8-6:「咆哮」
良し! と、それを見た瞬間、アレクセイはガッツポーズを決めた。
彼の目の前で、アーサーが対戦相手のミノス王を殴り倒したその瞬間だ。
「びっくりした、本当に上手くなんて!」
「ばっかやろ! 俺様の作戦に間違いなんかあるかよ!」
しーんと静まり返る決闘場で、アレクセイとイサーバの興奮した声だけが響く。
アーサーがやったことは単純だった。
むやみやたらと殴り合うのでは無く、一撃必殺の攻撃を敵の急所に打ち込む。
どれだけ鍛え上げようと、どれだけ強かろうと、人間は人間。
胸を打たれれば息を詰めるし、頭を打たれれば意識が飛ぶ。
アレクセイがアーサーに伝えたのはそれだった、旧市街の路地裏での生活が培った技術だった。
初めて行う決闘、どう頑張ってみてもアーサーが有利になるわけが無い。
ならばいっそ、奇策に――小手先の技に頼ってしまえと、アレクセイは言ったのだ。
「一晩殴られ役になった甲斐もあるってもんだ」
「おかげで身体中が痛いけどね。まぁ、死罪よりはマシだけど」
良く見れば、2人の顔や身体にはところどころ青痣が出来ていた。
それも額や首など、およそ人体の急所と呼ばれるポイントに近い位置にだ。
それを見ただけで、彼らがどんな練習をしてきたのか容易に想像できる。
「つーか、もう終わっちまったんじゃねぇか!?」
「いやぁ、流石にそれはどうかなぁ」
「何でだよ、あの王様伸びたまま起き上がってこねぇじゃねぇか!」
「うーん。そう思いたいんだけど、王様がこんなあっけなくやられるわけが無いよ」
事実、ヤレアハはうつ伏せに倒れたまま動かずにいる。
いや、動けずにいるに違いない。
そう言うアレクセイの期待に、しかしイサーバは同調しなかった。
「王様はね、ボク達の中で一番強いんだ」
「わかってるって。ここの王様は腕っぷしで決まるんだろ」
「うん、だから」
どこか歯切れが悪い、イサーバも上手く言葉に出来ない様子だった。
何か言葉に出来ないものを言葉にしようとする時、人は上手く言葉を紡げなくなる。
今のイサーバの状態が、まさにそれだった。
アレクセイは敏感にそれを感じ取った、だから柵に両手を当てて決闘場を睨むように見た。
「王様は、強いんだよ――――本当に」
そんなイサーバの、ほとんど信仰とも呼べる言葉は事実を突いていた。
何故ならば、アーサーが見事に急所を打たれて意識を飛ばしたはずのヤレアハ、彼が。
彼が倒れたまま、不気味な笑い声を発していたからだ。
「ちっ、マジかよ」
口惜しそうに舌打ちして、アレクセイは柵を握る手に力を込めた。
◆ ◆ ◆
手応えはあった、が、決定打では無かった。
攻撃した側、つまりアーサーにはそれが良くわかった。
(外されましたね……)
人体の急所を狙った一撃必殺、口で言うのは簡単だが、やるとなると難易度の高さに気付く。
人間の身体はどこも脆いように見えて、実は本当に脆い部分は少ないのだ。
だから急所狙いの攻撃をするには、針の穴を通すような精密な一撃が必要だ。
アーサーはそれをイサーバとアレクセイとの練習の中で行い、唯一、こめかみ対する攻撃だけはどうにかそれが出来るようになった。
しかし今、ヤレアハは何事も無かったかのようにゆっくりと立ち上がってきている!
