3-1:「旧王都クルジュ」
――――クルジュは、世界の縮図である。
誰が言った言葉なのかは判然としないが、それでもそれが事実の一部を突いていることは確かだ。
旧フィリアリーン聖王国王都クルジュは、世界で唯一の特徴を持っている。
ソフィア人とフィリア人が、「共存」する街。
もちろん、絶対的少数者として互いの土地に暮らす者達はいる。
だがソフィア人とフィリア人の間に隔絶たる差があるこのアナテマにおいて、2つの人種がほぼ同数で、かつ大規模に居住する街は他に存在しない。
クルジュが<双児の街>と呼ばれるのは、そのためだ。
しかし、である。
世界の縮図と言われる所以は、それだけでは無い。
ソフィア人とフィリア人には、隔絶たる差が存在する。
それはこの街においても同様で、いやむしろ縮図だからこそ、より激しい形で現れる。
すなわちこの世界で最もわかりやすく、見ることが出来るということだ。
ソフィア人がフィリア人を差別し、フィリア人がソフィア人に差別される姿を。
「はあああぁぁ~~……こんなにたくさんの人、初めて見たわ!」
徐々に気温が上がり、初夏への準備を始めたクルジュの街。
そこへ、1人の少女が足を踏み入れていた。
薄い金の髪を持つソフィアの少女は、はたしてこの<双児の街>で何を見るのだろうか。
この時点では、まだ誰にも見通すことは出来なかった。
◆ ◆ ◆
ルイナの村を経て、島の外にも人間がたくさんいることは知っていた。
父と2人で生きてきたリデルにとって、数十人規模の村でさえ驚愕に値する規模だった。
そしてここに来て、彼女は初めて人間という動物の群れを目にすることになった。
「……人」
右を見る、街路の脇に座り込む多種多様な人々がいた。
髪の色はブラウンが多いが、5人に1人くらいの割合で黒もいた。
肌はやや浅黒く、長時間日に当たり続けている者特有の色合いだ。
しかしその割に、太っている者はいない。
「……人!」
左を見る、思い思いの荷物を持って歩く多種多様な人々がいた。
個々人で微妙な違いはあるが、この街の人間は大体同じような造りの衣装を纏っていることに気付く。
男はシャツ・パンツ・ブーツの上に丈長の羽織り物を着て、それをベルトで留めている。
女は貫頭衣、袖や長スカートの裾に赤い刺繍で花を象った模様を入れている。
どちらも黒が基調で、浅黒い肌と相まってどこか地味な印象を受けた。
「人!」
前を見る、そこには広大な世界が広がっていた。
見たことも無い程に巨大な建造物、見たことも無い程に長大な街路、見たことも無い程に連なる家々。
そして何よりも、次から次へと出て来ては擦れ違っていく無数の人々。
街路の向こうまで見渡せば、何百人もいるのではないだろうか。
「どこを見ても人、人、人じゃない! こんなに人がいる所、初めて見たわ!」
「このヴェルラフ通りは、旧市街でも有数の大通りですからね」
「ヴェルラフ? 何その名前」
「いえ、何百年か前にこの通りを作った労働者の名前です。この通りは彼にちなんでそう呼ばれるんです」
「へぇ、何百年もこのままなの? それは凄いわね、そのヴェルラフって人。それも1人でこんな大きな道を」
「いや、それも少し違うんですけど……」
興奮気味に語るリデルに、苦笑しながら説明するアーサー。
これまでの旅路で何度も見てきた光景だが、ここに来てリデルは一際興奮していた。
何しろ周囲を埋め尽くす、いや視界の全てでも足りないくらいの領域を埋め尽くす人の群れを初めて見たのだ。
「ねぇアーサー、この街ってどれくらいの人がいるの?」
「そうでうすね、フィリア人だけで5万人はいますかね」
「5万人!? そんなにたくさんいてどうするの?」
「いや、どうするって……どうするんでしょうね」
「何よアンタ、自分の故郷のことも知らないの? 私なんて、島のことなら何だって知ってるわよ」
「ははは、すみません。でも、いろいろと見所もあるんですよ」
そう言ってアーサーが指差すのは、彼が言う所のクルジュの街の「見所」だ。
