1-5:「来訪の炎」
「――――貴方に、『聖女フィリアの加護がありますように』」
3度目ともなると、慣れも入ってくる。
朝の砂浜でそんなことを考えて、ルイナはおかしな気分になった。
彼女の視線の先にはすでに沖へと出てしまった漁船があり、つい今しがた、見送った所だった。
舟を漕いでいる彼は、3度目となる今回が最後と言っていた。
だがさて、どうなるだろうと思う。
過去の2回を見ているとついそう思ってしまうが、はたして彼女の望む結果は得られるのだろうか。
わからないが、しかしこういう時には心配しないことにしている。
今考えても、仕方が無いからだ。
「漁師には、時には諦めも必要……だったよね、お父さん」
返ってこない確認の言葉を虚空へと投げかけて、ルイナは笑う。
涙を流す時間はとうに過ぎていたから、綺麗な笑みだった。
父は彼女の中にきちんと根付いている、だから哀しむ必要は無かった。
……「あの子」も、そうだろうか?
(……お父さんの眠る島に残る、か)
その願いは、ある意味、ルイナとは真逆だ。
考え方の違い、と言ってしまって良いのか、悩む所だ。
環境の違いとも、思いたくは無い。
(なら何が違うのか、って聞かれると困りますけど……)
いずれにしても、もはや考えても仕方ない。
自分に出来ることは2つ、待つことと祈ることだけだ。
だからいつものように、彼女は祈った。
「『聖女フィリアの加護がありますように』」
胸に手を当て膝を折り、祈りの言葉を紡ぐ。
もちろん、ただの祈りに返答など期待してはいない。
いつものように、言葉が虚空に消えるばかり――――。
「フィリアになんか、祈ってほしくねぇよなぁ」
――――の、はずだった。
そして今の声は自分の声では無い、自分の声で無いならそれは他人の声だ。
だが誰が?
この漁村はすでに亡びている上、元々人の往来がある場所には無い。
誰もいないはずの漁村で、自分以外の声がした。
だが、ルイナはその事実に驚愕することも出来なかった。
何故なら次の瞬間、意識が暗転したからだ。
(な……に……?)
何が起こったのか、それすらわからない。
ただ、僅かに。
意識が途絶える闇とは別に、黒い色を見たような気がした――――。
◆ ◆ ◆
何となく、来るんじゃないかとは思っていた。
時間はすでに真昼、お昼ご飯をどうしようかと悩む時間だ。
そんな時分に、リデルは父の墓にいた。
決まって、と言って良い程ここにいるのだから当然だ。
あるいは、もしかしたならば、こう言い換えることも出来るかもしれない。
他に行く場所が無い、と。
「……何か用?」
とは言え、それとこれとは別である。
たとえ「ちょっと言い過ぎたかな」と思っていても、それは表には出てこない。
そもそも、出し方を知らない。
まぁ、態度に出るかはさらに別の話だが。
「こんにちは、良い天気ですね」
「雨が少なくて参ってるわよ、何、嫌味なの?」
「あ、あはは……」
ふん、と鼻を鳴らして立って見れば、彼がいる。
アーサーだ。
「……昨日は、すみませんでした」
彼はそう言って謝ってきた、謝られたリデルは露骨に顔を顰めた。
それは怒っていると言うよりは、どこか「先に言われてしまった」と言うような雰囲気だったが。
そうは言っても、まだつい昨日のことである。
思い出そうと思えばその時の感情まで思い出せる、その程度の時間だ。
複雑な感情を生み出すには、時間の経過が少なすぎる。
だから総合して、微妙、なのだ。
それを感じているせいか、2人の間で顔を上げている動物達も戸惑っているようだった。
「とは言え、実は昨日言ったことを撤回しに来たわけでも無いわけでして」
「噛んじゃえ」
「いやいやいや、蛇をけしかけるのはもう少し待ってくださいよ!」
「……仕方ないわね」
