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3-7:「渡河」

 良い気なものだと、そう思った。

 世間と己の関係を絶ち、岩と水の中、1人きりの世界で満足している。

 抱いた感情を正しいと疑いもせず、ただそこに在るだけの日々を過ごす彼を見て、そう思った。



 同時に、それはどこかで聞いたような話でもあった。

 島に1人で住み、外界と隔絶され、しかしそれに対して何も感じていなかった。

 だから、これはきっと同属嫌悪。

 だから、これはきっと自己嫌悪。



「ぐぼぉ゛……っ」



 だと、しても。



「ぐぎぃ゛え゛え゛え゛ぇ゛……!?」



 だとしても、目の前の光景を受け入れるのは苦労を要した。

 肉が裂ける音と共に血飛沫ちしぶきが上がり、びしゃびしゃと音を立てて床を濡らす。

 それはすぐに柔らかな絨毯に吸い込まれ、濃厚な染色を施していく。



 いや、これは己が望んでいたことでもあったのでは無いか?



 目の前で醜く転がるのは、ソフィア人街の王、総督だ。

 腹に空けられた穴からとめどなく血を噴き出し、濁った悲鳴を上げるその姿から、リデルは目を離すことが出来なかった。

 そして思う、違う、と。



(確かに、総督の行為は嫌悪すべきものよ。でも……)



 総督の醜悪な「趣味」に対しては嫌悪感を抱いた、嫌悪感しか抱けなかった。

 彼は旧市街からフィリア人の少年達を攫い、公邸内で汚らわしい行為に及んでいたのだから。

 この世で最も醜悪で、そして許されるはずの無い行為だ。

 島育ちと言えど、いや島育ちだからこそ、本と言う媒体で倫理を学んでいたからこそ、強くそう思った。

 だが、しかしだ。



(でも、私はこんなことを望んでいたわけじゃないわ!)



 自然、視線は総督に大剣を突き刺している男へと向けられる。

 クロワ、牢で出会い、そしてリデルが外の状況――総督とソフィア人達の所業の数々のことだ――を話した相手。

 彼はリデルの話を聞くなり、豹変ひょうへんしてしまった。



 柔和だった物腰はどこかへと消え去り、怒りのままに牢を破った。

 皮肉にも、彼は「出ようと思えば出られる」と言う自らの言葉を立証して見せたことになる。

 最初は、何が起こったのかわからなかった。

 何も見えなかった。



(あれは何? 目に見えない剣なんて初めて見るわ)



 蒼銀、いや、その大剣は刀身からつかまで全てが透明な物質で出来ていた。

 今でこそ総督の血で紅く染まって輪郭が見えているが、そうするまでは見えなかった。

 噴き出す鮮血が刀身を染め、その姿を現す。

 薄く、伸びるような赤い輝きと共に。



(――――魔術!)



 あれは魔術だと、そう判断する。

 途中で回収した黒いビロードの帽子をぎゅっと握り締め、見る。

 総督の濁った悲鳴が響く中、クロワがソフィア側の人々を薙ぎ倒して作った道を通ってきた彼女は、己が辿り着いた時にはすでに展開されていた地獄の中、クロワの正体の一部を見た。

 彼は魔術師、茶色の髪を持ちながら菫色の瞳も持つ彼の正体の一端を。



「総督よ」



 そのクロワが発した言葉に、リデルは身構えた。

 彼のおかげで牢を出ることが出来た彼女だが――クロワが牢の鉄格子を破壊した、今にして思えばあの大剣で粉砕したのだろう――そも、彼の豹変は間違いなくリデルのせいだ。



「貴方は私との契約を破った、ために私に誅殺されるのだ」

「ぐぉ゛、ぐお゛ぉ゛……!」

「貴方に総督として彼らを統べる資格は無く、また、信じるに足る男でも無い。いかにソフィアとフィリアが対立する時代とは言え、そのような所業、このクロワ・ゲマインドが許さない」



