアンドラがコクリと頷いた。
歩いても10分程度の距離なのだがあえて馬車にする。
なぜって……ディアンドラと二人きりになりたかったから。
タイムを口実にしてディアンドラを抱きしめたかったから。
あのジジイのせいで、毎日全身ボロボロなんだから、それくらいいいだろう。
この辺でディアンドラ成分を補充しないと僕死にそうなんだよ。
御者に、僕が合図するまでその辺をぐるぐる回ってくれるように指示する。
ごめんねディアンドラ。
こんな下心ばかりの男で。
「久しぶりだね、ディアンドラ」
ああ。久しぶりに見るディアンドラが眩しい。
「ロバートどうしてそんなにボロボロなの。大丈夫?」
「大丈夫だよ。それよりどうした、何か辛いことでもあったのか?」
ディアンドラが口ごもる。
「辛いことは特にないのだけれど……さ、寂しいことが…あったと…言うか?」
赤い顔をして。モジモジしている。
まさか僕に会えなくて寂しいと思ってくれた?
そう聞きたかったけどやめた。
だって…万が一にも…そうだと言われたら。
僕は『タイム』のルールを破らないでいられる自信がない。
「そっか。寂しかったんだね。じゃ…タイム?」
はやる気持ちを抑えて、余裕のある大人のフリをして腕を広げる。
「タ、タイム!」
ディアンドラは恥ずかしそうに僕の胸に飛び込んで来た。
膝に乗せ抱きしめ、髪を優しく撫でる。
腕に伝わる彼女の身体の柔らかさと甘い香りに頭がクラクラする。
ああ癒やされる。
生き返った気分だ。
完全に中毒患者じゃないか。
男を寄せ付けない五箇条を信条としているディアンドラ。
そんな彼女が甘えてくれるのが嬉しい。
可愛くて。
可愛くて。
抱きしめる腕に思わず力が入ってしまいそうになるのを必死で抑える。
本音を言えば僕はこの程度では全然満足出来ない。
もっと思い切り君を愛したい。
でもーー
君の信頼を失いたくないから。
君がホッと出来る場所でいたいから。
僕は醜い欲望を隠し、いい人を演じる。
そう決めたのに。
いつまでも家に着かない馬車に対して君が何も言わないから。
いい人でいる決心が揺らぎかけた。危なかった。
アーデン教授にこき使われてクタクタのはずなのに今夜は眠れそうにない。
◇◇◇◇◇◇◇
「教授、まだ調査は終わらないんでしょうか」
アーデン教授の手伝いをさせられるようになって2週間が過ぎた。
「うむ。今一生懸命調べているところだ」
教授の目が泳いでいる。
土壌調査ってそんなに時間がかかるものなのか?
「せめて進捗状況だけでも教えていただけませんか。解決策はあるんでしょうか」
「楽勝じゃ」
「は?」
「来季から収穫量は増やせる」
「本当ですか!?」
本当だろうか? だとしたらディアンドラはどんなにか喜ぶだろう。
泣き虫だから、嬉し泣きするかもしれない。
泣きすぎて鼻が赤くなったディアンドラも可愛いんだけどね。
そしたら抱きしめて背中トントンだな。
優しい言葉をかけるとかえって泣いちゃうんだよね。
泣き止ませるには背中トントンが最強だ。
背中をトントンしているうちに、だんだん力が抜けてきて僕に身体を預けてくれるところがいい。
可愛くて、グッとくる。
この子は僕が守らなきゃって思うんだ。
下心があるからバチが当たったのだろうか。
僕は数分後、背中トントンのことなど考えている場合ではなかったことを思い知る。
その時僕は崖っぷちにいた。
いや、比喩じゃなくて物理的にね。
アーデン教授に崖の上に咲いている珍しい花の採取を命じられていたのだ。
岩だらけで風も強い崖っぷちで懸命に咲いている赤い花。
その花にディアンドラの姿を重ねてしまったのが間違いだった。
ただの植物なら、届きそうにないと思ったら諦めてさっさと帰っただろう。
でももし愛しいディアンドラが崖っぷちに立っていたら?
僕はその花をどうしても連れて帰りたくなってしまって……。
『おいで』
無理な体勢で手を伸ばした。
ディアンドラの手……じゃなくて赤い花の茎を握った瞬間、僕は大きくバランスを崩しーー
そして真っ逆さまに崖から落ちていったのだった。




