6-9:「悪夢の終わり」
その少女は、幼い頃から身体が弱かった。
少し冷えただけで風邪をこじらせてしまう、そんな少女だった。
他の子と違って、滅多に外で遊べない子供だった。
『ああ、今の私なら、あんな風邪簡単に治してしまえるのに』
その時の情景を前に、彼はそんなことを思った。
不自然だった。
子供の頃の彼女の前に、すでに大人となっている彼がいるわけが無いのだ。
しかし今の彼は、それを不思議には思わなかった。
むしろ愛しげに、風邪を引き、ベッドの上で身を起こしている少女を見つめていた。
少女が笑いかけてくれる。
それだけで、ベッドの隣に腰かける彼は幸福になることが出来るのだ。
『キミが生きている。それだけで……』
だから、医者になろうと決めた。
彼女の病を治すための薬を作ろうと、そう心に決めたのだ。
どんなに難しい学問も、彼女のためと思えば少しも苦では無かった。
『キミが健やかに生きていてくれるのなら、それだけで良いんだ』
少女が健やかな女性として育つ中で、彼は様々な場面に立ち会った。
誰かと結ばれて、結婚する時も。
1人娘を出産する時も――いや、そもそも取り上げたのが彼なのだ。
少女の人生の節目節目に立ち会えること、それが彼の幸福だった。
『……あ?』
だが、幸福は唐突に終わる。
気が付いた時、温かな光景は消え失せていた。
掌にぬめりを感じて、彼はそれを見た。
掌が、真紅に濡れていた。
掌だけでは無い、温かな光に包まれていた世界は真っ赤に染まっていた。
薄い赤色を何重にも重ね塗りされたかのような、そんな色だった。
呼吸が浅く早くなっていく、苦しい、息が詰まって上手く吐き出すことが出来ない。
そして、何かがごとりと転がり落ちる音がした。
『あ、ああ、そんな!』
それは、あってはならないことだった。
足元に転がった物言わぬ「それ」に、彼は頭を抱えた。
ガリガリ、ガリガリガリガリと頭を掻き毟る。
爪が頭皮を深く抉り、血が噴き出して彼の顔を朱に染めていく。
指の間から開ききった目だけが覗き、不気味に蠢いていた。
『ああ、ああああ。そんな、そんなあああああああああああぁぁぁぁ』
あってはならない。
あっていいはずがない。
こんなことは、あってほしくなかった。
そうならないために、自分は医学を志したのに。
どうして。
『あああああああ、ああああああああああああああああああああああ』
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
『アアアアアアアァァァ――――――――ッッ!!!!』
そうして、1人の男の世界は壊れた。
脆く、儚く、そして、あっさりと。
――――あっさりと。
◆ ◆ ◆
沈黙。
沈黙だけが、研究室を包んでいた。
「…………何だ?」
長い沈黙に耐え切れなかったのか、アレクセイが声を発した。
しかしそれに答えるはずのリデルとアーサーは沈黙を保ち、じっとドクターの様子を窺っていた。
ドクターは薬を打った体勢のまま、動かない。
膝をつき、手の中に空の注射器を握ったまま項垂れている。
てっきり何か大きな反応が来るものだと思っていたのだが、現実にはそうはなっていなかった。
ドクターが自分に薬を打ったのも予想外だったが、その後の反応の静けさも予想外だった。
微動だにしない、言葉も発さない。
とは言え、このままただ見ているわけにもいかない。
「よ、よし。俺が様子を見てやるぜ」
「ちょっと、不用意に」