「例えばこの通りでは、昔は毎年、秋になれば豊穣祭の市場が開かれていたんですよ。各地で収穫した農作物が集まって、思い思いの屋台や市が並ぶんです。3日3晩ぶっ通しのお祭りなので、毎年たくさんの人が倒れていたそうです」
「何がそこまでさせるのよ。ねぇ、あのやたらに大きな建物は何? 人が住んでるの?」
「ああ、あれは塔ですよ。名前は特についていませんが、旧市街の中心に昔からある建物です。旧市街の人間は子供の頃、誰もが一度はあの塔に登って遊ぶんです」
「通りに名前をつけてる暇があるなら、あっちの塔とやらにつけなさいよ。というか、アーサーも?」
「恥ずかしながら」
「ふぅん……」
頭に乗せたビロードの帽子――薄い金の髪を押し込めている――を指先で撫で付けて、リデルは目を細めて、少し遠くにある塔を見る。
無数の石を積み上げ並べて築いたのだろう、大きな建造物だ。
石材で築く建造物は、初めて見る。
塔だけでは無い、今歩いている街路もそうだ。
足元に大きく四角い石が敷き詰められていて、靴と石材の間で砂や小石がザリザリと歩く度に音を立てる。
塔以外の建物も、基本は石材で出来ている。
小さな直方体の石を何個も積み、石と石との間を白灰色の漆喰で固める造りになっていた。
「なら、私も登ってみたいわね」
「え」
「何よその顔、何か文句でもあるの?」
「いえ、別にそう言うわけでは」
少し悩むような表情を見せるアーサーに、リデルはふんと鼻を鳴らした。
彼が悩む理由は、何となくわかっていた。
「アンタが昔登ったって言うあの塔に行って、そしてこの街を見たいのよ」
酔ってしまいそうな心地で、リデルはそう望んだ。
人も、建物も、大きくて多くて、目が回ってしまいそう。
そしてもう一つ、気付いてしまった特徴がある。
空気が綺麗な島での生活しか知らないからこそ、気付いてしまうのだ。
――――街全体を覆う、「臭い」に。
◆ ◆ ◆
街に足を踏み入れた時、まず感じたのは臭いだった。
自然の物では無い、人間が無数に集まった結果として発生する臭い。
言葉にするのは、なかなか難しい。
例えるなら、地面に落ちた果実を腐るままに放置したような。
例えるなら、地に倒れた獣の死骸を埋めずに放置したような。
例えるなら、汚れをそのまま洗わずに放置した衣服のような。
あるいはその全てを綯い交ぜにしたような、およそ不快な臭いで満ちていた。
「ふと思ったんだけど、この塔って勝手に登って良かったのかしら」
「まぁ大丈夫でしょう、誰が管理しているわけでも無いですしね」
「……私は建築には詳しくないけど、これだけ高い塔を管理する人がいないってダメなんじゃないの?」
「昔は人を置いていたんですけどね、ちゃんと」
肩を竦めているアーサーに「ふーん」と返して、リデルは彼から離れた。
今彼女達は塔の真下にいる、頂上は地上60メートルと言った所か。
リデルの14年余りの人生の中で、これほど高い建造物を間近で見上げたのは初めての経験だった。
先程の通りを真っ直ぐに抜けて、さらに2つの通りを経てここまで来た。
その距離だけでも、ルイナの村を3周してもなお足りない程の距離だった。
本当はもっとショートカット出来るのだが、そのためには裏路地を通る必要がある。
つまり、アーサーはあえて表通りだけを通ってきたわけだ。
「ん」
その時、不意にリデルが息を詰めた。
片目を閉じて服の襟を摘み、胸元を覗き込むような仕草をする。
モゾモゾと動くそれらに溜息を吐いて、襟を正した。
「じゃあこの塔、誰もいないの?」
「今はそうですね。ただの時計塔だった建物ですから、部屋数も見た目程には多くないですし」
「時計塔?」
「ええ、ほら、一番上に時計が見えるじゃないですか」
「ふーん……?」
街の臭いを嫌ってか、鼻先を指で投げながら見上げるリデル。
視線の先、つまり塔の頂上には確かに時計がある。
直系5メートル程の鉄枠の大時計だ、古いが確かな設計者がいたことを窺わせる。
壊れているのか、針はどうも動いていないようだった。
「ねぇ、アーサー」
「はい?」
