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6-6:「人を救うために必要なコト」

残酷な描写、暴力表現があります。

ご注意下さい。

 見ただけで吐き気を催すと言う事態は、実の所そうあるものでは無い。

 そのような事態があるとすれば、それは言葉に出来ぬ程に醜悪で、悪辣で、汚辱と汚濁に塗れている、そんなような事態だろう。

 そして今、まさに、リデルはえも言えぬ吐き気に襲われているのだった。



「なん、なの、ここ」



 息が詰まって、上手く言葉を続けることが出来なかった。

 喘ぐように、と言う表現が一番正しいかもしれない。

 胸の奥で何かがつかえてしまい、呼吸や言葉を塞き止めている。

 リデルを苛んでいるのは、そう言う感覚だった。



 生きている者は、おそらく(・ ・ ・ ・)いなかった。

 そこには無数の人影とその一部・ ・があったが、いずれもピクリとも動かない。

 肉、そう呼ぶべきものしか無い。

 ありとあらゆる肉が並べられた場所、それが、リデルがその研究室に抱いた感想だった。



「~~♪ ~~♪」



 そしてその中心に、ドクターがいた。

 薄汚れた白衣の背中は見間違えるはずも無く、調子の外れた鼻歌は場違いな程に陽気に響いていた。

 吐き気を催す程に醜悪な、その場所で。



「……こいつは」

「し、趣味が悪いぜ……」

「ふ、ふひひ、気分が悪いんだなー……」



 床に置かれた水槽には、何が入っている?

 ――首と手足の無い、腹部が開かれ空洞を見せている人間の身体。

 棚に並べられた瓶には、何がしまわれている?

 ――血止めの栓が施された胃袋や心臓等の内臓類、リデルの知識ではわからない物もある。

 壁に打たれた杭には、何がかけられている?

 ――人間の首・手・足、異臭が漂わないのは防腐処置でもしているのか。



 ぐち、ぎち、と言う音は、ドクターの方から聞こえてくる。

 見れば彼は金属製の寝台の前に立っていて――部屋の入り口に立っているため、彼の手元を覗くことは出来ない――音は、そこから響いている。

 だがあれは何だ、人の、女の足では無いか。

 ドクターが音を立てる旅にビクビクと揺れるあれは、まだ生きている証では無いのか。

 生きたまま人間を切り刻んでいるのでは無いのか、それは次の瞬間に確信へと変わった。



「――――!」



 怖気おぞけが走った。

 ドクターが鼻歌と共に側の銀の器の中にごとりと無造作に置いたのは、未だ鼓動を続け血を吐き出し続けている肉の塊だった。

 こみ上げてくる吐き気を抑えることが難しくなった、その時。



「――ドクター――」



 リデルの数歩前に立っていたハウラが、ドクターに呼びかけた。

 不意に音が止まる。

 そして彼はゆっくりと振り返り、血が跳ねた顔でハウラ――では無く、リデルの姿を認めると。



「やぁ、良く来たね」



 むしろ清々しい程の笑顔で、優しく語りかけてきたのだった。



  ◆  ◆  ◆



「薬を一つ作るのも、意外と大変でね」



 何をしているのかとリデルが問うた時、ドクターは答えた。

 笑顔で、優しげに。

 無垢な娘に数字の基礎を教える父親のような様子で、彼は言った。



「世界で最も発展を謳歌しているソフィア人であっても、病気や怪我とは無関係ではいられない。ヒヒッ、忌々しいことだ、全く。そうは思わないかね?」

「病気、と怪我……は、嫌なものよね」

「そう! 嫌なものだ」



 彼は言った。

 自分はここで「研究」を行っている。

 自分はここで「実験」を行っている。

 人類を、救うために。



「人類のため!?」

「その通り。薬に限らず、全ての医療技術には研究と実験がかかせない。キミだって、効果の程がわからない薬を飲みたいとは思わないだろう? 私も、病を治せない粗悪品を患者に投与したいとは思わない」

「じゃあ、素材って言うのは」

「素材? ああ、あれらは良質な実験材料だよ。多少、健康状態が良くないのが困りものだがね」



 人間の死因の内、病気や怪我は千年以上前から相当の割合を持っている。

 それを克服するだけで、いったい何人の人間が生き長らえることが出来ただろうか。

 ドクターの研究とは、実験とは、つまる所そこに尽きるのだ!



