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10-1:「魔の都」

 魔術都市ティエル。

 公都トリウィアの北西30キロの地点にあるこの都市は、魔術師達の本拠地である。

 元々は魔術師達のギルドに過ぎなかったが、大公国の成長と共に都市化したと言う歴史を持つ。



「……まぁ、私もこう言うことには慣れて来たと思うけど」



 遠目に見える魔術都市は、薄く赤い輝きに満ちている。

 おそらく<アリウスの石>の輝きだろうが、遠目には細かな様子は見てとれない。

 公都以上に異常な都市のようだ、一筋縄ではいかないだろう。



「最近、感覚が麻痺してきたような気がするわ」

「奇遇ですねリデルさん、僕もですよ」

「アンタ、そんな格好で何言っても格好悪いわよ」

「そうですか……」



 胸全体をレースで覆った白のブラウスに、踝までのストライプ模様のロングスカート。

 頭にはリボンのついた平たい帽子に、膝の辺りまで垂れる腰帯。

 そして胸元に揺れる父の形見の宝石、ようやく首飾りとして身に着けたようだ。

 そんな格好をしたリデルは傍には、男2人と女1人がいた。



 1人はもちろんアーサーである、どう言うわけか彼は木の側でひっくり返っていた。

 どうやら彼女らは深い森の出口にいるらしく、また周辺は霧がかっていて、霧の中に赤い都が浮かんでいるように見える。

 それ以外の物は、近辺に広がる森の木々だけだ。



「おぉーい、たぁすけてくれぇー」



 アレクセイもいるが、姿は見えなかった。

 声の方角から察するに、どこかの木の上に引っかかっているのだろう。

 声に慌てた様子が無いので、正直、どれだけのレベルで助けを求めているのかがわからなかった。



「びっくりした。いったい、何が起こったんですか?」



 それと、ルイナもいた。

 再会してからは特に離れていないから、一緒にいることに違和は感じない。

 ただリデル以外の3人で、1番しっかりと着地したのは彼女だった。

 そして唯一、まともな言葉を発した人間でもある。



 と言うのも、リデル達はつい今しがたまで公都にいたのである。

 しかし今、彼女達は明らかに公都では無い場所にいる。

 明らかな異常。

 それでもリデルが落ち着いているのは、自分で言った通り、「気が付いたら別の場所にいる」と言う状況に割と慣れてきているからに他ならなかった。



「あそこに、ベルがいるって言うの……?」



 遠目に見える都市を睨んで、そう言う。

 そして思い起こすのは、直前まで話していた相手。

 人間を長距離移動させることが出来る唯一の<魔女>、イレアナの澄ました顔だった。



  ◆  ◆  ◆



 少し時間を遡る――――。

 と言っても、本当に「少し」だ、直前と言っても良い。



「邪魔するわよっ!」



 どかん。

 まさにそんな音が出そうなレベルで、リデルが扉を蹴破った。

 蝶番が悲鳴を上げているが、そんなことはお構い無しだった。



「イレアナ、いるわよね?」



 そこは公都の宮殿、イレアナにあてがわれた部屋だった。

 ヴァリアスの部屋は魔術師らしい異様な道具で溢れていたらしいが、イレアナの部屋は実にシンプルであった。

 特徴としては本棚が多く、飾り気の無い執務用の机があるだけの、いわば書斎と呼ぶべき造りになっていた。



 最初、部屋には誰もいないように見えた。

 だが良く見れば、黒い革の椅子の背がこちらに向いていることに気付く。

 もう一度呼びかけると、それはゆっくりと振り返った。

 どう言う構造で椅子が半回転するのかはわからないが、とにかくこっちを見た。



『これはこれは、リデル様。お揃いでようこそ』



 お揃いと言うのは、この時、リデルの傍に3人のフィリア人がいたからだ。

 今さら言うまでも無いが、それはアーサーでありアレクセイであり、ルイナだった。

 ソフィアの宮殿にフィリア人がいると言うのは本来はあり得ないことであるが、新公王が親フィリア的な宣言を出したため、またリデルが新公王の友人であることもあり、黙認されていた。



