10-7:「<大魔女>」
――――ある夜のこと。
それはヴァリアスと過ごす幾度目かの夜のことで、まだ記憶に新しい。
その時、ヴァリアスは不思議なことを言っていた。
「贈り物の中身がどうなっているか、考えたことがあるかい?」
「え……?」
気だるいまどろみの中にあったフロイラインは、唐突な言葉に目を丸くした。
シーツを胸元にかき抱きながら身を起こすと、テラスに通じる窓の傍に座るヴァリアスの姿が見える。
ローブを羽織っただけの姿の彼は、手の中でグラスをくゆらせていた。
「贈り物の外から見るだけでは、箱の中に何が入っているかはわからない。そう言うことを、キミは考えたことはあるかい?」
「……いえ、特には」
「そうかい。まぁ、そうだろうね。普通はそうだ」
「はぁ」
開かなければ、箱の中身を知ることは出来ない。
当たり前のことで、そんな当たり前のことを言っているヴァリアスのことがわからなかった。
訝しげな表情を隠そうともしないフロイラインを見て、彼は笑った。
「なら、その逆はどうかな?」
「逆、ですか?」
ますますもってわからない、いったいヴァリアスは何を言いたいのだろうか。
「贈り物の中身にとっても、蓋が開かない限り、外がどうなっているのかはわからないんじゃないかな」
それもまた、当たり前のことだった。
贈り物の中身が人のように考えるはずも無いが――中身が人間だったと言うオチでも無い限り――しかし、箱の中からは外は見えない。
考えるとか考えないとかでは無く、それはそう言うものだからだ。
だから、フロイラインはヴァリアスの言葉の意味がわからなかった。
「このアナテマ大陸も、贈り物のような物さ」
「贈り物、ですか」
「そう、贈り物。その中身。神様の……ああ、いや、そんな良いものでは無いね」
「では、誰からの贈り物なのですか?」
「そうだね」
それにこの時のフロイラインは、ベルフラウの公王位継承のことで手一杯な状態だった。
だから正直な所、ヴァリアスの言葉をさして本気で聞いていたわけでは無い。
しかし、今にして思うと。
「<大魔女>からの贈り物、かな」
彼はこの時、何かの核心について話していたのかもしれない――――。
「う……」
「おお、ブラン。この姉さん、目が覚めたんじゃねぇか!?」
「ふひひ、先生を呼んで来るんだぞ~」
――――どうやら、夢を見ていたらしい。
ぼんやりとした視界で、天井を眺める。
傍らを見ると、やけに痩せた男とやたらに太った男がバタバタと動いているのが見えた。
自分はベッドに寝かされているのだろう、先生とは何だろうか、ここは医務室か何かなのか?
朦朧とする意識の中で、それでもフロイラインはベルフラウのことを想った。
自分にとって、天からの贈り物と言っても良い少女を想った。
外側の自分は、はたしてベルフラウのことが見えていただろうか。
内側のベルフラウから見て、自分はどう見えていたのだろうか……。
◆ ◆ ◆
また随分と奇妙な空間だと、リデルは思った。
黒が基調なのは他の空間と同じだが、天井は高く――どうやら、丸いドーム状になっているらしい――そして、赤い輝きがキラキラと瞬いていた。
あれは全て、<アリウスの石>なのだろう。
<アリウスの石>の星空。
同じ星空と言うならキアの階層もそうだったが、あれとは比べるべくも無い。
目にするだけで何故か不安になる、そんな禍々しい「空」だった。
(石慣れしてないフィリア人が見たら、卒倒するんじゃないかしらね)
そんなことを考えながら、周囲を見渡す。
赤い星空以外は黒い石で壁も床も構築された空間は、これまでもそうだったが、じっと見ているとそれだけで眩暈を感じる程だ。
だがこれまでは、研究室だり荒野だり、何かしらの変化があった。
最上階層は違う。
天を覆う赤い星空以外は、まさに闇だ。
黒しか無い。
視界の端、壁際で揺れるカーテンでさえも、闇が揺れているようにしか見えない。
他の色は、何も無かった。
「何と言うか、目がおかしくなりそうな所ね」
