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4-4:「石の油」

 新市街、総督公邸。

 新市街――より言えば、大公国の属国としてのフィリアリーン全域を統べるその建造物には、当然、本国との間で意思疎通を行うための直通回線ホットラインがある。

 フィリア人の常識で言えば、遠隔地間で意思疎通を図るには手紙しか無い。



 しかしソフィア人は違う、彼らは遠隔地にいながらにして会話をすることが出来る。

 総督公邸内に部屋は数あれど、この部屋以上に重要な部屋は無いだろう。

 彼女が今いるのは、そう言う空間だった。



『同志ノエル』



 さざ波の中で、掠れ声のような高い声が聞こえた。

 先に旧市街北の工場群に現れた彼女――首の後ろで茶色の髪を束ねた、鷹の眼の<魔女>――は、その声に顎先を上げた。

 どうやらそこは部屋の内で最も奥ばった壁のようで、壁の四点に大ぶりな<アリウスの石>が備わっている。



 四点から金属製の枠が伸び、枠内に薄く赤い膜のような物が形成されている。

 まるでそれは血の鏡のようにも見え、そしてその中に1人の女の姿が映し出されていた。

 頭の後ろでアップに纏められたボリュームのある金髪に、薄い眼鏡の奥で光る菫色の瞳。

 襟元まで閉じるタイプの衣装はローブと軍服の混合服で、その手には金属で出来た本のような物を持っていた。



『報告は聞きました』



 女の言葉に、ノエルと呼ばれた彼女は頷いた。



『委細を任せるとの要請でしたが、同格の<魔女>として要請内容を変更します』

「どのように?」

『――――委細を「全て」任せます』



 映像の向こう側で、女が指先で眼鏡を押し上げるような仕草をした。



『我ら<魔女>はすべからく、各々の<魔女>の判断に異論を挟まぬのが慣例です。公王家と協会の協約に反さぬ限り、委細は全て<魔女>の判断に委ねられます』

「事が協約に関わることだとしても」

『協約は神聖であり、慣例は絶対です』

「良くわかった」



 その言に揺るぎは無い、故にノエルは頷いた。

 頷きを見て、映像の向こう側の女も頷く。



「協約は神聖であり、慣例は絶対」



 何故かノエルはその言葉を繰り返した、画面の向こう側の女が押し上げた眼鏡の中の瞳を細めるのがわかる。

 そして、声が届く。



『同志ノエル、貴女の判断は<魔女>全員の判断に等しい。そのことを忘れないように』

「わかっている」

『ならばよろしい。では――――「大魔女ソフィアの黒闇こくあんもとに」』



 そうして、映像は消えた。

 エネルギーの供給が止まったのか、部屋全体の照明が落ちる。

 闇。

 真っ暗な闇の中で。



「『大魔女ソフィアの黒闇の下に』」



 菫色の一対だけが、射抜くように輝いていた。



  ◆  ◆  ◆



 ここの所の旧市街の匂いを嗅いでいると、ふと昔を思い出してみたくなる。

 それはまだアーサー自身が「王子」などと呼ばれるようになるよりも前、彼がまだ純粋にクルジュの路地を駆け回っていた頃のことだ。

 あの頃、クルジュには豊かな匂いがあった。



「あーい、並んだ並んだー!」

「まだまだたくさんあるんだ、焦らなくても大丈夫だよー!」



 それは、レジスタンスの炊き出しだった。

 季節外れの暑さに見舞われた今日、それでもヴェルラフ通りには長蛇の列がある。

 茶や黒の髪の老若男女が、埃っぽい通りの上にズラズラと列を作る姿は壮観ですらあった。

 共通しているのは、誰も彼もが木製のお椀を持っていることだろうか。



 もちろん、列を崩そうとする者もいる。

 腕力が強く我も強い者などは、他人を押しのけてでも先へ進もうとするだろう。

 そうした者は、列を見守るレジスタンスによって排除させる。

 彼らは一足先にありつけているから、慌てることなく列を見守ることが出来る。



「良い匂いですね」

「まぁね。でも茹でただけだから、量が増えただけで味はそれ程でもない」

「それでも、久しく無かった匂いですから」

「それはまぁ、その通りだな」



 列の後方から前へ、アーサーと連れ立って歩いていたマリアが苦笑する。

 だがその笑みは幾分か明るい、無理も無い。

 はたして何年ぶりだろうか、旧市街で炊き出しだなどと。



「はいおまちっ、不味いけど量だけはあるぜ!」

