4-3:「工場の戦い」
旧市街から北上すること2キロの位置に、それはあった。
柵と鉄製の網の中に敷地があり、その敷地だけで旧市街よりもなお広い。
鉄柱が幾重にも重なり走る工場と物資を収める建屋が延々連なるその姿は、夜の闇と相まってどこか化け物じみて見える。
(――――おかしい)
夜闇の中に浮かぶ巨大な建造物群を前に、リデルは指先で顎を撫でた。
月夜の晩、夜陰に乗じて旧市街を出立した彼女は、200人のフィリア人を連れてきていた。
身なりは良くないが、瞳に元気さを灯した200人だ。
彼らは皆、この2週間クロワの訓練を受けていた者達だ。
素人以上軍人以下と言った具合だが、旧市街にとっては貴重な戦力だった。
「ねぇ、アーサー」
「はい、何でしょう」
右にいるアーサーに声をかける、するといつものように明快な答えが返ってくる。
ちらと視線を向ければ、やはりいつも通りの微笑がそこにある。
そのことに少しほっとして、しかしすぐに厳しい顔に戻る。
視線の先にはやはり、あの工場群がある。
この工場群は、対岸南部の新市街に加工食品を供給するための工場だ。
以前の話の中でも少し出たが、川の汚染はこの工場から出る排水が原因である。
そしてこの工場群、旧市街から連れ去られた数千人のフィリア人奴隷が働いている。
つまりそれだけの人間がいるはずであって、夜であろうとその気配を消すなどと言うことは出来ない。
しかしだ。
「……静かすぎない?」
「静か過ぎますね、明らかに」
音一つ無い、それほどに静かだった。
リデル達が今いるのは、工場群の側――旧市街と新市街を隔てる川の上流――を流れる川の畔だ。
彼女らは薄く茂る草葉の中に身を潜め、湿りのある地面の上に座り、じっと丘の上に建つ工場群を見上げている。
「奇妙だわ」
マリアに聞いた所では、この工場群は昼夜を問わず稼動しているらしい。
そうでもしなければ新市街数万人の需要を満たせないのだろう、そこは理解できる。
リデルは工場と言う物を直に見るのは初めてだ、もっと言えば本の中でしか知らない。
それもどちらかと言えば工場であって、ここのような工場では無い。
だからこそ、人の気配もせず灯も消えたこの工場群の様が異様に見えるのだ。
「では退くかね」
リデルの左に在り、かつ200人を訓練したクロワが言った。
彼自身は普段と何一つ変わることの無い雰囲気でそこにおり、まるでここが旧市街の広場なのではないかと勘違いしてしまいそうだ。
「危険と感じたら退く、まだ見足りない聞き足りないものがあるなら進めば良い」
「……そうね」
見た、来た、だがまだ何も成していない。
(それなら、何も怖がる必要は無いわね)
右を見る、そこにはアーサーがいつもの通りにそこにいた。
きょとんとした顔をしているのが何だか腹立たしいが、まぁ、問題は無い。
それだけがあれば、それで良いのだ。
「皆を集めて。周りの様子を聞いて、特に何も無いなら――――中に潜入るわ」
◆ ◆ ◆
建物の壁に手をつき慎重に進みながら、リデルは周囲を窺っていた。
彼女は今、仲間をいくつかのグループに分け、自身は本隊を率いて東側から潜入していた。
そこは労働者達の収容施設が集中している場所で、リデルの目的の一つだった。
それにしても、、本当に巨大な建物だ。
ひんやりと冷たい宿舎の壁は鉄製、だがこんなに薄く強靭な鉄の壁は始めて見る。
しかもそんな大きな建物が10、20と連なっているのだ、同じ形のそれが並ぶのは異様ですらある。
道には高い位置に灯りが設置され、火を活用しないらしいそれはどんな原理なのか想像も出来ない。
地面には薄く切られた白石が地面に埋め込まれる形で敷き詰められていて、その均整の取れた配置は旧市街には無い特徴だった。
「……やっぱり、静か過ぎる」
工場の中に仲間達を散らせたのは、集団でぞろぞろ動くことを危惧したと言うよりは、とにかく工場内にいるはずの人間を見つけることを優先した結果だ。
数千人と言う人間が生活している空間の割に、その気配がまるでしない。
不思議と言うよりは、不気味だった。
「ねぇ、えーと……カリス!」
「は、はいっ」
仲間の中からおどおどと姿を見せたのは、旧市街で地図を作らせたら右に出る者はいないと評判のカリス・トリィズンだ。
本来ならこう言った前線に連れてくるべき人材では無いが、地勢に詳しいと言う一点をリデルは重視していた。
「この地図、合ってるのよね?」
「せ、正確では無いかもしれませんけど。でも、に、逃げ出した人とか、斥候とか、聞ける範囲で描いた地図です」
「周辺の地勢も、間違いないのよね?」
「ま、周りについては、僕も歩いたことがあるので、だ、大丈夫、のはずです」
外は詳細だが内部が概要だけになっているのはそのためか、事前に用意した工場群周辺の地図を手にリデルは頷いた。
ただ内部に関しては、リデルは3つの物の位置が大体わかればそれで良いと考えていた。
労働者の宿舎と、ソフィア人の詰め所、そして物資――食糧の貯蔵庫だ。
(でも、ソフィア人はもちろんフィリア人も1人もいない)
もぬけの空、だ。
一瞬「空城の計」――あえて城を空け放ち、警戒させて撤退させる策――かと思ったが、弱小の極みであるリデル達にそんなことをする意味があるとは思えない。
ならば、撤退?
