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8-7:「風雲」

 暗闇の中、アーサーは駆け続けていた。

 いつからそうしていたのかは、良くわからない。

 ただ、そうしなければならないと言う強迫観念めいたものがあった。



『夫婦として』



 どこへ向かっているのかもわからない、暗闇の中で笑い声が聞こえた。

 男の声だ、反響する声が不快感を煽る。



『共に一夜を過ごしただけだ』



 不意に、進む先に人影が見えた。

 男だ。

 筋肉質な大男で、丸太のように太い腕を組んでこちらを見下ろしていた。

 不思議と、いくら駆けても距離が縮まることは無かった。



 それから、少女がもう1人。

 男が大柄な分、子供のように見える。

 アーサーは何か声をかけた、かけようとしたが、自分の声はついぞ聞こえなかった。



『随分と――――可愛い声で泣いてくれていたな』



 男が少女を後ろから抱く、と言う姿勢になった。

 少女がじっとアーサーを見つめている。

 アーサーは足を速めたが、それでも少しも距離が縮むことは無かった。

 いや、むしろ距離が離れていっていた。



 アーサーは駆けていて、男と少女は動いていない。

 それなのに、アーサーが2人に追いつくことは出来なかった。

 駆けても駆けても、追いつくことが無い。

 どうしようも無く気が急いたが、どうしても追いつけなかった。



「はぁっ……はぁっ……」



 呼吸が荒い、走っているからか。

 いや、それだけでは無いような気がする。

 だんだんと苦しくなってくる呼吸に、足が止まってしまいそうになった。

 だがそうすると2人が逆に離れて行ってしまうような気がして、アーサーは足を止めることが出来なかった。



『…………』



 そして、アーサーのことをじっと見つめていた少女が、目を伏せるのが見えた。

 悲しげに目を伏せる少女に、手を伸ばした。

 待って欲しい、そう思い手を伸ばしたのだ。



「……!」



 だが、やはり自分の声が聞こえてこなかった。

 少女にも聞こえていないのだろうか、こちらを見てくれない。

 男の笑い声だけが、妙に耳に響いてくる。

 手を伸ばす、届かない。



 呼吸が苦しい。

 苦しいから届かないのか、届かないから苦しいのか。

 それでも駆ける、駆けなければ追いつくことが出来ないからだ。

 でも、追いつけない。



「――――ッ!」



 叫び声を上げて、アーサーは「飛び起きた」。



  ◆  ◆  ◆



「ふぎゃっ」



 目覚めは、激痛から始まった。

 鈍い痛みに顔を押さえた、跳ね起きた瞬間に何かにぶつかったらしい。

 何が起こったのかとあたりを見渡せば、予想外の世界が広がっていた。



 一言で言えば、どんちゃん騒ぎである。



 場所は大広間――最初にアーサーとリデルが捕まった、あの場所だ――だ、どうやら宴が催されているようで、見た目も性別もまるで違う者達が酒や肉を飲み、食べて、歌い踊っていた。