「このままこうしてても、仕方ないだろ」
アレクセイが意を決して、ドクターへと近付いた。
しかし1歩、2歩と近付いても、ドクターは彼に関心を向けた様子は無かった。
リデルは注意深く様子を窺った、何が起こるかわからなかった。
ずるすると這って来た蛇の腹に手を乗せると、その冷たさが彼女に落ち着きを与えてくれる。
(何も無いのは良いことのはず。でもそれが不気味でしょうがない)
ルイナは今も苦しんでいる、そちらの方にも意識を割かなければならない。
いやそもそも、『施設』全体の動きはどうなっているのか。
皆、無事に逃げただろうか。
『施設』に放たれた実験体は、どうなっているか……。
「……ん!」
その時だ、見た。
リデルは確かに見た、バキンと言う音と共にドクターが持っていた注射器を握り潰すのを。
ガラス片がバラバラと床に落ち、開いた掌が握り締められた。
拳を握った、その瞬間にリデルは声を発した。
「危ない!」
「おぁ? ……うおおおおおおぉぉっ!?」
その声が無かったら、アレクセイの身体はミンチになっていただろう。
何故ならば、突如として動いたドクターが身体を半分捻るようにして殴りかかってきたからだ。
だが、それで「ミンチ」になると言う表現はおかしいように思う。
しかし、それは少しも過剰な表現では無かった。
「な……っ!?」
傍らのアーサーが驚愕の声を上げ、リデルのお腹に腕を回して引き寄せた。
抱えるようなその体勢は普段なら文句の一つも言うだろうが、今はそうしなかった。
轟音。
床を激しく震わせる程のそれは、ドクターの一撃がもたらしたものだ。
壁が、陥没していた。
今までアレクフィナの魔法にすら耐えていた、その他の騒動の数々にもビクともしなかった研究室。
唯一の例外はルイナの膂力で壊れた水槽だけだ、それも壁と比べれば大したことは無いだろう。
直系にして数メートル、それだけの大きさだけ壁が抉れたのだ。
壁の硬質な破片が飛び散り、衝撃と共にそのいくつかがリデルにも当たる。
「アレクセイ! 離れて!」
「正気かよ、畜生が!」
不味い、やはり薬の効果があったのだ。
異常なまでの筋力の増強、だがドクターのそれはルイナのそれと比べてもより強いもののように感じる。
長く薬に触れる環境にいたからなのか、あるいは他の要因があるのか。
わかっているのは、今のドクターに近付くのが危険だと言うことだ。
(……何?)
その時だ、陥没した壁から腕を引き抜いたドクターがこちらを振り向いた。
彼はリデルを見ると――少なくとも、リデルは見られたと感じた――笑った。
にぃ、と、音が聞こえそうな、そんな歪んだ笑い方をした。
その笑みは、もはや先程までの狂ったような笑みですら無かった。
「り……リィ、デェ……ル、ゥ」
名前を、呼ばれた。
◆ ◆ ◆
(こいつ……っ!)
首を絞めることに何か執着でもあるのだろうか、それとも薬は心の奥底に眠る願望を発現させるとでも言うのか。
そのあたりのことはわからないが、リデルは再び首を絞められていた。
しかし先程と違い片手、だがより強靭な力で。
リデルの目には見えなかったが、スピードも常人の倍はあった。
視線だけを向ければ、アーサーとアレクセイがそれぞれ部屋の左右に吹き飛ばされ、倒れていた。
自分が首を絞められる一瞬で、打ち倒されたと言うのか。
そして先程は無かったもの、つまり父の首飾りの守護が発動していた。
(絞めに来たんじゃなく、握り潰される所だったってこと!?)
