9-6:「代替わり」
――――何かが起こったと、イレアナの周囲にいる人間はそう判断した。
イレアナ自身がそう言ったわけでは無い、いつもと違う空気を察しただけだ。
言葉少なで抑揚の無いイレアナの幕僚をやるなら、そう言う機微に聡くなければ勤まらない。
「公都に入ります」
だからイレアナがそう告げた時、彼女の部隊はすでに全ての準備を終えていた。
野営の幕舎はすでに取り払われ、3000の部隊がそこにいたと言う痕跡は、炊飯の焚き木の跡が残るばかりだった。
そしてイレアナは、それを特段目端に捉えることも無い。
「しかし侵攻するのではありません。あくまでも、先の戦の凱旋として入城するのです」
まさに目と鼻の先にある公都――情報によれば、今日が「結婚式」の日だ――に向け、部隊を進発させるイレアナ。
進軍の形式にやや驚くものの、麾下3000の兵達は誰1人として取り乱すことなく進んだ。
楽隊を伴いながら悠々と、しかし極めて速やかにだ。
金属製の本を手に抱いた<魔女>は、静かに進んでいく兵達を見送りつつ、そして自分が側についている豪奢な白い馬車を見上げた。
馬車の形をしてはいるが、中身は寝室だ。
ベッドがあり、馬車が進んでも中が揺れないような特別な造りになっている。
「凱旋、ですか」
「実際は治安維持、と言うことですか。同志イレアナ」
珍しく皮肉気にそう呟くと、ノエルが話しかけてきた。
「同志ノエル。貴女はいつも表現が直截すぎます」
「……そう言う性格なもので」
「そうですか。しかし、貴女はそのままでいる方が良いのかもしれませんね」
そう言って、眼鏡を指で押し上げる仕草をする。
実際ノエルの言う通り、侵攻では無いと否定しても、現実的には制圧と言うことになるからだ。
第一、凱旋と言うにはあの戦はあまりにも得るものが少なかった。
「さぁ、帰りましょうか同志ノエル。いざトリウィアへ、私達の都へ」
そしてこの公都への進軍も、イレアナにとっては得るものは少ない。
ただ、処理は必要だろう。
誰にとっても、そしてもちろんイレアナにとっても。
「……大きくなったものだな」
そしてノエルは、そんなことを呟いた。
誰に対するどんな種類の呟きであったのかはわからないが、とにかく呟いた。
その言葉はきっと、公都にいる誰かに向けられた言葉だったろう。
◆ ◆ ◆
ルイナと言う少女を覚えているだろうか。
かつてリデル達と旅をし、農村で別れた年上の少女。
大公国に捕えられ、『施設』の人体実験の果てに、『施設』の崩落の中に消えた少女。
最後の瞬間は、瞼を閉じれば鮮明に思い出せる程だ。
「ルイナ」
口に出して、その名前を呼んでみる。
それ程までに、自信が無かったのかもしれない。
死んだと思っていた相手が、目の前にいると言う現実に。
「はい。何ですか、リデル?」
その相手は、笑顔で答えてきた。
肩から鳥が離れて、そのままリデルの頭の上にとまった。
だが、その重みも今のリデルにとっては重要では無かった。
目の前にいる少女は、確かにルイナに似ていた。
服装も、柔和な微笑も、柔らかな物腰も、全て以前のままだ。
でも少し背が高くて、肩回りが硬くなったように思える。
そして、顔。
前髪で半分ほど隠れているが、左眼のあたりに大きな傷があった。
「ルル、ルゥ」
意識していなくとも出るのか、時折、鳴き声のような声を出す。
その独特の声も、リデルは良く覚えていた。
あの『施設』で薬を打たれた後、ルイナの口から漏れ聞こえていた声だ。
「アンタ、本当にルイナなの?」
「勿論。それ以外の何に見えるの? おかしなリデル」
「だ、だって。アンタ、『施設』で」