それはそれで、あり得なくは無さそうではあった。
旧市街の自立宣言の後、この工場群をソフィア側が放棄する。
ソフィア人の様子を知るリデルとしては俄かには信じ難いが、まぁ、無理矢理納得は出来る。
ならばどうして、フィリア人労働者の姿が見えないのか。
「スンシ曰く、『智将は務めて敵に食む』」
「は、はい?」
「まぁ要するに、相手にご飯を用意してもらおうってことよ」
「そ、それって要するに泥ぼ……す、すみませんっ、何かすみませんっ」
じろりと睨むと竦みあがって謝られた、そう言う反応が欲しかったわけでは無いのだが。
何となく不機嫌になり、距離を取ってくる仲間達から距離を取るように歩く。
そんなリデルを、旧市街の仲間達はどこか不安気な心地で見つめていた。
流石に1ヶ月以上を共に過ごしたおかげで、最初ほど怯えられることはなくなった。
だが両者の間に距離があることは隠しようがなく、それが未だ妙な「しこり」となって残っていることは確かだった。
やることは変わらない、が、小さく息を吐かざるを得なかった。
「おや、どうかしたんですか? こんな所で止まって」
その時だった、頭上から見慣れた顔が降りて来た。
1人仲間達から離れて工場群を偵察していたアーサーだ、彼はリデルを見て微笑を浮かべていた。
それに対して、リデルはふんっと鼻を鳴らした。
何というか、ここに来て初めて見せる彼女らしい仕草だった。
「別にどうもしないわよ、さっさとご飯と人を持って帰るわよ!」
「ご飯はともかく人は持ち運び出来ませんよ」
「五月蝿いわね! 言葉の綾よ!」
「はぁ、なるほど」
敵が貯蔵している食糧を確保し、同時に経験豊富なフィリア人労働者を救いに行く。
そしてこれは、将来に来るべき戦のために必要な行動でもあった。
「将来の戦?」
「決まってるじゃない」
ふん、と気を吐くリデル。
彼女の頭には、次の戦いのための策がすでに完成していた。
「新市街解放戦よ」
「……!」
何と、と、アーサーは思った。
流石に他の者には聞こえないよう抑えた声音だったが、この娘は確かに言った。
新市街を解放、つまりは占領すると言ったのだ。
おそらく旧市街の人間でそんなことを考えているのは、リデルをおいて他にいないだろう。
新市街の占領は、旧市街の自立よりも遥かにハードルが高い。
(そんなもんじゃないわよ)
リデルはまだ、さらにその先を見ている。
ハードルの高さは百も承知、それでも攻め続けなければならないのだ。
挑戦する側が足を止めた時にどうなるか、リデルは過去の戦争史の中から知っている。
旧市街の安定にすでに1ヶ月を使っている、いい加減ソフィア人サイドからの反動があると見るべきだ。
そう、これは新市街解放と言うより大きな目的のための予行演習でもあるのだ。
いや新市街だけでは無い、クルジュだけではとてもやっていけない。
さらに前へ、さらに策を、リデルに止まるつもりは無かった。
とは言え、わずか200人ぽっちでそんなことが出来るとも考えていない。
そのためにも、上手くフィリア人労働者の協力が得られると良いのだが。
(まぁ……)
ちら、とアーサーの顔を見やりながら、胸の中に小さなしこりを感じながらも。
(アンタがそれを望んでいるのか、いまいちわからないけど……ね)
それでも今は、がむしゃらに進むべきだと自分に言い聞かせる。
父もそうしたはずだと、20年前の父はそうだったに違いないと。
リデルは、そう信じていた。
◆ ◆ ◆
リデルが工場群の端々に感嘆していることからわかるように、ソフィアとフィリアの間に横たわる技術格差は凄まじい物がある。
その一つが、「視界」の広さだ。
リデル達が肉眼で見なければならない物を、彼女らはより遠くから見ることが出来るのだ。
「あー、集まってきやがったみたいだな」
工場群より北にさらに4キロの平原、リデル達が捕捉出来ない位置だ。
しかし彼女らは4キロ先の工場群の様子を手に取るように知ることが出来る、アレクフィナの手にある道具がその証明だ。
金属製の箱のような物に赤い石が嵌められており、石の上にぼんやりと何かが映っている。
それは、工場群の内部の様子だった。
