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5-4:「兵法対兵法」

 公都トリウィアに滞在し始めて、何週間か過ぎた。

 それまでの数週間の日課は、ベルとのお茶会と図書館での読書の2つだった。

 しかしこの数週間は、それらに加えてもう一つやることが出来た。

 そしてそれは、ベルとのお茶会以上に面倒かつ苛立ちが増す作業だった。



「~~♪ ~~♪ ~~♪」



 この数週間で日差しの増した青空の下、リデルは例の城下への抜け道がある中庭にいた。

 最近は気温が高い日が続いているが、トリウィア市内は快適な気温を保っていた。

 何でも魔術によって都市内部の温度をコントロールしているらしいが、詳しい技術はわからない。

 まぁ、そこは重要な点では無い。



 重要なのは、どこからともなく聞こえてくる歌声だ。

 どことなく調子を外しているその歌声の主は、中庭の花壇の中で花を摘んでいた。

 金糸の髪に機嫌の良さそうな笑顔、ベルである。

 ドレスのまま土の上に座り込んでいるので、中庭の端からフロイライン――彼女はこの「3人」の空間に入り込むことを許されていない――が気遣わしげな視線を向けている。



「そなたとあの子は、年も近い。これは、あやつからの贈り物であろう」



 枯れ木のような身体をゆったりと椅子に横たえて、老人――アムリッツー大公国の公王が言う。

 彼は本来、あまり外に出たがるような体調では無いように見えた。

 それでも外に出てベルと時間を共有しようとしているのは、それだけ、ベルのことを愛していると言うことなのだろう。



 しかし、それが自分にとって何か意味があることなのだろうか?

 リデルはそう自問し、そして自分の格好を見た。

 白地に黒のビロードと金のレースが彩られたドレスで、二の腕から下の袖は薄く透けるようになっている。

 ベルもそうだが、与えられる衣服は毎日違う、それでいてどれも上等なものばかりだ。



「どうか、ベルの良い友人になってやってほしい。あれは、あまりにも不憫で、寂しい思いをさせておる故……」

(何でそうなるのよ)



 心の中でツッコミを入れる、が、もうそれを口に出すつもりは無い。

 この老人、王様らしいがとにかく、この老人の中では自分は「孫」なのだそうだ。

 正直、言っている意味が良くわからない。

 父の形見であるあの赤い石が輝くことが何故、そう言う結論に達するのかはわからない。



(……ボケてるんじゃないの?)



 我ながら酷いことを考えるが、しかしそうとでも考えないと納得が出来ない。

 自分が大公国公王の孫? 公女殿下? アーサー達を苦しめている国の?

 冗談じゃない、と言う気持ちの方が先に来る。

 さりとて逃げようにも簡単では無い、隙を窺ってはいるのだが。



「お父様!」

「おお、おお……ベル、ベルや」



 花壇を飛び越えて、ベルがスカートの汚れも気にせずに駆け寄ってきた。

 彼女はその手に花冠を持っていた、どうやら先程から花を摘んでいたのはこのためだったらしい。

 本当に王女様のイメージからは程遠い、いや、花冠のあたりはかろうじて王女らしいのだろうか。



「ほら、やっぱり! お父様ももっと可愛らしい格好をするべきよ、とっても似合ってるわ!」

「ほほ、そうか。そうかな……」

「ええ! ねぇ、リデルもそう思うでしょ?」

「……そ、そうね」



 正直、枯れ木のような老人の頭に色華やかな花冠が似合うとは思えない。

 だがベルの満面の笑顔と公王の嬉しげな顔を曇らせるような意地の悪さも持ち合わせていないので、引き攣りながらも何とか頷いた。

 それでも満足したのか、ベルはその場に座り込み、公王の膝に身を乗せるようにして甘え出した。



「ねぇ、お父様。私ね、次は……」

「おお、おお。そうさな、ああ……」



 そうして、仲睦まじそうに何かを話し始める。

 話題はその日によって違う、新しいドレスをねだったり、今みたいにベルが何か贈り物をすることもある。

 そうしていると、リデルは自然、1人で時間が過ぎるのを待つばかりとなってしまう。



(……ああ、もう)



 またこれだ、苛々する。

 最近はこういうことばかりだ、何かにつけて腹の奥に何かが積もっていく。

 こめかみのあたりに指を当てれば、じくじくとした痛みを感じる。

 いつまで我慢すれば良いのか、あるいは我慢をすれば良いのか。



 自由。

 島にいた頃から自然と享受できていたそれが出来なくなり、リデルは強烈な不満を感じていた。

 これは旧市街にいた頃、人に囲まれて感じていた不安とはまた違うものだ。

 何かが生まれるわけでも無い、ただただ身体に積もっていく嫌な感情。

 その感情の名をリデルはまだ知らない、そして。



「そうだわ! 今度、皆でピクニックに行きましょうよ。ね、良いでしょ、お父様!」

「おお、おお……そうだな、ベルよ。それも良いかもしれぬな」



 父の膝に身を寄せて、何かをねだる娘。

 それを見ていると、どうしてか胸の奥が嫌な気持ちになる。

 苛立ちや不満とはまた別のその感情、その名前も、リデルはまだ知らない。

 知らないことが、彼女には多すぎた。



  ◆  ◆  ◆



 その様子を、フロイラインは落ち着かない心地で見守っていた。

 公王がベルと時間を共にするのは珍しいことでは無い、だが今は事情が違う。

 その中に、今までにいなかった1人が加わっているのだ。



(やはりあの娘は、公女殿下の地位を危うくする)



 あの娘とは、言うまでもなくリデルのことだ。

 フロイラインは不安だった。

 誤解の無いように断言しておくが、フロイラインはリデルに恨みは無い、むしろ同情している。

 ある日突然、見ず知らずの所に連れて来られたばかりでは無い、南のフィリア人の土地で保護されたと言うのもソフィア人の価値観からすれば十分に同情の理由になる。



(しかし、あくまで私はベル大公女殿下付きの魔術師)



