5-7:「陰謀のカーニバル」
※冒頭に性的描写が含まれます、ご注意下さい。
――――本当に、お救い下さいますか。
そう問われて、彼は顔を上げた。
室内は暗く、大窓から時折見える雷鳴だけが彼の姿を照らしていた。
「……救う、とは?」
彼、すなわちヴァリアスは問いに対してそう答えた。
手の中では赤い液体の入ったグラスを弄び、帯も締めずに羽織っただけのバスローブの間からは男とは思えぬ程に白い肌が見えている。
それでいて、雷鳴に照らされる顔には柔和な微笑を浮かべていた。
そしてそんな彼が視線を向けた先には、1台の大きなベットがあった。
1台で数人は楽に眠れるだろう大きなそれにはしかし、窓側に向けられた端にしか人が寝ていなかった。
いや、その人物もまた眠ってなどいない。
再び雷鳴が輝き、不自然に皺の寄ったシーツの上に横たわる女性の姿を映した。
「……大公女殿下を、お救い下さいますか」
「救う? 殿下はすでにして我が国の最も奥深い所に隠されていると言うのに」
気だるげな、あるいは気の抜けたような声に、ヴァリアスはそう応じた。
しかし、それが女性の望んでいる答えでは無いことはすぐにわかった。
もちろん彼もそれを知っていたから、柔和な微笑を崩さないままにグラスを窓際のサイドテーブルに置いた。
「そんな顔をしないで。僕も流石に意地悪が過ぎたかな」
ヴァリアスが立ち上がる、それを見て女性も身を起こした。
シーツが滑らかに肌の上を滑り落ち、あるいはそちらの方が滑らかなのでは無いかと思える程にきめ細やかな肌が外気に晒された。
雷鳴に照らされる姿はどこか神秘的にさえ見えて、異性であれば眩暈を起こしそうな程に美しさを持っていた。
肩甲骨のあたりをさらりと流れる金糸の髪、胸元に引き寄せられたシーツ、気だるげで縋るような菫の瞳、頬に残る涙の痕、腰のくびれから大腿部に至る柔らかで流麗なライン、まるで首輪のように鎖骨の上から首の後ろにかけて残る赤い痕。
その全てが、まるで稀代の芸術家が一生をかけて掘り抜いた彫刻のように整っていた。
美しい、ただただその一言に帰結する。
「……美しい」
「……そんな……」
「いいや、キミは美しい。まさにソフィア人こそは、天が与えたこの世の宝だ」
ヴァリアスの手が赤く染まった女性の頬に触れ、愛おしむように撫でた。
囁き声が続く。
「そんな美しいキミの願いを、僕が叶えないわけにはいかないね」
「……ッ、で、では……」
「でも」
ベットのスプリングを軋ませながら、ヴァリアスが端に膝を乗せた。
胸元に寄せられた女性の手を掴むと、胸元に寄せられていた布はあっさりと下腹部まで落ちた。
「今はまだもう少し、キミとの時間を楽しみたいな」
「は、はい……」
あっ……と声を上げる唇は塞がれ、押されるままに背に冷たいシーツを感じた。
体の内に潜り込んで来る感覚に身を震わせ、圧し掛かってくる重みに息を詰める。
キツく目を閉じると、女性――フロイラインの頬に、一筋の涙が零れ落ちていった。
僅かばかりの快楽に縋るようにヴァリアスの背に腕を回しながら、しかし彼女の脳裏には別の笑顔があった。
あるいはそれこそが、彼女が本当に縋っているものだったのかもしれない。
(ベルフラウ様――――……)
夜は、まだ深い。
夜が明けるまでには、まだ幾許かの時が必要であった――――。
◆ ◆ ◆
「祝おう! 歌おう!」
「感謝しよう、大公家300年の歴史と伝統に!」
「願おう、我がソフィア民族の栄華と栄光を!」
「「「我が大公国に、千年の繁栄を!」」」
トリウィアの街並みは、凄まじい活気の中にあった。
天にある太陽すら遠慮するのでは無いかと思える程に賑やかで、特にメインストリートには多くの人々が集まっていた。
彼らは皆、用意された露天や屋台から自由に物を貰い、食べ、遊んでいた。