全体を映しているわけでは無く、路地の一つや建物の内部、あるいは大通りの一部を映している。
工場群の内部には送信用の<アリウスの石>が仕掛けられており、それが外部の受信用の石に記憶した映像を送ってきているのだ。
「アレクフィナの姐御! フィリア人の奴らをどこまで連れて行くんですかい!?」
「ふひひ、徒歩で行ける範囲なのかだぞ~」
「あ? アタシが知るわけねぇだろうがよ。こっちは命令でやってるだけなんだからよ」
パタン、と箱の蓋を閉じると映像も消えた。
アレクフィナが振り向いた先にはいつもの部下2人がいて、さらに彼らの向こうには。
無数の、「人間」がいた。
「しかしまぁ、本国の北東州までだって? そこに辿り着くまでに何人が生き残っていることやら」
「ここから北東州まで、100キロ以上ありますぜ!」
「ふひひ、しんどいんだぞ~」
囚人服のようなボロ布を纏ったフィリア人の男女――年齢層は比較的若く、男は体格が良く、女性は見目の美しい者が多いように感じられた――が、ぞろぞろと歩いている光景がアレクフィナ達の前に広がっていた。
その数、実に4000人を超えている。
肩を落とし俯いて歩くその姿は、夜の闇が彼らに圧し掛かっているかのようだった。
彼らはこれから、ソフィア人達の本国まで移動することになっていた。
その距離実に百数十キロ、しかも彼らはそれを全て徒歩で移動するのだ。
一方で彼らを監視するアレクフィナ達ソフィア人は大型の鉄馬車で移動する、魔術師まで存在している以上、「反乱は許さない」と言っているような物である。
「しかし意外とヤバかったな、王子様達がもう1日早かったら鉢合わせる所だったぜ」
「え? アレクフィナの姐御、あっちに行かないんで?」
「ふひひ、王子様とあの子はどうするんだぞ~」
「ああ? まぁ、アタシだって出来ればあの王子様と小娘を焼いてやりたいけどよ」
いつもの彼女らしくもなく、どこか歯切れが悪い。
彼女はぞろぞろと歩く4000のフィリア人奴隷を見て、微妙な表情を浮かべる。
今は大人しい彼らだが、旧市街の自立と言う情報を耳にしたのだろう、少し反抗的になっていたのは事実だ。
しかし、今やそんな素振りすら見せない。
何故なら、芽生えかけた自信を即座にヘシ折られたためだ。
そして彼らの心を折り、再び従順な奴隷へと引き戻した存在は、今もまだあの場に残っている。
だから、アレクフィナは工場群に行かないのだ。
「巻き込まれるのは御免だよ。それになぁ」
そこで初めて、アレクフィナは表情を変えた。
苦虫を噛み潰したかのような顔で、工場群の方角を睨んだ。
その顔は、隠しようの無い嫌悪感で歪んでいた。
流石に大声では言えないのか、吐息のような声で。
「たとえ<魔女>だって、あんな女の命令を聞くなんて嫌だね。だってあの女は――――……」
◆ ◆ ◆
旧市街には、食糧が無い。
水は地下水や川の水を使用することで何とかしているが、周辺の山々は5万の胃袋を満足させる程の食糧を供給してはくれない。
フィリア人達は、飢えと共にある。
「す……すげぇ」
「あ、ああ」
ごくり、と、生唾を飲み込む音がした。
そこは食糧の貯蔵庫、リデルがフィリア人労働者の宿舎と同じくらいに重視している場所だ。
倉庫内には穀物の詰まった麻袋が所狭しと積み上げられていた。
右から左まで数百メートルはある空間、2階部分までズラリと並ぶ穀物の山。
他の倉庫に行けば、加工された食品や他の食物が並んでいただろう。
埃と麻袋、そして穀物の独特の香りが入り混じったその空間に、2人のフィリア人が潜り込んでいた。
彼はクロワに従い、リデル達の反対側から工場群に潜入した者達である。
「く、食い物がこんなにたくさんあるの、俺、初めて見た」
「お、俺もだ。くそぅ、これが全部ソフィアの奴らの腹に入るのかよ」
「お、俺達には、一粒だって」
「俺、俺……」
ごくり、と生唾を飲み込む音は2つ。
2人で貯蔵庫の中に入り込んだ2人は、もはや元々の目的を忘れたようだった。
無理も無い、今この時ですら彼らは腹を空かせているのだ。
それが突然、今までの人生で見たことも無いような量の食糧を前にすれば仕方が無い。