 フロイラインが考えるべきはフロイラインの心身の安全であり、地位の安泰だ。

 リデルを気に入っているベルからすれば、フロイラインのこの考えは裏切りにも等しいだろう。

 余計なことをと、価値観の押し付けだと、激怒するかもしれない。

 激高と悲哀の余り、フロイラインに死を賜るかもしれない。



 だが、フロイラインはそれでも良かった。



 何故なら彼女には、私欲が無いからだ。

 独善的なきらいはあれど、彼女があくまでもベルのことを案じているからだ。

 そしてそれは、ベルの好き嫌いに関わらずに進行する何事かを敏感に察しているからでもある。

 ベルが知りえない、それでいてベル本人に関わることのために。



「今日の陛下は随分とご機嫌麗しそうだね」

「……! ヴァ、ヴァリアス様」



 不意に聞こえてきた声に驚き振り向けば、今しがた来たのだろう、ヴァリアスがすぐ傍にいた。

 お茶菓子等をすぐに用意できるよう扉の近くに控えていたのだが、扉が開く気配に気付くことができなかった。

 突然の<魔女>の登場に、フロイラインは胸を押さえつつ一歩を下がった。



「も、申し訳ありません。陛下はただいま、その、誰とも謁見には」

「ああ、わかっているよ。僕はたまたま通りがかっただけだから」

「は、はぁ……」



 流れるような金色の髪に切れ長の菫色の瞳、整った容貌に高めの身長。

 魔術師仲間の女性陣の間で人気があると聞くが、比較的容姿の整った者が多いソフィア人の中でも美景の部類に入ることは間違いない。

 フロイラインはそこまででは無いが、それでも正面から微笑を向けられればどきまぎはするのだった。



「陛下はここの所、リデル様にご執心のようだね。この20年では初めてのことだ」

「……はい」

「沈んだ声だね、不満なのかな?」

「い、いえっ! そのようなことは!」

「ははっ、別に責めているわけじゃないよ。むしろ仕方の無いことだとも思うしね」



 柔和な笑みを称えたまま、ヴァリアスは慌てる様子のフロイラインを見つめる。

 そして、ふと目つきを真剣なものに変えると。



「――――キミの気持ちはわかる」

「ヴァリアス様……」

「いや、キミだけじゃない。20年前の東部叛乱とそれ以後の混乱を知る者なら、リデル様の存在を知れば誰だって心配するだろう」



 20年前。

 東部叛乱。

 それ以後の混乱。

 ヴァリアスの言葉は、フロイラインの胸中で違和感なく響いた。



「大丈夫、キミは間違っていない。むしろ普通なんだ、誇って良いことだよ」

「いえ、そんな。私はただ、ベルフラウ殿下の……」

「大公女殿下のために。そうだね、はたしてリデル様の存在が殿下にどう影響するか」

「…………」



 黙り込むフロイライン、そんな彼女にヴァリアスは柔和な微笑を見せた。

 そうして、俯く彼女の頬にかかる髪を指先で梳き。



「1人で抱え込まないで良い。僕で良ければいつでも相談に乗るよ……いろいろとストレスの溜まる職務だろうしね?」

「……ふふ。それは、ベルフラウ殿下に対して礼を失した発言ですね?」

「おっと、これはいけない。不敬な者は罰せられない内に退散するとしようか」



 おどけたように肩を竦め、ヴァリアスは背を向けて扉の向こうへと消えた。

 今度は扉の開く気配も音も立てて。

 そんな<魔女>の背中をクスクスと見送った後、フロイラインは中庭で過ごす3人を見つめた。

 胸の内に広がる疼きを抑えるかのように、胸に手を当てたまま。



「…………」



 そしてそんな彼女の横顔を、未だ僅かに開いたままの扉の向こう側から覗き見る目があった。

 ヴァリアスは刹那の間彼女の横顔を見守った後、音も無く扉を閉めた。

 その時に垣間見えた彼の表情は、わからない。

 観測する者のいない事象は、ただ、誰にもわからないまま――――……。



  ◆  ◆  ◆



「ああ、もうっ! 鬱陶しいわね!」



 やたらめったら裾の長いドレスに辟易しながら、リデルは自室――自分の部屋と言う意味では無く、自分にあてがわれた部屋と言う意味で――の椅子にどさりと音を立てて座った。

 そのままサイドテーブルに置かれた菓子入りの籠に手を伸ばすと、菓子を鷲掴みにした。

 小麦粉と卵を練って固めたらしいその菓子は仄かに甘く、噛み砕けば砕く程に口内に甘さが広がっていった。



 そして今、その甘さすら苛立ちの種になる。

 二口目を食べる気にもなれずに、籠に投げ捨てようと手を上げかけた。

 ……しかし、ゆっくりと戻すと二口目を口に含んだ。

 好みで無い甘さに辟易としつつも残すことは無く、指についた残りカスまで舐めとる程だった。



「……何か、変な所にお肉ついてきたような気がする」



 島にいた頃はもちろん、旧市街にいた頃はもっと動き回っていた。

 それに無駄に栄養素を高められた食品など口にしたことも無かったから、トリウィアでの食生活は逆に身体に毒だった。

 運動も減り、栄養価だけが高まれば、それは身体も育つというものだ。



「それにしても、何なのかしらねアイツ」



 げっそりとした表情を作って視線を部屋の隅にやれば、そこには開けるのも馬鹿らしくなるくらいの箱の山があった。

 大きさは大小様々だがどれもにリボンが巻かれており、所謂プレゼントの山だった。

 しかもどれも高価な物ばかり、服や宝石からぬいぐるみまで、「女の子」向けの贈り物ばかりだ。



「……超いらない」



 それでも捨てないあたり、貧乏性なのかもしれない。

 まぁ、実際貧乏だったわけだが。

 そうしていると、プレゼントの山の中からシュウシュウと言う鳴き声が聞こえた。

 それを聞いてようやく、リデルはほっと息を息を吐いた。



「おいで」



 呼びかけると、それはスルスルと床を這ってやってきた。

 島蛇である。

 過ごしにくいだろうに、それでも傍にいてくれるこの蛇の存在はリデルを救っていた。



「アンタがいてくれるから、何とかやっていけるわ」



 足から腕へと這い上がってきた蛇に愛おしげに頬ずりすると、蛇もチロチロと舌を出して応じてくれた。

 それが、リデルにとっては何物にも変え難い癒しだった。

 この蛇がいてくれなければ、きっと心が折れていた。



 一つ心残りがあるとすれば、あの黒いビロードの帽子が戻ってこなかったことだ。

 それだけは心のトゲとして引っかかっていて、落ち込む一つの理由になっていた。

 それに外へ逃げる算段も付かず、ただただ公王と公女に誘われる毎日。

 本当に、この蛇がいなければ心が折れていただろう。



(……アーサー達、大丈夫かしら)