 クロワの行動と、その結果。

 暴走とも取れる彼の豹変によって導き出されたこの地獄は、確かな現実としてリデルの前にはっきりと出現していたのだから。

 総督への嫌悪は確かにある、だが。



「ぐげえ゛え゛ぇ゛っ゛!?」



 だが、こうして目の前で悶え苦しんでいる総督を目にして、リデルはわからなくなってしまう。

 自分が、何を望んでいたのか。

 しかし、そうした思考の海に沈む時間が無かった。

 何故ならば、通路側の扉――と言っても、リデルが来た時にはクロワにより破壊されていたが――から爆発、いや爆炎が上がったからだ。



「な――――!」

「おぉまぁええええええぇぇぇぇっっ!!」



 炎を纏って現れた女、アレクフィナが、クロワに殴りかかった。



  ◆  ◆  ◆



 思えば、これが初めてでは無いだろうか。



「お前……魔術師か!」

しかりだ、大公国の魔術師よ」



 ギイィ……ン、と甲高い音が響き、同時に空気が焦げるような音を発する。

 どちらも、アレクフィナの放った炎の拳とクロワが総督の身体から引き抜いた大剣が打ち合って立てた音だ。

 大剣を盾のように横に倒し、アレクフィナの拳を受け止める。



「わ……!」



 言葉に出来ない何かが、部屋の中に充満する。

 リデルはそれを確かに感じた、肌の上をざわりと滑るそれが何なのかはわからない。

 そう感じた一瞬、アレクフィナが退いた。

 打ち込んだ右拳を押し、その反動で跳び退いたのだ。



 そして次の瞬間、クロワとアレクフィナの間の床が陥没した。

 陥没したと言うよりは抉れたと言った方が正しいだろうか、見ればクロワが大剣を振り抜いた姿でそこに立っていた。

 血を吸った絨毯の切れ端が舞い、石の欠片が視界を埋め尽くす、下の階が覗ける程の抉られ方だった。

 次いで、床が抉られた衝撃が来た。



「水晶の剣だぁっ!?」

(……水晶?)