『今日は、どう言ったご用件でしょうか? と言っても、リデル様が今、私にある用件は1つしか無いでしょうが』



 しかし、イレアナはそこにはいなかった。

 その代わりに薄く赤い輝きが、<アリウスの石>の輝きが満ちていた。

 金属の枠から伸びた、薄く赤い膜のような物。

 その枠の中にイレアナの姿が映し出されている、これは新市街で見たことがある。

 イレアナの魔術だ、彼女は今、公都にいない。



「アンタ、どう言うつもりよ!」

『どう言うつもり、とは?』

「ベルのことに決まってるでしょ!」



 新公王はベルフラウは最初の勅命を発した後、姿を消していた。

 協会による幽閉であった。

 今、公都は静まり返っている、ヴァリアスの婚姻の比では無かった。



 最初に聞いた時、リデルは意図を掴みかねた。

 あの時、即位の時に確かにイレアナやノエル、キア等の<魔女>達はベルフラウの即位を認めていたでは無いか。

 それなのに、何が気に入らなくてベルフラウを幽閉などするのか?



『公王陛下は現在、我らの都、「ティエル」に滞在されています』

「滞在? 無理矢理、誰にも知らせずに連れて行くのを滞在とは言わないわ」

『……なるほど、なかなか含蓄のある言葉ですね』



 基本的に、誰にもわからない場所に連れて行かれることに定評のあるリデルである。



「それより質問に答えなさいよ、何でベルを連れて行ったの?」

『……すべては』



 向こう側で、イレアナは言った。



『すべては、我らが<大魔女>のご意思』

「<大魔女>……?」



 知らない単語だ。

 振り向いてアーサーを見上げれば、肩を竦めて「知らない」と返してくる。

 <大魔女>と言うのは、<魔女>とは違うのだろうか。

 だがイレアナが従うということは、イレアナのさらに上役と言うことだろう。



「じゃあ、その<大魔女>とか言う奴に会わせなさいよ」



 どう言う意図かは知れないが、ならば直接会って話をつけるしか無い。

 公王の代替わり直後で政権らしい政権が無い大公国にとり、協会に対し何かを要求できる立場の者はいない。

 その点、身軽かつベルフラウと関係の深いリデルなら問題も起こりにくい。

 問題はイレアナの側がそれを受けるか、と言うことだったが……。



『よろしいでしょう、それでは我らが都ティエルにご招待致しましょう』



 足先にむず痒さを感じる、リデルはこの感覚を知っていた。

 リボンが解けるかのように身体が分解され、そしてどこかで再構築される感覚。

 イレアナの移動魔術だ、初めて受ける他の3人に「大丈夫!」と叫んでから、イレアナを睨み付けた。

 そして、イレアナが言う。



『我らが<大魔女>は、リデル様。貴女をご指名です』

「……指名?」



 指名とは、どう言うことだ。

 しかしそれを聞く前に、イレアナの魔術が完成する。

 そしてリデルの身体は公都かた消えて、遥か北西のティエルへと移された。

 ――――そして、現在へと至る。



  ◆  ◆  ◆



「それで、どうするんです?」

「どうするもこうするも、行くしか無いでしょ。いつものことよ」



 アーサーに答えてから、身体をほぐすように腕をぐるりと回す。

 とにもかくにも、身を起こした4人は遠くティエルを臨む場所にいる。

 深い森の中に築かれただろう魔の都、それを見ていると、木の上から何かがボトリと落ちて来た。



「あれ? アレクセイはもう落ちて来たわよね?」

「おい」



 それは大きな蛇だった、腕よりも太い蛇である、湿気の覆い霧の森の中だからかやけに元気だ。