 ノエルへの降服策によって一時の平穏は得たはずだが、その後どうなったかはわからない。

 眼を閉じ思案しても、自分には何も届かない。

 また、届けることも出来ない。

 改めて認識すると、心にずしりと来る事実だった。



 思考が暗い方向にその時、部屋の扉が外からノックされた。

 余りに驚いて椅子からズリ落ちそうになったが、すぐに持ち直した。

 それからドレスの胸元を大きく広げた、その中に蛇がスルリと入り込んでいく。

 尻尾の先が肌着の中に潜り込むのを確認した後、リデルはノックに対して返事を返した。



  ◆  ◆  ◆



 身体を分解され、再構成される。

 その感覚はすぐに慣れるものでは無いが、しかし1度目と同じように気を失うことは無かった。

 代わりに、急に光の戻った視界に目を何度か瞬かせた。



「リデル様、こちらへどうぞ」



 イレアナの声――部屋を訪ねてきたのはイレアナだった、暇なのだろうか――に顔を上げ、少しよろめく身体を引きずるように歩く。

 そこはどこかの部屋のようで、木質系の壁材の質と床材の上に敷かれた赤絨毯が上級さを演出している。

 しかし、そうした部屋にしては不格好な物が置かれていた。



「何してるの、あれ」

「シミュレーションです」

「しみゅれーしょん?」



 若干アクセントが異なる気もしたが、繰り返すと頷きが来た。

 それは7メートル四方の盤のような物体で、南北の対面に1人ずつが座るような造りになっていた。

 マス目が均一に振り分けらている盤上には緑の山や青の川などがリアルな形で再現されており、街や村、田畑なども見える。



 そして盤上で規則的に動いている物がある、それは駒だった。

 見る限りにおいて歩兵・騎兵・砲兵・車兵しゃへい等があり、それぞれに数や何か良くわからない数値が頭上に浮かんでいた。

 それらの駒が盤上を動き、時に相手の駒と衝突したり、あるいは街を攻撃したりしていた。

 なるほど、シミュレーションである。



「これも魔術で動かしているわけ?」

「もちろん」



 見れば、盤を支えるテーブル部分の下部が薄く赤い光を漏らしていることに気付いた。

 まさに、何でも魔術で動かしている世界なのだと改めて実感した。

 その時、盤上の駒を動かしていたらしい者達が作業を止め、立ち上がった。

 ローブと軍服の混合服を纏った彼らは魔術師であり、イレアナよりも年若く、むしろリデルの方に年齢が近いように感じた。



「彼らは協会の運営する参謀育成機関の生徒です。以前、参謀機関をご案内すると申し上げたかと思いますが、今日の所は彼らが普段行っている訓練の一部をご覧にいれようと思いまして」

「あー、何かそんなことも言ってたかもね」

「ええ、右がバルカ、左がシッドと申す者です。両名とも今期の首席・次席と言う成績を修めておりますので、リデル様のお相手として差し支えないかと……」

「ふぅーん……」



 大公国の参謀候補生が行っているシミュレーション。

 興味が無いと言えば嘘になる、リデルの目はすでに盤上に注がれて動かなかった。

 試してみたい、と言う思いが強いのだ。



 幼い頃から兵法を学び、そして今大公国で最新の兵法書に触れている、そう思わない方が不自然だろう。

 何より好奇心、見たことも無い面白そうな物を前にすると、どうしても我慢弱くなってしまう。

 そしてそんな内面を見透かしたかのように、声がかけられる。



「実際にやってみますか?」

「え、良いの?」



 だから素直に返事を返してしまって、赤面するハメになった。

 イレアナは冷たい表情を僅かに崩して、口元に小さな笑みを浮かべながら奥側の席を勧めた。

 リデルはほんの少し抵抗を見せた後、顔を赤くしたまま、憮然とした表情で座席についたのだった。



  ◆  ◆  ◆



「この石に触れ、動かしたい駒について……」

「ほ、ほうほう」



 盤上では、イレアナの教授に従ってリデルが駒を動かしていた。

 この盤は参謀養成機関では使い古された物で、兵種に魔術師は含まれておらず、その意味ではやや前時代的な設定と言える。

 その分、純粋な兵法・軍略のシミュレーションに使われるのだが。



「それではシッド、始めなさい」

「はっ」



 シッドは17歳の青年である。

 比較的一般的なソフィア人の家庭に生まれ、魔術の才高く、協会の養成校では参謀コースを希望して許された。

 公王家と協会への忠節と言う点でも遜色なく、まさに「普通」の青年だった。



 故に、他に比べてプライドも高かった。

 才があり参謀候補生に抜擢され、しかも次席。

 <魔女>の1人であるイレアナに招聘され興奮を隠さずやってくれば、どこの誰とも知れぬ少女の相手をしろと言う。



(どこの良家のお嬢様の道楽か知らないが、ちょっとお灸を据えてやるか)



 そんな風に思ってしまうのも、無理は無いことだった。

 そう意気込んで駒を動かそうとした彼だが、不意に出鼻を挫かれることになった。

 何故なら、操作用の<アリウスの石>が動かなかったからだ。

 理由は、すでに彼が勝利条件――今回の場合、敵軍の殲滅か降服、ないし撤退――を満たしていたからだ。



「あ、ごめん。間違えて撤退しちゃった」

「いえ、大丈夫ですよ。設定をやり直しましょう」



 どうやら相手の娘が操作を間違えたらしい、シッドはやれやれと思った。

 操作の仕方も妖しい相手とシミュレーションをしなくてはならないとは、彼の胸中はそれだけで一杯となった。

 すぐに再設定が行われ、再び盤上に戦場が設定された。



 上から見て、北にシッド軍、南にリデル軍が配置されている形でのスタートだ。

 東一帯に山、山中を水源として西端まで川が流れ、その位置に中規模な街がある。

 他は平原がほとんどで、街周辺に田畑が少しある程度。

 どうやら今回の設定は、野戦を想定したものとシッドは判断した。



(さて、どう攻めてやるかな)