 跳び退いたアレクフィナの言葉で、リデルはクロワの獲物の正体を知った。

 水晶と言う物質を本でしか知らない彼女は、クロワの持つそれが水晶だと気付けなかった。

 まぁ、それがアレクフィナの反応の理由には繋がらないのだが。



「魔術師が水晶使うとか、てめぇ……!」



 だがアレクフィナの反応を見る限り、魔術師の間では許されないことらしい。

 一方でクロワは血を飛ばすように大剣を振り、そして肩に乗せた。

 刃は、彼の身を傷つけなかった。



「その髪、瞳の色……そうかい、てめぇがブランの言ってた奴かよ」

「ほぅ、私のことを知っているのか」

「ああ、聞いたよ。アタシがここに来たのはつい最近だから、良く知らないけどね」



 ちっ、と唾を吐くような音を立てて、アレクフィナは苦々しげに言った。



「汚らわしい混血児ハーフ、フィリアの連中より下のクソ野郎だ」

「……混血?」

「あん? 何だお前もいたのかよ。そうだよ、そいつの片親は高貴なソフィア人、そしてもう片方は下賎なフィリア人って言う、最悪にして罪悪の象徴なのさ」



 なるほど、ならばあの髪と瞳の組み合わせは理解できる。

 ソフィア人と、フィリア人のハーフ。

 対立する者同士の間に生まれた命、今まで可能性すら考慮することが無かった。

 だって、2つの人種はあまりにも違いすぎていたから。



「って、お前何で外に。まさか、こいつと結託して」

「ち、違……!」

「確かにその娘は私が外に出した、が、私と何かを約束したわけではない」

「お前には聞いてねぇんだよ、混血児が」



 リデルに向けかけた厳しい目を、元の対象へと戻す。



「哀しいことを言う、私こそ、ソフィアとフィリアが愛し合えると言うことの証左だろうに」

「はっ……どっかの悪趣味な馬鹿が種撒いたんだろうが。奴隷を玩具にするのは総督だけじゃねぇ」

「奴隷、玩具。本当に何も変わっていないのだな」

「ああ?」

「ならば」



 大剣の刃先をアレクフィナに向け、クロワは言った。



「総督は契約を破り、クルジュのソフィア人は何も変わっていない。ならば私は、私の正義によって断罪を成すとしよう」

「吐かしやがれよ、この謀反人が!!」



 叫び、跳びかかるアレクフィナ。

 視線の先にはクロワがおり、そして。



「……や゛め゛、よ゛」



 総督が、いた。

 彼は腹から流れる血を止めることも出来ず、濁った目で、しかし確かにリデル達を見た。

 突如響いた総督の言葉に、アレクフィナは跳躍のために踏み出した一歩で自身を踏み留めた。



「総督閣下!?」

「そ゛ぶぃ゛あ゛の゛……ぢ……を゛ひ゛く゛も゛の゛が、あ゛ら゛そ゛っ゛……でば……な゛ら゛ぬ゛……」



 ソフィア人同士が、争ってはならぬ。

 その言葉にアレクフィナの顔には驚愕が、クロワの顔には悲哀が浮かぶのをリデルは見た。



「総督、貴方は……」



 何を言おうとしたのだろうか。

 クロワは自らが刺した総督の姿を見、そして首を横に振った。

 そして次の瞬間、彼の姿が掻き消えた。



「ひぇ……?」



 ふわりと浮いた己の身体に、リデルは奇妙な声を上げた。

 顔を上げれば、すぐ傍にクロワがいた。

 抱え上げられていると気付くのには、数秒を要した。



「ちょ!」

「すまない、少し我慢してくれ」

「はぁ!? ちょ、どこに……って!?」



 アレクフィナの怒声が聞こえたような気がするが、それよりも早く風が来た。

 そして、フィリア人街のそれに比べて遥かに透明度の高いガラス、つまり窓、と言うよりはテラスと部屋を隔てるガラスの壁が見えてきて。



「え、えええええええええぇぇぇ――――ッ!?」



 ぶち破った。



  ◆  ◆  ◆



 こういう時に思い出すのは、何故か島でアーサーと出会った時のことだった。

 あの時もこうして抱えられて、敵から逃げたように思う。

 もっとも。



「ち、ちょっとちょっとちょっとぉ――――!」



 アーサーは抱きかかえてくれたが、クロワは小脇に抱えていた。

 抱くと抱える、似ているようで全く違う。



「すまない、少し我慢してほしい」

「が、我慢って、わひゃあっ!?」



 2階だったらしいテラスから地面に降り立つと、衝撃でリデルの視界が揺れた。

 そこから、高速移動が始まった。

 何年も牢にいたとは思えない、そんな速度で駆け出す。

 しかも、片手には巨大なガラスの剣を持ってだ。



「総督を害した罪人だ! 逃がすんじゃないよぉ――――ッ!」

鉄馬車クルマを奪う」

「は、はぁ?」



 背後にアレクフィナの怒声、正面に戸惑いながらも出てきたフィリア兵。

 それらの姿と声を確認しながら、クロワは跳んだ。

 そして、正門と玄関の間に広がる庭園を一瞬、見下ろす。

 呆気にとられたようなフィリア兵達の姿が、妙に印象的だった。



「――――むんっ!」



 轟、と音を立て、ガラスの大剣が地面を砕いた。

 両側にいたフィリア兵が悲鳴を上げて飛びのく、剣が砕いた地面に慄いたのか、刀身を彩る赤い輝きに怯えたのかは判断が難しい。

 回転。

 大剣を持ったまま一回転させ、剣の腹で身を竦ませたフィリア兵を殴り飛ばす。



「すまない」



 律儀に謝罪し、総督用なのかどうなのか、玄関の傍に停めてあった鉄馬車へと向けて再びの跳躍。

 屋根に跳び乗り、そこでようやくリデルを降ろした。

 文句を言おうと顔を上げるが、視界がぐるりと回って断念した。

 口元を押さえ、来てはならない衝動を必死に抑える。



「さて、行こうか」



 気楽ささえ感じさせる声音で、クロワが御者台の赤い宝石に触れた。

 次いで鉄馬車が動き出し、リデルは振り落とされないようにしがみ付かなければならなかった。

 そして、開いていない正門を突破し、外へと出る。

 鉄格子の正門は、どこか牢屋のそれと重なって見えた。



「では、まずは港へ行こうか」

「む、無茶苦茶だわ……!」



 けれど、強い。

 彼が殺されず、総督と契約を結べた理由がわからなかったが、少しだけ納得した。

 強いのだ、単純に。

 総督の軍を、魔術師を問題にしない程の力を持つ魔術師なのだ、彼は。



 その点、魔術師相手には基本的に逃げの一手を得っていたアーサーとは違う。

 後ろを振り向けば、まだ見える。

 地面の敷石が砕かれ、数メートル超の長さで抉られている庭園の様が。



「……って、追いかけてくるんだけど!」

「ほう」



 ほう、じゃないわよ!