彼はアーサーの一撃がこめかみを打つ直前、わずかに身体を動かした。
つまり、アーサーの攻撃は彼の急所からわずかにズレていたのである。
それがヤレアハの意識を繋ぎ止め、かつダメージを最小限に留めたのだった。
「んん、いつ以来かな」
声はしっかりとしている、汗一つかいていない。
そんな対戦相手の様子を目の当たりにして、アーサーは身構えた。
村人の姦しい歓声も耳に届かない、それぐらい緊張していた。
しかしヤレアハは、そんな「固さ」を前にしても態度を変えることが無かった。
「なかなか、良いパンチだった」
「それは、どうも」
「ああ、なかなかどうして。ああいうパンチは、本当に久しぶりに喰らったよ」
雰囲気が、違う。
これまでのヤレアハは、酒と女を愛する粗野で豪放な男だった。
だが今は別の顔が出て来ているようにアーサーには思えた、そう思える程にヤレアハの雰囲気の変化は急速で、そして顕著だった。
「正直ナメていた。謝罪しよう、お前は良いパンチを持っている」
「いやぁ、たまたまですよ。練習していたことが上手くいっただけです」
「違うな。確かに急所への攻撃は練習とやらの成果かもしれん。だが懐に飛び込んで来たあの動きは、これまでのお前の人生を俺に教えてくれる」
どれだけ技術があっても、それだけではどうしようも無いものがある。
それをどう言葉で表せば良いのか、ぱっと思いつくものでは無いが。
人によっては、それを「勇気」と呼ぶのかもしれなかった。
「十分だ」
どこか胸を打つような声音で、ヤレアハが言った。
「お前のことはわかった。十分だ」
ゆっくりとヤレアハが構えをとったので、対応するように拳を挙げた。
いずれにせよ他に作戦は無いのだ、成功するまで繰り返すほか無い。
触れてみてわかったが、ヤレアハの身体は見た目よりも硬く鍛え上げられていた。
急所を打ち抜き、意識を飛ばすしか無い。
「だから今度は……」
幸い、ヤレアハの動きはそこまで素早くない。
言うなれば重量系だ、一撃は重いがスピードが殺されている。
自分は逆だ、さっきのように攻撃を回避してチャンスを窺うのだ。
そう思い、アーサーは拳を挙げて戦闘態勢を取り、そして。
「今度は、俺の人生を知ってくれ」
そして、顔面に強烈な一撃を受けた。
――――あれ?
◆ ◆ ◆
拳で人生を知る、と言うのは良くわからない感覚だ。
しかし攻撃を受けた、これは事実だ。
だからアーサーは対処した、ヤレアハの拳が顔に触れる直前に後ろに跳ぶと言う方法で。
「……ッ!」
逃れきれず、鼻先に拳を喰らう。
痛み。
実は攻撃を受ける経験の少ないアーサーは、その痛みに歯を噛み締める。
普段なら魔術でいなすところだ。
「やるじゃないか」
それでも流石に戦い慣れている、後ろに跳ばなければ意識を保てたかどうか。
それ程に重い、重そうな一撃だった。
跳んだ勢いのまま着地し、さらにそのまま左へ小さく跳んだ。
ステップだ。
ヤレアハが巨体を縮めるようにして追って来る、両の拳を身体の前で立てていた。
追いつけば、即座に攻撃に入ることを隠していない。
痛みをとりあえず忘れ、アーサーが取った行動は「継続」だった。
すなわち、ステップを刻み続けることだ。
「シッ!」
「おっと」
ヤレアハが真っ直ぐ来る、アーサーは横へ跳ぶ。
これを続けた。
そして攻撃のために身を沈める――それが攻撃の前兆姿勢であるようだった――ヤレアハからステップで離れる瞬間に、アーサーは手を出していた。
パンッ、と乾いた音が響く。
これは相手の顔にアーサーの拳が当たった音だ、それが突進と回避の度に繰り返し響く。
攻撃の出鼻を挫く、アーサーが採っているのはそう言う作戦だった。
相手の攻撃を当てさせず、軽いがしつこく攻撃を積み重ねていく。
(とは言え、僕が狙えるポイントは1点!)
