雫と音
愛している。
水面に雫が落ちる音がする。優しく大きな手が俺の頭をなでている。とても暖かい。雫が落ちる、おちる。そして、いずれその水もなくなる。枯れ果てていくー。
酷い夢だと思った。最近夢を見るのも目覚めが悪いのも、全てこの木のようなベッドのせいだ。俺は体を起こしたがしばらくぼんやりとして、頭が冴えてくるのを待った。昨日の仕事のせいで体が重い。何もする気になれない。不思議とお腹の減りも感じない。そして、ふいに今日は健診のある日であったことを思い出す。
窓の外を見ると空はまた煮え切らない色をしていた。もういっそ雨が降り出してしまえば心は晴れやかになるだろうか。雨が降ればあの頃のような美しい太陽が輝くだろうか。かつて見たような青空が広がるだろうか。
もうきっとあの頃には戻れない。
感傷に浸る自分に嫌気がさして俺は硬いベッドから出た。そして、慧はため息をついて手にしていたブレスレットをはずした。規約違反であることは知っていたが慧がそれを気にするはずがなかった。慧は朝食をとる気にもなれず意味もない激しい怒りと戦いながら裸足のまま、部屋を出た。昨日の子供の声が耳からはなれない。ここにきて、何年がたっただろう。『国家安全保証機関』この名前を聞くたびに冷たい気持ちになる。暁には会いたくない。この廊下はなぜこんなにも長いのだろうか。慧は歩く気力が失せて廊下の隅に座りこんでしまった。健診の時間に遅れている。暁はきっと怒るだろう。それも、もうどうでもいい。慧の目が虚ろになっていった。その時、廊下の向こうから背の高い若い男の人が歩いて来て慧の目の前で立ち止まり慧に声をかけた。
「すみません、慧さんですか?」
慧は返事をしなかった。その気力がなかった。背の高い男は慧の顔を覗きこみ数秒の後、確信したように大きく頷きヒーローをみる無邪気な子供のような顔をした。
「慧さんですね。お会い出来て光栄です。私は暁ラボの者です。慧さんをお迎えにあがりました。」
この背の高い男がなぜこんなにも嬉しそうなのか、慧には分からなかったし男の心を推し量ろうともしなかった。ただ単に男の声が雑音となって慧の心に荒波をたてていくだけである。慧はやはり背の高い男の言葉に応えなかった。背の高い男は慧の様子を不審に思ったようではあったが、その場を動こうとしない慧を見て廊下にしゃがみこんだ。
「慧さん、失礼します。」
背の高い男は慧を抱えて立ちあがった。その瞬間慧の意識は一瞬にして閃き男に対する警戒と敵意がうまれた。だが、ブレスレットをしていない慧には何もできなかった。
慧の精神は壊れかけていた。武器を使う対価として差し出したものが慧を慧のままにはしておかなかった。
雫は小さな音をたてておち、波紋を作りながら広がっていく。水には限りがある。無くなったものはもう二度と戻らない。変わらない事実があるというのなら全ての原因を否定する。それが俺の生きる意味だ。
また、雫の落ちる音がした。