 そう叫びたい衝動を堪えて――ちょうど、大きく角を曲がった所だった――鉄馬車の屋根にしがみ付き、後ろだけでなく周囲を確認する。

 後ろから追走してくる鉄馬車は2台、そして正面には……。

 ……旧市街よりも遥かに賑わう、新市街の雑踏が見えた。



  ◆  ◆  ◆



 その日、クルジュのソフィア人街は騒がしさの中にあった。

 いつものように食事を楽しみ、ショッピングを楽しみ、雑談を楽しんでいたその時、にわかに楽園を破壊する使者がやってきたのだ。

 それは、暴走する鉄馬車と言う形でやってきた。



「な、何だぁ!?」

「鉄馬車だ! 鉄馬車が……逃げろ!」



 蜘蛛の子を散らすように逃れるソフィアの市民達、そこへ、1台の鉄馬車が横転しながら突っ込んだ。

 黒い車体を街路にへばりつかせ、火花を散らしながら街灯に衝突した。

 その瞬間、照明を放つ赤い<アリウスの石>が輝いた。

 それは瞬く間に他の街灯へと伝わり、鏡を爪で引っ掻くような音を響かせた。



 薄く赤い膜のような不可視の壁が、街灯と街灯の間に出現する。

 それは街路の中央部、鉄馬車が走るラインの描かれた部分と人々が歩く部分を遮断しているように見えた。

 そして、さらにもう1台。



「こ、後輪が!」

「も、もう駄目だ! 飛び降りろぉ――!」



 こちらは有人だったのか、鉄馬車の車体が傾いた段階で乗っていた数人が飛び降りていた。

 ゴロゴロと街路に転がるのは、身なりの雑なフィリア兵だった。

 しかしただ1人、御者台に残っている者は違ったようだ。



「ええい、役に立たぬフィリア兵どもめ!」



 毒吐く男は金の髪、軍服とローブを組み合わせた衣装が彼を魔術師だと教えてくれる。

 しかし彼もまた、次の瞬間には顔を青くすることになる。

 打ち付けるような音と共に視界が塞がれ、顔を上げればそこに茶色の髪の菫の瞳の男がいた。

 目に見えぬ剣が陽の光を反射する様に、彼はあっと叫んだ。



「あ、あのお方の直弟子である貴方が何故……!」



 振り下ろされた大剣は御者台の彼を避けつつも、鉄馬車の4分の1を切断して砕いた。

 ぐらりとバランスを崩し、車体を削りながら街灯の壁へと衝突する鉄馬車。

 放り出された御者台の魔術師が地面の上で身を起こすのを空中で確認しながら、クロワは後方を走らせていた自身の鉄馬車へと乗り移った。



(スンシ曰く、『兵は益々(ますます)多きを貴ぶにあらず』。兵は数じゃないとは言っても)



 この強さは一体、どういうことか。

 未だ鉄馬車の屋根にしがみ付く形ではあるが、リデルは後ろを見た。

 そこには2台の鉄馬車が転がっている、怪我人はどうだか知らないが、街路の事故防止の仕掛けも相まって大惨事には至っていない様子だった。



 それでも滅多にあることでは無いのだろう、ソフィア人達の顔は恐怖に引き攣っているように見えた。

 当たり前だろう、誰だってそうなる。

 自分達の平和な日常が破壊されれば、誰でも恐慌を起こすだろう。

 そこに、人種など関係ない。



(フィリア人も、ソフィア人も、それから……混血ハーフも)



 営みがあり、感情がある。



(それなら、どうして……って)



 視界を正面へと戻したその時、リデルは見た。

 1人のフィリア兵が、クロワのいる御者台に正面から飛び掛るのを。

 そして彼の両拳に輝く赤を見て取った時、彼女は行動を迷わなかった。



  ◆  ◆  ◆



「むぅっ!」



 クロワが迎撃を行うよりも早く、その者は現れた。

 半瞬遅れて振り上げられた大剣を潜り抜けるように身を躍らせ、御者台へと着地を果たす。

 狭い御者台の上では、大剣を振り回すことは難しい。



(まして走行中!)



