9-7:「新公王即位」
「同志ヴァリアスの両親は、先の内乱で命を落としているのです」
夜、公女の結婚式が行われるはずだった大広場。
そこには大掛かりな櫓が組まれていて、ソフィア人達の間では珍しいことに、<アリウスの石>の灯りでは無く自然の火が燃えていた。
煌々と広場を照らすその周りで、公都の市民達が宴を開いている。
酒を飲み、肉を食べ、歌い踊る。
それは300年前より伝わるソフィアの伝統、先代公王の崩御と新たな公王の即位のための宴。
古き時代を偲ぶ賑やかな葬列と、新しき時代を祝う賑やかな祝賀。
この時ばかりは、ソフィア人も普段の教養を忘れて騒ぐのだ。
「同志ヴァリアスが戦略的意義を捨ててまで、最後まで公王陛下を取り込もうとしなかったこと。そこには、そうした感情的な理由があったのかもしれません」
大広場の片隅で、アーサーはイレアナの言葉を聞いていた。
大広場の一部は劇場型とでも言おうか、半円の形に階段状の座席が築かれている所がある。
広場の中央からは程よく距離があり、少し込み入った話をするのには最適な場所のように思えた。
「内乱と言うと、次の王位を争った……」
「ええ。身内の恥を晒すようですが、当時の我が国は酷い混乱の最中にありました。同志キアのように、直接的に知らない世代も今は多いでしょうが」
「そうですね。わたしは協会の養護施設の出身なので、まだ知っている方だとは思いますが」
その場にいる人間は、4人。
アーサー、イレアナ、キア、そして――ルイナである。
アレクセイはまたぞろどこかへと消えた、またひょっこりと姿を現すことだろう。
なおイレアナの言う内乱と言うのは、公王の子供達が大公国国内の有力者達と結んで繰り広げた権力闘争のことである。
広義には第七公子、つまりリデルの父である<東の軍師>が引き起こした東部叛乱も含まれている。
アーサーにはわからないが、当時の大公国は内乱で相当のダメージを負ったのだろう。
「そう言う意味では、今回の騒動もその延長線にあったことなのでしょう」
イレアナは正面を向いていて、アーサーの方を見ることが無い。
多分それはポーズなのだと思う、あくまで独り言、他国の人間に説明しているわけでは無いと言うポーズだ。
ここにリデルがいれば、「こっち向いて喋りなさいよ」とでも言ったのだろうか。
「はいはい、慌てないでね~」
まぁ、アーサーにとってイレアナの話は重要では無かった。
重要なのは、リデルが無事で――花嫁衣裳には驚いたが――しかも、今リデルの蛇にお肉を食べさせている少女が一緒だったことだ。
なお、アーサーが食べ物を与えると腕ごと口に入れられるのはもはや常識である。
そんなアーサーの視線に気付いたのか、ルイナは彼ににっこりと微笑んで見せたのだった。
◆ ◆ ◆
生きていてくれて本当に良かった。
アーサーは心の底からそう思っていたが、同時に不思議でもあった。
あの『施設』の崩落から、どうやって生き延びたのだろうか?
