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6-8:「変貌」

 ……突入!

 鳥が示した入り口から、『施設』の中へと突入した。

 固く閉ざされていた鉄の扉は、今は内側から開かれていた。

 ここに来るまでの間に奇妙な動物達に教われたが、それを追い払ったのも彼だった。



「中に入れさえすれば、仲間が協力してくれます!」



 『聖都』から来た使者、ラタもまた、嬉々として駆けていた。

 彼女は元々、『施設』内に囚われた仲間を助けるためにアーサー達に協力を求めてきたのだ。

 そしてアーサー達に『施設』の正確な位置を教え、今こうして突入を共にしている。



 扉の中に突入した後は、しばらく暗い空間の中を進まねばならなかった。

 日の光が差し込んでいる所はともかく、残りの半分は反対側から漏れる僅かな明かりを目指して走る形になった。

 そうしていると、数人の人間が逆方向……つまり外へと逃げてくるのを見つけた。



「見ろ、人だ!」

「人が逃げてくるぞ! フィリア人だ!」



 確かにフィリア人だった。

 彼らは皆一様にやせ細っていたが、確かな足取りで駆けていた。

 しかしその表情は逃走への希望より、今もなお命の危機にあるような悲壮感が漂っていた。



「……ああ!」



 声を上げたのは誰だったか、悲鳴のような声が上がった。

 逃げてきていたフィリア人が助けを求めたかと思うと、そのすぐ後ろにいたフィリア人が彼に飛びかかったのだ。

 次いで断末魔の悲鳴が聞こえて、その瞬間には集団の中からクロワが飛び出していた。



「ふん……ッ」



 一撃、目視できぬ大剣が襲いかかった方の男を吹き飛ばしていた。

 大剣の腹で殴り飛ばされた男は悲鳴を上げて転がり、そして驚いたことにすぐに起き上がって、背を向けて獣のような姿勢で駆けて行った。

 その際に見えた瞳に赤さが、暗がりの中で不気味に線を引いていた。



「ううっ!」



 そして、アーサーは見た。

 襲われたフィリア人の男が首の左側を噛み千切られ、血を噴出しながら絶命している姿を。

 それから、無数の「鳥籠」に溢れた寒々しい収容施設を。

 さらに、逃げ惑う数百人のフィリア人に襲いかかる数人の「獣」の姿を。



「こ……これは! これはいったい!?」



 ラタの動揺の声が聞こえた、彼女もこの事態は想定していなかったのだろう。

 研究者や彼らに使役される実験動物の話は聞いていた、しかし彼らは明らかに同じ立場、収容者同士で襲い襲われているのだ。

 こんなことは想定していなかったのだろう、だがそれはアーサー達にとっても同じだ。



(こんな所に、リデルさんが?)



 どう言うわけかはわからない、しかし、どうやらこの『施設』は今混乱の坩堝の中にあるようだった。

 ここにリデルがいるのは間違いない、リデルの鳥がそれを教えてくれた。

 彼女は鳥を通じて知らせてくれたのだ、突入のタイミングを。

 ――残念ながら、タイミングとしては最悪のようだったが!