素直に待つ自分の器の大きさに感動しながら、リデルはちちち、と音を立てた。
すると足元の草陰に隠れていた蛇達が鎌首をもたげ、するすると少女の足を伝って腕へと巻きついた。
手指の先から伸びる舌に頬を舐められると、くすぐったそうに身を揺らした。
そんな光景を見て、アーサーはこほん、と咳払いしつつ。
「貴女は島の外を知るべきだ、リデルさん」
「必要ないわ」
「興味はあるんでしょう?」
明らかな苛立ちの感情が、そこにあった。
以前から思っていたことだが、アーサーの言葉はいちいち癇に障る。
それが何故かは、今一つ良くわからないが。
「この島はこれから、本当の意味で孤島になる」
「元からそうよ、この島には誰もいないんだから」
「でも漁村との僅かな繋がりはありました。でも今後はそれすら無い、この島にはもう、本当に誰も来ない……」
「それでも、私はパパと約束した」
そう、約束した。
島の外に出てはならないと、そう約束した。
「だから私はここにいるの、外になんか……興味無い」
興味は、無い。
そう断言する声に、はたして力はあっただろうか。
そしてそう言うだろうことは、アーサーには予測がついてもいた。
「大体、外に出て何をするの? アンタの手伝い? 冗談じゃないわ、何で私がそんなことしないといけないのよ」
「……まぁ、そうしてほしいなとは、思いますけどね」
肩を竦めて、アーサーは続けた。
「でもそれとは別に、やっぱり、もったいないと思うんです」
「もったいない?」
「島の外を見てからでも、十分に間に合うはずです」
ルイナの受け売りだが、そう言った。
島に引き篭もるかどうかの判断は、島の外を知ってからでも遅くは無い。
どうして「彼」が娘にそんな約束をさせたのかはわからない、が、それでもだ。
ただただ親の言うことを聞き、それ以外の可能性を思いもしない。
いや思っても、それを無理矢理に押し込めてしまう。
そんな姿を見てしまえばアーサーは無視できない、何故なら彼はこう思っているからだ。
それは、彼がこれまでの短い人生の中で得た結論の一つだった。
(……親に封じ込められるなんて、ダメだから)
沈黙。
アーサーの言葉の意味がわからないほど、リデルは馬鹿では無い。
そもそも、アーサーの意思はこれまでで十分に告げられているのだ。
後は本当に、リデルの意思を示すだけで済む。
どちらの答えを、告げるにしても。
「……私は」
あるいは、である。
「私は、それでも」
あるいはだ、未来から見ればここが転換点だったのだろう。
一日、いや一時間ずれていただけでもダメな、本当の意味での転換点。
この時何も起こらなければ、この2人の運命はこれ以上の重なりを見せなかった。
だが運命は、世界は、そうはさせなかった。
未来から見た時、この時この瞬間はそう言う意味を持っていた。
もちろんアーサーもリデルもそんな自覚や認識は無い、無いが故に運命で、世界なのだ。
何の介入も無ければ、それで終わっていた物語。
そう、それはとても無粋で……。
「――――見つけたぜ、王子様ぁ」
――――重要な、介入だった。
◆ ◆ ◆
千客万来、と言う言葉がある。
要するにひっきりなしに客が来るというわけだが、世界の端にある孤島にとってそれは珍しいことだった。
住人であるリデルにしてみれば、迷惑以外の何者でも無い。
「まさか、こんな何も無い島にいるとは思わなかったよ」
新たに現れたのは、女だった。
流れるような金髪は腰にまで届く長さで、サイドから回した三つ編みを頭の後ろで結んでいる。
濃いグレーの詰襟とパンツはまるで軍服のようで、黒のベルトとブーツで締められていた。
だが軍人のような印象は受けない、何故なら左肩から右脇腹まで、身を切るようにケープを纏っていたからだ。
