3-10:「マリアとディス」
マリアはもしかしたなら、あの少女を恨むようになっていたのかもしれない。
年下の幼馴染が連れてきたあの少女の言葉と声、それだけで皆が変わってしまった。
これまで、自分と同じように怯えていただけの皆を変えてしまった。
マリアにとって、あの少女は魔女だったのかもしれない。
あの少女の言葉には、不思議な力がある。
あの少女の声には、不思議な響きがある。
もしかしたなら、あの少女自身も気付いていないのかもしれない。
<東の軍師>の娘、彼女の言葉には永遠を感じさせる何かがある。
「どうして。どうして、こんなことになったんだ……?」
マリアにはわからない、何が皆をああまで興奮状態に追いやったのか。
あの少女が<東の軍師>の娘だからか。
あの少女が新市街から生きて帰った唯一の存在だからか。
それとも結局、あの少女がソフィア人だからか。
だとしたら、自分達フィリア人とはいったい何なのだろうか。
「わたし達は、いったい、何なんだろう」
昨日まではあり得なかったこと。
それが今、現実に起こっている。
少し前までは、皆、自分と同じように怯えていただけだったはずなのに。
自分は今でも、この後の報復が怖くて仕方が無いと言うのに。
どうして、皆は。
あり得ない。
あり得ない、あり得ない。
あり得ない、あり得ない、あり得ない。
「あり得な……い゛っ!?」
次の瞬間、衝撃が来た。
路地の一つを歩いていた彼女は、左側の建物が突如崩れたことに驚いた。
崩れたと言うよりは爆発したと言った方が正しいだろうか、次いで金色の塊が転がってきてくるのをマリアは見た。
「な、なに……!?」
砂埃と崩れた瓦礫の中から転がり出てきたのは、金色の髪の少女だった。
身に着けていた衣装は所々が焦げていて、対して傷み一つ無い髪や肌が妙に対照的だった。
髪の隙間から零れる赤い輝きが、空中に線を描くように揺れる。
そこにいたのは、あの少女――――リデルだった。
彼女は膝を立てて身を起こすと、こちらに気付いたのか、ぎょっとした表情を浮かべた。
そしてマリアに向け、言った。
突然のことにマリアは戸惑い、その言葉をただ聞くことしか出来なかった。
「逃げなさい!」
「え?」
「だから逃げ……ああ、もう!」
飛び出し、飛びついてくる。
戸惑う間に抱きすくめられ、押し倒されるように後ろへと跳ばされた。
そして、また衝撃が来る。
直後、爆炎が、憤怒の感情を表すかのように路地を埋め尽くす。
その時、視界の隅を何か小さな動物が駆け抜けて行ったような気がした。
◆ ◆ ◆
舌打ちの音が聞こえて、マリアは目を開けた。
「お前みたいなガキが、何でそんな力の強い石を持ってるんだか」
「あぅ……っ」
焼け焦げた壁や地面がまず視界に入った、立ち上る煙が熱の余韻を表していた。
どうやら自分はうつ伏せに倒れているらしく、鈍い頭痛を感じながら顔を上げた。
するとそこには、突き飛ばされ、頭を……というより、髪を押さえて尻餅をつくリデルの姿があった。
「しかしまぁ、お前も相当な悪人だよな。総督は刺すわ、フィリア人は唆すわ、牢屋の混血を逃がすわ、そもそもフィリアの王子様と一緒に行動するわ……数え上げればキリがねーな」
「何がよ!」
熱い。
髪飾りを取られたせいなのだろうか、肌にジリジリとした熱を感じる。
額に汗を感じつつ、リデルはアレクフィナを見上げていた。
状況はかなり不味いが、それでも挑発的な笑みを浮かべて見せる。
「いつも連れてるあの2人はどうしたのよ、珍しいじゃない」