 その時、肩にとまっていたリスが床へと飛び降りた。

 リスはそのまま混乱の収容所の中を駆け進んでいく、程なく見失ってしまいそうだった。

 追うかどうか迷った一瞬、声をかけてくれたのはクロワだった。



「行きたまえ、アーサー殿」

「クロワ……」

「見た所、襲っている者の数はそれほどでも無い。ここは私1人十分だし、逃げる人々を御するのも、逃げられない者達を助けるのも、さし当たっては私達だけで十分だ」



 皆を見た、誰もが頷いていた。

 リスの向かう先に誰がいるのか、皆が理解している様子だった。

 この数ヶ月間の旅は、そのためにあったのだから。

 だからこそ、アーサーもまた迷わなかった。



「さぁ、行けアーサー! 彼女を救うのはキミの仕事だ!」

「……はい!」



 以前よりも気安げな声音を背に、そうして、彼は駆け出した。

 獣と化した人々の間を抜け、リスの後を追い、少女の下へ――――。



  ◆  ◆  ◆



 ――――そして、今に至る。

 アレクセイから見て、2人の様子は意外なものに感じた。



「あぃっ、つつつ……」



 噛まれた腕を擦りつつ、中途半端に開いた隔壁に寄りかかるようにして2人を見守っている。

 足元では何やらやたらに大きな蛇と、そして対照的に小さなリスがぎゃんぎゃんと騒いでいる。

 と言うか、リスが蛇の口の中にすっぽり入っているのは何なのだろうか、実は助けた方が良いのだろうか。



「……その方は?」



 ようやく、アーサーが口を開いた。

 声は比較的平坦で、これと言った高揚は無いように聞こえた。

 気遣うでも再会を祝するでもなく、数ヶ月ぶりに追いついた少女にかける言葉にしてはあまりに飾り気が無く、まして色気も無い。



「知り合いよ、ただの」



 対してリデルの側も、色気や感動とはまた無縁の声で応えた。

 すでにピクリとも動かなくなった女を抱いておきながら、「ただの知り合い」も何も無いだろうに、だ。

 重いだろうにしっかりと腕に抱いて、頬を押し当ててすらいるのに。

 それは、明らかに「ただの知り合い」では無かった。



「……この先ですか?」

「そうよ。この先にいる奴をノせば、『施設』は掌握できるわ」



 何というか、想像と違っていた。

 アレクセイの予想では、もう少し感動的な再会シーンになるはずだった。

 それこそ抱き合ってからのキスの一つがあってもおかしくない、などと思っていたのだ。

 しかし現実には2人はひどく冷静で、キスはもちろん抱擁の一つも起きなかった。



 アレクセイはアーサーが酷く気に病んでいたのを知っているから、余計に意外だった。

 彼は何もせず、何も言わず、ただリデルの傍に立っている。

 静かに佇み、リデルが床に寝かせた女性の顔を見つめていた。

 何を、思っているのだろうか。



「状況の説明は、走りながらするわ」

「わかりました。ああ、リデルさん」

「何よ」



 立ち上がったリデルに、アーサーが言った。




「とにかく、無事で良かった。本当に」




 不意打ちのように発せられたその言葉に、リデルは表向き反応を示さなかった。

 それでもアレクセイが期待した程の大きな反応は無かった。

 ただ、一瞬、リデルの背中が少しばかり大きく膨らんだような気がした。

 肩が上がった、と言うべきか。



「……行くわよ」

「わかりました」



 しかしそれ以上の変化は無く、先に走り出したリデルの後をアーサーが追った。

 どうやらリデルにとっては、実験棟の外に出る意味は薄れたらしい。

 あるいは、外に出ようとした理由(アーサー)が向こうからやって来たからか。

 アレクセイも――そして蛇達も――慌てて後を追う。



「…………」



 その際、リデルは首だけで後ろを振り向いた。

 目は床に寝かせた女性に向けられており、彼女は唇の中だけでこう言った。



「さようなら、ハウラ。アンタのこと、嫌いじゃ無かったわ」



 すぐ傍にいたアーサーは、何も言わなかった。



  ◆  ◆  ◆



 ドクターの現在地は、殊の外すぐに見つかった。

 ルイナだ。

 ルイナの後を追っていたら、自然と彼の研究室にまで到達したのだ。

 追いかけたのは、リデルとアーサー、そしてアレクセイの3人だった。



「やぁ、おかえりリデル。でも、どうもいらないおまけを連れて来たのは頂けないな」