「……時計って、何?」
「………………え?」
きょとんとした顔を聞いてくるリデルに、アーサーは固まった。
まさに、時間が止まったかのように。
◆ ◆ ◆
塔の頂上、元々は時計盤の清掃のために設けられた穴から外に出る。
ぶわっ……と風全身を撫で、帽子を飛ばされないように押さえた。
「わぷっ……と、流石に寒いわね」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、服の下があったかいから」
石造りの塔、しばらく誰の手も入っていないせいか足元は鳥の羽や巣の跡などが散乱していた。
それらを慎重に避けつつ端まで行けば、街全体を見渡すことが出来た。
旧王都クルジュ、アーサーの故郷を。
「本当、大きな街ね」
「腐っても一国の中心だった街ですから」
「腐ってるの?」
「……さて、ね」
上から見下ろす光景と言うものも、初めて見た。
随分と遠くまで見渡せる上に、想像していたよりもずっと風が強く、空に近い。
そして初めて見る大都市の全貌は、息を呑むには十分すぎる程のものだった。
まず視界に入るのは川だ、川の水は土色に濁っていて透明感は無い。
川幅はどのくらいあるのだろう、今いる塔を倒して2倍したよりも少し長いくらいだろうか。
そして、眼下に広がるフィリア人達の住まう街並み。
昼食に近い時間帯だからか、炊事の煙があちこちで見える。
建物に使われる石材がほぼ共通のためか、くすんだ白と灰色が統一色となっている。
「あそこがギュネの公園ですね、昔は大きな花畑があって、ピクニックの名所だったんですよ。それから向こうに見えるのがフリュの桟橋、昔はあそこから下流に釣りに出る人がたくさんいました。それと……」
アーサーの指先を追って、クルジュの街を見ていく。
先程の通りと似たような通りも何本もあり、軒数など数える気にもならない。
郊外へと半円状に広がっている街並みは、完成された芸術品のようにも見えた。
ただリデルには、少し気になることもあった。
それは何かと言えば、アーサーの物言いだ。
彼の表情はいつも通りなので内心を量ることは出来ないが、言葉には違和感を感じた。
言葉の端々に、「昔は」と言う単語が多いことだ。
それはつまり、「今は」そうでは無いと示しているからだ。
「ねぇ、アーサー」
「はい、何でしょう」
「あれって、船?」
その時ふと見つけたものがあって、声をかけた。
眼下では今も多くの人間が通りを歩いているが、彼女の視線があるのは川の方だ。
アーサーの教えた桟橋の向こう側に、大きな船着場が見える。
大きいと言っても桟橋との比較であって、海の船着場とは違う。
「ええ、船ですよ。ただし木造船では無く、鉄や金属で造られた船舶ですが」
「鉄……金属の船ね」
鉱物には詳しくないが、そんなに重いものを水に浮かせるのは難しいのではないだろうか。
だが実際、黒光りする大きな船舶が出航していく姿が見える。
技術的な知識が無いことが悔やまれる、出来れば乗りたいと思った。
しかし、彼女の問いの本質はそこでは無かった。
「何か溢れ出しそうなくらいに人が乗ってるけど、あの人達はどこに行くの?」
「……対岸でしょうね」
「対岸? ああ、向こう側にも街が見えるものね」
船の舳先の先に視線を向けると、川の向こうにも街並みが見えた。
こちら側と違って色とりどりの建物があるようで、どこか派手な印象を受けた。
大きな建物もいくつか見えるし、あちらはあちらで面白そうではある。
そんな対岸に向けて、合計2隻の船舶が進んでいる。
どちらの船舶も音も立てずに進んでいる上、甲板上から溢れて川に落ちそうな程の人数が乗り込んでいた。
ブラウンと髪がほとんどだから、おそらく彼らはフィリア人なのだろう。
あまりに多人数がすし詰めになっているため、座ることも出来ずに立っていた。
「じゃあ、あの人達は向こう側に行くの?」
「ええ、まぁ」
妙に歯切れの悪いアーサー、リデルはそれを少し気にしつつも続けた。
「あの人達はどこに行くの? 向こう側に行ってどうするの?」