軍服とローブが融合したような不思議な衣装、仕立てが良く汚れ一つ無い。
小柄だが華奢では無い、明らかに少女と言う年齢では無い女がそこにいた。
(……あれは……)
内心で、アーサーは表情を苦いものに変えた。
彼は、現れた女のことは知らない。
だが女の衣装と、こんな未開の島にあって衣服に僅かの埃や汚れもついていない理由を知っていた。
「アーサー・テブル・スレト・フィリア! 大人しく捕まって、アタシの糧になりな!」
「……さぁ、何のことでしょうか?」
不味い。
いろいろな意味で不味い、と、アーサーは思う。
その女が何故ここにいるのか、と言う問いには意味が無い。
そして同時に気付いた、退路すら無いことに。
「へへへ……」
「ふひひ……」
後ろ、木々や茂みの中から新たに2人の人間が姿を現した。
女と同じ、汚れ一つ無い軍服とローブの融合衣装を身に纏った男達だ。
1人は枯れ葉のようにガリガリな細身の男で、もう1人は丸々と太った大男だった。
「ブラン、スコーラン! 逃がすんじゃないよ!」
「へい! アレクフィナの姐御!」
「ふ、ふひひ、任せるんだな……!」
舌打ちしたい心地で、アーサーは改めて女と向き合った。
女――アレクフィナと呼ばれていたか――は、アーサーの顔を見ていやらしげな表情を浮かべて見せた。
「うふふ、逃げようなんて思わないことだなぁ王子様ぁ? もし逃げようなんてしたら、お前があの村で囲ってた女がどうなるか……」
「村の女……?」
はっと気付いたような表情を浮かべれば、アレクフィナがますますニヤニヤとした表情になる。
そう、彼女はこう言っているのだ。
あの村、すなわち対岸の漁村の「女」、つまり。
ルイナを、人質に取ったのだと。
知らず、アーサーは奥歯を噛み締めた。
◆ ◆ ◆
「アタシらはこの一週間、ずぅっと王子様のことを見ていたのさ」
アレクフィナは、右手親指をペロリと舐めながらそう言った。
好戦的な笑みの先には、彼女が「目的」としているらしいアーサーがいる。
彼はすっかりと警戒したような顔をしていて、その事実がまたアレクフィナに愉悦の感情を与えるのだ。
「するとどうだい、何だか知らないが寂れた漁村で何をするでもなく。女といちゃこら……」
「……?」
「い、いちゃこら、と……!」
何故かプルプルと震え始めたアレクフィナに、アーサーが首を傾げる。
何やらブツブツ言っているようだが、良く聞こえなかった。
「……も……年……28に……ない……ってのに……!」
「アレクフィナの姐御! 姐御は世界一美人ですぜ!」
「ふ、ふひひ、美人だぞぉ~」
何の話だ、アーサーは一瞬だが脱力しかけた。
しかし状況は何も改善されていないので、改めて気を引き締めた。
「とにかくだ! お前の女は預からせて貰った! 無事に返して欲しけりゃあ、大人しくするんだな!」
気を取り直したのか、そう言ってくる。
別にルイナは「アーサーの女」と言うわけでは無いが、あえて訂正する意味は無い。
「……僕が島に向かうのを見計らって、ルイナさんを攫ったと言うことですか」
「それ以外に聞こえたんなら、アタシの言い方が悪かったんだろうね」
「それは、どうも」
「ふふん」
嘲りの表情、どうやらアレクフィナは感情の発露が豊かな性格らしい。
「ま、フィリア人の小娘1人を人質に取るくらい、アタシら3人の手にかかりゃあ、わけないってねぇ!」
「へへへ、流石だぜアレクフィナの姐御!」
「ふひひ、一生ついていくんだぞ~」
妙にテンションの高い3人だ、だが言っていることは無茶苦茶である。
口ぶりから察するに、ルイナはどこかで囚われているのだろう。
当然、見張りもいるはず。
そうなってくると、アーサーの打てる手が非常に限られてくる。
見捨てると言う選択肢もあるが、それはアーサー自身が許せない。
