3.2 艶然
28歳男性。親友の死を苦にして自殺を図り、酒と睡眠薬で死ねなかった人。
黒いベストのバーテンダー服を纏った彼は、先日の救急外来での憔悴しきった面影はなく、当然のようにきちんと自分の足で立っていた。
病院では下ろした前髪に隠れて気づかなかった右耳に、ピアス穴が1つ見えていた。
「あの、先日はどうも病院で・・・」
「いえ、・・・そうですよね。お体大丈夫ですか?すみません、あの時は慌ただしくて」
「いえいえ、この通り元気です。僕が馬鹿なことをして、迷惑をお掛けしたので」
礼儀正しく、頭を下げられて恐縮する。
やはり品が良い。あのERでの限界状況でもこの上品さが滲み出ていたのだから、大したものだ。
マスクに半分隠れた目鼻は、端正に整っている。
中性的な風貌に似合う眼鏡の縁の向こうに、黒い優しい光が映って揺れていた。
「この仕事柄、嫌なことあるとすぐ手近のお酒飲んでしまって。
先生、忙しい中僕のくだらない話を聞いてくれて、いつかお詫びできたらって思ってたんですよ」
忙しい中。彼の言葉に胸が締められる。
ざわつく心を落ち着けようと、ポケットの中の手が無意識に電子タバコを探り当てる。
「いえ、そんな・・・」
あの夜、ERで。
時間に追われ、カルテを書きながら、横で寝転がされている彼に半分背を向けて、少しずつ話を聞いた。
何をどれだけ飲んでしまったのか、吐いたり気を失ったりしていないか、何が辛かったのか、今も死にたい気持ちがあるか。
『もう、大丈夫です』
彼は真っ直ぐに、全ての質問に応えてくれた。
その落ち着いた様子と、平常の真っ当な生活を思わせる風貌。
異常値の何も無い真っ白な検査データ。
緊急性は無いと判断した。
朝になってから精神科医が現れて、大丈夫そうだねーと言いながら彼を診察してくれた。
『精神科疾患既往なく、一時的なストレス反応。希死念慮現在はなし。入院は本人も希望なく、現時点では不要』
そうカルテに書かれたのを確認し、背中を丸めてERを出ていく彼の後ろ姿を追うように、お大事に、と声を掛けた。
余裕のない私の姿は、この聡明な男性からどう見えていただろうか。
私、彼の話、ちゃんと聞けていただろうか。