 彼1人ならともかく、連れ合いがいるこの状況では、先程のような芸当は何度も出来るものでは無い。

 しかも今回は、こちらが乗り込まれている側なのだ。

 加えて見るに、乗り込んできたこのフィリア兵。



 彼の両手には、鈍い輝きを放つ<アリウスの石>を嵌め込んだグローブが見える。

 すなわち、彼には魔術の心得があると見て相違なかった。

 フィリア人であるにも関わらず、だ。

 一瞬怪訝に思うが、一瞬だけだ。

 御者台に乗り込んできた彼が着地の態勢から顔を上げる頃には、クロワは次の行動を選択して。



「へぶぅっ!?」



 ……選択していたのだが、予想外のことが起こったがために中断した。

 具体的には、乗り込んできた男が身体をくの字に曲げて吹き飛んだために、だ。

 馬のいない御者台には支えになるような物は無いので、下手を打てば落ちる所だろう。



 しかしどういうわけか、その男は御者台の上に踏みとどまった。

 まるで足の裏がへばりついてでもいるかのように動かず、身体が落ちるのを防いだのだ。

 結果、クロワの目の前では2人の人間が絡まり合うと言う、良くわからない事態が発生していた。



「はて……?」



 首を傾げていると、風を切る走りの中で、2人の言い争うような声が聞こえてきた。



「ああああああぁさああああああぁぁっ!?」

「いやいやいや! リデルさん? ちょ、今かなり危なかったですからね!? 僕が魔術発動していなかったら、走行中の鉄馬車の前にダイブしていましたからね!?」

「五月蝿いわね! そんなことはどうでも良いのよ!」

「かなり最重要な部分だと思いますが!?」

「それより重要なことなんて、いくらでもあるわよ!」

「そ、そうですかねぇ……」



 ふむ、どうやら敵では無かったらしい。

 フィリア人でありながら魔術を扱う彼に興味が無いわけではなかったが、まだ逃走途上であるため、クロワは御者台の赤い石に手を置いた。

 これが鉄馬車の動力であり、術式次第で無人での移動を可能とする物だ。



「……遅かったじゃない」

「いや、すみません。これでもかなり頑張った方なんですが」

「……遅い」

「ええ、まぁ……あー、その、何と言えば良いのか」

「……おそいじゃ、ないのよぉ……」

「…………はい、すみませんでした」



 さて、とりあえず港まで急ごうか。

 隣の2人は視界に入れずに、クロワは正面だけ見据えてそう考えた。



  ◆  ◆  ◆



 ――――数時間の後。



「なるほど、そう言うことだったのですか」



 暴走した鉄馬車が港に突撃したと言うニュースが新市街中を駆け抜けているだろう時刻、アーサーは深く頷いていた。

 彼の前には先の男、つまりはクロエがおり、彼は金属製の箱に囲まれた小部屋で装置を操作しているようだった。

 箱の隙間からは、薄く赤い光が漏れている。



 底の方で何かが音を立て、その音共に身体に伝わる振動が強くなっていった。

 ばしゃっ……と跳ねるのは、新市街と旧市街を隔てる川の水だ。

 そう、彼らはすでに新市街を後にしているのである。



「それでは、僕は貴方にお礼を言わなければならないのでしょうね」

「いや、そんな必要は無い。むしろ感謝すべきは私の方だ」



 櫂も帆も無い、人間が3人も乗れば定員オーバーになってしまう小型の船。

 おそらくは漁船だろう、それでもフィリア人の物とは比べ物にならない程の高性能なものだが。

 リデルには操作のその字もわからない物ばかりだが、2人にはある程度わかっているのだろうか。

 だとすれば、何とも気に入らない話だと思った。



「あのままあそこにいては、私は真実を知ることも無かった。だから、そちらが気にすることでは無い」

「いえ、それでもこうしてリデルさんを保護できたのは、貴方のおかげです。だから、きちんとお礼を言わせて頂きたい」

「ふむ……まぁ、それで気が済むのなら」

「ええ、そうしてください」



 そしてその2人が何やら話を進めている一方で、リデルは沈黙を保っていた。

 それは何故か。

 理由は推して知ってほしい、頬の赤みが何よりのヒントになるだろうから。

 港に鉄馬車で突撃し、船を奪う段になっても顔の血は下がってくれなかった。



(わ、私としたことが……)