赤い光が火花のようになって、首元を断続的に輝かせていた。
「リ、リリリ、ィ……ェルルルゥ」
「な、なに……よ!」
獣のように唸りながら自分を呼ぶドクター、気圧される心を叱咤して睨み返した。
額やこめかみに血管が浮き出ており、目は虚ろで力は無いのに血走っていて、鼻腔からだらだらと血を流している顔。
明らかに普通では無い、それでも自分への執念を感じた。
いや、自分を通して誰かを見ているのかもしれない。
「な!?」
不意に浮遊感を感じた、ドクターが片腕で自分を持ち上げたのだ。
ドクターは確かに大人の男性だが、15の少女を片手で持ち上げられる程筋肉質には見えない。
その時だ、傍らから轟と勢いをつけてドクターに跳びかかるものがあった。
シャアッ、と一鳴きして飛びかかったのはリデルの蛇だった。
大きな口を開いて牙を剥き出しにした蛇は、ドクターの頭を呑み込もうと襲いかかった。
だがドクターは動じた様子も無く、もう片方の手で蛇を掴んだ。
顎下の脆弱な部分を指の腹で押さえられると、蛇は口を開けたまま閉じられなくなる。
しかしこんな大蛇に対して片手でそれを成すとは、やはり普通では無い。
あまりの力の強さに、蛇の口から泡が……。
「やめ、なさい!」
腕を掴み、蹴った。
ばしっ、ドクターの脇に当たった少女の蹴りの音は、やけに軽かった。
2度、3度。
繰り返しても、まるで効果が無かった。
そうこうする内に、蛇の顎から嫌な音が響き始めた。
「リィ……エルエルエルルルゥッ!」
もはや名前では無く、奇怪な叫びのようにも聞こえる。
しかし愉しんでいることはわかる。
顎を潰されかけている蛇に対してなのか、あるいは無力な抵抗を試みる少女に対してなのか。
彼が上げる笑い声は、とても不快だった。
「――――!」
その時、蛇の口の中からリスが飛び出した!
「リッ!?」
リスがドクターに首に齧り付く。
さして強靭でも無い、しかし鋭い歯がドクターの首に突き立った。
流石にそれは不快に感じたのか、彼は一旦リデルと蛇から手を離した。
尻餅をつき、痛がっている暇も無くドクターから離れる。
しかし、この強靭さとパワー、そしてスピード。
(こんな化け物を……!)
はたして、こんな化け物を倒す術があるのか。
(……倒す、策を!)
否、術の無い所に策を捻り出すのが軍師。
リデルの眼は、まだ何も諦めてはいなかった。
「……ルル、ル……」
そしてその時、耳に届いた女の声によって、リデルの頭脳は一つの策を導き出した。
◆ ◆ ◆
いつまでも倒れている場合では無い、アーサーが立ち上がった。
だがアレクセイはそうもいかないようだった、元々の負傷が悪化したのかもしれない。
「アレクセイさん!」
「お、俺のことは良い! それより、嬢ちゃんの方を!」
「……すみません!」
酷なようだが、今はリデルの方が先だった。
グローブの石の力を使い、魔術を発動する。
まず1度、摩擦係数を強めて床を蹴った、靴の爪先にへばりついた床石がめくれ上がった。
そして2度、めくれ上がった床石を蹴り、滑るようにして駆けた。
摩擦係数の減衰によって、新たな1歩を必要とせずにドクターに肉薄する。
「……はぁ!」
ぐりん、とあり得ない角度でドクターが振り向いた。
振り向くだけでは無い、拳も同時についてくる。
息を吐き、頭上から振り下ろされたドクターの腕を軽く叩き、受け流した。
受け流した拳が、床石を砕いて爆裂させる。
(何と言う力!)