「そうですね。ただまぁ、僕はそれ程でも無いですね」
「は? 何でよ。どこまで行っても黒ばっかりで、何か目が疲れてきたわ」
「ははは。まぁ、探してみれば他の色もあるものですよ」
「はぁー……?」
目の前に金色がいるから大丈夫とは、流石に口にしなかった。
「それにしても、流れ的にここって最上階よね?」
「流れと言うのはよくわかりませんが、おそらくは」
「じゃあ、<大魔女>ってのはどこにいるのよ」
そう、リデル達は別に道楽で塔を登って来たわけでは無い。
最上階にいると思われる<大魔女>に会い、ベルフラウの幽閉を解かせなければならないのだ。
そうでなければ旧市街を中心とするフィリアリーンの復興も、ミノスとの同盟も意味が無くなってしまう。
何より、リデルが嫌だった。
とは言ったものの、右を見ても左を見ても何も無い。
どこまで言っても黒ばかり。
変わることは無い。
<大魔女>の姿も無く、時間だけが過ぎていく感覚。
「う~……」
ああ、これは不味いな。
ひとり冷静なアーサーは、リデルがどうしようも無く苛立っていることに気付いた。
気付くと言うよりは、それはもはや経験則と言った方が良かった。
何も言わずに、両手で耳を塞いだ。
「<大魔女>――――ッ! 出てきなさいよコラァ――――ッ!!」
空気が澄んでいるからか、また構造上の問題なのか、声は良く通る。
山彦のように声が何度も反響して、自分で自分の声を聞く。
それが聞こえなくなって、しばらく待つ。
「…………」
「……何も起こりませんね」
それでも何も起こらず、静寂が続く。
これはさらに大きな声を上げるしか無いか、リデルがそう言う考えに傾いた、その時だった。
『「……ふふふ」』
クスクスと言う笑い声と共に、どこかから風が吹いた。
その風は不思議とリデルとアーサーの間を抜けるかのように思えて、黒いカーテンを揺らす。
壁を覆う巨大な布地が膨らむように揺れて、どこか不気味だった。
まるで、人ならざる者の悪戯のようだ。
「何かいます」
視線はすでに重なっている。
リデルはアーサーの声には応じず、じっと同じ場所を睨んでいた。
――――そして彼女は、そっと靴を脱いだ。
◆ ◆ ◆
何をするのかと黙って見ていれば――概ね、アーサーが彼女の行動を止めたことは無いが――リデルは、脱いだ片方の靴を振りかぶり、そして全力で投げた。
それはそれは見事な大振りだったと、アーサーは後に述懐することになる。
「顔を見せなさいよッ!」
言葉より先に手が出るあたり、相当にキている。
それだけ<大魔女>の行動に憤慨していると言うことか。
少女の弱肩で投げつけた所で、厚手のカーテンを僅かに揺らす程度だったが。
『「酷いな、ちょっとからかっただけじゃないか」』
それでも、カーテンの向こうに身を潜めていた者はそんなことを言った。
ショックを受けた風にも聞こえるが、別段、そんなことも無さそうな声音だ。
『「大体、女の子が片足とは言え裸足で歩くものじゃないよ」』
「床に足つけて無いから平気よ!」
「そう言う問題なんですかねぇ……?」
実際、リデルはアーサーの肩に手を置いて片足で立っている。
「そんなことより、隠れてないで出てきなさいよ!」
『「別に隠れていたわけじゃないよ。むしろキミ達が来るのが早過ぎるのさ、もっとゆっくりしてくれば良かったのに」』
何しろ、と、その少女は言った。
聞き覚えのある、しかし聞いたことの無い響きの声で。
『「何しろボクは、さっき起きたばかりなのだからね」』
「はん。何よそれ、何の冗談? 大体、本当だったとしても私達が気にしてあげる必要は……」
言葉を失うとは、まさにこのことか。
ばさり、とカーテンを手で払い、姿を現したのは少女だ。
カーテンの向こう側に僅かに通路が見えて、そこから来たのだろうか。
金髪紫瞳のソフィア人の少女で、それ自体は特に驚くことでは無い。
驚くべきことは、別にある。
例えば、顔。
例えば、身体。