対価を払う必要はない、それらは全て国が用意した物だからだ。
彼らソフィア人は、そんなものを払う必要は無いのだ。
彼らはどこかから調達された食べ物を食べ、誰かが用意した物を取り、誰もが得られるわけでは無いものを当然のように得る。
それが、ソフィア人と言う人種なのだから。
「わぁ、今回も凄い人ね。こんなにたくさんの人を見たのは久しぶりよ!」
「ちょっと、あんまり走るんじゃないわよ!」
「だって、じっとしていられないんだもの」
その中に、2人の少女の姿があった。
彼女達は他のソフィア人の少女達と同じような衣装を身に着けていた、当然だがドレスでは無い。
赤糸で細かな刺繍の施された白のブラウスに暗い色のロング巻きスカート、腰の帯は黄・緑・赤の糸で刺繍が施された物で、ちょっとした町娘といった風だった。
頭にはスカーフを巻いており、容姿と相まって姉妹がお揃いの衣服を着ているようにも見えた。
「食べ物だけじゃないわ、遊び場もたくさんあるんですって。リデルも楽しみでしょ?」
「ちょっ……わぷっ、ちょ、待って!」
「え? あれ? リデル、どこ~?」
「こっ……こっちだってば!」
慣れの差だろうか、リデルは人でごった返すメインストリートを上手く進むことが出来なかった。
他人との衝突を恐れるものだから不用意に身を避けて、それがかえって別の人間にぶつかって、と言うことを繰り返している内にベルから離れてしまう。
何と言うか、人の海で溺れているようだった。
一方のベルは、メインストリートの数十メートルの幅を埋め尽くす人々の中を器用に擦り抜けて歩いていた。
多少肩がぶつかることもあるが、それを当然と歩いているためにかえってきちんと進めている。
だからこう言う場合、相手を見つけるのは常にベルの方だった。
「リデル、大丈夫?」
「だ、大丈夫よ。アンタは何で平気なのよ……」
「私はお祭りがあると必ず抜け出すもの、慣れてるわ」
「そ、そうなの」
どうやら同じ箱入り・世間知らずでもタイプが違うらしい、リデルは改めてベルとの違いを認識した。
膝に手をつき息を吐いてそんなことを考えていると、そっと手を差し伸べられた。
言わずものがな、ベルの手だ。
見上げると、初めての友達の笑顔があった。
「こうすれば、はぐれずにすむでしょ?」
初めての友達。
リデルに「遊ぶ」ことを教えてくれた相手、島から連れ出したのがアーサーだとするなら、ベルはリデルを新たな価値観へと連れ出してくれた存在だった。
そして、公都の外へと背中を押してくれる。
「最後だから、一緒にたくさん遊びたいの!」
その笑顔と言葉に、リデルは頬を染めた。
哀しみを欠片も見せない明るい笑顔に、胸が締め付けられるような心地になった。
おずおずと手を取ると、ぎゅっと握り締められる。
そして、引っ張られた。
「ちょ、ちょっと!」
「さぁ、早く行きましょ!」
「ちょ……もう!」
悪態を吐きながらも、リデルは自分が笑顔を浮かべていることに気付いただろうか。
人込みの中を先導する少女の背中に目を細め、困ったように笑う。
小さく俯きながらのその笑みは、他の人間の視界に映ったかどうか。
「……私も……」
「え? 何か言ったー?」
「な、何でも無いわよ! 前見て走りなさいよ!」
いや、どうやら他の誰かに見せて良い物では無かったらしい。
その証拠に、走りながら振り向いたベルの笑顔がより明るさを増したから。
そして、リデルがますます顔を紅潮させたから。
◆ ◆ ◆
外では祭りの喧騒が聞こえているだろうに、まるで別世界かのような静寂がその場を支配していた。
照明が暗く抑えられているのは、その部屋の主が明るい空間を嫌うからだ。
昔はそうでも無かったのだが、年老いたせいだろうか、光の下にいると体力を消耗してしまうらしい。
「……公王陛下の御意思は、承知致しました」