「でもおかわりは無しだぜ、皆平等だ!」



 レジスタンスきってのお調子者の2人の声も、今日はやけに威勢よく聞こえる。

 鼻を突くのは、煮込まれたり蒸されたりしている穀物の匂いだ。

 昔は貧しいながらも良く嗅いでいた匂いだが、ここ久しく付き合いが無かった。

 旧市街に、皆で分け合えるだけの食糧があると言う状況など。



「食糧を全部レジスタンスで管理するなんて言われた時は、どうなるかと思ったけど」

「意外と上手くいきましたね」

「わたしはヒヤヒヤしたよ」



 すんすんと鼻を鳴らせば、炊き出しの匂い。

 長い空腹に喘ぐ者が嗅げば、当然、理性を投げ捨てがっつきたくなるだろう。

 それを御すためには、抑える役が必要だ。

 だからまずレジスタンスに十分食べさせる。

 十分に食べている人間はそうでない人間より冷静で強いから、抑え役には最適だ。



「ディスが見たら、喜んだだろうな」

「……そうですね」



 その時のマリアの表情を、アーサーは見なかった。

 それが礼儀だと思ったし、彼自身、今は亡き幼馴染に思う所が無いわけではなかったのだ。

 だから彼は数瞬の間に考えをまとめ、それからそっとマリアから離れた。

 つまり、フィリア人達の列から離れたのだ。



「どこへ行く?」

「リデルさんの所ですよ、そう言えば呼ばれていたのを思い出した」



 リデル、新市街唯一のソフィア人の名前を出すと、未だにマリアは片眉を上げる。

 だが彼女だからそのレベルで落ち着いているのであって、他の人間であればもっとあからさまな反応をしたであろう。

 ただここの所の出来事は、フィリア人達からリデルへの警戒を和らげるのには十分だったが。



 そのリデルだが、普段はやはり地下に篭っていた。

 厳密には地下のアジトに用意された彼女の部屋であって、リデルはそこで日夜何かしかの策を練り続けているのだ。

 机上で物事を考えがちなのは、おそらく島で1人、本を相手に思索にふけっていたことと無関係では無いだろう。



(晴耕雨読な生活だったでしょうしね)



 島での彼女の生活の一部を垣間見つつも、足は止まらない。

 今さら迷う道でも無い、彼はさほど時間もかけずにリデルの部屋の前まで来た。

 そして、律儀にノックなどする。



「リデルさん、入りますよ」



 ちなみに、返事は待たない。

 考えることに没頭している彼女に返事など期待してはいけないと、この1ヶ月以上で彼は学んでいた。

 未だに少し抵抗はあるものの、アーサーは大して間を置かずに部屋の扉を開けた。



「何をおいても、まずは「食」です」



 すると、明らかにリデルの物では無い低い声がアーサーを迎えた。



  ◆  ◆  ◆



 リデルにとって、未知の知識ほど食指を刺激されるものは無い。

 外の世界は、そうした物の宝庫だ。

 街並み一つ村一つ、川一つ山一つ、畑一つ川一つ見るだけでもそうだ。

 そこには、彼女の知らない何かが常にあった。



 まして、「他人」と言う存在の刺激と言ったら無い。

 何故なら彼らはリデルが体験することの無い経験を持ち、経験の連なりによって重ねられた知識には感動すら覚える。

 そしてその全てを、リデルは己の内に取り込もうと貪欲だった。



「何を置いても、まずは食です」



 今、その貪欲さはウィリアム・フォルカークと言う男に向けられていた。

 かつてこの国の中枢にいた彼は、地下に10年潜っていたとは思えない程に思慮深かった。



「食の後に兵があることはあっても、兵の後に食があることはありません」

「そうね、工場群で得た食糧にも限りがあるわ。5万人が何ヶ月も食べていける程じゃないもの」

「それでも、まずは十分に食べさせ、力をつけさせることです」



 食べなければ力は出ない、頭だってまともに働いてくれなくなるだろう。

 リデルだってそうだ。

 お腹を空かせた状態より、十分に食べ、休息を取った方が良いに決まっている。

 机の隅の木製のお椀がその証明であり、彼女は外の炊き出しと同じメニューを食べていた。

 他人と同じ物を食べると言う行為もまた、彼女にとっては尊いものだ。



「そして体力をつけた後、まずは野山や近隣の平原から自然の恵みを集めさせることです。同時に農事についても調査を始めましょう。最初は野菜屑から野菜を育て、家々に菜園を持たせて自給させ、やがて稲や麦を整えるのが良いでしょう」

