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5-2:「公都トリウィア」

 アムリッツァー大公国。

 それは広大なアナテマ大陸の北半分を支配する大国であり、300年の歴史と伝統を誇る老国だ。

 魔術の源である<アリウスの石>を独占するソフィア人の国家であり、その人口は5000万人を越えるとされている。



 この国家の最大の特徴は無論、魔術の存在だろう。

 ソフィアの血と<アリウスの石>に依存する魔術とそれに連なる様々な技術により、大公国とその他の地域との技術の間には100年の格差があるとまで言われる程だ。

 この魔術と言う神秘的な技術を基礎として、ソフィア人はアナテマ大陸で最も豊かな人々となった。



 大公国の最盛期は100年前、アナテマ大陸全土を制覇した統一時代とされている。

 それは古代における「帝国」以来の快挙であり、今でも大公国は公式には「大陸全土が大公国の領土である」と言う方針を変えていない。

 だが20年前の<東の軍師>による東部叛乱以後、現実の版図は大きく後退し現在の形となった。

 しかしそれでもなお、大陸全体のパワーバランスを決定付ける力を持つ強国には違い無い。



 そして大公国と言う名を聞くと、多くの者が首を傾げる。

 何故「王国」でも「帝国」でも無く、あえて「公国」を名乗っているのか?

 それは大公国の始祖が、旧時代にアナテマ大陸全土を制した名も無き「帝国」の一領主であったためだとされている。



 「帝国」の暴君から民草を守った英雄王であり、それでも「帝国」への臣従を捨てなかった忠義の臣。

 そんな初代公王の神話とも伝説ともされる物語、その名残が「大公国」と言う国名に込められているのだ。

 だから大公国は300年経った今でも国是として正義と忠義を掲げており、他者への慈しみの心を持つことは法に明文化されない国民の義務とされ、またソフィア人の誇りでもあった。



 豊かで強く、平和で穏やかであり、義に厚き人々の国。

 それがアムリッツァー大公国と言う国家であり、ソフィア人と言う人々の集団だった。

 そしてそれらを最も良く表している都市、それこそが――――。



  ◆  ◆  ◆



 ――――アムリッツァー大公国・公都トリウィア。

 それが己の居場所だと聞かされた時、正直に言えばリデルは怯んだ。

 地図上の位置がわからないこともだがそれ以上に、ここがソフィア人の本拠地なのだと嫌でも理解できたためだ。



 そもそも別の都市にいたはずの自分が、なぜ今また別の都市に存在しているのか?

 おそらくあの「赤い部屋」で何かが起こったのだろうが、それが何かはわからない。

 わからないことは嫌いだ、胸がざわめくからだ。

 だがそうした怯みもざわめきも、外に出た瞬間に吹き飛んでしまう。

 それ程のインパクトが、リデルを襲った。



「ねぇ、何してるの? 早く行きましょうよ!」



 ベルが無邪気に手を振っている、その背に広がる光景にリデルは圧倒されていた。

 彼女が今いるのは、巨大な門の下だった。

 高さと幅は40メートル程だろうか、中央に大きなアーチがあり、左右に小さなアーチがある門だ。

 左右対称の彫刻や装飾が施された石造りの門で、今は門に相応しい巨大な鉄柵で閉ざされている。



 鉄柵の向こう側には、森が広がっている。

 都市の北端に位置すると聞くこの大門の向こう側には城がある、そして城と都市も間には数キロの距離があり、リデルはベルの導きの下、見たことも無い乗り物に乗ってここまで来たのだ。