 駒には兵種の他、移動速度と物資量も設定されている。

 例えば鉄馬車を持つ車は物資量も移動距離も多く、逆に歩兵は少ない。

 砲兵は打撃力があるが足が遅く、弓兵は足が速いが打撃力が弱い、などだ。

 それぞれの兵種の特性を理解し、効率的に動かすことがこのシミュレーションでは重要なのだが。



「あ、あれ? ええと、こう? こうで良いの?」

「はい、それでよろしいかと」



 イレアナを後ろに控えさせたリデルは、そうした効率を無視して手探りで駒を動かしているようだった。

 まぁ、初めてのようだし、仕方ないだろう。

 不満を感じつつも同情し、せめてさっさと終わらせようとシッダは考えた。



 何しろリデルの駒操作と言ったら、西へ動いたかと思えば東へ動く、と言った有様だったのだから。

 最初は補給目的で西に動いたと思えば、すぐに東の山へ向かったのだ。

 それも兵種ごとの速度を理解せず、全部隊を同時に動かしていた。

 あまつさえ、山の麓につくと部隊を動かせずにまごまごしている様子だった。

 一部の部隊が山を登っているが、はたしてリデルの意思による操作なのかどうなのか。



(まぁ、仕方ないか)



 駒をバラして動かす方法がわからないのだろう。

 シッドはそう思い、まず足の速い騎兵を西の街に向かわせ、次いで弓兵に川岸に弓兵を派遣した。

 その後、本拠地に物資と輸送部隊である車兵を残して陣営を築き、残りの砲兵・歩兵を弓兵が確保する川の渡河点へと向かわせた。

 その間、リデル側からの妨害は一切無かった。



 滞りなく歩兵・砲兵・弓兵の渡河が終了し――リデル軍は山の南に集結しているので、こちらから渡河して行かなければならない――そのまま進撃する。

 山を壁として、リデル軍の南東に弓兵、東に歩兵、北東に砲兵を進めて半包囲する。

 理想的な形、シッドは満足そうに頷いた。

 その時だ。



「馬鹿、シッド! 出すぎだ!」

「はぁ?」



 首席のバルカが、声に緊張を滲ませて言った。

 シッドは傍にいる同級生がどうしてそんなことを言うのかわからず、振り向いた。

 そしてその振り向いた瞬間、盤上が急激に動いた。



「……なぁっ!?」



 まず、歩兵が壊滅していることに気付いた。

 山の南東でまごついていたはずのリデル軍の砲兵が山上にいて――おそらく、シッド軍の渡河中に上げたのだろう――高みから低地にいるシッド軍に強かな一撃を加えていたのだ。

 歩兵が火砲に勝てるはずも無く、瞬く間に数を減らしていく。



 次いで敵陣の一番奥深くに進んでいた弓兵も、砲兵の攻撃に晒されることになる。

 反撃しようにも敵の歩兵が壁になっていて、思うように行動できないようになっていた。

 ではこちらも砲兵で反撃を、と駒を操作しようとしたその時にはさらに状況が動いていた。

 車兵を除けば最速の足を持つ騎兵が、東の山を突破してシッドの本拠地の目前に出てきたからだ。



「い、いつの間に……!」



 いつと言えば、それは最初からだと答えるしかない。

 まず西に全軍で動いたのも、それから東の山の南側でじっと息を潜めていたのも。

 最初から、敵軍を分散させ引き寄せるための行動であったのだから。

 シッドは、それを見抜けなかった。



「き、騎兵を」



 戻そうにも、西の街を占拠している間に防衛力の無い本拠地に敵の騎兵が突撃をかけて来た。

 砲兵は敵の砲兵と相討ちに近い状況で、しかも撤退ルートの渡河点は山の中程を通ってきた敵の弓兵によって確保されてしまっていた。

 車兵はそれ自体は火力を持たない、そう時間を置かずに本拠地は敵に奪われてしまうだろう。

 残る騎兵は、西の街の補給物資を抱えたまま、何でも出来ずに味方の壊滅を見ているしか無い……。



 ……程なくして、シッド軍は降服した。

 リデル軍とシッド軍の戦は、リデル軍の勝利で終わったのである。

 盤上でリデル軍の駒が勝ち鬨を挙げるのを、それを聞きながらリデルはほぅっと息を吐いた。



  ◆  ◆  ◆



 上手くいって良かった、リデルはほっとした心地で額を拭った。

 いくつかの兵法の原則を組み合わせた結果だが、事の他上手くいったようだ。

 要因は2つ、第1に相手がリデルを舐めてかかってきたこと、第2にリデルが戦場を野戦用と見なかったことだ。



(『始めは処女の如くして、敵人の戸を開き、後は脱兎の如くして、敵の拒むに及ばず』ってことね)



 最初に操作ミスで撤退したのは、アレは実はわざとである。

 流石に開戦と撤退の操作の違いくらいわかる、駒の操作で東西を間違えたのは素だが。

 だが最初に西に向かったことで、相手に街を確保させる必要性を認識させたのだがから、結果オーライと言えばそうなのかもしれない。



 西の街は明らかに補給ポイントだが、この戦場、短期決戦で臨むなら実は補給は要らない。

 むしろシッド軍のように西の街を確保するために兵が必要になるので、長期戦を志向しない限りは邪魔だと判断した。

 平原上で会戦する野戦なら補給物資が多い方が勝つが、山岳地帯を突破しての短期決戦ならばその限りでは無いからだ。



(まぁ、相手が守りを固めてたら長期戦も視野に入れる必要があったんだけど……)