 リデルとて風邪を引くことはある、島で生活していれば怪我をしたこともあった。

 その度、彼女の父は薬草を煎じて飲ませてくれたものである。

 だがその薬草も、先達の人々が危険を犯して薬草の効果を確かめてくれたからだ。

 つまり、人体実験の賜物なのである。



「例えばこの心臓だ。心臓の病は昔から人間を苦しめてきた。病を得た心臓を治療することは出来ない。だが他人の心臓を移し変える――私は「移植」と呼んでいるが――ことで、患者を元の健康な状態に戻すことが可能なのだ。ヒヒッ」



 心臓を、つまり身体の中身を入れ替えるということだ。

 リデルは考えたことも無い。

 だが一瞬、自分の前で弱り、死んで行った父の姿が脳裏を掠めた。

 その技術を使えば、もしかしてあの父も死なずに済んだのだろうか。



「だがこの技術を確実な物にするには、実に425の素材を使い潰さなければならなかった。血の流れがどういう風になっていて、どれだけの時間でどう移植すれば問題なく心臓が動くのか? ヒヒッ、それを知るために多くの素材が必要だった」

「……っ」

「うむ? 青ざめたねリデル。気分でも悪いのか? それは良くないな……後で元気の出る薬をあげよう。安心しなさい。栄養を集めたもので副作用も無い。これも素材への投与で出来た物だ」



 臓器移植! 医薬品! 手術!

 この世のありとあらゆる医療は全て、この『施設』で生まれたものだ。

 それも薬草等の民間療法とは違う、医学として独立した学問の一種としての医療だ。

 その確立のためには何百、何千という実験と研究が必要だっただろう。



「もちろん、辛いこともある。苦しい時もある」



 知らず内に握り締めていた拳、そんなリデルも、ドクターのその言葉には意外さを覚えた。

 フィリア人を素材と呼ぶ彼にも、そんな感情があったのかと。



「思うように実験が進まないこともある。ヒヒッ、そう言う時には、私も落ち込むこともある。しかしそう言う時には、私はある物を読むことにしているんだ」

「あるもの?」

「手紙さ」



 手袋を外した彼は――見れば、床には同じ術式用の手袋がいくつか転がっている――移動して、部屋の隅のデスクから何かを取り上げた。

 小さな便箋びんせんに入れられたそれは、手紙だった。



「ソフィア人の子供からの手紙だ。私はこれでも医学の世界では名が知れている方でね、協会にこうしたものが届くこともある。私はそれを一つ残らず私の下に届けるよう命じているんだ」



