6-5:「研究棟」
1週間ぶりの投稿です。
では、どうぞ。
さらに、3日が過ぎた。
傍目には何の変化も無いように見えるだろう。
事実、リデルはそう見えるように行動していた。
「私のママって、どんな人だったの?」
相も変わらず自然の光が無いその場所で、リデルはドクターに会っていた。
2日に1度くらいのペースで、この男はリデルの様子を見に来る。
そんな時、彼女はドクターに母の話を聞くことにしていた。
母の話にまるで興味が無いわけでは無かったし、それにドクターの他の話はどれも常軌を逸していて聞くに堪えなかったからだ。
「そう、だね」
母の話をする時だけは、ドクターも落ち着いた様子だった。
とは言え、話の内容はいつも似たようなものだった。
「あの子は、優しい子だった。自分のことよりも他の人間を優先する、そんな心優しさを持った子だった」
「ふーん……」
「友人の多くない者にも手を差し伸べ、理解する。嫌味では無く、自然とそう言うことができる子だったんだ」
曰く、優しい人間だった。
大枠で言えばそう言うことだが、それだけでは人物像は掴みにくい。
後は、正直に言えばドクターの気分次第で話の内容が変わった。
例えば気分の明るい時には、母のちょっとした失敗談などを話した。
気分の沈んでいる時には、感染症にかかった時のことなどを話した。
母はその感染症が元で亡くなったのだと言う、しかも、他の患者を助けていて感染したらしい。
正直に言って、会ったことも無い母親が亡くなった時の話をされても、現実感が無かった。
父が死んだ時のことを昨日のことのように思い出せるのとは、かなりの落差があった。
(私のママ、医者か何かだったのかしら)
ぼんやりと、そんなことを考えたくらいだ。
ドクターによればリデルは「母親そっくり」らしいが、あまり実感は湧かなかった。
ただ、粘着質な目でじっとりと見つめられた時には背筋に冷たい物が流れた。
執着と言うには、少し目の輝きが強すぎるような気がした。
「大丈夫、キミは大丈夫だよ。感染症に効果のある抗ウイルス剤を投与した、身体の調子も良いはずだ」
「抗……ウイスル剤? 何それ」
「予防接種だよ、予め病気の元を少量だけ体内に入れる。するとその病気に対して強くなることがわかっているんだ。……ヒヒッ。もちろん、研究の成果だが」
先日、無理矢理打たれた注射の件だろうか。
確かにあれから身体の調子が無性に良かった、身体が軽く、食も良く通った。
もし注射の効果だと言うなら、確かにドクターの作った薬品は優れているのだろう。
それと母の病死、きっと、無関係では無いのだろう。
そう思うと、少し、胸の奥が疼いた。
だからと言って、リデルは今進めていることを止める気は無かった。
始まりはどうであれ、今、彼がしていることを認めることは出来なかったからだ。
下層にいる、何千もの収監者達。
(後は、タイミングだけ……か)
母の話を続けるドクターから視線を外して、リデルは思い出していた。
3日前、下層で、アレクセイと話したことを――――……。
◆ ◆ ◆
――――3日前。
東の収監スペースで、リデルは激怒していた。
憤怒していたと言っても良く、その声は呻きの世界に反響するように響いた。
「でかい声だなぁ、傷に響くぜ」
アレクセイがそう言ったが、リデルは感情の矛を収めなかった。
それだけ、怒っていた。
アーサーが助けに来てくれる、嬉しい、それは確かだ。
しかし同時に、彼が旧市街を放置して来た、と言うことをも意味しているのだ。
自分が1人で降服してまで守りたかった、あの旧市街を。
あの旧市街の人々を置いて、自分を助けに来る。
それは無い、その選択だけは無い。
そんな選択をされたら、自分の降服策の意味が根底から覆されることになってしまう。
「まぁ、お前さんの気持ちもわからないでも無いけどな」
「だったら、何でアンタはアーサーを止めてくれなかったのよ」
「そこまでの義理は、俺には無かったなぁ」
肩を竦めた際、傷が痛んだのか息を詰めた。
この男は何なのだ、この段階でそう言う疑問が出てきた。
「じゃあ、何でアンタはアーサーの仲間なのよ。大体、こんな場所でそんな怪我までして」
「成り行きってのが、一番かな。俺は元々、ソフィア人の抜け毛を集めてカツラなりを作ってた人間だからな」
