5-3:「狂おしき老人」
ソフィアの都に来て――と言っても、「来た」という感覚は無いが――2週間、リデルの心は落ち着くことが無かった。
環境が変わったことはもちろん、指定された通路と部屋以外の出入りが禁じられていることもストレスを溜める要因になっていた。
逃げようにも、流石のリデルもソフィアの国の真ん中での逃避行が成功すると思える程に自意識過剰でも無い。
かと言って、取り立ててすることも無い。
逃げる算段を除いてしまうと、リデルの出来ることはかなり制限されてしまうのだ。
そのことに対しても鬱屈した気持ちは溜まる一方な上、さらに大きいのは彼女の性格上許し難い一点。
わからぬことの、放置である。
「……うーん、これでも無いわねぇ」
この2週間、緩やかに飼い殺されている心地からは抜け出せない。
監視と軟禁、この状況下で出来ることはほとんど無いと言って良い。
食事と入浴と就寝、その他の身の回りのことぐらいだ。
そのいずれも上級すぎる程に上級な物だ、特に毎日湯に入れるなど島や旧市街では考えたことも無かった。
「こういうのは同じような内容が続く物だけど、こう言う時には少し苛々するわね」
溜息を吐き、読み終えた本を置く。
何冊も積み上げられた本の上に置かれたそれは立派な装丁と上質な紙で出来ていて、何百ページもあるような分厚い本だった。
他に置かれている本も、大なり小なり似たような装丁と分厚さの物だった。
それも一冊や二冊では無く、何十冊もの本がマホガニー材の長机に積み上げられていたのだ。
そう、そこは図書館だった。
木目調の本棚がズラリと並んであらゆる壁を覆っていて、本棚には梯子がかけられており、レールによって隣の棚へと移動できるようだった。
螺旋階段で上の階にも行けるようで、2階にも1階と同程度の量の本が納められているのが見える。
「公王家の家系図もいくつか載ってるけど、本当なのかどうなのかって所があるのよね」
別の本の見開きのページを眺めながら、頬杖をつきつつ溜息を吐く。
何故、公王家の家系を調べているのか?
それは当然、ノエルやフロイラインが自分のことを「公女殿下」と呼んだことに起因する。
「しかも理由を説明していかないとか、私のことを馬鹿にするのも大概にしなさいよって感じ」
この2週間、答えを探してついぞわからなかった問題だ。
リデルは「わからない」ことが嫌いだ、しかもそれが長時間続くとなると苛々して仕方が無い。
とは言え、一番最近の本から抜き取って読み進めているのだが、それらしい回答は無い。
もしかしたなら、本や文字としては残されていないのかもしれない。
となると、後は口伝しか可能性が無い。
ただ口伝と言っても、リデルにはそんな話題を話し合えるような知り合いがいない。
一応、唯一の例外として彼女、リデルと違い家系図にもばっちり載っている存在がいるにはいるのだが――――。
◆ ◆ ◆
回想と言うよりは、それはこの2週間、ほぼ毎日のように繰り返されていることだった。
暇なのか、あるいは好奇心なのか、一日に二度はリデルの下にやってきてはお茶をしていく。
正確な素性を知らないならともかく、今はソフィアの姫だとはっきりわかっているのだから、リデルとしてはげんなりする他無い。
いつも急に押しかけてきては、森の見えるテラスだったり中庭だったりに連れ出されてお茶をするのだ。
白い丸テーブルの上に可愛らしいティーセットやお菓子を並べて、整備された庭園や花々に囲まれて取り留めの無い話に華を咲かせる。
何でも年頃の少女はお茶会をするものなのだそうだ、リデルには時間を無駄に浪費しているようにしか見えなかったが。
「ねぇ、あなたってどこから来たの? 私が知ってる場所? たぶん知らない場所よね、だってあなたって公都にあるもの何も知らなかったもの」
「いや、あのね。私はそもそも島」
「島! ねぇ待って、島ってもしかしてマグレブ? マグレブ諸島って西域の国と交易する港がある場所でしょ? 一度行ってみたいけど、お父様が許してくれないの」
「そもそも私はマグレブ諸島って場所を知らな」
「ええ、違うの? 残念ねぇ……あ、それよりこれ公都の新作なのよ。食べましょ食べましょ」
