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10-9:「おはよう」

 リデルは、怒っていた。

 それは彼女の表情や発する気配から明らかで、疑いようも無い程だった。

 激している、と言っても良いだろう。

 問題は、その怒りが何に対してのものなのか、と言うことだが……。



『「キミはいったい、何を怒っているのかな」』



 激する少女を前にして、しかし<大魔女>に動ずる所は無かった。



『「もしかして、他の不浄の民(フィリアじん)は関係ないじゃないか。とか言っちゃうのかな?」』



 あははと笑って、<大魔女>は言う。

 そんなことは関係無いと、そんなことは問題じゃないと。

 フィリア人であると言う、本人にはどうしようも無いことを理由に差別する。

 そんなことで怒ってどうすると、<大魔女>は笑う。



 差別しない人間など、この世に存在しない。



 ソフィア人とフィリア人、あるいはソフィア人同士、フィリア人同士ですらそれはあるのだ。

 人は、いや動物は、差別する生き物だ。

 自分と違うものを排斥し、自分と似ているものに安堵を得る。

 それが生き物だ。

 それが人間の本性だ、少なくとも切り離せない性質の一部であることは否定できない。



『「でも残念。ボクはね、あの女にまつわるもの全てが嫌いなんだ。いや、憎悪していると言っても良い」』



 嫌悪し、憎悪している。

 それは、虫嫌いな者にとってどんなに美しい蝶も虫に過ぎないように。

 それは、動物が嫌いな者にとってどんなに可愛い猫も動物に過ぎないように。

 ただそうであるだけで、それはもう理由になるのだから。



『「哀れな民だよ、本当に。あの女に縁を持ったがために、彼らは幸福になることは出来ない」』



 フィリア人には、永遠の咎を。



『「けれどその分、ソフィアの民をボクは幸福にしてみせるよ。だって、最初に損をしたのは彼らの祖先、ボクの陛下と同志達なのだから」』



 ソフィア人には、永遠の富を。



『「陛下の子孫こどもは、ボクの子孫こどもだ。幸せになって貰わないと困る」』



 自らの民を、大公国と言う国を、ここまで育て上げてきた「母」としての矜持が、<大魔女>がそうさせる。

 だから彼女は、「差別」と言う言葉を投げつけられることを恐れない。

 300年と言う時間は、彼女に分厚い鎧を身に着けさせるには十分過ぎる程の時間だった。



(……強い、ですね)