 いくらなんでも、たかが1日や2日離れていたぐらいで。

 そう思うと頭を抱えて悶々としてしまいそうになるが、そうも言っていられない。

 何故かと言うと、それはクロワに原因があり……。



「なるほど、貴方がアーサーか」

「はい……ご存知で?」

「ああ、リデルが会いたがって」

「わー! わーわーわー!」



 この男、天然なのである。

 いや違う、単に気遣いを気遣いで無くす天才なだけだ。

 しかしリデルの脳細胞は、突然叫び声を上げた彼女に向けられた二対の怪訝そうな視線を別に移す策を用意していた。



「あれ、あれ! あれって対岸じゃない!? 随分と速いのね!」

「お、おお? まぁ、最高速だからな」

「あ、ああ、道理で船の傾きが凄いと思いましたよ。では、そろそろ降りる準備をしましょうか」

「そ、そうよね! 降りる準備しないとだから、もうお喋りは厳禁! そうでしょ?」

「う、うむ」

「は、はぁ」



 リデルの完璧な――少なくとも、本人にとってはそうなのだろう――策により、2人の意識を逸らすことに成功した。

 全く、本筋と関係の無い話をするのはやめてほしいものだ。

 これは今後も2人の動向を監視し、余計なことを口走らないようにさせなくては。



「…………ねぇ」



 しかし、である。

 自分から振った話題ではあるが、ふと気になったために声を上げた。

 正面には変わらず対岸、つまり旧市街があって、どんどんと近付いてきているのだが。



「いい加減、減速とかするべきなんじゃない?」

「そうですね、そろそろ危ないかと」



 リデルとアーサーが異口同音にそう言うと、クロワもまたわかっていると言いたげに頷いて見せた。



「うむ、私もそう思うのだが……」

「「だが?」」

「うむ……」



 沈黙すること数秒、むしろきっぱりと彼は言った。



「私は動かし方はわかるのだが、止める場合はどうすれば良いのか……」

「「え」」

「いや、私が知っている頃の装置とは違うらしい。さて、どうしたものかな」



 クロワが余りにも落ち着き払っているので、他の2人は事態の重要性に気付くのが遅れた。



「「……え」」



 まぁ。



「「えええええええええええええぇぇぇっっ!?」」



 早めに気付いたからと言って、出来ることはなかったのだが。

 なお、リデルは本日二度目である。



  ◆  ◆  ◆



 いつもそこにいるわけでは無いが、気が向いた時間にはそこにいる。

 出迎えの意味もあるが、同時に見張りの意味もある。

 ソフィア側から船がいつ来るともわからないので、定期・不定期に様子を窺わなくてはならないのだ。



「結局1日経っちまったけど、アーサーの野郎はどうしてるんだろうな」

「さぁねぇ……」



 アジトの外に出る用事があったため、桟橋側から出た。

 今日の川は穏やかで風も少なく、一昔前であれば漁師で賑わっただろう状態だった。

 水も汚れ、船も無い今、それはもう望めない光景ではあったが。



「……行こう。アーサーの結果に関わらず、旧市街の中の意思疎通を遅らせるわけにもいかない。昨日はなんだかんで有耶無耶になったけど、あの時選別された子供達も隠さないといけないからな」

