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閑古鳥は死神なのか

作者: 空月 碧

 買い物帰り、私は小さな店を見つけた。町はずれも町はずれ、誰も使っていない建物が並ぶ古い通りに、息をひそめて佇んでいた。赤レンガの基盤と焦げ茶の柱が、周りの朽ちている建物よりも呼吸をしているように見える。漆喰の壁の右側に木札が打ち付けられているのを見つけて、私はふらふらと近寄った。

「閑古鳥」

 声をあげて笑ってしまった。ますます気になって、ドアを押す。重厚に見えた木製のドアは想像よりもずっと軽く、勢いよくドアベルが鳴った。ひどく驚いてその場で固まってしまう。目だけで通りの様子を見るけれど、もちろん誰もいない。店の中は昼なのに薄暗く、一人分ほどの幅の廊下がレトロチックに続いていた。静けさにベルの音がまだ響いている。

 いっその事ドアを閉めてしまおうかと思った矢先、奥から優雅な足音と共に長身の男が現れた。口角は上がっていて笑顔だけれど、眉は八の字を描き、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

「こんにちは」

 男は声を紡いだ。絹のような、滑らかな音だった。

「こんにちは」

「見ていかれますか?」

 男は一歩引き、ドアに手をかけて尋ねる。紳士的な態度に慣れていないため、私は少しでも行儀良くしようと緊張する。

「はい、少しの時間で構いませんので、よろしいでしょうか」

 男はほろりと笑った。

「どうぞ。狭くてすみません」

 そう断って、男が先導する。私は猫背気味の彼の後に続いた。

 閑古鳥という言葉から連想する雰囲気とは異なり、店の手入れは行き届いていた。廊下には埃一つ落ちておらず、板床は光沢さえみれた。右手の壁に、窓がある。小さな木がひとつ植わっていた。反対の壁には大きくも小さくもない魚の絵が飾られている。

「この町の方ですか?」

 男は尋ねた。

「はい、先週引っ越してきたのです」

「あぁ、そうですか」

 ところで、彼の言葉の紡ぎ方は非常に独特だった。慎重に注意深く、繊細な息遣いで柔らかい。例えばシャボン玉であったり、飴細工であったりを、自身の声で壊さないよう気を使っているようだった。そうでなくとも、彼の声色は溶けやすい透明さを帯びていた。彼の言葉は耳にそっと運ばれる風のようでもあった。

 間があり、また彼は口を開いた。

「町の人から、ここの事を聞いておりませんか?」

「いいえ」

 私も努めてそっと息を出す。

「帰り道に散策をしていて、見つけたのです」

「あぁ、そうですか」

 先ほどと同じ返答だったけれど、どこか浮かない声色に首を傾げた。

 廊下を抜けると、京間十畳ほどの空間があった。中を見て声を失う。三階まで吹き抜けてある壁という面すべてを、大小の棚が覆いつくしていた。黒いステンレス製のそれは、パズルのように組み合わさり、さながら解の出た数式だ。実用的なものは、部屋の隅に一人用のテーブルと椅子があるきりで、棚の中には様々なものが整列していた。瓶詰めにされた綿、試験管の中の砂糖、標本のコガネムシ、写真の中のケヤキ、剥製になったブンチョウ。一貫性のないものたちが、それぞれが居心地の良い場所で、じっとしていた。三階の窓から柔らかな日差しが降り注ぎ、天井に吊るされたステンドグラスの欠片たちに反射して、床の上で転がっている。彼はそれを踏まぬよう避けて部屋へと入った。は、といつの間にか開いていた口から息が出て、我に返った。

「何も知らずに来てしまったのですが、ここは何屋さんですか?」

 圧倒されながらも空気を壊さないよう、ゆっくり丁寧に発音する。ふわりふわりと一音ずつ漂い、ステンドグラスの中へ溶けていった。

「ただの見世物屋ですよ」

 振り返った彼の声が空気に広がる。切なささえ含んで聞こえた。彼は続ける。

「“死”を、保存しているのです」

 彼の笑顔は繊細だった。異様なほど、この空間に合致した笑顔だった。私は戸惑う。

「死を、ですか?」

「はい、紛うことなき死です」

 頭の中で言葉を反芻していく。私はそばのブンチョウを、おそるおそる観察した。黒曜のようにキラキラ輝く瞳は、好奇心にあふれた表情で私の事を見つめ返すけれど、微動だにしない。

「どうぞご自由にみられてください」

 彼は言うと、静かに椅子に座った。脇の棚から文庫本を取り出してページを開く。動作に無駄がなく、習慣だと一目でわかってしまうほどに慣れたものだった。

 彼が本を読みだすと、辺りはいよいよ静寂に飲まれていった。ブンチョウは相変わらずその場を動かない。隣に居座るアロワナは水中から冷めた目でこちらを見上げている。ダイヤの8とスペードの6は手を取り合い、グラデーションに詰められた砂はまたたきながら互いと交信していた。モンステラの葉はガラスの中で眠り込み、雪の結晶は律義に手を伸ばして止まっている。

 剥製が多かった。ウサギ、キツネ、イタチ、ネズミ、ヘビ、カワセミ、カラス。水のものもある。ヤマメ、アユ、ナマズ、サンショウウオ。各棚に自分の場所をサイズぴったりに取り、どれもこれも次の瞬間には動き出すための緊迫感を持っている。けれど、その瞬間は、永遠に来ない。

 一階から見えるものを一通り見渡して、私は男に向き直った。数歩近づくと、彼は顔を上げてほほ笑んだ。

「退屈でしょう?」

「まさか、とんでもないです」

 率直に感想を伝えると、彼は曖昧に笑った。

「ただもう帰らなければならないので、本日は失礼します」

「あぁ、そうですか」

 柑橘色の空が、ドアの外で待っていた。見送ってくれた彼にお辞儀をして、家に向かって歩き出す。途中で大きく息を吸い、はぁと全部吐き出した。心拍はしばらく収まりそうにない。