 どうやら宴もたけなわと言う奴なのか、盛り上がりすぎて誰もアーサーのことを気にしていなかった。

 アーサーとしては、ぽかんとするしか無い。



「あはははっ、良きにはからえ~」



 見れば、イサーバが綺麗なお姉さんに囲まれてウハウハしていた。

 頭の悪い表現だと思うが、事実その通りなのだから仕方ない。

 アレクセイの姿は見えなかった、またどこかに潜っているのか。



「おお、気が付いたか!」



 その時だった、アーサーの前に誰かがどっかりと座った。

 ヤレアハだ、すでに酔っているのか、相当に顔が赤い。

 賑やかな宴の席でヤレアハの豪放な笑い声が響く、アーサーは目を白黒させていた。

 ヤレアハは酒が入っている瓶を突き出すと、飲むように促してきた。



「さぁ、飲め兄弟」

「き、兄弟?」

「拳を交わした相手は皆兄弟、それがミノスの掟だ。しかもお前は戦士だ、強い戦士にミノスは敬意を表する」



 決闘、そうだ、自分はこの男と決闘をしたのだ。

 結果については良く覚えていない、勝ったようにも思うし、負けたようにも思う。

 しかしこうして見ると、悪い結果にはなっていないようだが……。



「い゛っ……!」

「おお、大丈夫か? まぁ呑め、怪我には酒だ。酒!」

「い、いや、それはどうなんでしょう……」



 その時になって、自分が怪我をしていることに気付いた。

 決闘の時に大分殴られたため、身体中に青痣が出来ていた。

 特に酷い部分には布が巻かれていて、布の下からは煎じた薬草のような匂いがした。

 手当てまでされていたのか。



 そこでまたはっとした、そうだ、何のために決闘したのか。

 リデルだ。

 今の所、リデルの姿が見えない。

 どこにいるのかと、身を動かしかけた時だ。



「う、うぅ~……」



 すぐ後ろから聞き覚えのある声が聞こえて、慌てて振り向いた。

 すると、いた。

 リデルはアーサーのすぐ後ろにいた、足を組んだ姿勢で座っていて、顔を押さえていた。

 目尻に涙を浮かべながら小さく唸っている、どうしたのかと覗き込んでみれば、彼女はきっとアーサーのことを睨んできた。



「い゛た゛い゛じゃな゛い゛!!」

「あ、はい。すみません……」



 そんな彼女の鼻からは、量は少ないが血が流れ落ちていた。

 いわゆる、鼻血というものだった。

 その勢いに、アーサーは反射的に謝ってしまうのだった。



  ◆  ◆  ◆



 10年以上前のことだ。

 ヤレアハがちょうど今のイサーバより少しだけ年上で、ミノスの王になって何年か経った頃のことだ。

 彼はミノスの外を旅したことがある、東部叛乱から連合の成立に至る流れの中で、大陸の様子を自分の目で見るためだった。



 しかし、不覚にも道に迷い、腹を空かせて行き倒れてしまった。

 ある男が通りがかり、助けてくれなければ、ヤレアハはそのまま動けなくなっていただろう。

 以来10余年、ヤレアハは1日たりともそのことを忘れたことは無かった。

 そして、ヤレアハを救ったその男の名は――――。



「パパ……?」



 リデルの父と、同じ名であった。

 遠くに宴の喧騒が聞こえる、用意された別室にいるのは、リデルとアーサー、そしてヤレアハとセーレンの4人だけだった。

 そこでヤレアハは、リデルの父との馴れ初めを語り出したのだ。

 それは、リデルにとっても意外なことだった。



「<東の軍師>の娘がフィリアの地で起ったと聞いた時、俺はそれを助けることをすでに決めていた」



 ヤレアハがイサーバに持たせた書には、修好の意思が書かれていた。

 彼は最初から、アーサー達フィリア人と友好的な関係を結ぼうと考えていたのである。