何と言う暴力か、アーサーは戦慄を覚えた。
荒い息を吐き、床から腕を抜こうとしているドクターに背後から攻撃する。
次の瞬間、ぎょっとした。
「リルルルガァッ!」
腕を引き抜く前に、ドクターが身体を回した。
そんなことをすれば当然、床に突き刺さった腕はあらぬ方向に捻れることになる。
骨が折れ、肉の繊維が切れる音が響く。
そして腕そのものが千切れるかと言う段になって、腕が床から抜けた。
目を背けたくなるような光景だ、あの薬は痛覚すら失わせるのか。
あるいは、人間らしさ、のようなものを著しく減少させるのかもしれない。
もう一度魔術を使う、今度は自分の肌の摩擦係数を減衰させ、ドクターの攻撃を後方へと受け流した。
鈍い音を立て、今度は拳を砕きながら壁を破壊した。
「アーサー!!」
その時、リデルが何かを投げて寄越した。
いつの間に移動していたのか、破壊され元の形もわからなくなったドクターのデスクにいた。
そして、リデルが投げた「それ」が放物線を描くようにアーサーの手元へ。
それを掴んだ時、アーサーはリデルの考えを理解した。
「リィッ!?」
理解した後の行動は素早かった。
壁から腕を引き抜けずにいるドクターの背中に、アーサーはそれを突き立てた。
それは、赤い薬の入った注射器だった。
注射を打たれたドクターは悲鳴を上げ、身体の内側から溢れ出ようとする何かを抑えようとするかのように、己の身を抱き、抑えた。
(ルイナはあれを打たれた後、身体がおかしくなったわ)
過去に何本打たれていたのかはわからない、だが出会った時にはすでに今のドクターと同じような状態だった。
いや、パワーの増加量を考えればルイナ以上に進行が早い。
薬も過ぎれば毒となる、リデルの狙いはそこにあった。
そして、もう一つ。
「毒には解毒薬! きっとあるはずよ……!」
リデルには医学の知識は無い、だが薬を作ってはい終わりでは無いことはわかる。
薬があるのなら、きっとその効能に対する薬があるはずだ。
理性が磨り減っていても、いやだからこそ、本能でドクターは動くはずだ。
ルイナを救うために一縷の希望を、リデルは何も諦めていない。
――――そして。
「リ、リ……リィイギャギャアアアアアアァァァッッ!!」
何かを堪えるように震えていたドクターの全身から、<アリウスの石>よりもなお赤い液体が噴き出した。
◆ ◆ ◆
それはまるで、血の噴水のようだった。
全身の穴と言う穴から血が噴き出し、シャワーのように室内を染め上げた。
1人の人間が持つ血の量を、意図せずしてリデルは知ることが出来た。
「リ、ガ……ガガガ、ガガッ、ガルゥ……エルゥ!」
血の噴き出す音の後に、何か固い物が押し潰されるような音が響く。
それは全てドクターの身体から発せられているものであり、涎を垂らしながら唸り声を上げる姿と相まって、かなり不気味だった。
その瞳にはすでに理性の欠片も無く、本能だけが激しく燃え滾っていた。
もう、すぐにも動く。
そう直感したその時、足元が揺れた。
いや足元だけでは無い、断続的に続く揺れは天井からパラパラと板材の欠片が落ちてきた。
そしてけたたましい警告音が響く、突然の出来事に一瞬、混乱した。
「リィリリリリリィエルゥオオオオオッ!」
「……ッ。しまった!」
その一瞬で、見逃してしまった。
ドクターが部屋の外目がけて駆け出したのだ、その速度は相当なもので、リデルは反応できなかった。
しかし、ドクターがそのまま逃げると言う懸念は杞憂に終わった。
何故ならば、部屋の出入り口にある女性が立っていたからだ。
「――――ハウラ!?」
そこにいたのは、ハウラだった。
喉を食い千切られた姿のまま、扉の枠に寄りかかるようにして立っている。
顔色は青白く、生きているようにはとても見えない。
「ガアアァッ!」
そんな彼女に、理性を失ったドクターは容赦なく襲いかかった。
両手でハウラの胸を押し、不自然に陥没させて反対側の壁へと衝突させる。
ハウラの口と胸から鮮血が散り、細い両足が反射で跳ねた。
そして、何かを求めるようにドクターがハウラの肩に噛み付いた。
骨と肉が噛み砕かれる音が、室内にまで聞こえてきた。
「ハウ……ッ!?」
その時、リデルは見た。