「それだと、しばらくは街の人が食べ繋ぐためだけになっちゃうわね」

「何事も始めが寛容です。また野山で得た野豚や動物はすぐに潰さず、家畜として持ち帰させるのです。最初は小でも、育てれば大となりましょう」



 なるほど、そうやって少しずつ食糧を積んでいくのか。

 軍略はともかく、農事について疎いリデルは素直に感心した。

 野で得たものをすぐに食べるのでは無く、残して育てると言う方法もあるのか。

 島で自給し、己の死期を悟った動物や魚ばかりを食べてきたリデルには思いつけない方法だ。



「私達の活動の原資はどうすれば良いと思う? いずれ国を名乗るなら、税収とか必要だと思うけど」

「徴税については、最初は労務や現物による徴収にした方が良いでしょう。旧市街に貨幣は徴収できる程出回ってはおりませんから。ソフィアの搾取に喘いできた民衆からすれば、それだけで身軽に感じることでしょう」



 普段はともかく、知識を得る時のリデルは素直だ。

 薄暗い部屋の中、机に座るリデルとその傍らに立つウィリアムのことを見つつ、アーサーはそんなことを思った。

 彼女らが話しているのは、今後の旧市街に関することだ。



(随分と楽しそうですね)



 部屋に入ったは良いが、なかなか話しかけずらい雰囲気だった。

 一見すると、家庭教師と良家の令嬢のようにも見える。

 農事や税務を含んだ「まつりごと」の知識は、リデルにとっては物珍しいことだろう。



「おや」



 いつもはリデルの傍にいるリスと蛇が、部屋の隅で丸くなっていた。

 鳥はまたどこぞを飛び回っているのだろうが、この2匹は旧市街の臭いが苦手なので、大体はリデルの肌に触れる位置にいるのだが。

 チロチロと舌を出し入れする蛇の様子が拗ねているようにも見えて、アーサーは苦笑した。



 そしてふと、自分の内にも何か、穴が開いたような心地があることに気付いた。

 ふむ、と考えてみれば、答えはおのずと出てくるような予感があった。

 とは言え、思索はそれほど得意なわけでは無い。

 リデルとウィリアムが話し込んでいる中、さてどうするかと腕を組んだ所で。



「ちょっとアーサー、何してるのよ」



 不意にそのリデル本人に声をかけられて、はたと顔を上げた。

 するとそこに、不機嫌そうな少女の顔がある。

 彼女は自分の向かいにある椅子を示すように、机をバシバシと叩いていた。



「早く来なさいよ、アンタがいないと始まらないんだから」

「いや、かなり話を進めてたじゃないですか」

「五月蝿いわね、旧市街ここの旗頭はアンタでしょうが」

「おや、初耳ですね」

「アンタね……」



 アーサーは、己の心の内が少し軽くなったと感じた。

 それは本人にとっても、少し意外ではあった。

 しかし思い返してみれば、これまでリデルの問いを受け取るのはアーサーの役目だったのだ。

 しかもこの1ヶ月以上ずっとだ、不意に消えれば気にもなるだろう。



「ふむ、個人的には疑念が晴れて満足ですね」

「私は何も満足してないんだけど!?」



 憤慨したようなリデルの声に、アーサーは「あはは」と笑った。

 彼にとって、これはもはや日常の一部だった。



  ◆  ◆  ◆



 リデルとの今後の議論に加わった時、アーサーは強い視線を感じた。

 少女を除けばここには1人しかいないのだから、それが誰の視線かなど論ずるまでも無い。



「何か?」

「いえ」



 問いかければ、目を伏せ首を横に振られた。

 それでもウィリアムはじっとアーサーのことをじっと見つめていた、一回りも年上の男性にそうまで見つめられれば、流石に無視も出来ない。

 王の家に生まれた青年と、伯爵の家に生まれた男。

 気が付けば、2人はリデルを間に挟んで見つめ合っていた。



「思えば王国が健在であった頃、宮殿にて何度か貴方をお見かけしたことがあります」

「そうですか。申し訳ありませんが、僕は当時ほんの子供だったもので」

「ええ、随分と……ご成長なされましたな」

「いえ、特に成すわけでもなく。身体ばかり大きくなっただけですよ」

「人の頭の上で会話するのやめなさいよ、噛ませるわよ」



 最初に比べると随分と人見知りしなくなったな、いや慣れただけか、アーサーはそんなことを思った。

 しかし一方で、ウィリアムの視線は今度はリデルへと向けられた。



「リデル嬢、一つよろしいか」

「何よ、塩の質をこれ以上下げるのは嫌よ」

「それは私も同じ思いです。いえ、一つ腑に落ちないことがありまして」

「腑に落ちないこと? 何?」



 リデルが振り返り気味に顔を見れば、ウィリアムは淡々とした表情を向けてきていた。

 表情からは心情を読み取ることは出来ない。

 ならば、言葉のみが発した人間の心情を語るものとなる。



「貴女は何故、旧市街ここにいるのでしょうか」

「ウィリアム、私は婉曲な表現は嫌いよ。するのは好きだけど」



 そんな我侭なことをのたまいながら。



「はっきりと言えば良いじゃない、ソフィア人の私がフィリア人の味方をするのかって」



 島育ちで、ソフィアとフィリアの確執の価値観に触れずにいたからか。

 島を襲ったソフィア人が、自分が大切にしていたものを焼いたからか。

 島を訪れたフィリア人が、自分を外へと連れ出してくれたからか。

 いずれも正しく、そしてそのいずれもが間違っている。



 思えば、この問いかけは最初からリデルの傍にあった。

 最初は敵に問われ、そうでない者に問われ、今では味方であるはずの者達にも問われている。

 いや、問うてこない者達も誰もが思っているはずなのだ。

 彼女は何故、ソフィア人でありながらフィリア人に与するのか?



(そういえば、つい最近クロワにも似たようなことを聞かれたわね)