「お前こそ、今日はお守の王子様がいないじゃないか。それになぁ……」
ニヤリと笑った次の瞬間、右手の指輪が赤く輝くのをリデルは見た。
「アイツらがいたんじゃ、アタシが本気を出せないからさぁ……!」
右腕を振りかぶる、その掌の中に火炎が生まれる。
魔術だ、そして守りの石は今、リデルの髪には無い。
マリアの見ている前で、リデルはせめてもの抵抗をすべく身構えた。
「うおおおおおおおぉぉっ!」
その時、振り上げたアレクフィナの右腕に飛びつく人物がいた。
小柄なその人物は額が割れているのか顔を血で濡らしている上、肩から背中にかけて酷い怪我をしている様子だった。
黒ずんだそれは血では無く、良く見れば焼け爛れていることに気付いただろう。
ディスだった。
建物を挟んで隣の路地でリデルと共にアレクフィナと遭遇した彼は、すでにそれだけの怪我を負わせられていた。
しかし今、その怪我を物ともせずにアレクフィナに飛び掛ったのだ。
フィリア人の彼が、ソフィア人の魔術師に対して。
これもまた、尋常ならざることであろう。
「……汚らしい劣等人種が、アタシに触ってんじゃないよ!」
だが哀しいかな、それでも力の差は歴然だった。
右腕に掴みかかられたアレクフィナが表情に激高を生み、左腕を使うために持っていたリデルの髪飾りを投げ捨てた。
そして彼女はそのまま、飛び掛ってきたディスの顔を掴んだ――――……。
◆ ◆ ◆
その叫びは、マリアが心の奥底の恐怖を呼び覚ますのに充分すぎる衝撃を持っていた。
何故ならそれは、かつて何度も聞いた悲鳴にどこまでも似ていたからだ。
そしてそれに対する反応として、マリアが成し得たものは停止だけであった。
「ひ――――」
息を詰め、身も心も停めることしか出来なかった。
顔を焼かれたディスが悶え、地面を転がっている時も。
それに激高したらしいリデルが無謀にも飛び掛り、そして殴り飛ばされた時も。
マリアは短い呼吸を断続的に続け、それをただ見ていた。
(ああ、まただ)
また、同じことが繰り返されるのか。
マリアの心を、絶望が塗り潰していく。
この後に起こることを彼女は知っている、
「まったく、フィリア人ってーのは、どうしてこう……アタシをイライラさせるのが上手いんだろうなぁ!!」
「っ、ぐあああああぁぁっ!」
「何より、フィリア人でも流す血は赤いってーのも気に入らないねぇ。お前らは、アタシ達とは、違う、イキモノ、なのに、ねぇ!」
断続的に続く悲鳴は、アレクフィナの言葉の途切れの間を縫うように聞こえてきた。
何かを踏み潰すような音は、ディスの身体から響いている。
それはまさに、マリアが最も聞きたくない音だった。
そして、ただただ絶望が続くのだ。
ソフィア人にはどうしたって叶わないと言う絶望。
仲間が、それも幼い頃から良く知っている相手が拷問されているのに、何も出来ないと言う絶望。
そして、この後に続く最大の絶望を知っている、と言う絶望。
それらの絶望を前に、マリアは何も出来ない。
「こん……のおおおおおぉっ!」
「お前も、いい加減鬱陶しいんだよ!」
鈍い音が聞こえて、次いで小さなものが地面に落ちる音がした。
ディスを救おうと地面を蹴ったリデルが、アレクフィナの手の甲に打ち据えられる音だ。
痛みに対して慣れが無いのか、地面に倒れた後、ブルブルと震えていた。
驚いているのか。
怖いのか。
唇を切ったのだろうか、少量ながら口元に血を滲ませている。
袖口でそれを拭った彼女は、己の赤さを見て、きゅっと眉に皺を寄せた。