冷たい大理石の上に敷かれた赤絨毯、そこに膝をつけて座す人物が2人いた。
2人ともが軍服とローブの混合服であり、魔術師であった。
1人はイレアナであり、その手にはいつものように金属製の本を抱えている。
もう1人はノエルだった、彼女もまた両の足に赤い金属製のブーツを装備していた。
2人が見上げる先には、黄金の煌きを放つ玉座があった。
しかし12段上に存在する玉座の輝きと比べて、そこに座す人物は枯れ木のように儚げだった。
座ると言うよりはぐったりと沈み込むと言った方が正しいだろう、そして玉座に座すことが出来る人間は大公国広しと言えども1人しかいない。
「…………」
とは言え、例えばノエルは自ら進んで口を開くことは無い。
最も喋っているのはイレアナであって、混血であるノエルにはそもそも発言の機会そのものが無いと言って良い。
それでも彼女が謁見を許されるのは、彼女が大公国唯七の<魔女>だからだ。
(……あの娘を正式に公王家に迎えたい、か)
そして<魔女>であるイレアナとノエルが呼び出された理由は、要するに公王の要望を聞くためだ。
現在公都には3人の<魔女>がいる、その内の2人が今、公王の前にいるわけだ。
ヴァリアスが呼ばれていないのは、おそらくは昨日のパーティーでの騒動があるのだろう。
公王の要望は端的だった、つまりはリデルを正式に孫娘として迎えたいと言うことだ。
政務より末娘を気にかける公王らしいと言えば、らしい。
ましてリデルの親を思えば、公王がそうしようとする心情も理解は出来た。
だがそれはハードルが高い、リデルを公都へ連れ帰ったノエルをしてそう思わせる。
「されど東部叛乱より20年、未だ東の版図には賊が蔓延り、また南においても変事の報があるこの情勢。さらに内に火種を抱え込むのは、はたして時期として適しているか、私めには判断致しかねます」
ノエル自身、悩むことがある。
はたしてリデルを公都へ連れ帰ったのは、正しい判断だったのだろうか、と。
しかしあの首飾りを持っている以上、そしてあの石を扱える以上、事の判断はノエルの領分を越えると言うのも正しい。
そしてノエル自身、リデルに思う所があったのも事実だ。
(あれは、あの御方の娘)
見極める、と言うのとは、また違うだろう。
どちらかと言えば、そう――……。
「我が命が、聞けぬと申すか」
「……そうは申し上げておりません。ただ、私では判断致しかねると言うことです」
珍しく語気を荒げる公王に、あくまでイレアナは淡々と告げた。
その口調からは、公王への忠誠や敬愛と言った感情が完全に抜け落ちているように感じられた。
本当に、ただただ淡々と物事の事実だけを告げているような声音で。
「公王家と協会の間に結ばれた協約は、神聖にして絶対」
己の信条、いや信仰に等しい言葉を告げて、イレアナが言葉を続けるのをノエルは聞いた。
そして、それを聞いた公王の反応を見た。
勢い込むように乗り出した身をストンと玉座に落とし、肺の空気を押し出すように長く、深い溜息を吐いた。
別にイレアナは、何か脅すようなことを言ったわけでは無い。
それでも公王は一気に老いが進んだかのように――元々、老いてはいたが――僅かばかりの覇気さえ失い、何かを諦めたかのように玉座に身を沈めてしまった。
豪奢な造りの玉座が、何故か滑稽に見えてしまう程に。
特別なことでは無い、イレアナはただ、こう言ったのだ。
「――リデル様の件については、我らが<大魔女>の判断に委ねるべきかと」
イレアナの言う<大魔女>。
その存在こそが、リデルの運命を握る観測者であるのかもしれなかった。
◆ ◆ ◆
お祭りは大盛況の内に、どんどんと時間が過ぎていった。
それは非常に多様な魅力に溢れており、後のリデルの人生において、彼女の胸の奥で宝石として輝き続けることになる。
人はそれを、思い出と呼ぶのだ。
