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6-7:「やめて」

引き続き残酷な描写があります。

ご注意下さい。

 その騒動に対して、ドクターが感じたのは煩わしさだった。

 怒りを感じるでも憤りを覚えるでもなく、ただ煩わしいと思ったのだ。

 彼にとっては、自分の研究を阻害する要因は全て厭わしいものでしかなかった。



「何だ、何が起こっている」

「だ、脱走……いえ、暴動です!」

「暴動?」



 研究室に飛び込んで来た『施設』の研究員は、泡を食って言った。

 収容している素材――ほとんどがフィリア人だが、一部にはそれ以外の人種も存在するが――の一部が「鳥籠」から脱走し、他の「鳥籠」を解放する等、混乱を助長していると。

 しかしそれだけなら、想定の範囲内。



 問題は、素材達に先んじて動物達の実験室が開け放たれたことだ。

 厳重に管理されている動物実験棟で、何故そんなことが起こるのか。

 しかもその開放の仕方が、奇妙だった。



「どう言うことだ、ロック管理は徹底していたはずだろう」

「そ、それが……緊急用の解除コードが使用された形跡があって」



 実験室の鍵が、内側から開けられたことだ。

 実験では動物が異様な興奮状態に陥ることも考えられる。

 そう言う場合に、実験室の中から外へと脱出するためのシステムが特別に組まれていた。

 だが今まで使用されたことはほとんど無く、そういった意味ではドクターも忘れていた。



「し、『施設』内は大混乱です! どうしましょう!?」



 今にも泣き出しそうな研究員を前に、ドクターは考えをまとめようとしていた。

 まず考えたのは、目の前にいる能無しの研究員を素材の列に加えることだった。

 次に考えたのは、この騒動で停滞を余儀なくされるだろう研究の数々のことだ。

 正直な所、脱走だり暴動だりなどのことは考えたくも無かった。



「おい、お前! いつまで寝ているんだ?」



 その時、ドクターが視線を向けたのはハウラだった。

 青痣を作った顔を庇うように蹲っていた彼女は、主たるドクターの言葉に、ゆっくりとした動作で立ち上がった。

 打ち据えられたが故のゆっくりとした動作だったのだが、それがさらにドクターを苛立たせた。



「さっさとしないか、この役立たずが! 早く行って、適当に場を収めて来い!」

「――はい、ドクター――」



 その時だった。

 何かを引っ掻くような音が室内に満ち、その場にいた誰もが耳を押さえた。

 そして、少女の声が降って来た。



『あー、あー……これ、本当に聞こえてるのかしら?』



 『施設』の部屋には、ある部屋から声を全体に飛ばすための道具がある。

 それは各部屋に配置された<アリウスの石>によって拡散されるが、一方通行である。

 先程から響いている警報も、実は同じ石から出ている。

 その石から聞こえてくる声は、少女の声だった。



「おお、リデル。リデルじゃないか」



 その声に対して、ドクターは笑顔を浮かべた。

 それは年下の親戚の悪戯を見咎めた時のような顔だが、どこか歪んでいた。



『えーっと、誰か。と言うか皆、聞こえてる?』

「聞こえているよも。ヒヒッ、そんな所で、いったい何をしているのかな?」

『私は――――……』



 別にドクターの言葉に応じるわけでも無いだろうが、石の向こうの少女は話を始めた。



  ◆  ◆  ◆



「皆、聞いて! 今こそが逃げ出すチャンスなのよ!」



 薄く輝く赤い石を前に、リデルは言った。

 これが『施設』の全体に響いているのかどうか、ちょっと自信が無い。

 しかしここはハウラの情報を信じるしか無い、だからリデルは語り続けた。



「今、私の仲間が3つある収容所の「鳥籠」の鍵を開けて回ってるわ。『施設』の連中は、逃げ出した動物達の手一杯。そして、何より――外には、助けが来ているのよ!」



 今回、リデルが執った策は単純なものだった。

 それは一言で言えば、「『施設』の管理能力を消耗させる』」、これに尽きた。



「この『施設』には兵はいない! 管理してるのはたかだか100人か200人! それに比べて私達は10倍以上の人数がいるわ! わかる? 皆で逃げれば、助かるのよ!」



 逃げる、助かる。

 そのワードだけを繰り返す、戦えと言えば腰を引かせる者が大半だとわかっていた。

 だから伝える言葉が、単調な方が良い。

 アレクセイが「鳥籠」周辺に作ったらしい十数人か数十人の同調者達も、同じことを吹聴しながら「鳥籠」の鍵を開けて回っているはずだ。



「おい! そろそろヤバいぞ!」

「潮時かしらね。……良い? 皆? 今すぐ逃げて! 隣の人の「鳥籠」の鍵を開けて! 鍵を開けるのは、いつだって自分達なんだから!」



 声には力がある、リデルは旧市街でそう学んだ。

 だからあえて、『施設』にいる全員に声を届かせる方法を取ったのだ。

 これも、ハウラの情報があればこそだった。



 策のポイントは3つ。

 第1に、収容者達と動物達を外に出して混乱を作ること。

 第2に、外のアーサー達を内部へと引き入れること。

 第3に、内外の混乱に乗じて『施設』の中枢を制圧する。

 中枢、すなわちドクターを捕らえるのだ。



「ドクターさえ押さえれば、『施設』は落とせるわ」

「そうかい」



 リデルの言葉に、アレクセイは気の無い返事を返した。

 怪我が悪いと言うよりは、細かいことに本当に興味が無いのかもしれなかった。

 ただ黙ってリデルの傍にいて、彼女を守ってくれている。



(そして、ハウラね)



