表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
75/108

8-5:「決闘の朝」

 フロイライン・ローズラインは、絶望感に心を蝕まれていた。

 どうしてこんなことに。

 毎日、毎時間、その言葉だけを胸の内で繰り返していた。



「ベル様、お茶のお時間です」



 公都トリウィアの宮殿、公女の部屋の前に彼女はいた。

 庭園に面したガラス張りの通路には相も変わらず人の姿は無い、だが以前であれば、抜け出そうとする者とそれを追いかける者の声が騒がしくも微笑ましく聞こえてきたはずだ。

 しかし今、通路に響くのは虚しいノックの音だけだった。



「ベル様……」



 押してきたカートの上には、お茶とお茶菓子が乗せられている。

 香り豊かな紅茶、砂糖の瓶、クリームたっぷりのケーキ、甘いクッキー。

 どれもこれも、ベルフラウの好きなものばかりだ。

 以前であれば、フロイラインが用意せずともあれこれと我侭を言って用意させただろう。

 フロイラインは、それに頭を悩まされていたものだ。



 だが今、フロイラインは我侭を言われる前にそれらを用意していた。

 そしてベルフラウの部屋の前まで来て、お茶の用意が出来たことを告げる。

 中からの返答は、無い。

 部屋を抜け出したのか? いや、気配はする。

 フロイラインにはわかる、ベルフラウは確かに室内にいる。



「…………」



 なのに、返事が返って来ない。

 ベルフラウの声が聞こえない、自分の声がベルフラウに届いていない。

 溜息を吐いて、今日も少しも中身が減っていないカートを押してその場を離れる。

 心なし、足取りは重い。



 どうして、こんなことに。



 胸中の問いは何度目になっただろう。

 あまりにも苦しくて、食もまともに喉を通らなくなってすでに幾日が経ったろう。

 自分は何故、あんな選択をしてしまったのだろう。

 後悔に追いつかれた心は、肉体の歩みをどんどん鈍らせていく。



「やぁ、フロイラインじゃないか」

「あ……」



 ぴたりと、フロイラインは足を止めた。

 さぁ、と顔が青ざめ、震えながら顔を上げる。

 するとそこに、金髪紫眼の青年が立っていた。

 人の良さそうな笑みを浮かべて、ヴァリアスはフロイラインの肩を叩いた。



「今日も公女殿下は閉じこもっておられるのかな?」



 ちらとカートを見て、クッキーの1枚を手に取る。

 それはベルのために用意した物なのに、彼は断りも無くそれを口に入れた。



「あ、あの、今日は」

「そんなに怖がらなくて良い、僕に任せて」

「あ、う」



 にこりと目の前で微笑まれて、何も言えなくなってしまう。

 止めなくてはいけないのに、止めるべきなのに、ヴァリアスがベルの部屋へ向かうのを止められない。

 目尻から零れ落ちる物を止めることが出来ずに、フロイラインはその場に崩れ落ちた。



「……どうして、こんなことに……」



 女の嗚咽だけが、宮殿の中に響いていた。



  ◆  ◆  ◆



 帷幕の外に出ると、風は冷たく空気は乾いていた。

 すでに滞陣して幾日が過ぎただろうかと、そっと横髪を指先で撫でる。



「同志ノエル。前線の様子はどうでしたか」

「……特に報告するようなことは無い」

「そうですか、それは重畳」



 ほぅ、と息を吐く。

 その姿はとても「重畳」と言った風では無かったが、ノエルが言ったことも間違ってはいない。

 戦線は膠着しているが決定的な敗戦をしたわけでは無く、むしろ敵陣にいくつかの綻びを見出し、今少しの時間をかければ突破できるとさえ思えていた。



 あの十数万の敵陣さえ突破してしまえば、後は無防備な聖都が残るのみだ。

 しかし全軍を預かるイレアナは、その最終攻勢に踏み切る決断が出来ずにいた。

 彼女にその決断をさせずにいる原因は、大きく2つある。



「同志イレアナ、陛下のご様子は」

「お変わりありませんよ」



 兵の目もある、直接的な言葉は避けた。

