1-3:「誘いの言の葉」
独りの夜には、もう慣れたと思っていた。
30回も独り寝を繰り返せば流石に慣れもするだろう、慣れたかったかは別だが。
だが、自分が独りきりだと言うのを強く意識したのは今夜が初めてだった。
「……今日ね、変な奴が島に来てたのよ」
月と星の輝き以外に灯りの無いその場所で、リデルは父に語りかけていた。
島の夜は寒く、危険だ。
故に普段は出歩かないのだが、今日に限ってはその禁を破った。
あまりにも、寒かったからだ。
月と星の下、土と石の前で少女の姿は小さい。
小さく見える。
金の髪が薄く輝き、夜闇の中にリデルの姿を浮かび上がらせている。
「すぐに追い出してやったわ。皆に手伝って貰って、私が作戦を考えたのよ。凄いでしょ?」
後ろ姿からは、彼女の表情を読み取ることは出来ない。
ただ声は明るかった、陽気に話しかけているように見えていた。
肩を震わせながら、明るく話していた。
物言わぬ石と土の前で、独りのままで。
「でもそいつのこと、ちゃんと面倒見てあげたのよ。沼から引き上げて身体を拭いて手当てして……パパの服一つあげちゃったけど、良いわよね?」
どうやら今日の出来事について話しているようだが、内容はあまり重視していないようにも見えた。
何故なら、彼女にとって重要なことは別にあるのだ。
それは、今日に限って夜にここに来た理由に等しい。
「……聞いてる? ねぇ、パパ」
嗚呼、今夜は。
「ねぇパパ、どうして」
本当に。
「……褒めてくれない、の……?」
――――寒い。
◆ ◆ ◆
今日は本当に冷える、少女はそう思った。
茶色の髪を片手で撫で付けながら上を見れば、剥き出しの夜空が見えた。
半分は星、そして半分は黒ずんだ天井の柱で出来た空。
「――――ルイナさん」
不意に名前を呼ばれて、ルイナは顔を上げた。
目の前には家――だった物――の中を照らす火があり、その上には鉄製の鍋がある。
鍋の中身は乾燥させた魚と野草だった、茹でただけだが、廃墟の漁村では十分な食事だと言える。
さらにその向こうに、アーサーがいる。
身体の正面は火と鍋で暖かいが、風を遮る物が無いので背中は寒い。
そうした環境下で、2人は向かい合っていた。
「別に、僕に付き合って出発を延ばさなくとも良かったんですよ?」
「そんなことを言って、また毒草を食べて倒れても知りませんよ」
「…………」
沈黙した所を見るに、すでに倒れたことがあるらしい。
それに対してクスクスと笑うルイナだったが、その表情がふと翳る。
鍋から昇る湯気を視界に、彼女は静かな吐息と共に言った。
「……そうですか、あの方が」
「はい、1ヶ月前にお亡くなりになったそうです」
亡くなった、その言葉にまた息を吐く。
彼女は知っていた、ヘレム島に誰がいるのかと言うことを。
そもそもにおいて、<東の軍師>があの島にいることをアーサーに教えたのは彼女だった。
これは、今では大陸中を探しても彼女にしか出来ないことだった。
あの少女、リデルの言葉を借りるなら――「御伽噺の登場人物に大げさな」、となるのだろう。
だが、そうでは無い。
そうでは無い理由が、あるのだ。
「これも、『聖女フィリアのお導き』……と言うのでしょうかね」
そう言った後、アーサーは両手を上げて降参のポーズをとった。
理由はルイナが咎めるような視線を向けて来たためで、不謹慎な言動をしたと言う反省のポーズだった。
ルイナもそれ以上は追及しなかった、と言うのも、アーサーの落胆が見て取れるからだ。
アーサーは本当に<東の軍師>に会いたかったのだ、救いを求めていた。
実はルイナとアーサーの付き合いは2週間前からの薄い物だが、それでもそれはわかっていた。
彼には、それに縋るしか無かったのだと。
「……あの子は、元気でしたか?」
「ああ、やっぱり知っていたんですね」
頷きを返すと、アーサーはどこか納得したような顔をした。
ここで言う「あの子」とは他でも無い、今やあの島のたった1人の住人――リデルのことだ。
「もう10年以上も前の話……と言っても、当時は私も子供でしたから。細かくは覚えていませんけど」
ただ、嵐の夜だったことだけは覚えている。
その年1番の嵐が来た夜で、小さな子供を抱えた男が家を訪ねて来たのだ。
と言って、「彼」とは一言も話さなかった。
それでも、一晩だけ一緒に過ごした「あの子」のことは今でも覚えている。
村には年の近い友人がいなかったから、余計に。
「そうですか、あの子は元気だったんですね」
「どうしてわかるんです?」
「じゃなきゃ、貴方がそんな怪我をして帰ってくるわけ無いじゃありませんか」
そう言うと、肩を竦められた。
そんなアーサーの身体には、未だ生々しい擦り傷が見える。
「……ルイナさん」
「はい、何でしょう」
表情を真面目な物に変えたアーサーに、頷く。
聞かれることは、何となくわかっていた。
「ルイナさんはもしかして、「彼」が亡くなっていることを知っていたんじゃありませんか?」
「……どうして、そう思うんですか?」
「リデルさんは言っていましたよ、「彼」は何ヶ月も動けない状態だったと。そして村の漁師……おそらくは貴女の父ですが、浜辺に魚や何かしかを置いて行っていたと」
会いもしない相手に、そんなことをするだろうか?