 ドクターと並んで重要なのが、やはりハウラの存在だった。

 ドクターに完全に支配されているようだが、それでも『施設』の実質的な管理者はハウラだと言っても良い。

 研究者達は大なり小なり自分の研究にしか興味が無い、『施設』内の管理に手や時間を割きたがらないだろう。



 <魔女>たるドクターと、管理者たるハウラ。

 この2人を押さえてしまえば、『施設』は陥落したも同然のように思えた。

 そこまで考えて、リデルははっとした。

 通路に出た所で、逃げ出した実験動物の群れに遭遇したのだ。



  ◆  ◆  ◆



 研究者達が脱走した人々へ対処するのを阻害するために、実験棟の中で動物達を解き放った。

 実験棟そのものの扉は開けていないから、動物達の大半は実験棟の外の人々と遭遇することは無い。

 まぁ、ダクトを通過できる蛇などが他にいれば別だが。



「シャア――――ッ!」



 その蛇はリデルの傍らを這い駆けると、尾の一撃で通路を爆走していた動物達を一打ちした。

 角を持った中小型の動物の群れ――元々の大きさがどの程度だったのかは、わからないが――は、それで足を止めた。

 そして、足を止めた蛇と動物達が睨み合いになり、膠着した。



「大変だなこりゃあ……お、おい!」



 その中に、リデルは足を踏み入れた。

 胴体を乗り越える際、舌を出しながら頭を寄せてきた蛇の頭を一撫でした。



「…………」



 リデルは、動物の群れの先頭に歩み寄った。

 そこには十数匹の群れの中で最も身体の大きな獣がいた、薄く赤い瞳がじっとリデルを見つめている。

 彼が、群れのリーダーだろう。

 そのリーダーに、リデルは近寄って行った。



「危ねぇ!」



 その時だ、彼が動いた。

 大きくいななき、前足をリデルの身長よりも高く上げ、そのまま振り下ろした。

 少女の頭を、踏み砕かんとするような動きだった。

 リデルはそれを正面から受けた、首飾りが輝きを放つ。



 止めた。

 前足の一撃を止められた彼は、数歩たたらを踏むような仕草をした。

 小さな嘶きを何度か繰り返して、再び最初の状態に戻った。

 つまり、睨み合いだ。

 それでもリデルは歩みを止めなかった、止めずに近付き、そして。



「んなっ!?」



 驚く人間が自分しかいないので、アレクセイは反応に困っていた。

 と言うのも、リデルが群れのリーダーにいきなり抱きついたのだ。

 首根っこにしがみ付き、上半身を獣の毛並みに押し当てている。

 当然、彼は暴れた。



「痛っ、あたっ。この、大人しく……しなさっ、このっ!」



 角がガツガツと頭に当たる、蹄が足を踏みつける。

 何というか首飾りの存在があればこその無茶だった、傍から見ていると痛々しいので、とても見れたものでは無いが。

 両手で毛を掴み、しがみつく、離さなかった。



「こんのっ……!」



 そして、最後には。




「痛いわねっ!!」




 怒鳴った。

 ぶるり、と、リーダーのみならず群れ全体に震えが伝播したようだった。

 その伝播が終わった頃、彼らは次第に大人しくなっていった。

 リデルの気迫に圧されたわけでも無いだろう、そこまでの芸当はリデルには出来ない。



 しかし、リデルの持つ何かに感応されたのだろう。

 島にいた頃から、動物や自然と共に生きてきたリデル。