 そして鉄柵のこちら側は、また別の光景が広がっていた。

 光り輝く煌びやかな都市、クルジュよりも遥かに巨大な街並みがそこにあった。



「何なのよ、ここは……」



 風に靡き稀に葉を落とす落葉樹の並木道の向こう側には、天を突くような高さの建物が立ち並ぶ大通りが見える。

 大通りの幅は70メートル程で、中央にはクルジュで見た鉄馬車にも似た大小の乗り物が動いており、その両端には無数の人々が歩いている。



 そこかしこの食料店には溢れんばかりの食材が並び、調理済みの食材は良い匂いを発して空腹の胃袋を刺激してくる。

 また店頭に並ぶ物と同様、人々が着ている衣服は清潔な上に煌びやかだった。

 女性はベルやリデルが今着ているような衣服を、男性も革やビロードをふんだんに使った衣類を揃って纏っている。



「もうっ、何してるのよ。乗り合い馬車(バ ス)に乗り遅れちゃうでしょ!」

「ば、ばす?」

「え、バスを知らないの? ひょっとして地方の人なのかしら、まだ公都にしか無いものね」



 業を煮やしたベルに手を引かれ、落葉樹の並木道を駆ける。

 固く舗装された道には落ち葉以外のゴミが一つも無く、固いはずなのに不思議と足裏に負担がかからない。

 走りながらちらりと見やれば、道備えの長椅子ベンチに座る人々の穏やかな笑顔が見えた。



 露天の店主がいて、駆け回る子供達がいて、それを見守る老人や女性がいて。

 その姿だけ見るならば、それはクルジュの旧市街の人々とそう変わらないように見えて。

 なのにどうして、こんなにも違うのだろう。

 そう思うと、リデルは何とも言えない口惜しさを感じざるを得ないのだった。



  ◆  ◆  ◆



 乗り合い馬車(バ ス)は、赤い塗装が施された鉄馬車だった。

 動かす人間はおらず、<アリウスの石>らしき物が運転席に備わっているだけだ。

 バスは2階建てで数十人のソフィア人が座席に座っており、空きが無かった。



「じゃあ、デッキに乗りましょ!」

「でっき?」

「乗り降りする場所があるでしょ? あの外に剥き出しの所! あそこ凄く楽しいのよ!」



 車体後部の乗り口には、2階へ続く螺旋階段と天井と床に固定された手すりがある。

 バスが走り出すと振動が直に足裏に伝わり、頬を風が撫で、そして視界がどんどん後方へと流れていく。

 そして流れていく全ての視界に、見たことも無いような物が含まれているのだ。



 爽快だった。

 正直、初めて感じる疾走感にワクワクした。

 隣で歓声を上げているベルの存在も、そうした感覚に拍車をかけていたのだろう。



「あ! ここで降りましょ!」

「え?」

「あそこの屋台のクレープが美味しいのよ!」



 どうやらこのバスは予め停留所ごとに止まるようになっていて、10キロ以上続く大通りの各所への移動には欠かせないものであるらしい。

 手を引かれるままに降りる、その際に引っかかりを覚えるが、素直に引っ張られた。

 何かもう、ベルとの付き合い方がわかってきたような気がした。



「おじさん、クレープ2つ頂戴! クリームとフルーツたっぷりね!」

「あいよっ。お、ベル様じゃないですか。また抜け出して来たんですかい?」

「えへへ……フロイラインには内緒よ」



 カウンターに顎と手を乗せて注文するベル、そして店主は彼女のことを知っているらしかった。

 店主だけでは無く、周囲を歩く人々もクスクスと笑いを堪えるような表情を浮かべている。

 どうやら、ベルは街の人々に良く知られているらしい。

 その内、リデルの鼻腔に甘いお菓子の香りが届いてきた。



「ねぇ、それって何? 何で出来てるの?」

「お? 見ない顔だねぇ、ベル様のお友達かい? 何って、普通のクレープさ。小麦粉とか砂糖とかを混ぜた生地を焼いて、間に果物とかを挟む食べ物だよ」

「ふぅん、初めて見るわ」

「クレープも初めて見るの? あなた、よっぽどの地方から来たのね!」



 ベルの言い草にはカチンと来たが、我慢した。

 それよりも苛立って力が入ったせいなのか、お腹が小さく音を立てたことの方がよほど恥ずかしかった。



「ははは! ほぉら出来た、落とさないようにな!」

「ありがとう、おじさん!」

「あ、ありがとぅ……って、ねぇ、ちょっと! お金は?」



 お菓子だけ貰って去ろうとするベルの背中に声をかける。

 お金の概念は島の外に出て初めて実感したものの一つだ、旧市街での数ヶ月の生活でそのあたりの感覚も学んだ。

 物々交換の進歩の先の貨幣と言う概念、しかし当のベルは首を傾げていた。



「お金? なぁに、それ」

「いや、何それって……」



 あっけらかんとしたベルの様子に、呆気にとられる。

 屋台の店主も何も言わずに笑顔で送り出していて――旧市街では、お金を払わずに物を持っていく盗人に私的な罰を加える店主もいると言うのに――それ以上は何も言えなかった。