しかし少し考えてみれば、その可能性に行き着くことは難しくは無かった。
そう、相手は他人の身体に宿ることが出来るのだから。
だからこれは、単純にリデルの想定が足りなかっただけ。
『「ここじゃあ、お茶も出してあげられない」』
闇夜を翻すかのような、漆黒のドレス。
レースやフリルをふんだんにあしらったそれは彼女の趣味に合っているように見えて、しかしその色は絶対に選ばないだろうとリデルは思った。
あの子は、華やかな色が好きだったのだから。
『「お母さん失格と言うやつだね」』
その顔で――ベルフラウの顔で。
『「嫌わないでくれると、嬉しいね」』
そんなふざけたことを言うなと、リデルは思った。
◆ ◆ ◆
『「驚いているね? そう、全てはボクの掌の上だったと言うわけさ」』
胸に手を当て、もう片方の手でスカートの裾を摘む。
片目を閉じて舌を出すその仕草はどこか子供のようで、ベルフラウがする仕草としてそう不思議は無かった。
だがどうしてか、今は無性に腹の立つ仕草だった。
『「幽閉なんて自作自演だよ。ほんのちょっと、皆に心配をかけたかっただけなんだ」』
「あんまりふざけたこと言ってると、もう1個投げるわよ」
『「ひゃあ、怖い。それは困るから、大人しくすることにしよう」』
もう片方の靴を投げようとする様子を見せると、壁際に戻って膝を抱えた。
落ち込んでいるように見えるが、ニヤニヤとした表情が口程に物を言っていた。
つまり、まだふざけている。
「何なのよ、アンタ」
苛立ちを隠そうともしない。
しかし、そう思うのも仕方が無いだろう。
いよいよもって<大魔女>の登場かと思えば、またしても他人の身体を借りての登場。
ここまで来れば、もう確信と言っても良い。
<大魔女>の魔術は、「他者への乗り移り」だ。
どう言う原理でそうなっているのかはわからないが、群を抜いた超常の力であることは確かだ。
何しろこれまで見た魔術はどんな物であれ、「他者に何かする」ものがほとんどだった。
他者そのものに成り代わると言うのは、異彩を放っている。
「<大魔女>だなんてご大層な呼ばれ方してるから、どんな奴かと思えば。顔も出せない卑怯者だったなんてね!」
『「顔ならちゃんとあるじゃないか。ほら、こんなに可愛いのが」』
「それはベルの顔でしょうが!」
『「今はボクの顔でもある」』
「アンタ自身の顔を見せろって言ってんのよ!」
『「それは難しいと思うよ」』
「何でよ!」
小首を傾げながら、<大魔女>は言った。
『「ボクの身体はここには無いからね」』
<大魔女>は言った。
自分にはすでに肉体は無く、<アリウスの石>を媒介とする「魔法」になっているのだと。
事実、ベルの首元にはリデルの首飾りにも似た赤い宝石がある。
『「ボクの身体はね、ずっと北の方にあるんだよ」』
「北……」
また、北だ。
いったい大公国の、アナテマ大陸の北には何があると言うのだろう。
『「まぁ、もう気付いてるだろうけれど。ボクは<アリウスの石>を介してソフィア人の肉体に宿ることが出来るのさ」』
「別にアンタの魔術なんかに興味ないわ」
『「まぁまぁ、人の自慢話は聞いてあげるものだよ」』
自慢話だったのか。
それにしても、無性に腹の立つ喋り方である。
馬鹿にされているとしか思えない。
<大魔女>はそんなリデルを、やはりニヤニヤとした笑みで見つめていた。
『「でもね、ずっと同じ身体に宿っていられるわけじゃないんだ。割と不安定な魔術でね、たまに身体を替えないといけないんだよ」』
そして、段々と話題が不穏な方向へ。
『「なるべく、若い身体が良いんだ」』
ニヤニヤと笑う。
目を逸らすことが無い。
リデルから、目を逸らすことが無い。
『「出来れば、公王家の血筋が良いね。血筋がほぼ絶えてしまったものだから、困っていたんだ」』
今となっては、選択肢の無い条件。
絶海の孤島と言う閉ざされた世界から出てこなければ、見つけられなかっただろう選択肢。
だから彼女は笑うのだ。