「お、俺、俺、もう我慢できねぇ……っ!」
「あ、馬鹿! やめろ!」
「うるせぇ、いっぺんくらい腹一杯に飯を食いてぇんだよ……!」
我慢など出来るはずも無い、麻袋を破り、そこから床へと零れ落ちる麦へと顔ごと突っ込んだ。
殻ごと噛み砕き、ごくごくと嚥下して胃に流し込む。
嗚呼、美味い。
この世にこんなに美味い物があったのかと、男は感動すら覚え、涙を流して麦を貪った。
止めようとしていたもう1人も、目の前で麦を貪る様を見せられては堪えようが無かった。
床に零れ落ちた麦の山を手で掬い、跪くようにして被りついた。
一口飲み込めば、後はもう止まらなかった。
がつがつと下品に、しかし切実に口の中へ詰め込んでいく。
「うめぇ、うめぇよ……!」
「ぐ、う、ふぐぅ」
そして、改めて理不尽を呪った。
どうして、自分達は何も食べられないのか。
どうしてソフィア人達は、いつでも自由に食べられるのか。
フィリア人だから、ソフィア人だから。
そんな差で、どうして常に腹を空かせてなければならないのか。
そんな理由で、ソフィア人は飢えずに生きていけるのか。
2人にとって、それはあまりにも辛い現実で、だからこそ……。
「――――何をしている?」
だからこそ、そんな想いに囚われていたからこそ、気付かなかった。
その倉庫には、自分達以外の人間が最初からいて。
その人物が普通に歩いて近付いてきても、まるで気付くことが出来なくて。
「「――――ッ!?」」
2人が顔を上げた次の瞬間、視界に映ったのは赤の一閃だった。
それは視界の全てを切り裂くような、鮮烈な色をしていた。
そして、世界が崩壊する。
◆ ◆ ◆
異変に最初に気付いたのは、クロワである。
彼は崩落する倉庫のまさに目の前にいた、斥候で潜らせた2人が戻ってくるのを待っていたのだ。
「く、クロワ殿――――!」
「全員、私の後ろに」
どう言うわけかは不明だが、倉庫が真っ二つに割れた。
そしてその半分が、クロワ達のいる方へと落ちてきたのだ。
濁ったような音を立てて倒れてくる鉄製の壁を前に、しかしクロワに慌てた様子は無い。
長大な水晶の大剣を手に、正面の大地を斬り抉るように振り下ろした。
薄く赤い一閃が視界を裂き、迫り来る壁に激突した。
轟、と音を立て、倒れ来る鉄の壁が2つに分かたれた。
縦に裂けたそれは左右に広がるように倒れ、クロワと数十人のフィリア人を避けるように崩れ落ちた。
彼の肩に止まっていたリデルの鳥が、慌しくバサバサと羽ばたいていた。
「お、おおおおぉぉ……」
「す、すげぇえ……」
土埃と崩落の振動で身体を揺らしながらも、フィリア人達は口々に感嘆の声を上げた。
彼らの顔には憧憬の色が灯りつつあり、クロワに対する信頼の高まりを示していた。
クロワの持つ強さ、それが自分達を守ってくれるとの気持ちがそうさせていた。
彼の戦い方がいわゆる「魔術師らしくない」ことも、要因の一つではあるのだろう。
しかし、そう単純では無い事情と言うものもある。
クロワは混血だ、ソフィアとフィリアの間に生まれた混血児だ。
混血児はソフィア人からだけでなく、フィリア人からも差別されるのが常だった。
しかし今は、クロワが混血であることを問題にする者は誰もいない。
ソフィア人であるリデルの存在の影響もあるのかもしれないが、大きな理由は、先にも言ったように彼がフィリア人のために剣を振るっていると言う事実だろう。
「クロワさんは、本当にお強いですな!」
「いったい、どうしたらそんなに強くなれるんですか?」
「特別なことはしていない」
大剣の刃先を地面に刺しながら、周囲の声にそう応じる。
「単に、師が良かっただけのこと」
「師、師匠? クロワさんの師匠かぁ。凄くお強いんでしょうね!」
「強さだけでは無く、様々なことを教えて頂いた」
強さ。
フィリア人達が求めているのは、力と言う意味での強さだろう。
そうした強さだけを求められる関係、それが健全であるとはクロワは思っていない。
そもそも、彼はフィリア人の大義のためにここにいるわけでは無い。
リデルをアーサーの下に送り届けた以上、留まる必要も無い。
しかし彼は未だ旧市街に留まり、リデル達に協力している。
何故だろうか?