 甘そうなクレープを手に、仕方なくベルの背中を追いかける。



 後でわかったことだが、トリウィアを含むいくつかの大都市ではソフィア人はお金を支払わなくて良いらしい。

 それは食べ物だけでなく、店頭に並ぶあらゆる物資が無償で提供されるのだとか。

 そもそも店員も常駐というわけでなく、彼らは趣味か暇潰しの範囲で働いているのだった。

 水も食べ物も、衣服も家も、医療も仕事も、何もかもが国家によって保障されているのだ。



「おやおや、お嬢さん達。女の子が歩きながら物を食べちゃいけないよ」

「さぁさ、こっちのベンチを使いなさいな」

「あら、ごめんなさい。譲ってくれてありがとう!」



 長椅子に座っていた老夫婦が両端にズレて、間に座らせてくれた。

 これも旧市街では見慣れない光景だった、そもそも旧市街にこんなお洒落なベンチも大通りも無いのだが。

 旧市街の大通りは活気こそあったが、埃っぽく不衛生的で、そして安全では無かった。



 大人は子供に財布をスられるかもと距離を取ったし、子供は大人に暴力を振るわれるかもとやはり距離を取った。

 マリア達レジスタンスのような例は、ごくごく一部だったのだ。

 お金が無いために、食べ物が十分で無いために、そうなってしまっていたのだ。



「美味しいかい?」

「うんっ、とっても美味しいわ! 私、甘いものだーいすきよ♪」

「うふふ、ゆっくりお食べなさいな」



 はもはもとリスのように頬を膨らませてクレープを食べるベルを、老夫婦が微笑ましそうに見守っている。

 食べかすでも期待しているのか、くぐもった鳴き声を発しながら鳩が集まって来た。

 そしてそんな鳩を、両親と買い物に来ていたらしい男の子が追い掛け回す。



 平和だ。

 気味が悪いくらいに平和で、優しさに満ちた世界がそこに広がっていた。

 これも後で知ったことだが、都市の随所に空気を清浄にする道具が仕掛けられているのだと言う。

 魔術に由来するそれらの道具のおかげで、人々は衛生的な空気の下で生きて行ける。

 ここではそんな「誰もが健康に豊かに暮らしていくための施策」が、当然のように行われている。



「んー♪ ごちそうさま!」

「あ、こら! そのへんにゴミを捨てるんじゃ……」



 無い、と注意しようとした時、リデルは目を丸くした。

 どこからともなくやってきた車輪のついた円柱状の物体――リデルと同じくらいの背丈の――が走り寄ってきて、地面に落ちたクレープの包み紙の上で止まったのだ。

 数秒後にその物体が走り去った後、そこにゴミは残されていなかった。

 底板が開いて吸い込んだようなのだが、その際、あの薄く赤い光が見えた。



(……掃除も、魔術でやるんだ……)