**


 翌日、私は転居届を提出するために町に出た。

 越してきた町は私の憧れた場所であり、心躍るほど快適なところだった。レンガを基調とした町並みに、工芸品や見慣れない品がたくさん作られる町だ。小さくても活気があるためか町民同士も仲が良く、店番を客に頼んだり物々交換をする姿も見られる。笑い声が絶えない、明るい町だった。

 私の家は商店街より南にある、林に近い場所にあった。下草の伸びる緑の道を、必要書類と買い物かごを持って歩いていく。ラッパの音や笑い声が近づくと、わくわくと気持ちが膨らんで、自然と笑みがこぼれるのだ。役所は町の中心にあった。からりと湿気の少ない町を、意気揚々と歩んでいく。

「やぁお嬢さん。今から役所かい?」

 魚屋のおじさんが手を上げた。私も軽く手を振る。

「やっと必要なものがそろったんです」

「そりゃよかった。楽しみだな」

 ロープでカツオを吊るす彼に笑って手を振った。そのあとも、何人もの町民に挨拶をして、石積みの威厳ある建物に入る。案内受付に会釈をして、フロアを左へ進んだ。カウンターの向こうで、小太りの男性が待っていた。

「こんにちは。転居先を提出しにまいりました」

「はい、お待ちしておりました」

 ニコリとほほ笑みあい、私は担当者に書類を渡した。パラパラとその場で確認をしていき、最後の書類に大ぶりのはんこを押した。無事に済んで、ほっと胸をなでおろす。

「鍵をお貸しください」

 クリームパンのような、ふんわりとした掌に鍵を乗せる。担当者はカウンターの下でガタゴト音を立てた後、鍵と一枚のカードを差し出した。私は先に、家の鍵を受け取った。カードは無地で何も書いていなかった。

「これは、何ですか?」

「この町で一番重要なものです。さぁ、どうぞ」

 促されて私は両手で受け取った。親指と人差し指の間でカードが震えた。無地だった髪の中心に、黒い点が生まれる。点はみるみる紙に染みわたっていき、気づけば猫の顔のシルエットが浮かび上がっていた。

「ねこが」

「はい、おめでとうございます。黒猫ですね」

 担当者は祝福の言葉を述べた。私は彼に尋ねようとして顔を上げて、はと驚いた。先ほどまで、温厚そうな印象だった中年の男性が、何故かカワウソに思えた。実際彼は人の形のままだったが、どこから見てもカワウソという単語しか浮かんでこない。

「何が、どうなったのですか」

「この町の、なんといいますか。呪いのようなものです」

「呪い」

「私たち町民の絆の形とでも言うのでしょうかね。ともかく、これであなたもこの町の住民になれたのです」

 カワウソになった担当者は、にっこりとほほ笑んだ。

「ではよい生活をお送りください、黒猫さん」

 私は呆然としながら役所を出た。先ほどと同じ景色なのに、受け取る情報がまるで違うのだ。道行く人々に動物の名前を思い浮かべてしまう。今すれ違った人はハムスター、八百屋の奥でおとなしくしている奥さんはチンパンジー、あそこで立ち話をしているおしゃれなキツネさんは、確か洋裁店を営む娘さんだ。

「おや、黒猫だったのかい」

 行きを見送ってくれた魚屋のおじさんが声をかけてくれた。彼はペリカンだった。

「ネコは良いな!魚買っていくか?」

 ドキリとした。まだ自分がどういう状況なのか把握できていない。私は自分に、「魚が前よりも好き?」と問いかけてみたが、私は首を横に振った。しばらくして、ペリカンさんが笑い出した。

「ジョークだよ。記号がついたからって、似るわけじゃない」

「そういう、ものなのですね」

「なに、あだ名だと思ってくれりゃいいさ。俺のこともペリカンって呼んでな」

 わはは、ともう一度笑って、ペリカンさんはキンメダイを持ち上げた。

「安くしとくよ」

「わぁ、ありがとうございます」

 私はいそいそと財布を取り出して、割引された金額を渡した。

「煮つけがうまいぞ」

「ありがとう。また来ます」

 その後が大変だった。見知った顔が次々と現れ、「黒猫さん」と改めて挨拶していくのだ。魚がかごの中でぐったりとのびているのに、ちっとも前に進まない。愛想笑いと握手を繰り返してそろそろ疲れてきたとき、肉屋のチーター夫人が声を上げた。

「明日の晩、歓迎会を開きましょう。それまで挨拶はお預け」

 わぁと歓声が上がった。拍手に、私は感謝で笑顔を零しながら一礼した。

 その晩、ろうそくの火の中で、煮つけを食べた。脂ののった白身がほろりとおいしくて、口角が上がってくる。気分がよくなって、今日散々呼ばれた「黒猫」を意識して、もう一口食べる。味は変わらずおいしいままだったけれど、どこか心の奥で黒猫という自覚が芽生えた。魚がおいしいのも、私の中に黒猫がいるからかもしれない。

「にゃお」

 口に出して、一人で笑ってしまった。どうあれ、おいしいことは良いことだ。私が黒猫と呼ばれるのなら、そうかもしれないのだ。そうやって、私は黒猫になった。


**


 閑古鳥の戸を叩くと、彼はたいそう驚いた顔をした。

「どうされました?」

「昨日見られなかったものを、見に来ました」

 彼の目を見てほほ笑む。彼は困惑した表情のまま招き入れてくれた。カツコツ、足音が鳴る。

「あの」

 声が震えていた。私は彼の背を見上げた。

「町の方から、聞いていませんか?」

「何をですか?」

 私は彼の背が丸くなったのを見た。

「……いえ、何でもありません」

 部屋に入ると、彼は昨日と同じように椅子に座った。私は静寂を一度吸い込み、ぐるりと棚を見渡す。何も変わらず、彼らはうずくまっていた。私はブンチョウに挨拶してから、二階へ上がれる階段を目指した。足音が彼らの中に吸い込まれていく。彼は本から目を離さない。上から見る彼は、ここにいるものたちと同じであるような錯覚に陥った。薄汚れたぬいぐるみは自分の持ち場を守っている。横にコバルトブルー、チョコレート、アンモナイトが座っている。試験管立ての前にラベルが張られていて、水素、星屑、涙、と書かれていた。中にはどれも淡色のものが入っていた。

