第一部 終章 絶望の糸 その5-1
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いよいよラデスのいる四階へ足を進めようとした、そのときだった。メテアとディーテに追いついてきたナトが、大声で叫んだ。
「お前たち、今すぐここから逃げろ! 地面だ……床に注意しろ」
何のことだかわからず、キョトンとしてしまう、メテアとディーテ。
ナトはサラノスに肩を貸していた。偉大なる老賢人は、苦痛に顔をゆがめている。見ると、彼の右腕の肘から下がない。止血をしてはいるようだが、多くの血を失ったのだろう。彼には生気というものがなかった。
サラノスをこうまで追い込んだ相手が追ってきているのだろうか。メテアは真意を確かめるべくナトに云った。
「ワタシたちでそいつを倒せないの?」
ナトは声を荒げて、
「ダメだ、逃げろ! ヤツは狂っている。パイスだ、パイスが襲ってきた」
メテアは耳を疑った。彼はシャイアの能力で心を壊されたはずだ。今までの経験上、あり得ないことだった。精神支配はシャイアが解けば元に戻るのだが、精神破壊はそうはいかない。心を完全に壊されるのだ。シャイアが能力を解除したところで元に戻るものではないのだ。
ナトとサラノスが女性ふたりに追いつき、上へ進もうとしたとき、階段からカオスが降りてきた。
それを見たディーテが歓声を上げ、カオスに駆け寄る。
「あれ? ちょっと待って、ディー……」
いち早くカオスの異変に気づいたのはメテアであった。毎日顔を合わせ、いつも愛しい眼で見ていたメテアにとっては当然といえば当然であろう。
メテアの言葉に、歴戦のサラノスとナトも気づいた。
「肉を切り、骨をたて、ユグドラ」
カオスの腕が剣に変わり、躊躇することなくディーテを襲う。首を切断されるというその瞬間、水がゴムのように粘りを増し、剣の攻撃を吸収した。カオスの剣戟はディーテを押すかたちとなり、彼女の身体は壁面に叩きつけられた。
「小僧はラデスにやられたか。そして……」
ナトは苦虫を噛むように云って、背後を振り返った。
階段をゆっくり上がってくる影があった。どす黒い霧のような影が、正常な空気を押し上げている。パイスであった。彼は以前見た感じとはすべてが変わっていて、まるで別人だった。
メテアはゾクゾクと震える肩を落ち着かせて、サラノスに云った。
「あんたの毒で何とかしなさいよ」
「無理じゃ。あいつはわしの毒を食いよる。毒だけじゃない。すべてじゃ……この世のものすべてが……あいつにとってはエサなんじゃ」
「このまま……世界のすべてを食い尽くすかもしれん……」
ナトは噛み締めるように云った。
上からはカオス……下からパイス……一本の通路……万事休す、まさに四面楚歌……この危機をいかにして切り抜けるか……しかし、メテアたちの危険は、ひとまずおあずけとなった。なぜならば、カオスとパイスの視線にはお互いしか映っていなかったからだ。
心の何処かに残っていたのだろう。心底手に入れたかったプロメタの仮面、決して許してはならない人外的行い。その想いが心の底にくすぶっていたのだろう。
カオスとパイスの眼にはもう、メテアたちは映っていない。
そのことに気づいた一同は、ゆっくりと、刺激しないように壁側へ退いた。
サラノスはナトにだけ聴こえるような、とても小さな声で囁いた。
「ここは二択じゃのう。パイスをカオスに任せて上に行くか、カオスに加勢してパイスを倒すか……。じゃが、後者はカオスをも相手にせねばならなくなるかもの」
ナトは悲痛な面持ちで答えた。
「前者は……カオスを見捨てることになる……か」
ナトは助け舟を求めるように、チラリとメテアに視線をめぐらせた。
どうやらメテアはすでに決意を固めているようだった。強く、信頼しきった眼で、真っ直ぐカオスを見据えている。そして、視線をそらさず彼女は云った。
「これはカオス自身が決着をつけなければならないこと。大会の後からカオスの様子は変わっていた。とても機微なるものだったけれども、それは確実にカオスの心を支配していたの。その正体を今、知ったわ。ワタシたちは上へ行きましょう。ワタシたちが手を貸しても何もかわらない。だから、上へ行くしかない……。非情かもしれない。でも、これは戦争……。立ち止まっていたら犠牲が増えるだけ……。だから、だから、ワタシたちはラデスに専念するべきよ」