周囲は未だベルフラウを中心とした騒ぎが続いていて、フィリア人が紛れていることにも気付いていない。
ふらふらとルイナに近付くリデル、確かめるようにペタペタと触った。
僅かの柔らかさの下に、硬い筋肉を感じた。
そしてその感触は、相手が確かにそこにいることを教えてくれる。
「ほ、本当に、ルイぶっ」
「ぎゅ~」
不意に、抱きすくめられた。
柔らかく、硬い。
だが、知っている匂いだった。
漁村で触れた海の香り、農村で知った土の匂い。
日向に抱かれているような、そんな心地。
「ふふふ。前はこういうこと、あまり出来ませんでしたからね」
そう、確かにこんなことはあまり許さなかった。
と言うか、少し苦手だった覚えもある。
だが今は、ゆっくりと、おずおずと抱き締め返した。
やっぱり、硬かった。
「……ルイナ?」
「はい。何ですか、リデル?」
「ルイナ」
「はい。ここにいますよ」
「ルイナぁ……!」
どうして無事だったのか、とか。
どうしてここにいるのか、とか。
聞かなければならないことは、たくさんあった。
だけど今は、この瞬間だけはそれらは脇に置いて、ただ喜んだ。
生きていてくれたこと、ただそれだけを嬉しく思った。
ルイナが生きていてくれた、それだけで良かったのだ。
それ以外の事情など、後で良かった。
◆ ◆ ◆
何故こうなったのか、ヴァリアスにはわからなかった。
広場から姿を晦ませた彼は、そう時間をかけることなく宮殿に戻ってきていた。
本来なら花嫁を連れての凱旋だったはずが、1人での帰還。
使用人達の奇異と困惑の視線、用意された宴の料理の虚しいこと。
「ひっ!?」
金と水晶で彩られた<公の道>を通り、玉座の間に入った。
その途中でいくつか調度品を壊した、半ば故意にそうしたのだが、擦れ違った使用人達の怯えた顔が忘れられない。
それがまた、ヴァリアスを苛立たせた。
玉座の間。
見た目ばかり豪奢な椅子が、これ見よがしに奉られている部屋だ。
正直、ヴァリアスはこの部屋の設えが好きにはなれなかった。
しかし権力を握ると言う意味において、彼はこの部屋の主になるはずだった。
「くそっ……! 何故だ!? どうしてこんなことになった!」
玉座へ至る階下で――本来なら、階段の上から群臣を見下ろしていただろうに――思わずと言った風に叫んだ。
実際、理不尽にも思える。
昨日まで確かに彼は勝利者になりかけていた、彼は全てを手にしかけていたのだ。
だが悲しいかな、彼は一つだけ勘違いをしていた。
勝利しつつあると言うことと、勝利したと言うことは全く別のものだ。
ヴァリアスは最後の瞬間にそれを忘れた、いや、考えもしなかった。
「畜生、あの小娘……!」
リデル。
小鳥は籠に閉じ込めておくべきだった、ベルフラウを押さえたことで良しとして、あえて宮殿内で自由にさせたことが仇になった。
諦観し、弱り、従順になったと思っていた。
ベルフラウもそうだ、この2枚のカードは両方持っていてこそ意味のあるものだった。
「畜生、畜生、畜生……!」
地団太を踏む、とはまさにこのことだろうか。
広場の騒ぎの中、ヴァリアスの味方だった官僚や名士達は彼を助けはしなかった。
ベルフラウの婚姻拒否を受けて、旗色が悪いと思ったのだろう。
利害で結びついた関係など、所詮はその程度と言うことか。
『「……随分と、落ち込んでいるようじゃないか……」』
その時だ、誰かが玉座の間に入って来た。
ヴァリアスは玉座の間に入る直前に人払いを命じていた、直前の様子も手伝って、近付こうとする者はいなかったはずだ。
苛立ちを押さえることも出来ずに、怒鳴るように言った。
「誰だ!!」
『「そういきり立つものじゃないだろう」』