 平和で、豊かで、便利で。

 この世で最も成功した場所を目の当たりにして、リデルは改めて、ここが自分の知らない土地なのだと確信することが出来た。

 それから、自分の分のクレープに噛り付く。



「……甘ぁっ!?」

「え、なぁに? 辛党だったの?」

「違うわよ!」



 旧市街と違い、ふんだんに砂糖を使ったお菓子。

 これもまた、今まで知らなかったものだった。



  ◆  ◆  ◆



 彼女とその周囲にとってはいつものことだが、しかし今日に限ってはいつもと違う。

 周りの者がそう思えてしまう程に、その日の彼女は張り詰めていた。



「……公女殿下をお迎えに上がる」



 そう呟くように言った彼女、フロイラインに、誰もがほっと息を吐いた。

 何だ、やはりいつもと同じじゃないか。

 妙に緊張してしまったのが馬鹿のようだ、その吐息にはそんな感情が見え隠れしていた。



 フロイラインは例の中庭に人を集めていた、その誰もが軍服とローブの混合服を纏った魔術師だった。

 渡しの通路から眼下を見下ろしていると、誰もが「やれやれ、またか」と呟きながら方々に散っていく様子がわかる。

 それはまさに、「いつものこと」であった。



「本当にあのお方は、困った方だ」



 ふぅ、とやはり溜息を吐いて、フロイラインは天を仰いだ。

 彼女にとって「公女殿下のお迎え」という行為は、与えられた職務に含まれる崇高なものだ。

 魔術師にも位階と言うものが存在し、役のある者と無い者に大別することが出来る。

 彼女は当然、前者だ。



「天……天意か」



 中庭の壁に四角く切り取られた空を仰ぎながら、フロイラインは思った。

 世には人の領域では図れぬ無限の法則があるという。

 魔術師は己の智慧でもってこの法則を解き明かそうとする学者的な側面もあるが、フロイラインはそうしたいわゆる「学派」とは道を別にする魔術師だった。



 故に彼女が天意と言う言葉を使うときは、どちらかと言えばより「運命」と言う意味に近くなる。

 運命、魔術師が口にするにはやや宗教的すぎるだろうか。

 ただ今日に限っては、天意や運命に対して恨み言の一つも呟きたい気分だった。

 何故ならば。



「何故……」



 何故、と、そう問わずにはいられなかったからだ。



「何故、今なのですか……○○○○様」



 何故、どうして――――「今」なのか、と。

 いやむしろ、どうして今になって、と言うのが正しいのかもしれない。

 何故ならそれは、すでに終わったことだったからだ。

 終わったはずのことで、続いているはずのないことだった。



 しかし、彼女はやってきてしまった。

 この中庭で、あの切り取られた天の外からやってきた彼女は、フロイラインの王と出会ってしまった。

 誰に導かれたでもなく、全くの偶然によって。

 その偶然こそを、フロイラインは天意と呼び、そして運命と思ったのだから。



  ◆  ◆  ◆



 公都トリウィアを含む大公国において、ソフィア人は全ての自由を認められている。

 しかしそんなソフィア人であっても、安易に立ち入りを許されない場所が存在する。

 大公国が誇る<魔女>、ノエルはその許されざる場所に立ち入ることの許された数少ない人間の1人であった。



「おい、あれ……」

「ああ、混血(ハーフ)の魔女様だぜ……」

「<こうの道>に行くのかしら……」



 音を殺し、それでいて相手の耳に届くようなヒソヒソ声が通路のそこかしこから聞こえる。

 金と水晶で彩られた瀟洒な装飾の施された通路はホール並みに広く、天井には数メートルごとにシャンデリアが揺れていた。

 噂話のささやき声は通路の石造りの柱の陰から聞こえる、この柱はシャンデリアとシャンデリアの間に位置しているものだ。



 柱の陰から耳に届く声はどれも冷たく、また言葉は称賛とは程遠かった。

 しかしノエルは毛程も気にした風も無く、むしろ悠然と通路を歩いていた。

 足を覆う<アリウスの石>のブーツが金属質な足音を立て、首の後ろで結われた茶色の髪が歩に合わせて遊ぶように揺れている。



「やぁ、これはこれは」



 そんな彼女が足を止めたのは、前方――つまり、彼女がまさに向かっている方向――から、1人の男性がやってくるのを見たためだ。

 年の頃は20代の半ば、細身だが貧弱では無い身体つきに彫りの深い顔立ち、少し癖のある金色の髪に菫色の瞳の青年だ。