 それは、感謝の手紙だった。

 ドクターの開発した薬のおかげで病が治った者達の、ドクターへの感謝を示したものだった。

 実験が上手くいかない時、彼はそうした手紙を呼んで奮起するのだと言う。

 そこだけ聞けば、美しい話ではあった。

 病を治す薬を作るべく闘う男と、その男に感謝する子供、美しい話だ、しかし。



「そのために、フィリア人が何人死んだって良いって言うの!」

「フィリア人? 何だねそれは、聞いたことも無い。私が知っているのは、人間ソフィアに限りなく近い生態を持つ素材だけだよ」



 しかしそれは、おびただしいフィリア人の犠牲の上に成り立っているものだ。

 許せなかった。

 先程、通ってきた通路で死んだように寝台に縛られていたフィリア人達の姿を想い、リデルは震えた。

 1人のソフィア人の病を治すために、数百人のフィリア人が死なねばならない。

 そんな理屈があってたまるかと、そう思ったからだ。



「だが、まだまだだ。まだまだ足りない」



 一方で、こうも思う。

 病を治して貰った者達は、本当に心からドクターに感謝しているのだろう。

 彼らソフィア人からすれば、フィリア人を実験材料に新薬を開発したドクターは神に等しい存在だ。

 そんな人達に対して「貴方達は間違っている」とは言えない、言うべきでは無かった。

 もし彼らに罪があるとすれば、それは自分達が飲んでいる薬がどう作られたか、無自覚であることだけだった。



「この世から病気で死ぬ人間をなくすためには、まだまだ研究と実験を繰り返す必要がある」



 新薬をいくら開発しても、病気も年々変化している。

 風邪一つとっても、似たような症状の病気が何種類もあるのだ。

 一つの治療法に500人のフィリア人の命が必要となると、彼は今後、いったいどれだけの命を吸い上げるつもりなのだろう。



 彼に、悪意は無かった。

 ただ、病気や怪我を治したいだけなのだ。

 それによって何人ものフィリア人を犠牲にしても、意にも介さないのだ。



「ああ、それとリデル。キミは一つ誤解しているようだが……」

「……どうでも良い」

「! アンタ」



 2人の会話に割り込むように、アレクフィナが前に出た。

 流石に<魔女>に対していきなり掴みかかるような真似はしなかったが、そうでなければそうしていただろう。

 そして彼女にとっては、フィリア人の命がいくつ消えようがどうでも良かった。



「アタシはここに連れがいるって聞いて、やって来たんですがね」

「――例の、ソフィア人の素材です――」



 訝しげな視線を向けるドクターに、ハウラが言った。

 それを受けてようやく、ドクターは「ああ」と思い至ったらしい。



「ああ、あの素材か」

「素材?」

「いや、彼女は良い素材だったよ。と言うより、今まさに実験に協力して貰っていた所なのだがね」



 まさに(・ ・ ・)

 その言葉に嫌な予感を覚えたのは、リデルだけでは無かったはずだ。

 むしろその予感は、アレクフィナの方が強かったはずだ。



「流石にソフィア人だけあって、他の素材とは健康状態が違う。実に素晴らしいデータを得られた」



 ドクターが元々いた場所へ、視線を戻した。

 そこには金属製の寝台があり、緑のシートや銀の器がある。

 銀の器には先に言ったように、未だ弱々しく血を吐き出し続ける心臓がある。

 そして寝台の上の緑のシートからは、女の物と思わしき手足が伸びているのが見えた。



「胴体の皮膚を剥がしても、やはり人体は短い間なら生きられるようだ。だが長い時間そのままだと活動が弱くなる。何も無いように見えても、皮膚と言うのは人間が生きる上で重要な器官だ。皮膚病で死にいたる原因は、そのあたりにあるのだろう」



 だらりと伸びた手足には、肌が無かった。

 赤くてらてらと輝くあれは筋肉だろうか、滴り落ちる液体は血か体液だろう。

 極めつけは、胸から下腹部にかけてぽっかりと開いた大きな穴だった。

 その空洞は、華奢な身体に似合わず大きかった。



「それと一部の臓器は人間の身体の中に2つある場合があるのだが、片方を失っても生命活動には支障が無い、と言うのも改めて確認できた。ヒヒッ、ヒヒヒッ。いや、本当に有意義な時間だったよ。やはりソフィア人の素材は良い」