「あぅ……っ」
リデルが身を起こそうとした時、脇腹に爪先を入れられた。
衝撃が身体の中を突き抜け、反対側の路地の壁に背中から激突する。
身体の中身が引っ繰り返りそうな衝動に咳き込み、横隔膜の過度の震えが目尻に涙を浮かばせた。
それでも諦めていないのだろう、肘を立て支えとし、立ち上がろうとしている……。
その姿を、マリアは凝視していた。
リデルの行為は、はっきり言って無駄だ。
そのはずなのに、どうしてか彼女は諦めない。
どうして、諦めないのか。
「……そ、そうだ。ディス……」
ふと思い出して、ディスの方へ視線を向ける。
彼もまた酷い有様だった、あちこちに重度の火傷を負っていて、焼け爛れた顔面からは血が滴り続けている。
目を逸らしたくなる程の重体だ、だが彼は動き、立とうとしている。
もう良いのに、とマリアは思う。
これ以上はただ苦しみを引き伸ばすだけで、何の意味も無いのに、と。
だが彼はそうしない、信じられないことに立ち上がり、そしてマリアと目を合わせた。
マリアの心が、絶望に揺れる。
「あ、あ……」
来る、一番の絶望が、来る。
彼はきっとこう言うのだ、どうして助けない、と。
自分が痛めつけられている間、どうして見ているだけなのか、と。
きっと、そう言う。
自分を責めるのだ、きっと。
そしてディスにまで、近しい間柄の彼にまで責められたなら、きっともう無理だ。
これまで辛うじて繋いできた「自分」が、音を立てて崩れてしまうだろう。
「……ニ……」
ああ、彼の口が開いていく、血に塗れたあの口で、きっと彼は自分を責める。
嫌だ、やめて、拒絶の声が胸の内に反響して――――。
「……ゲ……ロ……」
――――え?
◆ ◆ ◆
ディスの知るマリアと言う女は、人一倍負けん気の強い女だった。
売られた喧嘩はすぐ買ったし、子供の頃には良く男に混じって馬鹿騒ぎをしていた。
正直、彼女のことを男なんじゃないかと本気で疑ったことも一度や二度では無い。
それが、いつだったろう――不意に、「女」を感じるようになったのは。
喧嘩っ早さが鳴りを潜め、むしろ戦いを避けるようになった。
年上だからとか、そう言うことでは無い。
しかしあの話を聞いて、その時期が彼女にとっての最悪の時期と重なることに気付いた。
自分が、許せなくなった。
(なんでだよ!?)
心の底からそう思った。
マリアは聖人では無いかもしれないが、良い奴だった。
自分を含めた年少の者の面倒も良く見ていたし、義理人情に厚く、身内に手を出した連中の中に単身飛び込むこともあった。
聖人では無い、善人とも言えるかどうか、だが良い奴だ。
道理を踏み外しているわけでも無い、彼女は気持ちの良い人物なのだ。
なのにどうして、彼女が自分を歪めてしまう程の恐怖を体験させられなければならないのか。
絶望と諦観の中に、心を静めなければならないのか。
彼には、ディスには、それがどうしても許せなかった。
(聖女フィリアなんて奴が、本当にいるのならよ……!)
フィリア人に加護をくれると言う古の聖女は、誰も救ってはくれない。
食事の時に、あるいは事あるごとに祈りを捧げていても。
自分達を救うのは、いつだって自分達だ。
それに。
(嫌だったらって、言ったよな……!)
あの気持ちの悪い女、小さなナリでソフィアの魔術師に突っ掛かっていった大馬鹿者。
フィリア人の真ん中で、気炎に火をつけようと喚いていた女。
リデルとか言ったか、いけ好かない奴だ、何よりソフィア人だ、だが。
(嫌に、決まってんだろうが!)