「にが~い。私、これ苦手~」
「そう? 私は好きよ。島の木の実は渋いばっかりだけど、これは口の中がしゅわしゅわして美味しいわ」
豊穣を祝う祭りと言うだけあって、各地から様々な収穫物が集められていた。
例えばその中には葡萄があり、それを用いて作られたお酒が多く流通しているのだとか。
中にはアルコール分を抜いたジュースもあり、苦味のある味わいを楽しんだ。
他にも、メインストリートの一角を占めて行われているアンティーク雑貨の露天位置などがあった。
これはリデルには良くわからなかったが、ベルにとってはそうでは無かったらしい。
非常に興味津々と言った風に雑貨を見ているが、それでいて何かを持って帰ることはしない。
どうしてかと理由を聞くと、こんな答えが返ってきた。
「だって、持って帰ってお父様に見つかったら大変だもの」
「アンタでもそう言うことは考えるのね……」
「あれ、驚く所ってそこなの?」
それから、奇妙な形をした乗り物がストリートを進むパレードも見た。
鉄馬車を改造したのだろうそれは動物を象ったものもあれば、この世に存在しないモンスターを表現しているようなものもあった。
自分の身長の何倍もの大きな見世物に、2人は魅入った。
ベルなどは特に興奮していて、リデルの腕に自分の腕を絡ませてぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
鉄馬車の仮想パレードは色合いがオレンジや赤など派手なものが多く、また賑やかな音楽と共に行われるため、子供が興奮しそうな条件が揃っていた。
とは言え、軽快な音楽と共に振り回されるリデルとしては堪ったものでは無かったようで。
「ちょ、ちょっとアンタ、ゆ、揺らすのだめ……」
「え? きゃあっ、リデル――!?」
人込みに当てられたのもあるのだろう、大きな色と騒ぎの中で顔が青ざめていた。
ベルが慌ててリデルを休める場所に引っ張って行く姿が容易に想像できる、その間にも多くの人々にぶつかってダメージを蓄積していくハメになったのだが。
そうしてオープンカフェに逃げ込み、少しの間休むことにした。
「リデル、はい、お茶よ」
「あ、ありが……って、甘い! どうせならもっと苦いの寄越しなさいよ!」
「気分の悪い時には甘いものよ! これは譲れないわ!」
「公都のことはまだ良く知らないけど、それは間違いでしょ絶対……!」
多少はソフィアの味に慣れたリデルだが、それでも生まれで培われた好みと言うものがある。
同時にリデルにとっては、「味の好みが違う」と言うそれだけのことが興味深くもあった。
公都に来て思ったことの一つに、人々の好みが違う、と言うことがあった。
物を選ぶ余裕の無かった旧市街ではそもそも好みと言う概念が強く無かったから、不思議だったのだ。
人には好みがあり、そしてその好みは大きな集団になり切らない。
甘いものが好きな者でも、個々人に好きな甘さの段階が違う。
ドロドロな甘味を好む者もいれば、薄い甘さが好きという者もいる。
人には好みがある、簡単なようでいて、それはとても重要なことにも思えた。
(ベルは甘いものが、そして私は苦いものが好き)
食べ物に対する自分の好みと言うのも、初めて認識した。
苦手を知ることで好きなものを知る、つまりはそう言うことだ。
たとえ人種が同じであっても、人は違うと言うこと。
つまり逆説的に、人種の違いなど意味が無い。
改めて、リデルはそう感じた。
「ああ、そろそろなの?」
「え?」
その時、カフェの店員がやってきてある物をテーブルに置いて行った。
良く見れば道行く人々にも配られているようだ、時刻は午後に差し掛かった頃だ。
「私ねリデル、今日これがあるって知ってずっと楽しみだったの。これって、何でもない自分になれるから」
「何でも無い自分?」