 ごきん、と、何かが折れるような音をリデルは聞いた。

 吐き気を堪えて何だ、と音の源を探せば、それはすぐ傍にあった。

 目に前に。



「あ、姐御……」

「ふひ、ふひひ、ぶえええぇ……」

「――――戻してるんじゃあ無いよ、ブラン」



 アレクフィナ。

 彼女は余りの惨状に嘔吐している部下に一言添えはしても、振り向くことは無かった。

 何故なら彼女の視線は、じっと寝台の上……寝台の上の、少女にのみ向けられていたからだ。



「うん? ああ、そうか。連れと言うのはその素材のことだったのかね? ヒヒッ、それは失礼したね」



 何ら悪びれることなく、むしろ普通のことのように彼は言った。

 まるで、無断でお茶に誘っていたかのような調子で。



「もう連れて帰って貰って結構だよ。ああ、臓器は置いて行ってくれたまえ、保存して他の患者に使えるからね――――」



 火焔が、迸った。



  ◆  ◆  ◆



 視界が歪む程の怒りと言うのを、初めて感じた。

 いや、怒りと言うのも生温い。

 相手が協会の最高幹部であるとか、そう言うことは頭から吹き飛んでいた。

 ただ炎の魔術を発動し、飛び掛った。



「おやおや。悪いが、私は荒事は苦手でね」



 その穏やかな物言いが、さらにかんに障った。

 ミラを、あの迷子の少女を、こんな目に。

 ソフィア人の殺害が罪だとかそう言うことでは無く、アレクフィナは激昂した。



 だから一切迷わず、そのまま飛び掛った。

 あの優男の顔面に拳を入れ、顔の皮膚をこそぎ落としてやろうと思った。

 いや、顔だけでは足りない。

 全身の肌と言う肌を焼き、ぐずぐずのシチューにしてやらなければ気がすまなかった。



「――――がっ!?」



 しかし、アレクフィナの手がドクターに届くことは無かった。

 予想外の衝撃を受けた彼女は吹き飛ばされ、研究室内の水槽に背中から衝突した。



「「あ、姐御ぉ――――ッ!?」」



 部下2人の声を耳にしつつ、身体を襲った衝撃を堪えて前を見た。

 どうやら水槽は強化されているらしく、ぶつかっても罅一つ入らなかった。



「な、何だ。お前は……!」



 顔をしかめつつ前を見れば、そこにドクターを守り、そしてアレクフィナを妨害した人物を見ることが出来た。

 見れば、それがフィリア人であることはすぐにわかった。

 最初はあのハウラが邪魔をしたのかと思っただけに、意外だった。



 ただそのフィリア人は、少し妙だった。

 衣服は貫頭衣に似た患者衣なのでそれはともかく、髪は茶色、フィリア人の特徴だ。

 しかし瞳の色は赤、赤い瞳と言うのは見たことが無い。

 混血ハーフ故の突然変異かと思ったが、どうもそれも違うようだ。



(フィリア人如きに、このアタシが……!?)



 横合いからの体当たりで吹き飛ばされたのか、ダメージは無いがかっとはなった。

 良く観察すれば、瞳も赤いのではなく、元々の色の瞳が赤く輝いているだけだと気付く。

 薄く、毒々しい輝きだった。

 そしてアレクフィナは、どこかでその輝きを見たことがあるような気がした。



「……ルイナ……?」



 その時、リデルの呟きが聞こえた。

 最初は疑わしげだった彼女も、見つめている間にはっとした顔をして。



「ルイナ!」

「ウウウゥルル……ッ!」

「る、ルイナ?」



 それは、ルイナだった。

 リデルが見間違えるはずも無い、「鳥籠」で別れて以来の再会だった。

 それがどうして、ドクターの研究室などにいるのか。

 そして、あの様子はどうしたことか。



 目を赤く輝かせ、唸り声を上げるその姿は人間には見えない。

 床に四肢を押し当てアレクフィナを威嚇するその姿は、まるで獣だった。

 獰猛な獣、今にも人を襲いそうな獣だ。

 少なくとも、リデルがルイナに抱いている穏やかなイメージとはかけ離れている。



「ルイナ! どうしたの、ルイナッ!」

「うん? リデルはあの素材のことを知っているのかな?」

「アンタ! ルイナに何をしたのよ!」

「何を? ヒヒッ、それはもちろん、研究と実験だよ。実は私は動物に<アリウスの石>を埋め込んだ動物を警備員代わりに使っているのだがね」



 リデルの脳裏に、身体が異常に大きくなった動物達のことが浮かんだ。

 確かに、あの動物も毒々しい赤い目をしていた。

 今のルイナと同じように。

 そこまで考えが及んだ時、リデルはぞっとした心地になった。



「あ……アンタ、まさか!」

「ヒヒッ、人間に埋め込んでみたらどうかと思ったのだよ。まぁ、結果は見ての通り。理性を失って凶暴化してしまうので、こういう場面でしか使えない失敗作だ」



 失敗作、そう簡単に言えてしまうドクターを睨み付けた。

 フィリア人を、いや人間の命を何だと思っているのか。



「――――ッ!!」



 しかし少女の怒りを飲み込み、押し流すかのように。

 哀しい獣の咆哮が、研究室に響き渡った。



  ◆  ◆  ◆



 どうして。

 どうしてこんなことにと、リデルは思った。

 胸が張り裂けてしまいそうな程に、そう思った。



「ルイナ! ……ルイナぁっ!」

「近付くんじゃないよ! 馬鹿野郎!」



 呼びかけには応じて貰えない、代わりにアレクフィナの鋭い声が飛んで来た。



「っ、うおお!?」



 飛び掛ってきたルイナを腕でガードする、だがルイナがその腕に躊躇無く噛み付いてきて、アレクフィナが叫び声を上げた。

 人間の、それも女性の噛み付きで致命傷に至ることはまず無い。

 だが今の彼女は異常だった、まさに獣のように噛み千切ろうとしているかのように、腕に噛み付いて頭を左右に振るっている。



「あ、アレクフィナの姐御!」

「ふひひ、姐御~!」

「お前らも近付くんじゃあ無いよ! こいつ……このぉ!」



 ぼっ、と炎が噴き出せば、俊敏な動きで離れる。

 1度2度と床の上を跳ね、四肢を床につけて睨んでくる様はまさに獣だった。

 獣。

 ルイナが獣になってしまったと言う事実に、胸の奥に重い物が落ちてくるような心地だ。



「……ルイナに、何をしたの!?」

「ヒヒッ、言っただろう? <アリウスの石>を埋め込んだ、と。まぁ、厳密に言えば液状にした物を1日に3度、1週間投与しただけだ。筋力は5倍になったが、その代わり加減と言うものを知らなくてね」