 リデルの蛇だ、霧の中からは鳥が降りて来て頭に止まり、木の根元からリスが肩の上に走り登ってくる。



「アンタ達、一緒に来てたのね」



 実はイレアナの部屋に乗り込んだ時、動物達も一緒だったのだ。

 イレアナの魔術の対象がどこまでなのかがわからなかったが、どうやら生き物であれば対象となるらしい。

 加えて言えば、イレアナの魔術は個人では無くその場所にいる者を移動させるのかもしれない。



「うふふ、くすぐったいわ」



 リスが頬に身を摺り寄せて来たので、むず痒さに身を竦ませた。

 鳥は頭の上で足を折って座りの体勢に入った、蛇はと言うと、その巨体を器用に持ち上げてリデルの頭に乗ってきた。

 場所を取られた鳥が嘴で蛇の皮を突く、どうやら喧嘩が始まったようだ。



「何と言うか、何回見ても襲われてるようにしか見えねぇな」

「そうですか? 僕はもう慣れましたよ」

「お前も大概変な奴だよ」



 意味がわからないと言えば、ルイナの存在もそうである。

 アレクセイは良く知らないが、これが普通の村娘だったら特に問題視しなかったろう。

 実際、ルイナは村娘だった。

 しかし今、リデルを押し潰した大蛇を片手で持ち上げたりしているのを見ると、とてもそうは思えない。

 あの『施設』では敵対していた関係だから、余計にそう思うのかもしれなかった。



「大丈夫、リデル?」

「だ、大丈夫に決まってるじゃない。だから私は抱っこしなくて良いのよ」



 右手に蛇、左手にリデルを抱える。

 普通の村娘がそんなこと出来るはずも無い、となれば、『施設』の実験の結果ああなったのだろう。

 そんな人間を近くに置いていて、大丈夫なものなのだろうか。

 またいつ、あんな風に獣と化すかわからないと言うのに。




「まったく、相変わらずな連中だねぇ」

「げへへ、そうっすね姐御!」

「ふひひ、久しぶりなんだぞ~」




 その時だった、3つの声が森の方、つまり後ろから聞こえた。

 しかも全てに聞き覚えがあって、その場にいる全員が振り向いて、そして驚いた。



「あ、アンタは……!」

「アタシら魔術師の故郷にフィリア人がゴロゴロと」



 白い髪、しかしそれがかつては金色だったことを知っている。

 短く切った髪は、前に比べると少し長くなっているように見えた。

 ローブと軍服の混合服は魔術師の証、右腕の部分だけがヒラヒラと風に揺れている。

 そして、皮肉そうな表情を浮かべて。



「まったく、とんだ悪夢だよ」



 おそらく、リデル達と最も縁が深いであろう魔術師。

 アレクフィナとその部下2人が、そこにいた。



  ◆  ◆  ◆



 ティエルの街は、不気味な程に静かだった。

 黒い石で出来た尖塔がいくつも地面から伸びているばかりで、家らしい家も無い。

 地面は無く――厳密に言えば、あるのだろうが――灰色の何かで埋め立てられていて、靴裏の感触は硬質で、素足で駆けると足裏が痛くなりそうだった。



「協会ってのはな、要するに官僚組織なんだよ」



 無人の、無機質な都市の中を歩く中、アレクフィナの声だけが響く。

 まるで講堂にいるかのように声が響くのは、尖塔の位置によって反響するからだろうか。



「公王の四大権ってのがあって、それを公王家から預かってるって言うのが建前だ」



 四大権とは、要するに公王が大公国を治める権力のことだ。

 軍事に関する統帥とうすい権、司法に関する裁治権、法に関する国務権、官僚の管理に関する官務権の4つで、わかりやすく言えば、軍隊と裁判所と議会と行政事務の権利を一手に握っていると言うことだ。

