2.2 蒼然
一人暮らしを始めたばかりの彼の部屋は、駅から10分くらいのアパートで、まだ届いていないローテーブルの代わりの段ボール箱が真ん中に鎮座していた。
学生の頃しょっちゅう持ち歩いていたドラムのスティックは、テレビの脇に大事そうに立てかけてあった。
お酒を飲んでお互い口数が多くなって、彼が意地悪な顔をしながら私の口に缶チューハイを流し込んできたりもして、帰りたくないと呂律の回らない舌で駄々をこね、彼の膝にしがみついた。
彼のスウェットを借りて、照明を落としたワンルームに敷いた布団の上でキスされて、後は全部好きなようにされた。
その夜に辛いことは何もなかった。彼は優しくて、セクシーで、勉強中には見せなかった激しさを見せてくれた。
新しい関係の始まりになるはずだった。
次の朝に彼の家を後にしてから、やり取りは結局途切れ途切れになっていき、
長い間燃えていた私の想いは行き場をなくし、吸いさしの煙草みたいに燃料も足されずにくすぶり続ける羽目になった。
元々居酒屋でだけ吸う機会喫煙者だった私は、仕事を始めてから少しだけ吸う量が増えて、電子タバコを部屋で燻らせながら彼のLINE電話を鳴らしたい衝動に駆られる夜も多くなった。
一度だけ、赴くままに本当に電話を掛け、彼の声を聴いたことがある。
「はーい」
気の抜けた返事だった。
彼はいつもこんな調子だ。
自分からは何も求めないのに、こっちから働きかければ大抵のことは受け入れる。
そのつかめなさが離れた今はしんどかった。
無理に明るく、私は何も変わってませんよ、なんて風を装って声をかける。
「元気?外科で死んでない?立ちっぱで腰痛めてない?」
「うーん、実際そんな元気じゃないーかなー。腰は、普通に痛い。」
「まじか、かわいそう、がんばれー。ちゃんと家には帰れてる?」
「まあなんとか。帰っても疲れて寝ちゃうだけだが。御崎赤十字どんな感じなん?結構ブラック?」
「ER当直はまあまあやばいよ、でも今内科だから暇。ウイルス騒動で予定入院断ってるしさー、患者いなくて8時出勤定時帰り」
「まじか仕事してないじゃん。でもそれじゃなかなか手技の練習も進まんな」
「ほんとだよ~」
たわいない会話は続き、私はベッドに寝転がる。
彼の話ぶりはなかなか忙しく余裕がなさそうに聞こえた。
職場になじめていない気がする、なんて言い出せなかった。
軟骨にピアスをあけている人も、喫煙者も、酔って親友とセックスしてしまう子も今の研修病院にはいなくて、私はずっと、ひとりぼっちな気分で彼の指の感触を懐かしく思い出していた。
彼とはそれから一度も話していない。
薄暗く、ぼんやりした日々。
私はずっとそこに囚われ続けていた。
あの日、白坂真子に話しかけられるまで。