キアだった。
小さな少女がひとり、玉座の間へと歩いて入って来るのが見えて、ヴァリアスは一瞬呆然とした。
なるほど、ヴァリアスと同格の<魔女>であれば彼の命令に従う義務は無い。
得心の直後、しかしすぐにヴァリアスは表情を憤怒に染めた。
ゆっくりと歩いてくるキアに対し、ズカズカと近付いて、胸倉を掴み上げた。
普段の彼からは想像できない、乱暴な動きだ。
彼からすれば、キアは裏切り者に等しい。
リデルやベルフラウの動きも要因の1つではあるが、一番大きかったのはキアの動きだ。
「まさかキミがあんなことをするとは思わなかったよ。キミだけは僕こそが正しいと、そう理解してくれていると、思っていたんだけどね」
『「はは、ははは」』
「……何がおかしい! このこむす、め……?」
不意に、疑問を覚えた。
キアは「歩いて」玉座の間に入って来た、まずそれがおかしい、車椅子はどうした。
それに今は普通に眼が開いている、菫色の瞳がヴァリアスを見つめていた。
キアの瞳は、ニヤニヤとした、嫌な笑みの形に歪んでいた。
『「これがおかしくないわけがあるかい、同志ヴァリアス」』
それに、口調も違う。
どこか人を馬鹿にしたような、頭の中を爪先で引っかかれるような、不快な響き。
よく見てみれば、キアの瞳の輪郭がうっすらと赤くなっているように思えた。
まるで、<アリウスの石>の輝きのように。
『「別に、権力が欲しいだけなら多少のことは見逃してあげるつもりだったんだ」』
声も、おかしい。
どこか重なっているように聞こえる、キアの声の上にもう1つ。
矛盾しているようだが、他に表現のしようが無かった。
目の前にいるのは確かにキアだ、だが。
「き、キミは、誰だ。同志キアでは無い……誰だ!?」
『「誰? 酷いな。キミだってよく知っているだろうに」』
そいつは、キアの顔で笑顔を浮かべた。
唇が、三日月の形に裂けたような笑顔。
それを見て、ヴァリアスはどうしてか途轍もなく恐ろしくなった。
得体の知れない何かが自分の目の前にいる、逃げ出すべきか一瞬迷った。
「お前は何者だ……!」
『「キミのことを、ずっと見ていたよ。同志ヴァリアス、キミは罪を犯したね」』
キアに重なる「誰か」は、言った。
『「――――協約は神聖であり、慣例は絶対。そうだろう? <魔女>ヴァリアス」』
◆ ◆ ◆
我慢と言うものは、長続きしない。
最初は懐かしさからそれ程感じていなかったが、時間が経つにつれてだんだんと鬱陶しくなってきた。
「ぎゅ~」
「……」
「ぎゅぎゅ~」
「…………って」
「ぎゅぎゅぎゅ~」
「はーなーしーなーさーいーよー!」
掌で顔を押しのけると、「ああん」とか言って身体をそらした。
年上のせいか、元々そういう所はあった。
でも今はそれとは別に、よりスキンシップを好むようになったように思う。
『施設』での変貌がそうさせたのか、あるいは他の理由があるのかもわからない。
「私も死んだかと思ったんですよ? ちょっとくらい再会を喜びあっても良いじゃない」
「もう十分でしょ!」
「私が足りないんです!」
「何でそこで力説しちゃうの!?」
その時だった。
そうでなくとも賑やかな大広場が、ざわりとさらに賑やかになった。
しかもそれまでの賑やかさとは違い、切迫感があった。
「ルイナ、魔術師の兵よ!」
大広場に、イレアナの部隊が雪崩れ込んで来たのだ。
リデルはそれがイレアナの部隊だとわからなかったので、雑踏に紛れて姿を消すことも考えた。
だがベルフラウを放置するわけにはいかなかったし、何より大広場に馬車と共に乗り込んできた兵の中にイレアナの姿を認めて、残ることを決めた。