 これだけの混乱と騒乱の中にあって、ドクターの姿は少しも変わっていなかった。

 部屋は移動しているはずなのだが、室内に置かれている内容物は調度品や実験設備まで含めて全く同じだった。

 まるで、今まで何も起こっていなかったかのようだ。



 不意に、カタカタと言う音が聞こえた。

 ドクターの研究室を初めて見るアーサーとアレクセイはその醜悪さに目を取られて気付くのが遅れてしまったようだが、部屋の隅にルイナの姿があった。

 まるで何かから隠れるかのように両腕で頭を多い、小さくなってしまっている。



「ハウラが、死んだわ」



 ルイナから目を離して、リデルはそう言った。

 とても信頼関係があるとは思えなかったが、ハウラはドクターに尽くしていた。

 献身的に、仕えていた。

 だからせめてその死を伝えるくらいのことはしても良い、それくらいの義理はハウラに対してあるはずだと思った。



「そうか」



 一言。

 ハウラの死に対して、ドクターが発したのはその一言だけだった。



「そんなことよりも、どうだったかね? 私の作品達は。いや恥ずかしい限りなのだが、見ての通り理性のコントロールがまるで効いていないものだから。ヒヒッ」

「……そんなこと(・ ・ ・ ・ ・)!?」

「まぁ、こんなものでも役に立たないことも無い。肉体的には強靭になるからね、ヒヒッ。そのあたりの仕組みを解明できれば、きっと多くの人々を救うことが出来るだろう」



 ぐ、と、喉の奥から何かが迸りそうになった。

 しかしそれを押し留めようとは思わなかった、アレクフィナ達と共に研究室に立ち入ったあの時からずっと、堪えてきた何かを押さえつけようとはもう思わなかった。

 こいつに、この男に、一言物申さねばならなかった。



「ド……!」

「興味深い話をされている所、恐縮なのですが」



 顔の前に手を置かれて、遮られた。

 行き場を失った感情が胸を痛めて、顔を顰める。



「よくわかりません。そんなことをして、どんな意味があるのでしょう」

「何だ、お前は?」

「アーサー、彼女の友人です」

「……リデル、友人は選ばなくては」



 しかも厳しい表情で父のように叱られた、不快なことこの上無かった。

 アーサーは何のつもりなのか、咄嗟にはわからなかった。

 こうして見る分には、どうやら冷静な様子だった。



 彼は最初から見ていたわけでは無いから、わからないのだろう、そう思った。

 もし最初から見て、聞いていたのなら、もっと激しい反応を示すはずだ。

 リデルの知っているアーサーならば、そうしたと思う。

 彼はリデルを押さえたまま、言った。



「それで、こんなことにいったい何の意味が?」

「お前のような素材に話など無い。理解できるような頭脳も無いだろうしな」



 ふんっ、と、心底見下した目でアーサーを見るドクター。

 彼は汚いものでも追いやるかのように手を「しっ、しっ」と振った。

 文字通り、どこかへ去れと言っているのだろう。

 ドクターがこれまで人並み以上に扱ったのはリデルだけで、その意味では彼は一貫していると言える。

 実際彼はアーサーを無視して、両腕を広げ、リデルに笑顔を向けた。



「さぁ! おいでリデル。実験はこれからが醍醐味だ。それにそんな素材と遊ぶだなんて、ヒヒッ、随分と寂しい思いをさせていたようだ。思えばあの子も寂しがりだった」



 たとえ寂しさを感じていたとしても、それはドクターには関係ないことだ。

 はっきり言って、気分が悪いを通り越して気味が悪かった。

 そしてそれ以上に、怒った。

 もうこれ以上は我慢できない、しない、そう決めた瞬間。



「今日は一緒にいよう。私と一緒に壮大な実験を見守り、そし」

「どういう意味が、あるんですか? その実験とやらに」



 その瞬間にも、アーサーは問うた。

 その実験に、どんな意味があるのか、と。

 彼にしては珍しくしつこく、そのしつこさのせいかドクターはかなり苛立った表情を見せた。



「私は! 私は今! リデルと話しているんだ! お前ごとき雑多な素材が割り込んでくるんじゃあ無い!」



 そして、逆にドクターの方が先に激高した。



「お前達は私の実験の糧となるしか能の無いクズ共だ! お前達と言う素材を人類が病を克服するのに有効活用するのが私の役目! 素材ごときが実験の意味を問うなど考えるだけで」

