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9-4:「来る時には」

 イレアナは、麾下3000と共に公都郊外に達していた。

 当然のことながら、病床の公王を伴っての進軍である。

 数万いた兵を各地で切り離し、最後に残したのは自分の直属の兵だけである。



「ソフィアに兵はいない」



 それが、イレアナの持論だった。

 それは制度として軍隊が無いと言うだけでは無く、ソフィア人の気持ちの問題でもあった。

 ソフィア人は豊かで教養もある人々だ、そしてイレアナ達魔術師は彼らの生活を保障することで支持を得ている組織である。

 だからソフィア人にとって、国や組織とは「何かをしてくれる」存在なのだ。



 税は収めない、何故なら協会が全てを用意するからだ。

 そして有事の際には、地方の農村の若者が徴兵されることはあっても、基本的には協会が所有している戦力だけで戦うことになる。

 だから人口の割に兵力は少なく――<アリウスの石>で武装した兵はそうでない兵の10倍は強いのだが――聖都を抱える連合を制圧し切れないのも、それが原因の1つとなっていた。



「と言って、フィリア人のように兵しかいないのでは国として破綻しています」



 つまり、ソフィア人は兵役だとか戦争だとか、それらを煩わしい物として認識している。

 それは正しいと、イレアナは思う。

 戦は国の大事。

 おいそれと始めるべきものでは無いし、民が戦を望むような好戦的な状況は、それ自体で国の異常を表していると思っていたからだ。



「夜も灯りを絶やさないようにしましょう、同志ノエル」

「…………」

「眠らない我が公都。それに負けないように、煌々と、堂々と」



 目の鼻の先、奇妙な静けさを保つ公都を前に、イレアナはそう言った。

 最後に残した3000の兵士は、全てイレアナが自ら選び、育ててきた本当の麾下の部隊だった。

 彼女は彼らは心から信頼していたし、魔術師とそれに準ずる兵で構成されたこの部隊を世界最強の3000だと思っていた。



「このまま公都に兵を入れれば、陛下を押さえているとは言え、こちらが逆賊と言う謗りを受けかねません」

「では、どうするのです?」

「今は待つしか無いでしょう。包囲はせず、ここに駐屯することで圧力を加えます」



 下手な手は打てなかった。

 公都は大公国の象徴、不用意に兵を入れて荒らすわけにはいかない。

 まして、全土を巻き込んでの内戦など愚かなことだ。

 だからイレアナは、待つことにした。



「私達が公都に突入しても不自然は無い、そんな変事が起こるまでは」



 そんなイレアナを、ノエルがじっと見つめていた。

 常に沈着で澄ました顔をしているこの<魔女>が、頭の中で何を考えているのか。

 ノエルは1度として、理解できたことは無い。

 理解できているのは、イレアナが混血ハーフの自分を差別しない人間だと言うことだけだ。



 まぁ、良い。

 イレアナが言うのだから、何かの変事が起こるのだろう。

 ノエルはそう思って、共に待つことにした。

 公都において、イレアナの言う何か(・ ・)が起こるのを。



  ◆  ◆  ◆