「静粛に。私達は公王陛下の命で公女殿下をお迎えに上がっただけです」
遠目に見ても、イレアナは以前と全く変わっていなかった。
相も変わらず、取り乱すことが無いんじゃないかと思えるような佇まいだ。
そうしている間に兵が広場の出入り口を路地も含めて固めてしまう、そつの無い、そして無駄の少ない統率ぶりだった。
「公女殿下。ベルフラウ大公女はおわしますか」
イレアナの声は良く通る。
<魔女>のことを知らない者はいない、しかも兵を率いているとあっては、さしもの公都の人々も道を開けざるを得なかった。
自然、海が割れるかのように人々の中に道が出来て、ベルフラウの姿が目立つようになった。
当然、花嫁衣裳と言う死ぬほど目立つリデルのこともだ。
「……公女殿下、どうかこちらへ」
イレアナは表情を変えることなく、眼鏡を押し上げながら馬車の扉の前に立った。
「公王陛下がお呼びです」
どうか、お急ぎを。
そう言って開けられた馬車の扉、しかし何故だろう。
その馬車からは、生者の匂いがしなかった。
◆ ◆ ◆
嫌な予感が、した。
これまで父は、自分自身の声と足でベルフラウを呼んでいた。
それがイレアナを経由すると言うのは、どう言うことだろうか。
「……お父様?」
最初にそれを見た時、疑問符をつけざるを得なかった。
それは余りにも痩せ衰えていて、骨と皮だけの、小さな――――。
「お父様! お父様!?」
元々老齢で、健康に不安はあったのだ。
いくらソフィアの医学が発達しているとは言っても、老衰はどうしようも無い。
それが無理を押して戦場などに出てくるものだから、体調を著しく崩してしまうのはむしろ必然だった。
おまけに今回の騒動のために、イレアナは医療設備の整った場所にほとんど立ち寄らなかった。
イレアナからすれば公王と言う錦の御旗を失わないための処置だったが、公王の健康と言う意味では、それは明らかに悪手だった。
そして今や、公王は馬車に設えられたベッドの上で身じろぎする以外、全く動けないような状態だった。
痩せ細り、充血した瞳はぎょろぎょろしていて、顔色は紙のように白かった。
「お、お……ベル、や」
「お父様、ベルはここよ。ここにいるわ!」
何かを探すように伸ばされた手を、ベルフラウが掴んだ。
だが握り返されることが無くて、それが嫌な予感をなおさら強くした。
冷たい、血が通っているとは思えない。
生きるための力が、何も感じられなかった。
「お父様。ねぇ、お父様」
「……お……ぅ……」
やがて周囲にも並々ならぬ雰囲気が伝播したのか、騒ぎはすっかり収まっていた。
全員が、ベルフラウと公王のいる馬車を固唾を呑んで見守っていた。
来るべき瞬間をわかっているかのように。
「ベル……ベル、や」
「何? 何かしてほしいことがあるの?」
「……あの、子を……」
声はかすれていて、もうほとんど聞き取れない。
それ程に、弱っているのだ。
ベルフラウはベッドの上に身を乗り出すと、もはやひゅーひゅーと言う息しか吐けない公王の口元に耳を寄せた。
目尻に涙を浮かべているのは、やがて来る瞬間を予感しているからだろうか。
「どうするのですか?」
「この期に及んで何かを考える必要は無いでしょう、同志ノエル」
馬車を見守っていたイレアナは、ノエルに言った。
彼女は予感では無く確信として、目の前の事態を見ていたのである。
眼鏡を押し上げると、陽光の反射で瞳が見えなくなった。
「この場で戴冠して頂く。当然、どちらかに」
◆ ◆ ◆
公王がリデルを呼んでいる。
最初は嫌だったが、ベルフラウに涙声で呼ばれては無視するわけにはいかなかった。
周囲の視線を浴びながら、公王の馬車の中に入った。
「リデルぅ」
