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4-5:「<魔女>」

 2度目と言うだけあって、旧市街の動きは素早かった。

 女子供と老人病人を地下道から郊外へ逃がし、若く逞しい男達が路地の一部を封鎖し道を作る。

 一部に無秩序はあるものの、先の戦いに比すれば許容の範囲内だった。

 そしてこれは、ここ数週間のリデルとアーサーらレジスタンスの活動の成果でもあった。



「それに実際の所、もう少し早くやってくると思ってたしね」

「相手が遅れた分、こちらは準備を進めることが出来たと」

「いろいろな意味でね」



 地下道、食糧、そして人。

 この数週間の間に集めた人々は、リデルの予想を超えて頼りになる人材達だった。

 そして今、アーサー達レジスタンスの実戦部隊はかつてない程に膨れ上がっていた。



 マリアが指揮している元々のレジスタンス達は、今は後方で人々の避難を行っている。

 さらにクロワと彼が訓練した200人は、河岸と言う最前線で敵を待ち構えている。

 そしてリデルの前にいるのは、ウィリアムやラウド達の呼びかけで集まった旧王国の臣や兵達だ。

 その数およそ400、元々のレジスタンスのメンバーと合わせて千を超える。

 千、それが今、リデルの手元の「戦力」だった。



「いやいやいや、いや! この戦場の空気、懐かしい限りですな! 腕がなり申しますな!」



 農耕馬に乗ってきたラウドと言う男が、プレートメイルの音をガチャガチャと響かせながら腕を振るっている。

 彼を始めとする旧臣の兵は頼りになる、フィリア人の中では年配の部類に入るが、レジスタンスと違い実践の経験を持っている。

 ただ今回の策では、彼らは正面にはいても主戦力では無い。



 むしろ重要なのは、ウィリアムに委ねている兵達だ。

 彼らは周辺に散り、潜んでいる。

 それがリデルの今回の策の肝の部分だ、だからこそ彼女は先の戦いで焼け落ちた区画を己の置き場に選んだ。



「さてリデルさん、僕はどうしましょうか」

「アンタは旗印でしょ、それらしくしてなさいよ」

「はぁ、ではここにいましょうか」

「ふん」



 そして、アーサーは自分の傍だ。

 以前なら彼もどこかに動かしていただろうが、人が増えたおかげでその必要も減ってきた。

 まぁ、元々旗印であるはずの――本人にその気があるかはともかく――彼が、ちょこまかと戦場を動いていることの方が不思議ではあったのだが。



「と言うか、アンタも何か考えなさいよ」

「いやぁ、リデルさんが大体のことはやってくれますから」

「アンタね……」

「リデル殿」



 その時、いつの間にそこにいたのか。

 ハーフテールの髪の小柄なフィリア人の少女がすぐ傍にいて、リデルの耳元に唇を寄せていた。

 もちろん、リデルはその少女を知っている。

 名を確かシャノワ、クロワの下で伝令役をしている少女だ。



「クロワ殿より伝言です」



 そしてその様子を、アーサーも見ていた。

 フィリア人のシャノワがソフィア人のリデルと話している。



(奇跡ですね)



 旧市街に来て一ヶ月と数週間、旧市街の民衆はリデルを知った。

 彼女が幾夜も寝ずに歩き回り、旧市街の防備を固めていたことを知っている。

 郊外や地下を駆け回り、人々に与える仕事や食を探していたことを知っている。



 彼女が、ソフィアとフィリアを差別しないことを知っている。



 自分達を踏み躙るソフィア人しか知らなかったフィリア人達が彼女に興味を持つのは、当然と言えば当然だった。

 興味を持てば、知りたくなる。

 知りたくなれば、後はリデル本人の人格による。



「ふーん……思ったより相手の数が少ないわね」

(まぁ、裏表の無い人ですからね)