魚の対価を払うにしろ話すにしろ、「彼」はルイナの父と接触していたはずだ。
最後の数ヶ月間、「彼」の異変に気付かなかったはずが無い。
つまりアーサーに情報を話した時点で、ルイナは「彼」の死を知っていたはずでは無いか。
「いいえ、知りませんでした。でも、もしかしたらとは思っていました」
実際、接触の無い人間の安否を知ることは出来ない。
でも、どうなのだろうとルイナは思う。
島で唯一、自分と時間を共にしていた相手が弱る一方の数ヶ月間。
どうだったのだろう、と、思いはした。
「私を、責めますか?」
「いえ、そんなつもりはありませんよ。ただ、ならどうして僕に<東の軍師>の話をしたのかと思いましてね」
ふぅ、とアーサーが息を吐く。
言葉通り、彼にはルイナを責める気持ちは無い。
ただ、わからなかっただけだ。
<東の軍師>を求めたアーサーの気持ちを知る彼女がどうして、と。
まぁ、「彼」に会えなかった今、もはや意味の無い問いかけではあるが。
「……この魚、私が獲ったんです」
「え?」
「この魚です、良い魚でしょう? 私が獲って、日干しにした保存食です」
「あ、ああ、はい」
急に魚の話をされたので、アーサーは面食らってしまった。
確かに、鍋の中の魚は大きさと言い干され加減と良い、見事な物だが。
「12年前には私は網の手入れしか出来ませんでした、子供でしたから」
「はぁ……」
「でも今は1人で魚を獲って、処理も出来ます。船の動かし方も、海の天気の読み方も、全部わかります。父が教えてくれたからです」
ルイナが何を言いたいのか、イマイチよくわからない。
だが次の瞬間、アーサーは胸がざわめくのを感じた。
「……あの子はこの12年間、お父さんと何を話していたんでしょうか」
「……!」
アーサーが目を見開くのを確認して、ルイナは木ベラで鍋をかき混ぜた。
彼女がこの12年で学んだ技術で獲った魚は、湯気の中から2人を見つめていた。
◆ ◆ ◆
少年と少女が過ごしているのは、漁村の廃屋だ。
屋根も半分崩れてしまったその家、いやそうでなくとも、滅びてしまった漁村には2人の他には誰もいなかった。
2週間前まではそれなりに賑やかだった、が、今はそうでは無い。
月は海と誰もいない砂浜を照らすばかりで、他には何もしない。
風は遮る者も無く走り抜けて、僅かに砂を舞い上げるだけ。
輝く星々は語るべき相手もおらず、ただただ沈黙するばかり。
――――本当に?
「…………」
本当にそうだろうか、他には誰も存在しないのだろうか。
夜の帳の下で、冷たい空気を肌に感じているのは2人だけだろうか。
廃屋の中から聞こえてくる声に、笑みを浮かべている者はいないだろうか。
――――本当に?