「一言で言うと、運が良かったんだと思います」
ルイナの言う「運」と言うのは、いささか複雑な意味を持っている。
そもそも『施設』に連れて行かれなければ、と言うのがまずある。
だが『施設』の崩落からルイナの命を救ったのは、皮肉にも『施設』で受けた人体実験で得た強靭な身体だった。
「あの『施設』は独自の水源を持っていました。私は、あの崩落の後、そこに落ちたんです」
実験体を含む数千人規模の人間が居住していた『施設』、水の需要も相当なものだ。
独自の水源を持っていたとしても不思議では無い、そして荒野と言う土地柄、それは地下水脈のことを指す。
ソフィアの技術で汲み上げ・浄水されたそれは、崩落の中『施設』の岩盤によって押し潰された。
ルイナは崩落する『施設』の中を彷徨いながら、地下水脈に落ちたのである。
かなりの高度から、それも岩盤に身を打ち据えられながらの落下だった。
そして水流は急である、そこでも身体中を岩にぶつけ、呼吸もままならない中で流された。
やがて彼女は水脈の行き先、荒野に挟まれた川へと流れ出た。
普通の人間であれば、この時点で助かる術などあるはずが無かっただろう。
「もうダメだと何度も思ったんですけど、この身体、物凄く頑丈で。それに力も強くて、怪我も治りやすいんです」
実際、リデル達と戦った時には自分の肉体の変化に耐え切れずに大怪我をしていた。
身体の中に埋め込まれた<アリウスの石>のせいなのだろうか、気が付いた時、ルイナは自分の身体がこれまでの物とはまるで違うことを実感した。
あるいは、『施設』の少女――ハウラのくれた薬品の効果なのかもしれない。
「それで、川岸で気が付いた後は……身体の調子が良くなるまでは、お魚を食べたりして過ごして。そうしたら、何か近くで戦争が始まってて」
「ああ……」
アーサーは何となく想像がついた、大公国と連合の境界にあった川のことだろう。
『施設』からあそこまでほぼ徒歩で移動していた、水源に沿って移動していたルイナが似たような場所に流れ着いても不思議は無いだろう。
ただ若干、死んだものと諦めていたことに後ろめたいものを感じた。
「それから、その戦争にくっつく感じで移動して。公都について、それでリデルに会えたのは本当に偶然だったんです」
何とも、波乱に満ちた数ヶ月間を過ごしてきたらしい。
だがその結果として得た強靭な身体は、ルイナの人間としての質までは変えなかった。
それについては有難いと、救われると、アーサーはそう思った。
「ねぇ、アーサー。それよりも、リデルとどうしていたのかを教えてください」
「え? あ、ああ、そうですね」
人がいる場所で話すのもどうかと思うが、イレアナ達は察してくれたのか。
「それでは、私達はこれで。何かと処理しなければならないこともありますから」
「またお会いすることもあるでしょう、アーサー王子」
イレアナとキアが、その場から離れていく。
よくはわからないが、あの2人は公都の外と内で連絡を取り合っていたらしい。
言葉の通り、これから色々なことを処理しなければならないのだろう。
その中には当然、リデルのことも含まれているはずだ。
「やれやれ……」
最初は、自分が島から連れ出したはずなのに。
今ではアーサーの方が、想像もしていなかった世界に引っ張り出されている。
いや、もしかしたらアナテマ大陸全体がそうなのかもしれない。
しかしアーサーは、不思議とそれを不快に思ったことは無かった。
むしろ、もっと見たいと思っていたのかもしれない。
あのリデルが、ほんの少し前まで小さな島のお姫様だった少女が。
これからいったい、何を見せてくれるのか。
アーサーは、己の中にワクワクとしたものを感じていた。
◆ ◆ ◆
フロイライン・ローズラインは、誰よりもベルフラウに誠実でありたいと思っていた。
だが今、彼女はその想いが故に苦しんでいた。
ほんの少しだけ利己的であれば、感じなくて良い苦しみだったろう。
「……お父様……」
宴で賑わう城下と異なり、宮殿は火が消えたような静けさだった。