 ばきん、と、細い枝が折れるような音がした。

 はっとして見れば、ルイナの左足首が奇妙な方向に曲がっていた。

 動きの激しさと筋力の圧力に耐え切れずに、折れてしまったのだろう。



「ルイナ! もうやめて! ルイナぁ!」

「だ、ダメだぜ! 近付くなって姐御に言われてんだろ!」

「ふひひ、ダメなんだな~」

「五月蝿い! 離して、離せ! ルイナ、ルイナ!」



 ブランとスコーランに押さえられた、その時だった。

 天井がガタガタと激しく揺れたかと思うと、天板の一枚が大きな音を立てて落ちてきたのだ。



「うわぁっ、何だぁ!」

「ふひ……ひいいいいぃっ!?」



 空気供給管のダクトから落ちてきたそれは、巨大な蛇だった。

 てらてらと滑る肌に、獰猛に赤く輝く一対の目、鋭い牙と長い舌。

 あまりの巨大さに腰を抜かしたブランとスコーラン、一方でリデルも驚きのため動けずにいた。

 全長は10メートルと少し、胴回りは40から50センチと言う所だろうか?

 天敵の登場を感じたのか、肩元にいるマウス達が騒いでいる。



「あ……」



 そんなリデルの前に、両腕を伸ばして立ちはだかった者がいる。

 ハウラだ。

 彼女はリデルを庇うように前に立ったが、しかし次の瞬間には蛇に胴を打たれて吹き飛ばされてしまった。

 そしてさらに次の瞬間、リデルは自分の身が締め付けられるのを感じた。



「くぁっ……」



 蛇の尾に巻きつかれて息を詰める、次に無重力感に襲われた。

 壁を這い天井を這い、蛇が天板を揺らしながらダクトの中へと戻っていく。

 リデルが、突如として現れた大蛇にさらわれてしまったのだ。



「小娘!」



 ルイナと戦っていたアレクフィナもそれに気付いた、が、助けには行けなかった。



「なっ、待て!」



 研究室を縦に割るように、鉄製の壁が床からせり出して来たからだ。

 ドクター、ルイナ、そして大蛇に吹き飛ばされたハウラが、壁の向こう側に消える。

 炎を投げたが通じず、代わりに壁の向こう側からゴウンゴウンと何かが動いている音だけが聞こえてきた。



「このっ……な!?」



 空気の抜ける音。

 床から白い煙が吹き上がり、次第に部屋を覆っていったそれに咳き込み始める。

 それは次第にアレクフィナの意識を奪い取っていく、睡眠か麻痺を誘発させるガスのようだった。



「あ、姐……御……」

「ふ……ひ……」

「ちく、しょ……」



 ごほ、ごほ。

 咳き込みながら、手を伸ばした先には。



「……み……ら……ぁ……」



 物言わぬむくろが、あるだけだった。



  ◆  ◆  ◆



「ちょっ、痛っ! うっ、あぅ!」



 リデルの悲鳴である。

 『施設』の巨大さに合わせているのか、幸いにしてダクトは1メートル四方はあった。

 だがそれだけであって、大蛇に引き摺られて――それも、物凄い勢いで――進んでいれば、身体の至る所をぶつけることになった。



「ちょ、やめて、やめなさいよ! 止ま……痛い! って、あれ?」



 胴のあたりを締め付けられて喘ぎながらも、自由になる手でぽかぽかと蛇を殴った。

 そして、不意に築いた。

 リデルは尾に近い部分の胴体に巻きつかれているわけだが、その時、尾に赤い輝きを見たのだ。

 <アリウスの石>だった、この蛇もドクターの実験体だったのだろう。



 そう思うと、殴るのも少し気が引けた。

 とは言え、ここでどこへ連れて行かれるかもわからない状況に身を置くわけにはいかない。

 そもそも、今、自分は『施設』のどのあたりにいるのだが。

 何度か上がったり曲がったりしていることには気付いていたが、どのくらい進んだのかはわからない。



「いったい、どこに連れて行く気なのよ……」



 その呟きに応じたわけでは無いだろうが、蛇の速度が上がった。

 それに伴いぶつかる頻度も上がり、リデルは小さく唸りながらそれに耐えた。

 首飾りが無ければ、青痣だらけになっていたかもしれない。

 他に出来ることも無かった。



 その内、空気の様子が変わった。

 最初は薬品のすっとした匂いで、次いで埃っぽいダクトの匂い、そして今は乾いた匂いがした。

 この匂いには覚えがある、まさか、と思った次の瞬間。



「……ッ!?」



 ばがんっ、と派手な音が響いた。

 それはダクトの出口、枠に嵌まった鉄格子を蛇の体当たりで吹き飛ばしたのだ。

 流れ込んでくる外気には土埃が混ざっていて、リデルは思わず顔を背けた。

 肌を焼くのは、天高くに輝く太陽だ。

 1週間ぶりに浴びた太陽は肌をじりじりと焼くが、どこか心地良かった。



「わ……」



 ひょいっ、と蛇が外に出るままに連れ出される。

 浮遊感を感じて下を見れば、奈落の底へ続くかのような巨大な穴が見えた。

 つうぶらりんの状態とは、こう言うことを言うのだろう。



 ごくり、と生唾を飲み込む。

 荒野にくり貫かれた漏斗状の穴、最初に「鳥籠」から見た光景そのままだった。

 高い太陽、舞い上がる土埃、乾いた風……。



「ひゃっ。な、なによ」



 頬を舐められて、妙な声を上げてしまった。

 まさか食べるつもりなのだろうか?