「ええ、自分じゃなくなるの」
「何よ、それ」
良くわからないことを言うベルに笑って見せるリデルに、ベルはどこか寂しそうな表情を浮かべた。
そしてテーブルの上に置かれた「それ」を手に取り、顔の横に置いた。
「――――仮面祭りの、時間」
◆ ◆ ◆
仮面祭りは、ソフィア人の地域で良く行われる祭りだ。
ルーツは大公国の前身国家である「帝国」にあリ、時の皇帝が身分の差に関係なく祭りを楽しめるようにと仮面を被って祭りに参加したことが始まりとされている。
参加者は皆で仮面を被って往来を練り歩き、場合によっては仮想を楽しむのだ。
「こっちよ」
人の顔の上半分を象った白い仮面をつけて雑踏に紛れ、手を引かれるままにリデルは歩いた。
最初は障害でしか無かった人込みは、今では逆にリデル達の姿を覆い隠してくれる壁となっていた。
祭りも佳境に差し掛かった。
やや小走りにストリートの端を進む仮面の少女達に、気を向ける者はいない。
――――思えば。
ベルの背中を見つめながら、リデルは思い出していた。
思えばあの時、ベルと出会った時もこうして手を引かれていた。
フィリア人の町や土地とはまるで違うソフィア人の土地、光り輝く都の中を、こうして一緒に歩いた。
一緒に、遊んだ。
「フロイライン!」
今も、ソフィアとフィリアがどうしてこうまで違うのかはわからない。
個々に異なるはずの個人が集まって形成される集団、人種や民族がそうだが、両者の差はどこから来るのだろう。
自分を島から連れ出した手と、自分を街へと引っ張ってくれた手。
それらはもちろん違うのだが、同じでもある。
まだ、自分でもどう考えをまとめれば良いのかはわからない。
フィリア人をフィリア人と言うだけで虐げ、その上に自らの繁栄を築くソフィア人が正しいとは思わない。
だが一方で、他者を慈しみ慮るソフィアの民達――相手がソフィア人であれば、と言う前提条件があるが――の姿を見れば、彼らがそのまま「悪である」とはもはや思えない。
(何故?)
わからない。
わからないことは嫌いだ、不安になる。
答え、そう答えだ。
リデルは今まさに、島の外と向き合うための答えを探す途上にあるのだった。
「フロイライン、どこ!」
気が付けば、公都には珍しく人通りの少ない路地裏に出た。
しかし路地裏と言っても旧市街と違い、ゴミ一つ無く清潔感があった。
赤茶けたレンガの建物に挟まれたそこは割合い広く、ベンチまであった。
路地裏にしてはお洒落なそこに、リデル達と同じようにフードと仮面で姿を隠した女がいた。
「フロイライン!」
「……こちらに」
その女はフロイラインだった、ベルとリデルの姿を認めると滑るように近付いてきた。
ベルはリデルと繋いでいた手を放すと、フロイラインの手を取った。
「フロイライン、お願いね。リデルを公都の外に連れて行ってあげて」
「……はい」
「それだけじゃダメよ、ちゃんと南まで……フロイライン?」
ベルが不審そうに首を傾げた、その目はフロイラインの顔をまじまじと見つめている。
「どうしたの?」
「いえ……」
いつもに比べて表情が暗い、そう感じた。
しかしそれに対する返事もそっけないものだった、フロイラインはそっとベルの手を放しさえした。
心配そうな主君を他所に、フロイラインは視線をリデルへと向けた。
「公都を出る手はずは整っている、後は私についてきてくれれば良い」
「ほ……本当? 本当に大丈夫なの?」
「……ええ、ベル様がご心配するには及びません。私がリデル様を公都の外に。そして、そこから先も万端、全て、整って……おります」
「お願いね、絶対よ。絶対、リデルを南まで行かせてあげてね?」
何度も念を押すベルと、淡々と頷くベルフラウ。
リデルは、違和感を覚えた。
このフロイラインと言う女は、あんなに淡々とした受け答えをするような人物だっただろうか?