 損な彼女だから、実験を受けてもなお動物の本能を失わない彼らに何かを感じさせたのかもしれない。



「……よしっ」

「ああ、何と言うか。本当、お前さんにはびっくりするよ」



 満足げに身を離すリデルに、アレクセイは呆れたように息を吐いた。

 本当に無茶をする少女だ、アレクセイの知るどの少女とも違う。

 育ちのせいなのか、それとも彼女自身の資質によるのか。



「行くわよ、アレクセイ。このままドクターの所まで……」

『……ガガ……ガ……デル……』



 その時、先程のリデルと同じように、別の声が『施設』に響いた。

 リデルは足を止めた、その声に聞き覚えがあったからだ。



『リ……デェル。リデル。ああ、わるい子だ……』



 ぞっとするような、生温かい声だった。



  ◆  ◆  ◆



「リデル、ああ、悪い子だ。そんなことをして」



 たとえ自ら管理はしていないとは言っても、それでもドクターは『施設』の支配者だ。

 彼の研究室には他の部屋には無い機能がいくつか備わっている、上下の階層を移動できる仕掛けなどもその一つだ。

 そして彼の部屋には、全『施設』に声を飛ばす<アリウスの石>も備わっている。



「まさかキミが、そんなことをするなんて。ああ、でも、ヒヒッ……研究に没頭するあまり、キミを退屈させてしまったのかな」



 怒ってはいない、憤ってもいなかった、煩わしいとすら思っていないようにも見える。

 どうやらリデルを構う、あるいはリデルに構われることへの喜びの方が大きいらしい。

 研究室には、ドクター1人だけしかいなかった。



「なるほど、キミはこう言うのが好きなのかな。まぁ、こう言う場合に素材がどう動くのかも、ヒヒッ、悪いことにはならないだろう」



 うんうん、と頷く彼の足元には、人間が1人転がっていた。

 それは先程、ドクターに対して『施設』の混乱を訴えていた研究者だった。

 彼を中心として、楕円の形状に赤い液体が床に広がっていた。

 一目見ただけで、千切れた首の肉が死因だとわかる。



 当然、ドクターがわざわざ素材を無駄にするはずが無い。

 ここにはドクターしかいない、直前までいた人数を思えば、おのずと何があったかは想像がつくだろう。

 倒れている研究者の、まるで何かに噛み千切られたかのような喉から、断続的に血が噴出していた。

 生気を失った虚ろな目が、何か言いたげに虚空を見つめていた。



「良いだろう、キミがそれを望むなら。ヒヒッ、私としても興味があるからね、ヒヒヒッ」



 そう言って、ドクターは手元で何かの道具を弄り始めた。

 どう言う機構になっているのかはわからないが、何かの鍵のような物をデスクの上の小さな箱の中に差し込んでいた。

 そして、再び警報が鳴り響く。



「石を流し込んだ素材が、どんな風に動くのか。ヒヒッ、そう言えば広域での実験は私も初体験かなぁ」



 鳴り響く警報の中、1人の男の引き攣った笑い声が聞こえる。

 それはどこか調子を外した声であり、常人が発するような声では無いと思えた。

 実際、彼は常人では無かった。



 数多の医薬品や治療法を作り出し、一部においては救世主とすら呼ばれる彼。

 しかし彼は本当の所、そうした評価には興味が無かった。

 誰に何と呼ばれようと、言われようとも。

 彼の中には、彼の心には、1人の女性が棲み続けているのだから。

 ――――リデルの母親と言う、女性が。



  ◆  ◆  ◆