 敵は部隊を分散配置してきたため、各個撃破でも十分に対応は出来ると考えていた。

 そう言う意味では、戦う前からリデルの優勢は決まっていたと言える。

 意外と本格的なシミュレーションだった、ゲームとしてなら面白いかもしれない。



「な、納得いきません!」



 急な声量に、リデルは肩をびくんと揺らした。

 何事かと思えば、シッドが肩をいからせて立ち上がっていた。

 バルカがまぁまぁと止めているようだが、聞く耳持っていないようだ。



「い、今のはたまたまで、マグレです! もう一度やれば、今度は……!」



 きっと睨まれたが、そこで怯まないのがリデルである。

 マグレだと言われるのが苛立つし、運に救われた部分があるのも否定はしないが、そもそもはリデルを侮り自滅したシッドが悪いのである。

 兵法論議なら望む所、リデルは腰を上げかけた――――が。



「お、俺は次席ですよ!? そんな女子に負けるんて、それこそあり得ない!」

「お、おい」

「そ、そうだ。イレアナ様が操作を教えていたんでしょう!? なら、駒の操作だって……!」

「――――なるほど」



 部屋の温度が下がったと感じるのは、錯覚だっただろうか。

 腰を上げかけたリデルを制し、対面のバルカ・シッドらの所まで歩いていたイレアナは、指先で眼鏡を押し上げながらシッドへと視線を向けていた。



「面白い見解だ、続けてくれても構いませんよ」

「え……いや……その……」



 へなり、とその場にへたり込むシッド。

 リデルの位置からはイレアナの顔までは確認できないが、いったいどんな目で見られればあそこまで射竦められるのだろうか。



「……え?」



 そんな風に事態の推移を見守っていると、先程までシッドが座っていた座席に座るのが見えた。

 彼女は指先で眼鏡を押し上げる仕草をすると、盤の設定を始めた。



「ちょっとアンタ、何してんの?」

「いえ、興が削がれましたので。次は私がお相手致しましょう」



 前半で落ち込みを見せたバルカとシッドは、後半の言葉に激しく反応した。

 一言で言えば驚愕、そんな表現が合うような顔をしていた。

 それはリデルも似たような物だが、2人よりは驚愕の度合いが少ないだろう。



「良くわからないけど、アンタそんなことして良いの?」

「おや、不服でしょうか。私はこう見えて、協会の参謀を束ねる立場におりますが」

「それは凄いわね。まぁ、別に良いけど……」

「ふむ、まぁ、ただするだけでは面白く無いでしょうし」



 そうですね、と考える素振りを見せた後、イレアナは言った。



「もし私に勝てたなら、お教えして差し上げますよ」

「何をよ」

「陛下がリデル様にこだわる理由です、図書館で探しても見つからなかったでしょう?」



 ぐ、と身に力が入ったのは、それが事実だったからだろう。

 リデルは真っ直ぐに対面に座るイレアナを見つめた、相手は寸分も視線を逸らさずに受け止めた。

 数秒、睨むように見つめ合う。

 挑む側の眼と、受ける側の眼で。



「いかがでしょう?」

「……上等じゃない」



 戦場を設定する盤上を視界の端に捉えつつ、リデルは口角を上げた。

 ここに連れて来られてから鬱憤が溜まっていたのは事実だ、その「主犯」の1人である所のイレアナをぎゃふんと言わせると思えばやる気も出る。

 そもそも、リデルは試されるのはあまり好きではない。



 シッドとのシミュレーションも、要するのテストのような物だったのだろう。

 自分が相手をしてやる価値があるのかどうか?

 それには合格したらしいが、それで手を挙げて喜ぶような単純な神経は持ち合わせていない。

 だから、リデルは受けた。



「一つに限らず、私が知りたいこと全部! 洗いざらい吐いて貰うわよ!」

「ご随意に」



 そうして、2人の間に戦場が生まれた。



  ◆  ◆  ◆



「リデル様は兵法がお好きなようですね」



 設定された戦場は河だった。

 それも先程のような戦場の一部と言うわけでは無く、盤の7割近くが河川で構成されていた。

 要求されるシミュレーション内容は「渡河戦」、対岸に上陸し、かつ相手の拠点を占拠することが作戦目的として設定されている。



 与えられている兵種もやや異なり、弓兵の代わりに工兵が与えられていた。

 シッドとのシミュレーションでは川は行軍の遅らせる程度の障害でしか無かったが、今回は違う。

 いかに有利に渡河を進めいかに相手の拠点を奪うか、それが重視される戦場だ。



「少し古いですが、リデル様は兵法に随分と明るい。基本を押さえた良い用兵をなさる」



 基本、そう、リデルは渡河戦における基本を押さえた戦術を執った。

 まず河の形状を見、二つの条件を満たす渡河点を探した。

 第一に対岸に敵がいない地点であること、第二に対岸が自陣側に突き出していること。



 騎兵を砲兵、車兵、工兵と共に渡河点に急行させ、まず砲兵に支援させながら騎兵を渡らせ橋頭堡きょうとうほを確保する。

 後は工兵に簡易の橋を作らせ、後続の歩兵を渡河させる。

 自陣防衛のための最低限の戦力を除き、兵力を集中して運用する。

 基本に忠実、至極真っ当な戦術であると言えた――――だが。



「しかし、それ故にご存知では無い」



 だが、渡河できなかった。

 何故ならイレアナは、騎兵を巧みに使ってリデル側の渡河点を潰してきたからだ。

 リデルが渡河点に兵を動かすと、まるでそれを見透かしたかのようにイレアナが騎兵を渡河点に先回りさせてくるのだ。



(渡河点が読まれてる、何で?)



