9-1:「色が戻る日」
――――世界から「色」が消えた。
そう思ったのは、いつからだろう。
ベルフラウは今、完全な静寂の世界にいた。
「公女殿下」
かけられた声に、以前ならすぐに返事を返しただろう。
輝くような笑顔で、「なぁに」と応じたはずだ。
だが今の彼女には、それが出来なかった。
するつもりもする気力も無かった、と言った方が正しいだろうか。
「公女殿下、おめでとうございます」
「そのお年でご婚姻だなんて、羨ましいですわ」
「婚礼衣装も楽しみです!」
自分の部屋にやってくる宮殿の侍女達が、そう言って祝福の言葉をかけてくれる。
でも、ベルフラウにとってそんな物には何の意味も無かった。
何故ならそこに、自分の意思は少しも考慮されていなかったからだ。
婚姻、婚礼、結婚。
いくつもの言葉で言い換えても事実は一つだった、ベルフラウは妻になろうとしている。
誰かのものになろうとしている。
だと言うのに、そこにベルフラウの意思は少しも介在していない。
「おめでとうございます、公女殿下」
「さぁさ、ドレスの仕立てを致しましょう」
「お部屋も東の室に移るご用意を致しましょう」
ベルフラウ自身は何も言っていないのに、結婚式の準備が恙無く進められていく。
子供の頃から使っている部屋から、少しずつベルフラウの物が無くなっていく。
ぬいぐるみ等の淑女の持ち物では無いと思われた物は、捨てられてしまう。
代わりに宝石や化粧道具等、淑女が持っておくべき物が新たに発注されていた。
望みもしないのに、新しいドレスを仕立てられた。
誰もが羨むだろう純白のドレスだった、ベルフラウは少しも綺麗だと思わなかった。
そもそも、今の彼女の目にはどんな色だって映らなかった。
全てが色褪せて見えて、何も綺麗だとも、楽しいとも思えなかった。
「おめでとうございます、公女殿下」
「公女殿下、どうかお幸せに」
「公女殿下」
「おめでとうございます」
誰も、ベルフラウの気持ちを理解してくれようとはしない。
誰も、彼女自身を見てくれようとはしてくれない。
「ベ、ベル様……」
無数の侍女の中でただ1人、ベルフラウが自分のことを「ベル」と呼ぶことを許した魔道の女騎士でさえも、もはや彼女の味方では無かった。
着々と進む婚姻の準備をただ見つめることしか出来ずに、日々積み上げられていく各地からの祝いの献上品を前にしながら、ベルフラウの目からは、いつしか光が消えていた。
「……ベル様ぁ……」
公都に、いやこの国に、この世界に。
ベルフラウの味方は、もう誰もいない――――。
――――の、だろうか?
◆ ◆ ◆
大公国には7人の<魔女>がいる。
<魔女>は魔術協会の頂点であり、その運営は7人の合議によって決定される。
そして彼女らは同時に大公国公王より領土の経営を任された領主でもある、「管区」と呼ばれる地域がそれだ。
大公国では公王が老齢、跡継ぎたる公女が幼く、公王家の統治能力の欠如が叫ばれて久しい。
必然、<魔女>達7人が事実上の政権として大公国を統治しなければならなくなる。
だから歴代公王の中で、今が最も魔術師達の影響力が強い時期と言える。
大公女ベルフラウと<魔女>ヴァリアスの婚姻も、そうした流れで持ち上がった話だった。
「同志ヴァリアス。第四課の職員はもう帰られたのですね」
「ああ、そうだよ。同志キア、キミには随分と手伝って貰っているね」
「いえ、当然のことですわ」
「ありがとう。僕1人で検聖邪省への手続きを全てやるのは大変でね、キミには裏方を任せてしまっている」
公都の宮殿には、執務室がいくつかある。
これは宮殿が公王家の住居としてだけでは無く、大公国の統治機構も兼ねていることによる。
つまりは魔術師や高級官僚達の仕事部屋であって、ヴァリアスとキアがいるのはその部屋の1つだった。
とは言えそこは<魔女>、マホガニー製の木材を中心に、質の良い家具や調度品に囲まれた部屋だ。
官僚達は何人もが同じ部屋を使っているが彼らは1人で使える、これも特権の1つだ。