入ると、まず目に入ったのはベルフラウの情け無い顔だった。
いくら爛漫なベルフラウと言えど、これから何が起こるのかを予感しているのだろう。
そしてその想いは、リデルには良くわかった。
かつてリデルも、父の死を看取ったことがあったから。
「り、り……リデル」
喘ぐような声が聞こえて、リデルはそちらを見た。
見て、そして顔を歪めた。
思ったよりも状態の悪い公王の姿に、自分の父の姿を重ねたのかもしれない。
「お、お前のち、父……わ、私の息子」
大公国の第七公子。
それがリデルの父の正体だと聞いたのは、もういつの頃だったろうか。
そして父は、今の連合の地で大公国に対して叛乱を起こしたのだと言う。
つまり公王にとっては、裏切り者に等しい存在のはずだった。
親に弓引く不孝の子として、憎まれても仕方の無い相手のはずだ。
「す……すまない、ことをした」
しかし公王の口から出たのは、後悔の言葉だった。
「だ、だが、私には出来なかった。この国の在り方を変えることが出来なかった」
公王の言葉の意味は、リデルにはわからなかった。
だが察するに、父は何かを変えようとしたのだと思う。
それが大公国の機構の話なのか、フィリア人の差別の話なのか、それはわからない。
「他の多くの息子や娘達のことも、救うことが出来なかった」
20年前の東部叛乱の時点で、公王家には多くの公子や公女がいたと言う。
しかしその全てが、病死・謀死・暗殺……それも、若くして逝った。
誰もが公王の座を目指してのことだった、自ら望んで、あるいは周りに望まれて。
リデルの父もまた、そうした流れの中で連合で叛乱を起こした。
その当時に何が起こっていたのか、もうわからない。
ただ一つわかっているのは、誰も勝利できなかったこと。
ほとんどの公子と公女は死ぬか、死に近い状態となり、公王家には公王とベルフラウだけが残った。
リデルの父も、<東の軍師>の伝説だけ残して表舞台から消えた。
「ゆ、ゆるしてくれ……」
赦しを請う。
だが赦しを請われても、リデルにはどうすべきかがわからなかった。
何故なら、リデル自身が公王に何かをされたわけでは無いからだ。
公王に赦しとやらを与えられる存在は、もういないのだから。
けれど、リデルはその手を取った。
傍に寄り、上げることも出来なくなった手を取った。
冷たく、乾いた手だった。
表情は無い。
「……赦すわ」
けれど、父ならきっとそうすると思った。
「アンタを赦すわ、公王」
その言葉がもう、公王に届いていたかだうか。
彼は返事をすることが出来なかったから、確認することは出来なかった。
ただ一つだけ、公王の乾ききった頬に、一筋の雫が流れただけ。
そして。
「…………お父様?」
――――そして。
◆ ◆ ◆
「お父様! お父様っ! いやああああああぁぁぁっ!!」
公女の悲鳴と共に、新しい時代の幕は開かれた。
代替わりと言う名の、新時代。
公王が治めた古き数十年が終わり、新たな王が治める数十年が始まる。
それがより良き数十年となるのかは、誰にもわからない。
むしろ悪くなるかもしれない。
だが人々は信じたいのだ、良くなると。
世の中が良くなることを、人々は信じているはずだから。
「お父様、お父様あぁ……」
けれど、そんなことは父を失ったばかりの娘にとっては関係が無かった。
娘にとって、ベルフラウにとって、父は王では無かった。
父はあくまで父であって、それ以上でもそれ以下でも無かった。
たくさん甘えて、我侭を言い、困らせる相手だった。
リデルにとって、父がそうであったように。
彼女にとっては父はあくまで父であって、尊敬し敬愛すべき相手だった。