こめかみを狙う一撃、アーサーにはその手しかない。
だからその手を狙える一瞬が訪れるまで、この作業を続けなければならない。
時計回りに決闘場をステップで回り、ヤレアハの攻撃を封殺しながらちまちまとした攻撃を当てる。
狙いは顔の右側、と言うか時計回りに回避している限りはそこ以外に狙い目が無い。
(って、うわっ!?)
突然、ヤレアハが右拳を放ってきた。
ステップとステップの間に強引に入れてきた攻撃だが、頬のすぐ横を掠めた。
風切り音だけで、その一撃の重さがわかる。
「~~~~ッ!」
あんな一撃をまともに喰らったら、そう思いぞっとした。
何とかして、チャンスを窺わなければ。
そして窺うだけでは無く、そのチャンスをモノにすることが、今のアーサーには必要なのだった。
◆ ◆ ◆
村人達の歓声が、ヤレアハの拳が相手を掠める度に大きくなっていく。
そんな中にあってアーサーの勝利を願う2人、アレクセイとイサーバは、実にハラハラとした表情で決闘の様子を見守っていた。
もはや事ここに至っては、2人には他に出来ることが無かった。
「意外と頑張ってる、と、思う」
「ああ、でもそれだけじゃあな。あの王様、適当に突っ込んでるように見えて隙がねぇ」
「王様は頑丈だから、あんな軽いパンチを1発2発当てたぐらいじゃ止まらないよ」
「逆にアーサーは打たれ弱いから、1発でも貰ったらそこでアウトだもんな」
彼らの目の前では今まさに、2人の男の決闘が進められている。
まだ5分も経過していないはずだが、おそらく実際に戦っている2人の体感時間はその何倍もの物であったろう。
ステップと軽い攻撃を素早く出し続けるアーサーと、それを突進で追いながら時折重い一撃を繰り出すヤレアハ。
この決闘は明らかに勝負がついたと判断されるまで――要するに、相手を完全に打ち倒すまで――続くから、まだしばらくは継続されるはずだった。
しかし一方で、気を抜いた一瞬で全てが終わってしまう危うさも内包していた。
そして、それはおそらく事実だった。
「ああ~、勝ってほしいなぁ。でも王様が負けるところって、全然想像できないからなぁ」
「馬鹿言え、どんなに強ぇ奴でも負ける時は負けるさ」
ソフィア人から旧市街を取り戻したフィリア人のように、と言う言葉を彼は飲み込んだ。
それを口にするのは憚られたし、何より早過ぎるような気がしたからだ。
(……らしくないよな)
それは、珍しく腕力での勝負に挑戦しているアーサーに言っているのか。
確かに普段の温厚な彼からすれば、半ば強制されたからと言ってこんな決闘に応じるとは思えない。
しかも、女を――国もかかっているかもしれないが――賭けて、である。
「らしくない真似をするようになったよな、アーサー」
ほんの数年前、旧市街に逼塞していた頃のアーサーなら彼は手を貸さなかった。
国のためだの何だの言われても、やはり同じだったろう。
しかし、女のため。
民として手を貸すなんて真っ平だが、女のためと言うなら、男として手を貸そう。
リデル加入後の彼は、概ねそう言う考えでアーサー達に協力していた。
「捕まった!」
その時、イサーバが悲鳴を上げた。
見ればヤレアハがアーサーのステップのタイミングに合わせて突進し、拳を振り上げている所だった。
奇妙なことにアーサーも身を斜めにして迎撃の体勢を取っていた、それを見て気付いた。
「――――馬鹿野郎! 周りが見えてねぇのか!?」
アレクセイの叫びは、村人達のどよめきの中に消えていった。
◆ ◆ ◆
少しずつ、追い詰められている。
ステップを踏みながらアーサーはそう思いつつあった、時折挟み込むように放たれてくる攻撃がそう思わせていたのだ。
だから彼は思った、強引にでも一撃を当てなければやられてしまう。
「……ッ!」
また一撃、髪を散らすような強烈な拳が頬を掠める。
だが段々とタイミングを掴めて来た、相手が自分のステップのタイミングを狙っていることもあるのかもしれない。
逆に言えば、さらにそのタイミングに合わせればチャンスを作れるはずだ。
重量級のプレッシャー、それがアーサーに決断をさせた。
まずステップ、当然、ヤレアハはそれに合わせて拳を上げてくる。
次に着地する、ヤレアハが踏み込んでくる。
アーサーの眼にはそれが確かに見えた、この時点で彼は身を斜めに引いた。
(タイミングを……!)
