地下室にて
稀代の天才科学者である加藤が地下シェルターに閉じこもってから、もう三日が経つ。シェルターの中には、飲食物製造プラント、核融合式自動発電機、といったいろいろな物品があるので加藤が死ぬことはないだろう。しかし、核戦争にも耐えるシェルターの扉を開けることができなければ、加藤を外に引っ張り出すことはできない。
「あの大泥棒め! 騙されているとわかったら、研究内容を全部持ち逃げしおった!」
後藤は忌々しげに叫んだ。
後藤は、加藤の上司である。さらなる常温核融合の研究だ、という名目で加藤を利用し、実際にはさらに強力かつ小型の水素爆弾を製造する研究をさせていたのだった。そして、それを知った加藤は後藤の元から逃げ出し、そしてシェルターの中に立てこもった。要件はただ一つ、自分が全面的に協力する代わりに、水素爆弾の研究を封印すること。
「全てのデータを開くパスコードだけじゃない、最も重要な部分の設計図が奴の頭の中だ! 何としてでも吐かせねば、研究が10年は遅れてしまう。それでは隣国に技術開発競争で負ける!」
後藤は思案した。どうにかして、加藤を引っ張り出さなければならない。しかし、どうすればよいのだろう?
「…そうだ。誰かを変装させ、奴の警戒を解くか? 幸せな様子、或いは奴の大切な人間を…。」
「後藤様。私に考えがございます。」
「なんだ、佐藤。」
「巷で有名な、赤の魔女を召喚するのです。」
赤の魔女。最近とみに語られるようになった、人の心の中に入り込み、そしてそれを操る、とされる都市伝説である。
「…ふざけているのか?」
「いいえ。私が、赤の魔女を自ら確かめた結果です。あの魔女の魔技は本物でしょう。」
「…お前は嘘をつく人間ではない。お前と10年付き合ってきた俺には分かる。…だが、お前の言っていることはあまりにも荒唐無稽だ。」
「そうでしょうね。数か月前の私でしたら、信じません。ですが、今の私ならば…。」
後藤は佐藤の目を見た。その眼には、正気の光が宿っていた。
「本気、なんだな。」
「はい。」
「…わかった。どのみち、このままでは手詰まりだ。赤の魔女を呼んで来い。」
「はっ!」
佐藤は立ち去った。
そして、数時間後。目隠しに猿轡をされ、手足を縛られた少女が、後藤の前に転がっていた。カタカタと全身が震えている。
「おい。」
後藤は、猿轡をはぎ取った。怯えに濡れた目が、後藤に辛うじて焦点を合わせた。
「お前が赤の魔女、か?」
少女の目が見開かれる。他人の目を見ることで、他人の心理状態を見抜くのは、国家の特殊エージェントたる後藤の最大の特技であった。
「どうやら、間違っていないようだな。」
後藤は猿轡をはずした。
「あ、あんたたち、なんなのよ…。あたしに何の用なのよ…。」
少女は震える声で問いかけた。
「お前がそれを知る必要はない。田村 詩奈。」
目を見開いた詩奈を無視して、後藤は話をつづけた。
「お前を呼んだ理由は一つだ。このシェルターの中にいる人間を引きずり出せ。できなければ殺す。できたならば、お前を無事に返してやろう。ただし、このことを他言すればやはり殺す。」
「そんなこと、言われて、誰が…。」
「田村 洋子、か。よい姉だな。」
後藤が手に持った写真をひらひらと揺らす。詩奈の歯がぎり、と鳴った。
「…わかったわ。だけど、自由にしてくれない? 罠を仕掛けるにもこの体勢じゃ無理よ。」
後藤は無言で合図を出した。どこからか出てきた数人の黒服が、詩奈の手足を自由にする。
「じゃ、いまから、この中にいる人間を引っ張り出すわ。」
詩奈は扉に手を当て、ぶつぶつとつぶやきだした。
そのころ、シェルター内の加藤は不意に昔のことを思い出していた。
(なぁ、競争しようぜ。)
少年時代を過ごした、田舎の町。黄金色の畑に挟まれた、まっすぐな小道。目の前には兄がいる。若くして死んだはずの。
(でも、兄ちゃんには勝てないよ…。)
何時ものように、加藤は言った。こういうと、優しい兄は少し手加減してくれるのだ。だが、今回は違った。
(そうか、それじゃ…)
不意に、地面を揺らす音が聞こえる。
(お前はあいつに踏まれておしまいだ。)
加藤が後ろを向くと、そこには雲をつくほどの大きさの巨人が居た。
(う、うわぁあああああ!)
加藤は、全力で走り出した。前へ、前へ、前へ! なぜだ、目の前に扉がある、どうにかして開かねば…!
そして、扉が開いた。
「それじゃ、」
シェルターから飛び出し、呆然とする加藤を背に、詩奈は後藤に静かな口調で言った。
「約束どおり、ご褒美、もらうよ?」
その後のことは、記録には残っていない。