そんなことをすれば、彼は彼で無くなってしまう。
……ところで、これは彼も失念しかけていたことなのだが。
「――――ねぇ」
「うわっ……って、リデルさん?」
蚊帳の外に置かれていた形のリデルの声が、聞こえた。
そうかと思い振り向いてみれば、彼女はアーサーのすぐ傍にいた。
と言うよりも、服の裾を握ってアーサーの背中に隠れるようにしていた。
これにはアーサーも、驚きの声を上げてしまった。
「あん? 何だお前、誰?」
「今、3人って言った?」
ぽかんとした表情を浮かべるアレクフィナに対して声小さく、しかしきちんと主張するリデル。
彼女は不思議そうな顔をして、言った。
「貴女達、他に仲間とかいないの?」
「仲間? はん、言ったろ! 小娘1人攫うのなんざ、アタシら3人で十分だってね!」
「流石だぜアレクフィナの姐御!」
「ふひひ、かっこ良いんだぞ~」
得意になる3人、だがリデルはさらに首を傾げた。
「……じゃあ、その誘拐された娘って、誰が見てるの?」
「「「あ」」」
◆ ◆ ◆
雲行きが怪しくなってきたな、とルイナは思っていた。
それは実際の空模様のこともだが、縄で縛られた自分の身についてのことでもあった。
実際、空の雲行きは怪しい。
このまま行けば天候は崩れるだろうし、それに縛られた身体も痛い。
時間をおけば、痕が残ってしまうかもしれない。
だが実の所、ルイナは別のことを考えていた。
「……この島に来たのは、初めてかも……」
砂浜に打ち上げられた2隻目の漁船にもたれかかりながら、そんなことを呟く。
攫われて縛られ、道案内をさせられ、その上で放り出されて。
ルイナは混乱と拍子抜けの中間のような表情を浮かべて、ヘレム島の砂浜で1人、誰かが来るのを待っているのだった。
◆ ◆ ◆
他人の背中に隠れていながら、何とも口が回る娘だ、とアーサーは思った。
ところで彼は背中を使われているわけだが、これは少しは頼りにされていると見るべきか、それとも単純に盾にされていると見るべきか。
これまでの経緯を考えると、微妙なところではある。
「と言うか、アンタ馬鹿じゃないの? 人質を取って管理しないのもそうだけど、1週間も見てたなら、コイツが2回ここに来たのも知ってるんでしょ? その間にその誰かを誘拐して待ち伏せでもした方がずっと効果的な策じゃない、馬鹿じゃないの?」
「あ、アタシが馬鹿だとぉ!? って、お前……」
当初は憤怒の表情でリデルを睨んでいたアレクフィナだが、リデルを見ると表情を「ん?」としたものに変えた。
目を凝らすようにしてリデルを見る、するとリデルはひゃっと声を上げてアーサーの背中に完全に隠れてしまった。
どうも盾として活用されている可能性が高くなってきた、だがそれ以上にアーサーは嫌な予感を覚えた。
「お前……」
そしてそれは、現実のものとなる。
アーサーの背中で揺れる金糸の髪を捉えて、アレクフィナは驚いたように叫んだ。
「お前――――ソフィア人じゃないか!」
「……ソフィア人?」
聞き慣れない言葉に、リデルはアーサーの背中から顔を出しながら首を傾げた。
いや、言葉自体は父の遺した本を読んで知っている。
ソフィア人、アナテマ大陸北部に多く住む人々の総称――いわゆる民族、あるいは人種の名前だ。
ただ文字の上で知っているだけで、しかも自分がその「ソフィア人」だと言う認識は無かった。
「何たってこんな島に、しかもフィリア人なんかと一緒にいやがるんだ!?」
フィリア人、これもまた人種を示す名前だ。
アナテマ大陸南部に多く居住し、大陸の長い歴史の中で何度か王朝を建てたこともある。
ただそれにどんな違いがあるのか、本の中でしか知らないリデルにはわからないことだった。
「お前、そいつから離れな! 品性を疑われるよ!」
「品性?」