嗚呼、自分は何て運が良いのだろう――と。
『「あの子がボクの下を去って以来、公王家には新しい命が生まれなかったからね」』
何しろ、リデルの前にあてにしていた候補には逃げられてしまったのだから。
『「――第七公子アクシス。<東の軍師>と言った方が通りは良いのかな?」』
そして、リデルの父親でもある男。
◆ ◆ ◆
20年前のこと、大公国の第七公子アクシスがアナテマ東部で叛乱を起こした。
それはやがて大陸東部のフィリア人による独立叛乱へと性格を変えていき、アクシス公子の名は表舞台から消えた。
代わって登場したのが、<東の軍師>と呼ばれる男である。
彼の名もまた、12年前の大公国と連合の戦争の際には歴史の表舞台から消えていた。
しかしそれまでの8年間に彼が成した戦勝によって、現在の聖都を中心とする連合が形成され、その後の大公国と連合と言う2大国による世界秩序が成立したのである。
第七公子アクシスと<東の軍師>、この両者が同一人物であることを知っている人間は、ほとんどいない。
『「公王家がほとんど絶えてしまった今となっては、先代の公王くらいだろうね。まぁ、その先代の公王ももういないわけだから、今では誰も知らないのかな……」』
(……ファルグリンは、知ってたと思うけど)
<東の軍師>が公王家の血筋であることは、すでに――それこそ、先代公王に――聞いていた。
そして、ファルグリンを始めとした聖都の上層部も。
公王家の血筋と知っていたかまではわからないが、ソフィア人であることは知っている。
だから彼女らは今も、民に<東の軍師>の実像を教えようとはしていないのだ。
父の正体を知る者は、やがて誰もいなくなるのだろう。
『「あの子はあの時、妙な運動をしていたからね」』
そしてそれは、<大魔女>にとってはどうでも良いことだった。
彼女にとって重要なのは大公国が存在することで、大陸の覇権を握ることでは無い。
彼女にとって大切なのは公王家が存続することで、大陸の覇者にすることでは無い。
大公国が存在し、公王家が存続する限り。
<大魔女>は、何かに干渉することは無い。
『「けれど、現状はこの様だ」』
そこで、<大魔女>が全ての表情を消すのを見た。
『「大公国は確かに存在している。なのに、公王家は絶えようとしている」』
<大魔女>、いやベルフラウの肉体から黒い何かが蠢いたような気がした。
それは誰かに縋りつくような、あるいは縛り付けるような。
顔に張り付いた手は、仮面を外す仕草に似ていた。
『「こんな事態を、ボクは許すわけにはいかない」』
初代公王より300年、連綿と受け継がれてきた尊い血。
<大魔女>にとって、それは失うべからざるべきものだ。
『「だからボクは、12年前。あの子を――アクシスを呼び出したんだよ」』
本当は、もっと早く呼び出すつもりだった。
しかしアクシスは当時「妙な運動」――東部の動乱――をしていたから、<大魔女>の召喚に応じることは無かった。
元より、家は捨てたものと思っていたのだかろう。
『「そんな彼だけれど、最後にはボクの召喚に応じてくれたんだよ」』
ねぇ、と<大魔女>は言葉をかけてくる。
その瞳は変わらずリデルを見ていて、ベルフラウの肉体からはやはり黒が滲み出ている。
呼吸がしにくい、喉元を汗が滴るのを感じた。
『「何故だと思う?」』
国を捨ててフィリア人に味方した男が。
家を捨ててフィリア人のために起った男が。
何故、12年前に<大魔女>の秘密裏に召喚に応じる――つまり、公都へ帰還――ことになったのか。
『「あの子の妻子が聖都とか言う場所を追われたのは、何故だと思う?」』
そして<大魔女>が、どうしてそれを知っているのか。
『「あの子の妻子が逃げ込んだ大公国の辺境の街で疫病が流行ったのは、何故だと思う?」』
女の嫉妬、男の慟哭。
リデルの脳裏に、それらの言葉が走り抜けた。
『「母親は打ち棄てられたのに、子――娘だけが中央の病院に運ばれたのは、何故だと思う?」』
何故だと思う?