父が<東の軍師>だったから、愛したわけでは無い。
だから、きっと、広いアナテマ大陸の中でリデルだけがベルフラウの気持ちを共有することが出来た。
「…………」
リデルは、公王のことを良く知らない。
好きとか嫌いとか、そう言う次元ですら無かった。
薄情な話、目の前で亡くなったからと言って、胸が張り裂けそうな程に哀しむ、と言うことは無かった。
それでも涙を流すのは、やはり、似たような経験を共有しているからだろう。
リデルは、ベルフラウのために涙を流した。
「――――公王陛下は崩御なされた!」
馬車の外でイレアナが叫んでいる。
それも、どこか遠い。
馬車の内と外で、まるで世界が分かたれているかのようだった。
「先王陛下の遺功を想い、しばしの祈りを捧げます。そして、その後」
そう遠くない、近い将来、馬車の内外の境界は失われるだろう。
逝った者を置き、遺った者が進むのだ。
人の世は、ずっとそうやって時を進めて来たのだから。
「その後、新たな主君。我らが女公王の治世の幸いを祈りなさい!」
だけど今は、馬車の中には父を失った娘達しかいない。
わぁわぁと泣くことを咎める者は、誰もいなかった。
今しばらくは、このままで。
それくらいの資格はあるだろうと、そう、リデルは思った。
◆ ◆ ◆
アーサーは戸惑いを隠せなかった。
隣に立っているアレクセイもそんな様子だった、彼らは戸惑っていた。
彼らはすでにヴァリアスの部屋を出ていた、目ぼしいものは見つからなかった様子だ。
だが、ヴァリアスの部屋を調べたことはもはや何の意味も無かった。
何故なら、ヴァリアスに対して何も言うことが出来なかったからだ。
それも、物理的な意味で。
「おいおい、どう言うこったこれは?」
「僕にもわかりません。ただ……」
彼らは今、玉座の間へ続く<公の道>――最も、2人はそんなことは知らずにそこにいるのだが――の入り口にいた。
金属製で金銀細工の装飾が施された、どうやって作ったのか想像もできない大扉だ。
そこに、人だかりが出来ていた。
アーサー達が騒がれることも無くここまでたどり着けたのも、皆がそこに集まっていたからだ。
実際、大扉の前には人だかりが出来ている。
宮殿のこの区画で働いている人間が何人いるのかは知らないが、柱の陰から見ているアーサー達にもそれは良く見えた。
「ただ、僕達がすべきことは、もう無いようです」
アーサーの視線の先、大扉。
そこに集まった人々は、恐怖と共にそれを見上げていた。
大扉の装飾の美しさに目を奪われていたわけでは無い、むしろ逆だ。
何故ならその大扉には、本来ならあり得べからざるものがあったからだ。
かつてヴァリアスと呼ばれていた男の、亡骸が磔にされていたからだ。
俯いた顔から死に際の表情を窺い知ることは出来ない。
ただ、磔にされた彼の身体の下から床に至るまで、鉄錆の香り漂う赤い液体が流れ落ちている。
まるで動物がそうするかのような、見せしめか何かのような。
とにかく、顔を背けたいのに見てしまう、そんな惨状だった。
「まったく、何て言うのかね」
頭を掻いて、アレクセイは言った。
その手の中には、掌サイズの絵画を持っている。
とても小さな物で、どうやって作られたものなのかはわからない。
ただそこには、ソフィア人の親子が描かれていることはわかった。
「奴さんがいなくなっちまったんじゃ、こいつをちょろまかして来た意味も無いってことだよな」
ヴァリアスの部屋にあったのだから、その古ぼけた絵画は彼の物なのだろう。
幼少時の物なのだろうか?
ここに描かれているのは、彼自身なのだろうか?
――――描かれているべき3人の顔が、全て潰されている絵画は。