 気が付いた時、自分の「鳥籠」の鍵が開けられていることに気付いた。

 彼は、収容されている人々の中では「長生き」な方だった。

 時間を数えることなどとうにやめてしまっていたが、少なくとも2年間は『施設』の中で生活していた。

 そんな彼にとって、「鳥籠」の開錠は実験の開始を意味するものでもあった。



「…………?」



 しかし、今日は違った。

 「鳥籠」が開かれてもそこには研究者達の姿は無く、同じ衣服を着た――すなわち、素材用の粗末な患者衣――者達が、次々と「鳥籠」を天板の道上に引き上げ、開いていた。

 思考力が衰えている男にとって、何が起きているかをすぐに理解することは不可能だった。



 ただ、本能に近い何かに突き動かされるように、「鳥籠」の外へと出た。

 枯れ枝のようになった足はプルプルと震えていたが、確かに立つことが出来た。

 頭髪の無くなった頭を左右に振り、大きなざわめきと混沌の渦中にあるその場を見渡した。



「外だ! 外に出られるんだ! 故郷に帰れるぞ!」

「どんどん開けろ! 何でも良い、まだ下にいる奴らを解放するんだ!」

「外だ! 外だ! 外だ!」



 どうやら、比較的元気な者達が収容者達を解放しているようだった。

 中には男と同じように自分では動けない者もいるようで、他の者が手を貸している場面も見ることが出来た。

 そしてそれは、男に対しても例外では無かった。



「大丈夫か? ほら、手を貸しな」



 差し伸べられた手を、ぼうっとした頭で見つめた。

 しかし本能の故か、その手を取るべきだと思った。

 だから男は、骨と皮ばかりの腕をその手へと伸ばそうとした。

 そして。



 悲鳴が、上がった。



 男は最初、その悲鳴の意味を理解することが出来なかった。

 確かなのは、自分に差し伸べられた手が失われたと言うことだ。

 悲鳴が、連鎖していた。

 何が起こっているのか? 男の衰えた思考力では把握しきれない。



「ひいぃっ、何だこいつらはぁ!?」

「よ、よせ。やめろ、やめてくれぇっ!」

「ぐっ……ぐげっ、ぎゃっ」



 人が、人を襲っていた。

 どこかから現れた数人の収監者達が、「鳥籠」から逃げ出した人々を襲っていた。

 男に手を差し伸べた者も、その中の1人に飛び掛られていた。

 差し伸べた側の腕に噛み付かれて、悲鳴を上げて倒れこんでいた。



「……? ……?」



 男には、どうすることも出来なかった。

 ただ手を差し伸べてくれた者が腕を噛み千切られ、そして喉に食いつかれるのを見ていることしか出来なかった。

 思考が追いつかなかった。

 たとえ追いついたとしても、衰弱した身体では何も出来なかっただろう、つまり。



「ルル、ルルルルゥ……!」



 故に、逃げることも出来なかった。

 男は「鳥籠」から出られた喜びも意味も理解できないままに、ただその場に座り込んでいた。

 周辺から悲鳴が上がる中、そのまま。



「……あがっ」



 そのまま、人間の姿をした獣に、喉を食い千切られたのだった。

 2年ぶりの外の光景を見ることは、叶わなかった。

 だが幸か不幸か、彼がその事実を理解することは出来なかった。



  ◆  ◆  ◆



 アレクセイは声を上げた。

 何と叫んだかは重要では無い、「あっ」だろうと「うおおお!」だろうと行動は変わらない。