 頭は良い癖に、島育ちのせいか自分を偽ると言うことを知らない。

 それがリデルだ。

 彼女にはそれしかない、そしてだからこそ。



「クロワの言う通り、か。なら、後は――――……」



 だからこそ、「ふーむ」と考え込むリデルにフィリア人の視線が集中するのだろう。

 彼女が次にどんなことを言うのか、一つのびっくり箱を見るような心地で。

 そしてそれは、アーサーも共有する感情だった。



  ◆  ◆  ◆



 師は軍を率いない、クロワはそれを知っている。

 あの人が率いているのは常に50人、短期間それ以上の数になっても、幾度かの戦いを経て50人前後にまで減る。

 そして、数年前にクロワもその中にいたことがある。



「他の6人の<魔女>が己の領地とも言うべき管区の外に出るのが稀な中、貴女だけは違った」



 ノエルと言う<魔女>に心惹かれた者達が、彼女に従う。

 ソフィアの陣営にありながらフィリアの血を備え、フィリアの血を引きながらソフィアの陣営にある者達。

 すなわち、混血ハーフ

 ノエルは混血であり、彼女に付き従う者もやはり混血だった。



「貴女だけが各地を転々とし、ソフィア人の――大公国の、いや大陸の人々のために戦い続けている」



 手を振り、フィリア人達を下がらせる。

 あの人を直接前にすれば、付け焼刃の訓練を受けただけの民ではその威に呑まれてしまう。

 それに、元々ここで迎撃するつもりは無いのだ。



「その姿」



 今、まさに船から降り、旧市街に足を踏み入れた女。

 クロワ自身の師、<魔女>ノエルの威に。



「7年前にお別れしてより、その威は僅かも揺らいでいない」

「お前は」



 凜。

 まさにその言葉は彼女のためにあるのだと、そう錯覚しそうなくらいに堂々とした態度。

 束ねた茶色の髪が川の風に揺れ、菫の瞳が鋭くこちらを射抜いてくる。

 細い足を覆う赤のブーツは、場の緊張を示すようにチリチリと音を立てている。



「お前は何故、ここにいる」



 師が問うた。

 クロワが何故、ここにいるのか。

 思えばこの師は、出会った当初から問うてばかりだった。



 クロワは元々、流民だった。



 家族も無く家も無く力も無く、空きっ腹を抱えて各地を彷徨う飢民。

 ひもじく弱く、吹けば消える哀しい存在だった。

 そんな彼をノエルが広い、魔術の才を見出され、育てられた。

 ソフィアでもフィリアでも無い自分は、逆にどちらにも与することが出来ると初めて知った。

 2つの民族を区別しないクロワの思考は、間違いなくノエルによって撒かれた種が芽吹いた結果だった。



「お前は、あの娘が何者か知っているのか」



 ひゅう、と、師と弟子の間で風が吹いた心地がした。

 師は弟子を見ていた、そして弟子は師を見ていた。

 2人の間には修復されたばかりの桟橋があり、旧市街と鉄の船をそれぞれ背にしている。



 すると、不思議なことが起こった。

 緊張を孕んだ空気が、不意に弾けたのだ。

 より緊張した方向にでは無い、むしろ軽くなったのだ。

 声が弾けるように、明るい笑顔で彼は言った。



「全員、退却だ!」



 リデルが立てた策は単純、またぞろ旧市街を城砦に見立てた篭城戦だ。

 正直、このような策であの人が退けられるとは思っていない。

 だが今の会話で、わかったことがある。



「広場まで退けい!」



 理解した。

 ノエルの目的は、不肖の弟子たる自分では無い。

 ――――リデルだ。



  ◆  ◆  ◆



 策は思いの外上手く進んでいる。

 戦えない者は郊外に退かせたし、シャノワの報せによれば敵は50人と言う少なさ。

 数の上では優位、これは旧市街とリデルにとっては初のケースとなる。



 だが油断は禁物だ、50は50でも魔術に縁を持つ50。

 戦は数では決まらない。

 しかもそれを率いているのが、工場群での戦いでクロワを一蹴したあのノエルだ。

 一瞬たりとも気は抜けない。

 しかし今の所クロワも良く敵を釣っている、策そのものは順調だ。



(……でも、何か嫌な感じがする)



 そんな彼女の気持ちに反応しているのか、リスがガジガジと彼女の指先を食んでいる。

 鳥は飛びもせずに肩に止まって髪先をついばみ、蛇は嫌に肌の上を這っている。

 策は上手く行っているのに、頭の奥がチリチリと疼く。

 こんな感覚は、初めてだった。



「シャノワ、相手は本当にノエルって奴とその部下だけ?」

「それ以外には川を渡っていない」

「カリス、河岸からこの広場まで走ってどれくらい?」

「に、20分ほどです」



 答えのわかりきっていることを聞く、リデルらしくないと言えばらしくない。

 そして明確な答えを得てもなお、頭の奥の疼きが消えることは無かった。



(迎撃の罠は万全だし、皆も良く動いてくれてる。今の所、不安要素は無いはず)