 だがノエルにはその返答で十分だったようで、彼女はイレアナが出てきた帷幕――公国側の陣営で最も大きく、豪奢な――を見上げた。

 帷幕の頂きに公王家の紋章を描いた大きな旗が見えるが、こんな風の中にあってもはためくことなく垂れていた。



 公王が、病に伏せた。

 ただでさえ老齢、その上で不自由な戦地、体調を崩すのも無理は無い。

 しかしそれは無理も無いと理解するだけであって、イレアナの立場からすれば重荷でしかなかった。

 公王が復調するか後方に退くかしない限り、彼女は前進を命じることは出来ない。

 まぁ、それはいずれ時が解決してくれるだろう。



「それよりも気になることがあるとすれば……」



 今一つは、時が解決してくれない問題。



「ここ数日、公都との連絡が途切れがちです」

「敵の計略の可能性は?」

「無いとは言えませんが、考慮する必要は無いでしょう。3本の連絡線全てが寸断するとは思えませんし、途切れることはあっても切れてもいないのがその証明です」



 戦争をする上で、後方との間に連絡・補給のラインを作らない指揮官はいない。

 特に公都との間で連絡を取ることは重要だ、実質的に政務を取り仕切るイレアナにしてみれば余計に。



「水や食糧、武器については周辺地域で確保できますが……<アリウスの石>に関してはそうもいきません」



 魔術師の命とも言える物資、<アリウスの石>。

 あまり認識されないがこれもまた立派な消耗品だ、戦争ともなれば湯水の如く消費されていく。

 だから後方から継続的に補充されなければならないのだが、そのためには蜜に連絡を取り合う必要がある。

 その連絡が途切れがちと言うのは、攻勢を決断する上で考慮しなければならない問題だった。



「全くもって、頭が痛い」



 それでも、イレアナのもとにはノエルがいる。

 彼女にとってこれは大きい、同格の<魔女>が1人いるのといないのとでは物理的にも精神的にも余裕の幅が違う。

 実際、ノエルは1人で千人の敵兵を打ち倒せるだろう。

 対して、敵将はどうなのだろうか。



 イレアナと同じように、戦場以外の理由で頭を悩ませているのか。

 悩みを共有できる誰かと共にいるのか。

 はたまた、ただただ反撃することのみを考えているのか。



「あの方ならこんな状況、何でも無かったでしょう。あの方の娘なら、どうしたでしょうね……」

「…………」



 見つめる先には敵の砦があり、地平線の彼方には敵の本拠がある。

 イレアナ達が制するべきは、それら全てだった。



  ◆  ◆  ◆



 兵の間に、弛緩が見える。

 戦と言う緊張状態に慣れ、徐々に気が緩み始めたのだ。

 ラタは砦の中を駆け回りながら兵の引き締めを図っていたが、連合軍の士気を維持するのは並大抵のことでは無かった。



「戦況は予断を許さない。各城楼の当番は油断することなく、任務に専心すること! いな!」

「「「はーっ!」」」



 砦はまた一段と広大に、そして頑強な物になりつつあった。

 大公国との戦に備え三夜で築いた城は、元々は木材主体の仮初の城であった。

 しかし開戦から日が過ぎると後方から石材が運ばれてきて、砦の拡張が始まった。

 木の内側に石を積み上げ、周囲の土地の整地を続け、日を追うごとに規模を増していく砦。



 兵もどんどん送り込まれてきて、今や十数万にまで膨れ上がっていた。

 敵の10倍以上の兵力であり、この兵力差によって連合軍は戦線を維持していた。

 それでも優勢とは言えず、だからこそ陣内の緩みを見過ごすことは出来ない。

 だからこうして砦の中を回り、兵達を叱咤して緊張感を維持するように努めているのだ。



「とは言え、現実には見張りの兵達を鼓舞するだけでも一苦労だ」



 砦には十の城楼――見張り台のことだ――があり、この「見張り」と言う行為一つをとっても兵のやる気を維持するのは大変だった。

 例えば夜には夜襲を避けるための篝火も大量に焚かねばならないし、そのための薪や燃料は昼間の内に用意しておかねばならない。

 どれも単調な作業の連続で、ともすればおざなりになってしまいがちな任務だ。



(おまけに移動の不便さと来たら!)