 彼はリデルの華奢な身体をひっつかむと、肩に担いで走り出した。



「逃げて! 逃げなさい!」



 リデルも叫んでいた。

 だがそれはアレクセイに向けて放たれたものでは無く、十数匹の実験動物の群れに対してだった。

 リデルの目の前で、赤い飛沫しぶきが上がった。

 どこかから現れた患者衣の男――これも、広い意味での「実験動物」――が、獣じみた唸り声を上げて襲い掛かってきたのだ。



 ドクターの放送の後に現れたそれは、間違い無く彼が放ったものなのだろう。

 赤い石、<アリウスの石>を体内に注入された収監者。

 茶色の髪に赤い瞳、本来はあり得ない色の組み合わせ。

 理性の色は見えず、獣のような声を上げて、一番後方にいた動物の首に噛み付いていた。

 動物達は甲高い鳴き声を上げて、思い思いの方向に駆け出していた。



「おいおいおいおい! 何だよアレァッ!?」

「ドクターの実験を受けさせられた人よ! 石を体内に埋め込まれたとか……」

「何だ、そりゃあ!?」



 考え得る限り最悪の言葉を聞いた、とでも言いたそうな顔でアレクセイは叫んだ。



「どうする!?」

「と、とりあえず、逃げるしか無いわ!」



 実際、もう策は無いのだ。

 リデルの策は『施設』の混乱を誘発させることにある、そしてその混乱を制御する術は無い。

 つまり『其の無備を攻め、其の不意に出ず』。

 『施設』の人間は収監者や動物達が脱走することを想定していない、ハウラから得た『施設』の構造図を見ればすぐにわかった。



「どうする!?」

「そうね、とりあえず……実験棟の外へ!」

「外? って、うおお!?」



 不意に、蛇が壁を這って天板をぶち抜いた。

 アレクセイの肩からひょいとリデルを巻き上げ、ダクトの中へ引き上げる。



「ほら、アンタも!」

「~~。ったく、こちとら怪我の治りがおせぇってのに……よ!」

「んっ」



 壁を蹴ってジャンプし、ダクトから差し伸べられた小さな手を掴み、しかしそれを頼りとはせず、すぐに天板の縁に指をかけて自分で登った。

 正直、リデルの補助はほとんど役に立たなかったとだけ言っておこう。



  ◆  ◆  ◆



 ダクトの中はアレクセイにとっては多少手狭だったようだが、蛇の案内もあって、何とか迷うことは無かった。

 もちろんアレクセイは蛇に道案内されることに不自然を感じていたわけだが、リデルと付き合う上では必要の無いものだと思って、あえて無視した。



「よっ、と。しかしお前、意外と身軽なんだな。いやその蛇もすげーけど……」

「……開いてる」

「あ? ああ、開いてるな。それがどうかしたのか?」



 『施設』の各部署はダクトで繋がっている、それは収容所から実験棟へと導かれたアレクセイも良く知っている。

 2人が降りたのは、実験棟と他の棟を隔てる扉の前だった。

 元々は3重の隔壁で隔てられていたそこは、今見る限りにおいて、開放されていた。



「おかしいわ、私はここは開けなかったのに」



 動物達が外に出て収監者達と衝突しないように、そのための処置だった。

 でも今は開いている、研究員が開けたのか、あるいはドクターの手によるのかもしれない。

 いずれにしても今は開いている、そこは受け入れなければならなかった。



 それに、妙に静かなことも気にかかった。

 ここは実験棟と他の棟を繋ぐ唯一の道だ、本来なら研究者達がもっといても良いのでは無いか?