 敵の強さ以外は、だが。

 だがそれにしたところで、仕掛けた罠が発動すれば問題は無い。

 罠が外れても、その時の対処は考えている。

 鼻をつく臭いに閉口しつつも、親指の爪先を噛みながらそう考える。



 ならば緊張か?

 ルイナの村でも、そしてアレクフィナとの旧市街での戦いでも、犠牲は出た。

 無傷では無い。

 そのことに対する緊張が、リデルの頭を疼かせているのだろうか。



(大丈夫よ、何も問題ない)



 そう思って見ても、疼く頭やきゅうと締め付けられるお腹は和らがない。

 策を造り、実践する時はえてしてそう言うものだ。

 しかしだからこそ、そうした緊張や不測の事態を回避するために策を練るのだ。

 万全を期すとは、そう言うことだろう。



(私の策は間違ってないわ、そうでしょう)



 髪の間から零れる赤の宝石に、指先だけで触れる。

 まるでそれは何かを求めるような、そんな無意識の動きで。



「リデルさん?」



 だからその声を聞いた時、リデルは少しびっくりして振り向いたのだった。



  ◆  ◆  ◆



 結構な勢いで振り向かれたので、アーサーは少し驚いた。

 しかし声をかけては見たものの、僅かに縋るような色が見えるリデルの瞳に驚いたのだ。

 この娘は、こんな色を浮かべるような娘だったろうか。



(……不安なんですね)



 アーサーにはそれがわかる。

 今さらとは言うまい、彼女が自信満々な様の裏で怯えていたことは知っている。

 衣服を替えてもあの黒いビロードの帽子だけは替えない、そのことが彼女の心情を物語っていた。

 だがそれは、ここでその色を見せた理由とはおそらくは別だ。



 不安要素を排せないままに、戦いに望まねばならない。

 ルイナの村での戦い以降、リデルは不安要素を可能な限り排除することで策を組み立ててきた。

 旧市街から住民を避難させるのも、そう言う理由からだ。

 しかし今回は、どうやら不安要素を完全には排しきれなかったらしい。



(クロワさんと……ノエルと言う、<魔女>のことですね)



 アーサーも、<魔女>と言う存在は知らない。

 彼も数年旅をしたが、大公国本国――つまり、ソフィア人の地には足を踏み入れていない。

 どのような制度があり、どのような民がいて、どのような営みが行われているのか?

 全てはヴェールの向こう側で、アーサーにもわからないのだ。



 クロワを越える魔術師の存在に、不安を抱くのも仕方ない。

 この戦いでアーサーを傍に置いたのも、そう言う理由からだろう。

 頼られていると感じるのは、聊か調子に乗りすぎているだろうか。

 しかし、だ。



「ねぇ、アーサー」

「はい、何でしょう」



 それでもなお、アーサーがリデルの不安を取り除くことは出来ない。



「今回のことが終わったら、周りの町とか村に手紙を出そうと思うのよ」

「手紙、ですか」

「そ」



 不安を感じることは出来ても、それをどうすれば消すことが出来るのかはわからない。



「アンタの国を作るのよ」

「僕の国?」

「フィリアリーンだっけ、クルジュの旧市街だけ押さえたって仕方ないものね」

「…………リデルさん」



 嬉しくない、わけではない、と思う。

 元々そう言う理由で外に連れ出されたのだから、そう言う考えに至るのはむしろ自然だ。

 他にも、そう言う理由で集まってくる者達もいる。



 しかしそう言うとき、アーサーは座りの悪い心地になる。

 何故なら彼は「フィリアリーンの復興」を願ってはいるが、「フィリアリーンの再興」は願っていないからだ。

 その差異は微妙にして絶大、だから彼は。



「リデルさん」

「何よ、まさか今さら怖いとか言うんじゃないでしょうね」

「リデルさん、僕は」



 彼は。



「僕は」

「敵じゃ、敵が来たぞぉ――――!」



 アーサーの声は、農耕馬に乗った老騎士ラウドの叫びによって掻き消された。

 結局、彼は。

 己の本心を誰にも語らぬままに、戦いへと身を投じて行くのだった。

 ――――1人の少女を、巻き添えにして。



  ◆  ◆  ◆



 特別、急いで追おうとは思わなかった。

 そんな風にさえ感じる程に、その<魔女>は部下を従えて広場へと入った。

 スッ……と、菫色の瞳を細め、ぐるりと180度を見渡す。

 その<魔女>には、何の色も無かった。



(恐ろしい程に、揺らぎが無い)