じっと見つめても、青白くも固い表情から感情を読み取ることは出来ない。
その代わり、何か嫌なものを感じることは出来た。
どことなく、挙動不審。
普段の信用があるベルはともかく、これまで特に絡むことが無かったリデルにはそう思えた。
「リデルッ!」
しかし、そのことに集中することは出来なかった。
何故ならベルが飛びついてきたからで、思考はそこで中断せざるを得なかった。
「リデル、元気でね。それと私のこと、忘れないでね。それから、ええと、とにかく、元気でね――……」
「……うん」
肩口でもごもごと何事かを言い募るベルの背中を、抱き締め返した。
そうだ、自分は今日、公都を出るためにここに来たのだ。
改めてそう思えば、先のフロイラインの不審などどうでも良くすら思えた。
この数週間は、本当に、ずっと一緒にいたのだから。
「……あ、そうだ」
不意に思い出して、少しだけ身を離した。
そして胸元をごそごそと緩めて、不思議そうな顔をしているベルにそれを見せた。
「きゅあっ!? 何それ、気持ち悪い!」
「なっ!? 気持ち悪くなんかないわよ、こんなに可愛いじゃない!」
「可愛い? そんなわけ無いじゃない、リデルっておかしいわ!」
「な、なんですってぇ!」
にょろろ、と服の中から出てきた蛇の姿に阿鼻叫喚の様を見せる2人。
蛇をこんなに身近で見たのは初めてなのだろうが、それにしてもベルの反応には傷ついた様子だった。
とは言え最初は気味悪がっていたベルだが、その蛇が咥えている物を見て目を丸くした。
「リデル、これって……?」
「ほら、アレよ。い、言ったじゃない、見せてあげるって」
「…………」
「……何よ」
「ふふっ、べっつにー? それにしても、ほんとにそっくりね」
それは、例の赤い宝石だった。
リデルはもっぱら髪飾りにしているが、元々は首飾りだ。
まぁ、最近は蛇に持たせて服の中やベットの下に隠していることの方が多い。
だがこの魔術の力の込められた石がなければ、リデルは今ここに立っていないだろう。
パーティーの際に自分が身に着けていたそれにそっくりな首飾りを、リデルは興味深そうに眺めていた。
正直、パーティーの際には「重い」と文句さえ言っていたような気がする。
しかし今、こうして同じような首飾りを見ていると、不思議な気持ちになるらしかった。
しばらくはふむふむと頷いていたベルだが、ふとした拍子に。
「……お揃い、ねっ」
「お揃い? まぁ、言われて見ればそうなのかしら?」
全く同じ物では無いだろうが、そう言われて悪い気はしなかった。
何故ならそれは、2人の間に分かち難い何かがある、そんな感覚を得たからだ。
錯覚かもしれないが、妙な気恥ずかしさすら覚えた。
それはお互いに同じだったのだろう、2人は見つめ合い、そしてくすりと笑い合った。
「…………」
そしてそんな2人を、表情を変えないままに見つめる者がいる。
いや、少しだけ視点が違うだろうか。
何故なら彼女、フロイラインがどこか陰のある菫色の瞳で見つめていたのは、主君たるベルでも無ければ、その笑顔でも無く。
――――リデル、だったのだから。
◆ ◆ ◆
いつまでも、そうしているわけにはいかない。
「ベル様、さぁ……」
いつまでも抱き合ったままでいる2人を引き剥がしたのは、フロイラインだった。
名残惜しそうに――ベルだけでなく、リデルもそうだった――離れる2人の姿は、リデルが公都に来たばかりの頃を思えば、奇妙であり奇跡のようでもあった。
そして何よりも、リデル自身がそんな自分の心に驚きを禁じ得なかった。
友達、言葉にするとたった一言なのだが、不思議な力を持った言葉でもある。
ソフィアへの隔意はあるが、それでもこの公都での日々を憎めないのは、ベルの存在があったからかもしれない。
罪な程に無垢で、憎めない程に無邪気な彼女の存在が。
「じゃあ、行くわね」
「ええ……」
「その……ありがとう、ね」
「ううん、良いの。……気をつけてね」
「……うん」
最後に一度、ベルは強く抱きついた。
頬を擦り合わせるようにし、互いの肌に互いの感触を残すように抱き締めた。
リデル、きっと、この先も忘れないだろうと思った。
ぎゅっと感じる力強さを、仄かに感じる甘い香りを、腕に残る柔らかさを。
「リデル、大好きよ」
「……ん」