「しかし問題があった」



 それが、ミノスの部族達の考え方だった。

 彼らは基本的にミノスの外のことに感心を持たない、それぞれの部族内のことで完結していまうのだ。

 例外が1つだけあって、それが決闘だった。

 ミノスの部族にとって唯一尊ぶもの、それは強者だ。



「ミノスの人間は決闘の勝者だけは敬う。強者だけが友、それが俺達だ。そうでなければ、決闘の勝者を王として服従したりはしない」



 だから、決闘だった。

 決闘で王に勝つ、それ以外にミノスの民がアーサー達を助けることは無い。

 もちろんヤレアハに負ける趣味は無いから、全力でやった。

 これで自分に勝てないようならそれまでだと、そう思っていたのだ。



「だが今日、お前は俺に勝った」



 アーサーは黙って聞いている、離れの部屋には覆いが無く、ミノスの夜空が頭上に煌いていた。



「お前は今日から我らが友、我らが兄弟だ。そんなお前が助けを求めるならば、俺達は喜んで助けになるだろう」



 さぁ、と酒盃を手に、ヤレアハは言った。

 酒盃は2つ、ヤレアハとアーサーの手元にあった。

 なみなみと注がれたミノスの酒は白く、ややドロリとしている。

 それが月明かりに照らされて、淡く輝いているようにも見えた。



「さぁ、盃を交わそう」



 笑いながらそう言うヤレアハは、先に見せていた豪放な王とは別人に見えた。

 酒や肉を意地汚く食すことも色を好む様子も無い、瞳には力強い光があった。

 理知的で誠実で、堂々としていて、まさに無数の民を導く王の姿だった。

 そんな王の姿を見たアーサーは、自分の前に置かれた――セーレンが酒を注いでくれた――酒盃を、手に取った。



  ◆  ◆  ◆



 ヤレアハの申し出は、有難いものだった。

 正直不快な気持ちを抱かなかったとは言わないが、ヤレアハの立場と言うものも理解できた。

 しかし、酒盃を貰うと言うのは違うような気がした。



「この酒盃は、僕が受けるべきものではないと思います」



 本心だった。

 ようやく思い出してきた、自分は最後、倒れかけた時にリデルに背中を押されたのだ。

 一対一の決闘と言う意味なら、自分は反則とされてもおかしくないはずだ。

 兄弟と言われるのは嬉しいが、それでもこの酒盃は自分の物では無い。



「決闘において重要なのは、最後にどちらが立っていたのかと言うことだ」



 酒盃の酒を飲み干しながら、ヤレアハが言った。

 実際、決闘のルールは2つだけだとイサーバは言っていた。

 決闘場から出ないこと、そして拳で打ち勝つこと。

 リデルの助けは確かに予定外だったが、よほど卑怯で無い限りはハプニングとして処理される。

 その程度を乗り越えられぬ対戦相手が悪い、ということになるのだ。



「あまつさえ、自分の妻となる女が相手を助けたとなればな。男としての器量を疑われるというものだ」

「しかし……」

「不満なら、酒盃はお前達2人で空けると良い。2人の勝利と言うことでな」

「嫌よ」



 そこで初めて、リデルが口を開いた。

 彼女はどこかやや引いた目で酒盃を見ている、どうやらあまり酒が好きでは無いようだ。

 決闘前夜にヤレアハが飲ませた酒が予想以上に体調を崩したので、苦手になったのだろう。



「はははっ! どうもお前は素直になれないようだったからな。酒を飲んでみれば素直にいろいろと話してくれるだろうと思ったんだ」

「冗談じゃないわよ。二度と飲まないからね」

「ああ、そうすると良い」



 ヤレアハは面白そうに笑っていたが、リデルは全く面白くなかった。

 酒に酔って前後不覚になっている間、自分は何を話したのだろう?