ハウラは2つの行動をした、まず1つは室内に向けて注射器を1本投げたこと。
軽い音を立てて、それは研究室の中に転がってきた。
薄い青い液体が入ったそれは、何かの薬のようだった。
そしてもう一つは、リデルを見つめて何事かを言ったことだ。
何を言ったのかは聞こえなかった、おそらく、もう喋ることが出来ないためだろう。
だがそれでも何かを伝えようと、唇の動きだけで何かを伝えようとしていた。
リデルは、その動きを注意深く見つめた。
彼女は、こう言っていた。
「この……わたしが……?」
――――このひとは、わたしがつれていきます――――
「……ッ! アーサー! あの人を――――!」
察して叫んだ時には、もう遅かった。
研究室の扉が閉まり、そして身体の中が下に押し当てられるような独特の浮遊感を感じた。
研究室が上の階層へと部屋ごと移動する中で、リデルは叫んだ。
この『施設』において、何故か自分の味方をしてくれた、どこか懐かしい気配を漂わせた女の人の名を。
◆ ◆ ◆
あの子を守らなくてはならない。
あの子を助けなければならない。
あの子を救わなければならない。
リデルの姿を目にした時から、ハウラの胸に去来したその想い。
彼女はその想いを忠実に実行した、ドクターの命令だけでは無く、己の意思でそうしたのだ。
それは、彼女の出自のせいに拠る所が大きい。
「――これで良かったのでしょうか、ドクター――」
掠れた声。
バギン、と肩の骨が砕け、その身が儚げに跳ねていてもなお、彼女は変わらなかった。
主であり、親でもある男に身体を食い千切られながら、嗚呼と目を閉じる。
すると、深い地中から水が湧き出るように、「記録」が思い出される。
記憶では無い、それは記録だ。
ハウラは物心ついた頃から『施設』にいて、ある実験の被験体として扱われていた。
それは、「人間は他人に成れるのか?」と言う実験だった。
「――これで良かったのでしょう、ドクター――」
記憶野の発達と同時に、記録を刷り込む実験の日々。
特定の他人の服を着て、同じ物を食べ、習慣を身に着け、話し方を真似る。
同じ怪我をし、同じ話をし、同じ趣味を持ち、同じ病を得、同じ生活を送る。
体格を合わせ、日記を読み、学問を識り、運動を行い、それらを何年も何日も繰り返した。
しかし結局、ハウラはその他人――ドクターの求める「誰か」――に成ることは出来なかった。
「――これで、リデル様は無事に外へ出ることが出来ます――」
あの研究室は、ドクターの研究室だけは『施設』の中で特別なのだ。
上の階層まで行けば、外はもうすぐそこだ。
そして自分は、ドクターと彼の研究の全てを地中に持って行く。
別に、今決心したわけでは無い。
自分の命が終わる時にはそうしようと、何故かそう考えていたのだ。
いつしか、そう考えるようになっていたのだ。
もしかしたなら、「記録」の中の、ハウラが成るべきだった「誰か」ならそうするだろうと思ったのかもしれない。
「――ドクター……――」
喰われていない方の腕を、上げた。
その手には注射器が握られている、薄く赤い液体が入った注射器だ。
それを逆手に持って、深く息を吐いた。
「――おはなしを――」
そして、自らに向かって振り下ろした。
すなわち、自分に喰らいついているドクターの背中に。
「――おはなしを、きかせてください。どくたー……もういちど、あのひとの、おはなしを――」
それはどこか、殴りつけるように見えて。
どこか、抱き締める仕草にも見えた。
◆ ◆ ◆
『施設』が崩れる。
もはやそうとしか考えられなかった、それもかなり切迫した意味で。
元々地下を堀り抉って作られた『施設』は、崩すのもさほど難しくは無いのだろう。
「他の皆は!?」
「今は自分の心配をして下さい! 僕らが来た段階で外へ避難している人達がいましたから、ほとんどは大丈夫なはずです!」
研究室はかなり上層へとリデル達を運んだようだが、それでも危険なことに変わりは無かった。
だからまずは脱出しなければならない、ハウラへ想いを寄せるのはその後にすべきだった。
しかも今は負傷したアレクセイに加えて、ハウラの青い薬を打ったルイナもいるのだ。