あまりにも出来すぎた偶然じゃないか、神様の奇跡だろうか?
神様?
いいや、そんなご大層なものじゃない。
『「ねぇ、何故だと思う?」』
それは、もっと醜悪であり。
それはもっと、奇怪で、愚劣で、どうしようも無いもの。
1人の女が嫉妬で身を焦がしたが故に、どれほど凄惨な戦場が生み出されたか。
1人の男が慟哭で心を砕いたがために、どれだけの犠牲者が生み出されたのか。
この女は、きっと、そんなことを考えたことも無い。
リデルは苛立ちとは違う、吐き気を伴うような、大きな感情のうねりを己の身体の内に感じた。
吐き出してしまわなければ、どうにかなってしまいそうで。
だからリデルは、ケタケタと笑う<大魔女>に対して一歩を踏み出して。
「――――アン」
タ、と、声を上げる前に。
目の前に現れた背中に、リデルは鼻先をぶつけてしまった。
――――何なのよ!?
◆ ◆ ◆
その時の<大魔女>の表情を、何と表現すれば良いのだろうか。
あえて言うのであれば、厨房で害虫を見つけた時にする表情に似ている。
「ちょっとアーサー! どきなさいよ、そいつには一言言ってやらないと気が済まないんだから!」
アーサーの後ろで、リデルが騒いでいる。
普段から何かを返す所ではあるのだが、今のアーサーは動けなかった。
自分を見つめる<大魔女>の目が、あまりにも冷た過ぎて。
『「不浄の民か」』
その声が、恐ろしく冷えていて。
『「下の階の子達はどう言うつもりなのかな。こんな汚らしいものをここまで通すだなんて」』
それは、今までアーサーが聞いた中でも上位に来るくらいの、あからさまな差別だった。
彼女はおそらく、アーサーと会話をするつもりは無い。
害虫と話をする人間はいない。
良くて無視するだけだ、そしておおよその人間は害虫とわかっていて無視を決め込むことは無い。
『「――――嗚呼、不愉快だ」』
駆除するのだ。
そこに感情は無い、ただそうであるから、そうするだけ。
今の<大魔女>の顔は、目は、まさにそう言っていた。
「ちょっと待ちなさいよ、フィリア人だから何だって言うの!」
アーサーの脇から顔を覗かせて、リデルが言った。
「ソフィア人だとかフィリア人だとか、関係ないでしょう! そんな呼び分けに何の意味があるって言うのよ!」
『「可哀想に」』
「それを……って、は?」
可哀想?
何のことだと思って見ていれば、<大魔女>は本当に哀れむような表情でリデルを見ていた。
憐憫、同情。
そう言う感情がない混ぜになった視線は、居心地を悪くするには十分だった。
<大魔女>はもう一度「可哀想に」と言った後、幼子に教えるかのような口調で言った。
もしかしたら、本当に幼子だと思っているのかもしれない。
いずれにしても、愉快では無い。
それこそ、不愉快、だ。
『「きちんとした教育を受けてこなかったから、物の理と言うものがわからないんだね」』
ましてそんな、「常識を知らないんだね」などと言われてしまえば。
沸点がけして高いとは言えないリデルにとって、それは謂れの無い侮辱だった。
……いや、確かに島育ち故に知らないことも多いが。
それでも差別が常識であるなどと言われて、それをしないから非常識だなどと謗られるのは、我慢ならなかった。
『「そいつらはね、本当に汚れているんだよ。生まれながらにこの世で最も汚らわしい生き物として生を受ける」』
ソフィア人は尊く、フィリア人は卑しい。
それがこの世の理なのだと、<大魔女>は説く。
「だから何よ、ただフィリア人に生まれただけじゃない」
『「生まれれることが罪と言うことだよ」』
「そんなこと、本人にはどうしようも無いことだわ」
『「だからこそ罪なのさ。本人の意思よりも遥かな高みから決定されていると言うことなのだから」』
「どうしてそんな風に言えるの? ソフィア人だろうとフィリア人だろう、生まれて、そして何かを遺して死ぬのよ。同じじゃない、何が違うの!」
違いなど、ありはしない。