「それはまぁ、色々でしょうね。北だったり、東だったり……」
「何よもう、煮え切らないわね。もっとはっきり答えなさいよ」
「はぁ……」
アーサーは、あー、と少し迷う素振りを見せつつも、リデルに睨む視線に溜息を吐いて、答えた。
しかしそれは、リデルが望んでいたような答えとは違って。
「彼らは」
「何よ」
「商品、ですから」
あまり、愉快なものでは無かった。
◆ ◆ ◆
実の所、リデルには経済観念が無い。
島で自給自足の生活を営んできた彼女にとって、商品と言う言葉は聞き慣れないものだった。
ルイナと別れた村でも、ついぞ「お金」などと言うものは見なかった。
物とお金を交換する、いわゆる貨幣経済と言うものを知らないのだ。
まして人間をお金で買うなど、考えたことも無い。
だがアーサーは、クルジュでは、もっと言えばフィリアの地では今や普通のことだと言う。
「クルジュの歴史は何百年も前に遡りますが、ソフィア人が居住を始めたのはほんの数十年前からです」
それはつまる所、ソフィア人の国がアナテマ大陸を制覇してからのことだ。
アーサーが船の向かう先、対岸の街並みを指差す。
「あそこにあるのは新市街、ソフィア人達の街です」
「ソフィア人の街?」
「ええ、人口と街の広さも大体は同じです。旧フィリアリーンの国土の中で言えば、最大のソフィア人コミュニティを築いていると言えるでしょうね」
「ふぅん」
ふぅん、としか言いようが無い。
そんなリデルの反応に苦笑を浮かべるアーサー、しかしその苦笑もすぐに引っ込めて、彼は早くも川の中央を越えようとしている船舶の後部を眺めやった。
その瞳からは、何の感情も読み取れない。
「20年前の東部叛乱以後、そして12年前の大公国による再制圧以降、フィリア人の生活は変わりました。ほんの少数のソフィア人が土地を買い占めて、それから多くのソフィア人から入植してきました。いつの間にか対岸に新しい街を築いて、そしていつの間にかフィリア人を買い入れてソフィアの地に労働力として送るようになりました」
「いや、ちょっと待ちなさいよ。いつの間にかって、そんな大事なことがいつの間にか出来るようになるわけないじゃない」
「そうですね、普通はそう思いますよね」
でも現実は、本当にそうだったのだ。
いつの間にか自分達の国が戦争に負けて、いつの間にか自分達の統治者がいなくなって、いつの間にかこの街がソフィア人達の物になって、いつの間にか自分達が商品にされていた。
本当に、いつの間にか。
「いつの間にかって……そんなわけ」
眼下を見る、通りを歩く無数のフィリア人を見る。
その歩みがどこか重く、衣服がくたびれ、表情も疲れているように見えるのは気のせいだろうか。
何となく、ルイナの村で見た飢民の姿が重なった。
そこで、リデルはアーサーと目を合わせた。
彼の目を見て、ああ、と思った。
なるほどと言うのとはまた違う、ああ、と言う感情だった。
「それで」
小さく首を傾げるようにして、言った。
「アンタは私に、と言うよりパパに、か。どうしてほしいの?」
この街に、フィリア人がわかりやすく虐げられているこの街に連れてきて。
「いったい、何をしてほしいの?」
「……そう、ですね」
リデルから視線を外して、彼も言った。
「これから貴女を、ある場所に案内します」
「あら、どこかしら」
「それはまだ秘密です。まぁ、とは言っても」
背中を見せて、歩き出す。
リデルがその背中について歩いてくるのを確認してから、彼は言った。
「たぶん、リデルさんが考えていることとそう外れてはいませんよ」
アーサーは<東の軍師>に、リデルの父に救いを求めて島に来た。
その娘であり父の知を継いだリデル、そんな彼女をどうしてクルジュに連れてきたのか。
連れてきたかったのか。
そんなもの、答えは最初から一つだけだ。
彼が言っていた、そのままの意味で、つまり。
アーサーはリデルに、フィリア人達を救済する策を考えてほしいのだ。
◆ ◆ ◆
食事。
彼女にとって、食事とは人間の生活の中で最も大事なものだった。