「……話を聞きなさいよ、アンタ……」
あるいは単純に、性格が合わないからげんなりしているだけなのかもしれない。
何しろベルは「人の話を聞く」と言うことをまずしない、逆に「人に話を聞かせる」ことで力を発揮するリデルにとっては扱いにくい人種と言えた。
何より味覚の違いが大きい、これは意外と重い事実ではあった。
新市街で総督と食事を共にした時もそうだったが、ソフィアの食事は味が濃すぎるのだ。
特にお菓子は苦手だ、砂糖が濃すぎ甘さが強すぎる。
飲み込んだ後に舌の上に残る甘味が、リデルにはどうしても馴染めなかった。
当のベルは何も気にすることなく、白い丸テーブルに乗せられたケーキスタンドから新作らしいショートケーキをひょいひょいと取って食べているわけだが。
ちなみに、ショートケーキと言う食べ物もここに来て初めて知った。
(でも、こう見えてこの子って次の王様なのよね)
そう、忘れそうだがけして忘れてはならない。
目の前で幸せそうにケーキをパクついているこの少女は、ソフィアの姫なのだ。
それも次の王様なのだという、大公国の王家の事情に詳しいわけでは無いが、おそらく凄いことなのだろう。
しかしショートケーキの苺を口に入れて頬を緩ませている姿を見ていると、とてもそうは思えない。
しかも人の話を聞かず、人の都合も知らず、遠慮すると言うことを知らない。
リデルも大概そう言う部分はあるが、ベルはそれに輪をかけて酷かった。
きっと、誰からも注意されず叱られず、自由気ままに育てられてきたのだろう。
そんなことを考えながら見つめていると、ふとベルがこちらの視線に気付いて。
「あら、食べないの?」
「……そのお菓子って食べ物、あんまり好きじゃないの」
「そうなの? じゃあ、私もいらない……」
「はぁ? 何でよ」
どこかしょんぼりした様子でベルがフォークを置き、リデルは思わず突っ込んだ。
ベルは特に答えなかったが、どこか唇を尖らせて不満そうにしていた。
(ああ、もう。意味わかんない子ねぇ……)
こっちは知らない土地で知らない人々に囲まれて、わからないことだらけで色々と大変だと言うのに。
「ああっ、もう! わかったわよ、食べれば良いんでしょ食べれば」
「本当!? じゃあね、こっちのプディングもオススメなのよ。カラメルソースが多めでクリームと一緒に食べると本当に美味しいのよ!」
「急に元気ね!? と言うかプディングとかカラメルソースって何よ!」
「知らないの? あなたって本当に遠くから来たのねぇ……あ、クリームって言うのはね」
「それは流石に知ってるわよ!?」
落ち込んだかと思えば急に元気になる、正直に言ってついていけない。
拒絶しても良いはずなのだが、リデルはそれをしなかった。
それはソフィアの次期王と繋ぎをつけておいて損は無いと言う打算もあるが、それとは別に。
「ねぇ、あなたのお話、もっと聞かせて頂戴」
太陽の下、テーブルを挟んでベルが笑顔を見せている。
その曇りも打算も無い笑顔を見ていると、リデルは何とも言えない心地になった。
「私、公都以外の場所って知らないの。だからね、ね、お願い」
「……ちゃんと私の話を聞くなら、良」
「あ、お紅茶が無くなっちゃったわ。フロイラインに新しく淹れ直してきてもらわないと」
「だから聞きなさいよぉ!」
外の世界を知りたい、そう言うベルに対して。
◆ ◆ ◆
――――いるのだが、正直、あまりあてにはなりそうになかった。
何よりベルに腹に一物を抱えている様子がまるで無いのが問題だ、あれは単純にお茶とお喋りが好きなだけだ。
こういう場合は、もっと打算的な考えを持っている相手の方がやりやすくはある。
「……ふ」
「――――兵法がお好きなのですか?」
溜息を吐きかけたその時、不意に声が聞こえた。
声に感情を乗せないよう努めているような声音で、それは誰もいない静かな図書館に良く響いた。
途端、リデルは己の頭と身が緊張するのを確かに感じた。
そんな折、本棚の陰からリデルのいるテーブルへと近づいてくる女がいた。
襟元まで閉じるタイプの軍服とローブの混合服を着た美女で、白い細面も相まって抜き身のサーベルのような印象を受ける。