 先の戦いで、敵を率いてきた女に敗れた旧市街の最高戦力。

 彼もまた、リデルにある問いを投げかけてきた。

 何故、戦うのか。



  ◆  ◆  ◆



 ――――少し、時間を遡ることになる。

 工場群から敵が消え、フィリア人達が食糧を運び出していた頃のことだ。

 気を失っていたクロワが、比較的すぐに意識を取り戻した。



「彼女は、私の師だ」



 そして事の外あっさりと、クロワはそんなことを言った。

 荷車に穀物の麻袋を乗せるフィリア人達の音を耳に入れつつ、リデルは両膝をついた。

 後ろにはアーサーが立ち、目の前にはクロワが貯蔵庫の壁に背を当てる形で座り込んでいる。

 どことなく心配そうなその視線に、クロワは僅かに笑みを漏らす。



「情け無い所を見せた」

「良いわよ、そんなのアーサーで見慣れてるから」

「え?」



 心外そうなアーサーはとりあえず無視して、まずは先を促す。

 師、師匠、つまり師弟。

 それを受けて、クロワは天を仰いだ。



「そもそも、魔術とは独学で得られる技術では無い」

「そうなの?」

「ソフィアの血筋と<アリウスの石>があれば、魔術は使えますよ」

「使えると言うことと、扱えると言うことは違う」



 ふむ、と頷いて。



「まぁ、アーサーの魔術がしょぼいってのは前から思っていたけど」

「僕かなり助けてたと思うんですけど」

「前にも言ったでしょ、アンタの魔術って主人公っぽく無いのよ」

「別に主人公は目指してませんよ……」



 クロワによると、彼を倒したあの女の名は「ノエル」と言うらしい。

 師弟と言う割には年齢がそう離れてはいない印象だったが、魔術師の間では普通なのだそうだ。

 基本的に魔術師は師から基礎を学び、発展させることで一人前とされる。

 クロワが水晶の大剣を操り、かつ折れも砕けも欠けすらせずに大地を割れるのは、そう言う魔術を使用しているからなのだと言う。



 破壊されず、腐りも弱りもしない。

 それは確かに普通ではあり得ないことで、凄いことなのだろう。

 しかし、それはそれで。



「地味ねぇ」

「…………そうか」



 何かアーサーが生暖かい目でクロワを見ているが、感想としてはやはり地味だった。

 魔術というご大層な名前の割に、リデルが知るそれらはまるで地味だった。

 確かに異常で超常かもしれないが、それでも神の如く恐れるべきものでは無い。

 フィリア人があれほどに恐れる必要は無い、そう思えてしまう。



「だが、私の魔術も結局は紛い物」

「紛い物?」

「いや、もしかしたならば――――本当の意味で魔術と呼べるのは、7つしか無いのかもしれない」

「ちょっと」



 かすかな苛立ちを込めて、問う。



「その7人を、私達は<魔女>と呼んでいる」

「<魔女>?」



 <魔女>、魔術に比べればどことなく重さが違うようにも思うが。