まさに、灯りが全て消えている。
代わりに、公王の――先代公王の棺が安置された宮殿の一室には、小さな灯りを灯す蝋燭が何本も置かれていた。
それは、先代公王の年齢と同じ数だけ置かれている。
在位が長かったから蝋燭の数もそれだけ増えるが、部屋も広い、薄暗く、ようやく足元が見通せるくらいだった。
そして最も蝋燭の覆い場所、つまり棺に縋るようにして座っているのがベルフラウだった。
棺の蓋はまだ開いており、花々のベッドに横たわる先代公王の手を握っている。
(……仲睦まじい、父子であられた)
そしてその傍にいるのは自分では無い、リデルだった。
そのことを羨ましくも哀しくも思うが、仕方が無いことだと諦める。
自分は、1番必要な時にベルフラウの助けになれなかったのだから。
(同志ヴァリアスが死に、秘密は守られた)
自分は今回、ベルフラウを守る所か危険に晒してしまった。
だから今度こそ、それこそ永遠に口を閉ざしていようと思った。
(「ベルフラウ大公女は、公王家の人間では――――ない」)
ベルフラウは、折りしも王位継承権を巡り公子・公女が宮廷闘争に明け暮れていた時期に生まれた。
横を見れば、自分の息子や娘達が互いに相喰らい合っていた時期。
末娘、それも王位や権力とは関係なく自分を慕う娘を公王が愛さないわけが無かった。
だから実母から遠ざけ――その実母はベルフラウの生後1ヶ月を待たずして「病死」したが――自分の膝元である公都の宮殿に置いた。
(公王陛下は、失うことを事に恐れておられた)
ベルフラウを失うことを、だ。
だから彼は国中からベルフラウに面差しの似た子供を集めた、影姫だ。
先代公王は影姫達をベルフラウと同じ状態に育てるために、幽閉した
中には幽閉と言う環境に耐えられず、衰弱して死んでしまう子供もいた。
けれど赤子の時に集められた影姫達は先代公王を本当の父だと思っていたから、言うことを良く聞いた。
だが、その日がやってきてしまった。
幼少のベルフラウが亡くなっているのを見つけたのは、フロイラインだった。
病死だった。
朝、ベッドの中で眠るように息を引き取っているのを見つけた。
その当時すでに内乱は収束に向かっていて、ベルフラウが唯一の公王位継承権保持者となることはほぼ確定していた。
(あれが正しい判断だったのか、私にはわからない)
生き残りの影姫を本物に仕立て上げる。
幸い、影姫は皆自分のことを本物の「ベルフラウ」と思って育っている。
今のベルフラウも、自分が偽の姫だとは露とも考えていないだろう。
自分自身に疑念が無いのだから、先代の公王が不審に思うことがあるはずも無い。
(あのお2人は本当の父子だった。それが全てだった)
だから、自分さえ黙っていれば誰も不幸にならない。
このまま墓まで持っていこう、そう思っていたのに。
――ヴァリアスに知られたのは、全て自分の弱さのせいだ。
(リデル公女の存在は、ベル様の基盤を一瞬で崩壊させかねなかった)
それは、今も変わらない。
今この瞬間もフロイラインは不安でならなかった、リデルが次の公王位を名乗るのでは無いか、と。
第七公子、<東の軍師>が彼女に託したあの赤い宝石は、公王家の秘宝だ。
ベルフラウも似た宝石を持っているが、あれは偽物だ。
だからベルフラウが触れてもあの宝石は反応しない、そんなことがあれば終わりだった。
(そうだ。どうせもうベル様に許されないのであれば)
影姫の成り代わりである今のベルフラウの地位を守る、その義務が自分にはあるはずだ。
それはもはや信仰に近い。
フロイラインの目に不穏な色が浮かんだ、その時だった。
「ねぇ、リデル」
◆ ◆ ◆
「私、どうしたら良いの?」
ベルフラウは、怖かった。
周囲は自分が次の公王位を継ぐことを疑ってもいない、他に候補がいないからだ。
他の候補、例えば会ったことも無い兄や姉達は先の内乱で皆いなくなっている。
彼女しかいないのだ、次の公王は。
まして今日、公都の人々はヴァリアスの魔手から彼女を救ったでは無いか。