ボリュームのある金髪は頭の後ろでアップにされており、薄い眼鏡の奥で菫色の瞳が輝いていた。
それから本だ、その女は手に金属で出来た不思議な本を抱えていた。
(この人、確か……)
それは旧市街の「赤い部屋」で見た顔だった、確か、名前はイレアナと言ったか。
ノエルと同じ大公国の<魔女>であり、新市街からここ公都へリデルを「飛ばした」張本人だ。
彼女はリデルが積み上げている本をさっと眺めると、その内の一冊を手に取った。
「兵法がお好きなのですね」
ペラペラと本のページをめくりながら、静かな声で断言してくる。
リデルもそれを否定する気はなかった、実際、彼女が積み上げている本は大公国の歴史に関する本を除けばほとんどは軍略や兵法に関するものだったからだ。
特に、リデルの知らない10年間の兵法について。
「だ、だったら何よ」
「いえ」
パタン、と音を立てて本を閉じ、瞑目するように眼を閉じる。
その様はどこか、何か遠い昔のことを思い出しているかのようにも見えた。
「……もしお望みなら、後日にでも協会の参謀部門にお連れしますよ」
「さんぼー……?」
「今は軍師と呼ばす参謀と呼ぶのです。役割も変わりましたが、見る物は多くあるかと」
「え、本と……いやいや」
一瞬身を乗り出しかけたが、すぐに冷静になった。
目の前で澄まし顔をしている<魔女>の甘言に乗せられてはならない、どこに連れ込まれ何をされるのかわかったものでは無い。
「……何のつもり?」
「さぁ、特に何も。あるいは気まぐれなのかもしれません」
生まれてこの方、気まぐれなど起こしたことが無い。
そんな顔でそんなことを言うものだから、リデルは頭の片隅で苛立ちの種が芽吹くのを感じた。
この物言い、何となく癇に障る。
ノエルとはまたタイプが違うように見受けられた。
そこまできて、ふと思い至る。
この<魔女>は、いったい何を求めて自分の前に再び現れたのだろうか、と。
ここ2週間、リデルは図書館で本を読むかベルとお茶会をするかの2つの行動しかとっていない。
そしてその間、今目の前にいるイレアナを含めて誰もリデルを訪ねたりはしなかったのだ。
「公女殿下」
本を一番上に重ね置き、イレアナはリデルの眼を真っ直ぐに見据えてきた。
そしてまた、あの何か遠い昔を懐かしむような気配を眉に生んで、言った。
「ある御方が貴女をお待ちです」
同道願います、そう告げるイレアナに今度はリデルが眉を潜める。
その姿に、リデルは奇妙な気配を感じるのだった。
◆ ◆ ◆
他もそうだが、その通路もまた豪奢な造りをしていた。
至る所に金と水晶――紫水晶が多い気がする――が散りばめられており、大理石の床の上に真紅の絨毯が敷かれている。
5メートル間隔で配置された白い石柱の間には、やはり水晶のシャンデリアが揺れていた。
(何か、いかにもな感じよねぇ)
これでもか、と言う広さと豪華さに、リデルはむしろ感心さえした。
過去にもソフィアの生活様式には驚かされたが、今や納得する部分が多い。
豊かだから豪奢なのか、豪華だから豊かなのか。
そのあたりのことは、流石にわからないが。
「……ふん?」
興味を引かれたのは、前を先導するように歩く<魔女>の背中では無い。
前では無く左右、歩を進める度に後ろへと流れていく絵画だ。
リデルは、芸術的な意味での絵画を初めて見た。
新市街ではどちらかと言うと花瓶や彫刻などの調度品が多く、絵画は少なかった。
そんなことだから、リデルには絵画の良し悪しはわからない。
例えばこの通路に飾られた絵画は人物画が多いが、それ以上のことはわからない。
絵の具を使うことはわかるが、他にどんな道具を使って美麗に絵を整えていくのかは知らない。
わかるのは、ここで描かれている人物達が地位の高い何者かであることぐらいだ。
「んー……?」
だが、それだけなら特に興味を引かれなかっただろう。
リデルが眼を引かれたのは、いくつかの絵画に描かれている人物――いずれも、紫や赤、金の衣装に身を包んだ老若男女――達の胸元に、何となく目を引かれるものを感じたからだ。