「カツラ?」
「偽物の髪さ」
「何に使うのよ、そんなもの」
「そりゃあ、逃げるためだろうよ」
逃げるため、ピンと来なかった。
「それを被って、奴隷狩りの目を眩ますんだよ。ソフィア人の連中は髪の色で判断する所があるからな、簡単なことだが、それで大体は逃げ切れるんだ」
軽蔑するか、そう聞かれた時、リデルは首を横に振った。
そうしなければ生きていけなかった、それがわかるからだ。
リデルも、旧市街に入った当初は十分に食べられなかった。
それでも他のフィリア人よりは優遇されていた、それだけの状態だったのだ、旧市街は。
「……こいつらは、何なんだろうな」
「え?」
「こいつらさ。こんな所に閉じ込められて、何をするでも無く拷問されて」
数千の「鳥籠」の住人達は、変わらずに呻き声を上げ、泣き、叫び、蹲っていた。
アレクセイは傷の痛みに身体を引き攣らせながらも、ぐるりと自分の「鳥籠」の周りを見渡した。
リデルが一緒に引き上げた分、そして眼下に広がっている分。
それから、アレクセイ自身。
「俺は良いさ。俺に出来るのはソフィア人の目を誤魔化すことと、こうして中に入り込むことぐらいだ。自分で選んだことだ、文句のつけようも無い」
けど、と彼は続けた。
いつしか、リデルは彼の言葉に口を噤んで聞き入っていた。
「けど、こいつらは何なんだろうな。そう言うチャンスも気も無く、ただ意味も理由も無くこんな目に合ってるこいつらは」
「何が言いたいの?」
「戦わせてやってくれ、こいつらにも。お前なら、出来るだろう?」
戦いと、彼は言った。
聞いた時、リデルは震えた。
その震えの意味をリデルは良く知っていた、忘れられるはずも無い。
それは、1人きりでの降服策を考える遠因にもなった感情だった。
「……戦えば、人は死ぬわ」
「戦わなくても死ぬだろう。特にここの連中は」
ルイナの村で、人が死んだ。
どこででもそうだが、リデルの策の結果で死んだと言う意味で、リデルには忘れられない。
もうどこに行ったのかもわからない、あの黒いビロードの帽子の少年の父の遺体を忘れられない。
リデルの策が今一つの所で行き詰るのは、つまる所はそこだった。
味方の犠牲を是認できない。
敵なら良い、いや敵でもソフィア人のフィリア人に対するそれのように、あまりにも、と言うのでも無ければ決断しきれない。
旧市街の戦いではフィリア人の民間人をまず逃がし、勝利した後でもソフィア人を追撃しなかった。
工場群の戦いでも、劣勢と見るや仲間の助命のために自分1人降服した。
「何もしなくても死ぬなら、せめて一花咲かせて死にたい」
その決断が、リデルには出来なかった。
だからせっかくの策も走りきらず、いつも胸につっかえが残るような中途半端な結果になる。
それを甘さと言うか優しさと言うかは、人によるだろう。
それでも、アレクセイは「戦わせてくれ」と言った。
「旧市街に、俺もいた。お前は旧市街からソフィア人の奴らを追い出してくれた。信じられなかった、そんなことが出来るなんて思いもしなかった」
「皆が頑張ったからよ、私はちょっと手伝っただけよ」
「そのちょっとが、きっと重要だったんだろうな。そしてそのちょっとのことが、俺達に出来ない。お前さんにしか、出来ないのさ」
フィリア人には、学が無い。
一部にはあったが、ほとんどは子供の頃から学校に行っていない、行けるはずも無い。
大人でも読み書きの出来ない者など珍しくも無い、そんな状況で、全体を見て策を考えるような人材が育つはずが無かった。
アーサーが<東の軍師>を求めたのは、そのためなのだから。
「だから、頼むよ」
「…………」
「このままでも俺達は死ぬ。死ぬだけだ。だからその前に、何かさせてくれ。俺には、そう言って来るこいつらの声がよーく聞こえるんだ」
死んでも良い、だから策をくれ。
「それに、アーサーの気持ちもわからないでも無いからな」
一つ頼むよと、アレクセイは言った。
話の内容に比して、とても軽い言い方だったのが印象的だった。
まるで、リデルにその重さを忘れさせようとするかのように。
◆ ◆ ◆
……ドクターは、2時間程話してようやく戻って行った。
公王もそうだったが、ソフィア人の男の話は長くなるような気がする。
それとも、それがお茶会の作法なのだろうか?
