昔の御近所付き合い
武が目を閉じて幾らかしているとインターフォンが鳴らされる。
「ん?誰だろう?」
武はそう呟きながら起き上がると再びブザーの鳴る扉を開ける。
すると、そこにはニコニコと微笑む老婆の姿が鍋を手に佇んでいた。
「こんにちは。新しく入って来た人だね?
隣に住む今井ってもんさ」
「え?はい」
「これ、多く作り過ぎちまったんでね?
ついでだから、お近づきの印にこれを」
「……はあ」
武は鍋を受け取ると今井と名乗る老婆が尋ねる。
「それで?引っ越し蕎麦はないんかえ?」
「え?」
「だから、引っ越し蕎麦じゃよ。まさか、お前さん、引っ越し蕎麦を知らんのか?」
「は、はあ。一応、名前だけなら……でも、本当に蕎麦なんか配るんですか?」
「そうだよ。全く、最近の若いもんは礼儀を知らんのかね?
そこから交流ってもんが生まれるんだよ?」
今井はブツブツと呟くと武に鍋を渡して、自分の部屋へと戻って行く。
(そう言えば、子供の頃、近所のおばちゃんがやたら親切でおせっかいだったよな。
アメとか貰ったり、井戸端会議が好きだったり)
武はそんな事を思いながら、部屋に戻ると鍋の蓋を開ける。
鍋の中はカレーだった。
(カレーか……。ご飯が欲しいな)
そう思っていると武の部屋の台所に炊飯器としゃもじ、皿にスプーンとおたまが現れる。
炊飯器の中には炊きたてのホカホカしたご飯があった。
どうやら、この部屋は武の望む通りに物が出てくるらしい。
「ああ。ありがとうね?」
武は部屋に礼を言うと器にご飯を盛り、鍋をコンロに乗せると鍋の中身をおたまですくってカレーを注ぐ。
武は部屋に現れた机と椅子に座るとカレーを食べる。
そのカレーは懐かしい味だった。
それはまさにお袋の味とも言うべきか。
武はそれを夢中になって食べ始める。
幽体故に食欲も味覚もない。
それでも、これは美味いと思える何かがあった。
よくよく考えれば、インベーダー喫茶でオレンジジュースを飲んでいる。
つまり、嗜好品に近いものなのだろう。
武がそう思ったのはカレーを食べ終えて、一息吐いてからだった。
しばらくして武は食器と鍋を洗うと鍋を返しに向かおうとする。
「あ、そう言えば、引っ越し蕎麦がどうとか言ってたな?」
武がそう呟くと台所に箱に入った蕎麦の束が現れる。
「えっと、これを配れって事?」
部屋は答えなかったが、武はなんとなく、肯定されてる気がした。
「色々とありがとうね?」
武は部屋にお礼を言うと今井の元へと向かい、ブザーを鳴らす。
「はいよ~」
そんな声がして扉が開かれると先程の今井と言う老婆が現れる。
「おや、あんたかい?」
「ええ。カレー、ご馳走様でした」
「どう致しまして。口には合ったかい?」
「はい。とても、美味しかったです」
「ホッホッ。それは何よりじゃ」
「あ、あと、これも……」
武は鍋を返すと蕎麦の束が入った箱を渡す。
「ああ。持ってきてくれたんかい。ありがとうね?」
「いえ、此方こそ、間に合わせですみません」
「いやいや、こっちこそ、催促した様で悪かったね」
今井は蕎麦を受け取ると武に説明する。
「引っ越し蕎麦を配る意味は細く長くお願いしますって意味があるのさ」
「へえ。そんな意味が……」
「大家さんにも配ってやんな。きっと喜ぶよ」
「はい。教えて頂いて、ありがとうございます」
武は頭を下げると今井が顔を出す扉を後にする。