リデルにはわからない、先程まで誰かを誘拐したとアーサーをしたり顔で脅していた相手が、本当に心配そうな顔で自分を気遣っている理由が。
そっと後ろからアーサーの――アレクフィナ言う所の「フィリア人」――ことを見上げれば、彼は真顔のまま何も言わない。
ちなみに、この時になってリデルは「あ」と言う表情を浮かべ、服の裾を放した。
「……そうか、わかったよ」
そして、アレクフィナはアレクフィナで自己完結していた。
「王子様、お前もなかなかえげつないねぇ……流石はフィリア人、やることが汚い。女を人質にするなんて真っ当な人間のすることじゃないよ」
「姐御の言う通りだぜ!」
「ふひひ、卑怯なんだぞ~」
自分達のやったことは完全に棚に上げて、アレクフィナ達はアーサーを睨んだ。
「どうりで、こんな非文明的で汚らしい島にソフィア人がいるもんだ」
「失礼ね、ここは私の島よ!」
「何? こんな島に住人がいたのかい? まぁ、どんな場所にも道楽者はいるしねぇ……」
「パパは道楽者なんかじゃない! 馬鹿にするんじゃないわよ!」
「ああ、はいはい。わかったよお嬢ちゃん、良い子だからそいつから離れな、病気でも移されたら大変だからさ」
「この……きゃあっ!?」
苛立ちを隠そうともせず、アーサーの背中から飛び出した。
だが直後に悲鳴を上げた、いつの間にか近付いて来た太っちょの男に後ろから抱き抱えられたからだ。
「ふひひ、お、お嬢さん、危ないんだぞ~」
「いやぁっ、気持ち悪い! 離しなさいよ!」
「ひ、酷いんだぞ~……」
ブランはショックを受けているようだが、実はリデルの方がこの時は大変だった。
何故なら、今まで父以外の人間に触れられたことが無いからだ。
そこへ急に太った大男である、しかも気のせいか汗や脂でベトベトしている、怖気が走っても無理は無かった。
「み……!」
次に、リデルは動物達に助けを求めようとした。
いや、求めるまでも無く動物達は動いていた。
鳥達は嘴でもってブランの頭を突いていたし、地上の小動物達は足を噛んでいた。
リデルの身に這っていた蛇などは、手の甲に牙を突き立てていた。
「ふひひ、やめるんだぞ~」
迷惑そうな顔をするものの、何故か痛みを感じた風では無い。
噛まれた腕を振り蛇をプラプラとさせる。
するとどうしたことか、呆気なく蛇は地面に落ちた。
ブランの手には牙の痕は無い、どうやら噛み付けていなかったようだ。
いったい何故、と考えた視界の隅に、鈍く輝く赤い石があった。
ブランの太い腕を締め付けるようにしているそれは、赤い石が嵌め込まれた腕輪だった。
「ふひひ、保護するんだぞ~」
「ひっ」
動物達の努力も虚しく、ブランはリデルを抱えたまま下がろうとする。
それに、リデルは怯えた。
言いようも無い不安感が襲ってきて、目尻に雫すら滲ませる。
「い、いや……」
助けて、思う対象はもちろん父だ。
他に頼るものなど無い。
他のことは知らない、だから考えることも出来なかった。
だが、父はいない。
いないのだ。
その事実に、リデルは。
「あ、そこ――――滑りますよ」
「ふひ!?」
「きゃ――――」
不意に、ブランが足を滑らせて転んだ。
足元で騒いでいた動物達の力では無い、本当に滑って転んだのだ。
両手を挙げて無様に転ぶブラン、その拍子に宙に投げられたリデル。
だが、リデルが地面に落ちることは無かった。
「あ……」
「大丈夫ですか?」
気がつけば、リデルはアーサーの腕の中にいた。
どうやったかはわからない、が、どうも助けられたらしい。
だが、それに対してお礼を言うことは出来なかった。
変わりに顔を紅潮させて、ジタバタと暴れた。
「は、離しなさいよ!」
「うわっ、ちょ、危ないですって! あ、痛い痛い、下ろしますから!」