 公女の結婚式ともなれば、準備には相応の手間がかかる。

 当日は冗談でなく公都の機能を停止させなければならず、都の全てがたった2人の新郎新婦のためにあるような状態になるのだ。

 式典の準備、手続き、一言で済むそれらを実際に行うとなると、時間も人手も必要になる。



「そんな時に、何の騒ぎだ」



 苛立たしげに――最も、彼女は最近は常に不機嫌なようなものだが――フロラインは、宮殿の外縁にある庭園へと足を運んだ。

 理由は、彼女の部下がそこで侵入者を掴まれたと報告してきたからだ。

 公女の結婚と言うイベントに興奮した馬鹿かと思ったが、そうでは無かった。

 侵入者は、フィリア人だった。



「何だ、お前は」



 フィリア人に対する侮蔑の感情は、ソフィア人全てに共通するものだ。

 フロイラインも例に漏れず、フィリア人を見下していた。



「何だ? と言われちゃ答えないわけにはいかねぇな。俺はアレクセイ、しがない旅人だ」



 アレクセイと名乗るフィリア人、言わずと知れているが、リデル達の仲間の彼である。

 姿は一言で言って汚い、まるで穴の中でも通ってきたかのように髪や肌、衣服に泥がついていた。

 だが、一方でアレクセイは拘束されていなかった。

 拘束されるまでも無く、自分でその場に座って待っていたのだ。



 フロイラインが呼ばれたのは、そのためだ。

 普通こんなことでフロイラインは呼ばれない、侵入者の様子が普通で無かったから呼ばれた。

 逃げも抵抗もしない、自分から見つかりに来たとしか思えない奇妙な侵入者。

 要するに、不気味だったから近付きたくなかったと言うことだ。

 公都でフィリア人を見る機会が少ない、と言うのもあったのかもしれない。



「旅人だと? その旅人がどうしてこんな所にいる。ここがどこだかわかっているのか?」

「宮殿だろ、わかってるって」

「だったら……何だ?」

「ん、いやぁ」



 しげしげとした目線で、アレクセイが自分のことを見ていることに気付いた。



「あんた、すげぇ美人だよな」

「は?」



 はっきり言うが、この時のフロイラインは過去に例が無いほど酷い顔をしていた。



「いやでも、もったいないよなぁ」

「何を言っている?」

「あんたみたいな美人が、そーんな暗い顔してるなんてなぁ。いや、本当にもったいないな」



 うんうん、頷きながら言うアレクセイ。

 フロイラインは、己が舐められていると判断した。



「ぐべっ」



 なので、容赦なく蹴った。

 手で触りたく無かったためか、足の爪先を頬に突き刺す形で蹴った。

 奥歯が何本か折れる感触が、足の指先から伝わってきた。



「へ、へへ……なかなか、激しいじゃねぇの」

「牢にぶち込んでおけ、祝賀の前に血を見るのは不吉だ」

「祝賀ねぇ」



 へらへらと笑いながら、アレクセイは去り行くフロイラインの背中に向けて言った。



「あんた、本当に祝ってるのかい? 俺には、ちっともそんな風には見えないがね」



 その言葉に、フロイラインは一瞬だけ足を止めかけた。

 止めかけたが、しかしそれだけで、実際に止まることは無かった。

 たかがフィリア人の言葉に、心動かされることなどあり得ない。



(何がわかるものか)