それでも流石にベルのように直截にはなれなかったのか、リデルはもごもごと何事かを告げた。
ほとんど聞き取れないような声だったが、すぐ傍にいるベルには聞こえたことだろう。
その証拠に、彼女は泣き笑いのような表情でリデルから離れた。
「ばいばい」
涙の雫を虚空に飛ばして、ベルは駆け出した。
彼女はそのまま振り返ることなく、再び祭りの雑踏の中へと姿を消していった。
先程と同様、肩をぶつけながらも転ぶことなく。
雑踏の中に消え行く背中を見つめ、そして次第にそれが歪んでいくことに気付いた。
胸に詰まるものがあった。
ルイナと別れた時、白状しよう、寂しさがあった。
アーサー達と離れた時、白状しよう、恐ろしさがあった。
だが今感じているのは、それらとはまた別の感情だった。
「……っ」
その感情に何と名前をつければいいのか、わからない。
わからないことは嫌いだ、不安になる。
だが今、彼女の胸に去来しているのは不安では無く、切なさだった。
切なさの理由は、やはりわからない。
答えはすでに己の中にあるような気がするのだが、それでも形になってはくれない。
わからぬままに、そして雑踏の中に消えた背中を想い、立ち尽くしていた。
そして、立ち尽くしていたが故に無防備だった。
「――――うむっ!?」
後ろから羽交い絞めにされ。
口に布を詰め込まれ。
そして。
……。
◆ ◆ ◆
自身の腕を掴んでいた相手の手が、徐々に力を失っていくのをフロイラインは感じていた。
リデルが本当に公王家の血筋であり、かつ伝承が真実であるのならば、物理的な危害は彼女には届かない。
だから薬を使った、大公国には南には無い医薬品も多くある。
「ハッ……ハッ……」
長い距離を走り抜けたような息切れ、首筋を伝い背中を濡らす滝のような汗。
力なくその場に崩れ落ちるリデルの身体を抱えたまま、自身もまた地面へと膝をつけた。
ベルが去り、不自然に人通りの無い路地裏で、薬で眠らせた少女の身を抱きかかえる姿からは、どこか情緒不安定とも言うべき怯えの色が見え隠れしていた。
「ハッ……!」
暑いのだろうか、衣服の襟元をしきりに引っ張っている。
不意に、その肩に手を置く者がいた。
悲鳴を上げて振り返れば、そこには金髪紫瞳の若い青年がいた。
ヴァリアスである、まるで空気を求める魚のように口をぱくぱくとさせながら。
「ヴァ、ヴァリアス様……ッ」
「うん、見ていたよ。キミは本当に良くやってくれた」
ヴァリアスは柔和な微笑を浮かべながらそう言うと、意識を失った少女へと視線を向けた。
フロイラインの腕の中、やや青白い顔で眠るリデルを見る。
彼はそれに目を細めるとフロイラインの肩から手を離し、次いでその手を左右に振った。
すると、ベルが去った方とは逆方向から数人の人間がやってきた。
軍服とローブの混合服に金髪紫瞳、明らかにソフィア人の魔術師だった。
彼らは戸惑うフロイラインからリデルを受け取ると、別の人間が持ち込んだ担架に乗せようとした。
その時、その内の1人が悲鳴を上げた。
横たわったリデルの衣服の中から蛇が飛び出し、彼の喉笛に噛み付こうとしたのだ。
「おやおや、随分と危ない物を忍ばせているね」
しかしその蛇は、ヴァリアスによってあっさりと掴まれてしまった。
喉の部分に親指を当てて口を開かせ、ぶんぶんと振られる身を片手の力で押さえつけた。
手の中で苦しげにもがくそれに冷ややかな視線を向ける一方、噛まれそうになった男に柔らかな表情を見せる。
「淑女のすることでは無いね。大丈夫かい?」
「は、はい」
「そう、じゃあ、そのまま頼むね」
「「はい!」」
威勢の良い返事を返し、男達はリデルを何処かへと運び去った。
担架から零れ落ち、力なく揺れる少女の手を見て、フロイラインは傍らの<魔女>を見上げた。
「あ、あの、ヴァリアス様……彼女は」
「ああ、安心してくれて良い。悪いようにはしない、彼女に罪があるわけじゃあ、無いからね」
「そ、そうですか。良かった、それは……とても」
ベルのことを想えば、リデルは公都にいるべきでは無い。
かつ、二度と公都に、いやベルの前に姿を現すべきでは無い。
安堵、この時のフロイラインはそれを得ていた。
――――東部叛乱。
それを知るフロイラインは、公王位継承権保持者が複数いることの危険を知っている。