それは……。
「……!」
その時、クロワは視線を左右へと走らせた。
雰囲気が変わったことを悟ったのか、フィリア人達も不安げな顔で周りを見始めた。
濛々と立ち上る土煙が、晴れようとしていた。
「全員、構えを」
「は?」
「囲まれている」
肩からリデルの鳥が飛び立つのと同時に、水晶の大剣を抜き、横に振る。
すると土埃が吹き散らされ、視界が広がった。
そして、見えるようになった。
倒壊した倉庫、その残骸や瓦礫の間から覗く穀物の麻袋の山の上に立つ者達の姿を。
その何れもが軍服とローブの混合服、その意味する所はつまり。
「ひ」
「ひぃ……っ」
「うろたえるな!」
ともすればすぐに崩れ出そうとするフィリア人達を叱咤し、自らは先頭を保つ。
「彼女の策に従い、ただちに撤退だ! 定められた地点まで走れ!」
言いつつ、しかしクロワは内心で目を剥いていた。
何故なら彼らを取り囲んでいる一団は、ソフィア人ではなかったからだ。
着ている衣装は間違いなく大公国の魔術師のそれなのだが、違和感がある。
取り囲んでいる男女は全員、髪色が茶色と黒で、瞳の色が菫色だった。
(私と同じ存在、か)
しかし、意外に思わなかったわけでは無い。
クロワ自身にソフィアとフィリアを分ける意思は無いが、彼が知る限り、混血があの服を纏うことは出来ないはずだった。
おそらくは彼が新市街で牢に入っている間に制度が変わったのだろうが、それにしてもだ。
(……面倒だな)
誰も彼もが、何かしかの武器を持っている。
その全てが<アリウスの石>由来の物で、彼ら彼女らが自分と同じスタイルの使い手であることを示していた。
それはつまり、彼らが魔術師として「邪道」と呼ばれる存在であることを示している。
「……む」
撤退と言うよりは逃亡している仲間達を背に、クロワは片眉を上げた。
理由は2つ、まず包囲している十数人の混血魔術師が逃げる仲間を追わないこと。
だがこれは、何らかの理由を想像することが出来る。
しかし、もう一つは無視できなかった。
クロワの正面、つまり崩落の止まった貯蔵庫の中から姿を現した存在だ。
その人物、いや、「彼女」は。
(まさか)
今度は驚愕を素直に表に出した、それだけの価値があった。
大剣を握る手が一瞬震える程の衝撃が、クロワの身体を駆け抜けた。
まさに雷鳴とも呼べる衝撃に、クロワは目を剥いた。
「貴女は」
「――――ああ」
聞く者の心を凍てつかせるかのような、静かな声。
クロワはその声を聞いたことがあった、過去に、何度もだ。
なぜなら、クロワは「彼女」と数年の時間を共にしたことがあるのだから。
「不肖の弟子、ここ数年音信不通だと思ったら」
「彼女」は、クロワの師だ。
◆ ◆ ◆
聞こえてきた音は2つ、そして彼女の鳥が報せに来た段階でリデルは動いた。
工場群内を真っ直ぐに突っ切り、仲間を切り離しながらアーサーを連れて走る。
「アーサー!」
「はいはい」
ひょい、と抱き上げられるリデル。
それを当たり前のように行うアーサーは、特に表情を動かすことも無い。
しかし周りはぎょっとした顔をした、そんな彼らにリデルは言った。
「撤退よ! 一旦工場の外に出て、危なそうならさらに1キロ南下しなさい!」
「お、お2人は!?」
「私達は――――」
「はいはい、舌を噛みますよ」
リデルを抱えたアーサーが壁を駆け上がる、街灯を踏みつけ、建物の屋根の上に着地する。
がっくんがっくんと揺さぶられるので、リデルはアーサーにしがみ付く格好になる。
それに笑んだ後、アーサーはさらに跳んだ。
繰り返すこと3度、そして2人は目的地を視認した。
「――――!」
しかしてそこには、俄かには信じがたい光景が広がっていた。
まず、十数人の魔術師らしき男女がそこにいたこと。
そして、容姿からして彼らが全て混血であること。
さらに、何よりもまず2人を驚かせたのは。
「「クロワ(さん)!?」」
クロワの状態である。
彼は小さな穴――均整の取れた円形、クレーターとでも呼ぼうか――の中心にいた、しかもうつ伏せに倒れている。
いったいどれだけの衝撃があったのだろうか、均整にも関わらずその円の深さは2メートル近くにもなっていた。
ソフィアの技術で整備され、埋め込まれていた石を物ともせずに粉砕したのだろう。
そしてそれは、クロワごと成されたのだ。
顔を地面にめり込ませたクロワは、しかしリデルとアーサーの到着にも言葉を返すことが無い。
ピクリとも動かず、しかも何の反応も返さない。