「そうだな」

「不満そうだな」

「いや、別に不満ってわけじゃねーよ。いつものことだしな、ただよ、何と言うかよ」

「何」

「……いや」



 釈然しゃくぜんとしない、そんな顔をするディスに溜息を吐く。

 マリアにはわかっていた、何故ならディスが感じているもやもやは彼女自身も感じているからだ。

 だがマリアは、ディスと違ってそのもやもやを無視することが出来た。

 そう言う意味で、彼女は一貫している。



「……うん?」



 そうして桟橋を去ろうとした時、彼女は遠くに……と言うには聊か近くにそれを見た。

 それはぐんぐんと距離を詰めてきており、あまりにも異常な速度のため、マリアは目を見開いた。



「あ? お、おい、あれってソフィアの船じゃ…・・・つーか、こっちに突っ込んできてねぇか!?」

「――――逃げるよ!」



 ディスの腕を掴み、跳び退く様に後方へと逃れた。

 よほどの速度だったのだろう、その直後には船は桟橋の先端へと突っ込んでいた。

 振動が足裏を伝わり、ディスとマリアはその場に倒れれそうになるのを堪えながら走らねばならなかった。

 背後では桟橋を破壊しつつ減速する鉄の船、正直、寿命が縮まる心地だった。



「と……止まった、か?」

「みたいだね」



 あたりに桟橋に使われていた板が散乱し水に浮かぶ中、桟橋のほとんどを破壊したそれが、2人の目の前にあった。

 明らかにソフィア製のその船は思ったよりも小さく、動力部が壊れでもしたのか、薄い煙を上げていた。

 無人と言うわけでも無いだろうから、誰かが乗っているはずである。

 尻餅をついた姿勢のまま、様子を窺っていると……。



「い、いたたた……」

「「アーサー!?」」



 見覚えのある顔が出てきて、2人は驚きの声を上げた。

 フィリア兵の衣装を着ているが、その顔を見間違えるはずも無い。

 アーサーは2人の姿を認めると、どこか気まずそうな表情を浮かべて笑った。



「う~、し、死ぬかと思ったわよ……」

「「あ」」

「あ? あ~……アンタ達、あの後大丈夫だった?」



 次いで出てきたリデルの姿に、2人はアーサーが成功したのだろうと思った。

 以前から有言実行の男ではあったが、まさか新市街から特定の人物を救出してくるとは思わなかった。

 それは、奇跡だ。

 そして、奇跡は続く。



「ふむ、一時はどうなることかと思ったが……何とかなるものだな」

「何とかなってないわよ! これを見てどう何とかなったって思えるのよ!?」

「あ、あはは、まぁまぁ、まぁ……ええ、怪我も無かったですし」

「怪我が無いだけじゃないのよ! 見なさいよこれ、桟橋木っ端微塵よ!?」



 マリアは、もう1人の男に視線を奪われた。

 フィリアの髪にソフィアの瞳を持つ彼を見て、は、と息を漏らした。

 真ん丸く目を見開くその様は、信じられないものを見た時のそれだ。



 しかし肝心の彼、つまりクロワが桟橋で腰を抜かしている2人に視線を向けた時には。

 少年は彼の視線を受け止めたが、女はそうしなかった。

 俯き、前髪で目線を隠す彼女にクロワは首を傾げた。

 細められた目は、何かを思い出そうとしているようにも見えた。



  ◆  ◆  ◆



 ――――さて、ここで少しばかり時間を進めよう。

 それは3人の少年少女がクルジュ旧市街に少々派手な方法で入り込んでから、ちょうど2日が経過した時のことだ。

 先々の騒動に、新市街・旧市街が共に落ち着きを取り戻した、そんな時だ。



「――――大変だ!」



 小柄な茶色の少年の声が、クルジュ旧市街の地下に響き渡った。

 相当に慌てているのだろう、息を切らせながらも、彼は続けて言った。



「す、すげぇ量の船が……対岸から!」



 これまで、新市街から旧市街への船舶の乗り入れは一度に2~4隻程度だった。

 それも奴隷を運ぶ中型船を除けば、そこまで規模の大きくない船舶ばかりだ。

 だが、今回はどうも様子が違うらしい。

 正確なことはわからないが、今までに倍する量の船舶が現れつつあることは間違いない。



 後に判明した所によると、今回旧市街側へと渡河しようとしているソフィアの鋼鉄船は全11隻。

 これまでの5倍以上、人員は500人を数えた。

 旧市街に絶望が舞い降りる、誰もがそう考え顔を覆っている最中。



「大丈夫よ」



 ただ1人、毅然と前を見据える少女が1人。

 皆の視線が集中する中、彼女は……。



「――――策を作るわ」



 ……黒いビロードの帽子に手を添えて、そう言った。


最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。

と言うわけで再会、でも次のピンチが襲来、と、次々にイベントを起こしていこうと思います。

それでは、また次回。

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