 だがしばらく待ってもその様子は無く、むしろ懐っこい様子で顔を頬に摺り寄せてきた。

 マウス達が衣服の中に潜り込んで悲鳴を上げているが、蛇は気にした風も無い。

 ぬめぬめしていて閉口したが、不意に気付いた。



「もしかして、アンタ」



 そうだ、この蛇肌の模様には見覚えがある。

 荒野に生息する蛇とは思えない程水分の多い体液、尾に備えた<アリウスの石>

 まさか、と思い、蛇の目を見上げた。

 ――――この蛇は、島の蛇だ。



「アンタ……ちょっと見ない内に、大きくなったわね」



 他に言葉も見つからず、そう言った。

 やはりそうだ、この蛇は島からずっと一緒だった蛇だ。

 『施設』に来てから見失っていたが、ドクターの実験の犠牲になっていたのか。

 これだけ巨大化して筋力が数倍になっていれば、パワーもスピードも段違いになっていてもおかしくは無い。



「もしかしてアンタ、『施設』の中ならどこでも行けたりする?」



 リデルの言葉がわかるのか、しゅーしゅーと言う鳴き声で応じてきた。

 ルイナは理性を失っていたが、この蛇は逆により知性を高めているように思えた。

 さらにその時、ひゅい――っ、という甲高い鳴き声が聞こえた。

 見上げれば、太陽を背にして何かが舞い降りてくる。



「どうしろって、言うのかしらね」



 やはり見覚えのある鳥が、足に布を巻きつけて降りてくる。

 蛇は、それを襲わなかった。



「……ああ、もう」



 事ここに及んでしまえば、この先に何が起こるかを読むのは難しい。

 不確定要素が、大きくなりすぎる。

 そうなってしまえば、ハウラに貰った情報も意味を成さなくなってしまうだろう。



 時間が、無かった。



 今ならまだ、ハウラの情報を元に作った策は使える。

 アレクセイもいる、そして外にはアーサー達。

 今しか無い、そう思えた。



「覚悟を決めろ、そう言うことなのかしら」



 止める。

 あの狂気の研究者を、悪意無く全てを飲み込むだろうあの男を、止める。

 たとえそれが、未来に救われるかもしれない多くの命を見殺しにすることだとしても。

 それでもリデルには、彼のしていることが正しいとはどうしても思えなかったから。



 だから、リデルは策を作る。

 多くのフィリア人を救うための策を。

 そして、何人もの人間を死なせることになるだろう策を――――。



  ◆  ◆  ◆



 ドクターの研究室は、『施設』の中でも最も重要な場所として認識されている。

 だから万が一の災害等への対応として、研究成果やドクター自身を速やかに移動できるように設計されている。

 例えば今、ドクターは研究室の半分を檻として、残りの半分を部屋ごと上階へと移動させた所だった。



 これも<アリウスの石>由来の技術だ。

 石のエネルギーを動力として床を上下に移動させる、無人の鉄馬車も似たような原理で動いている。

 と言うより、大公国の全ては<アリウスの石>の存在が前提となっているため、それが無ければソフィア人はフィリア人と変わらないレベルの生活を強いられるのだろう。

 まさに、ソフィアの象徴と言うに相応しい。



「――ああっ……――」



 部屋の移動が終わった後――上階の部屋も、元の部屋と寸分狂わず同じ造り――そこに、小さな、掠れるような悲鳴が上がった。

 その主はハウラだ。

 彼女は床の上で身を丸めていて、そんな彼女の身体を1人の男が踏みつけにしている。



「ぎ、ぎいいいぃっ! 何て無能なんだ! リデルを研究室に連れてくるなと、言っておいただろう!」

「――あぐっ、ぎゃ――」

「嗚呼、可哀想なリデル! あんなにショックを受けて! 青ざめて震えていたじゃあ無いか! お前の、お前の! お前のせいで!」

「――も、もうし、がっ――」