土や小石が乗ったその背は、まるでもう生きていないかのようだった。
「お前が叛乱の扇動者か」
そして、そのクロワを踏みつけにする女。
女もまた、混血だった。
長く伸びた茶色の髪を首の後ろで束ね、細く鋭い菫の瞳は鷹のようだった。
声は、酷く冷たく抑揚が無い。
無駄な肉が一切付いていない細身の身体には、見慣れた軍服とローブの混合服を纏っている。
魔術師であることは間違いない、が、服の裾が所々破れていたりして、どことなく災害を潜り抜けてきたようにも見える。
そして何よりも異質なのは、足を覆うブーツだ。
金属製であるらしいそれには、<アリウスの石>由来の素材で構成されていた。
「囲まれていますね」
「……わかってるわよ」
舌打ちしたそうな心地で、リデルは周囲を見た。
今、2人は崩れたものの隣の倉庫の屋根の上だ、だから相手を見下ろす位置にいる。
そして2人を挟み込むように、魔術師らしき数人が屋根の端に上がってきていた。
仲間を切り離してきたのは、正解だったかもしれない。
(さて、どうしようかしらね)
リデルの知る限り、クロワはかなり強かったはずだ。
彼が魔術師としてどの程度のレベルなのかはわからない、が、少なくともあのアレクフィナをあしらえる程には実力があったはずだ。
それをどうやったかは知らないが、あの女は傷一つ負うことなく、しかも短時間で沈めている。
しかも、あのクレーター。
(三十六計、何とやら……と、行くべきなのでしょうけれど)
あの冷たい美貌の女は何者なのか、情報が無い。
クロワを見捨てて逃げると言う選択肢は、少なくともリデルには無かった。
新市街の牢から出してくれた恩を忘れるほど、大人になったつもりは無い。
「案ずるな」
不意に、女がクロワの背から足をどけ、こちらへと歩み寄ってきた。
足音と同じように、どこか金属を思わせる冷たい声だ。
どうしてだろう、リデルにはそれがとても不快に思えた。
「ここは我が大公国の領土、お前達は大公国の民だ」
姿が、消える。
特別なことでは無い、リデル達の位置からでは屋根の端が邪魔で見えなくなっただけだ。
そして、一旦屋根の上に乗った敵がさっと離れていくのが見えた。
何だ? と内心で首を傾げた、次の瞬間。
「故に潰さず、殺しもせぬ」
とてつも無い、傲慢さを備えた言葉と共に。
リデルは、自分達の足元が崩壊するのを感じた。
◆ ◆ ◆
一瞬、気を失っていたらしい。
「う……?」
気が付いた時には瓦礫の上にいた、麦の倉庫だったのだろう、麦粉が舞っていて咳き込んだ。
よく見れば、瓦礫の他に麦の麻袋が下に積み上がっていることに気付く。
足場にしていた屋根板の残骸も見える、どうやら倉庫が崩落していたらしい。
さらに、自分の胸元に回された腕に気付くと。
「アー……!」
サー、と言葉を続けられなかった。
自分を守ってくれたのだろう、抱き抱えている彼の額が切れて血が流れている。
その雫がリデルの肩にポタポタと落ちて、服に染みを作っていた。
息を呑む。
アーサーが厳しい視線を向ける先を追えば、いた。
さっきの女が目の前にいて、こちらを見下ろしていた。
凍りついたかのように動かない表情、視線も冷え切っていて痛みさえ覚えそうだ。
「降伏しろ」
降伏、その言葉に眼を見開く。
すなわち捕虜になると言うことだ、クルジュでの出来事が脳裏を駆け巡った。
しかし、状況は悪い。
アーサーとクロワの力を過信したか、油断と言えばそうかもしれない。
しかし、あんなに大きな倉庫をどうやって倒壊させたのだろう。
アレクフィナのように火を使うわけでも無い、クロワの大剣だってそこまでの破壊力は無いだろう。
そもそも、あのクレーターはどう言うことだ。
眼を見開いて、全ての状況を脳の中に叩き込んでいく。
「こ……」
「ダメよ!」
その際、アーサーの言葉を制した。
彼と視線を合わせる、困ったような顔がこの場に似合わずおかしかった。
しかし、ここで降伏はあり得ない。
アーサーにしてみれば、包囲された今より後で逃げ出した方が良いと考えているのだろう。
「降伏しないか、ならば」
ならば、何か策を作る必要がある。
リデルがこの場を切り抜ける方策を考えるよりも先に、相手が行動を起こした。
一歩、近付いてくる。
金属質な音がして、次いで薄く赤い輝きを放ち始めた。
それはどこか、クロワの大剣に似た雰囲気を放っていた。
「リデルさん!?」
蹴りだ。
相手は蹴りを放ってきた、反応しきれたわけではないが、それがわかった。