 手すりから身を乗り出してみる。何も聞こえないのに、耳鳴りはしない。中央に吊るされたステンドグラスがくるくる回っている。私はそっと目を閉じた。昨日の騒ぎが嘘のようだ。今息をしているのは、私とおそらく彼だけだろう。それが堪らなく不思議で、耳を澄ますほどに心の中で何かが溶けていくような感覚に陥る。私はほうと息をして、はるか向こうの冥王星に思いをはせた。

 半刻ほどして、私はゆっくり階段を下りた。パラリとページが捲られる。

「あの、今晩私の歓迎会があるんです」

 おずおずと、私は切り出した。彼は伏せた瞼を持ち上げた。

「会場は町の広場だそうです。よろしければ、来られませんか?」

 音が広がって、壁と展示物に染みこんでいく。彼は丁寧に二度まばたきをしああと、こちらを向いて微笑んだ。

「楽しんできてください」

 そうして遠慮気味に立ち上がる。私はおじぎをして、店を出た。



**


余所行きの服など持っていなかったので、少しでも見栄えする薄浅葱色のワンピースに、淡黄のカーディガンを羽織った。何も言われてはいないが、挨拶があるだろうから自己紹介を暗唱する。茜色の空が西より消えると、町の明かりが煌々と見えた。暖色のガス灯に、赤や緑の小さな光が混じって見える。私は胸の高鳴りに任せて、家を飛び出した。

「ようこそ、主役さん」

 誰かが声を上げる。広間に長机がいくつも並べられ、料理が何十種類と置かれている。もうすでに集まっていた町民たちの拍手に会釈をしながら、輪の中に入った。テーブルを囲うように、カラーフィルムの張られたキャンドルが揺れていた。大男のゾウが立ち上がった。

「さぁ、祭りを始める前に、材料を提供してくれたチーターとチンパンジー、それにペリカンとリス」

 がたりと四名が立ち上がった。おじぎと共にありがとうと声が上がる。

「それから料理を作ってくれたトラの奥さんとハクチョウ夫人、ポニー、ラクダ、ガチョウの小僧」

 ガタガタ、とまた椅子が鳴る。私は周りに負けないくらい大きな拍手を送った。

「そしてこの会場をお貸しくださった町長」

 別席に座っていたカバが立つと、歓声が上がった。

「最後に、先週引っ越してきた、主役の黒猫さん」

 ざっとたくさんの瞳がこちらを見る。私は緊張しながら立ち上がると、がんばれと小声が湧いた。私は背筋をただす。

「本日はこのような会を開いてくださり、ありがとうございます。今晩で一層打ち解けられることが想像できて、楽しみで仕方ありません。どうぞよろしくお願いいたします」

 拙くいって頭を下げると、歓声と拍手に包まれた。息をつく暇もなく、コップを手に取って乾杯と叫んだ。酒瓶が回り、笑い声と談笑が満ちていく。私の両脇に座るフクロウとウシさんが黙々と皿に料理を盛っては私の前に置いていく。

「自分でできます」

と言うけれど、聞き流されてまた皿が来る。

「前はどんな町に住んでいたの?」

 向かいのシマウマの奥さんから聞かれた。私は皿を一つでも空にするため、フォークを持った。

「工業の進んだところでした。私の両親の町です」

「何故越してきたんだ?」

 シマウマの隣に座る、おしゃべり好きなレッサーパンダが聞く。私は微笑んだ。

「この町にずっと憧れていたからです」

 おぉ、と拍手が起こった。いいぞ、と声が届く。

「よくパンフレットに乗っていた工芸品と町並みを見て育って、いつか住めたらとおもっていました」

「どこかに弟子入りするつもりなの?」

 ヒツジの声がする。私は言いよどんだ。

「まだ、決めていないです。でもきっと何か見つかると思って越してきました」

「それで黒猫になるって思ってたのか?」

 わはは、と笑いが起きる。私はバジルと一緒にジェノベーゼパスタを絡めた。

「想像もしませんでした。こんな驚きがあったなんて」

「そりゃそうだよ、この町に引っ越してきた者は誰もいないからね」

 右の方からコウノトリのおばあさんの声が聞こえる。

「来ただけじゃわからないのさ。この町の秘密の呪いだ」

「何故そのようなものができたのでしょう」

 食べ終わった皿をフクロウが持っていく。代わりにチーターが隣に座った。

「わからないのよ。ずっと昔からあるみたいでね」

「原因なんていいさ。俺はレッサーパンダ。お前はチーター。それでいいじゃないか」

 声が雑音に揉まれて消えていく。私はパリッとウィンナーをかじった。

「おいしいです」

「よかった。うちで売ってるから、今度おいでね」

 ウィンクするチーターさんに頷いた。

「何か不便なことはないかい?この町では全部揃うけど」

 そこで私は時計を持っていないことを思い出した。

「時計はどこで売っていますか?」

「時計は鳩屋だね。今日ハト来てたっけ?」

 チーターの呼びかけに、シマウマが否と答えた。

「少々風変わりな小さい鳩が切り盛りしてる。でも精密な時計を作るよ」

「自分が死ぬまでの時を刻む時計とかな」

 左の方で声がした。二つ隣のハイエナの旦那だ。

「それでカッコウに食われて終いだ」

 一瞬ざわめきが止まる。私は、はたと彼が今日この会を断ったことを思い出した。

「死にたくなかったら、鳩屋の懐中時計を持ち歩くなよ」

「グジルおよし」

 チーターの荒い声がする。淀んだ空気に、へっとハイエナさんは笑った。

「このぼやっとしてる嬢ちゃんに忠告しとかにゃ、後悔しても遅いぜ」

「あんたがこれ以上ここで余計なことを言ったら肉売らないからね」

 ハイエナさんは口を閉じた。賑わいが少しずつ戻ってくる。チーターさんは咳払いをした。

「そうね。ウサギの質屋と、カッコウの見世物屋はあまり出入りがないわ」

「そうですか」

 腑に落ちてしまった。私は淡いライチソーダを口にした。炭酸に彼の寂し気な笑顔が浮かんで消える。もう深くは聞けなかった。馬鹿げたことで笑い、何度も乾杯を繰り返し、笑い通すしかなかった。