 纏っている衣装も多少金糸の装飾が施されていることを除けば、他の魔術師達と同じ混合服だった。



「これから公王陛下に拝謁するのかな?」

「……ええ」

「そんなに畏まらなくとも。同じ<魔女>同士、もう少し気を許してほしいな」



 立ち止まっての会釈に笑顔を浮かべた彼は、ノエルと自分を指して「同じ<魔女>同士」と称した。

 それは言葉の通りの意味であって、そのまま彼の地位を表していた。

 すなわち、ノエル・イレアナに続く3人目の<魔女>



「見て、ヴァリアス様よ」

「本当、今日も麗しいわ……」

「ああ、一度で良いから話しかけてみたいわぁ」



 そしてノエルと同じように、彼の姿を認めた途端に柱の陰から噂話が聞こえてきた。

 ノエルの時と異なり、そのほとんどは女性のものであるように感じる。

 なるほど確かに柔らかな物腰と整った容姿をしており、見るからに「女性受け」しそうな好青年ではあった。

 とは言え、女性だからとノエルが頬を少女のように染めることは無かったわけだが。



「同志ヴァリアス、公王陛下はお変わりありませんでしたか」

「……そうだね、陛下にお変わりは無かったよ。相も変わらず、殿下のことばかりさ」



 僅かの間を置いて返ってきた答えに、ノエルは僅かに目を伏せた。

 変わりは無い、ただそれだけの言葉のためにそうしたのである。

 そんな彼女の様子に肩を竦めると、ヴァリアスと呼ばれた青年は再び歩き出した。



「ああ、殿下と言えば」



 肩が触れ合うかどうかと言う距離で一旦止まり、ヴァリアスは呟くように言った。



「東で叛乱を鎮定して回っていたキミが、南のクルジュに限って放置して帰還してきたらしいじゃないか」

「…………」

「……まぁ、拾いものは大事にすることだね」



 ノエルの沈黙をどう受け取ったのであろう、ヴァリアスはそう言った。

 拾いものは大事にすることだね。

 浅きも深きも、その言葉の意味するところをノエルは瞬時に悟った。

 しかし何も言うことなく、肩を擦過させるようにしてヴァリアスから離れた。



 ヴァリアスもまた、そんなノエルの背中にそれ以上言葉をかけることは無かった。

 出会った時と同じように、最初からそうあるべきだったかのように2人は逆の方向へと歩いて行った。

 それはまさに、「すれ違い」と言うべきものだった。



  ◆  ◆  ◆



 ソフィアの世界は、豊かさと楽しさの全てがあった。

 あれからリデルはベルに連れ回される形で、ソフィア人の都を巡り歩いた。

 片手にはほとんどいつも何かしかのお菓子を持っていたし、レストランと言う場所にも生まれて初めて入った。



 何もかもが初めての経験ばかりだった、食べ物のことだけでは無い。

 衣類の店にも行った、そこも先程の屋台と同じだった。

 どんなに簡易な作りの衣類でも、旧市街では考えられない程の丈夫さと生地の良さの物ばかり。

 しかも高級だろうとそうでなかろうと、全てが無料なのだ。

 むしろ無料ともなれば、高級だとか安いだとかの概念自体に意味が無いのかもしれない。



(なのに、略奪も起こらない)



 脳裏に思い描くのは、ルイナの村だ。

 フィリア人同士で相喰らっていたあの光景を思い起こせば、今、目の前で起こっていることは別世界の出来事に思えてならなかった。

 誰かが誰かの持ち物を奪ったり、誰かを蹴倒してまで食を得ようだなどと考えすらしない。



「ねぇねぇ、今度はあっちに行きましょ! 新作の帽子が入ったって評判なのよ!」



 きゃっ、きゃっ、と跳ねるようにはしゃぎ回るベルについて回れば回る程に、リデルの胸にはどうしようも無い疑問が浮かび上がってくるのだった。

 お菓子も玩具もお洋服も、何もかもが揃っている環境。

 略奪も貧富も病も無い、何でも揃っている環境。



 その全てが、旧市街には無いものだ。



 聞けば、トリウィアでは店に人がいないことも珍しくないらしい。

 働くも働かないも個々人の判断、もっと言えば気分で決まっているためだ。

 ソフィア人にとって労働とはしなければならないことでは無く、単なる趣味の一つに過ぎない。

 それでも国や都市を運営できるのは、ひとえに魔術の存在があるのだろう。



(魔術って、戦いばっかりに使われてるイメージがあったけど)