「なるほど、では」



 はっきり言うが、リデルにはアーサーの動きがわからなかった。

 認識できたのは、瞬きの間にアーサーがドクターの目の前まで移動した後だった。

 床の上を滑るように移動し、走るでもなく、一瞬で距離を詰めたのだ。

 これにはドクターも驚いたようで、ぎょっとした視線をアーサーへと向けていた。



「とりあえず」



 とりあえずと、アーサーは言った。

 ドクターとルイナの目の前で。

 リデルとアレクセイの目の前で。

 冷たい水槽の中に浮かぶ、物言わぬ人々の目の前で。



「貴方に会った人間が、皆思うであろうことをしましょう」

「な」



 そう言って彼は、真正面からドクターの顔面に拳を入れた。

 鈍い音が、響いた。



  ◆  ◆  ◆



自分が前言を翻すのは珍しいと、リデルは思った。



「――――……ヲグァッ!? ヘぶっハ!?」



 酷く、酷く鈍い、鈍すぎる音がした。

 殴られる形になったドクターはそのまま吹き飛び、床に一度跳ね、そして後ろにあったデスクにぶつかった。

 何かの材質で出てきたいたらしいデスクはぐにゃりと歪み、ドクターはその上に背中から倒れこんだ。



「ハ……あ、あ~……!」



 気のせいでなければ、ドクターの頬が奇妙な形に歪んでいた。

 口からボタボタと血を流していて、たまに塊が零れ落ちている。

 あれは、歯だろうか。

 口の中で奥歯が欠けて、中が切れて血を流しているのだ。



 見れば、ドクターを見下ろすアーサーの拳にも歪みがあった。

 指の骨が折れたのか?

 だとするなら、どれだけの勢いと力で殴ったのだろう。

 前言を撤回する。

 どうやら、アーサーは冷静でも何でも無かったらしい。



(……私のこの気持ちは、どうすれば良いのよ?)



 自慢では無いが、リデルは割と手が出る方である。

 頻繁にそんなことをするはずも無いが、激高すれば躊躇無くそうするだけの度胸はあるつもりだった。

 しかし今、先にアーサーがやってしまった。

 少しずるいと思ってしまうのは、胸の内でぐるぐると行き場を失ったこの感情のやり所がわからなくなってしまったからだ。



「よ、よくも……」

「気をつけろ! 見た目程ダメージは無いはずだぜ!」



 アレクセイの言う通り、ドクターは震えながらも起き上がった。

 歪んだ頬を手で押さえながらも起き上がり、そして自分を殴ったアーサーを睨み上げた。



「おのれ、よ、よくも……こんなぁ」



 泣いていた、はっきりと泣いていた。

 リデルの何倍も生きているだろう大の男が、滂沱の涙を流して泣いていた。

 涙と鼻水と血でぐちゃぐちゃになった顔を見た時、リデルは別の意味で衝撃を受けた。

 情けなく泣く大人などこれまで何人も見てきた、だがこれは違う。



 ――――これが、こんな奴が<魔女>か!



 ノエルやイレアナとはまるで違う、はっきり言えば、弱い(・ ・)

 勝てるかもしれない、そう予断した。

 倒せるかもしれない、そう油断した。



「よくも、この私に対して! 消費されるだけの素材の分際でぇえ――――っ!!」



 それが不味かった。

 いきなり飛び出しアーサーは身構えた、しかしドクターは彼に飛びかかるようなことはしなかった。

 彼が飛び出したのは、まるで違う方向だ。

 その先にいたのは。



「――――ルイナ!」



 しまった、と思った時にはもう遅かった。

 ドクターは懐から赤い液体の詰まった注射器を取り出すと、躊躇することなく、それをルイナの首に突き刺した。

 次の瞬間、狂おしいまでの叫び声が上がった。



  ◆  ◆  ◆



「ルイナ!」

「ルイナさん!?」



 リデルが呼び、アーサーが呼ぶ。

 しかしその声は届かない、狂おしい叫び声の方が遥かに大きかったからだ。

 叫び。

 叫びとしか形容しようの無い声を上げて、ルイナがアーサーに飛びかかった。



 アーサーは目を剥いた、ルイナの速度がそれ程の物だったからだ。

 と言うより、気が付いた時には反対側の壁――水槽だ――に背中をぶつけていたからだ。

 押さえ込まれている、ルイナに、あの漁村の少女に!