**


「こんにちは」

 閑古鳥の主人に挨拶すると、男は目を丸くさせた。

「また見せてもらって構いませんか?」

「え、えぇ。どうぞ」

 彼は先日と同じように、丁寧ながらも困惑したように私を招き入れた。

「大抵の人は、ここへはきません」

「そうらしいですね。こんなに素敵な場所なのに」

 私は廊下の窓を見た。鮮やかな緑が風に揺れて茂っている。彼は黙って歩いていた。

「気が済むまで、おられてください」

 彼は机の前で文庫本を開く。私は二階へ上がって静けさに耳を傾けていた。

 最初に彼が“死”を展示しているといった意味を考えてみる。無機質なものはわからないが、剥製は確かに独特だった。次の瞬間を待ち続ける姿は、健気で生きていると言われればそうなのだろうと頷ける。それを敢えて“死”と断言した彼の意図を汲もうとした。彼らも死ぬまで止まらない時計を持っていたのだろうか。棚の天井を見上げているキツネを見つめる。彼がそっと受け取って、彼らは死んでいったのだろうか。もし、私は彼に時間を食べられたとき、自分の“死”に気づけるだろうか。

 透明な小瓶に、色のない液体が入っていた。ラベルに『ラッパスイセン』と書かれてある。手に取って栓を外すと、華やかで清々しいスイセンの香りが溢れ出して、初夏の日差しの中を輝いた。さわやかな香りに目を閉じると、優しい眠りが耳元で囁きかけてくる。死に囲まれているはずなのに、穏やかな生を感じずにはいられなかった。


***


「時計ですか?」

 大きな瞳をくりくりと動かして、ハトの子は私を迎えてくれた。レースのカーテンがどの窓にもかけられて、ほかの店より薄暗い。けれどこの少年の表情が喜怒哀楽を雄弁に語るから、まるで太陽が置いてあるようでどこか眩しくもあった。

「昨日のお祭り、僕も行きたかったんです。でもどうしても、歯車の寸法が合わなくて」

「いえいえ、よろしくどうぞ」

 作業机の前に彼は座って、私に向き直った。

「どんな時計がいいですか?腕時計、置時計、壁掛け時計に水時計と何でも作りますよ。どんな注文でもなさってください」

 尋ねる姿勢がだんだん前のめりになり、目が輝き始める。私が求めるものを作るためというより、自分が早く時計を作りたいのだと見えた。まるでボールを投げてほしい犬だ。私は聞いた。