 そしてこれら四大権は現在、公王家より魔術協会に預けられている。



 原因は、20年前の内乱である。

 内乱の結果、公王家はその構成員を大きく減らし、公王と公女1人だけと言う圧倒的な人材不足に陥った。

 先代公王が政に関心が無かったことも手伝い、協会が四大権を預かり、国家を運営することになったのだ。

 よって今の大公国には軍隊も裁判所も議会も官僚組織も無い、全て協会の中にある。



「つまりこの国で何かしようとするなら、まずは協会の許しがいる」

「……だから、ベルは幽閉されたの?」

「答えにくいことをズバリ聞くんじゃないよ」



 煙たそうな顔をするアレクフィナは、もうすっかり元気になっている様子だった。

 以前別れる前には、『施設』での怪我のせいで随分と消耗していたはずだが。

 いや、と、ゆらゆら揺れる袖を見て思う。

 治ってはいないが動けないわけでは無い、と言った所か。



「しかし、それにしても、何だいお前ら。顔ぶれは変わらない割に」



 アレクフィナがついと後ろを振り向くと、そこには彼女が毛嫌いするフィリア人達がいた。



「あの時は、アレクフィナの姐御が世話になったけど……勘違いするんじゃないぜ!」

「ああ、はいはい。わかってますよ、貴方達がそう言う方々だっていうのはね」

「と言うかこの人達って、私を誘拐して放置していった人ですよね」

「ふひひ、な、何のことだぞ~」

「俺様のわからない話はやめろ」

「……って、ブラン! スコーラン! 何を仲良さそうに話し込んでるんだい!」



 ひぃっ、と慌ててアレクフィナの傍まで寄ってくる2人。

 溜息を吐いた後、アレクフィナは言った。

 そして、リデルを見て。



「……何と言うか、随分と変わったね」

「そう、ね」



 足元を這う蛇の背中を見つめながら、リデルも頷く。



「そうかもしれないわ」



 実際、アレクフィナに最初に会った頃とは何もかもが違っていた。

 アーサーが来るまでは、あの島で動物達と一緒に生きていくのだと思っていた。

 振り返ってみれば、あれから随分と時間が経ったような気がする。

 島を出る前の自分が今の自分を見たら、どんなことを思うのだろう。



 胸元に潜り込んでいるリスを服の上から叩くと、もぞもぞと動いた。

 何となく、安心する。

 昔の自分がどう思うかはわからないが、過去に胸を張れないような生き方はしていないつもりだった。

 ならばきっと大丈夫だと、そう思えた。



「と言うか、この街って人住んで無いの?」

「あ? 住んでるに決まってるじゃないか。ここは数百万人の魔術師の故郷なんだだよ? むしろ公都より人口は多いくらいさ」

「でも、さっきから人っ子1人通らないじゃない」

「そりゃあ、地下にいるからね」

「地下?」



 アレクフィナによると、ティエルは地下都市なのだそうだ。

 地表に出ているのは本当に地下都市の先端部分で、出入り口のカモフラージュの意味合いもあるが、ほとんど飾りに過ぎない。

 地下に広がる、公都を上回る規模の大都市。

 そこにベルフラウがいるのか。



(って、待ちなさいよ)