お腹一杯にご飯を食べることは豊かさの証明であり、それだけで幸福な気持ちになれるからだ。
漬けキャベツと豚肉・ソーセージの盛り合わせ、鴨モモ肉の脂漬け。
卵とハムのオープンサンド、レバー団子入りスープ、子牛のカツレツ。
山菜のサラダ、黒パン、白チーズ、そしてミルク入り紅茶と果物各種。
どれも彼女の好物であり、そしてそのどれもが誰でも食せる料理ではなかった。
「だって言うのに……」
紅茶を唇の前で揺らしながら、片眉をピクピクと震わせている女。
腰まで届く長い金髪、軍服とローブを混ぜたような衣装。
長くしなやかな足を組んだ姿勢で、彼女は目の前の惨状を見ていた。
彼女の名はアレクフィナ、大公国が誇る魔術師の1人である。
そんな彼女の前で、ひたすらに空の皿を積み上げていく存在がいる。
アレクフィナが慎ましく3枚だというのに、30枚は超えている。
それは男で、しかもかなり丸々と太った男だった。
もう見た目通りと言うか、期待を裏切らない意地汚さでもって「ガツガツガツガツ」と食べていた。
食べ零しが凄まじい、白いテーブルクロスにソースやドレッシングが飛び散っている。
「……ブラァン」
「がふがふがふがふ……がふ?」
「お前! いつもいつもいつもいっつも……! もっと上品に食べられないのかい!?」
クルジュの新市街にあるオープンテラスのレストラン、アレクフィナ達はそこで昼食を取っていた。
食事だけでは無く、街の公共浴場で身を清め、魔術師達の共同体である魔術協会の支部で新しい制服を支給して貰って、それからの食事だった。
「ふひひ、ごめんだぞ~」
「だぁっ! 口の中に物を入れたまま喋るんじゃないよ、みっともない! それからスコーラン、お前!」
「う、うぃっス、アレクフィナの姐御」
「お前はもう少し食べな! 食が細すぎるんだよ! 女のアタシより少ないじゃないか!」
「いや、それは姐御が食べす」
「あぁん?」
「…………うっス」
そうこうする内に食事も終わる、ウェイターが持ってきた伝票にサインする。
しかしそこに書き込むのはアレクフィナの名前では無く、協会の名称と所属番号だ。
ソフィア人の土地において、魔術師はお金を払う必要が無い。
もちろん証明は必要だが、<アリウスの石>以上に証明になるものは無い。
「無人馬車は来てるか?」
「はい」
「ん、ご苦労さん」
ウェイターの男――当然、ソフィア人だ――に鷹揚に告げて、アレクフィナは立ち上がる。
未だ食べ続けているブランの頭を小突いた時、ふとそれが見えた。
川に程近いオープンテラスのレストラン、そこから船舶の搬入が見えたのだ。
無数の汚らしい姿の人々、ブラウンと黒の髪の男女がぞろぞろと船から下ろされている。
「……はん」
それに冷たい視線を見せて、アレクフィナは2人の部下を連れて店を出た。
店を出た先には、ソフィア人の世界が広がっている。
豊かさと自由、そして繁栄を落とし込んだかのような光景が広がっている。
色とりどりの綺麗な服を着て、血色の良い笑顔で道を歩く人々。
そこかしこから聞こえてくる声は明るく、露天商の威勢の良い客引きの声が響く。
空気に乗って香るのは美味しそうなスイーツの香り、ゴミ一つ無い清潔な空間、<アリウスの石>由来の街灯設備は空気を清浄にする効果も持っている。
そして、大通りの中心を走る――――無数の鉄馬車。
「そういやアレクフィナの姐御、これからどこに行くんで?」
「あ? 言って無かったかい?」
「ふひひ、聞いて無いんだぞ~」
フィリア人の土地で泥に塗れて仕事をしていたアレクフィナにとって、ここは居心地の良い場所だった。
清潔で、危険も無く、どんな物でも手に入る場所。
それが、ソフィア人の世界なのだから。
「ここのお偉いさんに会いに行くんだよ、付き合いってのもあるが、まぁ報告だね」
「報告ですかい?」
「ふひひ、何を報告するんだぞ~?」
「決まってるじゃないか、馬鹿な奴らだね」