「懐中時計も作るの?」

「はい、懐中時計でよろしいですか」

「あ、町で聞いたから。あの、カッコウが食べちゃうって」

「あぁ兄さんの話ですか。あれはただの噂なので気になさらないでいいですよ。懐中時計にしましょうか」

 彼は紙とペンを用意する。私は声を上げた。

「お兄さんがカッコウなの?」

「そうですよ。僕は時計作り歴は長いですけれど、一番しっくりと作れるのは兄さんが改良した懐中時計なんです。いい出来栄えになるんですよ。文字盤もそろえていますし」

 さらりと時計に話が戻っていく。私は必死に手繰り寄せた。

「死ぬまでの時間を刻む時計?」

「はい。ほら、こんなに種類が」

「お兄さんが、発明したの?」

 表情を伺うけれど、全く曇らぬ明るい笑顔で頷いた。

「そうです。最高傑作である、貴女が息途絶えるまで一度も止まらない、正確な時間を刻む時計です」

 なんとも不思議なキャッチコピーに曖昧にほほ笑んだ。彼は得意そうだった。

「特別なものね?」

「機能としてはただの時計ですよ。一秒も狂わず正確に前へ進むので、針を調整するねじが無いくらいですね。一流の職人にしか作れない、滅多とない代物です」

 明らかに自慢だ。小学生くらいの年頃にしては深すぎる。

「この時計を紛失したらどうなるの?」

「破壊されない限りは問題ないです。作り直すことはできませんので、失くしたらそれきりですね」

「壊れたら死んじゃうってこと?」

「そう簡単に壊れませんよ。ハトの太鼓判ですので」

 おススメですよ、となおサンプルを見せてくるハトに首を振る。

「怖いわ。人質に取られたり、万が一を考えると」

「何を言っているんですか。あなたがその体で生きている限り続くことと、全く一緒の話なだけですよ」

 ハトも驚いた顔をしてこちらに顔を向ける。そういえば目元が、彼の兄に似ている。閑古鳥の彼の笑顔が浮かんだ。彼を取り巻く、微睡の見世物屋だ。

「……もしかしたら、真っ先にお兄さんに預けるかもしれないわ」

「はい?」

 彼は聞き取れなかったようだ。私は笑顔で首を振った。

「ううん、何でもない」

「ねぇ作りましょうよ、懐中時計」

 帰り道、ベーコンを買いにチーターさんの所へ寄った。彼女は笑顔で秤を取り出した。

「ソーセージ、おまけにつけとくよ」

「ありがとう。それと鶏肉もくださいな」

 ショーケースに並んでいた脂ののった塊が秤の上に乗る。

「鳩屋へ入ったの?」

「今行ってきました。成り行きで懐中時計を作ることになって」

 チーターさんは軽く笑った。

「あんた押しに弱いのね」

「あんなに押しが強いとは思いませんでした」

「あの子はあれが好きだからね。作り甲斐があるんでしょうよ」

針はぶれて、なかなか止まらない。

「何日かデザインの話や調整で通わないといけないそうで」

「あの子は好きなことに熱中できる性質なのさ」

 紙に包まれたベーコンが渡される。私は代金を払った。財布の中を見て思わず声が出る。

「仕事を探さないと」

「役所は手が欲しいみたいだけどね。はんこ押し係」

「できれば私も自分の手で何か渡したいんです。特技があるわけではないですが」

「何でもいいのよ。時間をかけるほど磨かれるから、根気よく行きなさい。みんなも楽しみにしてるわ」

「ありがとう」

「あぁあと、グジルの事、悪く思わないでね」

 苦笑いに微笑んで、私は外へ出た。ベーコンをぶら下げて帰路につく。時間とはどんな味がするのだろう。八の字の眉を思い出しながら、夕焼雲を見ていた。


**


スイセンの香りが消えない中で、閑古鳥の主人は困った顔をしていた。

「気に入ってもらえて嬉しいのですが」

 彼は切り出した。私はスカートの裾を触った。

「もうここへ来られない方がよろしいかと」

 天球儀が光を受けて鈍い光と影を作り出している。サメの頭蓋骨の犬歯がくっきり見えた。

「でも、ここが好きなのです。町で流れる時間も好きですが、ここでは色々なことが考えられると言いますか、考えがまとまったりするのです。ここにあるものたちを見ていると、落ち着くのです」

彼は文庫本のしおり紐を弄りながら、目を伏せて黙った。私は話題を変えようとした。

「このたび、時計を作ろうと思うんです。あなたの弟さんの」

 切り出してしまったと思った。彼がひどく傷ついた表情をしたのだ。どう言葉を取り返せばいいかわからず、必死に引き出しを漁る。

「可愛い弟さんですね。元気がよくて職人意識が高くて。あんなに小さいのに」

 彼を痛めつける気は全くなかったのに、口から飛び出す言葉はどれも彼を抉っていった。私はどうにか口を閉じた。首が下がる。ステンドグラスの足跡が揺れた。

「僕の弟は立派ですよ」

 疲れた様子で彼はつぶやいた。私は黙って頷くしかなった。この町の境界線が見えない。彼は大きく息を吐いた後、意を決して顔を上げた。

「気が済むまでとは言いましたが、ここへ来ることはお勧めしません」

「何が問題なのでしょう?ごめんなさい、私には何故あなたが恐れられているのかわかりません。ここを恐れる理由が見つからないのです」

 この部屋に並べられたものを見つめる。どれもこれも、午後の日差しに落ち着いていた。

「あなたは勘違いしてらっしゃる」

 ぼそりと彼はつぶやく。

「僕にはここにいる理由がありますし、ここあるものも異様なもので本来はあるべきじゃない」

「あなたが、時間を食べると言われることに関係しているのですか?」

 彼の眉間にぐっとしわが入った。私は困惑のままに言う。

「でも時間なんてみんな食べてるじゃないですか」

 弾かれたように彼は顔を上げた。何か言わせたくなってしまったが、私は続けた。

「みんな、他の生き物を捕って、寿命を奪っていきているじゃありませんか。何故あなただけ、時間を食べるなどと疎まれるのかわかりません。みんな同じでしょう?」

 彼は口を閉じてじっと床を見た。展示物がこちらの様子を伺っている。きっと私は進んではいけない方へと向かっているのだ。好奇心は猫を殺すが、それでもこらえきれず私は言った。

「私はあなたのことをもっと知りたいのです」

 彼は一呼吸後、顔を上げた。泣きそうな顔で数度口を開き、しばらくして諦めたように零した。

「違うのです」

「何がでしょう」

「あなたも、町の方も、必要な分だけ食べるでしょう。僕の場合は、無差別に時間を奪ってしまう。死を招くのです」

 小さな沈黙が下りた。私は彼の言葉を待った。

「僕が物体に触ると、無条件でそれの時が止まってしまいます。触れるという条件だけで、僕の意思に関係なく彼らの時間を吸い取ってしまう。有機物であれ無機物であれ、ここにあるものたちのように微動だにしないのです」

「……もしかして、ここに展示されているものはあなたが触れたものですか?」

「そうです。すべて僕が触れて残ってしまった“死”です」

 呆気に取られながら、改めて部屋全体を見渡した。

 独特な空気感は、死を受け入れてから一切の時を刻んでいないからだったらしい。勿忘草は瓶の中で花を咲かせたまま腐ることはなく、天から降ってきた雪片は瓶の中で溶けることはなかった。腐食、劣化、崩壊を気にせず、彼らは止まり続けていた。