 その時、ふと気になったことがある。

 アレクフィナは何故、自分達を迎えに来たのだろうか。

 何者の指示でそのようなことをしているのか、思えば何もわかっていない。

 気になってしまえば、もう無視は出来なかった。



「ねぇ」

「おい、誰かいるぞ!」

「え?」



 アレクフィナに問いかける前に、アレクセイが声を上げた。

 彼が指差した方を見れば、なるほど確かに誰かがいた。

 どうやらソフィア人の女のようで、フラフラとした足取りでこちらに近付いてきていた。

 何だ、地表を歩く人もいるのか、と思った時だ。



「……血の匂いがします」



 ルイナが不吉なことを言うと、不意に霧の隙間から日の光が差した。

 薄く赤い不気味な霧が漂う中、彼女の姿がはっきりと見えた。

 朱に濡れた金色の髪に、青ざめた白面の顔、騎士を思わせる造りの黒のローブ。

 衣装には所々穴が開いていて、その穴からボタボタと赤い血が滴り、灰色の地面を汚していた。



 はー、はー……と言う、荒い呼吸音がここまで聞こえてくる。

 そしてリデルは、偶然にもその女の顔を知っていた。

 血と汗と涙に塗れているとは言え、見間違えるはずが無かった。



「アンタ」



 ――――フロイライン・ローズライン。



  ◆  ◆  ◆



 リデル達の姿を認めた瞬間、フロイラインはその場に崩れ落ちた。

 駆け寄って抱き起こしたのは、意外なことにアレクセイだった。

 フロイラインは僅かに嫌がる素振りを見せたが、抵抗には力が無かった。



「おいおいおいおい、何だってんだ。こいつ魔術師じゃないか、何たってティエルでこんな大怪我するんだい?」

「フロイライン」



 いきなり現れた怪我人に戸惑う様子を見せるアレクフィナの横で膝をついて、フロイラインに視線を合わせた。

 憔悴しきった顔が、リデルの方を向く。

 彼女が伸ばしてきた手を、リデルは最初取らなかった。



 ふと、自分は良く手を差し伸べられるな、と思った。

 誰かに何かを求められることが多いな、と思った。

 自分の中の父の血が成せる技なのか、実に多くの人間が自分を頼ってくる。

 それは美徳か、あるいは悪徳か、何とも判断に困る命題だった。



「酷い怪我ですね、そして綺麗な傷だ」

「どういうこと?」

「鋭い刃物で斬り付けられるとこう言う傷になります。ただ、この傷のつき方は」



 フロイラインは全身に切り傷を負っていた。

 深い物になると肉の切れ目がはっきりとわかる程で、それは特に身体の前面に多かった。

 切り傷は擦り傷や打撲と異なり血の流れを止めないため、出血が多くなる。

 しかも彼女の傷は1つでは無く、2本3本と、平行する形で出来ている傷がいくつもあった。

 こう言う傷は治りが遅いが、同時につけ方もわかりにくい。



「……リ、リデ、リデル公女、殿下……」



 その時だ、掠れるような声が聞こえた。

 言うまでも無くフロイラインの声だ、彼女の目はリデルだけを映しているようだった。



「何があったの、フロイライン」

「ベ、ベル様を……」

「ベル? ベルに会ったの?」

「おい、ベルって誰だよ?」

「すみません。ちょっと黙っててください」

「あ゛あ゛ッ!? フィリア人がアタシに意見してんじゃねーぞ!」



 外野が五月蝿いが、リデルは大まかな事情を察した。

 フロイラインは、ベルフラウを助けに来たのだ。

 魔術師である彼女にとって、協会が行った「公王幽閉」と言う決定への叛逆行為。

 容易では無かったはずだ、行動も、決断も。



「ベル様を……助けられ、なかっ……」



 だがそれでも、届かなかったのだ。

 彼女は結局、ベルフラウを救うことが出来なかった。

 その手には、何も残らなかった。

 哀しみ、悔しさ、胸中に広がるそれらの感情は苦く、そして苦しい。



「……ベルを、助けようとしたのね」



 手を取ると、フロイラインは目を閉じた。

 目尻から涙が零れる、それは頬を滴り首筋に零れ、アレクセイの衣服に染みを作った。

 言葉に、ならなかった。



  ◆  ◆  ◆



 リデルは誰かに手を差し伸べられることが多いと、アーサーはそう思う。

 そしてそれ以上に、誰かの手を取ることが多い。

 自分とて、その1人では無かったか。



「前にも言ったかもしれないけれど、フロイライン。私はアンタのこと、好きってわけじゃ無いわ」



 正直な所、心配や嫉妬を覚えないわけでも無い。

 自分でも不思議なことだが、いや不思議なことでは無いのかもしれないが、アーサーはそうした感情を抱く自分に驚いてもいた。

 そして同時に、誇らしくもあった。

 その最初の1人が、自分であることを誇りに思える。



 リデルには力が無い、権威も、他者に対して誇るべき社会的な力を何も持っていない。

 それでも、皆が彼女に何かを求める。

 公王の孫、<東の軍師>の娘、そうした肩書きを知っている者もいない者も。

 どうしてそうなるのかは、おそらく本人にもわかっていない。



「でも私は、ベルを助けに行くわ。ベルのことはす……まぁ、助けに行くのよ」

「お前、面倒くせぇなぁ」

「五月蝿いわね」



 きっと、何とかしてくれる。

 そう思わせる何かが、リデルにはある。

 それはきっと、アーサー自身には無いものだ。



(どっちが王様か、わからなくなりますね)