ちなみにヴァリアスが言った検聖邪省と言うのは、協会の運営組織――官僚組織のような物だ――のことで、キアの言う第四課とはその1機関である。
手続きと言うのは、言うまでも無くヴァリアスと公女の結婚に関する物だ。
この点、ヴァリアスには他の<魔女>には無い強みがある。
「いえ、私がしたことはほとんどありません。同志ヴァリアスのご友人方の尽力です」
ヴァリアスには、中央と地方の官僚や名士達に友人が多い。
協会も例外では無く、ソフィア人であり「純血」の魔術師であるヴァリアスに好意的な者は数多くいるのである。
だから、本来なら許されないだろう公女との婚姻を進めることが出来るのだ。
「我らが<大魔女>も、今のところ反対の意思を見せていないようだ」
唯一の懸念を口にして、ヴァリアスは頷いた。
もしかせずとも公王家と協会の合体を意味するこの婚姻、露骨な反対派今の所見えない。
例外があるとすれば公王を擁するイレアナとノエルの軍勢か、だが公王は余命幾許も無いと聞く。
公王が死んでさえいれば、いや仮に生きていたとしても、まともに生きられない状態になっていることは間違いなかった。
「しかし、意外だったな。キミはこう言うことに関心が無いものだと思っていたよ」
「最近はこの国も何かと暗い雰囲気です。公女殿下と同志ヴァリアスのご婚姻は、民の間に日差しの如く温かなものを芽生えさせることでしょう」
きぃ、と車椅子を揺らしながら、少女<魔女>が言った。
「私にとって大切なのは、民が安んじると言うことです。そのために必要なことは何でもする、そう思っているだけですわ」
「そうか。ありがとう、キミの期待に応えられるよう頑張るよ」
「……ええ。期待しておりますわ」
淡く微笑むキアに対し、ヴァリアスもまた微笑を返す。
実際、同じ<魔女>の中から今回のヴァリアスの行動に味方してくれる者がいるとは思っていなかった。
だからイレアナやノエルがいない間を狙って全てを進めたのだ、そのために公王親征などをお膳立てもした。
しかし、同じ<魔女>であるキアはヴァリアス支持を早々に態度で示した。
ヴァリアス程では無いにしろ、彼女は自分の魔術の性格から一定のシンパを持っている。
そんな彼女が支持するならばと、ヴァリアスに好意的な反応を示す者もいるのだ。
(流石はソフィア人。わかるべき所をわかっている)
魔術のせいで身体が不自由でさえ無ければ、もっと公然と優遇しただろう。
今、全てがヴァリアスの思い通りに進んでいた。
国も、姫も、協会も、軍も、民も、その全てが彼の掌中に収まりつつある。
「ふふ、ふふふ……」
「…………うふふ」
そんな彼を、キアは微笑みながら見つめていた。
一瞬、開かぬはずの少女の瞳が開いたような気がしたが、それにヴァリアスが気付くことはなかった。
彼女は今も、瞳を閉じたままヴァリアスを見つめていた。
◆ ◆ ◆
赤い輝きが、室内を満たしている。
窓の外には青空が見えるのに、その部屋だけが赤く輝いていた。
そこは、連合との境界線と公都のちょうど中間に位置する街だった。
郊外には、イレアナとノエルが率いてきたおよそ4000人のソフィア軍がいる。
「……なるほど」
執務机に座っていた彼女は、机の上に金属製の本を置いていた。
それは開かれており、しかも赤く発光していた。
公都のそれに比して質素な造りの執務室だが、イレアナは大して気にしていなかった。
「検聖邪省の動きが鈍いのは、そう言う理由だったのですね」
不思議な光景だった。
本のページも薄い金属の膜で出来ていて、開いたページの上には赤く薄い紙のような物が浮かんでいた。
しかも半透明、向こう側が透けて見えるそれに、イレアナは視線を落としている。
どうやらいくつもの文字が浮かんではきえているようで、それを目で追っている様子だった。
「…………」
何かを考え込むように、背もたれに背を押し付けて、天井を見上げた。
結われた金色の髪が、背もたれに触れて柔らかく歪む。
「今、私が考えねばならぬことは何か……」
第1に、公王のこと。