「だから近づかない方が賢明です。ここがあること自体が異質で、あっていいものではない。何より、万が一僕に当たりでもしたら、あなたの時は止まってしまいます」

 彼は口を閉じた。死を迎えた者たちが息をひそめて様子を伺っている。私は深呼吸をした。スイセンの残り香が、脳をくすぐった。

「それは想像以上に、難儀ですね」

「まぁ、そうですね」

 おずおずと私は言ってみる。何が正解かわからないが、諦めるよりも口にした方がいい気がした。

「ここがますます気に入ってしまいました。あなたが触っただけで、こんなにもいきいきと形を留めてしまうのですね」

 私はブンチョウを振り返る。出会った時のままに、瞳を輝かせていた。

「魔法の手だわ」

「……あなたはひどい人だ」

 彼の言葉が刺さった。振り向くと、空虚な瞳と目が合った。

「僕の弟もそういいました。兄さんの魔法の手が好きだと。けれど、僕は殺したくなかった」

 空間にひびが入る。見えはしないが、確かに彼がこれまでそっと紡いでいた声色が、空気を軋ませた。

「僕は無差別にものの時間を奪って、延命などしたくはない」

 私は歪んだ空気を視線でなぞる。私が見えるものと、彼の感覚は絶対的に違っている。

「ごめんなさい。心無い言葉でした。でもあなたの触ってきたものに対して、愛しいを感じるのです。見世物屋というのが乱暴だと思うほどです」

 彼は眉間にしわを寄せたまま、少し首を傾げる。緑色の瞳が、じっとこちらを見ていた。

「乱暴、とはどういうことでしょう」

「あなたを介して彼らが得た死は、凍った湖のように冷たく静かな眠りで、見世物という表現は似合わないです。あなたが生きるために彼らに与えたものは、あなたが思っているよりずっと価値のあるものだと、思うのです」

 彼は目を細めた。私は一度口を閉じる。自然と耳を澄ましていたが、日の光だけが時間を知らせる要因であり、何も聞こえはしなかった。歪みは少しずつ修正をして馴染みつつある。

「じゃああなたは、この部屋を何と呼ぶのですか」

「そうですね、例えば博物館という施設に似ています」

「ハクブツカン」

「はい。資料を収集し保存して、展示する場です。独特な空気が流れています。それぞれ展示されているものは止まっているのに、互いが共鳴しあって特別な時間が刻まれているんです。耳を澄ましても聞こえないほど僅かなのですが、死を超えた呼吸をしています。彼らがそこでしか存在できない、唯一の空間なのです」

彼はやはり眉は八の字だったが、どこか力の抜けた安らかな顔で微笑んだ。

「そうですか。それは、素敵なことを聞きました」

 彼は柔らかく笑う。

「ここは彼らを弔うためにあります。死を包むための埋葬室なのです」

 ほうと息を吐き出した。息は確かに、ステンドグラスへ吸い込まれていった。もうひびはどこにもなかった。

「でもやはり、ここには来ない方がいいです。僕はあなたを殺めたくはない」

「あなたとの距離は違えません。これまでのように、ここへ足を運ばせてほしいのです。こんなにも大切な場所を、私も大事にしたいのです。それに、あなたの体質だけを見て、あなたと接さないのは、なんだかとてももったいないと、思うのです」

 だから、と続ける。必死で紡いだ言葉は、ステンドグラスにあたって、弾けて、消えた。

「私はあなたと、お友達になりたいです」

 彼は、笑った。やるせなく笑った。

「生きている人とのつながりなんて、いりません。僕には死んでしまったものへの償いと、彼らの時間だけで充分です」

 彼は愛用の木製机の木目をなぞった。イタチが、私のことを見計らうようにじっと見つめている。

「でも、それほど気に入ってくださったのであれば、時折赴いてください」

「ありがとうございます」

 私は深くおじぎをした。はぁ、と安堵の息をつく。

「では、また来ます」

「はい、またどうぞ」

ガランガランとドアベルの音が背中で響く。私は、ゆっくりと足を動かした。こんなにも本音で話をしたことはなかった。自分があまりに疲れていることに気づく。きっと彼は私以上に疲れているに違いない。彼はどれほどのものを諦めてきたのだろう。人との接点をなくすために町を諦め、弟を諦め、それでも疎まれて、生きているという事に不安を覚えながらも、死ぬまでの寿命が来ない。町の人のこともここの立地も頷けるし、彼の憂いげな雰囲気にも納得がいく。でも今日がないと、私があそこで過ごす明日はなかっただろう。カラスが鳴きながら林へ帰る姿を見ながら、うちに帰ったら私と彼の安らかな眠りを祈るためにカモミールティーを飲もうと思った。