 あり得ないのだが、さざ波を感じずにはいられなかった。

 祝賀の日は、数日後に迫っていた。



  ◆  ◆  ◆



 この道のりは知っている。

 警戒しつつも、リデルはそう結論付けた。



「何か不自由でしていることは無いかな?」



 結局の所、リデルは宮殿はおろか部屋から出ることも出来なかった。

 例外は食事とお手洗い、そしてお風呂だけだ、

 それにしても常に誰かが傍にいるので、ストレスが溜まるばかりだった。

 これで気の許せる友人でもいれば、また話が別だったのかもしれないが。



 そして今日、ヴァリアスが来た。

 彼はリデルについて来るように言った、会わせたい人がいると。

 心当たりは何人かいたが、ヴァリアスはそれが誰とは明言しなかった。

 おそらく、自分を困惑させて楽しんでいるのだろうと思う。



「不自由かどうか気にするなら最初から軟禁するんじゃないわよ返せ」

「ふふ、キミが退屈をしていないかと心配でね」

「そんな心配いらないわよ気持ち悪い返せ」

「……何か必要な物はあるかな」

「五月蝿い返しなさい」



 なので、精一杯不愉快な気持ちにさせてやろうと思った。

 たぶん気分を良くしてやった方が後々何かと良いのだろうが、嫌いなものは嫌い、そのあたりで我慢する気持ちはリデルには無かった。



「返せ、返せ。返せったら返せ!」



 返せ、と言うのは、もちろん父の形見のあの首飾りである。

 ヴァリアスに持ち去られて以降、どこに行ったのかわからない。

 はっきりしているのがヴァリアスに返還の意思が無いと言うことで、リデルとしては恨み言のように――実際、これは恨み言だ――言い募るばかりだった。

 それも仕方ない、リデルにとってあの首飾りはそれ程の物なのだ。



「ま、まぁまぁ、少し落ち着いてほしいな」



 それに若干引きつつ、ヴァリアスはそこへリデルを案内した。

 どこ、と言う程の物でも無い。

 そこは宮殿内の中庭だった、リデルが良く知る、あの抜け道のある庭だ。

 相も変わらず色とりどりの花が咲き乱れていて、見る者の季節感を狂わせてくれる。



「あ……」



 そして、あの時の焼き直しのように。



「ベル!」



 そこには、ベルフラウがいた。

 いつかのように花々の中に立ち、こちらに気付くと振り向いた。

 ヴァリアスの嫌な微笑を横目に、リデルは駆け出した。

 ベルフラウが自分を呼んだ、嫌な予感を覚えた。



「リデル」



 そんなリデルを見て、ベルフラウは微笑んだ。

 活発な彼女らしく無い、柔らかい、どこか諦観を含んだ微笑だった。



  ◆  ◆  ◆



 ベルに近付くと、思ったより元気そうで安堵した。

 そう言う自分に、自分で驚いた。

 だが次のベルの言葉で、そうした想いは全て凍てついてしまった。



「私、結婚するわ」



 誰と、などと聞くまでも無かった。

 憤然として振り向いた、胸中に生まれた激情を我慢するつもりは無かった。

 振り向けば元凶ヴァリアスはそこにいた、中庭への出入り口付近から動く様子は無いが、それでも浮かべている笑みを見れば腹立たしさが芽生えた。



 叫んで、飛び掛って、「この外道」と糾弾してやりたかった。

 それで何かが変わらなくとも、少なくともこの胸のたまらない気持ちは解消できると思った。

 だがそれも、許されなかった。

 そっと、本当にそっと、儚いとすら言える力でベルが腕を取ったからだ。



「待って」

「でも」

「大丈夫よ。だって、結婚したからって死んじゃうわけじゃないもの」



 でも、ベルの心は死んでしまう。

 笑いながら言うベルに、リデルはそう言いたかった。

 今でも相当の無理をしている様子が窺える、何故ならあのベルがこんなにもゆっくりとした声音で話しているのだから。



「本当はね、わかってたの。いつまでも好きなことをしてるだけじゃいられないって。お父様は何も言わなかったけど、フロイラインは立派な公女になれ、お勉強を、お稽古をって言ってたもの」