 何かいろいろと喋ったような気もするが、良く覚えていない。

 ヤレアハが自分やアーサーに好意的なのは、もしかすればその時の話のせいと言うのもあるのだろうか。



「でも、だからって別に私と結婚とか言い出さなくても良かったんじゃない?」

「あれについては本気だった。妻にしておけば何かと守ってやることも出来る。たとえ決闘でお前達が負けたとしても、王の妻ならミノスの民も手を出すことは無いからな」

「な、なるほど」

「しかしその必要も無くなった。お前達は俺に勝った。そして妻を巡る決闘に勝ったと言うことはだ」



 ニヤリと笑い、指を立てて言う。



「お前達も、これで晴れて夫婦と言うわけだ」

「え、嫌よそんなの」



 空気が、凍った。

 もう何と言うか、これ以上無い程「やってしまった」感があふれ出ていた。

 流石のヤレアハも言い切った体勢のまま動けずにいた、微妙な笑顔を浮かべたまま脂汗を流し続けている。



 言われた側のアーサーも、隣に座ったまま非常に微妙な表情を浮かべていた。

 ひとり、セーレンだけが元のままじっとしていた。

 ただこれも、もしかしたら驚愕で動けずにいるのかもしれない。



「そ、そうですよね。僕達はそう言う関係じゃありませんから」

「そう言うことじゃなくて、結婚がダメなのよ」



 フォローを入れてみる、見事に玉砕した。

 もちろんアーサーはリデルとそう言う関係では無いし、そもそもそんなことを考えたことも無い。

 無いが、しかしそれにしても言い方というものがあるのでは無いだろうか。



「ち、ちなみに、どのあたりがダメなんですかね?」

「だから結婚がダメなのよ」



 にべも無かった、ヤレアハが気の毒そうな視線を向けてくるのが物凄く嫌だった。



「まぁ、呑めよ兄弟。今日は呑もう」

「やめてください、本気で嫌です」



 あまりにも情けなさ過ぎる、アーサーは天を仰いだ。

 どうやら思いのほか傷ついている様子で、リデルは不思議そうに首を傾げた。



「アーサー、何か知らないけど元気出しなさいよ」

「は、はい。ありがとうございます……」

「ち、ちなみに、どうして結婚はダメなんだ?」

「いえ、本当もう良いんですよ。ええ、もうね、何かね……」



 男達の哀愁なぞ理解できない、そう言いたげに首を反対側に傾げ直すリデル。

 何だろう、この男達は何を打ちひしがれているのだろう。



「どうしてって、パパが言ったんだもの」

「「え?」」

「だから、パパが結婚しちゃダメって言ったんだもの。何でもさせてくれるのにそれだけはダメって言うから、何か理由があるんだろうなって。だから、結婚はしないの」

「え、えぇー……」



 らしいと言えばらしい理由に、アーサーは表情を引き攣らせた。

 つまりリデルが結婚するためには、その「父の言いつけ」よりも優先する何かが無ければいけないと言うことか。

 何というか、難儀なことだ。



「くっ……!」



 押し殺したように始まった笑い声は、次第に堪えきれなくなって大きくなった。

 ヤレアハは、本当に愉快そうに笑った。

 この2人のこれからが楽しみだと、心底から思ったのだった。



  ◆  ◆  ◆



 ヤレアハはしばらく笑っていたが、酒を飲んでいる内にそれも収まってきたようだ。

 どうやら相当に2人を気に入ったらしい、それ自体は歓迎すべきことだったが、リデルは笑われて気分が良くなるような性格をしていない。

 見るからに不機嫌そうになるリデルに、ヤレアハはまた笑い出しそうになってしまった。



「まぁ、良いさ。それで、これからどうする?」

「どうするって?」

「決まっているだろう、この国の行く末だ」



 ミノスと言う国の行く末。

 それはミノスの民がどう生きていくべきか、と言うことに等しい。

 しかし次に出たヤレアハの言葉に、リデルもアーサーも驚きを禁じ得なかった。



「何しろ、お前達はもうミノスの王なのだからな」



 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 アーサーとリデルがミノスの王、驚くほか無い。

 しかし思い返してみてほしい、ミノスの王はどうやって決まるのか。

 決闘の勝者こそが王、それがミノスの伝統であることに。



「い、いやいやいやいや! ミノスの王はヤレアハさんですよ! 僕達はちょっと、特殊でしたから」

「そ、そうよね。と言うか結婚しないし」

「それはもう良いんですよ……」

「そうか? ならまぁ、これからは代王とでも名乗ろうか」



 あっさり引き下がった――微妙に下がっていないが――ヤレアハに、2人はほっとした。

 アーサー等は、多くの嫁と子供を引き取るはめになる所だったのだ。



(まぁ、でも、結果オーライってやつなのかしら)



 いろいろな気持ちを押さえつけて、リデルは思った。

 問題が無いわけでは無いが、これでミノスとの修好は成ったわけだ。

 いや、考えようによっては同盟以上の、連合を結んだとも言えるだろう。

 後はそれをしっかりと確認し、今後の方針を共有することだ。



 もちろん問題はある、リデル達の領地は未だ旧市街だけで、フィリアリーン全土を取り戻したわけでは無い。

 フィリアリーンの土地には多くのソフィア人がいて、多くのフィリア人が迫害を受けている。

 だが旧市街には、迫害を逃れて多くのフィリア人が流れ込み始めていた。



(ここからね)



 ここから全てが変わる、アナテマ大陸の時代が変わるのだ。

 大公国と連合と言う2大国が争う時代が終わり、大公国・連合、そしてフィリアリーンとミノスの同盟勢力、3つの勢力が互いに牽制し合い、覇を競う時代になる。

 リデル達が大公国と連合のどちらと結ぶのか、それによって趨勢が決まるような情勢になるのだ。



(腕が鳴るわ)