**


「兄さんに会っているんですか?」

 少年は目を輝かせて言った。懐中時計の時間調整のために呼ばれて、ついでに細工を見せてもらったのだ。細やかな模様の中に、猫が腹を見せている。

「いいですね。僕も会いに行きたいです」

「お元気そうよ。ぜひ会いに行ってみて」

「兄さんは僕を見ると締め出すんです」

 拗ねた顔に、また余計なことを言ってしまったと気づく。

「あなたのことがよっぽど大事なのね」

 少年は声を出して笑った。嬉しそうだった。

「僕、兄さんのことが大好きなんです」

 ねじの様子を見ながら、楽しそうに言う。

「町の人はひどいことしか言わないけれど、兄さんは立派な人で、臆病で、優しいんです」

 先日の時計の説明の時のように自慢げだった。

「もとはこの店は兄さんが始めたんですよ」

「懐中時計を発明したから?」

「いえ、ただの時計屋です。兄さんが初めて作った時計は壁掛け時計と聞きました。一秒も狂わない正確な時計ができたそうです。兄さんには才能があったんです」

 壁に掛けられた時計を見る。振り子はリズムよく揺れている。

「でも兄さんの体質が出てしまって、兄さんがカッコウと呼ばれるようになって、カッコウと鳴く時計をみんな怖がりました。死に見張られていると誰かが言ったそうです」

 カーテンの影が揺れた。カチコチ、針のリズムが空気を満たしていく。

「兄さんは僕に店と技術を残して、あそこへ行ってしまいました。僕のために、兄さんは僕を捨てなければならなかったのです。ねぇ、臆病で優しすぎると思いませんか?」

「そうね、優しいね。私は友達になれないって振られたわ」

「相変わらず、臆病ですね」

 私たちは笑った。お土産に持ってきたオレンジピールを齧る。甘酸っぱくも苦い味が口に広がった。噛むほどに落ち着きが体を満たす。

「いつか二人暮らしをするのが僕の夢です。兄さんが心地いいことが一番ですが」

 鳥のさえずりのような声に、閑古鳥の中で楽しげな弟と穏やかな兄の笑顔を想像した。

「素晴らしいわ」

「僕が諦めない限り、続く夢です」

 時計はもう少しお待ちください、とハトは溌剌と言った。


 帰り道のすれ違いざまに、キツネのお嬢さんが言った。

「最近、カッコウの所によく行ってるの?」

 私は苦笑交じりに答えた。

「彼も、町の人たちと同じように温かで、素敵なお店なんです」

「へぇ。でも私たちの所へ死神を寄越さないでね」

 彼女の声は冷たかった。私は黙って家に帰って晩御飯を作った。彼は一人だ。私が通っていても、ひとりぼっちだというのに。

 白身魚のグリルを食べながら考える。口を動かすたびに、一刻一刻と時は過ぎていく。私はもう一口魚を食べて、椅子の背もたれに寄りかかった。年の離れた兄弟が、並んで時計作りしている姿が浮かんでくる。ピンセットで歯車を扱う弟に、丁寧に兄が指導していく。吹きかかる息さえ時計には凍えるものだから、息を殺さなければならない。そっと慎重に、修行は進んでいく。そうして弟が立派な時計を作り上げた時、兄は弟を捨てるのだ。

「僕は兄さんが大好きです」

きっと弟は泣きながらも伝えただろう。兄は眉を八の字にして、ほほ笑んだに違いない。頭を撫ぜるのを我慢していたかもしれない。大きく息を吸い、鼻から吐き出す。咀嚼していくうちに頭痛がしてきた。しばらく動かず宙を見ていたが、席を立って外に出た。夜に沈んだ林の近くに、眠りについたラベンダーを数本摘む。空気に花の匂いが揺れて、嗅覚をくすぐった。優しい香りに深く息を吸って、星を仰ぐ。頭を空にして身を任せていると幾分か気が楽になった。私は花をまた少し摘んで、灯りのついた家へと入った。


**


「あら、あんたいい匂いがするね」

 ドアをあけてすぐに、チーターさんが笑顔で言った。私は口元で笑う。

「ラベンダーのポプリです。気分が落ち着くから」

「なんだ、悩み事かい?」

 チーターさんが聞く。私は黙って頷いた。

「私でよけりゃいつでも聞くけど」

「ちょっと深みにはまってしまっていて、自分でもうまく説明できないんです」

 最後のお札を取り出した。この肉は大事に食べていこうとぼんやり思う。

「そういえば最近よくカッコウの所に出入りしてるらしいじゃないかい」

「……悪いことでしょうか」

「私たちは用がないだけだよ。あんたには行く理由があるんだろう?」

「好きな、ところだから」

 言いながら思わず座り込んでしまった。慌ててチーターさんが出てくる。丸椅子に運ばれて、私は頭を深く下げた。

「私らはね、親にきつく言われてたんだよ。カッコウは命を落っことすから近寄るんじゃないって。私の家じゃカッコウを見たのはひいじいさんが最後だよ」

「あの人は、特殊だけど、あなたたちと同じくらいいい人なんです」

 チーターさんは黙った。入れてもらったお白湯の湯気に気を取られる。

「あんたはどうしたいんだい」

「……ここに住んで、あそこへ遊びに行きたいだけです」

「決まってるんじゃないか」

 チーターさんの声に私は顔を上げた。

「何を悩む必要があるんだい。悪意あることなら全力で止めるけどね、あんたがやりたいって思って、それが正しいって思えるなら、堂々としてればいいじゃないか」

 馬鹿だねぇ、とチーターさんが私の肩をたたく。お白湯が振動で揺れた。

「誰に何言われようと気にすることないじゃないか。カッコウはあんたを食べないんだろう?」

「はい」

「なら笑っときな。あんたが申し訳なさそうに小さくなればなるほど、周りはあんたが悪さを企んでるって思うんだよ。胸を張って、笑ってればいいんだ」

 あはは、と励ますように笑ってくれるチーターさんにつられて、私もはははと声を出す。

「そう、笑わないと、楽しくないでしょう?あんたは望んでここへ越してきたんだから、楽しまないと」

「そう、ですね」

 ずっとお白湯を飲む。体の芯が暖かくなった。

「それと、今度そのポリプ、分けてもらえるかい?」

 チーターさんはウィンクした。


***


「ウサギの質屋さんを知っていますか?」

 展示物を堪能した後、机を挟んで私は彼に聞いた。彼は本にしおりを挟んで頷いた。

「古い馴染みです。彼に用ですか?」

「いいえ、町で出入りがないのはこことウサギさんの所だって聞いたので」

「あなたは、本当に好奇心が過ぎますね」

 呆れたように、カッコウは微笑む。私は尋ねた。

「古い馴染みって、お友達ですか?」

 彼は目を伏せた。瞼の下に瞳が隠れる。

「私を、ここに庇ってくれた人です」

「すごい。会ってみたいです」

 明るく言うと彼はまた苦笑をこぼす。

「彼はどうでしょうね」

「あなたのように、会いたがりませんか」

 冗談だとわかるようににっこり笑って見せれば、彼も笑った。

「彼が町に、呪いをかけたんです」

「え?」

「僕が命を突き落とすカッコウのようだと言われるなら、せめて町の仲間として胸を張れるあだ名にしてやろうと、町の人たちに呪いをかけて記号をつけたのです」

呆気に取られた。彼の横顔を見つめるけれど、彼は微動だにしない。死んだのかと心のどこかが言ったが、違う、と声が反響する。彼はここで、生きている。

「あなたとの縁を繋げるために、あなたが生きていくために」

 感嘆が漏れた。思わず手を握ろうとして、はっと手を引いた。けれど、興奮のままに声が大きくなる。

「もう皆が忘れられている理由が、記号の正体は、彼らが近寄らないあなたとの絆の証だったんですね」

 声を出して笑ってしまった。キツネのお嬢さんに、大笑いしてしまった。彼が私を見ている。そうだ、彼は一人じゃない。

「きっと嫌がるので」

「言いません。絶対、あなたの安息を守るために、町の人には言いません。でも、気が晴れました。私とあなたは、確かにつながっていたんですね」

 彼は困惑しながら首を傾けた。私は黒猫になれてよかったと、心底思った。

「友達と言わなくても、私たちはつながっていたんだ」

「繋がっていると言っても、僕のせいで呪いが始まり、紛れても疎まれているんです。僕さえいなければ」

「そんな悲しいことをおっしゃらないでください。あなたは特異でも、こうして生きているのです。あなたが今生きているおかげで、私はここを気に入りあなたの弟さんに時計を作ってもらっているのです。だから、あなたを好いている人を、簡単に切り捨てないでください」