 フロイラインの名を口にする時だけ、僅かに痛ましいものが見えた。



「でも嫌だった。だって、お父様を見ていたら、政なんて全然楽しいものじゃないってわかったもの」



 政治だとか統治だとか、王だとか臣下だとか、軍だとか民だとか。

 ベルフラウはそんなものに欠片も興味を持てなかった。

 毎日毎日、楽しいことをして、美味しい物を食べて、お友達とお喋りに興じる。

 それだけが己の世界であれば良いのにと、そう思っていた。



「じゃあ、何で結婚なんてするのよ」

「あら。結婚すれば、面倒なことは旦那様に任せておけば良いじゃない?」

「……馬鹿じゃないの?」

「うん、そうかも」



 おどけるように言う姿が、辛かった。



「それに……もしかしたら、結婚した後に仲良くなれるかもしれないじゃない?」



 相手は自分に子供を産ませようとしている下種だと、言いたかった。

 でもそれを言うことで、懸命に運命を受け入れようとしているベルフラウの気持ちを傷つけたくは無かった。

 それに、理解していた。



 今日ここでベルフラウと会えたのは、ヴァリアスの計らいなのだろう。

 おそらく結婚の承諾の条件だったのだ、ベルフラウはある意味で死を決意したのだと思った。

 死ぬ前の最後の願いが、唯一の友であるリデルに会うことだった。

 そうだとすれば、こんなに哀しいことがあるだろうか。



「あのねリデル、お願いがあるの」

「何よ、改まって」

「……フロイラインを、許してあげてね」



 はっとして、ベルフラウの顔を見た。

 フロイラインを許せとはどう言うことか、聞いても答えないだろうと思った。

 そしてこの時、リデルは自分がとんでも無い思い違いをしていたのでは無いかと思った。



 リデルはベルフラウのことを、悪い奴では無いが少し頭の緩い奴だと思っていた。

 底抜けに素直で我侭で無邪気で、他人のことを考えたことなど無いのだろうと。

 だが今にして思えば、ベルフラウはきちんと周囲の人間のことを見ていたのだ。

 わかった上で、無邪気なだけの姫として振る舞っていたのでは無いのか、と。



「それから、これをあげる」



 小さな箱。

 中には、見覚えのある赤い宝石の首飾りが収められていた。

 リデルの首飾りでは無い、これはパーティーの時にベルフラウが身に着けていたもの。

 代々公王家に伝わるという、首飾り。

 ちらりとヴァリアスを窺えば、彼が興味を示した様子は無かった。



「リデルのは取られちゃったんでしょう? だから、代わりにこれをあげるの」

「でも」

「良いから」



 無理矢理、手の中に掴まされた。



「貰って頂戴、お願い」



 言葉を、何か言葉をかけないと。

 そう思うのだが、口が上手く動いてくれなかった。

 口先で生きるべき軍師だと言うのに、口が動かないなんて。

 だけど、ベルフラウの震える声と手を前に、どんな言葉をかければ良いと言うのか。



「リデル。私の初めてのお友達……」



 かける言葉など、あるわけが無いではないか。

 笑いながら泣いている、そんな友人を前にして。

 言葉など、何の意味も持たない。

 ――――まして、自分も泣いているような状況で。



  ◆  ◆  ◆



「全ては思い通りと、そう言うことでしょうか」



 もう見る必要は無い、そう判断したヴァリアスが通路に戻ると、そこには車椅子の<魔女>がいた。

 今さら別に驚きはしない、キアはこれまでもヴァリアスが望んだ時にはそれとなく傍にいたからだ。

 陳腐な表現になるが、痒い所に手が届く、と言うやつだ。



「公都はもはや貴方のもの。地方の主都にもまた、貴方のご友人が数多くいます。協会本部におわします我らが<大魔女>は静観を決め込んでいるご様子ですし、同志イレアナと言えど公都に兵を入れるような真似はしないでしょう。そして最後に、公王陛下」



 公都と、地方。

 <大魔女>と<魔女>。

 公王と、公女。

 キアが話し、また示唆するそれらの名詞は全て、ヴァリアスの手によりコントロールされている事象だった。



 彼は普通なら明らかに謀反・叛逆と呼ばれる行為をしているのだが、誰もそれを言い立てない。

 公都郊外で軍を率いているイレアナでさえも、彼を叛逆者呼ばわりはしない。

 何故だろうか?

 その答えは、キアが今言った言葉の中にすでに含まれている。



「キミのおかげだよ、同志キア。キミが僕に味方してくれていなければ、僕と言えどもこうもスムーズに事を運べなかった」

「いいえ。以前にも言いましたが、わたしはほんの少しのお手伝いをさせて頂いただけです」

「謙遜も過ぎれば身を貶めるよ」

「ふふ、わたしは本当のことしか言いません」



 事実、精神に影響を与えるキアの魔術は極めて稀少で、かつ有用だった。

 決定打では無いが、有効打ではあった。



「でも、そうですね。そろそろ教えて頂けませんか?」

「何かな」

「貴方は何故、大公女殿下と――いえ、この国の頂に立とうとされるのでしょう?」



 だが結局の所、ヴァリアスは最大の味方であるキアにすら心を開いてはいなかった。

 キアは未だにヴァリアスが今回の挙に出たのか、その理由を知らなかった。

 公王は長く無い。

 公王亡き後は当然、唯一の――公的には唯一の――公王位継承権保持者である大公女が跡を継ぐ。



 そう言う意味では、タイミングは今しか無い。

 ベルフラウが王位に就いた後では、後継を得るための婚姻は極めて重要な物になる。

 唯一の王族であるから、その座を射止めるのは並大抵のことでは無い。

 だから公王が生きている間にベルフラウと婚姻していれば、公王の死後に「女公王の夫」としての地位を得ることが出来る。



「貴方は、権力が欲しいのでしょうか?」



 そして将来的には摂政として大公国の頂点に立つ、それがヴァリアスの目的なのだろうか。

 だが、それにしてはリスクが大きい。

 権力と言うなら<魔女>の権力だけで十分と言えた、わざわざ実体の無い公王家に入る必要は無い。

 ハイリスクの割に、リターンが極めて少ない行為なのだ。

 ならば、ヴァリアスは何を求めてこのような挙に出たのだろうか?