「<魔女>ってことは、女の人なの?」

「いや、男性もいる。<魔女>と言うのは魔術師達が使っている呼称だ。協会の創始者にちなんでとのことだが、詳しくは私にもわからない」

「ふーん、で、その<魔女>って言うのの1人が、あのノエルなの」

「そうだ、そして」



 顔を上げ、告げた。

 核心の部分を。



「キミは、いや、我々は、彼女には勝てない」



 勝てない。

 そう断言するクロワの目に、冗談の色は無い。

 つまり本気だ、そして言っているのがクロワだからこそ深刻だった。



 彼はソフィアとフィリアを区別しない。

 つまり彼が「勝てない」と言うのならば、それは純粋な戦力分析によるはずだ。

 しかも、それはソフィアとフィリアの技術格差によるものでも無い。

 もしそうなら彼はもっと早くにそう言っていたはずだ、つまり。



「そんなに危険なのですか、そのノエルと言う女性は」

「勝てない」



 アーサーの言葉にそう断言して、クロワは重ねて言った。



「それでも、キミは戦うのか」



 そもそも、何故。



「キミが戦う理由は、何だ?」



 ――――何のために?



  ◆  ◆  ◆



「私はね」



 ビッ……と、地図の上、旧市街と新市街の境界の川に線を一本引き、リデルは言った。

 木の枝を細かく裂いて作った筆に油煙ゆえんにかわを混ぜて作ったインクをつけ、地図の上に線や文字を書き込んでいく。



「難しいことを考えるのは好きよ、でも、わざと難しくするのは嫌い」



 どうしてフィリア人のために戦うのか、とか。

 どうして旧市街の味方をするのか、とか。

 そう言うことでは無いと、リデルは思う。



「もっと簡単な話でしょ。ソフィア人がフィリア人を差別する、理不尽に奪いに来る。だから戦う、それだけでのことじゃない」



 動物の世界に、差別は無い。

 食べ食べられる関係、弱肉強食に見えて互いに活かし合う関係が自然と言うものだ。

 鱗の色が違うからと、それだけの理由で群れから嫌われる魚がいないのと一緒だ。

 もちろん餌を取るのが上手い魚がいれば、下手な魚もいるだろう。

 だが、そこに結果はあっても差別は無い。



 魚だけでは無い、鳥も、獣も、皆がそうだ。

 植物でさえも、もしかしたらそうなのかもしれない。

 だから島を出て外に出た時、リデルは衝撃を受けたのだ。

 互いを活かし合うことをせず、互いに相喰らうフィリア人。

 そしてそのフィリア人を虐げるソフィア人の姿は、リデルには理解しがたいものだった。



「戦わないことが最上よ、でも向こうが攻めてくるならその限りではないわ」



 不当に奪い取ったものを返さないと言うのであれば、またその限りでは無い。

 ソフィア人は悪!

 理不尽に虐げられる者達を守る、ただそれだけで戦う理由になる。

 リデルにとっては、ただそれだけのことのように思えた。



(――――危うい)