具体的には、そこに描かれた赤い石の首飾りだ。
油で塗り固められたらしいそれは、実物を正確に写しているとは言い難い。
赤い石の首飾りと言うことであれば、他にもたくさんあるだろう。
だが何となく、気になった。
例えば形であり、それから、何となくその首飾りを身に着けている人物が若い男女に多かったことが、だ。
「まぁ、気のせいよね」
そう結論付けた後、次に眼に入った絵画にリデルは目を留めた。
それから足も止めて、横幅3メートルはある大きなそれをじっと見つめる。
「これ、家族……よね?」
誰かに聞くまでも無く、それは家族の肖像画だった。
どうやら父らしき初老の男性、この初老の男性は王冠のような物をかぶっているのだが、彼を中心にして子供達らしき人物達が描かれている。
子供と言っても父の年齢が年齢だから、その子らもなかなかに良い年齢をしていた。
(この人)
子らは父を椅子を取り囲むように配置されており、柔和な微笑と相まって仲睦まじく見える。
中でも気になったのは、父の左側に配された青年だった。
いつ描かれたのかはわからないが、まだあどけなさを残す顔立ちをしていた。
他と同じく金髪にして菫色の瞳、背は高く、彫りの深い顔は十分に整っている部類に入るだろう。
(何となく、パパに似てるかも)
まぁ、リデルが知る父はこんなに洗練された容姿では無かったが。
むしろこう、自然の中で鍛え上げられた野生さの中に知性を潜め隠すような印象だ。
記憶にある父の姿とは似ても似つかない、だが何故か「似ている」と思った。
その理由は、リデル自身にもわからなかった。
「公女殿下」
「……公女じゃないけど、何よ」
「ではリデル様とでもお呼び致しましょう」
眼鏡を押し上げつつしれっと言って、イレアナが先を示した。
菫色の瞳を鋭く細めて、彼女は言った。
「この先にございます書斎にて、ある御方が貴女をお待ちです」
「あるお方ぁ……?」
「はい」
胡散臭げに聞き返すリデルに、イレアナは眉一つ動かさなかった。
彼女から逃げるように、視線を通路の奥へと向ける。
広い広いその通路の向こう側は、端が見えない程に長い。
「どうぞ」
「…………」
その深遠の向こう側へと、<魔女>が誘う。
今のリデルには、その誘いを拒絶することは出来なかった。
それがまた、彼女の中に苛立ちの種を植え付ける。
◆ ◆ ◆
通路の広さの割に、その部屋はこじんまりとした造りをしていた。
これまでの経験則で言えば、外に見える部分は豪奢に、逆に内側は木目調や白などの淡い色で整えるのがソフィア流だ。
そしてその部屋も例に漏れず、白を基調に整えられていた。
太陽の光をたっぷりと取り入れるためなのだろう、窓は縦に細長く床から天井まで伸びている。
窓にはカーテンが無い、と思えば、天井近くにふんわりと厚めのクリーム色のカーテンが束ねられていた。
あれは、上から落として窓を塞ぐ仕掛けになっているのだろうか。
「……ええと」
イレアナに背中を押されるようにして部屋の中に入ったリデルだが、最初に発したのは戸惑いの声だった。
それもソフィア流なのかはわからないが、室内で布を多用するのも特徴だ。
例えば椅子、柔らかな革の椅子の上に白い布を幾重も重ね置いて、クッションも組み合わせて整える。
「アンタ、誰?」
そんな椅子の一つに、1人の老人が深く座り込んでいた。
木の蔓を重ねたような杖を傍らに置いており、足が弱っていることがわかる。
椅子に重ねられた布に溶け込むかのような白髪はとても長く、立てば床にまで届きそうな程だった。
シルク製の衣服や身に纏った赤や紫の宝石や装飾品も、節くれだった枯れ木のような身体にはお世辞にも似合っているとは言い難かった。
(いや、本当に誰よ)
とは言え、いい加減慣れて来た。
島を出た直後はアーサー以外の人間にやたらに怯えていた記憶があるが、最近ではそれも鳴りを潜めて久しい。
流石に、人に揉まれて慣れて来たのだろうか。
そうでなくとも、知らない人間との出会いが立て続けに起こる毎日なのだから。
「ねぇ、ちょっと。聞いてる……?」
その老人は、太い眉の間からじっと視線をリデルへと向けていた。
言葉は無い。