 まるで、強固な鎧が見えるような心地でアーサーは呻く。

 正直な所、<大魔女>の魔術は過去のどの魔術師のそれよりも強力に見える。

 その気になれば、他の<魔女>の魔術も使えるのでは無いかと思える程だ。

 そしてその力の源は、おそらくはアリウス=ニカエア大山脈に眠る<アリウスの石>。



 石との直結によって、彼女は無尽蔵に近い魔力を得ているはずだ。

 もしその魔力を術として使ったならば、それこそアーサーを消滅させることも容易いだろう。

 そして<大魔女>は、自分の差別主義的な論を自覚している。

 しかもまるで痛痒つうようを感じていない、だからアーサーはそれを鎧と表現した。

 300年を生きる魔女の心を覆う、強固な鎧だと。



「そうね、フィリア人ってだけで差別する奴は嫌いだわ」

『「ふむん?」』

「そう言う意味で、私、アンタのこと嫌いよ」

『「そうかい。ボクはキミのこと好きなんだけどな、純粋な子は可愛いからね」』



 だが、どんなに強固な鎧でっても。



「アンタがフィリアって人を恨むのは良いわ。当事者じゃない私が何を言ったって、意味無いものね」

『「そうだね」』

「でもね<大魔女>、たとえアンタのフィリアの、フィリア人への恨みが正当なものだったとしても、私はアンタを否定できる。否定しないと、いけないのよ」

『「へぇ、そんなことが出来るのかな? 興味深いね、言ってみ給えよ」』



 身体の隅々までを覆うことは、出来ない。



「ねぇ、アンタさ。そんなにソフィア人のことが大事で、子供だって言うならさ」

『「うん、何かな?」』

「だったら、何で」



 あくまでもにこやかな笑顔を崩さない<大魔女>に、一度言葉を止めた。

 何かを我慢するように、努めて感情を抑えた、でも抑えきれないで、震えてしまって。

 ストライプ模様のスカートを握り締めて、皺を作ってしまいながら。

 唇を噛み締めながら、言った。

 その、瞬間。




「――――何で、私の友達ベルを殺そうとするの?」




 鎧の軋む音が、確かに聞こえた。



  ◆  ◆  ◆



 ――――友達を、殺そうとしている?

 アーサーは初めて、<大魔女>に動揺を見た。



『「……友達?」』

「その子のことよ!」



 <大魔女>を、いやベルフラウを指差して、言った。

 先にも自身が言ったように、<大魔女>は肉体を持たない。

 それ故に活動のためには、ソフィア人の身体が必要だ。

 それも出来るだけ若く、公王家の血筋に近ければ近い程良い。



 全て、<大魔女>が言ったことだ。

 自分が存在するためには、ソフィア人の身体に乗り移らなければならないと。

 それなら、乗り移られたソフィア人の意思はどこに行くのか?

 例えば今、ベルフラウの意思はどうなっているのか?