「……」
「…………」
いいや、そんなことは無い。
月明かりは、廃屋の様子を窺う瞳の持ち主を照らし出している。
1人、いや2人か、いやいや3人かもしれない。
夜の闇の中に姿を隠しながら、それは廃屋の方へと瞳を向けていた。
「…………ふふふ」
闇の中で、嗤う声が一つだけ響いた。
姿を見せないその陰は、ゆらりとした揺らめきと共に掻き消えた。
月と星が見せたのは、白く細い指先だけだった。
赤い石の指輪を嵌めた、指だけだった――――。
◆ ◆ ◆
「皆、おはよう!」
翌朝、ヘレム島ではいつもの光景が繰り広げられていた。
リデルが姿を見せると、木々や茂みの中から小動物達が集まってくる。
そして始まる行進、それはいつもの光景で、今までと何ら変わるものでは無かった。
薪を拾うためにしゃがみ込めば、リス達が身体の上を駆け上って肩に乗る。
鳥達は傍で歌を歌い、時折少女の腕や頭で羽根を休める。
リデル自身はそれを邪魔に思うことも無く、と言って気を遣うでも無く、普通に薪を拾っている。
時折、くすぐったそうに身をよじっていた。
「最近雨が少ないわよね、皆は大丈夫?」
声をかければ、四方八方から動物達の鳴き声が響く。
それに笑みを浮かべて、リデルは薪を背負って歩き始めた。
薪にしろ野草にしろ、その日に必要な分だけを獲るのがルールだ。
だから歩けなくなる程の荷物、と言う事態にはなったことが無い。
だが今日は、少しだけ足取りが鈍いようだった。
慣れているはずの獣道で躓いたり、茂みの葉で指先を切ったり。
普段ならしないような小さなミスだが、繰り返せば気にもなる。
心配そうな声を発する動物達だが、リデルは「大丈夫」と笑うばかりだ。
(……アイツ、ちゃんと帰れたのかしらね)
ふぅ、と気を取り直して、そんなことを考えた。
すでに一日以上が過ぎているわけだが、それでも初めての来客を忘れるわけでは無い。
むしろ記憶力は良い方なので、話した言葉の一言一句まで良く覚えている。
おそらく、もう二度と会うことは無いだろう。
――――などと考えたのが、いけなかったのだろうか。
しばらくして、リデルは足を止めた。
ぽかんとした表情を浮かべて、驚いたように目を真ん丸く見開く。
その視線の先には、例の空間があった。
海と森の境界、海岸、そして土と石のお墓。
「……え?」
いつもなら自分がいるだろう場所に膝をついているのは、ブラウンの髪の少年だった。
あの服には見覚えがある、自分が与えた父の服だ。
薄いベージュのシャツと黒のパンツ、脛までを包むエキゾチックな黒の外套。
外套は腰でベルト留めされていて、所々に糸で刺繍が施されていた。
アーサーである。
「な、何で、いるの……?」
当然の疑問を口にすると、アーサーはゆっくりと立ち上がった。
それにビクリと身を震わせると、動物達が威嚇するように鳴いた。
島の動物で彼女の味方をしない者はいない、だからその点では安心なのだが。
「いえ、大したことでは無いのですけどね」
一方で、アーサーもセーフティラインを見極めながらリデルに近付いて来た。
動物達を刺激しないギリギリのラインを守りつつ、彼は笑顔を見せる。
蛇達を呼んでやろうか、リデルがそんなことを考えた時。
「自己紹介、していなかったなと思いまして」
「自己紹介?」
「はい」
彼は手を差し出して、自分の名前を言った。
「僕の名前は、アーサー・テブル・スレト・フィリアと言います。親しみを込めて、アーサーと呼んでください」
「アー、サー……?」
「はい」
鸚鵡返しに名前を呼べば、にこりとした微笑が降りてくる。
その微笑を前にすると、リデルは何故かむず痒いような、奇妙な感覚を覚えるのだった。
◆ ◆ ◆
1人では無い、と言うこと。
実の所それは、リデルが最も不慣れとする所だった。
「リデルさん、これ、どこに置いておけば良いでしょうか」
「え、ぅ……と、とりあえず、入り口の横に……」
「わかりました」
何しろ、他人の名前を読んだことすらなかった
例外として父がいるが、父のことを名前で読んだことなどもちろん無い。
成り行きで名前を教えたは良いが、どうすればいいかわからない。
リデルの戸惑いが伝わっているのだろう、傍にいる動物達もどうすべきか決め兼ねている様子だった。
そして当のアーサーはと言えば、半ば強引に奪った薪の束を言われた場所に置いていた。