大衆によって選ばれた初代公王に勝るとも劣らない、未来において伝説となるであろう。
だが一点、どうしても無視できないことがある。
ベルフラウは、王になりたいなどと思ったことが無かったのだ。
「私、王様になんてなりたくないよ」
ベルフラウ、そして影姫のベルフラウも、帝王学など学んだことが無い。
王としての作法だってわからない。
また公王の職務は重大だ、一つの決断で何人もの運命を左右してしまう。
その重圧に耐える術を持っていない、学ばなかったのだ。
彼女の世界には、甘いお菓子と楽しい玩具しか無い。
「お父様の手、骨みたいに小さくて軽かったわ」
手だけでは無い、棺の中の父の何と小さく、儚いことか。
自分もこんな風になってしまうのだろうか、そう思うと怖くて仕方が無かった。
「私……私、王様になんてなれないよぉ」
ボロボロと涙を零し始める、それも仕方ないだろう。
今日は父を失った日でもあるのだ、感情の振れ幅が大きくなるのはむしろ当然だった。
終いにはわんわんと声を上げて泣き出してしまい――最も、これは今日初めてのことでは無い。情緒不安定――もう何を言っているのか、わからなかった。
ただただ、嫌だ怖いと喚いていた。
その姿にフロイラインなどは胸を痛めていた。
だが次の瞬間、その胸を抉るかのような言葉がベルフラウの口から飛び出した。
「リデルがやってよ!」
ぐすぐすと泣きながら、ベルフラウは言った。
「リデルはお父様の孫なんだし、頭も良いし、私なんかよりずっと上手く王様できるでしょ!?」
それこそが、フロイラインが最も恐れていたことだとも知らずに。
ベルフラウが野に下り、リデルが即位する。
フロイラインにとっては悪夢だった、あってはならないことだ。
いきなり出てきたリデルの即位を皆が認めるわけが無い、争いになる。
内乱になる、フロイラインの顔が青ざめた。
「ねぇ、リデルぅ」
リデルにしがみ付き、鼻の頭をリデルの衣服に擦りつけた。
涙と鼻水で酷いことになったが、気にしなかった。
最初は困惑していたリデルだったが、うーん、と考え込んだ。
そして、しがみ付いてくるベルフラウの頭に手を置いた。
「うぐ、ひぐっ……リデル?」
一撫で、二撫で。
そして、リデルは言った。
「嫌よ、面倒くさい」
空気が死んだ。
◆ ◆ ◆
「なんでそんなこというのおおおぉ~~っ!!」
案の定と言うか、ベルフラウの泣き声が大きくなった。
フロイラインが「何言ってんだお前」と言いたげな顔でリデルを見ていた。
そしてそのどちらも、リデルは気にしないことにした。
「あーもー、五月蝿いわね! アンタの国なんだから、アンタが面倒見るのが当たり前ってもんでしょーが!」
「だってだって、王様なんて無理なんだもん!」
「アンタがすることなんてほとんど無いわよきっと! イレアナとかに手伝って貰えば良いじゃない!」
「嫌! あの人怖いんだもん!」
「見た目で判断しないの! アイツは確かに陰険そうだし根暗そうだし性格悪そうかもしれないけど、でも怖くは……怖くもあるけど!」
かなり酷いことを言っているようだが、本人が聞いていたとしても顔色一つ変えなかったろう。
密かに傷ついていたりするなら、むしろ可愛げがあるだろうか。
「大体、私が王様になったって仕方ないじゃない」
嘆息しつつ、リデルは思う。
この国には、リデルのことを知っている人間はほとんどいない。
そんなリデルが即位して何になるのか、むしろ混乱が増すだけだろう。
そう言う意味で、皮肉なことにリデルはフロイラインと意見と同じくしていた。
しかし、事実ではある。
血筋的にはともかく、現実的な選択肢では無い。
最悪、国が2つに割れる可能性もある。
そんなことは出来ない、本当はベルフラウにだってわかっていることはずなのだ。
「アンタしかいないのよ、ベル」
「嫌よ。王様なんて」
「大丈夫よ、きっと」
「何でそんなことが言えるの? 私、何にもできないのに……!」
「そうね、アンタは何にも出来ないかもしれないわ」
だが、ベルフラウにはリデルに無い物がある。