リデルの手と鳥の嘴に悲鳴を上げて、ブランから離れて――奇しくも、彼女の父の墓の側で――彼女を下ろした。
「ちょ、何をやってるんだい! お前、まさかそのフィリア人と自分から一緒にいるってのかい?」
「べ、別に好きで一緒にいるわけじゃないわよ! 大体、何でアンタみたいな奴にそんなこと言われなくちゃならないのよ!」
島を馬鹿にされたせいか、リデルの言葉には険がある。
顔の赤みを怒りのそれに変えて、アレクフィナに噛み付いた。
それを見て、当のアレクフィナは苦い顔をした。
「お前、こんな島に住んでるったってソフィア人だろ。ソフィア人としての誇りを持たないかい!」
「何よ、いきなり島に来て偉そうに! 馬鹿のくせに!」
「んなっ、こんの小娘ぇ~……! 良いかい、そいつはね、犯罪者なんだよ! それも特大の叛逆者さ。何しろそいつは……」
本気で苛々とした様子で、アレクフィナはアーサーを指差した。
「そいつは劣等人種! それも劣等人種の親玉……」
劣等人種と、はっきりとそう告げて。
「私らソフィア人の国に滅ぼされた、劣等人種の国の――――元王子様なんだよ!」
アーサーの素性、その核心部分を告げたのだった。
◆ ◆ ◆
リデルは記憶力は良い方だ、だから彼女はアーサーの言葉の断片を思い出すことが出来た。
曰く、彼の祖国が「フィリアリーン」と言う名前であること。
今も、「名前を変えて」存在していると言うこと。
そして、今のアレクフィナの言葉。
(ソフィア人と、フィリア人……)
ソフィア人の国に、フィリア人の国が滅ぼされた。
それこそ、歴史書の中で何度も出てきた話だ。
征服者と被征服者、文字の上ではそれだけのことだ。
外を知らないリデルには、それ以上のことはわからない。
だからアレクフィナの言う「ソフィア人の誇り」だの「フィリア人の劣等性」だの、そう言うことはわからない。
だが、外の世界ではそれが普通なのだと言う。
(……でも)
ちら、とアーサーの横顔を窺う。
表情に変化は見られなかった、代わりにリデルと視線を合わせることも無かった。
それに僅かな不安を覚えたことは、あえて表に出さなかった。
ただ一つ思うのは、アーサーはそんなことを自分に言わなかったな、と言うことだ。
自覚は無いが自分はソフィア人らしい自分に、良くわからないがフィリア人の「元王子」であるアーサーは、何も言わなかった。
これを好意的に取るか悪意的に取るかは、余人の知らぬ所ではある。
「……そうかい、お前は民族の面汚しってわけだ」
リデルの様子に何を思ったのか、アレクフィナがそんなことを言った。
その表情は、心の底から軽蔑し侮蔑する何かを見る時のそれだ。
社会の屑、犯罪者、人間以下の何か、そう言うものを見る時のそだった。
「だったら容赦しない、お前も……」
叫んで、ローブの下から腕を跳ね上げる。
その際、リデルは2つの物を見た。
一つはアレクフィナの胸元、ローブの下で赤い石の意匠が鈍く輝いている。
さらにもう一つ、両手の中指の指輪が目についた。
そしてアレクフィナが指輪を嵌めた腕を振るった瞬間、異常が発生した。
「……アタシの糧になりなぁっ!!」
振るった腕、その指先から走り出た物。
赤い輝きを放つそれは、炎だった。
人の腕から、炎が走って。
それも周囲に拡散しない、一直線に走る炎だった。
「な――――っ!?」
視界を占拠しようとする炎に、しかしリデルは反応できなかった。
予測できない事態に対して何も出来ず、彼女の目の前で。
赤い炎線が、爆ぜた。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
何とか5話目、ようやく次回は単純でわかりやすいアクションです。
章構成にするつもりなので、1章については次話か次々話あたりが最終になるかな、と思っています。