 速度だけでは無く、力も比べ物にならない程に上昇している。



「う、うぅ……っ!」



 手足は細い少女のそれなのに、首を絞める力は大の男の何倍も強い。

 振り払えない、アーサーの力をもってしても振り払えない。

 ぽたぽたと、赤い雫が顔に落ちてくる。

 それは血だった、赤い輝きを放つ眼から滴り落ちる血だった。

 涙のように、見えなくも無い。



「ド……ドクタアアアアアァァァッ!!」

「ヒヒッ、ヒヒヒッ! レディがそんな風に大声を上げるものじゃあ無いなぁ、リデルゥ」



 ドクターが注射したのは、間違いなく<アリウスの石>に関係する薬物だ。

 ルイナがすでにどれだけの量を投与されたのかはわからないが、さらにもう1本打つことがどれだけの危険か、想像できないわけが無かった。

 許せなかった! 怒りが湧き上がってきた! しかし何も出来なかった!

 リデルには、ルイナを救うことは出来ないのだ。



 その事実に言いようの無い口惜しさを感じていた時、何かに罅割れるような音が聞こえた。

 それはアーサーの背中を押し付けている水槽から響いていて、クモの巣状にどんどんと罅が広がっているのが確認できた。

 アレクフィナの魔術を受けてもビクともしなかった水槽が、ルイナの腕力によって破壊されようとしているのだ。



「ヒヒッ、素晴らしい! 素晴らしいじゃないか! ただの腕力での強化ガラスを!」

「アンタ! こんなことをして楽しいわけ!?」

「勿論! 当然じゃあ無いか! あの素材を解剖すれば、さぞこの薬と肉体の関係を理解できるだろう! 今から楽しみで仕方ない! ヒヒッ」



 リデルの額に、青筋が一つ増えた。

 我慢の限界と言う物があるとすれば、彼女は今まさにそれを超えようとしていた。



「任せろ!」



 アレクセイがアーサーを助けるべく、ルイナに体当たりした。



「……んなっ!?」



 しかし、ルイナは1歩たりとも動くことが無かった。

 怪我をしているとは言え大の男が突進して、僅かも怯んだ様子が無い。

 逆に、ぶつかってきたアレクセイを睨み、片腕をアーサーから離して拳の裏で彼を殴り飛ばした。



「おげぇっ……! こ、こいつっ!?」



 床に倒れ、きっちり3回転してようやく止まった。

 しかし起き上がることが出来ない、殴られた左の鎖骨が折れているらしく、痛みに顔を顰めた。

 一撃、それも女の腕で、あり得ないことだった、何と言う膂力りょりょくか。



「くっ……!」



 しかしそのおかげで、アーサーはルイナの腕から逃れる隙を見つけることが出来た。

 転がるように彼女から離れ、咳き込みながらも呼吸を整える。

 額に滲んだ汗は隠しようもなく、彼が脅威を感じていることを如実に語っていた。

 ゆらりと、アーサーを追う赤い瞳には、理性など少しも残っていない。



「ルル、ル……ルルルルルゥ」



 獣のような唸り声、どうすれば良いのか。

 いったいどうすれば、ルイナを救うことが出来るのか。

 アーサーにはわからなかった、そしてリデルにも、薬物の知識の無い彼女にはどうすることも出来ない。

 無力、情け無い程に無力だった。



 もし可能性があるとすれば、ドクターだろう。

 しかし見込みは薄い、彼は実験と言っていた、ルイナを「人間」へと引き戻すための治療法を考えているとは到底思えない。

 万策尽きて、リデルは唇を噛んだ。

 その時だ。



「ルル、ル、ル――ガアアアァッ!?」

「え?」



 ぶちん、と嫌な音がした。

 リデルが唇を噛み切った音では無論無い、それは筋肉が潰れる音だった。

 その音はルイナの身体から聞こえていた、それも一度で終わらず、二度三度と続いた。

 ぶち、ぶちぶち、ぶちぶちぶち、と。



 ルイナの身体が膨らみ、縮み、を繰り返す。

 頭を押さえて左右に振り、罅の入ったガラスに身を何度も打ち付けた、まるで身体の中の悪いものを潰そうとでもしているかのように。

 しかしガラスの方が耐え切れずに砕け、中に入っていた粘り気のある水が外へと流れ落ちた。



「ル、ギ、ギル、ルル、ル」

(――――た、耐え切れてない。自分の力に、耐え切れていないんだわ!)