 この盤では移動速度は兵種によって異なる、騎兵同士は同じ速度だ。

 つまり先に渡河点を定めて行動するリデルの方が優位に立っているはずなのだが、そうはなっていない。

 リデルが定めた渡河点に、常に一歩先んずる形でイレアナの兵がいる。

 渡河に入った兵を狙い撃ちにされ、慌てて下げることを繰り返している。



 読まれている、その感覚がある。

 だがその理由がわからない、自分の戦術は間違っていないはずなのに。

 相手の顔を見れば、しかしイレアナの顔には何の表情も浮かんではいなかった。

 静かに盤を見つめ兵を動かす彼女からは、感情を読み取ることが出来なかった。



「リデル様の用兵は、美しいまでに教科書通りなのです」



 別の渡河点に兵を差し向ける、やはり対岸にイレアナの兵がいた。

 眼鏡を押し上げる仕草をして、イレアナは言った。



「兵法には、対応する兵法があるものなのです」



 どんなに有効と言われる兵法があったとしても、10年もすればカウンターとなる兵法が開発される。

 騎兵の機動戦術に対して弩兵・槍兵の火力で対抗するように、包囲戦術に対して各個撃破で対抗するように、だ。

 何しろ敵が使う兵法を敗れなければ負けるのだ、各勢力は死に物狂いで相手の裏をかこうとする。

 だから兵法の開発に終わりは無く、だからこそ。



「……じゃあ、アンタのそれも私の戦術に対応した兵法なわけ?」

「いいえ。失礼ながら、これは兵法でも何でもありません」

「なら、何だって言うのよ」

「言ったでしょう。リデル様の用兵は美しい程に教科書通りだと」



 だからこそ、リデルの動かす駒の動きは読まれるのだ。



「リデル様の用兵は、なるほど正当です。第一に兵を集結させている。第二に渡河点の選択が正しい。だからこそ、私はリデル様が次にどこから渡河するのかがわかるのです」



 復習しよう、渡河点の選択には二つの条件を満たすのがベストだ。

 第一に対岸に敵がいないこと、第二に対岸が自陣側に突き出していること。

 逆に言えば、「自分の兵がいない地点」で、かつ「岸が相手側に突き出している地点」を注意して見ていれば良いのだ。



「一方私の用兵は、兵法の基本を外しています。第一に兵を分散させている。第二に渡河戦に向く編成では無い」



 イレアナは渡河点候補全てに歩兵・砲兵を薄く拡げ、足の速い騎兵は中央でどちらにも向かわせられるようにしておく。

 リデルは兵は集結させている、騎兵も砲兵もまとめてだ、つまり兵の速度は落ちる。

 イレアナ側からすれば渡河の可能性がある地点だけを見てれば良いので、こんなに楽なことは無い。



「リデル様、貴女の兵の向かう先を読むのは実に容易い」

「……!」

「次はセオリーから外れた地点から渡河することをお考えですね? やめておいた方が良いでしょう、渡河に適さないポイントから渡河をすると被害が増すばかりですよ」



 この流れは良くない、完全に相手のペースに嵌まってしまっている。

 そしてようやく思い至る、自分の軍略は全て本から得たものなのだ。

 文字でしか戦場を知らないリデルにとっては、本――つまり父に教えて貰った軍略は全ての基本だ。

 ルイナの村や旧市街での勝利も多くは父の教えに拠った策で得た、だが今。

 今、まさにその父の教えと言う基本に縛られているために、リデルは敗北しつつあるのだった。



「私はこのままリデル様の戦力が疲弊するのを待ちます。しかる後に渡河を行い、拠点を奪います」

「……アンタ、性格悪いって言われない?」

「さぁ、言われた経験はありませんが」



 いけしゃあしゃあとそんなことを言うイレアナに、リデルはギリッと奥歯を噛んだ。

 リデルにとって、父の教えは軍略の基本であり全てだ。

 それが通用しないなどあってはならないし認められない、我慢の出来ないことだ。

 大公国の参謀を束ねる立場だか何だか知らないが、父の教えを侮られるわけにはいかない。



(……でも、どうする?)



 渡河を諦め防御を固めても、すでに戦力差はイレアナの方に傾いている。

 どうする、どうすれば勝てる。

 もはやシッド達のことなどリデルの頭には無かった、ただひたすらに盤を睨みつける。

 自分の駒と相手の駒の位置を見、地形を見、状況を見る。



 渡河は出来ない、こちらが渡河に選ぶポイントは相手に読まれているのだ。

 かといって他の渡河点を選んでも時間がかかる分、結局は阻止されてしまう可能性がある。

 イレアナの用兵は柔軟だ、右に行けば右を、左に行けば左、中央に行けば中央が叩かれてしまう。

 ならば、どうするか。



(まるで蛇ね)



 今も肌の上を這う蛇の存在のせいか、そんなことを思った。

 それも普通の蛇では無く、尾の部分にも頭がある異形の蛇だ。

 打てば柔軟に動き、頭、尾、胴体を庇うように動く。



(……庇う、ように?)



 そう、イレアナの動きは常にこちらの機先を制する――言ってしまえば、身体の打たれた場所を手で庇うように――動きだ。

 こちらの動きに反応している。

 機先、反応、蛇――それらの単語がリデルの脳内に浮かんでは消えていく。



 しかし、頭に浮かんだそれらを盤上にどう落とし込むべきなのか。

 今のリデルにはそれが出来ない、何故なら軍師として彼女には決定的に不足しているものがあるためだ。

 それが何かわからない彼女には、閃きを現実にすることが出来ない。



(でも、何かしないと負ける。嫌よ、こんな奴に負けるなんて嫌!)



 嫌。

 その感情の動き、激情こそが、リデルをリデルたらしめるものだ。

 この目の前ですまし顔をしている<魔女>に一泡吹かせることも出来ずに負けるなど、我慢なら無い。



 考える。

 思考し続けることをやめた時が敗北の時だと、本能が知っている。

 だから考える、考えに考えた上でさらに考える。

 自分の中にある兵法を頭の中でそらんじ、何か無いと探る。



(何か……!)



 何かだ。

 結論の出ない思考の先、とにかくリデルは指先を動かした。

 そして、盤上に表れたその動きは――――。



  ◆  ◆  ◆



 盤上を睨み動かなくなったリデルを見つめながら、イレアナは考えていた。

 教科書通りの用兵をするこの少女について、考えていた。



(兵の動かし方に、あの御方の気配が見え隠れする)



 イレアナはその人物を知っていた。

 それは現在、協会の参謀グループで使用されている兵法や作戦の基礎の6割を作った人物だった。

 彼女は誰よりも「彼」の軍略を知っていた、それこそこの20年間で学び続けていた物だったからだ。



 だからイレアナには、リデルの打つ手が手に取るようにわかった。

 先程は教科書通りの兵法故に読めると言ったが、少し違う。

 習得している兵法の系列・ ・が同じだから、読めるのだ。

 だからシッドとのシミュレーションで興味を持ち、こうして自ら駒を動かしていたわけだが。



(……こんなものですか)



 心の内で嘆息して、駒を動かした。

 びくりと反応したリデルを視界に入れつつ、ひょいひょいと盤上の駒を動かす。

 相手が動きを止めてしまった以上、引き分けに持ち込まれてもつまらない。

 八割の納得と二割の失望を胸に、イレアナは駒を操作する。



(あの御方の娘と言えど、専門の教育を受けていなければこの程度か……)



 仕方ない、良く考えればわかることだったのだ。

 ノエルに話を聞いて持った関心も、萎んでしまえばあっという間に消えていった。

 多少兵法を知っているだけの小娘、それがイレアナのリデルに対する評価だった。

 そしてこの評価は、おそらくは最終的な……。



「……?」



 ふと、盤の上で自軍以外の駒が動いていることに気付いた。

 それは当然、リデル側の駒だ。



(今さら何を? ただ渡河するだけなら、また先回りするだけですよ)