人種が違うだけだ。
それだけの違いで何もかもが違う、リデルには受け入れられなかった。
本人の人格や能力とは別の所で何もかもが決まってしまうなんて、理不尽すぎるでは無いか。
『「違うよ、何もかもが違うんだよ」』
両手を胸の前で遊ばせながら、<大魔女>は言った。
違う、と。
2つの人種の間には、埋めようも無い差があるのだと。
『「教えてあげる」』
胸元の<アリウスの石>が輝く。
天井に星の如く散らばる<アリウスの石>が、輝きを放つ。
『「そいつらがいかに汚れた生き物なのか。どうして差別されるべきなのか』
これは魔術だ、しかも空間全体に干渉するタイプの。
ここに至って逃げられるとも思わず、リデルはアーサーにしがみ付くことにした。
とりあえず、離れなければ大丈夫と踏んだのである。
そして<大魔女>はと言えば、特に危害を加えるような様子は見せない。
しかし、魔術は発動する。
それはリデルの読み通りに空間全体に及ぶ魔術で、彼女は事も無げにそれを発動させて見せた。
『「そいつらの、原罪を」』
視界の全てを、毒々しい赤い輝きが覆い尽くした。
アーサーにしがみ付いたまま、リデルはキツく目を閉じるのだった。
◆ ◆ ◆
――――次に目を開けた時、リデルは自分がどこにいるのか、わからなかった。
ただ、とりあえずアーサーが傍にいることはわかった。
しがみ付いていたおかげで、まずそのことに気付くことが出来た。
「<大魔女>のやつは……?」
「……どうやら、姿を消しているようですが」
戸惑う気持ちは、アーサーも同じだった。
それでも取り乱さなかったのは、魔術によって周囲の光景が変わったり長い距離を移動したりする経験をしてきたからだ。
だから、これが魔術だとすぐに理解した。
問題はこれが光景を描いただけなのか、本当に移動したか、どちらなのかわからないと言うことだ。
事実、今、目の前に広がる光景は先程までいた場所とはまるで違う。
先程まで、彼女らは塔の最上階層にいたはずなのに。
「どこかの山の中、よね?」
「そのようですね。ただ、どこの山かまでは」
<大魔女>の姿も見えない、リデルとアーサーふたりきりだ。
そして空を見ると、山々の隙間から僅かに星々を見ることが出来た。
温かだが空は高く、剥き出しの山肌は見ているだけで寒々しい気持ちにさせた。
そう、山である。
木々や植物の類はあまり無く、本当に岩肌が剥き出しの山々が連なっている。
大公国と連合の境界に広がる山岳地帯とは、また別の雰囲気を持っていた。
土はより固く岩は尖りが強く、山はより高く険しいものばかりだ。
しかも異常に高く、おそらく登攀も難しい程に峻険だ。
もしかしたら、ミノスの山々よりも険しいかもしれない。
「これはもしかして、野垂れ死にでも狙っているとか?」
「あの流れでそれは無いと思うけど。大体、イレアナの言うことを信じるなら、私を呼んだのは<大魔女>だって話じゃない。なのに……って、もがっ!?」
「しっ、誰か来ます!」
「も、もごもごっ?」
急に口を押さえられて、アーサーに引き摺られるようにして山陰に身を潜める。
こんな山中に誰かがいるなどと――いるとして<大魔女>だと――思っていたから、一瞬混乱した。
『おい、そこで何をやってる?』
その声は頭上から、それも思ったよりも近くから聞こえた。
見つかった? でも誰に?
アーサーの服の裾をぎゅっと掴んだまま、リデルは声のした方へと視線を向けた。
すると、そこには――――。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
今話からは、<大魔女>による解説みたいな回になりそうです。
でも当然、それは<大魔女>視点の話なわけで。
はたして、リデルの目にどう映るものかはわかりません。
なお、来週の更新はリアルの都合により、お休みさせて頂きます。
次回の更新は9月18日となります。
それでは、また次回。