ナト、サラノス、ディーテの三人には、彼女が無理をして、なおかつ自分の言葉を自分自身にいい聞かせているのがわかっていた。そして三人には、彼女の言葉を否定することが出来なかった。
足音を忍ばせ、上へと向かう。途中、拳を握り締め、唇を噛み締め、小刻みに震えるメテアに気づいたディーテは、そっと彼女の手を握った。
「カオスくんはきっと大丈夫よ。だって、あなたが信じた男だもんね。かならず、正気を取り戻して私たちの後を追ってくるわ」
メテアは眼に涙をためて、大きくうなずいた。
☆
狂った少年ふたりの戦いは常軌を逸していた。純粋なる殺気だとでも形容しようか……。相手を殺すことだけを目的とした戦い。そこに良心の呵責、気づかいといったものは一切存在しなかった。
仮面の能力の全開放……それは、人間のレベルをとうに超越していた。
パイスの繰り出す鞭は気で出来ており、常識という制限を受けない。他にある物質は障害になりえず、たんなる食糧であった。
カオスはというと……彼もまた新たなる能力を開花させていた。いや、そもそも彼の仮面が本来持っていた能力だろう。それが、無意識となった今、目覚めたのだ。邪魔だった自我がなくなり、仮面の真の能力が出たのだ。
「美しき世界の目覚めを見つめよ、勇気によって取り戻せ、ユグドラ」
その瞬間、パイスは弾き飛ばされた。それは正に、セイダンの能力。そしてパイスの身体がまだ宙に浮いているとき、カオスはその先に移動していた。それは正に、いつか出会った密猟者の瞬間移動だった。すぐさま腕を剣に変えて振り上げる。なんとか鞭を創り出し、攻撃を防ぐ。あわよくば、カオスを食うつもりだった。が、しかし、鞭はカオスに届かない。剣の前方に、何か壁のようなものが出来ており、触れることが出来ないのだ。大気の壁……アトロスの能力だった。
カオスの真の能力は、コピーではあるが、見ている相手ではなく、記憶にある相手のコピーだったのだ。
見た者の能力をすべて盗む。人の数ほどある能力。まさに無限の可能性を秘めていたのだ。
だが、パイスも尋常ならざる能力の持ち主だった。カオスが作り出した大気の壁をも、彼は食したのだ。徐々に侵食される大気は薄くなり、カオスは危険を感じて距離を取った。しかし、逃げるときに瞬間移動を使うわけにはいかなかった。なぜならば、あたり一面、鞭が生えていて、身体を通すスペースがほとんどなかったのだ。瞬間移動というものは、何もない空間に自分の身体が突然出てくるのだ。もし仮に、その空間に障害物があれば、それは自分の体内に取り込むことになる。岩ともなれば、姿を現した瞬間に絶命することになる。それはパイスの鞭もしかり……。
「その仮面をおくれ。ママに怒られるんだよ。食え、食え、食え、リグ・ヴァータァァ」
パイスの腹部や胸部から無数の鞭が生えてきた。鞭はカオスに向かって伸びていく。カオスは自分の記憶をさぐった。この鞭をどの能力なら防ぐことが出来るか……。エラの太陽光なら一瞬で消し炭に出来るだろう、しかし、それはラデスを危険にさらすことになる。ラデスの支配は、自分に危害を加えるものを排除すること、そして、ラデスを守ることなのだ。エラの能力は使えない。ならば……と、カオスはいろいろとためすことにした。
鞭がカオスの身体に触れようとした……その瞬間、鞭が爆風に見舞われる。イザナの設置爆弾であった。だが、爆発をも食らう。次はパイス自身に銃弾を放つ。アマテロの設置銃だ。パイスの漆黒の鎧は、それ自体が鞭と同じ性質を持ち、触れたモノは何でも食らい、吸収してしまう。
そうしているうちに、ついにカオスの右腕に鞭が絡みついた。すかさず腕を剣に変えるが、切ることは出来ない。アトロスの大気の壁、セイダンの反射、どれもが食われてしまう。振りほどくことが出来ない。やがて、右腕に鈍い痛みが走った。低温で焼かれるような鈍い痛み。
「ママ……ママがどうしても欲しがっていた仮面をやっと手に入れることが出来るよ。これで僕をぶったりしないよね。褒めてくれるよね……好きになってくれるよね。アア、ママ……待っていてね。今、持って帰るから」
次の瞬間、カオスの全身は鞭に覆われていた。
つづく