 そう思い、顔を上げた。

 しかし、リデルの動きは先程までとは少し違った。

 主力の一番近い位置の渡河点では無く、どうやら他の渡河点を狙っているらしいが。



(渡河点候補には、すでに兵を伏せてあります。それに気付かないとは思いませんが、それともその程度だったと言うことでしょうか)



 失望の度合いが少し増すのを感じながら、イレアナはリデルが選んだ渡河点へ兵を差し向けようとした。

 だがそうしようとして、ふと手を止めた。

 何故ならリデルの動きが、今までと少し違っていたからだ。



 具体的には、先頭の駒の向きがおかしかった。

 通常駒は正面に移動するように出来ている、だがリデルが操作した先頭の3つの駒は、別々の方向を向いていた。

 何の意図でそうしたのか、一瞬わからなかった。



(ふん……?)



 兵を分けるのか、あるいは違うのか。

 分けたとしてどこに向かわせるのか、この一手だけで全てを判断することは出来ない。

 それは、それまで教科書通りの戦術を執っていたリデルにしては、奇妙な動きだった。



 イレアナは手を止めた。

 一旦、リデルの次の一手を見ようと思ったのだ。

 だがその一手は、いつまで経っても訪れることが無かった。

 理由は2つ、先頭の向きを3方向にバラした後、リデルの動きが再び止まってしまったこと。

 そして、もう一つは――――……。




「――――リデル! こんな所にいたぁ!」




 甲高い声が部屋に響き、全員の視線が扉の方へと向いた。

 何事かと思えば何てことは無い、ベルが両手で勢い良く両開きの扉を開けただけだ。

 ベルはびっくりして目を丸くしているリデルを発見すると、飛びつくようにして抱きついた。



「ねぇ、リデル聞いて! お父様がパーティーを開いてくれるんですって!」

「え、は? 何、ぱーてぃー?」

「お誕生日でも無いのに! どうしましょう、すっごく楽しみなの!」



 興奮したように叫ぶベルに、リデルは目を白黒させてしまった。

 相手が何を言っているのかわからない、そんな様子だった。

 なお、シッド達も状況に置いてけぼりにされたような様子である。

 イレアナだけは、扉の向こう側からペコペコと頭を下げているフロイラインの姿を捉えていたが。



「リデルってドレス持ってないでしょ? 私が選んであげる! すぐに仕立て屋さんを呼ばないと!」

「え、ちょ、はぁ? ぱーてぃーって何? ドレス? 何――ッ!?」



 本当に嬉しそうな顔で、ベルはリデルを引っ張って行ってしまった。

 リデルは随分と抵抗していたようだが、結局はベルに勝てずに連れて行かれてしまう。

 それを止めもせずに見送るイレアナは、眼鏡を押し上げるような仕草をしただけだった。

 そして、駒を動かすことなく席を立った。



「――――ご苦労でした」

「「は、はいっ」」



 候補生達に形ばかりの言葉を贈った後、イレアナはリデルが座っていた席の側に立った。

 そして、リデルが最後に動かした駒の形を見る。

 3つの方向を向いた先頭の駒、それをじっと見つめる。



 ――――これだけで、何かを判断することは出来ない。

 この一手の次にリデルが何をするつもりだったのか、わからない。

 だが教科書通りでは無い、リデルが長考の末に打った一手。

 これだけが妙に異彩を放っているように、イレアナには何故かそう思えるのだった。



  ◆  ◆  ◆



 はたしてあの後、自分はどう展開させるつもりだったのだろうか。

 掌から湯の雫を零しながら、リデルはそう思った。



(何かしようと思った。でも、何をしようとしたのかわからない)