(でも、そこから得られる情報もあるものね)
あくどいだろうか、不意にそんな心配をする自分に苦笑した。
その時、自嘲気味にふふと笑った自分の手元に、お茶の入ったカップが置かれた。
ハウラである。
彼女は相変わらず、リデルの世話役のようなことをしていた。
何度考えても、不思議な女だった。
面識の無い小娘に対して心を砕き、与える必要の無い情報を与えてくれる。
普通なら頭がおかしいのでは無いかと思う所だが、本当に不思議なことに、嫌悪感は抱かなかった。
むしろ心地良さすら感じていて、今では自然に受け入れてしまっていた。
「アンタ、何だって私に優しくするのよ?」
「――さぁ、私にもわかりません――」
このやり取りも、もう何度繰り返しただろうか。
わからないが、たまに、聞かなければならないような気持ちになるだけだ。
それが何故かは、わからないままだった。
「……変な奴ね」
一方で、アレクセイに言われたことも忘れていたわけでは無い。
むしろハウラに情報提供を依頼しているのはほとんどそのためであって、当然と言えば当然のことだった。
すると、自分はハウラのことを都合良く利用しているだけなのだろうか?
束の間そんな風に考えて、リデルは少し気分の悪さを感じた。
……収監者の脱走については、深く考え込むことも無く計画できた。
脱走で終わるか叛乱になるかで変わるが、そこは旧市街の経験が生きるように思えた。
問題があるとすれば、統制、そして収監者達を最終的にどこへ導くべきか。
物資については、『施設』の物を使うしか無かった。
(……ルイナ)
それから、ルイナの行方だ。
ルイナの行方だけがわからない、特定の収監者のことをハウラに尋ねるわけにはいかない。
いくらなんでも不自然に過ぎる。
興味があるからと図面を見せて貰うのとはまた別なのだ、それは。
(どこに)
その時だった、慌しくリデルの部屋の扉が開かれたのは。
ドクターが戻って来たのだろうか。
いや違った、そこには黒の混合服を着込んだ金髪の女が立っていた。
アレクフィナが、そこにいた。
◆ ◆ ◆
「ミラが、どこにもいない」
押し殺したような声で、アレクフィナは言った。
相手が自分では無いことに、リデルはすぐに気付いた。
アレクフィナが見ているのはハウラだった、それも、今にも飛び掛りそうな雰囲気だった。
そしてミラと言う名は知っている、ハンカチを貸してくれたあの子だ。
「ミラって……あの子、いないの?」
「へ、へぇ、そうなんでさぁ」
「ふひひ、3日前から見当たらないんだな~」
アレクフィナがこちらに目も向けないため、部下2人の方に確認した。
3日前、自分がアレクセイと会っていた頃か。
この広い『施設』の中で3日迷子と言うのは明らかに危険だ、上層であろうと下層であろうとだ。
よほど探し回ったのだろう、アレクフィナの目の下にはくっきりと隈が出来ていた。
「――存じ上げません――」
「……ッ!」
短く答えたハウラの襟首を掴んで、睨みつけるアレクフィナ。
寝不足とか、そう言う理由での短期では無かった。
「お前らの所の研究員が、ミラを連れて行ったって話なんだが?」
「――存じ上げません――」
「おい……」
「――存じ、上げません――」
リデルは、アレクフィナの瞳の中に炎を見た。
彼女の指先の指輪にそれが乗り移ろうとした刹那、叫んでいた。
あっと叫んだリデルの声に、その場にいた全員の視線が集まった。
「ミラがどこに行ったのかは知らない、そう言ったわね?」
「――はい――」
「でも、心当たりはある。そうでしょう?」
襟を掴み上げたままのアレクフィナが、じろりとリデルを睨んできた。
無視した。
今のアレクフィナには余裕が無い。
余裕が無い時、アレクフィナは何かをしくじる傾向がある。
一方で、ハウラもまたじっとリデルを見つめていた。
何かを逡巡している、不思議とそんな気がした。
しかし、ハウラは自分の質問に答えなかったことは無かった。
「――はい――」
「ッ、どこだ!?」
「ちょっと、待ちなさい! ハウラ、どこなの?」
流石に苦しくなって来たのだろう、ハウラの頬に僅かに朱が差していた。
リデルがそれを指摘すると、アレクフィナは忌々しげに舌打ちをしながらも、放した。
ほっと息を吐きつつ、ハウラを見つめる。
衣服の襟元を直したハウラは、やはりいくらか逡巡している様子を見せつつも、もう一度頷いた。
「――知っています――」
「それはどこ?」
「――それは――」
もしかしたなら、ルイナもそこに。
この時のリデルは、何の根拠も無くそう考えていた。
そしてその直感は、そう大きくは外れていなかったことを後に知ることになる。