「その子はアンタに、身体をあげるとでも言ったの? そうじゃないわよね、だってその子はアンタに幽閉されたんだものね!」

『「でもそれは、ボクがいないと壁が消えてしまうから」』

「だから何? ちゃんと話して、納得の上で身体を譲って貰ったとでも言うの?」



 ここで少し、<大魔女>の魔術を説明する。

 彼女は<アリウスの石>に宿り、そして「容れ物」を交換するのだ。

 相手の意思が「自分」に集中していない時、あるいは睡眠時等の薄弱な時にやるのが良い。

 つまり今、ベルフラウの意思は彼女の身に着けている<アリウスの石>の方にある。



「それに、その子だけじゃないわよね。アンタは言ったわ、たまに身体を変えなくちゃいけないって」



 それは、つまり。



「アンタ、今まで何人のソフィア人の人生を奪ってきたのよ!」



 リデルは、自分の人生は自分で歩みたいと思う。

 自分以外の何者にも左右されたいとは思わないし、自分の意思で決めたいと願う。

 そしてそれは、他のどんな人間にとっても同じであるはずだった。



「アンタの人生は300年前に終わったのよ、<大魔女>。だからアンタだって、自分のことを<大魔女>だって名乗るんでしょう? ソフィアって名乗らずに」



 それはもしかしたら、同情すべき終わりだったのかもしれない。

 理不尽で、高邁こうまいで、誇り高く、そして納得できないものだったのかもしれない。

 けれどそれは、<大魔女>に身体を奪われた者達にとって、同じことでは無かったのか。



「それは、裏切りじゃないの?」

『「う、裏切り?」』

「アンタはソフィア人のことを子供だって言った。そしてソフィア人の皆は魔術師のことを尊敬していたわ。きっと魔術師が、アンタが! 自分達のことを守ってくれるって!」

『「そうだ。ボクは陛下の民を守る。そうで無ければ、ボクの300年の生にどんな意味があるんだい?」』

「じゃあ、ベル達は? アンタはどうして、アンタが身体を奪う子達のことは守らないの? それは、アンタを信じてた子達を裏切ってるって、言うんじゃないの!?」



 リデルは、頭が良い。

 だがアーサーのように思慮深くは無い、彼のように<大魔女>の一理に足を止めることは出来なかった。

 激するままに、叫ぶだけだ。

 それはおかしいじゃないかと、言わずにはいられないから。



『「いや、それは。ボクが死ねば壁は消える。壁が消えれば、奴らが来る。そうなれば、皆死ぬ。だからボクは――――存在し続け無ければならない!」』

「だから今死ねって言うの!?」

『「だ、だって」』

「私は、嫌よ!」



 それは、<大魔女>の唯一の、そして最大の矛盾点。



「私の身体は、私の人生は私だけのものだわ。他の誰にもあげないし、あげられない! パパとママが私にくれた大切なものを、アンタなんかにくれてなんてやらない!」



 先程も説明したが、<大魔女>の魔術は極論して宿主の身体を隙を突いて「掠め取る」ものだ。

 だからこうまで明確に拒否されてしまえば、もう<大魔女>にはどうすることも出来ない。

 感情の、我の強さこそが、<大魔女>の魔術を跳ね除ける唯一の方法だった。



「……フィリア」



 そんな彼女をずっと見ていたからか、アーサーがポツリと、心情を漏らすように呟いた。



「<聖女>フィリアも、そうだったんですかね」

『「……そう(・ ・)?」』

「<聖女>フィリアも、自分の人生を誰かに委ねたく無かったんですかね」



 フィリアと言う、他に替えのいない人生を、自分の意思で歩み続けたかった。