「一緒に公都に遊びに行ったわよね」
「え? う、うん、そうね」
「クレープとか言うお菓子を食べた時、お爺ちゃんとお婆ちゃんとお喋りしてくれたわ。服を見に行った時も、玩具を見に行った時も、色々な人が話しかけてきてたわよね」
「うん……うん。皆、優しい人よ。公都の皆は」
リデルの意図がわからないのだろう、ベルフラウは首を傾げている。
だがリデルの言いたかったことは、全てそこに集約されているのだった。
「皆、アンタのことが大好きなんじゃない」
ヴァリアスから守ったのだって、そうだ。
公都の人々がリデルのことを好いているから、だから心配して、助けようとしてくれたのだ。
ベルフラウは愛されているのだ、ソフィアの人々に。
「ベル、大丈夫よ。自信を持つの」
ベルフラウの手をとって、リデルは言った。
古来、国民に愛されようとして独り善がりに墜ちていった君主の何と多いことか。
しかしベルフラウは人々に愛されている、純粋で無垢な彼女を、公都の人々は好いている。
それだけで、ベルフラウは歴代のどの王よりも名君に近いのだ。
「皆がアンタを助けてくれるわ。だから、不安に思うことは無いわ」
それはもしかしたら、ただの希望的観測だったのかもしれない。
そうだ、と、リデルは懐から首飾りを取り出した。
リデルの物に似ているが、これはベルフラウの物だ。
掲げて微笑んで見せると、ベルフラウもモタモタしながら懐から同じ物を取り出した。
公王家の秘宝、リデルの首飾りだ。
結婚式の際にヴァリアスに与えられていた物で、ゴタゴタしていたために交換が遅れていたのだ。
ベルフラウの手に自分の手を重ねる、すると2つの宝石が擦れ合って、小さな音を立てた。
「あ……」
声を漏らしたのは、誰だったか。
リデルとベルフラウの2人の手にある宝石が、赤く輝いていた。
2つとも、だ。
薄暗い空間に、煌々とした輝きが満ちていく。
それはまるで、2人の女神が世界を創造するかのような姿だった。
「おお」
美しいと、フロイラインはそう思った。
ベルフラウの宝石は偽物だ、どうして輝いたのだろう。
あるいはリデルの石の力なのかもしれない、けれどフロイラインは信じたかった。
今日この日、ベルフラウは本当の意味で公王家に迎え入れられたのだと。
ベルフラウは大きく息を吐いた。
涙は引き、目の前の輝きに目を奪われた。
初めて見る公王家の秘宝の輝きは、とても温かで。
とても、優しかった。
「綺麗ね」
「……うん」
――――この翌朝。
「綺麗ね、ベル」
「うん……うん。とっても、綺麗だわ。本当に」
ベルフラウ大公女は、アムリッツァー大公国の新たな公王として即位した。
後世に言う、<女公王の治世>の始まりである。
◆ ◆ ◆
――――新公王、即位す。
その情報はアナテマ大陸を即座に駆け抜け、諸々の反応を生み出した。
生まれたのは喜びであり、驚きであり、歓迎であり、反発であった。
その中で、最も目を引く反応を示した2都市がある。
「まったく、アイツは何をやってるんだ? ええ、おい」
一つはクルジュの旧市街、フィリア人の居住区にもその情報は届いていた。
ソフィア人の居住区に比べると遅れはあるものの、大勢に比して遅すぎると言うことは無かった。
まぁ、情報源は川を流れてきた告知のビラ――新市街から流れてきた物だ――だが。
街の集会所でマリアが呆れている様子が想像できて、市壁の上がすっかり定位置になったクロワは笑った。
「ははは、リデル殿は相変わらずだな」
晴れの日も雨の日も、クロワは東方を臨む市壁の上を離れることが無い。
そんな彼の手には新市街から流れてきたビラがある、新公王の即位を知らせるものだ。
水に濡れて多少歪んでいたが内容はわかる、公都の即位式典の様子を記した絵図についてもだ。
<アリウスの石>由来の道具によって描かれたそれは、見る者にまるでその場で見ているかのような印象を与える程にリアルだった。
そしてだからこそ、クロワは笑った。
何故なら無数の人間が描かれたその中に、見覚えのある顔がいくつかあったからだ。