◆ ◆ ◆
その日のドクターは、機嫌が良かった。
と言うより、実験と研究と言う自分の世界に引き篭もっている時、彼は無害だった。
無論、素材と呼ばれる人々以外にとっての無害と言う意味だが。
「ヒヒッ、やはり人間の身体には無限の可能性がある! と! 言いたくなるな」
ドクターの実験室とも言うべきその部屋には、様々なものがあった。
壁に浮かび上がる数字やグラフ、こぽこぽと音を立ててビーカーの中で沸騰する赤い液体、試験管を固定し回転させる道具に、色合いの異なる薄い赤の液体を備えた注射器。
あるいは見た目では理解できない金属製の箱や、人間1人を入れても余るような水槽、人の指や臓器を収めた小さな瓶が並べられた棚、そういったものがいくつも置かれていた。
「だが、まだまだだ。まだまだ私は人間の肉体に秘められた可能性を引き出してはいない。もっと研究を進めなければ……」
他人と話す時には情緒不安定に見える彼も、1人で研究をしている時はそんなことは無い。
冷静であり、そして何より沈着かつ客観的であった。
たとえ良い結果が出たとしても慢心せず、改善点を見つけては細かな実験を何百回でも繰り返す忍耐力があった。
今も、そうだ。
彼の手元からはぐちぐちと言う生臭い音が響いており、くぐもった声が聞こえてくる。
何をしているか、想像したくも無い。
「リデルに打った注射は予防用のワクチンとしてはすでに完成しているが……ヒヒッ、それはあくまで「過去の病」に対する予防に過ぎん。病は進化する、「未来の病」をも予防するワクチンを作らなければ……」
ドクターは、人体の神秘に取り付かれていた。
その肉体が持つ能力に、その臓器が持つ特性に、その血液が持ち性質に。
そしてさらにその奥にあるであろう物に、強い関心を持っていた。
彼の研究の目的は、それらの神秘を解き明かすさらにその先にあるのだった。
だから、より多くの素材が必要だった。
それも出来る限り健康で上質で、それでいて多様な性質を備えた素材が必要だった。
彼の経験上、一つの実験で統計的なデータを得るためには素材が200は必要だ。
実験が10あれば2000はいる計算になる、素材はいくらあっても困るものでは無い。
そのために、彼はこの『施設』の長になることを条件に大公国と、いや協会と契約を交わしたのだ。
「人々が病に犯されない世界。ヒヒッ、早くこの目にしたいものだが……」
がしゃんっ、と、甲高い金属音が響いた。
それは当然のように研究室内から響く物だ、見れば隅に人間1人が入れるほど大きな檻がある。
それはまるで、動物園で中型動物を入れるための檻のように見えた。
いや、ように、ではなく実際にそうだった。
その中には、動物が一体入っていた。
地上に生きる動物の中で最も高度で複雑な構造を持ち、何よりも知性を持つ動物だった。
最近手に入れた素材で、ここ数ヶ月間では最もドクターが力を入れている素材だ。
殊の外元気そうな素材の様子に、ドクターはにやりと笑みを浮かべた。
「ヒヒッ、そう言う意味では……お前には期待が持てる、かもしれないな」
その時だ、室内にブザーが鳴った。
不快さを表情に浮かべるドクター、この点、彼は隠そうともしない。
「誰だ? と言っても、私の研究室に通じるコードを知っているのはあの出来損ないだけだがね」
ふん、と鼻を鳴らして、ドクターは手につけていたグローブを外した。
外したグローブを、無造作に床へと投げ捨てる。
投げ捨てられたグローブを、檻の中から一対の赤い輝きが見つめていた。
ぎらぎらと――――ぎらぎらと、眼差しの中の悲愴さを隠そうともせずに。
◆ ◆ ◆
他の区域と同じように、3重の隔壁で隔てられたそこも白を基調とした空間だった。
やはり他と同じく通路の両側はガラス張りになっており、その向こう側で行われている実験の数々を見ることが出来る。
とは言え、そこで行われていることは外とはまるで違うものだった。
「ここは何?」
「――ここは研究棟の最深部です。主に医薬品等の最終的な試験を行っています――」
「薬の試験だ? まぁたわけのわからない場所だねぇ」
「――……――」
「……ちっ」
リデルの問いには即座に答える反面、ハウラはアレクフィナの言葉はまるで聞こえてすらいないかのように振舞っていた。
あまりにも存在を無視しているので本当に聞こえていないのでは無いかと思ったが、半面、扉を潜る時にはアレクフィナ達まで含めて全員が通り切るのを待ってたりする。
まぁ、それは良い。
それよりも重要なのは、ハウラが研究棟の最深部と言うその場所だった。
1番の特徴は、他の区域と比べると人が多い、と言うことだろうか