ソフィアに搾取され続ける生活がか、違う。
仲間を助けられないことがか、違う。
違う。
ディスが一番嫌なこと、それは。
「マリア、お前は」
フィリア人とは、どういうものか。
フィリア人とは、どう生きるべきなのか。
かつてそれを教えてくれた人が、諦観の中で燻っていることだ。
それがディスの「嫌なもの」だ、だから。
だから彼は、彼女が教えてくれた通りに生きるのだ。
「お前は……!」
フィリア人は義理堅い、だからたとえソフィア人だとしても、一度助けると決めた相手は見捨てない。
どれだけ相手のことが嫌いでも、それは変わらない。
だから、彼は行った。
傷だらけの身体に鞭を打って、そして。
「お前は、全っ然、女っぽくねぇぜ!!」
そして彼は、己の死を抱き締めた。
◆ ◆ ◆
どしゃり、と転げ落ちたそれに、リデルは己の策の失敗を確信した。
いや、全体として見れば失敗などしていないのだろう。
だが彼女にとって、それは失敗だったのだ。
「でぃ……!」
そういえば、きちんと名前を呼んだことは無かったろうか。
「ディス――――ッ!!」
身体の半分を黒焦げにして転げ、倒れたそれに、リデルは悲鳴を上げた。
人生で初めて暴行を振るわれた身体は軋み、口の中に広がる鉄錆の味は吐き気を誘引する。
それでも、リデルは動いた。
ディスを焼いたアレクフィナが、今度はリデルを襲う。
リデルは跳び、アレクフィナが投げ捨てた髪飾りを地面から引っ掴んだ。
ごっ……と迫った炎に髪飾りを翳し、眼を閉じる。
熱風が吹き抜ける、だが見えない障壁がそれを防ぐ。
「ちぃ……!」
「……ッ」
アレクフィナの舌打ちの音に、歯を食い縛る。
策。
策だ、今こそ策が要る。
攻撃が終われば、きっとまたアレクフィナは自分の手でこの髪飾りを奪いに来るだろう。
非力なリデルでは、それを防ぐことは出来ない。
策は、無い。
こと直接の戦闘になってしまえば、リデルに出来ることは無いに等しい。
どうする、どうすれば良い、高速で思考が巡る。
「あ……」
ぐるぐるとした思考の中で、リデルが行ったのは一つの行動だ。
それは思慮と言うには聊か感情的で、彼女らしく無いとも言えるが。
しかし一方で、彼女らしいことでもあった。
「ア――――サ――――ッッ!!!!」
呼んだ。
呼んでどうにかなるものでも無いとわかっていても、呼ばざるを得なかった。
不意に、炎が止まる。
薄く眼を開ければ、髪飾りの赤い輝きが消えていく最中だった。
「……そうですね」
そして、いた。
肩にリデルのリスを乗せ――最初に放っておいた――拳を振り抜いた姿勢で、足元の摩擦係数を操作して滑るように、そこにいた。
炎が途切れたのは、彼――アーサーの一撃によるものだったらしい。
「僕は、いつだって遅い」
「……王子様ぁ!!」
殴られ魔術を中断させたアレクフィナは、即座に体勢を整えてアーサーを睨んだ。
その表情は壮絶の一言で、剥き出しの犬歯と唇の端に滲む血が、それを物語っていた。
目は、獲物を狙う猛禽類のそれだ。
一方、アーサーは路地の隅に倒れた黒ずんだ人物へと視線を落とした。
「……ディス」
共に育ち、共に遊び、共に競い合った幼馴染の変わり果てた姿。
次に顔を上げた時、リデルはぞわりとしたものが背筋を駆け上るのを感じた。
同じ感情を得たのだろうか、アーサーの肩に乗っていたリスがリデルの傍へと走る。
あんなアーサーを見たのは、初めてかもしれない。
いついかなる時でも余裕を崩さず、微笑を絶やすことの無かった彼。
しかし今、そこに微笑は無い。
あるのは無、ひたすらな無表情で、彼は歩を進めている。
だがその内側では何かが煮えくり返っている、グローブの赤い石の輝きがそれを表している。