 最後の一手、その内容は実はリデル自身にもわかっていなかった。

 あのまま兵を別方向に進めるつもりだったのか。

 それとも、何か別々の動きをさせるつもりだったのか。

 リデル自身、わからなかった。



 ただ、指先にはあの形に駒を動かした感触が確かに残っている。

 握って、開く。

 それを何となく繰り返して、心の中で反芻はんすうする。



「兵法には対応する兵法がある、か……」



 初めて、そんなことを考えた。

 父の軍略は古い、そう指摘されたのも初めてだ。



「正しいと思える策は相手から見ても当然に見えるから、相手はそれに対応した策を打ちやすいってことね……」



 例えばAと言う目的地があったとする。当然早く到着するには最短の道を通るべきだ。

 でも他人も同じように考えるため道は込む、だからその場合にはあえて遠回りをした方が早く目的地に到着できる。

 リデルはイレアナの言をそう言う風に受け止めていた。



 思えば今まで、兵法や軍略に通じた相手と正面から対したことは無い。

 ノエルの場合は、あれは力で策ごと潰されたような印象だ。

 だからこれが、初めての経験。

 リデルにとっては、貴重な経験だったと言えるだろう。

 ぶるり、と、リデルは身を震わせた。



「外の世界って、やっぱり凄いのね!」



 まだまだ学べることがある、学ぶべきことがある。

 イレアナに良いようにされたことは気に入らないが、それでも喜びの方が大きかった。

 島に篭っていたら、こんな経験は出来なかった。

 だからリデルは身を震わせながら、湯の中で掌を握り締めて――――。



「リ~デルッ♪」

「ひゃあっ!? な、何よ、いきなり飛びついて来ないでって言ってるでしょ!?」

「うふふ。良いじゃない、別に」



 ばしゃっ、と湯を弾けさせながら抱きついてきたのはベルだった。

 リデルの腰が引けているように感じるのは、あの後何時間も何十着ものドレスに着せ替えられたからだ。

 もう良いと言っても聞く耳持たずで、次々にドレスを持ってこさせては仕立て人に寸法の手直しを命じていた。



 湯、そう、2人は今、同じ湯船に浸かっている所だった。

 当然、どちらも生まれたままの姿である。

 そこまでのスキンシップの経験は父以外には無い――水浴びの際、アーサーがいても平然としていたのは別として――ので、それについても腰が引ける原因になっていた。

 時間はシミュレーションの時からすでに半日が経過していて、外はもう夜の闇に包まれているだろう。



「ちょ、もうっ。くっつかないでってば!」

「良いじゃない、女同士でしょ」

「関係ないでしょ!」

「えー、でも誰かと一緒にお風呂に入るなんてなかなか出来ないんだもの。良いでしょ、ね?」



 ね? と小首を傾げて覗き込まれると、どうも嫌だとは言えない。

 そもそも、リデルが何か言ったって聞きやしないのだ。

 リデルは溜息を吐いて、結局はそのままにさせることにした。



「……あんまりくっつかないでよ」

「ええ、わかったわ!」

「だからくっつかないでってば!」



 まぁ、離れないわけだが。

 溜息を吐いて、リデルは掌の中にお湯を溜めて湯船へと流し落とした。

 湯は常に温めたばかりかのように熱く、それでいて底が見える程に透明だった。

 そもそも湯殿も広い、大理石の床に絵画の描かれた円天井、多数のアーチや六角形の支柱に囲まれた造りになっている。



 お湯も溜めるのでは無く、常に流れるように設計されているようだった。

 奥に長い長方形の湯殿の内、奥寄りの中央にリデル達のいる湯船があり、そこから湯殿を囲むように人が3人は通れるような大きな流路がある。

 湯船と流路には常に湯が流れていて、彫刻の口を通す形で湯船に直接新しい湯が流し込まれていた。

 照明は薄く、落ち着いた心地で湯に入れるよう配慮されている。



「ああ、もう……」

「うーん。リデルって本当に細いわよね、羨ましいわ」

「知らないわよそんなの……」



 もにもにと二の腕を揉まれるリデルは、疲れたように溜息を吐いた。

 実際こうして見ると、トリウィアの生活で多少肉付きは良くなったものの、リデルの身体はベルに比べて薄い身体つきをしていた。

 島育ちと言うこともあるのだろうが、肌も日の光を浴びて育った時特有の明るい白色だ。

 湯に入るために結い上げられた長い金色の髪も、照明の光を受けてキラキラと輝いていた。



 じゃれ合ったせいで湯が跳ねて、肌の上を透明なお湯がするりと流れ落ちていく。

 今は湯に浸かっているためか、肌はほんのりと朱色に染まっていた。

 ただそれが湯の熱さのせいなのか、あるいは人肌の温もりのせいなのかは微妙な所だ。



「私なんて最近、ここ、このあたりにお肉がついてきたような気がして……」



 一方でベルは、流石お姫育ちと言うべきか、絹のようなと言うべきキメ細かな白い肌が眩しい。

 重い物など持ったことが無いだろう指先は傷一つ荒れ一つ無く、豊かな生活に養われた身体は肉付きが良かった。

 しかも腰を捻って背中のあたりを触っているから、リデルの目の前で特に肉付きの良い部分が柔らかく揺れる形になった。



 それが何なのかわからず、リデルは目を丸くした。

 思えばリデルも、同じくらいの年の女の子と湯を共にするようなことはほとんど無かったことに気付く。

 ルイナと共に水浴びをしたことはあるが、その時は特に気にならなかった。



「ねぇ、これ何?」

「え? 何って……女の子なら皆あるでしょ? フロイラインなんて私より大きいわ」

「ルイナには無かったけど……」

「ルイナ? だぁれそれ?」

「べ、別に、誰でも良いでしょ!」



 育ちは違えど、女子が集まれば姦しくなるものなのか。

 湯殿の端で――肌に貼り付く程の薄い湯浴み着姿で――控えていたフロイラインは、その議論を何ともいえない眼差しで見つめていた。

 生温かいと言うと、少し言い過ぎだろうか。



「……あ、そう言えば。リデルには、あまり無いわよね……」

「ねぇ、そもそもそれって要るの?」

「え、さぁ……私にもそれはわからないけど」

「うーん……」



 頼むから自分に話を振らないで下さいよ。

 そう思い、フロイラインは湯殿の隅で小さくなるのだった。



  ◆  ◆  ◆



 ――――さて、ここで時間を数週間ほど遡る。

 視点は公都トリウィアから遥か南、旧フィリアリーンと呼ばれる地域まで向けられる。

 数週間前、旧フィリアリーン中央部から北へと進路を取ったフィリア人の集団がいた。



 彼らは当初200人弱の集団であって、当てもなく北へ北へと進んでいた。

 しかし本来ならフィリア人の土地である旧フィリアリーンの中でさえも、進むのは容易では無かった。

 何しろソフィア人の土地へ近づくにつれ、大公国側の監視網は厳しくなるのだ。

 通常誰も通らないような、道なき道を進まなければならなかった。



 水も食糧も十分に無く、僅か数週間の踏破の内に集団の中に病気が流行した。

 木々を切り開いて山を登り、手を繋ぎ合いながら急流を渡り、布にくるまって谷を転げ落ちる。

 それは想像を絶する過酷な旅路であり、並の精神力で続けられるものでは無かった。

 実際、当初200人だった人数は少しずつ減っていった。



 そもそも、これは1人の少女を探すための旅だ。

 こんな方法は間違っている、これでは集団がいつ瓦解するかわからない。

 それでも彼らは進むしかない、引き返した所で意味が無いからだ。

 進むも地獄、戻るも地獄。

 ならば進もう、それはそう言う旅路だった。



 そして数週間、状況は違えど同じような時間を過ごした後。

 太陽が大地の端にある薄明の時間、彼はそこにいた。

 フィリアの大地とソフィアの大地――明確に線引きがなされているわけでは無いが――山の木々の間からその境界が望める位置に立っていた。

 顔や手足に土や泥をこびりつかせた彼は、遥か北のソフィア人の土地を見つめながら、言った。



「――――リデルさん」



 頭上の木の枝には、木の実を齧るリスと小鳥の姿が見えた。

最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。

2万字とか久しぶりに書きました、通常の2話分です。

次回はアーサーの頑張り物語になる予定ですが、そちらはそちらでどうしたものかと悩み中です。


ところでサービスシーンってありますよね、概ね女性キャラクターで想定されるような気がするあれです。

でも私、思うんですよ。

別に男性キャラクターでも十分にサービスが可能なんじゃないかな、と。

男女同権が叫ばれる昨今、今こそ男性キャラクターは脱ぐべきだと思うんですよ(意味不明なことを言っている竜華零であった)。


それでは、また次回。

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