合わせて、と言う所で異変が起こった。
身を引いた瞬間、何かにぶつかって動けなくなったからだ。
思わず視線を向けると、そこには柵があった。
決闘場の柵だ、そんな当たり前のことに気付くのに数秒かかった。
「あ……!」
その数秒が、命取りだった。
気付けばヤレアハの拳が目前に迫っていて、それは両手を盾のように上げてガードした。
腕の骨が軋む、強烈な一撃だった。
だがそれで終わらなかった、パンチの反動を利用して逆方向からさらに。
「がはぁっ!?」
腹、拳が突き刺さった。
腹筋と脇腹の中間のあたりにヤレアハの豪腕が直撃し、胃の中身どころか体液も吐き出しそうな程の衝撃を受けた。
膝が折れ、堪らず崩れ落ち――る所で、最後にトドメの一撃が入った。
頬骨が砕ける、そんな音を耳にしながら。
「…………ッ」
アーサーは、地面に倒れた。
村人達の歓声が上がり、ヤレアハは両手を掲げて勝ち誇っていた。
それを視界の隅に収めてなお、アーサーは立つことが出来なかった。
頭が痛み視界が歪む、腹が痙攣し内臓が悲鳴を上げる。
一言で言えば、口先の土の味を感じ取れない程に、気を失いかけていた。
ヤレアハが何かを言っているが、それも良く聞こえなかった。
「……ぅ……ぐ……」
目がチカチカする、あまりの気分の悪さにそのまま目を閉じてしまいそうだ。
そうすれば、きっと楽になるだろう。
この痛みも苦しみも、目を閉じてしまえば消えてしまうだろう。
ああ、そうしようか。
この時、アーサーの頭には「何故、こうなったのか」の部分が完全に抜け落ちていた。
それ程の衝撃、それ程のダメージだった。
誰が責めるでも無い。
ああ、もう本当に目を閉じてしまおうか――――。
「ちょっと!」
いや、1人いたか。
誰だろう、こんな自分を責める不届きな娘は。
「ちょっと、何あんな奴にやられてんのよ!」
誰だ。
「アーサーッ!!」
――――リデル?
◆ ◆ ◆
自分の声で頭痛が倍増して、その場に蹲った。
アーサーが倒れているのを見て反射的に叫んだのは良いものの、頭の中で自分の声が響いて耐えられ無かったのだ。
「い、いったぁ……」
しかも村人達の歓声がワンワン響いて、ますます顔色が青白くなっていく。
「うわっ、何だこの大蛇は!?」
「この鳥小せぇなぁ、初めて見るぜ」
「こっちの小さい動物は何だ? って、うお!? 噛んできやがった!?」
ちなみに、柵まではリデルノ動物達が道を作ってくれた。
「リ、リデル……さん?」
真っ青な顔で蹲っているリデルを見て、アーサーは身を起こした。
受けたダメージが消えたわけでは無い、が、リデルの姿に自然とそうした。
「ああ、勝手に出てきたのか」
「……彼女に、何を、したんですか?」
「何をしたとは人聞きが悪いな、夫が妻にする当然のことをしたまでだ」
「何、ですか? それは」
頭が上手く回らない中、柵に身を預けるようにしながら立ち上がる。
ぎし、と音を立てる柵、未だチカチカする視界の中でヤレアハが「うーむ」と腕を組んで笑みを浮かべていた。
その笑みはどこか、上品とは程遠いもののように見えた。
「共に一夜を過ごしただけだ」
夫と妻、一夜、どちらも不穏すぎる言葉だった。
柵ごしにリデルを見る、気持ち悪そうに口元を押さえていた。
顔色はまさに真っ青で、自分の力で立ち上がるのも難しそうだ。
様子がおかしいと言えば、確かにその通りだった。
そして前を見れば、どこかニヤついた様子のヤレアハの姿がある。
女にだらしなさそうな姿を何度か目にした、そう言う評判も聞いている。