どう言うわけか作業を手伝うつもりらしい、一定の距離を保つリデルにはその行動を止めることは出来ない。
気が付けば、家にまで来て朝食の準備までされてしまっている。
「あ、ちょ、ちょっと、何してんのよ!」
「え? いや、火を起こすんですよね?」
「そ、それはそうだけど……って、え? アンタ、いつの間に火を点けたのよ」
「いつって、今ですけど」
厨房として使っている一隅で、薪に火を点けて湯を沸かす。
蓋の無い50センチ程の小さな竈は小石や泥で作られた物で、入り口近くの土間に直に備え付けられている。
火と木製の鍋の間には平たい石が置かれていて、時間はかかるが火事の可能性を抑えた作りになっていた。
だがリデルが気にしたのは、火を点けるまでの時間の短さだった。
いつもなら火種の準備から入らねばならないのだが、アーサーがそんなことをした様子は無い。
近くで見れないので背中しか窺えなかったが、何やらごそごそした次の瞬間には火が点いていたように思う。
いやいやと謙遜で振る手には、赤い石を嵌めたグローブを着けていた。
「さて、お湯が沸くまで暇ですが、何かすることはありますか?」
「そ、そうね……って」
頷きかけて、はっと気付く。
「じゃなくて! な、何よアンタ! 何でここにいるわけ!?」
「いえ、自己紹介がまだだったなと。それに、改めてのお礼もしたかったので」
「あ、お魚……」
そう言って、アーサーは最初から持っていた木桶を掲げてみせた。
その中には小ぶりな海魚が入っていて、最低限の海水に浸されたそれは見るからに新鮮そうだった。
漁村からの供給が途絶えて久しい鮮魚に、リデルは喉をごくりと鳴らしてしまった。
それから、薄く頬を染めてはっと顔を上げて。
「そ、そんな物いらないわ! お魚なんかで私を篭絡出来るなんて思わないことね、私はパパの――――……」
くぅ~……と言う音が、微かに聞こえた。
パチパチと薪が燃える音だけが響く中、アーサーはゆっくりと木桶を右から左へと動かした。
視線が、ついて来た。
誰の視線かなどとは、ここでは明言しないでおくことにする。
◆ ◆ ◆
「でも、意外ですね」
「何がよ」
アーサーから一定の距離を取り、しかし鍋の中で煮える魚から視線を外しもしない。
そんなリデルに苦笑しながら、アーサーは抱いた疑問を口にした。
「いえ、リデルさんは動物達と仲が良いようなので。むしろ野草とか果実とか、そう言う物しか食べないのかと」
「え、馬鹿じゃないの? そんなことしてたら、栄養が偏って病気になるじゃない」
実にあっさりと、リデルは答えた。
常々動物達と共に在るイメージがある彼女だが、それでも動物達を食料とすることに対しては忌避感が無いらしかった。
意外と言えば、意外ではある。
「私だけじゃないわ、この島ではたくさんの動物がお互いを食べ物にして生きてる。蛇はリスを食べるし、その蛇だって鳥に攫われるわ。皆、生きるために食べるの。私だけが例外なんて、そんなわけ無いじゃない」
どんなものであれ、生き物である限りは食べなくてはならない。
どんなに仲が良くても、それだけは変えられない。
「むしろそんな遠慮なんかしたら、動物達に失礼だわ。食べる時にはきちんと食べて、自分の糧にするの。そうじゃないと、何のために食べてるのかわからないじゃない」
目に見える動物も、目に見えない昆虫も、いや物言わぬ植物であっても同じことだ。
お互いを糧として、お互いが一日を生きる最低限を与え合って生きているのだ。
それを例えば「可哀想だから」の一言で否定するなら、それは、食べられる側を下に見る行為でしか無い。
少なくとも、自然の中で対等に生きているとは言えない。
「パパもそうだったし、いつかは私もパパみたいになる日が来るわ。その時、私はきっと、動物達に食べられるか、森で朽ちるのを願うわ。だって、それが生きて死ぬってことでしょ?」
生死の概念。
一言で言えばそう言うことだろう、リデルはそれを知っているようだった。
もしかしたなら、「彼」……彼女の父が教えた最後が、それであったのかもしれない。
「…………なるほど」
そんなリデルの――本当に、随分と素直に会話をしてくれる――言葉に頷いて、アーサーは竈の傍に置いてある土製のポットをいくつか手に取った。