「同志キア。僕が目指すのは王位のさらにその先だよ」

「王位の、先?」



 キアは僅かに訝しげな表情を見せた。

 王位の先とはどう言う意味だろうか。



「……アナテマ、の統一でしょうか?」



 アナテマ大陸の覇者になる、そう言う意味だろうか。

 だがそれにも、ヴァリアスは笑みを見せるだけだった。



「それも良いかもしれないね。でも僕が見ているのは、東でも無ければ南でもない」

「東でも、南でも無い?」



 アナテマ大陸の地図を見た時、そこには4つの地域が浮かび上がる。

 西部を含む北部一帯に割拠する大公国、そして東部を版図とする連合、中央部に広がるフィリアの地、そして未開のミノス。

 大公国からアナテマを見る時、つまり他の3つを語る時、視線は常に東か南に向いているはずだった。

 ――――向いていなければ、ならない。



「…………」

「ふふふ」



 難しい顔をするキアに笑みを一つ見せて、ヴァリアスは背を向けた。

 そのまま歩き去る背中を、難しい顔をしたままキアは見つめ続けていた。

 星空のように煌く、菫色の不思議な瞳で。



  ◆  ◆  ◆



 はっきり言えば、驚いた。

 いつもは静かな牢が俄かに騒がしくなったかと思えば、隣と思しき牢が開閉された音が響いたのだ。

 しかも「ここで大人しくしろ、愚図め!」と言う罵倒つきだ。



「……良くわかりませんが、お隣さんでしょうか?」



 何となく、そう思った。

 ここには自分以外に誰もいなかったので、栄えある2人目と言うことだろうか。

 牢の隅に転がっている誰の物とも知れぬ白骨については、数にカウントすべきでは無いだろう。



「なっ、貴様! 妙なことをするな!」

「へっへっへっ。すまねぇな、足が悪いもん……でべっ」

「ふん! 今が祝いの時期で良かったな!」



 何となく、聞き覚えのある声だった。

 だがアーサーは何も言わなかった、そしてそれが正解であることはすぐに証明された。

 こんな所にいたくは無いとばかりに、誰かを連れて来たソフィア人が牢から出て行くとすぐにだ。



「よぉ、元気か? 王子様」

「やっぱり、アレクセイさんですか」



 その一言で、アーサーは隣の牢に入れられたのがアレクセイだと確信した。

 声はいささか憔悴している様子だったが、しっかりとしていた。

 どう言う流れでここまで来たのかはわからないが、アレクセイがわざと捕縛されたのだろうことはわかる。



 何故なら、宮殿にフィリア人用の牢はここにしか無いからだ。

 元々公都や宮殿にフィリア人はほとんどいない、まして牢に入れる必要性、つまり生かして捕えておく理由があるケースは存在さえしていない。

 だから、わざわざフィリア人のために複数の牢を作る必要は無い。



「アレクセイさん、大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ、何も問題はねぇ」

「捕まってる時点で大丈夫じゃない気がしますが」

「そこはお前、いつものことだろう」

「まぁ、そうですね」



 しかし、アレクセイがここに来てくれたのは有難かった。

 精神的なこともそうだが、外の状況など、ここではほとんどわからない。



「アレクセイさん、外はどうなっているのでしょう? 僕の予想では、割と切迫していると思うんですが」

「切迫? 切迫ねぇ」



 ふぅ、と溜息を吐いて、アレクセイは言った。



「切迫と言うか、何だ――――随分と面倒なことになってるな、応」



 そうして彼らは、当日までの時間を牢で過ごすことになった。



  ◆  ◆  ◆



 そして、誰もがその日を迎えることになる。

 どのような結果になってもアナテマ大陸の歴史に刻まれるであろう、そんな1日を。

 大陸全土の人々が固唾を呑んで見守るであろう、そんな1日が始まる。

 1人1人、向き合い方は異なる。



 ファルグリンと教皇は、聖都にいて動かない。



 教皇は争いの到来こそを恐れていた。

 ファルグリンは、自勢力から反対派を排除するのに注力していた。

 連合の軍は、今は国境を越えて大公国へ侵攻する意思を持っていなかった。



 クロワとマリア、そしてウイリアムは、旧市街から動くはずも無い。



 マリアとウイリアムは旧市街の機能強化に忙しく、外の情勢について気にしている暇は無かった。

 クロワは旧市街の運営に関わってはいないが、主にイサーバを通じてミノスと連絡を取り合っていた。

 フィリア人はまだ、飛躍のときを迎えてはいなかった。



 イレアナとノエルは、公都の郊外にいた。