見ただけでは良くわからない大小の道具はある程度共通するが、1番目に付くのはそこだ。
最も、その人とは大多数がフィリア人だったが。
「ねぇ、もしかしてと思って聞くんだけど」
「――何でしょうか――」
「お薬の最後の試験って、何?」
「――被験者への投与実験です――」
そのフィリア人達――老若男女、多岐に渡る――は皆、一様に薄い患者衣に身を包んでいた。
固そうな寝台の上に寝そべり、ベルトで縛り付けられて、腕や胸に固定式の注射のような物を打たれていた。
そしてその注射の先には、透明な袋に入れられた何かしらの液体がある。
どうやら、あれがその「医薬品」らしい。
フィリア人達は、そのほとんどが寝台の上で大人しくしているようだった。
逆らう気力が無い、と言うよりは、そもそも生きているのかもわからない程にぐったりとしている者が多かった。
生きているのかすら、わからない。
ガラスが音を遮断しているのか、声の一つも聞こえてこなかった。
「あん? 何だありゃあ。動物もいるじゃねぇか」
「――……――」
「はぁ……あれは何?」
「――人体への投与の前に、動物で実験をするのが一般的ですので――」
「あ、アレクフィナの姐御! ここは抑えて!」
「ふひひ、落ち着くんだな~」
アレクフィナの我慢にも限度があるだろうが、ハウラの根気には限度が無いようにも見える。
「――動物は人間よりも過敏に、かつ耐久的に医薬品の効果を現しますから――」
「ふぅん……」
フィリア人もそうだが、動物が医薬品の試験に使われていると聞いては良い気分ではいられなかった。
見れば確かに、ガラス張りの壁の向こうには動物がいる部屋もあった。
種類別に分けられたそれらの中にはリデルが見たことも無いような動物もいた、が、ぎょっとしたのは別のものだった。
「ちょ、何よあれ!」
「――鳥ですが――」
「鳥!? あれがっ!?」
ぎょっとしたのは、鳥だけでは無い。
本来は小動物に数えられるべきだろう種の動物がいくつか見えたが、良く見るとそれらは大きすぎたのだ。
大きすぎる。
例えばリスが猪レベルにまで大きくなっていれば、誰でもぎょっとするだろう。
「ちょ、あの子達飛べるの?」
「――飛べません。自重で――」
「でしょうね……」
鳥は胴体が異様に膨れていて、まるで置物のように地面に置かれている。
小動物は身体を何倍も大きくしていて、中には興奮してガラスに身をぶつけているものもいる。
そして元々中型・大型と呼ばれていただろう動物に至っては、数匹、いや1匹で10メートル四方の部屋を独占しているような所もあった。
「…………」
ガラスに手をつけば、自分の掌よりも大きな目が自分をじっと見つめてくる。
赤い赤い瞳が、茶色の毛むくじゃらな塊の中から。
無垢で、何かを訴えかけてくるような目だった。
ある意味で、人間よりも伝わりやすかった。
不自然だった。
ここに限った話では無いが、「人間の社会」と言うものは、どこか不自然だった。
フィリア人はまだ良いが、ソフィア人の世界では特に強くそう感じる。
感覚として、そう思う。
「うん?」
その時だった、掌に滑りを感じた。
水では無く、何か粘り気のある液体だ。
何だろうと思った時、ガタガタと言う音が天井から聞こえてきた。
見上げると、何も無い。
「……うん?」
通風孔だろう、格子状の穴が開いた天板がある。
リデルの真上に位置するそれと、掌の――目前の、ガラスに付着した液体。
「おい、てめぇ……薬だ実験だって話なんざ、アタシにとっちゃどうでも良いんだよ」
しかしそれを深く考えることは出来なかった。
アレクフィナの我慢が限界だったからで、彼女は部下達の制止ももう聞く気が無いようだった。
いつの間にか離されていたらしい、リデルは慌てて後を追った。
「さっきからのらりくらりと、どうでも良いことばかり話しやがって……」
「あ、姐御!」
「ふひひ、姐御~」
「やかましい! お前達は引っ込んでな!」
そんなアレクフィナを、ハウラはただ見ている。
何の感情も篭っていない瞳で、まるで観察でもしているかのように。
「良いからさっさとミラの所に連れて行きやがれ!!」
圧、リデルは思わず足を止めた。
言葉に力が宿るとするなら、今、リデルはそれを感じて立ち止まったのだ。
それだけ、今のアレクフィナには迫力があった。
リデルはアレクフィナのことをこれっぽっちも好いていないが、一つだけ認めていることがある。
それは彼女の思想、あるいは行動理念が常に一貫していることだ。
つまり、ソフィア人を守るというその意識において一貫している。
とは言え、今ここでハウラと衝突させるのは不味い。
「――別に――」
(あら?)