だからリデルは前に出た、髪に手を刺し掲げるものがある。
それは、透明にすら見える赤い宝石の首飾りだった。
未だ原理は良くわからないが、強力な守りの効果があるこの首飾りなら、あるいはと思ったのだ。
「何……!」
そして、その賭けに彼女は勝った。
空気が反発し合うような音が耳の奥を揺さぶり、眼を開けていられなくなる程だった。
音に敏感な蛇が服の下で悶えるのを感じる程だ、しかしそれだけの効果はあった。
薄い赤の波紋が、空間を引き裂くように広がる。
首飾りを持った手がビリビリと震え、最終的に反発するように腕が反対側へと弾かれた。
倒れそうになる所をアーサーに受け止めてもらう、音と光が一瞬で何度も瞬いたので、眼がチカチカして気を失いそうだった。
「な……っ」
しかし、それだけの効果はあった。
同じく反対側に弾かれた相手が、無表情を消して驚愕の色を浮かべてリデルを見ていた。
それは相当の衝撃を受けた顔で、アーサーの腕に倒れたリデルを見つめていた。
「い、いった……っ」
「貴様」
冷たかった声には、今は温度がある。
彼女はリデルやアーサーでは無く、リデルの手にある首飾りに向けられていた。
肩足のブーツからは薄い煙が立ち上っているが、それを気にする余裕すら無い様子だった。
「貴様、それを、どこで」
それは一見、不思議にも思えた。
それまで氷とすら思えた女が、瞳を見開き唇を戦慄かせ、首飾りを睨んでいる。
少し、怖さすら感じる程だ。
「な、何よ。これは、パパの形見よ!」
「形見……?」
一歩、下がった。
唇を固く引き結び、リデルの顔を穴でも開けようとするかのように見つめる。
その反応が意外だったのはリデル達だけでは無いようで、周りを囲む部下らしき者達も困惑している様子だった。
そして最後に一歩を下がると、決定的に何かを決めたらしい。
彼女は青い顔でリデル達に背を向けると、何も語ることなく去って行った。
その歩み自体には迷いは感じられず、周囲の部下達も戸惑いつつも、それに従った。
いくらもしない内に彼女らは視界から消え、ついには戻ってくることが無かった。
結果として。
「……た、助かった、んでしょうか?」
「さ、さぁ……」
リデル達は、工場群を手に入れた。
◆ ◆ ◆
翌朝、リデル達を迎えたのは、歓呼の声だった。
「戻ってきたぞ――――!」
「本当だ、すげぇ!」
「荷車を見ろよ、あれが全部食糧だってよ!」
「聖女フィリア様、万歳――――!」
すでに工場群を確保したことは知れ渡っており、旧市街に戻って来た彼らを、人々は街灯に出て彼女らを出迎えた。
工場群に大量の食糧が貯蔵されているとなれば、当然予想されたことではあった。
むしろ飢えに任せて突っ込んでこないだけ、良かったとすら言える。
「…………」
しかし、リデルの表情は晴れやかとは程遠かった。
今の彼女にとって、人々の歓呼の中を抜けてくるのは相当の屈辱だった。
その憤りをぶつける相手もいないのだから、表情がご機嫌になるわけも無い。
まぁ、それでもそれを他人にぶつけないのは、育ち以前の資質とでも言おうか。
「まぁ、最終的にこちらに犠牲者は出なかったわけですし」
「アンタね、それただの結果論じゃないの。相手がその気だったら、私達全滅よ全滅!」
「結果が全てと言うじゃないですか。労働者の皆を連れてこれなかったのは残念ですが、当面の食糧は確保できたわけですし」
「それにしたって、譲ってもらった物じゃないのよ!」
「まぁ、それでもご飯はご飯ですからねぇ」
アーサー自身、頭に包帯代わりの布を巻いている状態だ。
自分を守っての負傷だから、リデルとしては今一つ何かを言いにくい部分はあった。
しかし、当の本人はあまり気にした様子も無い。
「10年地下に潜り続けていれば、多少のことは気にならなくなりますよ」
「気にしなさいよ!」
きー、と怒鳴った所で、アーサーは「あはは」と笑うばかり。
そんな態度を取られてしまえば、何と言って良いのかわからなくなる。
でも、確かに得るものもあった。
今回窮地に陥った原因は、魔術師と言う存在の力を見誤った点にあるとリデルは思う。
リデルにとって魔術師とはアーサーであり、アレクフィナだ。
確かに個人としては強い力を持っているが、それでも想像の域を出ない範囲だと思っていた。
先の旧市街での戦いでの勝利が、そうさせたのだ。
だが今回、個人で倉庫を倒壊させ、地面を陥没させるような力を持つ相手が現れた。
(もしかして、魔術師って言うのは……個人で戦の趨勢を決められるものなの?)