あの叛乱の後に大公国は事実上アナテマ大陸の半分を失ったが、その原因の一端には当時の公王家内部の混乱があった。
つまりは、公王位継承を巡る内部分裂、内乱である。
大公国では、東部叛乱とその後の内部紛争はイコールで考えられることが多い。
(これで、ベル様に類が及ぶことは無い)
ベルは知らない。
彼女が生まれる前、あるいは生まれて間もない頃、当時の公都がどれ程の惨状に陥っていたか。
彼女の義母や兄姉達が、どれ程の血生臭い争いを続けていたのか。
そして何故、今、彼ら彼女らが1人として公都にいないのか。
あの少女は、何も知らないのだ。
(だが、それで良い)
ベルがそんなことを知る必要は無い。
彼女はただ幸福に、健やかに日々を過ごしてくれさえすれば、良い。
この時のフロイラインは、本気でそう信じていた。
一方で、リデル自身に罪が無いこともわかっている。
だからヴァリアスにはリデルに危害を加えず、どこか遠くの地で生活を保障してくれるよう依頼したのだ。
協会の<魔女>であるヴァリアスの庇護下ならば、相応の生活は約束されているはずだったから。
「キミのおかげだよ、ありがとう」
「え?」
そんなことを考えていると、すっと差し出される物があった。
上等そうな袋に詰められたそれはずっしりと重く、しかも2つあった。
ぽかんとした表情でヴァリアスを見上げれば、彼は「気にするな」と言うような顔で微笑んだ。
「ヴァリアス様! この娘はどちらへ……」
「ああ、そうだね。とりあえずは東へ、向こうには話を通してあるから――――」
「え……え? ヴァリアス様……?」
東と言う言葉に若干の不吉を感じ取りつつも、それ以上に困惑があった。
ずっしりと重い2つの袋は共に拳大の大きさで、金の刺繍が施された白い布地に紫の紐で口を縛っていた。
戸惑いつつも、重みと固さを感じるそれの中身を見ようと口を開ける、すると。
――――チャリ……。
それは、本当に不快な音だった。
一つには純金のコインがあり、もう一つには赤く透明な石が詰まっていた。
袋の口から零れ地面に落ち、音を立てるそれらを見た時、フロイラインの中で熱が急速に冷え、同時に頭の中に冷血が注ぎ込まれたかのような不快な冷たさが広がるのを感じた。
「……違う」
公都を始めとする都市部において、通貨や貨幣は意味は無い。
だがそれでも貨幣を使わないわけでは無く、また純金は大公国でも価値が高い資産だ。
一袋もあれば、ちょっとした財産であると言えるだろう。
また赤い石、<アリウスの石>については、協会に属する魔術師と言えどそう自由に出来る代物では無い。
供給源は全て協会が管理しているため、1人1人が持てる量は限られている。
透けて見える程に純度の高い石ならばなおさらだ、
フロイライン達魔術師にとっては、金よりもずっと価値のあるものだった。
「私は、こんな物のために。こんな……!」
地面に落ちたそれらを拾おうともせず、フロイラインは己の内側で蠢く感情に対処しようとして、失敗した。
「私が、金や石欲しさに、ベル様を謀ったと思うのか……!」
涙が止まらなかった。
もはや彼女にはどうしようも無い、そして目の前にある唯一の成果・報酬とも言うべき物を前に、先程の安堵を塗り潰す程の大きな感情が彼女を押し潰さんとしていた。
いや、いっそ潰されてしまえば良い、そうとまで思った。
「私は、私は……!」
そしてその感情の大きさの故に、彼女はその場から動くことが出来ずにいたのだった。
◆ ◆ ◆
「おいおい、こいつぁヤベぇんじゃねぇの?」
ベルが去った方向の路地裏の出入り口に、彼はいた。
明らかにタイミングを逸してしまったらしい彼は、自然に備えているにしてはややくすんで見える金色の髪に手をやりながら、路地の奥の様子を見ていた。
「エテルに奴に、アーサーのとこまで知らせに行って貰わねぇと」
飄々(ひょうひょう)とした容貌に似合わず、どこか焦りの色を見せている男。
彼は頭、と言うより髪を押さえたまま、言った。
「こいつぁ、本気でヤベぇ…!」
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
1週間開いての投稿ですが、5章本編はこれにて終了です。
何だか暗雲立ち込める展開になってきたような気が致しますが、ご安心下さい、まだまだ下降致しますので(え)
それでは、また次回。