 それだけでは無い。

 都を歩く人々を見るだけでも、それがわかる。

 街を清潔に保つあの物体も、店に並ぶ衣類や玩具も、道端に溢れる食べ物やお菓子も。

 あれらの何もかもが、魔術と言うただ一つの技術によって支えられている。



 魔術師とそれを信奉する者達の国、アムリッツァー大公国。

 ありのままのソフィア人の世界を見て、リデルは思った。

 この世界には、何もかもが揃っているけれど。

 そしてだからこそ思うのだ、「この世界は何かがおかしい」と。



  ◆  ◆  ◆



「――――おかしい?」



 両腕に衣類や帽子、玩具の入った紙袋を一杯に抱えて、ベルが不思議そうな顔で振り向いた。

 その手には薄いパイの中にクリームを詰めたシュークリームと言うお菓子を持っており、もふっと噛り付いた所だった。

 口を離すと、口元にべったりとクリームがついていた。



「あ、もしかしてシュークリームの中に何か入ってたの? じゃあ、交換してもらいましょうよ」

「違うわよ」



 リデルの手にも同じお菓子がある、また同じように紙袋を持っているが、それは全てベルが勝手に選んで勝手に押し付けてきたものだ。

 衣類の店を何件も回ってきゃいのきゃいのと騒ぐような遊び方は、辺境の島育ちのリデルには理解し難いものだった。

 そのためかなりげっそりした様子だったが、それでも姿勢はしっかりとしていた。



「いや、それよりも。どう考えたっておかしいじゃない」

「何が? 今日は特にイベントも無いはずだけど……あ、でも、念に一度の魔夜は大好きよ、街中がイルミネーションされてね――」

「そうじゃなくて! 明らかにおかしいじゃないって話をしてるのよ!」



 この街は、あまりにもおかしい。

 無償で豊かに供給され続ける物資、無償でいくらでもあるが故に略奪が起こらず、他人から何かを奪う必要が無いが故に犯罪も起こらない。

 どう考えても、正常な状態では無い。



 供給には生産が必要だ。

 たとえ魔術であろうともそれは変わらない、魔術には血と石という素材が絶対的に必要だからだ。

 ならば、どこかで生産を行っている何者かがいるはずだ。

 例えば、もしかしたならそれは。



「ここでは皆がご飯を残すわ、皆が無造作に物を捨てるし、それに顔色を変える人もいやしない」



 レストランという食事処で一番驚いたのは、苦手だからとかダイエットだとか言う理由で料理を残す者が驚く程多くいたことだ。

 皿の上に残った野菜一つで、旧市街やルイナの村では殺し合いが起こってもおかしくないだろうに。

 なのにここでは、顔色一つ変えずにそれが行われる、当然のことのようにだ。



「食べ物や着る物は誰が作ってるの? この事故の無い安全な街とやらも、いったい誰が保っているの?」



 旧市街では、それが見えていた。

 それはレジスタンスであったかもしれないし、連合会の者達であったかもしれない、あるいはウィリアムのような地下の人間達であったのかもしれない。

 それでも、都市の営みを行う「人」の顔を確かに思い浮かべることが出来る。



 だが、この都にはそれが無い。



 暮らす人々の顔は見えるが、その営みを支える誰かの顔がまるで見えてこないのだ。

 そして、リデルは知っている。

 かつて旧市街で見聞きして知っているのだ、南から北へと送られるフィリア人の人々のあの列を。

 そう、つまりこのソフィアの都の繁栄の根っこにあるもの。



「……?」



 だがそれを聞いても、ベルは不思議そうな顔で首を傾げるばかりだった。

 そこに、罪悪感やそれに類する負の色は全く無い。

 単に、心の底から意識していないことを言われた。

 それは、そんな時特有の反応だった。



「あなたが何を言ってるのかわかんないけど、良いじゃない別に」



 はむはむとシュークリームを食べ終え、指先についたクリームを舐め取りながら言った。



「美味しくない物は食べたくないし」



 鼻歌を歌いながら紙袋を漁り、買ったばかりのリボンに笑みを浮かべながら言った。



「可愛くない物は欲しく無いわ」



 そんなことを気にする者は、ここにはいない。

 そう言われたような気がして、リデルは奥歯を噛んだ。

 同時に、覆しようの無い事実も理解する。

 何度も理解していたはずだったが、これが最たる物だ。



 一般のソフィア人は、そもそも「差別」の意識が無い。

 それを当然と卑屈に受け止めるフィリア人も問題だが、こちらはこちらで根が深かった。

 人の意識。

 それは軍略ではどうしようも無い部分ではあるが、しかし納得の出来ない部分でもある。



「それより、そんなつまんない話――――あっ」

「あって何よ、何……って、何すんのよ!?」