これまで、どうしてフィリア人がソフィア人を神の如く畏れる理由がわからなかった。
だがここに来て、その理由の一端を想像できるようになった気がした。
もしかしたなら、リデルの知らない魔術師の恐怖と言うものが存在するのでは無いか?
これまで見ていたものは末端にすらならない、取るに足らないものだったのではないか?
「…………」
(クロワも、何も言わないし……)
共に工場群から戻って来たクロワは、いつにも増して沈黙していた。
敗北の責任感とはまた別の何かを抱えているようなのだが、今の所、何も言ってきてはいない。
まず、彼に話を聞いてみるべきだろう。
それに結局、相手が退いた理由もわからないままだ。
指先で弄ぶのは、髪飾りにしている赤い宝石だ。
これまで何度も自分を救ってくれた物だが、何か特別な意味でもあるのだろうか。
わからない、歓呼の中で大通りを歩きながら、リデルは様々なことを考えていた。
「ただいま、マリア」
「無事で良かった」
そしてヴェルラフ大通りの終点で、マリア達レジスタンスの出迎えを受けた。
リデル達の無事な様子を認めたマリアは、ほっとした表情を浮かべていた。
自分が発案な分、不安も倍あったのだろう。
マリアによると、旧市街の方で変わったことは無いと言う。
新市街側からの反応もなく、静かなものだとか。
それもまたリデルにとっては頭を悩ませる要因となる、いったい敵はどういうつもりでいるのか。
あれもこれも、と言うわけにはいかない。
対症療法的に食糧を集めても、それだけでは意味が無い。
(うー……)
ガシガシと頭を掻こうとした、その時だ。
レジスタンスの列の中に、リデルは1人の男を見つけた。
年の頃は30の終わり、白髪混じりの茶色の髪に皺の刻まれた顔。
筋肉質な身体をボロ布のような衣服で覆う彼は、つい先日まで地下にいた男だ。
すなわち、ウィリアム・フォルカークである。
「アンタ……」
「む……」
「アンタ、思ったより青っ白いのね」
何やら胸の前で拳を組もうとしていたウィリアムは、リデルの言葉に困ったように固まった。
実際、イメージよりも彼の肌は白かった。
まぁ、10年ずっと地下にいたのだから、それも仕方ないか。
ただ思ったよりも、ずっと取っ付きやすそうな顔をしていた。
「そうね」
「はい?」
「ねぇ、アーサー」
「はい」
フィリア人の歓呼の声の中、リデルはようやく笑うことが出来た。
あのテコでも動きそうになかったウィリアムも、生き方を変えて協力してくれる。
世の中と言うのは、頭の中だけでは完結しないものなのだ。
「どんなことでも、やってみたら意外と上手くいくのかもしれないわね」
「それはどうかと思いますけど」
「……アンタね!? 私を慰めたいのか落ち込ませたいのかどっちなのよ!」
「僕は一般論を説いただけですよ」
「私はアンタの意見を聞いてるのよ! って、アンタらも笑ってんじゃないわよ!?」
笑顔。
笑われる側は顔を真っ赤にして怒鳴るしかないが、しかしその笑い声こそが、これまで旧市街に決定的に不足していたものであろう。
それが生まれたと言うだけで、価値があるのかもしれない。
もしフィリア人の言うように彼らのことを古の聖女が見守っているのなら、きっと彼女も微笑んでいることだろう。
彼女の名を冠する民族が今、少しずつ、笑顔を見せられるようになっているのだから。
――――たとえそれが、束の間のものに過ぎなかったとしても。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
とりあえず、今後は物語の中の各勢力やら魔術師やらについての情報もどんどん出していきたいと思います。
最終的には、全ての情報が出せると良いですね。
それでは、また次回。