病状は悪い、もはや死の床にあると言って良かった。
後継はベルフラウ公女だが、これは公都にいる。
最善は健康な状態で公王が意思を示すことだろうが、おそらく無理だろう。
第2に、連合を含む大公国内外の他勢力のこと。
大公国に侵攻をかけてくるとは考えにくいが、辺境で何か悪巧みをするかもしれない。
第3に、公都のこと。
これは諜略戦にあたるため、公都にいないイレアナは不利とも言えた。
「検聖邪省経由での諜略は使えない。と言って、公都で起きていることに対して手をこまねているわけにもいかない」
手をこまねいていては、この国にイレアナ達の居場所が無くなると言うこともあり得る。
と言って国を割って公都を攻めるのかと言われれば、これも好ましくない。
それは内戦と言うべきものであって、為政者が避けるべきものだった。
イレアナにはそうした情勢に配慮した、バランスの良い行動を採ることが求められていた。
「このような様を晒すことになるとは、我らが<大魔女>に顔向けが出来ませんね」
溜息を吐き、そんなこをと呟いた。
その日、彼女の部屋から赤い輝きが消えることは無かった。
◆ ◆ ◆
一方で、この情勢で最も有利になるはずの連合はと言えば、半ばイレアナの予測通り、動けずにいた。
のべ30万人を動員して大公国の侵攻を跳ね除けた彼らだったが、しかしそのために、連合加盟国は自軍部隊を自国へと引き上げさせてしまったのである。
殿軍として奮戦した<魔女>ノエルの活躍もあるだろうが、一番はやる気の問題である。
攻められれば一致団結してこれを防ぐが、しかし境界を越えて大公国奥深くに進出する気は無い。
この積極的になり切れない国内事情こそが、東部叛乱以後の10年間、連合勢力を大陸東部の辺境に逼塞せしめ、同時に勢力の結束と維持に重要な影響を与えていたと言える。
連合の事実上の独裁者であるファルグリンはこうした連合の気質に長く不満を覚えていたが、ここで根本的な「治療」を施すことにした。
「――――以上の儀について、ご裁可を願います」
聖都、サン・フィリア大聖堂の「教皇の間」。
大公国における玉座の間に相当するその部屋には、白くゆったりとした祭司服を纏った人々が数十人、いや下手をすれば何百人と並んでいた。
ファルグリンは中央の赤絨毯の上に膝をついていて、階段の上に玉座を構える――階段の上には教皇だけが登ることが出来る――教皇を見上げていた。
「…………」
教皇はと言えば、いや他の面々もだが、表情を曇らせていた。
係官の手によって運ばれた文書はファルグリンが自ら認めた物で、要するに政策案である。
だが、内容は凄まじい物があった。
「教会からの破門……」
「はい。教皇聖下の名の下に、非道にも我が連合を侵した敵を排除することが出来ました。しかし一部参加国の士気の低さのために、それ以上の成果を得ることが出来なかったことも事実です」
それは、先の戦での非協力・不服従の姿勢を見せた者を聖樹教から破門すると言う内容だった。
聖都、そして連合の制度は国民のほとんどが聖樹教徒であることを前提に組まれている。
つまり聖樹教徒で無ければ途端に窮屈になる、とは言え普通に生活する分にはどうとでもなるとも言えた。
だが「破門」、教皇の名で行われるこれだけは例外だ。
「我々の理想は、アナテマ大陸の隅々からソフィア人による差別と専制を排除することにあったはず」
破門は、要するに宗教の最高権威に「お前は必要ない」「お前は背信者だ」と宣言されることだ。
聖樹教徒の軽蔑はもちろん、ありとらゆる場面で不利益を被ることになる。
日々の食事に困窮し、住居を終われ、人々に後ろ指を指され石を投げつけられる日々を過ごす。
牢に入れられていないだけで、その実情は囚人と変わる所が無かった。
「この理想を理解せず、あまつさえ味方の足を引っ張るような輩は存在するだけで害悪。こうした者共を排除し純化することで、我らはかつての清らかな力強さを取り戻すことが出来るでしょう」
――――何のことは無い!