 それは酷く醜い、利己的で、生にしがみつく浅ましい行為であったのかもしれない。

 だけど、とても人間らしいことのようにアーサーには思えた。

 少なくとも自分を捨てて、他者にもそれを強いることを崇高であるかのように振る舞う<大魔女>よりも、アーサーには理解できるような気がした。



 おまけに、フィリアには子供がいたのだ。

 母親として、これから生まれる子供に自分の人生を歩んでほしいと思う。

 それは、とても自然なことでは無いか。

 そんな選択をした<聖女>フィリアに後悔は無かったのか、無性に聞いてみたくなった。



『「――――なんだ、それは?」』



 だが、そんなことは出来ない。

 フィリアは300年前にすでに亡くなっている、その意思を確認することは出来ない。



『「じゃあ、何かな。ボクは、ボク達は、自分の人生を捨てた愚か者だとでも言うのかい?」』



 ここにあるのは、300年間生き続けた<大魔女>の意思だけだ。

 300年、たったひとりで歩み続けてきた少女の魂だけだ。

 たったひとつのことだけに、他の全てに目をつぶってきた。



『「……ふざけるな」』



 そう言う行為と感情を、人はこう呼ぶのだ。



『「――――ふざけるなっっ!!」』



 ――――妄執もうしゅう、と。



  ◆  ◆  ◆



 <大魔女>を動かしているものは、妄執と言う感情だ。

 300年と言う時間は彼女に強固な鎧を与えたが、同時に「生の実感」を失わせた。



『「ボク達はどんな手段をとってでも、アナテマ大陸を守ると決めた! それを間違っていると言うのか!」』

「それは違うわ!」

『「違うものか! でもそれでも構わない、ボク達のやることは変わらない」』



 人は、様々な形で「生への実感」を得て生きている。

 美味しい料理を食べる、面白い本を読む、家族や恋人と過ごす、美しい自然を見る、誰かの役に立つ――実に、様々だ。

 だが<大魔女>には、魂だけで活動する彼女にはそれらを得ることは出来ない。

 たとえ感じたとしても、その主体は自分の身体では無いからだ。



『「ボクの身体は死につつある。壁を維持するためには、新しい人柱が要る」』

「……だから、私を呼んだの!?」



 だから、<大魔女>の行為には2つの意味がある。

 1つは<聖女>フィリアの裏切りを弾劾する、アナテマの守護者としての側面。

 そしてもう1つは生の実感を失った、死者・ ・としての側面。

 今の彼女を動かすものは、「アナテマ大陸を守る」と言う妄執だけだ。



「でも、リデルさんだけで壁の強化と言うものは出来るものなんですか? 6人で300年保ったとは言え、それでどうにかできるものなのですか?」

「私は行かないわよ!」



 わかってますよ、と宥めつつ、気になることを聞く。

 実際、リデルの身体ひとつでどうにかなるものとは思えない。



『「ふふ……」』



 だが、<大魔女>は嗤った。



『「勿論、人柱は1人じゃあダメだね。だけど21人だとしたらどうかな?」』

「21人? 何を言ってるの?」

『「東部叛乱から20年。その間に公王家の中で宮廷闘争があったことは知っているね?」』

「知ってるわよ。王族がほとんどいなく……なった……って……」



 気付く。

 公王家が先代公王とベルフラウを除いて全滅した、宮廷闘争。

 だが失われた公子や公女がどこへ消えたのかは、不思議と伝わっていない。

 もし、<大魔女>がそれらを回収していたのだとすれば?