ふんっ、と鼻を鳴らして、自分を迎えに来た馬車――馬車と言う割に馬はおらず、代わりに赤い石が御者席に据えつけられていて、車輪は道に敷かれたラインの上に乗っている――に乗り込みながら、彼女は言った。
どこか、面倒そうに。
「王子様が帰って来たって、教えてやるんだよ」
◆ ◆ ◆
ソフィア人のクルジュでの歴史は、恐ろしく短い。
何しろ新市街の開設が20年程前で、今の形になったのが10年程前――王制が終了した直後だ――なのである、歴史と言うには浅いとしか言いようが無い。
少なくとも、何百年も前から暮らしていたフィリア人と比べるべくも無い。
「お前らはここで待ってな」
「わかりやしたぜ、アレクフィナの姐御!」
「ふひひ、待ってるんだぞ~」
「待ってる間に茶菓子を平らげたりするんじゃないよ!? スコーラン、ブランの面倒を……ああ、無理か」
酷いぜ!? と憤慨する部下を置いて、アレクフィナは赤絨毯の通路を歩き始めた。
こちらへ、と丁寧な仕草で案内してくれる職員の後に続く形になる。
ウール製の黒服の背中を何とはなしに見つめながら、アレクフィナは空気の堅苦しさからか、首を傾げる要領で肩を鳴らした。
(仕事とは言え、出来れば来たく無かったんだけどねぇ)
理由は2つある、まず第一にこの建物の雰囲気が苦手なのだ。
ふかふかの赤絨毯、大理石の床、白亜の壁と金細工を散りばめた天井、天井には硝子細工のシャンデリアまで揺れている。
通路の至る所に置かれている絵画や彫刻等も一級品で、一つだけで一財産築けそうだ。
正直そこまで育ちが良いわけでは無いので、厳かな雰囲気に肩が凝って仕方が無い。
まるでどこかの宮殿の、いや、まさに宮殿だ。
ここはかつてのフィリアリーン王制時代に宮殿として使用されていた場所で、それを王制終焉後にソフィア人の国であるアム・リッツァー大公国が接収したのだ。
まぁそれ自体にアレクフィナは不満を抱かない、そもそもフィリア人が宮殿などを持つこと自体がおかしいと考えているからだ。
(まぁ、それはアタシが我慢すりゃあ良いんだ。ただ)
こちらです、と職員が示した扉の前で立ち止まる。
マホガニー製の大扉で、微細な装飾と金色のドアノブ、ドアノッカーが美しい。
見るからに「僕、高級です」と言わんばかりの造りに、アレクフィナは職員に知られないよう嘆息した。
その時。
――――ア゛ア゛ア゛ァ゛ッ゛
……おぞましい叫び声が、聞こえた。
濁っていながらも甲高い声は、その後も断続的に扉の向こうから漏れ聞こえてきた。
分厚い扉のおかげで全容はわからないが、それだけに、凄まじい声量で叫んでいることの証明でもあった。
(だから、嫌だったんだよ)
これがもう一つの理由、今のこのクルジュ宮殿の主、魔術師達の祖国であるアムリッツァー大公国から派遣されてきた領主、「総督」。
アレクフィナは彼に、出来れば会いたく無かったのだ。
しかし隣の職員の顔を窺うと、彼は表情一つ変えていなかった。
(……趣味が悪ぃ)
諦めるように息を吐いて、アレクフィナは扉をノックした。
中から返答が無い、が、職員が扉を開けた瞬間、声が強まると同時にむわっとした甘ったるい匂いが鼻腔を撫でた。
アレクフィナは不快さを無表情の仮面の下に隠し、部下達を置いて来て正解だったと感じつつ、部屋の中に入った。
――――その10分後、アレクフィナは部屋から出てきた。
その表情は見るからに青白く、不快そうで、吐き気を堪えている様子だった。
クルジュの事実上の統治者に対して不敬、と指摘する立場にある職員は、しかし何も言わなかった。
彼はただ静かに扉を閉め、そして来た時同様、彼女を宮殿の玄関ホールまで送った。
途中、求められてアレクフィナを女性用お手洗いに案内した以外は。
◆ ◆ ◆
――――旧王都クルジュ・フィリア人街。
結局、日が落ちて夜になるまで待ってからの移動になった。
アーサーの持つ燃料製の灯り――初めて見た時には、つい分解しかけてしまった――を追いかけながら、リデルはいろいろなことを考えていた。
と言うより、少し前から不思議に思っていたのだ。
(アーサーって、この街……と言うか、この国の王子様なのよね?)