薬を打った後は症状も少し治まったようだが、それでも動けるようにはならなかった。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫、よ……!」
アーサーはアレクセイを背負っている、だからルイナはリデルが運ばなければならない。
蛇もいるが、ドクターとの戦いで顎を痛めているせいで咥えて運ぶことが出来ないのだ。
……まぁ、例え出来ても諸々の理由で任せにくいわけだが。
「ん、んんっ……おっもぉ――――ッ!!」
「な、何ともコメントしずらい掛け声ですね……」
実際、力にはさほど自信が無いリデルでは、女性とは言え背負うには厳しい。
だがアーサーがアレクセイを背負っている以上、文句を言っても始まらないのだ。
だからリデルは必死に走った、これまでの人生で最も力を振り絞って走った。
背負いきれずにルイナの足を床に引き摺っていたが、そこまで気を回している余裕は無かった。
息が切れ、二の腕と腿に鈍い痛みが蓄積していく、2分経つごとに立ち止まる回数が増えていった。
汗がとめどなく流れ、顎は上がり上体は下がっていく、つまりはどんどんと疲弊していっているのだ。
それでも、ルイナを置いて行くわけにはいかない。
あまりの疲労に目を開けているのもキツくなってきたが、それでもだ。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫、よ」
リデルが立ち止まる度にアーサーも止まってしまう、だから長く立ち止まるわけにはいかなかった。
走って、それでも走れなくなって歩きになった頃、ようやく終わりが見える場所にやってきた。
それは橋だった。
収容施設の時と同じように、薄い金属製の道で出来た橋だ。
両端に検問のような施設があり、黄と黒のバーが設置されている。
普段は『施設』関係者がいる正規の出入り口なのだろうが、今は無人だった。
鉄馬車一台分の幅しか無い所を見ると、相当に出入りが厳しく管理されていたのだろう。
橋の下は、やはり収容施設同様に底の見えない奈落の穴だった。
「ここを渡れば外のようです。もう少しだから、頑張って下さい」
「は……はぁっ。はぁ? 誰に言ってるのよ、私が頑張らなかったことなんて無いじゃない」
強がりを言うリデルに苦笑しつつ、アーサーは前に立った。
出来ればアレクセイだけで無くルイナも自分が運びたかったのだが、流石に2人を同時に運べる程の力は無い。
アーサーの魔術で操れるのは摩擦係数、重量まで消せるわけでは無い。
「念のため、僕が先に進みます」
だとすれば最善策はまずアーサーがアレクセイを安全な所へ運び、しかる後にルイナとリデルを連れて行く。
それしかない。
だからアーサーは急いだ、しかし急いたがために先走った。
それは、後にして思えば皮肉としか思えなかった。
だから彼は、出口――つまり『施設』側から見れば入口――側のゲートを越えた時、リデルがついてきていないことに気付けなかった。
いや、ついてきてはいたが、進みが予想以上に遅かった。
アーサーが橋を渡りきった頃、リデルはまだ半ばにも到達していなかったのだ。
「リデルさ……ッ!」
その時だ、橋……いや『施設』全体を一際揺らす大きな振動を感じた。
しかも今度はより致命的な揺れであり、どこかが崩落する音がはっきりと聞き取れた。
それは『施設』を構成している岩盤そのものを揺るがし、崩した。
アーサー達がいる場所も例外では無く、天井――つまり崩れた岩盤が天井の材質を崩し、一緒くたに崩落したのだ。
「きゃあっ!?」
衝撃に堪えきれずに、リデルは膝をついた。
端の方にいたなら、橋の下へとまっさかさまに落ちていたかもしれない。
そして揺れが収まり顔を上げると、衝撃的な光景が広がっていた。
「そんな!」
リデルとアーサー、どちらがそう言ったのかはわからない。
ただ、2人の間にあった橋が崩落した岩盤に押し潰され、失われたことは確かだった。
むしろ、リデルがいる場所が崩落に巻き込まれなかっただけ幸運と言うべきなのかもしれない。
もっとも、今後も無事であり続けるかを保障するものでは無いが。
「リデルさん!」
「これは……ちょっと、ヤバいわね」
ちょっと所では無い、今から戻って別のルートを模索する余裕があるだろうか?
