4. 教室
どうやら自分が思っていたよりも疲れていたらしい。
起床し時計を確認すると既に12時を回っていた。
下に降り掃除をしていた母になぜ起こしてくれなかったのかと糾弾すると、「またあの気持ち悪いゲームしながらしごいてるとこに入ってもかわいそうかなぁと思って」という、母の慈愛溢れる回答が返ってきた。
実にありがたい心遣いだ。流石の僕でも実の母親に八回も行為を見られたら、自我の崩壊を起こしてしまうかもしれない。
母の、今日は休んだら?というこれまたありがたい心遣いを断り、僕は学校へ行く準備を始めた。
もちろん行きたいわけではないが、今日休んでしまうと、机を隠されてショックのあまり休んだと思われてしまう可能性が高く、基本的に全然傷ついてないんで、みたいな感じでいきたい僕としては、そう思われるのは芳しくない。
僕は重い体をなんとか引き連れ、玄関を開けた。
今日ばかりはこの短い通学路を恨みながら、僕は教室の前へとたどり着いた。
昼休憩が始まっているはずだが、教室の外から感じる限り、教室の中はかなり静かなように思われる。
深呼吸をし、覚悟をを決めた僕は、自然体を装い教室の中へ入った。
途端、昨日とは比にならないほどの視線を感じた。思わず教室の外へ飛び出しそうになったが、よく見てみると様子がおかしい。
まず、僕の机は所定の位置にきっちりとある。そして、昨日僕に対して嫌な視線を送っていた集団の中に城ヶ崎さんがいない。その城ヶ崎さんは自分の席にぽつんと座っており、そして、僕同様に視線を集めていた。
その視線は決して好意的なものではなく、人気者の彼女にふさわしいものではないように思えた。少し心が痛む光景だ。
僕は状況が読み込めず、ただただ突っ立っていると、肩をぽんっと叩かれた。
振り返ると、そこには心配そうに顔を歪める緒方くんがいた。
ちょうどいい。今の状況を説明してもらおう。
「あっ、桜庭く〜ん。今回は災難だったねー」
僕が緒方くんに話しかけようとしたその時、横から誰かに話しかけられた。
状況の乱れっぷりに混乱しながら振り返ると.......うーん、名前が出てこない。クラスの女子の子だとだけわかる子がそこにはいた。
「でも、もう大丈夫だよー。もう桜庭くんにいじわるさせないからさー」
「え、どういう意味?」
僕が思わず聞き返すと、名も知らぬ彼女はにっこり笑いながら答えた。
「桜庭くん、城ヶ崎さんからいじわるされてたんでしょー。でも、もう大丈夫っ。城ヶ崎さんには私たちがきつく言っておくからさー」
...............なるほど。だんだんと理解が追いついてきたぞ。僕が学校に来るまでになんらかのことが起こり、城ヶ崎さんが僕に対する嫌がらせの主犯だとバレたんだ。いじめなんてことがあれば大問題の今の世の中なので、いじめの主犯である城ヶ崎さんを皆が避けている、という状況かな。少し違和感のある結論だけど、状況を見る限りそうだよね。
と、いうことは、彼女のいう通り、僕が城ヶ崎さんから嫌がらせを受けることは当分ないだろう。城ヶ崎さんもそれどころではないだろうし。
しかし、派手な見た目だけど本当にいい子だな。名前を覚えていないのが恥ずかしい.......何か、見たことあるんだよなぁ。いや、クラスメイトだからもちろん見ていて当たり前なんだけど、そうじゃなく、
「.........あ、あの」
おっと、緒方くんを無視したまま話を進めてしまっていた。僕は彼女にお礼を言い、適度に話を切り上げてから、緒方くんの方に向き直った。緒方くんは大切な話があるから一旦場所を移したい、と伝えてきた。
先ほどから向けられている視線にいい加減気分が悪くなっていた僕としては、非常にありがたい提案だった。
城ヶ崎さんのことが気になるけど、すぐに解決できることだし、後にしてもいいだろう。
緒方くんが提案してきた場所は何かと縁がある校舎裏であった。
僕たちは、今は鍵がかかったまま使われていない校舎への扉に続く階段に腰掛けた。
しかし、こんなところで何の話だろう...........あっ、まさか。
こ、告白、かな?