 彼女らは軍を率い、そして病床の公王を奉っていた。

 イレアナは軍を束ねながら、公都へ兵を進めるタイミングを測っているようだった。

 ノエルは周辺地域に睨みを効かせて、事態が公都周辺で収まるよう気を払っていた。



 ヴァリアスとキアは、その日を円滑に迎えられるよう手を尽くしていた。



 ヴァリアスは己の影響力を駆使して、すでに公都の主として振る舞い始めていた。

 キアは、宰相のようにそれを支えているように見える。

 少なくとも公都においては、2人の<魔女>は全てを掌握していた。



 ベルフラウとフロイラインは、すでに言葉を交わすことが無かった。



 ベルフラウは運命に身を任せる決意をしたのか、周囲が決めるままに日々を過ごしていた。

 フロイラインはそれに一切触れられず、何も出来ずにいた。

 もはやこの2人の間には、信頼はおろか言葉すら無いように感じられた。



 そして、誰もが望み、そして望まない日はやって来る。

 関係する全ての人間にとって重要で、だからこそ大きな事件となるだろうその日。

 その日を、彼女はどのようにして迎えるのだろうか。

 自らを救うために身を捧げると、笑って言われた少女は。



「…………」



 中庭にひとり取り残されて、崩れ落ちたまま。

 膝の上で両の拳を握り、肩を震わせていた少女は。

 赤い宝石の首飾りを握り締めたまま、前髪の間から瞳を輝かせていた少女は。

 リデルは、その日をどのように迎えるのだろうか。



  ◆  ◆  ◆



 ――――とうとうこの日を迎えてしまった。

 フロイラインは、これ以上は無いと思える程の深い悔悟の念と共に、そう思った。



(本来であれば、喜ばしいことであるはずなのに)



 今、フロイラインは宮殿のベルフラウの私室にいた。

 それ自体は不思議なことでは無い、彼女は未だ公女の護衛つきびとだからだ。

 もちろん彼女だけでは無く、彼女の部下達もその場にいる。

 フロイライン達は、今まさに結婚式を迎えようとしている公女の護衛としてそこにいるのだ。



 そしてフロイラインだけが、この世の終わりかのような顔でそこにいる。

 本来なら彼女こそが祝福の言葉をかけなければいけなかったろう、形式はともかく、以前の彼女なら間違いなくそうしたはずだ。

 だが今は、それが出来ない。



(ベル様……)



 部屋の中央で椅子に座り、迎えを待つベルフラウの姿は「美しい」の一言に尽きた。

 ベールの向こう側に見える梳かし込まれた金糸の髪、薄く化粧を施された面。

 最高級の絹で作られた純白のドレスには小さく可憐な花々を象った刺繍が施されており、咲き乱れる花々の花弁のように真珠や宝石が散りばめられていた。

 手元を覆うレースの長手袋も、ふわりと広がるスカートも、白のハイヒールも、何もかもが良く似合う。



 それなのに、花嫁たるベルの顔は伏せられたままだ。

 フロイライン以外の者は気にもしないだろうが、彼女だけは別だ。

 彼女だけは、「公女」では無く「ベルフラウ」の幸せも願っていたからだ。



(申し訳ありません、ベル様)



 これ以上無い程の美しさと可憐さに、そして儚さに涙した。

 これ程までに哀しい花嫁が、他にいるだろうか。

 本来ならば、今日は花嫁が誰よりも幸福であるべき日だろうに。

 だがこれは、フロイライン自身の過ちによるものなのだ。



(このまま、ベル様をむざむざあの男の手に渡してしまうのか)



 いや、そんなことはさせない。

 自分はどうしようも無く愚かだけれど、どうしようも無く弱いけれど。

 それでも、ベルフラウを想う気持ちは本物だと信じていた。

 そうして、フロイラインが暗い表情を浮かべていると。



 コン、コンと、部屋の扉が叩かれた。

 来た、迎えだ。

 これからベルフラウは宮殿の外に出て、結婚式場に向かう。

 このノックは、その知らせだ。



「はい」



 ベルフラウが返事をする、それが合図だった。

 扉が開かれる。

 そこには。



「――――え?」



 そこには、協会から派遣された迎えの姿が――――……。





「ど、どうして、貴女がここに――――?」


最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。

リアルの都合により、勝手ではありますが、来週の更新をお休みさせて頂きます。

次回は6月19日となります。

それでは、また次回。

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