 リデルにはわかった、その聡明な理解力で理解した。

 顎の力が強すぎて歯が砕ける、筋肉の力が強すぎて内側の骨を折る、骨が頑強すぎて潰れずに筋肉や内臓を貫いていく。

 薬によって増強された肉体の力が、いよいよ限界を超えて、少女の身体を逆に破壊し始めたのだ。

 早く手を打たなければ、何とかして薬物の効果を抑えなければ、ルイナの肉体が保たない。



 涙が溢れてきた。

 どうすれば良い、どうしたら良い。

 どんな手段を取ればルイナを、あの心優しいお姉さんを助けられるのか、このちっぽけな頭脳は何も考え付いてくれないのだ。

 ――――こんなにも、悔しいことが他にあるだろうか。



「……ふん」



 だと言うのに。

 だと言うのに、そんなリデルの目の前で、ドクターは興ざめだとでも言いたげな風で言った。



「何だ、失敗作か」



 その一言を聞いた時、リデルの中で何かが、しかし決定的な何かが切れた。

 確かに、切れた。



  ◆  ◆  ◆



「――――何だって?」



 ドクターは聞き返した、耳に手を当てて聞き返した。

 その視線が向けられているのはリデルであり、リデルもまたその視線を真っ向から受け止めていた。



「もう一度、言ってくれるかな、リデル。私が、何だって」

「何回だって言ってやるわよ」



 どうやらリデルが放った何かしかの言葉が、ドクターにとって良くないものであったらしい。

 そして彼女は、同じ事をもう1度言った。



「本当に失敗作なのは、アンタよ」

「……失敗作? 私が? ……ヒヒッ、ああ! 実験が上手くいっていないことを言っているのかな? ふふ、リデル。キミは少し誤解をしているのかな、実験と言うのは」

「違うわ、そう言うことじゃない」



 リデルは首を振り、言った。



「さっきの薬、どうしてルイナに打ったの?」

「なに?」

「アンタは凄い研究者よ、見てればわかるわ。そんなアンタがあと何本打てばルイナが……限界になるのか、わからないわけが無い。なのに、どうして打ったの? 自分じゃなくて」

「それは、そんなもの」



 ふ、と笑って、ドクターは答えた。



「まだ効果の程を把握していない薬品を私自身が使えば、実験の経過を観察できないからね……」

「そうね、つまりアンタは自分の薬を信じちゃいないのよ。少しも、これっぽっちも」



 ドクターは、優れた医者であり、研究者だ。

 多くの医薬品を作り、実際にいくつもの難病を治療することに成功した。

 だがその実、リデルはドクターの心に潜む陥穽を見逃さなかった。

 彼女はこの1週間、ずっと見ていた。



 ドクターは、母の話を良くしていた。

 病で亡くなったリデルの母を見て、あらゆる病気に打ち勝てるように研究を始めたのだと。

 彼はきっと、弱っていく母のことをずっと見ていたのだろう。

 そして同じ病で死んでいく他の者達を見て、彼らの身体を切り開いて調べたいと思ったのだろう。



「アンタはアンタが作った薬を信じてない。だから何百人、何千人もの人間に実験をしないと安心できないのよ」



 一つの医薬品を作るのに、何百人、何千人もの犠牲が必要なのか?