嫌な予感しかしない、そんな彼にヤレアハはさらに言った。
「まぁ、随分と……そう」
「何、ですか?」
「うん、そうだな。そう」
ニヤリと笑って、言った。
「随分と――――可愛い声で泣いてくれていたな」
ざわ、と肌が粟立つのを感じた。
脳の奥が疼き、不思議と痛みが引いていった。
足の震えも幾分か収まり、拳に力が宿った。
「ち、ちょっと、何言って……うぅ」
柵から背を離す、己の2本の足で立つ、そして拳を身体の前で上げた。
戦いの姿勢。
アーサーは今、初めて自分の意思でこの決闘を戦う意思を示した。
その姿を見て、ヤレアハはまたニヤリと笑みを見せ、そして手招きするように掌を揺らすのだった。
◆ ◆ ◆
あえて、避けなかった。
ヤレアハは叫び――まさに、猛りと呼ぶに相応しい――と共に放たれた拳を、あえてそのまま顔で受けた。
拳と頬の骨がぶつかり合い、不気味な音が身体の内外で響いた。
「お、お」
重い。
これまでの軽い攻撃とは違う、ずしりと身体に圧し掛かって来るかのような一撃だ。
言っておくが、アーサーの力は最初と何も変わっていない。
変わったとすればそれは腕力や体力では無く、攻撃に乗せる「意思」の重さだ。
「――フンッ!」
踏み止まり、その場で殴り返した。
今度は立場を変えて、しかし同じく互いの拳と頬の骨を衝突させる。
これまでと違い本気で殴った、手応えあり、相手がたたらを踏んで後ろに下がるのを見た。
ニヤリと笑んだ次の瞬間、その身に拳が突き刺さった。
はっきり言って、腕力では相手に分があった。
だがそれでも今、彼はヤレアハの腹筋を貫く一撃を放ち、続けざまに相手の身に拳を叩き込み続けた。
これまでと違い、足を止めて、だ。
(戦わなければならない)
その想いだけが、頭と胸の中を激しく駆け回っていた。
身体の方は酷く冷たく感じるのに、不思議とその気持ちだけが強かった。
気持ちだけで動いていた、それはもはや義務感に近かった。
(彼女の名誉のためにも、戦わなくてはならない……!)
自分のことは良かった、どんな仕打ちを受けようとも耐えることが出来た。
だがそれだけは、それだけは我慢できなかった。
我慢してはならないことだった。
そしてこの勝負、負けるわけには行かなくなった。
負けてしまえば、それは相手の行為を認めてしまうことになる。
「は……ははっ、ははははははっ!」
打たれながら、殴られながら、ヤレアハは笑った。
額を切り、口の端から赤いものを散らしながらも、笑っていた。
とても愉快そうに笑って、そして猛然とアーサーに襲い掛かってきた。
アーサーも足を止めて受けて立った、最初のようにステップを踏むような余力はもう無かった。
相手の顔を打つ、次の瞬間には打ち返される、歯の根が揺れるような衝撃を何度も受けた。
腹を殴られる、胃の中身が逆流しそうなのを堪えて、やはり打ち返した。
殴り、打たれ、鈍い音を聞き、赤いものを飛び散らせて、拳を痛めた。
視界が揺れる、膝が笑う、身体の節々に痣が出来、内側で出血が始める。
互いにそうなっても、アーサーもヤレアハも手を止めなかった。
「……!」
「――――!」
もはや、歓声すら上がらなくなった。
誰もが固唾を呑んで状況を見守る中、ついに均衡が崩れた。
ヤレアハの拳を頬に受けて、アーサーの片膝が崩れかけたのだ。
「ぐ……!」
続けざまに一撃、顎を打ち上げられた。
たたらを踏んで下がる、一瞬、意識が途絶えた。
すぐに意識が回復したのは、皮肉なことに追撃で鼻に打ち込まれたヤレアハの拳だった。