 あるいは、もう避難したのだろうか。

 しかし避難したとしてどこへ行こうと言うのか、『施設』は限りなく隔離された空間なのだ。



「おい! 1人で先に行くんじゃあ……!」

「え?」



 考えに没頭していたせいだろう、リデルは無意識の内に扉と隔壁を潜っていた。

 そして、見た。

 実験棟の内から外へと溢れ出したのだろう、研究者達の姿があった。

 もう一度言う、扉は一つしか(・ ・ ・ ・)無い。



 逃げ道も1つしか無く、また、追いかける道も1つしか無い。

 だから逃走者と追走者は、同じ道を通ることになるのは必然。

 例えば外に出ようとする研究者と、ドクターが『施設』内に放った実験体が鉢合わせになることもある。

 ここの扉をドクターが開けたのなら、そうなる可能性は十分にあった。



「――――!」



 いた、4人……いや、4「匹」だ。

 性別・年齢はちぐはぐだが、理性を失っていると言う点では共通している。

 そして、同じく4人……4「人」だった何かが、床に転がっていた。

 性別・年齢はちぐはぐだが、倒れて動かないと言うのは共通していた。



 心臓が、痛みを得た。

 ぐちぐちと肉や繊維が千切れる音、その音の元を目にした瞬間、リデルは全ての動きを止めてしまった。

 通路にぶちまけられた赤の色の濃さに、動きを止めてしまった。

 それが不味かった。

 気が付いた時には、足首を掴まれていた。



「ひ、ぁ……!」



 物凄い力で引かれて、スカートを翻すようにして片足を上げられるような体勢になった。

 そこで後ろから腕を引かれた、アレクセイだった。

 彼はリデルの足を掴んでいた手を蹴り払うと、リデルを実験棟の方へと突き飛ばした。



「わっ、て。アレクセイ!」

「ぬおっ、やべ……! ヤバいから、こっち来るなよ!」



 尻餅をついたが、蛇が下にいたおかげで助かった。

 だが自分の不注意のせいで、アレクセイはドクターの実験体との乱闘を余儀なくされている。

 隙間から見えた限りでは、2人に飛びつかれて倒れこんでいるようだった。

 1人では無理だ、しかも怪我をしている。

 ――――何か、しなくては!