「おお? 怒ったか、はは。けどなぁ……こっちは、もっと腸煮えくり返ってるんだよぉ!」
島からここまで、悉く邪魔をされたアレクフィナ。
新市街でも好き勝手にされ、総督まで再起不能にされ、魔術師としてのプライドに傷をつけられた。
同胞であるソフィア人の安全を脅かす彼らを、アレクフィナは許せなかった。
そうしたプリミティブな感情に突き動かされるように、彼女の手の中に新たな炎が生まれる。
大きな足音を立てて彼女に近付くアーサーと、それを迎え撃つ構えを見せるアレクフィナ。
一触触発。
2人の間の熱気が音を立てて弾けるかというまさにその時、第三者の声が響いた。
「よせ」
クロワだった。
彼は路地の向こう、アレクフィナの後ろを取るような形でそこにいた。
「ソフィアの魔術師よ、お前の仲間はすでに退き始めている」
「ああ!?」
物凄い勢いで後ろを見るアレクフィナ、クロワは特にこれと言った表情を浮かべていない。
だからその分、その言葉には真実味がある。
そして、さらに別の声がその場に響いた。
「あ、アレクフィナの姐御!」
「ふひひ、撤退なんだぞ~」
「ああ!? 何だってぇ!」
アレクフィナがぶち空けた壁の穴から、部下2人が顔を覗かせていた。
クロワのみならず部下2人までも、これは真実と受け取らざるを得ない。
他の連中がどうなったのかはわからないが、役立たずのフィリア兵が逃げ出し始めたのは確かなようだ。
そしてタイミングを逃せば、アレクフィナ達だけが旧市街に取り残されることになる。
「く……!」
アレクフィナは後ろのクロワを睨み、正面のアーサーを睨み、最後にリデルを睨んだ。
そしてぶるりと身を震わせた後、鬱憤を叩き付けるように腕を振るった。
「――覚えておきなよ!」
「あ……待て! くっ……!」
轟。
爆炎が壁となって周囲に散り、巻き上げられた小石や砂利が視界を塞ぐ。
腕で顔を守り、次に視界が開けた時には……アレクフィナ達の姿は、無かった。
「……っ!」
珍しく本当に苛立ったような表情で、アーサーは最後の一歩を踏み鳴らす。
しかしそこにあるのはカラカラと落ちる小石の音だけで、煙の余韻が視界の隅に見えるだけだ。
それでも後を追おうと思えば出来ただろう、だが……。
「でぃ、でぃす……ディス」
すぐ傍で、酷く頼りない声が聞こえた。
マリアだった。
彼女は身体が半分黒く焼け爛れたディスの傍へと、這うように近寄って行った。
「ディス、何で……どうして……」
誰も、何も言えなかった。
クロワは沈痛そうに目を伏せ、リデルは見ていることしか出来ず、アーサーは顔を背けた。
うわ言のように、何度も「どうして」と呟くマリア。
だが、ディスはその言葉に答えてはくれない。
その事実に、マリアはディスの身体に縋りつくように崩れた。
静まり返った路地に、引き攣ったような嗚咽が響く。
誰もそれを止めることも、何かをすることも出来なかった。
痛々しい空気だけが、そこにあった。
「……………………」
その時、マリアだけがそれに気付いた。
ディスの唇が僅かに動き、マリアはそれを聞き取ろうと身を屈めた。
そして、彼女は聞いた。
彼が最期に――――……。
◆ ◆ ◆
旧市街は、静かな戸惑いの中にあった。
それまで逃げようとしていた人々、あるいは建物の中で身を潜めていた人々、さらに街中で何事かの作業に従事していた人々までもが、今は川の方へと視線を向けていた。
新市街と旧市街を隔てるそれは、旧市街のフィリア人にとっては巨大な壁に等しい。
だが今、川の上にはソフィア人の船が背を向ける形で浮かんでいた。