 それは自分の仕事だ、リデルはそう思った。

 まずはこの国のことを知り、そして旧市街に交渉の成功を伝えに行こう。

 それで、情勢は動きはずだった。



 しかし、この時のリデルは知りようも無かった。

 旧市街や自分達の状況が動くように、他の国や勢力の状況も動くのだと言うことを。

 リデルの知りようも無い所で、アナテマ大陸の情勢が動いていたのだと言うことを。

 この時の彼女には、気付きようも無かった。



  ◆  ◆  ◆



 追う者と、追われる者。

 普通は前者が攻める側で、後者が守る側であるはずだ。

 しかし人智を超えた<魔女>となれば、撤退戦であっても攻守を逆転することが出来る。



「ええい、怯むな! 敵はたった1人ではないか!」



 その1人が問題なのだ、と言う言葉を飲み込んで、ラタは部下達を叱咤していた。

 彼女は今、ソフィア軍が布陣していた山から公都方面へ撤退を開始していると言う報を聞いて、これを追撃している所だった。

 追撃? いや、少し誇張し過ぎだったかもしれない。



 何故なら、彼女の率いてきた騎馬3000は、ソフィア軍が布陣していた山の麓で足止めを喰らっていたからだ。

 本来なら他の部隊も動かすべきなのだろうが、長期の滞陣による疲弊で――物資不足と士気低下、ラタに言わせればサボタージュ――ほとんど動かせない。

 やはり最終的には、頼りになるのは自国の兵だけなのだ。



「どうした! 勝利は目前なのだぞ!」



 だがその頼りになる自国の兵達も、<魔女>を前にすれば身動きが取れなくなってしまう。

 ましてそれが、これまでの戦闘で一騎当千の力を見せ付けてきた<魔女>ノエルを前にすれば。



「…………」



 ソフィア軍が布陣していた山はまさに天嶮で、しかもソフィア軍は山中の本陣への道を数本に絞り、他を潰していた。

 ラタ達が進出したのはそう言う道の1つで、道がどこにあるかは斥候を放って予め調べておいた。

 もちろん、放った斥候が生きて戻る確率は高くは無かった。



 そしてラタ達が進んだその道には、ノエルがいた。

 ラタ達がどの道を選ぶのか、読んでいたとしか思えなかった。

 しかしどうにも出来なかった、ソフィア人とフィリア人の特徴を共に持つ混血児ハーフの魔女の傍には、ラタの部下達がすでに数十人程、物言わぬ姿となって転がっていた。



(化け物め……!)