ファルグリンは、己の意に沿わぬ者を排除しようとしているだけなのだ。
教皇は大きな哀しみが胸中を覆うのを感じた。
これから先、ファルグリンによる粛清が――歴史上に残る大粛清となるだろう――始まるのだろう。
いったい何人が犠牲になるのか、ましてその犠牲は自分の名で行われるのである。
そしてファルグリンは、全てが彼女の色に染まった強大な軍を作り上げるだろう。
大公国には内政の乱れが見えると言う、もしかしたら勝てるかもしれない。
(けれど、それが何になるのだろう)
教皇にはわからなかった。
ひたすらに屍を積み上げて得た勝利の向こう側に、どんな世界があると言うのだろう。
ファルグリンの目には、それがどのような物に見えているのか。
教皇はそれを聞いてみたい衝動に駆られたが、ファルグリンへの恐怖の余り、結局は何も言えなかった。
「教皇聖下、どうかお気を沈めぬよう。全てはフィリアの民のためでございます」
(わたしは……わたしのしたいことは、こんなことじゃない)
教皇は未だ、ファルグリンの傀儡だった。
――――その胸に灯った火は、まだ表に出ることなく燻っていた。
◆ ◆ ◆
「ふーむ」
クルジュの旧市街。
いつもと変わらず市壁の上に座ったままの姿で、クロワは首を傾げていた。
そんな彼の前には1枚の木の板があって、そこにはいくつかの文字が書かれている。
持っているのはイサーバだ。
昼夜兼行の駆け通しだったために倒れている、しかし手紙代わりの木の板は話していない。
ぜーはーと息を切らせていながらも、今度は川に落ちたりしなかったようだ。
だから、今回は書かれた内容を読み取ることが出来た。
「ミノスからここまで駆け通しとは。キミもなかなかどうして、忠勤なことだ」
「ま、まぁね。死罪よりは良いからさ、今まさに死にそうだけ、ど……」
何があったかはあえて聞かず、クロワは手紙を読んだ。
それを書いたのはリデルだ、文面を見るだけでこれを書いている時の彼女の様子が想像できる。
文字は力強くかつ少し斜めに傾く傾向があり、少々急いで認めたようだ。
そして、何故そんなに急いでいたかと言えば。
「ふむ、旧市街には戻らないのか」
途中で人の目に触れることを警戒したためか、具体的にどことは書いていない。
しかしこうした場合、その場所を匂わせる文章を盛り込むのが常だ。
実際、クロワはリデル達の行き先を知っている。
内容はこうだ、「北に花を摘みに行く」――――。
「シャノワ」
「はい」
膝をついた姿勢で、どこからともなく少女が1人。
そこにいると確信があったわけでは無いが、いるだろうとは思っていた。
「すまないが、マリア殿達を集会所に集めておいてくれないか」
「わかりました」
「それと、水と食糧をイサーバ殿に。今回は以前と違って、正使のようだ」
頷き一つと共にシャノワが何処かへと消えた。
クロワに言われた通り、マリア達と集めに行ったのだろう。
この「あー」とか唸ってバテているミノスの使者は、こう見えて今は同盟の使者だ。
事態はまた動いたと、そう捉えるべきなのだろう。
「さて、一所に留まらない娘だ。この調子で行けば、生涯の内でアナテマ大陸を何周するかわからないな」
あるいは。
「それとも、大陸ひとつでも、あの娘には狭すぎるのかな」
どこまでも透き通る青空、しかし片隅に雲も見える。
まるでこれからの世界の行く末を暗示しているかのような空に、彼はひとり。
今日もひとり、市壁に座り続けていた。
◆ ◆ ◆
自分がこんなに付き合いの良い奴だとは思わなかったと、アレクセイは思った。
今、彼は公都に潜伏していた。
フィリア人の彼がソフィア人の街にいるのは、本来なら目立つ行為だ。
「結婚式だってのに、どうにも様子がおかしいな」
金色の髪に、薄い菫色の瞳。
肌に白粉を薄くまぶして、今のアレクセイは遠目にはソフィア人と同じ姿をしていた。
抜け毛で作ったカツラに、植物の茎を薄く切って作った瞳の色を帰る道具。
髪も肌も視力も傷つける行為だが、潜伏するには他に方法が無かった。
たぶん、自分は長く健康でいられないだろう。
でもこれは、いやだからこそ自分の役目だろうと思う。
他の奴には任せられない、そう言う想いが彼にはあった。
本当に付き合いの良いことだと、そう思う。
「どういうこった、これは?」
公都以外の都市では、人々は街に繰り出して口々に公女の結婚について話していたものだが、この公都においては少し様子が違った。
以前来た時はソフィア人の街らしく、多くの人々が豊かな生活を享受していたはずだ。
だが今、人通りはまばらである。
「家にこもってんのか? ソフィア人らしくねぇなぁ」
良く整備された通りは、本来なら無償で食糧や物品を提供する店と、その店に足を運ぶソフィア人達で溢れ返っていたはずだ。
それが今は閑古鳥が鳴いていて、通りに人だかりなど1つも無い。
潜伏すると言っても、これでは逆に危険だった。
アレクセイはとりあえず裏通りに潜ることにした、表を歩くのは危険だ。