今までならフィリア人の奴隷を積んでいただろうそれには、しかし何も乗せていない。
新市街から来たフィリア兵達が我先にと乗り込み、次々と出航していく。
彼らは、何も奪っていかなかった。
「ど、どうしたんだ、いったい」
「さぁ……?」
旧市街のフィリア人は口々に疑問を口にし、首を傾げる。
新市街の連中が何も奪わずに出て行くなんてことが、今まであっただろうか。
確かに襲撃と破壊と言うだけでも充分だが、それでも異様ではあった。
レジスタンスも、そうで無い者達も。
ただただ、呆然とソフィア側の撤退――まさに、撤退と言うしか無い――を、見送るフィリア人達。
その中で、ヴェルラフ通りに集まっていた人々にざわめきが起こった。
それは、路地から出てきた1人の女の姿を見たからだ。
「ま、マリアだ」
「マリア?」
「ああ、マリア。あのよ、何だか……」
「う……」
ゆっくりとした動作で歩き出てきたマリアに、多くの人が話しかけようとする。
だが誰もが途中で言葉を止め、距離を取った。
マリアが泣いていたからか? いや、違う。
その背中に背負った、焼け爛れた少年の姿に息を呑んだのだ。
半分以上の人間は、その少年が誰なのかわかったかもしれない。
「ま、マリア……」
それでも近くに寄って来たのは、レジスタンスの仲間達だった。
彼らはマリアが背負うディスの存在に気が付くと、言葉を失ったかのように立ち尽くした。
一方でマリアは涙を拭うこともせず、正面を見据えていた。
「……を」
「え?」
マリアが何事かを呟き、周囲の人間が不思議そうに聞き返す。
彼女は、繰り返すように言った。
「勝ち鬨を、上げろ」
「え?」
「は? 勝ち鬨? どういう意味」
「そのままの意味だよ、わたし達は勝ったんだ。だから、勝ち鬨を上げるんだ」
そして堪えきれなくなったかのように、叫んだ。
「わたし達は! ディスは! ソフィア人に勝ったんだ!」
ソフィア人に勝った。
その言葉の衝撃と意味が、さざ波のように人々の間を抜けていった。
「勝ったんだ――――っ!」
慟哭のような叫びは、次第に周囲に伝播していく。
まずディスの姿を間近で見た人々、そしてそんな彼らを見た人々、そしてさらに、と。
喪失と、勝利。
ソフィア人への勝利と言う奇跡は、実際に撤退していく新市街の船を証拠として、確信へと至る。
「う……」
「うぉ」
「うおおおおぉぉ……!」
おおおおお、と、地面を揺らすような声が、叫びが、徐々に、少しずつ、しかし確実に広がっていった。
それはやがて、旧市街中に広がっていく。
ソフィア人への勝利……勝利! この響きが、それまでの被害で負った負の感情を全て吹き飛ばした。
聖女フィリアを称える声が、唱和していく。
幾年、幾十年、幾百年と積み重ねられた敗者の記憶。
それを、今日一日で払拭することは出来ないだろう。
だが、それでも一筋の光明にはなる。
ディスの命の輝きが見せた、道だ。
その道を塞ぐこと、それだけは、マリアには出来なかった。
(ディス、これで良いの?)
だって、ディスは最期に言ったのだ。
ソフィアと戦え? 逃げろ? いずれも違う。
彼はただ、こう言ったのだ。
「……いつか、また、3人で……」
幼い頃、喧嘩友達2人と隣のお姉さんの関係でいられた、あの頃。
そのまま戻ることはもう出来ない、何もかもが変わりすぎているから。
けれど、取り戻すことは出来る。
恐怖はある、怯えも消えない、けれど。
「……なぁ、ディス……」
けれど、それ以上のものがマリアの胸の中に芽生えていた。
◆ ◆ ◆
これで良かったのだろうか。
ルイナの村でも感じたこの感覚は、やはり今回もリデルの胸に去来した。
(……パパも、そうだった?)