ただただじっと見つめてくる老人に、リデルは不気味なものすら感じた。
そのせいだろう、リデルは内心で「ん?」と思った。
良く良く見てみれば、その老人の顔に見覚えがある。
答えはすぐに思い至った、先程通路で見た家族を描いた絵画だ。
髪と髭の色が白くなっているので気付かなかったが、あの絵画の中で描かれていた初老の男性の面影がある。
まぁ、「気がする」程度の感覚なので、気のせいであることは十分にあり得るが。
「……これは」
「あっ」
「……これは、そなたの持ち物か?」
しわがれた声、耳に届くと少し不快さを感じる。
イレアナが言っていた「あのお方」と言うのがこの老人だとすれば、いったい何の意味があるのか。
だが今は、それは思考の埒外に置けば良い。
「それっ!」
老人が手の中から零したのは、赤い石の首飾りだった。
リデルが無理くり髪飾りにしていた物だ、見間違えるはずも無い。
形見も蛇の友もなく、まさに独りきりだった彼女はそれをすぐに奪い取った。
老人の細い手では、少女の行動を止めることは出来なかった。
だが、それで良かったのだ。
老人の狙いはそこにあったのだ、石を手に取った瞬間、リデルはあっと声を上げた。
薄く、赤い輝きが手の中から漏れる。
それは過去にも何度か見たことがある、リデルに危難が及んだ時、この輝きは彼女を救ってきた。
リデルはそれを、内心で父が守ってくれているようだと思ってもいたのだが。
「おお……おおおぉ」
それでも、泣くほど感極まったりはしない。
太い眉の間から零れた雫が筋張った頬を滴り落ち、白い衣装にシミを作っていく。
老人は、泣いていた。
ぎょっとしているリデルの前で、まるで求めるように両手をリデルに向けて、そして泣いていた。
◆ ◆ ◆
「あっれぇ? リデルいないの?」
誰もいない部屋に、不満と戸惑いを同居させた少女の声が響く。
それはベルだった、今日は白基調の柔らかそうなドレスを身に纏っている。
傍らには無表情を作るフロイラインが立っていて、その側には茶器とお茶菓子を乗せたカートが置かれている。
見ただけで、お茶会をしにきたのだとわかる。
ところで傍らに控えているフロイラインはベルのお稽古事――各種の家庭教師がついている――の時間が迫っていることを知っているわけだが、説得をすでに諦めていたりする。
何しろベルは、ここのところリデルにご執心なのだ。
「あの、公女殿下。リデル様もご不在のようですし、今日のところは」
「今日も図書館かしら、あんなかび本しか無い所のどこが良いのか全然わからないわ。フロイライン、行きましょ!」
「ええと、あの、はい……」
聞いてくれない、フロイラインは沈んだ心地でカートを押してベルに従った。
部屋にいなければ図書館、それがリデルの行動範囲だ。
ベルはそれをリデルの好みと思っているのだろうが、フロイラインはそれが制限された結果だと知っている。
(出来れば、ベルフラウ公女にはあの娘にあまり関わり合ってほしく無いのだが……)
ベルはただの公女では無い、次期公王の地位を約束された大公女だ。
公王位継承権第一位、そして、唯一の継承権保持者だ。
だからこそ、元々は公王の護衛として公王の傍らに侍っていたフロイラインがベルの傍についているのだ。
ベルがそうなってしまったことには原因があり、そうであるが故にフロイラインは恨んでいた。
自分をこの我侭な公女の守役とした公王の判断をか、あるいは自分を派遣した<魔術師達の長>の判断をか。
いや、違う。
(報告によれば、あれはあの御方の娘なのだと言う)
公王と7人の<魔女>、そして公女の傍に侍る自分だけが知らされている秘匿事項だ。
目の前でリデルを探し求める主君の背中を見つめながら、思う。
やはりベルは、リデルに関わるべきでは無い。
(――――<東の軍師>)
20年前の東部叛乱は大公国から領土を失わせた。
だがそれだけでは無い、それは、当時生まれてすらいなかったベルの身辺を確実に変えた。
その変化こそが、ベルを第一位にして唯一の公王位継承権保持者にしてしまった。
公王家を、2人きりの寂しい家にしてしまった。
(ならば、私のすべきことは)