 砦の中だと言うのに、馬に乗って移動しなければならない。

 つまり馬の無い兵士は持ち場以外の場所に移動できないと言うことだ、それがまた兵の気を沈ませる。

 加えて彼らは徴発された農民であって、大公国と魔術師に対する恐怖心が心の奥底にある。

 いざ戦いとなると二の足を踏む者が多く、いかにファルグリンの作戦が凄かろうと、その効果を十分に発揮させることが出来ない。



「本陣へ戻る」



 部下達にそう言って、ラタは馬を走らせた。

 兵達の姿を視界の隅に捉えながら、戦の行く末に思いを巡らせる。

 戦の帰趨、十数万の軍を維持する食糧、故郷の異なる兵達の確執、そして全軍を統括するファルグリンのこと。



「シュトリア卿は、いったい何をお考えなのか……」



 一介の参謀に過ぎないラタに出来るのは、こうして砦を見回って一部の兵を鼓舞することぐらいだ。

 そしてファルグリンは全ての自分で決める、作戦は水も漏らさぬ精緻な物で異の唱えようも無いが、司令官の意見を追認するだけの参謀達の間には不満が高まり始めていた。

 だがそれ以上に、ラタは心配だった。



 ファルグリンの部屋からは深夜になっても灯りが消えることが無く、また彼女はこの戦に関わる案件は細かな所まで自分で決済するので、部屋の前には案件を抱えた文官達が常に長蛇の列を成していた。

 おまけに聖都の政務まで運ばれてくるのだから、一睡も出来ずにいるのでは無いのか。

 部下として弟子として、自分に出来ることは無いのか。



(……こう言う時、あの娘なら何と声をかけただろう)



 切なさの混じった苦々しさと共に、ラタはそう思った。

 馬を打つ鞭が、虚しく空を切った。



  ◆  ◆  ◆



「聖女フィリアよ、どうか皆をお守り下さい。前線の兵達が、無事に家族の下へ帰れるように……」



 前線から遠く離れた聖都エリア・メシアの大聖堂で、1人の白い少女が熱心に祈りを捧げていた。

 祈りを捧げる対象は、巨木に寄りかかる美女を描いた壁画だ。

 円天井の下、聖堂の長椅子には多くの人が腰掛け、少女――教皇と同じように静かに祈っている。

 皆、前線に夫や息子を送り出した、兵達の家族だった。



(わたしには、何もできない)



 ひとり壁画の前に跪き、信者達の祈りを――静かながらも必死の、夫や息子の無事を心から祈る家族の――背中に感じながら、教皇は思う。

 自分は、何と無力なのだろうかと。

 戦争を止めることも、出兵を思い止まらせることも、大公国に和平を呼びかけることも出来なかった。



 だがこうして、祈ることは出来る。

 教皇が前線の兵の無事を祈願する、それは彼女にしか出来ない正当な仕事のように思えた。

 誰にも邪魔をすることの出来ない、神聖な儀式のように思えたのだ。



(でもわたしがこうして祈ることで、少しでも皆の心が救われるのなら)



 きっと、それには意味がある。

 これには、意味がある。

 何も出来ないけれど、それでも無意味では無いはずだ。



『アンタさ、やりたいことは無いの?』



 教皇は、皆が安らかであれば良いと思っていた。

 飢えも苦しみも無い、平和で、誰もが穏やかに過ごせる場所が欲しいと願っていた。

 だが彼女には力が無い、お飾りの教皇……。



(これが、わたしのやりたいこと)