中身は森で集めたのだろう豆類や、日干しにされて保存された干し肉などだった。
良く知っている、と思う。
自然のルール、島についてのルールを、リデルは良く知っていると思った。
それはアーサーの知るルールとはまた違うものだったが、彼女の父の教えの一端を見た気はした。
だから、彼はさらに聞いた。
「リデルさんは、島の外のことについてどれくらい知っているんですか?」
「何でも知ってるわ」
むしろ胸を逸らして、自慢げにそう答えてくる。
「パパが教えてくれたもの。本だってたくさん読んだわ、パパは私に何だって教えてくれたもの。アンタが言ってた<東の軍師>の話だって、私、何でも知っているのよ」
「そうですか」
ちら、と家の中へと視線を向ければ、先日リデルが隠れようとしていた本の山が見える。
孤島の中で、そこだけがやけに文明的な一隅。
きちんとした装丁の本、あれの出所について、アーサーは何となくの当たりがあった。
「じゃあ、魚が煮えるまで暇ですし。ぜひ、リデルさんが何を知っているのか、教えてくれませんか?」
「は、はぁ? 何で私が、アンタなんかにそんなこと教えなくちゃいけないのよ」
「お願いします、僕、物を良く知らなくて」
「……外の人間なのに?」
「ええ、だからお願いします」
「…………し、しょうが無いわねぇ。じゃあ、私が教えてあげるわ!」
どことなく嬉しそうに、リデルは胸を逸らした。
もしかしたら本当に嬉しいのかもしれない、誰かに何かを教えるなど、したことが無いだろうから。
鼻の頭をピクピクとさせているあたり、特に。
「感謝してよね、パパの娘である私が教えてあげるんだから」
「ええ、お願いします」
「ふ、ふふん。じゃあ、そうね、まずは簡単な歴史から――――」
◆ ◆ ◆
アナテマ大陸の歴史は、単純に言って3つの時期に分けることが出来る。
第一の時代は暦の無い古代、この時代のことを詳しく知る方法は存在しない。
人間の歴史が始まるのは第二の時代だ、旧暦と呼ばれている時代で、こちらも当時を示す資料が少なく詳細はわからない。
だから、アナテマ大陸で歴史と言えばその後の時代のことになる。
第三の時代、いわゆる近代と呼ばれる数百年の歴史。
前半は「聖王国」と「帝国」と言う2大国の覇権闘争の時代であって、これは後半のお膳立てだったと言うことが出来るだろう。
「何故かと言えば、「聖王国」との戦いを制した「帝国」内のクーデターで、今の覇権国が生まれたんだものね」
パラパラと本のページを捲りながら、そう講釈する。
開いたページには世界地図が描かれている、大山脈と大洋で隔離された大半島「アナテマ」の地図が。
一色に塗られたその地図の上にはある国の名前がある、「アムリッツァー大公国」と。
この国家の登場が、現代とも言うべき今の時代の形成に大きな意味を持っているのだ。
わかりやすく言えば、アナテマ大陸は一度「帝国」と呼ばれた国によって統一され、直後にクーデターによって中枢を奪ったアムリッツァー大公国によって分裂したのだ。
そしてそこから200年以上かけて、アムリッツァー大公国が大陸を制覇した。
それが、現代である。
「でも大公国がアナテマを統一してからも、内戦や反乱が続いたわ。50を超える言語と民族、統一し得ない文化と思想、歴史。特に大きかったのは、20年前の東部反乱よね。アナテマ東部で、被差別人種を率いて本国に反乱した……そう」
指を一本立てて、締めくくる。
「大公国の第七公子アクシス、彼が起こした反乱が最後にして最大の反乱。パパが話してくれた御伽噺だと、<東の軍師>は第七公子アクシスの死後に事業を引き継ぐことになるんだけど……まぁ、それは御伽噺だし、実際には失敗したんじゃないかしら?」
「なるほど、良くわかりました」
「ふふん、当然ね。私は何でも知っているんだもの」
得意そうに薄い胸を張るリデル、どうやらその姿勢がデフォルトなようだった。
ただ、アーサーが近寄ると同じ歩数分だけ下がるわけだが。
慣れたのか、もう気にせずにアーサーは本を一冊手に取った。
それから、本の一番最後のページを見る。
「リデルさんは、ここに置いてある本については全て覚えているんですか?」
「当然じゃない! 小さい頃から何度も読んでるもの、一字一句余さず、全部覚えてるわ!」
本当だった、リデルは家の中にある本については全て暗記している。