緒方くんは女性的な美形だから、ちょっとドキドキするな。
僕ならともかく、菊池あたりだったら、間違いなく◯◯◯ビンビンのシチュエーションだろう。
あれ?なんか緒方くんがめちゃめちゃ可愛く見えてきたぞ。
なんか目潤んでるし。頬も上気してるし。なんかエロい。
「桜庭くん、本当にごめんなさい!!!」
「こちらこそごめんなさい!!!!」
「えっ!?!?」
「あっ」
思わずエロい目で見たことを謝罪してしまった。この様子だとバレていないようだし、このことは墓場まで持って行こう。
ん?というか、今、緒方くんも謝ったよね。
「緒方くんに謝られることなんて一つもないけど、どうしたの?」
「え、桜庭くんこそ、なんで謝ったの?」
「.........ああ、僕、人から謝られると、間髪入れず謝り返しちゃうタイプなんだちぃ」
「..............あっ、そうなんだ」
誤魔化せ.........てないよね。緒方くん明らかに引いてるし、なんか語尾変になったし。
僕は大きく咳払いをし、緒方くんに続きを促した。途端彼は先ほどの表情に戻った。ああ、そのちょっとエロい感じは謝罪の気持ちの表れだったのか。そんなものをエロい目で見ていた自分が嫌になる。
勝手に自己嫌悪に陥る僕をよそに、彼は喋り始めた。
「その.....桜庭くんがいじめられてるのに、助けてあげられなくてごめんっ!」
彼は立ち上がったかと思うと、大きく頭を下げた。なんだ、そんなことか。それなら全く問題ない。たった一日の話だし、僕が緒方くんに話しかけられないように、必死に話しかけないでオーラを放っていたのだ。彼に悪いところなんて一つもない。
「全然いいよ。緒方くんは何も悪くないんだから。顔をあげてよ」
彼は顔をあげたが、その表情はまだ暗いままだ。
「........悪いよ。僕、正直、怖かったんだ。桜庭くんに味方して、自分もいじめられるの........ほんとに、友達失格だよ」
そう言う彼の肩は震えていた。自分を守るためにいじめを見逃した、と自分の口から言うのは相当勇気のいることで、そう簡単にできることではない。僕は素直に緒方くんがすごいと思った。て言うか今さらっと友達って言った!?緒方くんそんな風に思ってくれてたの!?え、めっちゃ嬉しい。
「........そんなの当然だよ。怖くて当然。緒方くんが心配してくれているの、十分伝わってたし。緒方くんには感謝しかないよ」
「か、感謝なんて」
「してるよ。僕がしてるんだから仕方ない。こればかりは緒方くんがどうにかできることじゃないよ」
「..........ほ、ほんとに?いいの?」
「もちろん」
「.........これからも、友達でいてくれる?」
「もちろん。むしろ、こちらからもお願いするよ」
「............ありがとうっ」
彼は手の甲で目に溜まった涙をぬぐい、にっこりと笑った。
なんて素敵な笑顔だろうか。この笑顔を守るために人生の全てを費やしてもいいと思えるような笑顔だ。と、菊池だったら思うだろうね。菊池だったら。
それからも必死に元気付けてた甲斐あって、緒方くんはすっかり元気を取り戻し、「お詫びにご飯おごるよ」と、てっきり僕が学校を休むと思い、弁当どころかご飯すら炊いていなかった母親からもらったお茶漬けの素で、なんとか今日をしのごうと思っていた僕にとっては非常にありがたい提案をしてくれた。
この学校は、進学校なのにと言うべきか、進学校だからと言うべきか、非常に自由な校風の学校で、染髪やある程度の服装の乱れなどは見逃されていたり、出席日数が足りていなくてもテストで優秀な成績を収めればなんとか進級できたりする。昼休憩の食事にもその自由さは見られ、時間内だったら学外の店で昼食をとることも許されている。なんなら、聖ヶ丘高校の学生証を見せれば割引になる店もあるくらいだ。なぜその自由な校風の中でゲーム機類は許されていないのか。誠に遺憾だ。
僕たちは話し合いの結果、ここから徒歩で8分ほどの場所にあるラーメン屋『魚.com』へと行くことに決めた。