 口惜しさに、唇を噛んだ。

 ノエルは涼しげな顔でこちらを見下ろしている、言葉を交わしたことなど当然無いが、この期に及べば憎らしさばかりが募った。

 だが両側を切り立った崖に挟まれた山道では、数の多寡は重要では無い。

 それにしても、たった1人に押される3000の軍とは何と言う様だ。



「…………」



 何も言わず、<アリウスの石>由来の金属のブーツを履いた片足を上げる。

 たったそれだけのことで、ラタの軍は「ひいい」と悲鳴を上げて2歩も3歩も後退した。

 ラタがいくら怒鳴っても、けして前に出ようとはしなかった。

 山の中腹や山頂には、もうソフィア軍の旗すら見えなかった。



「……くっ」

「ラタ様!」



 馬の腹を蹴り、他の部下を押しのけて前に出た。

 時には指揮官自らが先頭を切らねばならない時がある、今がそれだと判断したのだ。



「……何!?」



 その時だ、ノエルが自分を見て小さく笑んだような気がした。

 そして、上げたままにしていた足を振り下ろした。

 赤い輝きと共に衝撃が走り、次いで轟音が鼓膜を打ち付けた。



 気が付けば、ラタは馬から落ちていた。



 落馬した痛みも、砕けた地面に足を挟まれいなないている馬の声で消えた。

 唖然とした。

 山が崩れ、道が消えていた。

 ノエルの一踏みで大地が砕け、山が崩れ、その全てを土砂の中に埋めていたのだ。

 もう少し先に進んでいれば、ラタ自身も無事ではすまなかったろう。



「ラタ様、お怪我は!?」

「いや、無い。損害を報告しろ」

「は、前衛の馬が2、30騎ほど土砂に埋まりました。敵の姿は見えませんが、馬で進むのは……」

「無理か」



 改めて、1人の人間の力で崩された山道を見る。

 人間業では無い。

 しかし破らなければならない敵だ、ラタはそう思った。



「追いきれなかったか……」



 このまま大公国の領土深くに攻め込むことは、おそらく不可能だろう。

 敵の侵攻を防いだと言う意味では、確かに勝利だ。

 だが、とても勝ったような気持ちにはなれない。

 ノエルが立っていた場所を見つめながら、ラタはそう思った。



  ◆  ◆  ◆



 侵攻し、攻め切れず、撤退する。

 人はそれを敗戦と言うのだろうが、それも撤退の仕方によるとイレアナは考えていた。



「ご苦労でした、同志ノエル。聖都の直属部隊さえ退けておけば、後の軍は追撃を断念するでしょう」

「一応、配下に警戒はさせています」

「そこは任せておきましょう。さて、問題は……」



 ソフィア軍の兵の移動方法は、大きく3つある。

 第1に、フィリア軍と同じように徒歩や馬等で移動すること。

 これは近隣の街に拠点を持つ部隊について言えることで、いくつかの部隊はすでにそのように指示していた。



 第2に、<アリウスの石>由来の自動化された移動手段を用いること。

 物資の補給などは主にこれで、兵員の大量輸送も可能だった。

 主力についてはこれで移動する、目指すは公都トリウィアだ。

 本来なら公都にまで兵力を持っていく必要は無いのだが、イレアナはそうする必要があると判断していた。



「兵の撤退と移動については心配いりません。ただ……」

「…………」



 イレアナ達は現在、本陣のあった山から10キロ程離れた位置にいた。

 連合の追撃は無く――イレアナの言う通り、殿しんがりのノエルによってその意思を挫かれている――撤退に関して、イレアナに不安は無かった。

 しかし、今のイレアナには確かな不安があった。



「1つは、公王陛下のこと」



 それは、急な撤退の主因だった。

 イレアナの視線の先、他の鉄馬車とは明らかに大きさも装飾も違う――<アリウスの石>を複数使った、16輪の馬車。まるで家だ――鉄馬車がある。

 公王のみが乗ることが許される御車で、今まさに公王が乗っている。



 ただし病床に伏している、それもかなり酷い。

 他の兵には伏せてあるが、正直な所、もう先は長くないだろうと思えた。

 陣営に留めておくのが危険な程で、本来なら第3の方法で公都の侍医達の下へ送り届けるべきだった。

 かつてリデルをクルジュから公都へと移動させた方法――イレアナの魔術によって。



「そしてもう1つは、公都のこと……」



 だが彼女は、それを躊躇していた。

 軍を解かずにいるのもそのためで、公王を公都に送らないのもそのためだった。

 公都との連絡が、完全に途絶えたと言う一点でもって。



「ま、<魔女>様ぁ――――ッ!」



 その時だった、撤退する兵達とは逆方向から駆けてくる者がいた。

 近くの街で部隊の受け入れを行っている兵士で、彼は泡を食ったような表情で2人の<魔女>に呼びかけていた。



「こ、公都より、布告がぁ――――ッ!!」



 風雲、急を告げる。

 アナテマ大陸の情勢は、暗雲の中にあった。



  ◆  ◆  ◆



 どうして、こんなことになっているんだ?

 フロイラインはガタガタと震えながら、シーツの中で自分自身を抱いていた。

 身体には何も身に着けていない、寒いはずなのに身体は熱く、汗が滲む程だった。



(わ、私は、何故……いつ? ここに)



 天蓋つきのベッドの中で、自分の居場所がわからないわけでは無い。

 だが、来た覚えが無い。

 ここの所、毎夜だった。

 毎夜のようにいつの間にかここを訪れて、そして今と同じ状態で気が付くのだ。



「ふふ、目が覚めたのかい?」



 ひっ、と息を詰まらせたのは、気のせいでは無いだろう。

 確かに彼女は怯えていた、すぐ傍に腰掛けた男の存在に怯えていた。

 ヴァリアスと言う名の<魔女>は、優しげな笑顔を浮かべながら彼女の前髪に触れていた。

 もう片方の手にはグラスを持っており、その中で薄い色合いの液体が揺れていた。



「ヴァ、ヴァリアス、様……」

「ああ、可哀想に、こんなに怯えて。怖い夢を見たんだね」



 優しい声音に、寒気が走った。

 怖気と言っても良い。

 そうしてガタガタと震える彼女の目の前で、ヴァリアスはグラスの中身を口に含んで見せた。

 そして、ゆっくりと顔を近付けてきて……。



「ヒッ、い、嫌……むぐっ」



 唇を、合わされた。

 肩を押さえつけられて動けず、腕を掴んだ手に引き攣るように力を込めた。

 細い足が、頼りなさげにバタバタと動いた。

 唸りとも取れる呻き、しばらくするとそれも消えた。



「ふふ、良い子だ」

「あ、は……」



 解放されたフロイラインの目は焦点が合っていない、呼吸もどこか不規則だった。

 唇の端からは、僅かだが涎のような物が見える。

 その唇は、パクパクと魚のように開閉を繰り返していた。



(あ、わ、わた、し、は?)



 前後不覚。

 今の彼女は、自分の状態も把握できずにいた。

 そんな彼女に、ヴァリアスは優しく言った。



「さぁ、明日のベルフラウ公女の予定を教えてくれるかな?」

「は、はい……」



 誰か。

 誰か、誰でも良い。



(私を、いや、私のことは良い)



 目尻から一筋の涙を零しながら、フロイラインは誰かに祈った。



(ベル様を、あの方を救ってくれ……!)



 自分の宝を、<魔女>の手から守って欲しいと――――。


最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。

どうにか8章も終わり、少し世界が変わったかなと思います。

この調子で、9章に行きたいと思います。

それでは、また次回。

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