 教皇が、神に最も近い存在が自分の家族の無事を祈ってくれている。

 彼女の行為によって心を救われている人々が、確かに存在しているのだ。

 ならば自分は、その人々のために祈り続ける存在であろう。



「聖女フィリアよ……」



 そしてもし。



「どうか、皆をお守り下さい……」



 そしてもし、本当にこの壁画の女性が<聖女>であるのなら。

 弱き者を守り、古の英雄と共に悪と戦ったと言う伝説に謳われる存在であるのなら。

 聖樹教の聖典にあるように天に昇り、女神となったのなら。



 皆を守ってほしい、そう思った。



 自分は生まれてからずっと、貴女に祈りを捧げてきた。

 ならば、一つくらい願いを聞いてくれても良いはずだ。

 心の底から、そう想った。



「……お願い……」



 そうして、彼女はただただ祈り続けた。

 幾夜が過ぎようと、どれだけの時間が経とうと、何度でも、何度も。

 それだけが、彼女に出来る全てであったから。



  ◆  ◆  ◆



「ん……んぁっ」



 ごつん、と何かに頭をぶつけて、リデルは目を覚ました。

 どうやら随分と深く眠っていたらしく、目の前でぼんやりと映る白い塊が空の瓶だと気付くことにすら数秒の時間を要した。

 目を擦り、欠伸を噛み殺しながら身を起こすと――痛んだ。



 頭が、えげつない程に痛い。

 ハンマーで頭蓋骨を殴られているかのような痛みに、思わず呻いてしまった。

 何なんだと思いつつも、身体の重みが減っていることに気付いた。

 何枚も重ね着していた衣服が随分と減っている、それでも以前の服に比べると重く厚い毛織物であることには違いが無いが。



「私、脱いだっけ……? いた、いたたた……」



 良く見てみれば、蛇と鳥、リスの3匹も床の上で伸びていた。

 これは珍しいことで、リデルは不思議に思った。

 しかし頭痛が余りにも酷いので、それ以上深くは考えられなかった。



 いや、そもそも昨夜は何をしていたのだったか?

 記憶力の良いリデルにしては珍しく、昨夜の記憶が余り無い。

 確かヤレアハが訪れて来たはずだが、何を話したかは思い出せなかった。



(何だっけ、何かいろいろ話をしたような。そうでも無いような)