 だとすれば、宮廷闘争の裏に<大魔女>がいたと言うことか?

 そうだとするならば、破綻している。

 公王家を守護する<大魔女>が、公王家の衰退の原因を作ったのだ。

 それはもはや妄執ですら無い、<大魔女>は、かつてソフィアと呼ばれた純真な少女はもう。



(……狂ってる)



 思ったのは、リデルだったかアーサーだったか。

 しかしいずれにしても、心に揺らぎが生まれた。

 そしてその揺らぎを。



『「……さぁ!」』



 <大魔女>が、見逃すはずも無かった。



『「ボクのものになれ、リデル――――!」』



 リデルの首飾りが、強く赤い輝きを放った。



  ◆  ◆  ◆



 7は、特別な数字だ。

 21はその3倍、偉大なる3倍(トリスメギストス)は魔術の極意の1つだ。

 公王の血筋にある21人の人間を新たな人柱として、より強固な壁を創る。

 ――――それが、公王家の最後の生き残りを失わせることになるのだとしても。



 彼女はもう、そうした矛盾に気付くことが出来ない。

 何故ならアナテマ大陸を、ソフィア人を<侵略者>から守らなければいけないから。

 <聖女>フィリアとその子孫に罰を与え続ける、檻を守らなければいけないから。

 それで初代公王の血を引く者が絶えてしまったとしても、それは……あれ?



『心に空隙が生まれた時、ボクは<アリウスの石>を通じて相手の身体を奪うことが出来る』



 そもそも、自分はどうしたかったんだっけ?



『さぁ、キミの身体を頂くよ……!』



 それは、何度も繰り返してきた行為だ。

 もうやり方を思い出すのも馬鹿らしくなるくらい、何度もやってきた魔術だ。

 相手の――リデルの肉体を奪い、もう1度人柱となる。

 そうすれば新たな300年、いた今度こそ、1000年の壁を創ることが出来るはずだ。



『ふふふ、ここがキミの心の中なんだね。なるほど、素敵な場所だ』



 そこは大図書館、円形のホールにも似た場所だ。

 リデルの心の中、彼女を形作る基とも言うべき形。

 <大魔女>はかつて自らが人柱となった時そのままの姿で、そこに舞い降りた。

 身体の端々から鱗粉のように赤い光が漏れているのは、魔術によって自らの形を維持しているからか。



 しかもそれは徐々に広がって、無人の大図書館を包み込み始める。

 そして端から、まるで別の物に塗り替えていくのだ。

 抵抗は無い、出来ない。

 肉体と言う鎧を擦り抜けてしまえば、心とは酷く無防備なものだから。



『同志キアは相手に働きかけることで自分の心の形を自覚させる。そう言う意味では、あの子も良い仕事をするね』



 かつて、キアは魔術でリデルに自分の心の世界を見せたことがある。

 自覚した内面は、より具体的な形となる。

 例えば本棚の本はその全てにタイトルが付されている、中身も白紙では無いだろう。

 それだけ、<大魔女>の魔術に対する抵抗力が増すと言うことだ。



『でも問題ないよ。結局、ボクの魔術に勝てるわけじゃない』



 普段より少しだけ時間がかかるだけ。

 一瞬が、十瞬になるだけのこと。

 だから<大魔女>は警戒無く、大図書館の床に降り立った。



 だがその九瞬の差が、明暗を分けた。



 輝き。

 赤い輝きが足元から広がる、それは<大魔女>の魔術によるものでは無い。

 何か別の力によって、<大魔女>は自分の魔術が妨げられていることを悟った。

 でも何が? 何が自分の魔術を妨げているのか?