初めてでは無いだろうか、ハウラがアレクフィナに応えたのは。
アレクフィナも、少し驚いているようだった。
「――別に、のらりくらりとしていたつもりは無いのですが――」
ゆらりと、と身を回した彼女の背には、通常の白い壁に覆われた通路があった。
そこから先はガラス張りでは無く、白い通路が伸びているばかり。
だが、どこかより暗い印象を受けた。
「――では、どうぞ。この先です――」
「……ちっ」
「あ、姐御! 待ってくだせぇ!」
「ふひひ、お、置いていかないでほしいんだな~」
先を手で示すハウラに鼻を一つ鳴らし、アレクフィナは迷わず、そしてブラン達は少し躊躇しながら進んだ。
1人立ち止まっていたリデルは、もう1度振り向いた。
あの無垢で巨大な動物達と、虚ろで生気を感じないフィリア人の被験者達の姿を見る。
(……戦わせてほしい、か)
ぽつりと胸の奥で呟いて、リデルもアレクフィナ達の後を追った。
ガタガタと、天井のダクトが揺れていた。
◆ ◆ ◆
アレクセイを送り出してから、3日が過ぎた。
未だ、『施設』に変化は無い。
「変化がありませんね」
自分が考えていたことと同じことを口にしたのは、隣に立つ女性だった。
以前なら小柄なソフィア人の少女がそこにいたのだが、今はラタと言うフィリア人の女性がその位置にいる。
アーサー達は『施設』から数キロ離れた――街道からも離れている――位置の丘陵にいた。
そこから『施設』の穴を観察しているのだが、時折「鳥籠」や鉄馬車が出入りする以外は、これと言った変化が無い。
リデルはもちろん、内部に潜り込んだはずのアレクセイからの合図も無い。
『施設』は以前と何も変わること無く、そこに存在し続けていた。
「……それは?」
アーサーの腕には、一羽の鳥が止まっていた。
島にいた頃より砂で汚れた羽根を嘴の先で繕っているそれは、リデルの鳥だ。
しばらく一緒にいたせいか、少しはアーサーに懐い――たりはせずに、衣服に粗相をされることもしばしばだ。
だが今は、大人しくアーサーの腕に止まってくれていた。
(本当に、頭の良い)
不思議な鳥だ、いや鳥に限った話では無い。
リデルの周りに集まる動物達は、アーサーが知るそれと同じ動物だとは思えない程の賢さや反応を示すことが多い。
あの島の動物だけが特別なのか、それともリデルが特別なのか。
――――あるいは。
「さぁ、行って下さい」
「ちちっ」
一鳴きして、リデルの鳥が空へと羽ばたいた。
その小さく細い足に、布を一枚巻きつけられて。
ラタが不思議そうな目でそれを追うのを横目に、アーサーは目を細めて鳥の後姿を見送った。
どこまでも高く飛翔するかと思われたそれは、不意に甲高い鳴き声を上げて急降下する。
(……リデルさん)
その軌跡は、まるで彼の気持ちを表したかのよう。
すなわち、真っ直ぐに。
一直線に、彼女の下へ――――。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
話に詰まったり詰まらなかったり、どちらかと言うとあまり話のテンポが良くないようにも思います。
書けば書くほど、小説って難しいなぁと思います。
それでは、また次回。
今年も、もう2ヶ月を切りましたねー。