これまでフィリア人の土地を旅してきたが、正直、その肩書きがプラスの面を見せたことは無かった。
と言うより、ルイナの村でも彼を王子様扱いする者はいなかった。
アーサーはその点について多くを語らないのでわからないが、この街についてからも、彼の顔を見て何かを言ってくる者はいない。
(まぁ、国が滅びたのは12年前の話だから、ってことかしら)
12年前なら、アーサーもまだほんの子供だったはずだ。
その時のアーサーと今の彼を重ねられないだけかもしれない、リデルには少し想像しにくいが。
「リデルさん」
「ひっ!? な、なによ!?」
「……すみません、そこまで驚かせるつもりは……」
「べ、別に驚いてなんてないわよ! それで何?」
考え事をしている最中に話しかけられたため、少し驚いてしまった。
なお彼女らの居場所は川の側だ、石材で護岸工事が施されたその場所にいる。
そう、例の桟橋だ。
昔は釣り人で賑わっていたと言うその場所に、リデル達はいた。
「いえ、今から少し水の中に入るんですが」
「ああ、そう。それで?」
「桟橋の下に潜り込まなければならないのですが、女性には少々厳しいかな、と」
「……あのさ」
少し呆れた様子で、リデルは言った。
「私がどこで育ってきたか知ってる?」
ざばんっ、と、アーサーが止める間も無く川へと足から飛び込むリデル。
桟橋下に敷き詰められた岩は足場になり、肩から上を水面に出してくれるが、ぬめりが強いため足場としては頼りないかもしれない。
おっとと、と桟橋の支柱に手を添えてバランスを取るリデル。
「……そういえば島育ちでしたね、って、いやいやそうでは無く」
あたりを見渡し、付近に誰もいないことを確認してからランプの火を消す。
真っ暗になった視界に、流石のリデルも身を固くした。
だがすぐに傍の水面に何かが入り、支柱に寄せていた自分の手を誰かが取った。
誰と言うか、アーサーの手だろう。
「こっちです」
そう言って、自分を引いて行くアーサーについて行く。
夜の川の水は冷たいが、繋いだ手だけは温かい。
「それで、どこに行くのよ?」
「はい、この桟橋の根元に入り口があるんですよ」
「何でこんな場所に」
「いえ、まぁ、人目につくと不味いですからね」
暗闇の中、繋いだ手の熱とアーサーの声だけを頼りに、不安定な足場をざぶざぶと進む。
何も移さない夜の闇、冷たい水、温かな手。
そんな状況の中、アーサーの声だけが淡々と響いた。
「――――抵抗勢力のアジトって言うのは、ね」
何だか、初めて亡国の王子様らしい台詞を聞いた気がする。
少し酷いことを考えてから、リデルは冷たさを堪えるように口を閉じた。
後には、ざぶざぶと水を掻き分ける音だけが響いていた。
そしてそれすらも、川面の風音の中に溶けて消える……。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
いよいよ3章となり、本格的に物語を動かしていきたいと思います。
ようやっと、好みの描写が出来そうな気がします。
それでは、また次回。