いくら変装しているとは言え、近くでじっくり見られれば見破られてしまうだろうからだ。
しかし気になる、なぜ通りに人の姿が少ないのか。
人々の代わりにいる、あの灰色の装束の者達は何者なのか。
「魔術師だろうが、あいつらの制服と形が違うな」
大公国の魔術師は軍服とローブを合わせたような衣装を着ていて、それが彼らの制服だと言うことは知っている。
だが今、公都の通りの各所でまるで人々を監視でもしているかのように灰色の衣装を纏った者達が立っている、<アリウスの石>由来の装飾品を身に着けているから魔術師であることはわかるが。
あれらは何者なのか、アレクセイにはわからなかった。
「いったい、ここで何が起こってやがるんだ?」
何かが変わろうとしている。
漠然とした不安にも似た感情に、アレクセイは戸惑いを隠せない。
だが危険を犯して公都に潜伏している以上、何が起こっているのか、情報を集めるのが彼が自分に課している役割だった。
限られた人生を他人のために使う。
大義だの何だのと言う気は無いが、一度手を出したなら最後まで、だ。
うむと頷いて、彼は公都の奥へと足を踏み入れていった。
◆ ◆ ◆
公都の宮殿に、四方を壁で囲まれた小さな中庭がある。
そこはベルにとって思い出の場所でもあり、今でも良く逃げたい時にはここに来る。
石造りの花壇には今も色とりどりの花々が咲いていて、見る者の心を少しばかり慰めてくれた。
「1人にして頂戴」
少し前はそんなことは無かったのに、今では1人で宮殿を駆け回ることなんて出来なかった。
ベルについていた侍女や護衛は逡巡した様子だったが、以前からベルを知っているわけでは無いので――昔からの侍女達は、どうしてか最近になって全員いなくなった――結婚式の前でナイーブになっているのだろうと思い、言う通りにした。
侍女達が自分の言うことを素直に聞いてしまう、そんな当たり前のことでさえも、今は寂しかった。
以前いた侍女達なら、ベルが1人になりたいと言えば「何かするつもりだな」と勘繰ったはずだ。
そんな侍女達を出し抜くのが、ベルの日常だったはずなのに。
「ベル様」
ただ1人、フロイラインだけが今も傍にいた。
だがもう、ベルは彼女を信じようとも頼ろうとも、また甘えようとも思えなかった。
返事を返してくれないとわかったのだろう、フロイラインが項垂れながら他の侍女達に続いて出て行った。
「……ぐすっ。うえぇ……」
1人になると、もう我慢が出来なかった。
そもそも、これまでの人生で我慢なんてしたことが無かったのだ。
そんな彼女からすれば、今の理不尽で窮屈な生活はストレスの塊でしか無かった。
急に雰囲気の変わった宮殿、気が付けば皆が知っている結婚式、変わってしまったフロイライン。
もう、何が何だかわからなかった。
早く公王に帰ってきて欲しいと思った、そうすればこんな想いをしなくて済むと。
でも、いつまで経っても帰ってくる気配すら無かった。
これから自分はどうなってしまうのだろう、ベルは不安に押し潰されそうだった。
「……ひっく。うぐぅ……う?」
ポロポロと涙を零し、鼻水を綺麗なドレスの裾で拭っていると、あることに気付いた。
ベルは今、中庭の噴水の前にいるのだが、足元の石畳の様子がおかしかった。
何か、ぐらぐらと揺れている。
と思えば、噴水が割れた、4つに分かれた噴水から水が「地下」へと落ちていく。
「え、え」
ベルは慌てた、そこに抜け道があるのはもちろん知っていた。
と言うか、いつもそこから城下へと抜け出していた。
だがここを開くには特別な<アリウスの石>が必要であって、勝手に開くことはあり得ない。
ならば、どうやって開いたのかと言えば――――。
「わぷっ、わぷっ」
人の声、それも少女の声がした。
どうやら内側から開けた者がいるらしい、しかしいったい何者だろうか。
公王家にのみ伝わる秘密の抜け道を、特別な<アリウスの石>以外へけして受け入れない抜け道を、内側から開けられる者なんて。
「うう、酷い目に合った。水が抜けてくるのを忘れてたわ……」
そこから、もぞもぞと誰かが顔を出した。
段差があるから、少し苦労して這い出して来た。
水に濡れているせいで、薄い金色の前髪が顔に貼り付いている。
その金色を見て、ベルの世界に「色」が鮮やかに戻って来た。
「あ……!」
有無を言わせなかった。
抜け道から這い出して来た少女に、ベルは飛びついた。
いや、飛び掛ったと言った方がもはや良いだろう。
それくらい、彼女にとっては重要な出会い――再会だったのだ。
「リデルぅ――――ッ!!」
「え。いや、ちょ……ぎゃあぁ――――ッ!?」
ベルの瞳から、また涙が零れた。
しかし今度は哀しみでは無く、心からの喜びによって涙を流したのである。
彼女は今、久しぶりに心からの笑顔を浮かべていた。
リデルと言う、初めての友人との再会によって。
最後までお読み頂きありがとうございます。
舞台を再び公都に戻して、9章は進んでいきます。
本章で大陸の情勢がぐっと変わるはずなので、力を入れていきたいですね。
それでは、また次回。