だが、それは致命的の一撃でもあった。
鼻骨が嫌な音を立てて、流血が一層酷くなった。
ぐらり、と、そのまま身体が後ろへと傾いた。
足を一歩後ろへ、頭ではわかっているのにそれが出来ずにいた。
(だ、ダメですか……)
やはり、ダメなのか。
人には得て不得手があるとしても、この決闘だけは負けたくは無かった。
しかしどうにも出来ない、全ての景色が、ゆっくりと流れていく。
気持ちだけでは勝てない、肉体的な勝負では明らかに勝敗は決しているのだ。
持って生まれた肉体的な強さは、どうしようも無い。
どうすることも、出来ないのだ。
――――諦めかけた、その時だった。
◆ ◆ ◆
体調のせいもあって、状況を把握するには至らない。
だからそれは反射の行動だった、それが決闘のルール上どう言った意味を持つのかもわからなかった。
「アーサーッ!」
柵の方に倒れこんできたアーサー、その背中を押したのだ。
アーサーは確かに自分の背中に当てられた小さな手を感じた、それが自分を押すのもわかった。
それはもしかしたら、倒れる方向が後ろから前へと変わっただけだったのかもしれない。
それでも、アーサーは動かなかった足を前に踏み出して身体を支えることが出来た。
落ちかけた腕を上げ、拳を握る力を得ることが出来た。
視界に映る全ての光景が、非常にゆっくりに感じられた。
だがその中で、アーサーは自分がすべきことを理解していた。
「負けるなぁ――――っ!!」
歯を食いしばり、握り締めた拳を振り抜く。
それは攻撃直後のヤレアハを狙ったもので、普通なら今一歩届くことが無かったろう。
だが追い討ちをするつもりだったのだろうか、ヤレアハはその一歩を自ら埋めてしまった。
少女に押された青年が一歩を詰め、そして王がさらに一歩を詰めた。
「うあぁッ!!」
故に、その一撃は届いた。
アーサーの攻撃の勢いに加えてヤレアハ自身の身体に勢いまで加えられたそれは、カウンターとして彼の脳髄を打ち抜いた。
衝撃は脳を揺らし、擦れ違うように両者の身体は交錯した。
時間が一瞬止まるとしたら、それはこの瞬間だったろう。
だが時間は止まらない、流れ続ける。
自らの勢いに振り回されるようにアーサーはさらに2歩進んだ、進んだ所で踏み止まった。
一方でヤレアハも2歩を進んだ、柵を隔てて一瞬、リデルと視線が合った。
ニヤリ、笑みが浮かぶ。
「あ」
リデルの唇から、小さな声が漏れる。
彼女の目の前でヤレアハの大きな身体が揺れ、新たな支えを得ることなく、その場に沈んだ。
倒れたのだ。
「…………」
見下ろすアーサーは一瞬、目の前でヤレアハが倒れたと言う事実を理解できなかった。
理解した瞬間、彼は胸の内から何かが溢れ出ようとするのを抑え切れなくなった。
それは普段の彼が感じることの無い、野蛮で、そして原始的なものだった。
だが、それを上手く表現する術を彼は知らなかった。
「――――ッ!!」
だから彼は、叫びを上げた。
勝ち鬨とも雄叫びとも異なる、野蛮で原始的な叫び。
狂おしいまでの咆哮は獣のようで、それは村中に響き渡ったのだった。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
今回は珍しく、決闘というものを描いてみました。
部族の決闘と言うと、こういう肉体的なイメージがあります。
さて、次回で8章も終了となります。
残りもまだいくつかありますが、そろそろ終わりを意識して描いていきたいと思います。
それでは、また次回。