「か、隠して隠して!」

「隠してって、何からよ!」



 はっとした顔をして、ベルがあわあわし始める。

 何事かと思って眉を潜めていると、ベルは慌てた顔でリデルの背中に隠れようとした。

 いくら小柄だとしても、リデルの背中は少女1人を隠せるほど小さくは無い。

 人通りが多い大通りだ、人の目も気になって抵抗するリデル。



 そんなリデルの前に、銀色の装飾が施された鉄馬車が停車した。

 尻尾を咥えた蛇の紋章を車体につけた鉄馬車の中から1人の女性が姿を見せると、ベルはリデルの肩のあたりで「ひぃっ」と鳴き声のようなものを上げた。

 一方で、それを見た側は大きく溜息を吐いた。

 フロイライン・ローズラインと言う、その魔術師は。



  ◆  ◆  ◆



 リデルにとって、これはあまり良い事態では無かった。

 彼女にとって大公国の魔術師とはまさに敵であり、自分をこのソフィアの都に連れて来た存在だからだ。

 それが目の前にやって来たとなると身構えざるを得ない、しかもだ。



「……ふ、フロイライン?」

「何でしょう、ベルフラウ様」

「き、今日はまた一段とたくさん連れて来たじゃない?」



 リデルの背中に隠れるベル――正直、リデルの方こそ隠れたい――の正面にフロイラインがいて、3人の両端を囲むように10人近くの魔術師が立っていた。

 だがそれはベルにとっても予想外だったようで、ビクビクと震えていた。

 周囲の人々にとっても同じ様子で、「おい」「何か、いつもとローズラインさんの様子が違うな」と言う話し声が聞こえてきた。



「い、いつもはもう少しこう……少ないじゃない?」

「公女殿下をお迎えするのに、過ぎると言うことはございません」

「……公女殿下?」



 ちらりと肩越しにベルを見ると、ちろりと舌を出していた。

 可愛らしいが、同時に小憎たらしくも感じた。



「はい、そちらにおわすお方こそ――――アムリッツァー大公国大公女にして公王位第一継承権保持者、ベルフラウ・エテル・ルナ・アムリッツァー殿下でございます」

「――――!」



 流石にそこまで説明されれば、理解せざるを得ない。

 この街娘に扮した少女が、ソフィア人達の国のいわば王女様なのだと言うことを。

 ただの一般人では無いとは思っていたが、想像以上に頂点に近い位置の存在だったことには驚きを禁じ得なかった。

 本の中で読んだ王族とはあまりにもかけ離れていたので、想像できなかったのかもしれない。



 いやそれは良い、一方で自分はどうなるか。

 普通に考えるならば連れ戻されるだろう、出来れば勘弁願いたい。

 とは言え、ここは右も左もわからないソフィアの都。

 1人逃げたとして……と、そう考えている間に、事態はさらに動いた。



「……え?」



 それはリデルの声だったか、あるいはベルの声だったのか、さもなくば2人ともか。

 いずれにせよ、目の前に広がった光景は事実としてそこにある。

 フロイラインが膝をつき、リデルの手をとったのだ。

 そして喜びの色は見えない、どこか複雑そうな表情でリデルを見上げて。



「良くぞお戻りに、と申し上げるべきなのでしょうか」

「は、はぁ? な、何を言ってるのよアンタ……」

「ええ、私も何と申し上げるべきか計りかねている所です。ですが、こうお呼びするのが正しいのでしょう」

「ふ、フロイライン?」



 いつもと違う様子に不安になっているのだろう、ベルも眉を潜めている。

 そんなベルに今一度視線を向け、深々と溜息を吐いて。

 そして、他の誰にも聞こえないような小さな声で囁いた。




「――――リデル・アムリッツァー公女殿下」




 それは、はたして旧市街でノエルが告げた言葉だった。

 だがそこに己の名とあり得ない国名を連ねられることで、リデルの身中と心中に痺れのような衝撃をもたらした。

 己が何者であるのか、それを決めるのは常に己自身だ。



 しかしもし、己の内に己自身が気付かぬ側面が存在するのであれば。

 今、まさに。

 リデルと言う少女、<東の軍師>の娘である彼女は、己自身の気付かぬ側面の存在に衝撃を受けたのだった。


最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。

ソフィアの世界での新章が本格稼動ですが、まだまだ謎の方が多い状況です。

今後の展開はいくつか考えがありますが、どのルートで行くのが良いのか、バランスを見つつ考え中です。

アーサーはやって来るのか、そもそも公女とはどういうことか。

それでは、また次回。

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