『施設』の完全崩壊まであと何分あるのかがわからない以上、別のルートを探すのは得策とは言えなかった。
だが、崩れた部分は距離にして10メートル以上はある。
跳べる距離だ、とは、とても言えなかった。
(どうするか)
アーサーの魔術では無理だ、あれは跳躍自体を助ける魔術では無い。
ではせめて何か、そう、ロープかそれに準する物を見つけるしか無い。
検問施設の中に、それらしい物があるかもしれない。
「アーサ……ッ!?」
そう思い、声を上げようとした時だ。
何かが襟を掴むのを感じた、それは女の手だった。
つまり、ルイナの手がリデルの服の襟を掴んだのだ。
「……ル、ルゥ……」
そんな、と血の気が引くのを感じた。
ハウラの薬はルイナを治すものでは無かったのか、それとも薬が効かない程に進行していたのか。
わからない。
わからないが、それでも事態は進んでいく。
「うぁ……っ!」
ぐい、と引かれたかと思うと、身体を逆さにしたかのような浮遊感を感じた。
いや、実際に逆さまになっていた。
ルイナはその恐るべき腕力によって、華奢とは言え軽くは無いリデルの身体を振りかぶっていたのだ。
次の瞬間、自分は目の前の床に叩き付けられているのか。
そう思い、リデルは強く目を閉じた。
しかし、衝撃は来なかった。
変わりに感じたのは再びの浮遊感、そして。
「うわっ!?」
「えっ……きゃあっ!?」
衝突した、しかし床では無い。
それは柔らかいような固いような、そんな存在だった。
彼はアレクセイを背負ったままにリデルを片手で受け止めて、しかし支えきれずに後ろに倒れた。
その下に蛇が身を回して、柔らかな身体をクッションとした。
「え、え、え……え!?」
最初は混乱したが、落ち着いて考えると状況は明白だった。
つまり自分は、アーサーに投げ渡されたのだ。
誰に? 言うまでも無い。
ルイナにだ。
「ルイナ……?」
彼女は、ルイナはそこにいた。
顔色は悪く、身体は震えていたが、それでもしっかりと立っていた。
リデルを投げた体勢のまま、息を荒くして、そこに。
「ルイナ!!」
叫んだ、名前を呼んだ。
するとルイナは、微笑んでくれた。
それはリデルの記憶にもある通りの、柔らかで、そして優しい微笑みだった。
海風の中、浜辺に佇む少女の微笑みだった。
「あ、あ……待って。待ってなさいよ、すぐに何か探してくるから!」
はっとして、アーサーの腕の中から身を起こす。
しかしそれは、続けざまに起こった崩落の振動で出来なかった。
お腹に圧迫感を感じたかと思うと、アーサーがリデルを抱いたまま後退の跳躍をしたのだ。
それに非難の声を上げる前に、直前までいた場所に岩盤が落ちてきた。
「ルイナ!?」
「リデルさん! 危険です!」
「五月蝿い! 何とか、何とかしなくちゃ……ッ」
今までに無い程に崩落が激しい、どうやら本格的に崩れ始めたようだった。
ルイナは動かない、動くことも逃げることもしていなかった。
そんな彼女に――――……。
「ルイナ! ルイナ!」
岩盤が。
「ルイナアアアァァ――――――――ッッ!!」
名前を。
名前を叫ぶことしか、呼ぶことしか出来ないリデルに、返って来たものは。
優しい微笑みと、そして。
――――そして。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
軍師軍師言う割に、まだ軍勢同士の大規模戦闘が無いなぁと思うわけです。
早くそうしたものを描きたいですね。
そして思うのですが、物語において全ての謎を解明してはいけないのではないか、と最近思うようになりました。
想像の余地を残しておく、と言うか、そうしておくことでさらに物語の枝葉が作られていくのではないかな、と。
まぁ、描いているとそこまで気にする余裕はあまり無いわけですが。
なお、いつの間にか連載1周年を過ぎていることに先日気付きました。
うっかりしてました。
なので、この場を借りて改めて御礼を。
読者・ユーザーの皆様のお力添えを頂きまして、無事に1周年を迎えることが出来ました。
今後、完結へと向けて歩みを早めることになります。
今後ともご声援・ご助言を頂けますよう、宜しくお願い致します。
それでは、また次回。