「行って! アレクセイを助けて!」



 リデルに頼まれた蛇は、ひゅっと音を立てて床を這って行った。

 今できることはこのくらい、後は、身を隠すべきだろうか。

 そう考えながら、リデルは立ち上がった。

 扉と隔壁の向こう側からは、今も戦いの気配が伝わっている。




「――リデル様――」




 その時だった、後ろから声が聞こえた。

 振り向く、長く続く白い通路が視界に入った。

 そしてその通路のちょうど真ん中に、彼女はいた。



「あ……」



 茶色の髪、赤く輝く不気味な瞳、薄汚れた患者衣から伸びる白く細い手足。

 輝きながらも虚ろなその瞳は、ぼんやりとリデルを見つめていた。

 ゆっくりと振り向き、唾を一つ飲み込んで、リデルも彼女を見返した。



「……ルイナ」



 名前を、呼んだ。

 それが引き金だったのか、そこからの変化は急速だった。

 唸り声、牙を剥き出しにして開いた赤い口。

 そして――――……。



  ◆  ◆  ◆


 頬に、べしゃりと何かが貼り付いた。

 鉄錆の香りを漂わせるそれは赤い液体で、リデルの顔の右半分に振りかかった。

 瞳は見開かれて、目の前に転がったそれを見ている。



「ハウラ」



 囁くように呼べば、かふっ、と言う、呼吸を失敗したかのような音が聞こえた。

 まだ生の輝きを残した瞳が、じっとリデルのことを見つめていた。

 浅く、そして早く上下する胸が、嫌に目につく。

 掠れるような呼吸音が、嫌に耳につく。



「……ハウラ!」



 叫んで、取り縋った。

 身体に触れると、ぬるりとした感触が掌に残った。

 気が付けば床一面に水溜りが出来ていて、しかもそれは小さな噴水のように流れ続ける血によって、まだ大きくなるように見えた。



 止めようが無かった。

 傷口は首にあって、手で押さえようにも、そもそも肉が抉られていてどうしようも無いのだ。

 傷は深く、噛み千切られたようなそこからはとめどなく血が噴き出し続けている。

 呼吸器にも傷がついているのか、呼吸はほとんど咳と同じだった。



「……何よ」



 この気持ちを、どう表現すれば良いのだろう。

 哀しみとは違う、怒りとも違う。

 それでいて、この胸を抉るような喪失感は何なのだろう。



「何よ。何だったのよ、アンタ」



 庇われた、それだけはわかる。

 だが今だけでは無い、この女性は何かにつけてリデルを助けてくれていた。

 不自由の無いように、不満の無いようにと、リデルの願いを全て叶えようとしてくれた。

 リデルには、その理由が少しもわからなかった。



 ハウラとは、何者なのだろうか。

 何者、だったのだろうか。

 彼女はリデルに何を想い、何を願ったのだろうか。



「いったい、何だったのよ……」



 ハウラは、答えない。

 いや、何かを答えようとはしていた、何か言おうとしていた。

 しかし、それは叶わない。

 何かを言おうとしても声を作れず、弱々しい咳しか吐けないのだ。



 死にかけている。

 死につつある。

 死にいく者を前に、リデルはどうすることも出来ずにいた。

 そしてそんな彼女の前に、細い足が見えた。



「……ルル、ル、ル……」

「……ルイナ」



 ルイナだった。

 口元をべったりと朱に染めた彼女は、爛々と赤く瞳を輝かせてそこに立っていた。

 何が起こったのかなど、もはや言うまでも無いだろう。

 そして、これから何が起こるのかも。



「……やめて」



 懇願こんがん、だった。

 だが、何に対する懇願だったのだろう。



「やめて、ルイナ」



 ルルル、と獣じみた唸り声を上げてルイナが飛び掛ってくる。

 もう庇う者はいない、次の瞬間には、リデルは今のハウラと同じ状態になって床に転がっているのだろう。

 だが、リデルはそれを恐れているのでは無かった。



「やめて、ルイナ――――!」



 彼女が恐れているのは、それは。

 それは、ルイナに食い殺されることでは無く――――。




「――――リデルさん!」




 そして、声が聞こえた。

 急に現れた彼の姿に驚いたのか、ルイナは一旦跳び退すさった。

 当然、彼の姿はリデルの視界に入ることになる。



「あ……」



 途端、どうしてだろう、涙が溢れそうになった。

 茶色の髪、少し伸びている、肌も少し焼けているように見える。

 ただ、以前よりも背中は逞しくなっただろうか。

 でも、変わっていない。



 その必死そうな顔は、優しさの見える瞳は、彼女の記憶と少しも変わる所が無かった。

 変わっていないことに安堵して、リデルは叫んだ。

 何のためにかはわからない、何でも良かった、叫びたかった。

 怒りでも哀しみでも無い、ただ、力の限りに。

 リデルは、叫んだ。




「ア――――サ――――ッッ!!」



最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。

1話1万字を週刊と言うのも、なかなかに大変ですが、しかし無事に出せて良かったです。

話の進度的に、そろそろリデルにも成長して貰わねばならないのですが……。

……キャラクターの成長って、どう描けば良いのでしょうね。

どれだけの作品を描いても、このあたりのことはまだまだ良くわかりません。

それでは、また次回。


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