 クロワが仲間を引き連れて広場まで退いて来るのに合わせてやってきた大公国の<魔女>、ノエルの姿にアーサーはごくりと唾を飲み込んだ。

 火事で黒く焦げた地面の上に魔術師の黒衣を揺らし佇むその姿は、平静そのものだ。

 周囲を数倍の敵で囲われていると言うのに、表情に一切の変化が無い。

 自信か自負か、あるいは向こう見ずなだけか。



「アンタが<魔女>?」

「リデルさん」



 身を乗り出すようにして、リデルが前に出る。

 彼女の正面には戻って来たクロワの隊と、ラウドの隊がいる。

 左右にウィリアムの仲間達を薄く広げ、敵を囲むように展開していた。

 旧王国の兵も混じっているだけに、流石に胆力が座っている。



 それでも、怯えがまったく見えないわけでは無い。

 兵の士気、それを保つために必要なものはいくつかある。

 リデルは、軍略の中でそれを知っていた。

 スンシ曰く、『主はいずれか道ある』。



「ここは私達の土地くによ、アンタみたいな奴が来て良い場所じゃないわ!」



 すなわち正当性、要するに道徳。

 どちらに正しく、義があるか。

 つまりは、正義の在り処。



「信なく義なし! アンタ達に私達を統べる資格は無いわ、だから私達は自立を宣言したのよ!」



 自らに拠って立つ、そう書いて自立と読む。



「アンタ達に虐げられて生きるのは、もうたくさん! そう言う声が集まって出来たのが今の旧市街、今のクルジュよ!」



 そこに、大公国だのソフィアだの<魔女>だのが介在する隙は無いのだ。

 そう聞いたフィリア人の顔から怯えが消えていく、代わって出てくるのは高揚だ。

 彼らは今、己の正義が真に正しいものであると改めて信じている。

 身を振り手を振るい叫ぶリデルの姿に、おお、と言う声が幾重にも重なっていく。



「わかったなら――さっさと部下を纏めて、向こう岸に帰りなさい!」

(流石と言うか何と言うか、こういうのが似合う人ですね)