 リデルの出した答えは「ノー」だ、あまりにも効率が悪すぎる。

 もちろんリデルが薬学・医学に疎いだけかもしれない、それでもおかしいとしか思えない。

 ならば、それは正しくないことなのだ。

 病気が治った子供からの手紙を後生大事に持っているのも、不安だからだ。



「アンタの薬を一番信じていないのは、アンタ自身よ」

「それは違う、誤解だよリデル。私はもちろん、自分の薬に自信を持っている。ただ、万が一と言うこともあるものだ」

「それを他人に強いるの? アンタの言う「万が一」のために、何人も死ななきゃいけないの?」

「……リデル、キミは優しい。しかしあれらはただの素材だ、人間では無」

「その差別こそが! アンタの都合の良い心を覆い隠す隠れ蓑よ!!」



 リデルは母を知らない。

 もしかしたら遠い記憶の中にあるのかもしれない母、幼い頃に抱かれたこともあったのかもしれない。

 その笑顔を思い出せない、母。

 しかしこれだけは言える、あの父との間に自分を産んでくれた母ならば、きっと。



「私はママのことを知らないわ。でもきっとアンタに診て貰って後悔はしていなかったと思う」

「そうだ! 私はあの子を知っている、心優しいあの子があんな病気で死ぬなんて納得できなかった」

「ママを言い訳にしないで! まるでママが何千人も殺してほしがってたみたいになんて、絶対に言わせない!」

「そんなつもりは無い! 私はただ……ただ、あの子のために」

「ママは病気で死んだのかもしれない!」

「そうだ、そうだよリデル! 悔しいじゃないか、だから私は医者として研究者として、新薬を作り続けるんだ!」

「でも今は! アンタこそが――――」



 ドクターの病気と、それを直す薬への執念は凄まじいものがある。

 だがそれと、何千人もの人間を実感体にすることはイコールにはならない。

 決して、イコールにしてはならないのだ。

 




「アンタこそが、何千人もの命を奪う病気そのものよ!」




 母のかかった病気は、何千人もの命を奪うものだったと言う。

 ドクターの殺す千人と、病が殺す千人。

 両者に、いったいどんな差があるのだろうか。



「な……な?」

「私はママのことは知らない。でもママが今のアンタに身体を任せるとは思えない。少なくとも、私は思わない」

「な、う……わ、私が、病気と同じ? 違う、私は……私は偉大な医者だ! これからも薬を作り続ける、私に治せない病気なんて無いんだ! あの子の病気だって、今の私なら治せるんだ! 治せるんだよ!?」

「例え病気が治るって言われたって、アンタの薬なんか信じない。信じてなんて、やるもんですか」

「う、うぅ、ヒ……よ、よせ、やめろ。それ以上言うな!」



 激情のままに、衝動のままに、そして自分の信じる母の像のままに。



あの子(・ ・ ・)の顔で(・ ・ ・)そんな(・ ・ ・)ことを(・ ・ ・)言うんじゃ(・ ・ ・ ・ ・)無い(・ ・)!!」



 ドクターの悲痛な叫び声が響く。

 それはまるで、自分自身の宝物を守ろうとする子供のような叫び声だった。

 それに対してリデルは言った、叫んだ、宣言するように、宣告するように。



「私も! ママも! そんな血で出来た薬なんていらない!!」



 その宣告が何をもたらすのか、考えもせずに。



   ◆  ◆  ◆



 変化は劇的だった。

 ドクターは奇怪な叫び声を上げると、リデル目掛けて駆け出したのだ。

 リデルが「あっ」と叫び声を上げる、気付いた時には馬乗りの体勢で首を絞められていた。



「違う違う違う違うこんなのは嘘だこんなのは嘘だこんなのは嘘だこんなのは嘘だあの子がそんなことを言うはずが無いあの子がそんなことを言うはずが無いあの子がそんなことを言うはずが無い」

「う……あ……っ」

「そうだそうだそうだそうだこの子は病気なんだこの子は病気なんだこの子は病気なんだこの子は病気なんだ治さないと治さないと治さないと治さないと私が私が私が私が」

「か、はっ……!」



 ドクターはと言えば、真顔だった。

 無表情とは違う、ただ全ての感情が死んだ顔だった。

 そして真顔であるが故に、ドクターの受けた衝撃の大きさを物語ってもいた。



(な、何よ、コイツ……!?)