『キミは』



 足元、床だ。

 覚えているだろうか、そこには床では無く油絵が敷かれていたことを。

 ある男の肖像画が描かれていて、彼は<大魔女>を見上げていた。

 そこから漏れ出る赤い輝きは、間違いなく魔術のものだ。



『アクシス……!』



 それは、「彼」が娘を守るために用意したもの。

 いかなる脅威からも娘を守るために発動する、公王家の秘宝に込められた魔術。

 あの首飾りに込められた、魔術であった。



  ◆  ◆  ◆



 首飾りが輝いたかと思うと、リデルとベルフラウの2人がその場に倒れた。

 無視する形になるベルフラウには申し訳無いが、アーサーはリデルを背中から抱き留めた。



「リデルさん!?」



 危険だ。

 これまでの例を見る限り、次に目を開けた時、リデルは<大魔女>に身体を乗っ取られているだろう。

 そうなると、次の瞬間にはアーサーの身が危険に晒されることになる。

 だからと言って、リデルを放り出して逃げるなどと出来るはずも無い。



 では、今の自分には何が出来るのか?

 それはつまり、どうしてここまでついて来たのかと言う問いへの答えでもある。

 この状況でアーサーが出来ることは、もはや1つしか無い。

 ルイナ等がこの場にいれば、「眠り姫を起こすにはキスですよ!」とでも言ったのだろうか。



「リデルさん! リデルさん! 起きて下さい!」



 しかし残念ながら、この王子様はキスで眠り姫を起こすと言う王道を知らなかった。

 となれば現実的又は常識的な流れとして、名前呼びからの頬叩きとなる。

 ぱんぱんぱんぱんと小気味良く頬を叩くその姿は、ルイナがいれば「ちょ、ええええええ」とでも言ったのだろうか。



「リデルさん! リデルさん! 起きて下さい!」

「…………」

「リデルさん! 風邪を引きますよ!」

「……っ」

「リデルさん!? 早く起きないと、皆に置いて行かれますよ! リデルさん!」



 瞼が震えるのを見て、呼びかけの勢いが増す。

 その甲斐あってか、瞼の震えが大きくなり、ついには目が開いた。

 菫色の瞳には、<大魔女>の魔術の特徴である赤い輪郭は見えない。



「リデルさん! 貴女はリデルさんですか?」

「…………何か、ほっぺが痛いんだけど」

「<大魔女>の魔術の影響でしょうか」

「……そう、なのかしら」



 微妙に納得していない表情で、頬を撫でるリデル。

 その様子にリデル本人だと言う確証を得て、アーサーはほっと息を吐いた。



『――――馬鹿な!』



 その時だった、リデルの首飾りが音を立てて罅割れた。

 罅の隙間から煙のように漏れ出たそれは、半透明な少女の姿となって浮かび上がった。

 <大魔女>の過去の中で見た、ソフィアの容姿だった。



「パパ……」



 罅割れた首飾りからは、もう<アリウスの石>としての力は感じない。

 色もくすんでしまっていて、魔術としては使えないのでは無いかと思えた。

 しかしすでに力を失ったそれを、<大魔女>の魂は憎々しげに見つめていた。



『馬鹿な、アクシス! どうしてボクの邪魔をする!?』



 口が無いはずなのに、その声はキンキンと頭の中に響いた。



『壁を維持できなければ、そう遠くない未来に奴らが押し寄せて来るんだぞ!? 大山脈の北には大公国よりも豊かで大きな国が、いくつもあるんだ!』



 それは、絶望の叫びだった。

 大切なものを守ることが出来ない、悲哀と悲壮に満ちた、哀しい声だった。

 猛獣を閉じ込める檻を失う、飼育員の悲鳴にも似ていた。



『どうして、どうしてだ! それとも陛下の民(ソフィアじん)ですら、ボクを裏切ると言うのか!?』



 まるで、もの分かりの悪い恋人に求めるように。

 まるで、分からず屋の親に言い募るように。

 <大魔女>の叫びは、どこまでも続いた。



『壁を……壁が無ければ、皆が死んでしまうんだぞ!』



 アーサーの腕から身を起こして、リデルは顔を上げた。

 いつの間にか魔術の幻影も消えて、元の広間で、宙に浮かぶ<大魔女>を見上げる。

 そんなリデルを、<大魔女>が睨みつける。



『どうしてだ! どうしてボクを受け入れない!?』

「……もう、いらないからよ」

『何だって?』



 リデルは、はっきりと言った。



「自分のことは、私達のことは、自分達で決めるわ」



 だから、もう。



「<おや>は、いらないのよ。300年前のご先祖様」



 もう、自分達の世代のことは自分達で決める。

 口出しは、させない。

 何故なら自分達はもう、子供・ ・では無いのだから。



「だからもう、アンタも休んで良いのよ……<大魔女>ソフィア」



 「母親」に庇われてばかりでは、いられない――――。



  ◆  ◆  ◆



『何を言っているんだい? ボクがいなければ、皆が死んでしまうんだよ。それともキミは、自殺志願者だったりするのかな?』

「違うわよ、失礼ね」



 哀れだと、思う。

 僅かの間リデルは<大魔女>と重なった、だからわかる。

 自分の中に流れ込んできた<大魔女>の感情に、哀れだと思った。



 信じていた者に裏切られ、大切な者達は全て死んでしまって。

 独りきりになりながら、そして自己矛盾に気付きながらも自分では止められなかった。

 魔術師達に崇められても、ソフィア人の崇敬を受けても、満たされることは無かった。

 それでも、「守らなければ」と言う強迫観念にも似た想いだけで生を繋いできた。



「アンタがいなくなれば、壁は消える。そうすればいつか、あの黒い奴らが来る。そうなのね」

『そうだよ、だからボクは死ぬわけにはいかないんだ』

「そうね。でもだからこそ……アンタはもう、良いのよ」

『何を?』

「頑張ることを」



 魔術の影響なのか、酷く具合が悪い。

 目の奥に鈍痛があって、あと一歩で眩暈に発展しそうな具合だ。

 それでも、リデルは言葉を止めることは無かった。



「私達のことは、私達がどうにかするわ。300年前の人間に心配されるようなことなんて、無いのよ」

『キミだって見ただろう? あの軍勢を追い払う策が、キミにはあるのかい?』

「……まぁ、無いんだけどね」



 実際、あの規模の軍勢を撃退する策は思いつけない。

 あれが明日にも来ると言うことになれば、抵抗する術すらも無いのかもしれない。

 だがそれは、リデル達の世代が考えるべき問題だった。

 <大魔女>に、魔術協会に、大公国に丸投げして良い問題では、無いはずだった。



 これまでは、言ってしまえば<大魔女>ひとりに全てを任せていたに過ぎない。

 彼女ひとりに全てを背負わせて、消耗させて。

 かつての旧市街の人々のように、何も知ろうとせず、何も考えようとしない。

 ――――はたしてそれは、「生きている」と言えるのだろうか?