 だが、と、リデルの弁舌を聞いていたアーサーは思った。

 彼女の言には、唯一、そして致命的な矛盾がある。

 だが周囲の仲間達の反応は概ね良い、士気と言う面で見れば――――。



「……くっ」



 ――――その時。



「くくっ」



 喉の奥を鳴らすような声が、静かに響いた。

 それはノエルだった、鉄面皮のように動かなかった表情を歪めるように笑っていた。

 目尻には涙さえ浮かんでいて、相当におかしかったのだろう。

 それを見て、リデルが顔を一気に紅潮させたのも無理からぬことだ。



「何がおかしのよ!」

「くくっ、くくくっ」

「答えなさいよ、笑うんじゃな……ッ!」



 ぞっとした何かが、リデルの背筋を駆け巡った。

 笑みを浮かべるノエルの瞳が、自分を射抜いていることに気付いたからだ。

 同じ菫色の瞳なのに、何故だろう、腹の底がグラリと揺られるような感覚を覚える。

 これが、「威」と言うものなのだろうか。



「――まるで己がフィリア人の代弁者にでもなったかのような物言い」

「はぁ!?」

「しかも」



 痛い所をついてくる、リデルの傍に在るアーサーは表情を小さく歪めた。

 そう。

 どこまで行っても、リデルはソフィア人だ。

 ソフィア人のリデルが言っている限り、それは本当の意味でフィリア人の意の代弁にはなり得ない。

 本来、それをするべきなのは。



「しかも策を弄して勝った気でいる、まさに」



 冷たく笑んだまま、ノエルが言った。




「まさに、軍師気取りでございますね」




 ぶつっ、と何かが切れるような音を確かに聞いた。 

 アーサーが「あ」と思った刹那には、リデルは右手を振っていた。

 直後、かっと紅潮した激情の顔色そのままに。



 ――――火が、上がった。



  ◆  ◆  ◆



 突如として目の前を遮った炎の壁に、クロワは驚きを覚えた。

 隣では驚いた馬を「どうどう!」と落ち着かせるラウドがいるが、クロワの視線は地面へと剥いている。

 地面に掘られていた線、つまりは溝なのだが、そこまで後退しろとは言われていた。



 その理由までは聞いていなかったが、このためだったのか。

 だがこの鼻を突く臭いと、火勢は何だ。

 魚油でも仕掛けでもしない限りはあり得ないが、旧市街に広場をぐるりと十分な火勢で囲めるだけの魚油は置いていないはずだ。

 鼻先を掠める不自然な熱気に、クロワは後方にいる少女を見た。



「スンシ曰く、『およ火攻かこうは、必ず五火の変にりてこれに応ず』!」



 空気に混じる粘り気のある臭い、自然とは違う色の火の囲み。

 よもや一度焼け落ちた場所がまた燃えるとは思うまい、その盲点を突いた火攻めだ。

 油の仕掛け場所は入念な計算の下に配置されている、他に及ぶことは無い。

 あのアレクフィナにならうのはしゃくだが、火計が有効なのは確かだ。



「凄い勢いで燃えますね……」

「大丈夫よ、石油の実験はもうしてあるんだから。それより、今の内に皆を下がらせて頂戴」

「わかりました」



 さっ、ともう片方の腕を上げる。

 するとどこかで陶器が割れるような音が響き、火勢が敵の後方にまで広がった。

 後方にそろりと伸ばしたウィリアムの隊が、「石油」の入った油壺を投げ入れた音だろう。



(石油は一度火がつけば、土で埋めない限り何日でも燃え続ける!)



 ウィリアムに石油の性質を聞いてすぐ、実際に使ってみた。

 石油は魚油よりも遥かに長持ちし、しかも火勢は比較にならなかった。

 その分魚油以上に扱いが難しいが、一方で強力な切り札にもなる。



 リデルの献策に従い、アーサーが正面のクロワとラウドの隊を下げさせる。

 先程は激情のままに火攻の合図を上げたリデルだったが、だからと言って冷静さを失ったわけでも無い。

 火攻に味方を巻き込むような愚策を、リデルが犯すわけにはいかない。



「壷隊、準備しなさい!」



 上に向けて声を発すれば、広場周辺に残る建物の上に人影が現れた。

 全員がフィリア人であり、その手に縄と麻で蓋をした小さな壷を持っている。

 ぐるぐると振り回されるそれは油壺であり、中身は当然、石油だ。

 あれを火の囲みの中に投げ入れれば、いかな魔術師とてひとたまりも無いだろう。

 すなわち。



(あと一手で、勝てる!)



 戦にあるその一瞬の心地に、リデルは到達しようとしていた。

 あと一度この腕を振り下ろせば、それで終わる。

 だからリデルは今一度、火の囲みの中へと視線を向けた。

 降伏勧告をするためであって、何も問答無用で焼き払うつもりは無かった。



(どうよ!)