 部屋の隅では、ルイナがそんな2人の様子をじっと見つめていた。

 その姿はまるで、茂みの中から別の動物達の戦いの様子を伺う獣そのものだった。



「余計なことをするんじゃあ無い!!」

「――ぷ、ぶふっ――」

「おまけに逃がした実験動物も探せず、リデルを奪われて。嗚呼、可哀想なリデル! さぞ怖い思いをしているだろう……だのに、お前はっ!」

「――ぎっ、あっ――」



 みしり、ばきり、ごぎっ。

 嫌な音が立て続けに響く、ドクターの足がハウラの顔を、腕を、腹を踏みつけ、蹴り続けている。

 ドクターは憤怒の表情で彼女を見下ろし、肩で息をするまで責めを続けた。

 彼が息を切らせて責めを止めたのは、実に10分後のことだった。



「――う、うぅ……――」



 顔を含め、全身の至る所に赤黒い痣を作って、身動きも出来ない。

 そんな状態になったハウラに対して、ドクターは唾を吐きつけた。



「失敗作め……!」



 憎悪すら感じさせる声音で、彼は言った。



「あの子の記憶を転写したのに、碌なことを覚えていない。あまつさえ、余計なことばかり。失敗作……失敗作! 失敗作失敗作失敗作しっぱいさくうううううううううぅぅぅっっ!!」



 僅かに顔を上げたハウラ、その顔に、ドクターの足が振り下ろされた。

 ――――声にならない悲鳴。



「探せ! 探すんだ! リデルを今すぐに! 怠けているんじゃあ無いッ!!」



 顔を押さえて悶絶する女性を前にして、辛辣な声を浴びせる。

 それはもうどう見ても正常では無かった、だがその場には彼を止める者はいなかった。

 いや、一つだけ。



「――――何だ、今度は!?」



 二度ふたたび鳴り響いた警告音、ドクターはそれに不快そうな声を上げた。

 彼ははたして、気付くことが出来ただろうか。

 それが所謂いわゆる、「反撃の狼煙のろし」であると言うことに。



  ◆  ◆  ◆



 ざわめきの気配を感じて、アレクセイは目を開けた。

 怪我のせいで引き攣る筋肉に顔を顰めつつ、それでいて飄々(ひょうひょう)とした様子で欠伸あくびなど噛み殺しつつ、「鳥籠」の中で身を起こした。

 周りからは、相変わらず呻きの大合唱が聞こえている。



「よいせっとな……いっつつつ」



 飄々としていても、疲労が無いわけでは無い。

 怪我と空腹、そして四六時中聞こえてくる呻きの合唱。

 怪我のおかげで実験こそされていないが、逆に言えば外に出ることも出来ずに閉じ込められ続けているわけで、そう言う意味では回復のタイミングが無いとも言えた。



「どうやら、何やら動き出したらしいな」



 それでも、アレクセイの直感が告げていた。

 今、何かが始まったのだと。



「んー……」



 ぐるり、と周囲を見渡す。

 半数は使い物にならない、アレクセイはこの数日間でそう判断していた。

 『施設』の実験の被験者となった者は、長くいればいる程に衰弱していくからだ。

 しかし逆に言えば、残りの半数はまだ使える見込みがあった。



 残り半数の内さらに半数が精神的な理由から動けないとしても、1000人近いフィリア人がいる。

 1000人、旧市街の最初の戦いでリデルに協力した人数の数倍の人数だ。

 それも、飢えと絶望と死の恐怖を常に感じている1000人である。

 ぱっぱっ、手を動かして2つ隣の「鳥籠」に合図をした。



「……!」



 同じように周りを見渡していた2つ隣の「鳥籠」の住人は、一つ頷くとまた別の「鳥籠」の住人に合図を送り始めた。

 アレクセイが数日と言う時間を無為に過ごしていたのかと言えば、それは当然、ノーだ。

 元々彼は『施設』を混乱させるために来ているのだから、そう言ったことをしておくのも当然と言えば当然だった。



(旧市街の時は、何も出来なかったからな)