特に、真ん中あたりで「えっへん」と小さな胸を張っている少女とか。
これを見る限りは、まぁ、特に心配することも無いのだろう。
クロワは笑って、気長に良い知らせを待つことにした。
「これは好機です。敵は揺らいでいます。長き悪習に病んだ敵はその巨体を膿ませ、死に体となりつつありのです。これはまさに、我が聖女がお与え給うた機会なのであります!」
そして聖都エリア・メシア、東の反ソフィア連合の盟主である。
司令官ファルグリンの粛清に揺れる聖都は今、信者達の祈りの声よりも軍靴の音が高らかに聞こえていた。
その中で優勢なのはやはり、ファルグリンを中心とする派閥が唱える強硬論だろうか。
しかし、一方で。
「……わたしの、やりたいこと」
一方で、別の意図を持ってその情報を受け取った者もいる。
連合の名目上のトップ、名前の無い少女、お飾りの王。
教皇は、諜報部が大公国内から持ち帰った即位式典のビラを前に呟いた。
自分のやりたいことは、何だろうか、と。
ビラの中に描かれているのは、自分とそう年の変わらないであろう少女の王だ。
そして傍らにフィリアリーンの王の軍師、やはり年のそう変わらない少女。
3人の少女。
3人の少女の意思が、世界の頂上にある時代。
それはきっと、世にも珍しい事態なのだろう。
「皆が穏やかに、健やかになれるなら。わたしは……」
そうして、ベルフラウの即位はアナテマ大陸の全ての民が知ることになった。
遠くない将来、世界は彼女の意思を知ることになるだろう。
それに対して、世界がどのような返答を返すのか。
後世の人々以外に、それを知る者はまだいない。
だが我々は、それを知ることが出来るだろう。
何故か?
それは我々が、今を生きているからだ。
今を生きている人間だけが、本当の意味でそれを知ることが出来る。
◆ ◆ ◆
<女公王の治世>とはどう言ったものだったのか、後世の人間は知っている。
特に特徴的なのが即位直後の最初期の行動であり、ベルフラウ公王は対外的に融和主義な政策を発表した。
簡単に言えば、連合及びフィリアリーンを始めとする属領の独立を認めるとの勅命を出したのだ。
普通の王制国家であれば、そんな反動的な政策をすれば貴族達の反発を招いただろう。
しかし、王こそが唯一の貴族である大公国に貴族階級は存在しない。
官僚や名士も魔術協会の後ろ盾が無ければ表立った反応は出来ない、全ては協会次第なのだ。
だからその勅命は、何の抵抗も受けずに発表された。
当然、連合は困惑し、フィリアリーンは戸惑いつつも歓迎した。
南方を中心に、ソフィア人の入植地からの撤退が始まった。
元々大きな国だ、属領に住んでいる数十万の民が帰還したとて不可能は無かった。
ソフィア人は困惑しつつも、公都の人間を中心に概ね勅命を受け入れた。
さほどの混乱は無かった、新たな公王への敬愛と無関心がそうさせたのだ。
とにかく、アナテマ大陸の人々は平和を予感していた。
しかも連合の教皇がベルフラウ公王に好感を持っている、との噂が流れるに至って、ますますその機運は高まった。
人々は期待した、そしてベルフラウ公王が次に行うだろう連合との和平交渉開始の勅命を待った。
そして、その日が来た。
「――――なんですって?」
旧フィリアリーンの元王子・アーサーの軍師、リデルがその報を聞いた時に発したこの言葉が、おそらく、この時代のアナテマ大陸の人間の気持ちを代弁していただろう。
この時、アナテマ大陸中の人間が「何故?」と思った。
それは、新公王ベルフラウが初の勅命を発した翌週のことだった。
――――大公国の守護者・魔術協会、つまりイレアナ達が新公王ベルフラウを幽閉したのは。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
事情説明を3つともまとめたのは、少しやりすぎだったのかもですね。
とは言え9章も今回で終わり、リデル達はまた次章に向かいます。
多分3ヶ月程で完結の予定なので、よろしければ、最後までお付き合い下さい。
それでは、また次回。