「――――これはこれは、公女殿下」
その時だ、図書館近くの道でイレアナが姿を見せた。
フロイラインは控えた、公女つきとは言え魔術師としての位階はあちらの方が上である。
魔術師は世俗の政治のように君臣の関係は無いが、位階には敬意を払うように求められている。
特に7人しかいない<魔女>は特別だ、だからフロイラインは控えた。
そちらに視線だけで応じてから、イレアナは腰に手を当て胸を逸らすベルを見た。
「公女殿下がこのような場所に来るとは、珍しいですね。何か調べ物でも?」
「私が本なんて自分から読むわけないでしょ。リデルを探しているの、知らない?」
「はぁ、リデル様を」
指で眼鏡を押し上げ、何かを思案するような仕草を見せるイレアナ。
フロイラインはある願いを込めて彼女をじっと見つめていたが。
「……リデル様であれば、陛下の書斎に」
「お父様の?」
イレアナの口から発せられた言葉は、フロイラインの願いを裏切るものであった。
◆ ◆ ◆
輝きは、すぐに収まった。
今は大人しく手にある赤い首飾りだが、それを気にしてばかりもいられなかった。
何故なら、老人の枯れ木のような手指に両肩を掴まれているからだ。
「ちょ、ちょっと……!」
怖かった。
白髪の髪と眉と髭に覆われた皺だらけの顔が、鼻先が触れ合うような位置にある。
しかも鬼気迫る形相でありながら涙でぐちゃぐちゃになった顔が、だ。
細腕のどこからそんな力が出るのかと思う程に、両肩に老人の指が食い込んでいて痛い。
「は、離……!」
「そなたは」
しわがれ声、唾の飛沫が頬につく。
「そなたは、これを、誰から手に入れた」
「だ、誰からって。パパよ! 悪い!?」
「父。そなたの父は、父の名は。申せ、早ぅ!」
「ぱ、パパの名前? 何で、アンタにそんなこと……痛い!」
首飾りを握る手の手首を掴まれ、それを示すように持ち上げられる。
骨が軋むのでは無いかと思える程の力に、目尻に涙が滲んだ。
しかし生来の性格ゆえか腰が引けるようなことも無く、きっと老人を睨み返した。
何だかよくわからないが腹が立つ、意味もわからない、だから叫んでやった。
「――――ケルヴェスよ!」
それは、父の名だった。
厳密には父がルイナの父である漁村の漁師に名乗っていた名前で、リデルはそう呼んだことは無い。
正直、意味など考えたことも無かったが。
その瞬間、身体にかかっていた全ての負荷が消えた。
老人が身を離したためだ、引き剥がそうとしていたリデルはその拍子に後ろに倒れ込んでしまった。
尻餅をついたが、床には柔らかな絨毯が敷かれていたため、痛みは感じなかった。
顔を上げると、またぎょっとした。
「そなたは」
何故なら、あの老人が震えながら天を仰いでいたからだ。
その時、どこかからガシャガシャと言う音がした。
音の発生源を追えば、それはすぐに見つかった。
窓際のサイドテーブルだ。
テーブルの上に白い布がかけられていて何かを覆っている、中身が動いているせいか布がずれていた。
布の内側には鳥籠のような物があり、しかもその中で見覚えのある蛇革が蠢いているのが見えた。
リデルが見間違えるはずが無い、それは島の蛇だった。
彼女は、思わずあっと声を上げたが。
「そなたは、あやつの娘であったか」
両者の間には老人が立っていて、彼は今もうわ言のように何事かを呟いていた。
「その宝玉は、我が公王家にのみ伝わる秘宝」
「はぁ? 何言ってんのよアンタ。これ、パパが2年くらいなくしてたのを偶然釜の炭の中から私が見つけたやつで」
「魔術の教養を受けずとも魔術を扱えるその素養こそ、かの<大魔女>と共に在った初代公王の血を引いていればこそ」
「いや、だから……ああっ、もう! 何で誰も私の話を聞いてくれないのよ!?」
「そなたは! 間違いないそなたは、あやつの忘れ形見であろう!」
両手で顔を覆い、天を仰ぎ、それでも涙を流すことを止めなかった。
細木の頼りなく揺れる身体は、それでも何かを支えとしているように倒れなかった。
「ケルヴェスとはあやつの幼名、そしてこの宝玉、間違いない……!」
「何よ、だから何よ! さっきから鬱陶しいし意味わかんないんだけど!」