 彼は、口を開いたまま黙った。きっと彼の吐息は、死を迎えたものたちにも届いただろう。私は晴れやかに笑った。

「あなたに親愛の証をお贈りしたいです。少しの間、時間をください」

「いりません」

「大切な人には何か贈りたくなるものです。慣れてください」

 私が言い切ると、彼は僅かに疎ましそうな笑みを浮かべた。新しい表情が見れたことが、また嬉しかった。

「大切なものがあることは、僕の長い人生において重たくなるだけです」

「刹那だったとしても、大切で眩しい優しさがあることが、生きるってことではありませんか。また来ます」

「もう、来なくてもいいです」

「来ます。待っててください」

 私は走って、肉屋さんに入った。いらっしゃい、と明るい声がする。

「お店を出すにはどうすればいいのでしょう?」

 チーターさんに聞くと、彼女は嬉しそうに笑った。

「役所に申請書を出すだけでいいわ。決まったのね?」

「あなたのおかげです。ポプリやリースなど心を癒す花を売ろうかと思っているんです」

「そりゃいいわ。そんな店、この町にはないからね。どこに出すんだい?」

 私は明るく言う。

「空き家がもう商店街にはないので、古い道の入り口にある場所を使う予定です。私はこの町で、ハーブ屋さんをしながら笑顔で暮らしたいのです」

 この間の自己紹介よりもすんなり言葉が紡げた。チーターさんも、陽気に笑った。

「あんた、本当にカッコウが怖くないのかい?」

「あの人は怖くありません。少し気を付けないといけない、ただの町の人です」

「あまり余所で言うんじゃないよ」

「もちろんです。内緒ですよ」

 私はにっこり笑った。誰にも言うつもりはない。彼らが近寄りたくないなら、彼も近づけたくないなら、それでいいことだ。無理に均衡を壊すことは無い。でも私は、どうしても彼と彼の触ったものが好きで、そばに居たい。私は店を出た。まずは、庭をハーブ園にすることだ。


**


早朝、人の気配のない夜明け前に目が覚めた。ベッドの上は居心地が悪くなり、緑みがかった空を見上げて、ふと外に出る。朝日が昇るまで、少し時間がある。私は服を着替えてひたひたと町に出た。音もなく町を抜けて、静まり返った廃路を進む。閑古鳥は何も変わらず佇んでいる。私は小さくノックをした。まもなく、普段通りの彼が出てくる。彼は目を丸くした。

「どうされました」

「素敵な明け方だったので、ここへ来たくなったのです」

 早くからすみません、と頭を下げると彼は中へと入れてくれた。彼は優しい。店の中の空気は一層研ぎ澄まされていた。三階の窓から僅かに水色の光が差し込んでいる。“死”として展示されているものの、目覚めを待つ気配が圧倒されるほど鋭く、ひそやかに広がっていた。

「ホットミルクでよろしいですか?」

 彼の声が空気を少し温める。私は頷いて、だんだんと明るくなっていく部屋を眺めていた。窓から朝焼けに燃える雲が見える。紫から緑、紺とグラデーションが遠のいていく。

「どうぞ」

 愛用の机にコップが置かれた。黒猫だからか、私はしばらく冷ましてから甘い液体を飲み込んだ。

「これを、渡したかったんです」

 私はリースを取り出した。白を基調としたリースには、ラベンダーも混ぜている。私が揺らすたびに、香りが広がっていく。

「受け取ってください」

「いけません。それが死んでしまう」

「怖がらないでください。これはあなたのために用意したものです」

 彼の前にずいと差し出す。

「これは私が作った初めての商品です。この花たちの生きている時間を、あなたに最初に受け取ってほしいのです」

「何故そのようなことをするのですか」

 苦しそうに彼は呻く。窓から朝日が差し込んだ。吊るしたステンドグラスが反射して、四方が赤やオレンジ、黄に照らされる。キラキラ動く光の中で、私は彼への時間をもう一度差し出した。

「私が誂えた時間を、生きてほしいからです」

 部屋の埃までも輝いている。物珍し気に展示物の空気は揺れている。きっとこんなこと初めてだろう。

「罪悪感で満たされた生でなく、贈り物の時間も取り入れてほしいのです。ね、受け取ってください」

「あなたは押しが強い」

「あなたの弟さんから教わりました」

 引かない私に、そっと両手が動く。細心の注意を払って、リースにのみ触るように指先が動いた。彼が触れた瞬間、リースは凍った。香りをそのまま漂わせて、作った時よりもいっそう美しく、白い円をつくっていた。

 はぁと彼は疲れたように息をついた。

「どこかに、飾らないと」

「ドアにしましょう。きっと誰も見ませんが」

 微笑むと、彼もやっと微笑んだ。

「なんとも、優しい時間の流れですね」

「私がこれまでここで受け取ったものに似てるはずです」

 ステンドグラスの光が靴の上を転がる。暖色の中で、私たちは微笑んだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] どこか近くの街角に本当にありそうな見世物小屋が舞台となっており、ウサギやキツネなど本当にありそうな剥製を登場させているところに親近感を覚えました。死を扱う店と一見非常識な存在のようにも感じ…
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