 同時に自分を「軍師気取り」と呼んだノエルがどんな顔をしているのか、見てみたかったからだ。

 石油の助けで背を高く伸ばした火、その向こう側を見ることは難しい。

 だが、見えた。



「…………!」



 ゆらゆらと揺れる火焔の揺らぎの向こう側に、確かに、見た。

 遼遠にも見える炎の向こう側、その隙間にチラチラと見える女の姿を。

 彼女は、火が燃え広がる前と何も変わらぬ姿でそこにいた。

 いや、一つだけ変化があった。



 冷たい笑みを浮かべばがらにして、表情から感情を読むことが出来ない。

 だが、彼女は足を上げていた。

 赤い金属製のブーツで覆った片足を上げ、そして言った。

 何故か、その言葉だけがやけに響いて聞こえた。

 まるで、魔法のように。



笑止しょうし



 閃光。

 爆発。

 そして――――……。



  ◆  ◆  ◆



 白状しよう。

 この時リデルは、敵を侮っていた。

 クロワが敗れたとは言え、どうやって敗れたのかを見たわけでは無い。

 魔術師が強力な存在だと理解してはいても、その基準はあくまでアレクフィナ達だ。



 故に、クロワの言っていた<魔女>の脅威も正確に認識できていなかった。

 魔術など、どこまで行っても人間の常識の範疇だろうと見積もっていたのだ。

 いくら凄いと言っても、所詮は個の武に過ぎないと。

 ……白状しよう。

 リデルは、魔術師も策次第で倒せると信じていたのだ。



『彼を知り、己を知れば、百戦してあやうからず』



 軍略の前提であるそれを、思い込みが忘れさせた。

 魔術師、恐れるに足りず。

 白状しよう。

 リデルは、魔術師と言う存在を侮っていた。



「な、な……な?」



 工場群で、ノエルが倉庫を崩壊させるのを見た。

 そこから、彼女が強力な魔術師だというのはわかる。

 わかっていた、はずだった。

 そのはず、なのに。



「あ、ああ」



 リデルは、怯えていた。

 初めて、魔術師と言う存在に純粋な脅威を覚えた。

 地面に肘を立て、うつぶせに倒れた身を起こす。

 土の臭いが離れ、押し付けていた頬からパラパラと黒ずんだ土が落ちていった。

 そして彼女の目の前には、先程までとはまるで違う光景が広がっていた。



 石油の火は、跡形も無く消し飛んでいた。

 それどころでは無い、地面が無い。

 まず、自分の周囲は広場の中心に向けて緩やかに下がっていた。

 つまり、陥没して(クレーターができて)いたのだ。



「こ、こんな、こんなの……!」



 巻き上げられた土砂は石油と火ごと埋め、さらに深く沈んだ地面に引き込まれるように、周辺の建物は全て倒壊していた。

 土砂と瓦礫の間から、土埃に乗って僅かに石油の臭いがする。

 地面の上にいた全ての者が倒れ、姿を消し、築き上げた囲みは一瞬で消えてなくなった。

 問題は、規模だ。



(こんなの、人間技じゃない)



 このクレーターは、広がりの果てが見えなかった。

 最も深い所で地表から数メートル下がっている、それが周囲1キロ、いやもしかしたら2キロだろうか。

 その範囲の地面の上にあるものは、全て崩れていた。

 木造も石造も関係ない、何もかもが姿を変えてしまっていた。

 まるで、地震でもあったかのように。



 人間の、それもただ1人の人間がここまで光景を変えられるものなのか。

 今までそこにあったものを、一瞬の内に破壊できてしまうものなのか。

 何という理不尽、このレベルの魔術師が1人いるだけで戦争は終わってしまう。

 何の力も無い者がこれを見れば、神の化身か悪魔の申し子かと信じてしまうだろう。

 ――――フィリア人の異常なまでの恐怖と畏怖の根は、ここにあったのか。



「さぁ」

「ひっ……」



 視界に金属製のブーツを履いた足が見えて、リデルはビクリと身体を震わせた。



「さぁ、軍師気取りもここまでです」



 顔を上げた先に、あの<魔女>がいた。

 旧市街に地震を引き起こし、その一部をごっそりと崩壊させた女。

 魔術師ノエルは、直前と少しも変わらぬ様子でそこにいた。

 すなわち冷たい笑みを浮かべたまま、金糸紫眼の少女を見下ろしている。



 リデルは震えた、彼女と言う存在が純粋に恐ろしかった。

 1人で、一瞬で街を破壊できるその力が、もし自分に降りかかったなら。

 そう想像して平然としていられるような人間は、おそらくこの世にいないだろう。

 そんな彼女の耳にノエルの機械的な声が入って来た、平静でない今のリデルはその意味を解するのに時間がかかったが、確かにノエルはこう言った。





「――――公女殿下」





最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。

一週間ぶりですが、だからといって展開が変化するわけでもなく。

今後もこのように、稀に投稿できない場合がございます。

読者の皆様にはご迷惑をおかけすることになるかとも思いますが、何分、リアルの都合ということもございますので……。


今後とも、変わらぬご声援を頂きますよう、お願い致します。

それでは、また次回。


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