「心配してくれるのは嬉しいけどね、本当、もう良いのよ」



 ぐっ、と、首飾りの宝石を掴む。

 罅割れたそれは酷く脆くなっているようで、握るだけで音を立てた。

 それを見た<大魔女>が顔色を変えるのを――魂だけの状態で顔色と言うのもおかしいが――見ながら、言葉を続ける。



『よせ……』

「あの黒い奴らのことは、私達が自分で何とかする。しなくちゃいけないのよ」

『やめろ!』

「だからもう、アンタは頑張らなくて良い。だから……」

『やめろと言っているんだあああああぁぁ――――っ!!』




 砕けた。




「……消えなさいっ! 300年前の亡霊!!」



 欠片が刺さったのだろう、掌が切れて血が流れる。

 だがその血はもう、<アリウスの石>に反応することは無かった。

 石の方が砕けて、ただの石ころになってしまったからだ。

 頭に直接、<大魔女>の断末魔の叫びが聞こえた。



 <大魔女>の魔術は、石に宿る自分と相手の意識を交換するものだ。

 だから、宿っている石の破損はイコールで<大魔女>のダメージとなる。

 まして、石を砕かれてしまえば……。



『ああっ、そんな……そんな!』



 手の中から零れ落ちる石の欠片は、<大魔女>の命だ。

 父の形見が壊れたのだ、想う所が無いわけでは無い。

 でも一方で、これは父が望んでいたことなのでは無いか、とも思えた。

 どうしてなのかは、わからない。



『ああっ、戻れない……ボクの、ボクの身体との繋がり消える。消えてしまう!』

「……300年前に、もう、無くなってたのよ」

『違う! ボクは生き続ける、永遠に! 永遠に陛下の民を守るんだ、それなのに! ……それなのに!』



 最後の欠片が、床に落ちる。

 それと同時に、宙に浮いていた<大魔女>の姿がどんどんと薄れ、やがて形を維持することも出来なくなったようで。

 絶望、失意、拒否、諦観、憤怒、悲哀、目まぐるしく、そして同時にそれらの感情が混在する表情、だが。



『あ、あああぁぁ……』



 どんどんと透けて、足先から消えていく。

 掻き抱いた腕も、胸も、赤い粒子となって散って行く。

 それはもう、<大魔女>の力をもってしても止めることが出来なかった。



『ああ、アレルヤ……ごめんなさい。ボクは、もう、皆を守って上げられない……』



 300年。

 300年だ、ひとつひとつ積み上げてきた。

 初代公王に託されたものを守ろうと、ひたすらに歩んできた。

 それをこんな所で失うことになるなんて、<大魔女>は想像もしていなかった。



 しかし、これは現実に起こっていることだった。

 自分は消える、どうすることも出来ない。

 防ぎようも無い事実だ、受け入れ難いが、事実。

 ――――受け入れる?



『ぐ、お……』



 ならば。

 ならば、せめて。

 ――――せめて、この娘にっ!!