今となっては、確かめようの無いことだ。
でも、もしかしたらと思ってしまう。
そしてそう思う時、自分が少しでも父に近付けたのではないかと、そうも思えるのだ。
今、彼女の目の前に広がるフィリア人達の熱狂は、彼女の策によってもたらされたものだ。
一方で視線を返せば、彼女の策の中で命を落とした者達がいる。
ディスはその筆頭ではあっても、唯一では無いのだ。
そう考える時、リデルの胸に去来するのだ。
これで良かったのだろうか、と。
(それでも、あのままは嫌だったから)
努力が足りなかったかもしれない。
実力が及ばなかったかもしれない。
身の丈が、届かなかったかもしれない。
それでも、リデルに素敵なものを見せてくれたフィリア人が一方的に搾取され続けるのは嫌だった。
証明したかった。
フィリア人は、アーサー達はけしてソフィア人に負けていないと。
もし今日、それが少しでも叶ったなら。
(でも……大変、なのは、これ……から……)
あれ、と思った時にはすでに視界が傾いていた。
足に力を入れて身体を支えようとするが叶わず、そのまま視界が薄暗くなっていった。
力が抜け、立っていられなくなって。
そして。
「おっと」
胸とお腹の間に片腕で抱えるようにして、アーサーが倒れるリデルを受け止めた。
少し苦しそうな顔で――よほど疲れているのだろう――眠りに落ちたリデルを両腕でしっかりと抱え上げ、自分の胸に頭を預けさせるような体勢にする。
腕にかかる重みは、思ったよりも軽かった。
「……お疲れ様です」
アーサーの肩からリスが飛び降り、空から一羽の鳥が彼の肩に代わりに乗る。
懐かれたのだろうか。
だが、襟元から這い出た蛇がチロチロと舌を見せて威嚇しているあたり、まだまだ信用されていないのかもしれない。
などと思ってしまうのは、聊か穿ちすぎだろうか。
「そう自分を卑下することも無いだろう」
「……そうでしょうか」
「うむ」
傍でフィリア人達の様子を見ていたクロワがそう声をかけてきて、アーサーは曖昧に頷いた。
結局、自分は何もかもに後手の対応しか出来なかった。
リデルのことも、ディスのことも、マリアのことも、旧市街のことも。
リデルを連れてきたのは、旧市街の現状を打破するには良かった。
ソフィア・フィリアと言う人種に縛られない彼女と言う存在が、今回の勝利の大きな要因であることは間違いが無いからだ。
後悔は無い、負い目はあるかもしれないが、しかしだからこそ。
だからこそ、今回の勝利を活かす義務がアーサーにはあるのだ。
(そうだ、今さら後悔なんてしてどうする)
彼女のことを使い切る、最初に出会った時にそう決めたのだから。
「これからが、大変ですね」
「……そうか」
そんなアーサーに対して、クロワは何も言わなかった。
数秒間横目で彼のことを見つめた後、リデルに視線を落とし、そしてアーサーと同じように熱狂するフィリア人達へと視線を移した。
どこか他者と違う視点を持つ混血の彼が何を考えているのかは、わからない。
ただ一つ確かなのは、アーサーの言葉が真実をついていることだ。
大変なのは、ここから。
リデルも同じ考えであろう、だが今は眠るばかりで、何も言葉を発さない。
ただ、今は、今だけは……。
「……ぱぱ……」
せめて今だけは、安らかな眠りの中にあってほしいと願う。
たとえそれが、一時だけのものであったとしても。
アーサーは、そう願わずにはいられなかった。
――――この4日後、クルジュ旧市街は大公国からの自立を宣言した。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
3章は少し長かったですが、ようやく終わりました。
まだまだ先が長いこの物語、ようやくとっかかりのとっかかりに到達できました。
さぁ、全てはここから始まる……始まると良いな(え)
それでは、また次回。