 アーサーはそう思った。

 幼い正義感と言えばその通りだろうし、アーサーにしてみれば好ましい反応と言える。

 フィリア人の惨状を見、そしてソフィア人の傲慢さを見た。

 見せた。



 <東の軍師>の遺産を持つ彼女がフィリアのために戦ってくれるのであれば、それはアーサーにとっては良いことだ。

 むしろ、そのために連れてきたはずだ。

 だが、何故だろう。



「…………」



 じっとこちらを見つめるウィリアムと、アーサーは視線を合わせなかった。

 この一回り年上の元伯爵が何を考えているのかわかるような気がしたからか、それとも彼の瞳に己の心の内を見たからか。

 しかしいずれにしても、アーサーの行動は変わらない。



 窮地にあるフィリア人を救うには。

 彼自身の望みをかなえるためには。

 彼女と言う「頭脳」が、どうしても要るのだから。

 だから彼は、己の行動を変えない。



「でも、アレよねぇ……」



 筆の先で頭を掻きながら、リデルが言った。



「何か産業でもあれば良いんだろうけど、何も無いしね。農業とかじゃ時間かかるし……鉱業とかがあると良いんだけど」

「……それならば、一つ心当たりが」



 アーサーから視線を外し、目を伏せながらのウィリアムの提案。

 その提案に、リデルは目を丸くした。



  ◆  ◆  ◆



 ウィリアムが案内したのは、旧市街の地下道だった。

 しかし他の道と違って削りが粗く、途中で放棄された様子だった。

 作ったのはもちろん、ウィリアムだろう。



「何? ここに何があるのよ」

「随分と深い位置にある場所ですね」

「ここでお待ちを。松明は危ない」



 思ったよりも浅い位置にあるが、どうやら下へ向かっているようだ。

 木の板で封印されていた道を開く、と、ムワッとした空気と共に酷い臭いが漂ってきた。

 鼻の奥をツンとさせ、目が痛む程の刺激臭。

 思わず口元を押さえ、涙さえ浮かぶ目で地下道の奥を睨む。



「な、何よここ、嫌な臭い……!」

「少々お待ちを」



 穴の中に潜り込み、闇の中に姿を消すウィリアム。

 リデルはアーサーに身を寄せ、肌の上で悶える蛇を衣服の上から撫でた。

 すると、思ったよりも早くウィリアムが戻って来た。



 彼は衣服や顔を黒ずんだ液体で汚していた、そして手に持っている木の板を掲げて見せてくる。

 何かと思って見てみれば、それは黒くてドロリとした液体だった。

 非常に粘り気が強いようで、強い異臭を放っている。

 どうやら臭いの元はこれらしい、リデルとアーサーはウィリアムを見た。



「これは?」

「油です」

「油? 魚油のことですか?」

「違う」



 それを松明の火に近づけると、急激に燃え上がった。

 ぼっ、と音を立てたかと思えば、松明よりも遥かに強い火が揺れ始めた。

 それは見るからに長く保ちそうな火勢で、煌々と地下道を照らすそれに2人は目を奪われた。



「この奥に、このような油が滲み出す岩があるのです」

「岩?」

「岩から、油が出来ているの?」

「それはわかりません。ただ、岩の間からこのような油が染み出てきているのです。数年前、地下道を掘り進む過程でいくつかこのような場所を発見しました。全て封印を施してあるので、知っているのはこれまで私だけでした……非常に燃え易く、先の戦いの際の大火の時は、肝を冷やしたものですが」



 岩から滲む油、動物や植物から油を取るのが普通な世では非常に珍しい。



「石から漏れる油、と言うことで……私はこれを「石油せきゆ」と呼んでいます」

「石油、ですか。ですがこれが、どう産業になると?」

「それは」

「凄いわ」

「え?」



 疑問符を浮かべるアーサーの隣で、酷い臭いに辟易している様はそのままに、リデルは言った。

 爛々とウィリアムの持つ「石油」を視界に入れ、興奮を隠そうともしない。



「これはきっと凄い発見よ、アーサー」

「は、はぁ、何故です?」

「細かいことは私にだってわからないわよ、ただね、そう思うの」



 興奮の笑みのままに、彼女は言った。



石油これはきっと旧市街を……ううん、世界を変えるわ」



 世界を変える資源、石油。

 アナテマの歴史上、産業として産声を上げるのはこれが始めてのことだった。



  ◆  ◆  ◆



 リデルがウィリアムによって石油の存在を知ってより、さらに3日の後。

 工場群の戦い以後、クロワは河岸に侍り対岸を睨み続けていた。

 自然、彼を慕う部下達も傍にいることになる。



 何故、そうしているのか。

 それは彼が知っているからだ、工場群で出会った彼の師は、必ず正面から来ると。

 そして、今日。



「シャノワ」

「はい」



 呼べば、人の間か音も無く出てくる少女が1人。

 ハーフテールの毛先を揺らしながら、彼女はクロワの傍に寄った。



「リデル殿とアーサー殿に伝令を」



 視界の先、新市街の側から殺到してくる船団。

 奇襲を狙う速度でもなく、夜襲を狙う時間でもない。

 正面から、堂々と。



「敵が来た、直ちに体勢を整えてほしいと」



 後の世で第二次旧市街防衛戦と呼ばれることになる戦いは、こうして始まった。

 この戦いもまた、歴史の上で語られることとなる。

 後世において、<五軍の軍師>と呼ばれることになる少女の、歴史上の一歩として。


最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。


突然ですが、次週の投稿はお休みさせて頂きます。

次週は1週間リアルで外出せねばならず、執筆に割く時間が取れそうにないためです。

読者の皆様にはご迷惑をおかけしますが、次回の投稿は6月20日金曜日18時となります。


それでは、また次回。


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