叫べば、ぎゅるんっ、と腰を曲げ、血走った老人の眼が鼻先にまで来た。
その迫力に、リデルは一瞬沈黙した。
「そなたは」
掠れ声が、耳に届く。
彼は言った。
この後のリデルの人生を決定付けるであろう、そんな言葉を吐いた。
「そなたは、わたしの、孫である」
それは「公女殿下」に続く、第2の衝撃であった。
◆ ◆ ◆
――――旧王都クルジュ・旧市街。
2度に渡り大公国側に反動を跳ね返し自治宣言を行ったこの都市も、現在は小康状態にあった。
と言うより、宣言は「無かったもの」として世の中に捨て置かれた印象すらある。
しかし、一度放たれた言葉と意思が消滅することは無い。
旧市街は現在、大公国――より言えば、大公国の植民地としてのフィリアリーン公国――により、緩やかに監視されているような状況だった。
元々旧市街からの搾取は人的にも物的にも全体の数%に過ぎず、止まったとしても大勢に影響は無い。
それでも、旧市街の人々にとっては画期的な状態が続いていることには違いなかった。
「……ふぅっ!」
肺に汗が詰まったかのような息を吐いて、マリアは腕を止めた。
日焼けの増した額からは滝のような汗が噴き出していて、腰につけていた水袋を口に含んだ。
するともう水が残っていないことに気付いて、彼女は忌々しげな顔で水袋から手を離した。
ぶらん、と、中身の無くなった水袋が揺れる。
「農作業って言うのは、本当に思い通りにならないものだな」
息を吐くその手には木製の鍬があり、その目には太陽の下で荒れ果てた大地が広がっている。
マリアの周囲にはレジスタンスの仲間数百人がいて、誰もがマリアと同じように鍬を振るっていた。
皆、マリアと同等かそれ以上に汗を流し、泥に汚れ、荒れた大地に鍬の先を叩き込んでいた。
農作業、まさにマリアが言った通りの作業を行っているのだ。
リデルとアーサーが工場群で手に入れてくれた食糧も、無限にあるわけでは無い。
だからウィリアムの献策を基に、まずは近隣の野山から自生している果実や穀物を集めた。
野生の動物の一部を家畜として飼い始め、野菜屑を各過程で菜園に撒かせた。
そして同時に、レジスタンスの若い衆を使って郊外で穀物を育てるのだ。
だが今の所、この荒廃した大地は実りをもたらそうとすらしてくれなかった。
「……負けないさ」
胸の内に生きる誰かに向けて、そう言った。
大公国の侵略から10年も放置していた土地だ、そう簡単にいかないのは当たり前だ。
(アーサー達が戻ってくるまでには、ちゃんとした農地にしておかないとね)
あの連中が戻ってきたら、驚くだろうか。
リデルの方は、自分がいない間に事業が進んでいたことに拗ねるかもしれない。
ソフィア人でありながらフィリア人と共に飲み、食べ、眠り、そして泥に塗れていた彼女。
そんな彼女の不機嫌そうな顔を思い出して、マリアはクスリと笑った。
そんな時、筋肉質な腕が横から水袋を差し出して来た。
誰かと思えば、ウィリアムが自分の水袋を差し出していたのだ。
少し迷ったが、ウィリアムの顔を見て、断るのも悪いと思って受け取った。
「……ありがとう」
「うむ。もう少しだ」
「ああ」
水を一口含めば、温くて不味いはずのそれが嫌に美味しく感じた。
身体の隅々まで水分が行き渡る感覚に、マリアは大きく息を吐いた。
情勢は厳しく、そして自然も自分達に微笑みかけてはくれないが。
隣を見れば、農作業に黙々と戻るウィリアムの姿がある。
他の仲間達も、街でお腹を空かせた家族のために必死で働いている。
食べていくために、働いているのだ。
それに笑みを見せ、袖口で額を拭い、マリアもまた鍬を振りかぶった。
「せぇ、やぁっ!」
地面に叩き付けられた鍬先から、小石と固い土が宙を舞った。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
思ったよりも長くなりそうでそうでもなさそうな第5章です。
何だかリデルの立ち位置がどんどんインフレしているような気がしますが、書いていて私もだんだんと苛々してきました。
その内、リデルと一緒に爆発しようかな。
では、また次回。