子守唄代わりに聞き、字を覚えてからは読んで、ページについた汚れや皺の数まで瞼に焼き付けている。
だから、島にいながらにして彼女は外の世界のことを学ぶことが出来たのだ。
だが、不意にクスクスと言う笑い声が響いた。
アーサーである、彼は本のページを前に片手を口元に当てていた。
それが気に入らなくて、リデルは目を細くした。
「な、何よ! 何かおかしいの!?」
「いえ、すみません。ただですね、ここにある本、10年以上も前に出版された物ばかりなので」
古い。
一言で言えば、そう言うことだ。
だが無理もない、こんな孤島で最新の本など手に入るはずも無い。
一番新しい本でも、12年前の発行になっているのだ。
――――12年前、それは、特別な意味を持つ数字だ。
「知りたくはありませんか、リデルさん」
だから、アーサーは言った。
「貴女の知らない12年間、外の世界で何が起こってきたのか。知りたくはありませんか」
その言葉に、リデルの瞳の奥に揺らぎが見えるのをアーサーは見た。
彼は、その揺らぎの名前を知っていた。
それは……。
◆ ◆ ◆
――――好奇心。
それは人間である以上、持たずにはいられない感情だろう。
好奇心があるからこそ、人は成長することが出来るのだから。
「この12年で、大陸はまた荒れました。ちなみに第七公子アクシスの反乱は20年前でなく、30年前のことですね」
その言葉にリデルは困惑を覚えたが、すぐに理解もした。
こんな島にいては季節は数えても暦を数えることは無いから、そうしたことを考えたことが無かった。
10年間の空白が、島と大陸の間にはあるのだ。
10年、それは何かが変わるには十分な時間だ。
そしてリデルは知らなかった、この10年――いや12年間は、アナテマ大陸史上最も変化が激しかった時期だと言うことを。
知らない、その事実にリデルは胸の内に小さな疼きを感じた。
「12年前までアナテマ大陸を支配していた大公国は、この12年間でそれを失いました。つまりまた分裂したのですよ、この大陸はね」
「分裂……」
「ええ、例えばリデルさん。フィリアリーン聖王国と言う国を知っていますか?」
知らない、だからリデルは素直に首を横に振った。
「例えば、こんな技術だって普及しているんですよ?」
アーサーが余りの薪から小さな枝を手に取り、先に指を添えた。
すっ……と指先が枝の上を滑る。
すると次の瞬間、弾けるような音を立てて枝先から発火した。
驚いて、声も出ない。
ベッドの下に潜んでいた蛇達も、火に驚いて身を竦ませていた。
「い、今のどうやったの? 火種も作らずに、どうやって火を点けたの!? さっき竈に火を点けるのが早かったの、今の……ええと、技術? 凄いじゃない、ねぇどうやったの?」
知りたい、一度そう思ってしまえば、止められるものでは無い。
人は、好奇心と言う感情に抗うことは出来ないのだから。
「外には、ここには無い物もありますよ。鎧のような外皮で身を守るネズミや片足で立つ飛ばない鳥、砂しかない山々や氷に覆われた湖。外の世界には、本の文字の上では想像も出来ないような世界が広がっているんです」
――――知りたい。
知りたい、知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい。
シリタイ。
「……そういえば、どうしてここに来たのか、と聞いていましたよね」
思い出したように、アーサーが言った。
彼は胸に手を当てる、するとグローブの赤い石が鈍く光ったような気がした。
余韻を残し、枝の火が消える。
「改めて、自己紹介。僕の名前はアーサー・テブル・スレト・フィリア、僕は……」
すでにした自己紹介を繰り返す彼に、首を傾げる。
構わずに、彼は言った。
「――――東の地から、来ました」
少女の胸に灯ったのは好奇心、目の前にいるのは東の地から来たと言う少年。
大陸の歴史は、今、大きなうねりを生み出そうとしていた。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
島の外から来た妖しい少年と、島で暮らす素直な少女。
一章は、この2人について紹介するような腹積もりです。
ただ私、今ハマッているものの影響とか受けやすいので、そこが心配ではあります。
それでは、また次回。