『オオォオオォォオアアアァァァァアアアアァ゛ァ゛ッッ!!」



 消え去る直前、<大魔女>の最後の一欠けらは小さな塊になった。

 尾を引く箒星のように一直線に、それはリデル目掛けて飛び掛かって行った。

 それは一瞬、人の顔のような形になって。



「リデルさん!」

「――――ッ!」



 庇うアーサー、目を逸らさないリデル。

 <大魔女>の魂は、そのまま2人に衝突し。

 そして。

 そして――――……。



  ◆  ◆  ◆



 何かが失われた感覚を、確かに得た。

 ひとり静かに、リデル達と別れた姿のまま座っていた。

 イレアナは、大きく息を吐いた。



「終わりましたか?」



 その時、1階層下にいるはずのキアが上がって来た。

 <アリウスの石>を備えていない車椅子でどうやって上がって来たのかはわからないがい、平然としていたので、イレアナも特に何も言わなかった。

 むしろ天井を仰ぎ見るように顔を上げていたから、キアの姿を見ようともしなかった。



 キアが声をかけなければ、来訪にも気付かなかったかもしれない。

 そしてキアは、イレアナのそんな態度を咎めはしなかった。

 無理からぬことと、そう思っていたからだ。



「……他の者達は、どうしたのですか」

「同志ヴァリアスの部屋を調べたいとのことで、すでに降りました」

「そうですか。まぁ、今となっては、どうでも良いことです」



 どこか遠くを見る目をして、イレアナはポツポツと呟きのような言葉を紡いだ。



「……あの御方は」

「はい」

「あの御方は、自分以外の何者をも必要としない、そんな方でした」



 自分でさえも、と言う言葉は飲み込んだ。

 大公国の事実上の宰相として全ての舵取りを担って来た自分でさえも、<大魔女>は本当の意味では必要としていなかった。

 元々、そう言う些事さじを任せるためだけに引き上げられただけだったのだろう。



「あの御方にとって本当に必要なものは、全て過去にあったのでしょう」



 300年も以前に、<大魔女>が必要としていた全ては失われてしまった。

 イレアナは、イレアナだけはそれを知っていた。

 彼女だけは、<大魔女>がいかなる存在であるのかを知っていた。



「それならどうして、リデル様を行かせたのですか?」

「……さぁ、どうしてでしょうね」



 リデルを先に進ませれば、何が起こるのかはわかっていた。

 <大魔女>がリデルの身体を奪い、人柱にしようとするだろうと。

 一方で、もしやと思わなかったわけでは無い。

 リデルなら、この娘ならもしかしたらと、思わなかったわけでは無い。



「いずれにしても、あの御方は永くは無かった。300年で擦り切れた魂は、ちょっとしたきっかけで崩れてしまうような、そんな状態でした。だから……」



 だから、何だと言うのだろう。

 自分は誰に話しているのだろうと、イレアナは不思議に思った。

 キアはただ聞いているばかりで、何かを言おうとはしない。

 他人の心を感じる年少の魔術師の眼には、自分の心が見えているのだろうか。



「……そうですね、同志イレアナ」



 ――――視る必要など、ありませんよ。

 自分の目が見えないことに、キアは初めて感謝した。

 完全無欠とまで謳われる協会の№2が、今、どんな顔をしているのかを目にせずに済んだのだから。



  ◆  ◆  ◆



「う……うーん?」



 何だかいつに無く、ぐっすりと眠っていたような気がする。

 ただ、寝心地については宮殿のベッドとは比べるべくも無かった。

 枕はなかなかの柔らかさだから良いとして、床に寝ているのか身体はゴツゴツとして痛い。

 正直、ずっと寝ていたとは思わない。



 それもあって、ベルフラウはすぐに目を開けた。

 すると、そこが何となく見覚えのある部屋であることに気付く。

 そうだ、自分はあの時、<大魔女>と言う魔術師に会って……?



「やっと起きたの? ねぼすけねぇ」

「……リデル?」



 もぞもぞしていると、上から声が降りて来た。

 目に入った顔は、良く知っている。

 どうやら自分は、その人物の膝を借りている状態らしかった。

 なるほど、枕だけが柔らかかっただけである。



「ふあぁ……んー」

「ちょっと、二度寝しようとしてんじゃないわよ」

「あだっ」



 叩かれた頭を擦りながら、ゆっくりと身を起こす。

 それから大きな欠伸をして――見ているリデルが苦笑してしまう程――伸びをして、ようやく周りを見渡す余裕が出てきたらしい。

 やはりそこは<大魔女>に出会った部屋で、ただそれ以後の記憶がかなり曖昧だった。



「うーん……」

「どう? どこか調子が悪かったりしない?」

「うーん、お腹すいた」

「あ、そう」



 何故か呆れられたが、まだ寝ぼけているベルフラウにとっては大した問題では無かった。

 伸びをするとバキバキと身体が鳴った。

 どうして床で寝ていたのかはわからないが、身体が少しだるいことを除けば問題は無い。

 あと、リデルが微妙に優しい――そう言えば、どうしてここにいるのだろう。



「うーん?」



 わからないことだらけだ。

 わからないことだらけだが、それはベルフラウにとってはいつものことだ。

 その代わりに、彼女は当たり前のことだけは忘れない。

 ベルフラウは、そう言う少女だった。



「んー。ねぇ、リデル」

「なによ」

「えーと……」



 それは起きて、最初に言うべき言葉。

 ベルフラウは、気の抜けた笑顔で言った。



「おはよう」



 花開くような、可愛らしい笑顔。

 それが、リデル達が今回の騒動で得た、唯一の「戦果」だった。


最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。

今話で10章本編は終了、次回のエピローグで10章そのものが終わりです。

今年中には完結させたいと思いますので、もうしばらく、お付き合い下さいませ。

それでは、また次回。

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