 目を閉じて思い出すようにしてみれば、なるほど断片的に思い出せることもある。

 しかし頭痛が酷い、深く思い出そうとするとズキズキと痛んで思考の邪魔をするのだ。

 最終的に、考えること自体を諦める他無かった。

 中身のわからない空の瓶を苛立たしげに押しのけて、その場に立ち上がった。



「うぅ、何これ頭痛い……って」



 もう一つ気付いた、あの老婆がいない。

 昨日までは確かに部屋の中にいて、リデルの一挙手一投速を監視――あれを監視と言って良いのかは微妙な所だが――していたはずだが、いなくなっていた。

 どこへ行ったのか、と言うのは考えられなかった。



「ほら皆、起きて頂戴。今のうちに行くわよ」



 頭を抑えつつ、閉じ込められていた家から外へ出る。

 扉代わりの分厚い布をめくり上げると、かっと輝く太陽の光に目を細めた。

 眩しい、随分と日が高い時間まで眠りこけていたらしい。



 ふらふらと階段を下りながら、慎重にあたりの様子を窺う。

 だがそれは杞憂きゆうだった、何しろ村に誰の姿も無かったからだ。

 皆、どこへ行ったのだろうか。

 それを考えることすら億劫おっくうで、リデルはふらふらと歩を進めることしか出来ないのだった。



  ◆  ◆  ◆



 ムバーラザの村の一角に、村中の人々が集まっていた。

 彼らは皆一様に興奮している様子で、老若男女を問わずに今か今かと待っていた。

 ワイワイガヤガヤと、まるでお祭りのような騒がしさだった。



「いや、まさかこんな半端な時期に王様の決闘が見れるなんてな!」

「ほほほ、年甲斐も無く血が騒ぐのぅ」

「もう、この子が朝から王様の決闘を見るんだって聞かなくて~」



 村の一角に、6メートル四方に縄を張った決闘場と、それを円形に囲むように柵、柵の外に観客のための場所が設えられている。

 ここは村伝統の決闘場であり、王の座を決める重要な大会が行われる場所である。

 大会に参加できるのは部族代表1人と決められていて、参加者は多い年で100人を超える。



 ミノスの王位とは、代表になるための戦いと100人のライバルを打ち倒すことで始めて得られるものだ。



 ミノスの諸部族にとって、智慧や血縁による権力の移譲はあまり意味が無い。

 意味があるのは、強さだ。

 単純な腕力と言っても良い、強者だけが友であり信じるべき者だった。

 王とは頂点であり、頂点とは最強で無ければならない。

 もう1度言う、ミノスの人々は「強者にのみ従う」のだ。



「あ、来た!」

「王様! きゃーっ、王様よー!」

「余所者なんざ、一発で終わらせてやって下さいよ!」



 俄かに、騒がしさが増した。

 決闘上には柵の中に通じる道が2つあり、その片方に1人の男が姿を現したのだ。

 言わずもがな、ヤレアハである。

 過去20年間負けなし、英雄的とまで言えるその強さはまさにミノス中の認める所だった。

 その人気はまさに大人気と言うに相応しく、彼が拳を突き上げるだけで村人達は歓声を上げた。



「皆の衆、今日は楽しんでいってくれ!」



 両拳に薄い布を巻き、筋肉質な上半身を外気に晒した姿に女達の黄色い悲鳴が上がる。

 ヤレアハはそれに機嫌良さそうに手を振り、上着らしき物を持って後について来ているセーレンは特に表情を変えなかった。

 代わりと言うわけでは無いだろうが、彼女は反対側の道から静かに決闘場に入ってくる相手へと視線を向けていた。



「ほぅ、逃げずに来たか」



 ヤレアハも相手の到着に気付き、そして観客達の視線もそちらへと向けられた。

 格好はヤレアハと同じ、人種の違いもあるだろうが全体的に薄くて「なまっちろい」体格の青年だ。

 もちろん、やってきたその相手はアーサー以外にはあり得なかった。



  ◆  ◆  ◆



 ヤレアハは、逞しくはあるが自分より小さく細い対戦相手を見つめていた。

 腕を組み超然と相手を見下ろすその姿はまさに王者チャンピオンの様であり、事実、相手はけして強靭とは言えない挑戦者だった。

 賭け率(オッズ)で言えば99対1、これはそう言う決闘だった。



「てっきり逃げるとばかり思っていたのだがな」



 それはヤレアハの本心だった。

 過去には彼との戦いを避けてわざと怪我をした人間もいる程、彼は強者だった。

 20年負け無しの記録は伊達では無い、イサーバなどはそのことを良く知っているはずだ。

 イサーバの協力を得ていたアーサーがそのことを知らぬはずは無く、だからこそ「逃げずに良く来た」と言ったのである。



「うん? あれは誰だ?」

「知らない」

「見ない顔だな。おそらくミノスの民では無いだろう」



 イサーバと共にアーサーに何事かを語りかけている男がいて、ヤレアハは一瞬、そちらに気を取られた。

 アレクセイのことだが、彼はそのことを知らない。

 特に興味も無かったのか、本当に一瞬気にした程度だったが。



「さぁて、始めるか」

「足元を掬われないように」

「わかっているとも」



 決闘場の中央に立ち、相手と向かい合う。

 こうして目の前にすると、やはり強そうには見えない。