 苦笑の心地を覚えながら、リデルの背中を見守る。

 この関係性は、きっと変わらない。



「アンタのためじゃない。私達自身のために、私達はベルを助けに行くのよ」

「……リデ、ル……様……」

「だからアンタは何も気にしなくて良いわ。アンタはいつものように、ベルのことだけ考えていれば良い」



 そして、今また1人。



「嗚呼……」



 フロイラインは目を閉じる。

 そうすると血の混じった雫が目尻から零れたが、気に止めなかった。

 悔しい、口惜しい。

 自分は結局ベルフラウに何もしてやれない、胸中はその想いで溢れていた。



 そして、自分が除こうとした相手に救いを求めている。

 救われない気持ちだ。

 だが、救われた。

 掬い取られたのだ、その何と温かなことか。



「……ベル、様を……」

「うん」

「……おね、が……」

「うん、わかったわ」



 何と、温かなことか。



「……ばっきゃろー」



 抱き起こしていたアレクセイが、気を失ったフロイラインに対してそう言った。

 何を想っての言葉だったのかはわからないが、彼にしてはいたく感情的だった。

 不思議には思ったが、リデルには良くわからない心の動きなのだろう。

 リデルのすることに、変わりは無いのだ。



「この先に、ベルがいる」



 確信、その心地でリデルは前を見た。

 リデルの視線に合わせるように、その場にいる者達が先を見た。

 目の前にそびえ立つ尖塔群は、暗く冷たい雰囲気をたたえている。

 それはまるで、リデル達の前途を表しているかのようだった――――。



  ◆  ◆  ◆



 旧市街の東の市壁に座すようになってから、もう何日が経っただろうか。

 クロワとしては、日にちを数えることに意味は無いと思っている。

 皆が戻って来るまでこの「拠点」を守ること、それが唯一にして最大戦力である自分の役目だと信じていた。



「何事も無ければ、それはそれで良かったのだがね」



 遠く、いや、そう遠く無い距離か。

 荒地から田畑へと姿を変え始めた大地の向こうに、小さいが砂塵が見える。

 クロワはそれが、集団が進んでいる時特有の現象だと言うことを知っていた。



 数は多くないが、砂塵の中にキラキラと赤い輝きが見て取れる。

 そしてクロワの目は、それが宝石のような小さな物の輝きでは無いことに気付いた。

 それらは武器であり、鎧であり、何かしかの道具であった。

 クロワの知る限り、そうした集団は世界に1つしか無い。



「シャノワ」

「はい」



 もはや疑う気持ちも無く、旧市街の隠密少女シャノワが柱の陰から姿を見せた。

 彼女は砂塵を確認すると、窺うようにクロワのことを見た。

 そんなシャノワに笑みを見せて、柔らかな声音で言う。



「マリア殿とウィリアム殿、それとイサーバ殿もだな。彼らにこのことを伝えて貰えるか」

「わかりました」



 短く返事をするシャノワ、そうした点は美点だった。

 だが彼女の欠点は、返事の割に行動に反映されない所だろうか。

 大きくて形の良い、無感情に見えてしっかりと感情のある瞳でクロワに問いかけていた。

 ――――あなたはどうするのか、と。



「私がすべきことは決まっているよ、シャノワ」



 そう言って、クロワは何日かぶりに立ち上がった。

 近くに立てかけていた包み――彼の<アリウスの石>の大剣だ――を手に取って、砂塵の中にいるであろう、己の師のことを思った。

 震えが、来た。



「私は先に行って、あの軍勢が田畑に入る前に止めて来よう」



 しかしこれは、武者震いと言うものだろう。

 そう思って、クロワは市壁の上から無造作に飛び降りた。

 包みにしていた布が取れると、透き通った刃を持つ水晶の大剣が露になった。

 薄く赤く輝くそれを大きく振ると、風圧によって落下速度が落ち、地面に激突することなく無事に着地することが出来た。



「心配はいらない」



 市壁の縁から覗き込んでいるシャノワに微笑を向けて、クロワは駆け出した。

 駆けつつ、しかし思考は身も蓋も無い考えを浮かべていた。

 はたして、今回も生き残れるものだろうか?


最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。

今回から10章に入ります。

次回は魔術都市の全貌を描写したいと思いますが、奥行きとか建物感を文字で表現するのって、難しいですよね。

それでは、また次回。

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