 あのソフィア人の少女は、きっと何かを考えている。

 アレクセイに出来ることは、少しでも彼女の考え――策を円滑に実行できるように、仕込みをしておくことだった。



「おぅ?」



 その時だ、呻きとは別の、悲鳴のような声が聞こえてきた。

 同時に、金属の鎖が揺れる音と、何かが這いずるような音が耳に届いた。

 次の瞬間、アレクセイの「鳥籠」が激しく揺れた。



「うおお!?」



 さらにぎょっとしたのは、にゅっと顔を出した大蛇の存在だ。

 「鳥籠」に巻きつくように現れたそれには流石のアレクセイも仰天した、ついに何かの実験に晒されるのかと思った程だ。

 しかし滑るように下へと身体を伸ばした大蛇に、見覚えのある少女が乗って――と言うより、巻きつかれて運ばれている――いるのを見て、目を丸くした。



「おいおいおいおいおいおいおい」



 どこから突っ込めば良いのかわからず、とりあえずアレクセイは笑うことにした。

 一言で言えば、こう言うことになるのだろうか。



「――――皆、聞いて!」



 蛇に乗った少女が、勝利を持ってやってきた、と。



  ◆  ◆  ◆



 不思議なことに、片割れが焦っているともう一方は落ち着いてくるらしい。

 アーサーとラタと言う2人組を見ていて、クロワはつくづくそう思った。



「まだ変化が無い……。どうしよう、もう本隊が……」



 あのラタと言う女は、日を追うごとに焦りの色を強くしていた。

 何か、時間がかかり過ぎると不都合があるのかもしれない。

 その不都合と言うのが『施設』の中にあるのか、あるいは外にあるのか。

 そのあたりの事情については、クロワにはわからない。



「さて、これはもう一度食糧と水の調達に向かうべきですかね」



 一方で、アーサーは日を追うごとに落ち着いてきているようだった。

 ラタが来る以前は日に日にやつれてすらいたはずだが、特にここ数日は食も良く通るらしい。

 魔術の訓練を請け負っているクロワからすれば、それは喜ばしいことではあった。

 落ち着いてきている実際の理由については、クロワにはわからない。



「アレクセイのことを信じているかどうか、と言う所もあるのでしょう」

「……そうだな。いや、きっとそうなのだろう」



 『施設』に単身で潜入したアレクセイのことを真顔で語るのは、普段、アレクセイと行動していることの多いエテルだった。

 公都への潜入の時も、この2人は行動を共にしていた。

 あまり仲が良いようには見えなかったが、なるほど、相棒としての覚えはあったのかもしれない。



 実際、ラタはアレクセイのことをほとんど知らないだろう。

 他にも彼女しか知らない都合と言うのもあるだろうが、待つことが成果に繋がるか、心配は尽きまい。

 その点、アレクセイの腕前と性格を知っている分、アーサーの方が冷静に見えるわけか。



「クロワ殿」



 不意に、と言うよりもいつものように、そっと傍に来て声をかけてくる少女がいた。

 シャノワだ、この少女がクロワの傍にいるのももはや日常となりつつあった。

 それと、同時だった。



「いや、言わなくとも良い。わかるとも」



 何かを言いかけた彼女の顔から視線を動かす、甲高い声を上げて鳥が空から降りて来たからだ。

 『施設』の方向から飛来したその鳥がアーサーの腕に止まった時、クロワは確信した。



「どうやら、ときが来たようだ」


最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。

今回は特に暗いお話だったので、描いている側も辛かったです。

でもこう言うダウンからのアップこそ、物語にとっては良い材料となるはず。

個人的には、もっと真に迫る感じのダークさが欲しかったのですが……。


では次回、久しぶりに作戦回かもですね。

ここからは、ひたすらに軍師したいものです。

それでは、また次回。

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