 目も合わそうとしてこないのは、やはり自信の無さの表れなのだろうか。



「良い決闘をしよう」

「…………」

「だんまりか。まぁ、仕方ない。だがもう一度確認するが、この決闘の勝敗でお前達の運命は決まる」



 決闘による決定は覆ることが無い、それがミノスにおける鉄の掟だ。

 イサーバは死罪、アーサーは目的を達することが出来ず、そしてリデルは王の妻となる。

 アーサーはそう言われていても目線を上げなかった、やんややんやと野次を入れる村人達の声の中で縮こまっているように見えた。



 一見すれば、彼はまさにまな板の上の魚であった。

 これから一方的に打ち倒される未来しか見えず、人生を呪っているように見えただろう。

 だがヤレアハは見逃さなかった、目の前の対戦相手が拳を強く握り締めているのを。

 やる気か。

 そう思い、ヤレアハはどこか満足げな表情を見せた。



「それでは~、これより~、ミノスの掟に従って~、決闘を~、行う~」



 最年長の老人の温度に合わせて、観客達のボルテージも上がっていく。

 自分達の王へのコールがどんどん大きくなり、声に形があればアーサーを埋め尽くしていただろう。



「両者~、よぉい~」



 はじめぃ! と、それまでの間延びした声とは一点、厳しい声で老人が叫んだ。

 決闘開始。

 ぐ、ぐ……と、身体に力を入れながら、ヤレアハは「さてどうするか」と考えた。

 初撃で終わらせるのもつまらない、何より王者らしく無い。



 だから彼は、最初はアーサーに花を持たせることにした。

 まず適当なステップを踏み、アーサーの不意を突く形で近付いた。

 しかしその時点でも、アーサーは目線を下げたままだった。

 構わない、初撃を当てる気は無い。

 右拳を突き出す、相手の方が背が低いので、打ち下ろしの形になった。



「――――だッ!」



 その時、ヤレアハの眼は確かにアーサーの動きを捉えていた。

 目線を下げていた彼がそれを上げた時、鋭い眼光が睨み上げて来た。

 来る。

 そう思った次の瞬間、アーサーは身をさらに沈めて拳を回避した。

 形として、ヤレアハの懐に入り込んだことになる。



「おお……!」



 ヤレアハは感嘆した、その後のアーサーの動きはそれだけ素晴らしいものだったからだ。

 アーサーはまず敵の懐に飛び込み、ヤレアハの身体の中で小さく身体を回したのである。

 自分の右拳は伸ばしたままで、膂力に遠心力を加えて――拳と頭蓋の骨が打ち合う音が響いた。

 結果として、その拳はヤレアハのこめかみを的確に撃ち抜いた。



「挨拶です」



 王の初撃の直後、観客達が見たものは挑戦者が哀れに打ち倒される姿では無かった。

 彼らが見たのは最も意外で、そして最も見たくないもの。

 すなわち、彼らの王が地に倒れ伏す姿である――――。



  ◆  ◆  ◆



 風が、強かった。

 アナテマ大陸では北の山脈から吹き降ろす南向きの冷たい風と、東の荒野から吹き上がる西向きの熱い風、この2つが主だ。

 しかしその風は南西から北西へと吹いている、熱くも冷たくも無い不思議な風だった。



「珍しい。でも、良い風……ね」



 すんすん、と鼻を鳴らしながら、その女性は囁くように言った。

 ゆったりとしたブラウスとロングスカートを着ていて、髪にはスカーフを巻いている、スカーフの間から薄い茶色の髪が覗いていた。

 ぱっと見、どこにでもいるような可憐な女性のように見える。



 しかし彼女の居場所を見れば、その女性が「どこにでもいるような可憐な女性」では無いとわかる。

 例えば、そこが角度110°――誇張では無く、本当にその角度なのだ――を超える切り立った斜面で、片腕、いや片手の指先を斜面の岩にめり込ませることによって身体を支えていて。

 しかも何でも無い顔で、まるで庭園を散歩でもしているかのような風なのである。

 これで普通と言い張るのは、少々無理があった。



「うーん。3日程見てるけど、特に変なことは無いわね。こういうのを膠着って言うのかしら」



 視線の先に山があり、河があり、対峙する2つの軍勢があった。

 黒と白銀の2つの軍勢は河を挟んで小競り合いを繰り返すばかりで、大きな動きはしばらく無かった。

 その女性は「うーん」と考え込んだ後、風の吹いている方向、南西を見やる。

 そして、クスリと微笑した。



「リデル、驚くかな……ルル、ルゥ。おっと」



 まるではしたないことでもしたかのように、ぽんっと口に手を当てる、頬も若干赤い。

 それは、本当に可憐な女性がするような仕草だった。

 ――――ばきり、と、彼女の指先で岩が砕ける音がしていなければ、だが。


最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。

8章は視点切り替えが少々激しいように感じます、いろいろと描写したいことが多いのでそうなってしまいがちですね。

気をつけなくてはと思いつつ、ついつい色々と描いてしまうわけで。

次回も頑張ります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