 真顔でブツブツ言いながら首を絞めてくるドクターに、リデルは怯えを感じた。

 もちろん、想定していなかったわけでは無い。

 リデルの言葉を聞いて平静を保つことは出来ないだろうと踏んではいた、しかしここまでとは想定の外だった。

 それ程までに、と言うことなのか。

 リデルの洞察は、それ程までに的を射ていたのだろうか。



「キミは病気なんだキミは病気なんだキミは病気なんだキミは病気なんだおかしいおかしいおかしいおかしい嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ」

「……ッ」



 強まる力、重み、顔。

 その全てに気が遠くなりそうになった頃、みしり、と音がした。

 それはドクターの顔面がひしゃげた音であって、より具体的には、横合いからのアーサーの蹴りが突き刺さった音だった。



 悲鳴を上げ、もんどりうって倒れるドクター。

 咳き込むリデルを抱えるようにして引き摺り、アーサーはドクターから彼女を遠ざけた。

 血が噴き出す鼻を押さえながら、ドクターが狂ったような笑い声を上げる。

 ぞっとした、リデルとアーサーはその感覚を共有した。



「く……狂ってる……」



 ような、では無く、はっきりそうだと決め付けた。

 しかし確かに彼は狂っていた、誰が見ても、狂人にしか見えなかった。

 彼は今、はっきりと狂人だった。



「おい! こっちの嬢ちゃんがやべぇぜ!」



 2人が意識をどうにか他へ向けられたのは、アレクセイの声があったからだった。

 リデルははっとして、今も肉体の崩壊に苦しんでいる女性の下へと走った。



「ルイナ!」

「ルル……ル、ルル、ル」



 熱い。

 ルイナの身体は異常な程に熱かった、そして触れた所がもごもごと何かが蠢いている感覚がある。

 身体の中で肉が盛り上がり、縮み、骨が潰れ、伸びて、刺さる。

 口の中でごぼごぼと音がしているのは、血の塊を吐き出しているからだ。



「ルイナさん」

「どうしよう、このままじゃ」



 このままでは、死んでしまう。

 死んでしまう、ルイナが死んでしまう。

 いや、そもそも「ルイナ」は本当にこの肉体に宿っているのだろうかと、怖い想像をしてしまう。

 もうルイナは戻ってこないのでは無いだろうか、そう思ってしまう。



 何も思いつかない。



 さっきと何も変わらない、良い知恵が何も思いつかなかった。

 誰か、誰でも良い、誰でも良かった。

 誰かルイナを救ってくれと、心の中で叫びそうになって、そして。



「――――!」



 アーサーと、目が合った。

 彼もまた、リデルと同じような目をしていた。

 救いを、助けを求める、そんな目だ。

 その目を見て、リデルは思った。



(――――違う!!)



 頼るな(・ ・ ・)甘えるな(・ ・ ・ ・)

 知恵を(・ ・ ・)出すのは(・ ・ ・ ・)自分だ(・ ・ ・)。 



(私は軍師よ。私以外の誰が知恵を出せるって言うのよ……!)



 事は軍略でも兵法でも無い、医学と薬学の分野。

 専門外の、分野。

 それでも、何とかしてみせる。

 何とか、しろ。



 頭をフル回転させる。

 脳細胞を最後の一つまで使い尽くす勢いで、考える。

 策を。

 策を、作る。



「……?」



 その時、ふと違和感を感じた。

 先程までブツブツと続いていたドクターの声が、全く聞こえなくなっていることに。

 ぞっとした心地を感じて、リデルはドクターの方を振り向いた。



 いつの間に移動したのか。

 彼はデスクのあった場所まで這い、何かを掴んでいた。

 すなわち、あの赤い薬――<アリウスの薬>を。

 何をするつもりなのか察して、リデルは叫んだ。



「ヒヒッ、ヒヒヒッ。治す。治せるんだ、私の薬なら、どんな病気だって――――!」



 アーサーがリデルの叫びに反応して飛び出した時には、もう遅かった。

 ドクターは<アリウスの薬>の注射器を、己の首の頚動脈に突き立て――――……。


最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。

どうにかしないと、の6章ですが、そろそろ終息へと向かっていきます。

ここに来てリデルの親に関する謎が深まってきたわけですが、ターニングポイントとなる予定のこの6章で深まった謎、7章でまた少し明らかになります。

少しずつ情報を開示していくのも、物語の醍醐味ですよね。

それでは、またどこかで。


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