ここのラーメンは一杯のラーメンに煮干しを80g使っているのが特徴で、最初はきつすぎるかのように思われるその風味が、いつしか癖になってしまうという逸品だ。
緒方くんはすっかりそこのラーメンの信奉者らしく、嬉しそうな顔で「火曜のサカコム(魚.comの略称)は本当に美味しいんだよ」と、いかにも通っぽい発言をしていた。
かと思うと、彼の表情は急に曇りだし、視線を下に落としながら言いにくそうに口を開いた。
「.......そういえば、まだ、謝らなきゃいけないことがあったんだ.......。城ヶ崎さん、桜庭くんのこと........好きそうだったから、桜庭くんのこと、いろいろ話しちゃったんだ............。ごめん」
「え、いや、全然大丈夫、だけど........」
ん?ちょっと違和感があるな。普通、告白した相手に他の男のことを聞くだろうか。何か、悪い予感がする。
「........えっと、緒方くん、もしかして、城ヶ崎さんから告白されてない?」
「....へっ?う、うん。もちろんそうだけど.........どうして?」
僕は城ヶ崎さんから告白された二日前のことを必死に思い出した。
僕が3番目の候補で、他の男に振られたから僕に告白した、と指摘した時、城ヶ崎さんはあっけにとられたような表情をした後、怒り僕をビンタした。
僕はそれを図星を突かれたが故の態度だと思っていたが、そうではなく、理不尽な嫌疑をかけられたことに対する態度だったのでは?
僕が思案していると、視界の端に見覚えのある金色が飛び込んできた。
綾小路さんだ。
彼女もこちらに気がつくと、その見事な金髪のサイドテールを飛び上がらせて、一目散に逃げていった。少し傷ついたが、昨日のことを考えれば仕方ない。.........しかし、彼女はなんでこんなところに?城ヶ崎さんが孤立しているのを放っておけるタイプでもないと思うのだが。
「..........もしかしたら、綾小路さん、クラスに戻りづらいのかも。城ヶ崎さんと、すっごい喧嘩しちゃったから」
「えっ?」
僕が疑問の意を表明すると、彼は説明し始めた。
「綾小路さん、城ヶ崎さんが....桜庭くんへ嫌がらせしてるの知ってたみたいで......それで、口論になっちゃって、綾小路さん教室から出てっちゃって」
「え、教室で喧嘩してたの?」
「うん.............それで、城ヶ崎さんが机隠した犯人だってわかって........それで、今、あんな感じに......」
......なるほど。これで、先ほど教室で感じた違和感の説明がつくな。
僕が感じた違和感というのは、たとえ僕に対するいじめがバレたところで、人気者の城ヶ崎さんがあれだけ孤立するのはおかしいのではないか、ということだ。
城ヶ崎さんがたとえどれだけうまくやっていたとしても、彼女が僕の机を隠したことを知っている人はクラス内にいただろうし、それを知らなくても、クラスに少しでもいれば、ぼんやりとではあるにしても、誰が誰をいじめているなんてことは感じ取れてしまうものだ。なので、ただいじめの主犯だとバレたところで、あそこまで状況に変化が生じていることに違和感があった。
しかし、いじめを糾弾したのが城ヶ崎さん以上の人気者だったら話は変わるだろう。城ヶ崎さんは一気にクラスの悪者になったに違いない。
........でも、わざわざなんで教室で?綾小路さんは、城ヶ崎さんがいじめなんてことをしてるのが広まるのが嫌で、人目につかない校舎裏なんかに呼び出したんじゃ?気になるな。それに、今僕がいじめにあっていないのは綾小路さんのおかげだし、お礼も言わなければいけない。あと、友人と喧嘩させて、その友人を孤立させてしまったことの謝罪と、その解決も。
「.......緒方くん、ごめん。用事思い出したから、ラーメン屋いけない」
「ええ!?!?火曜だよッ!?!?!?」
緒方くんは目をめいいっぱい見開き、体をのけぞらせた。
火曜のサカコムってそんなに美味しいのか。来週絶対行こう。
「うん、ごめん。どうしても済ませなきゃいけないことがあるから」
僕は緒方くんに謝り、綾小路さんが消えていった方向へと走り出した。