1-1:「始まりは沼の味」
風邪を引きました。
それも、週明けと言う最悪のタイミングで引きました。
皆様も、体調にはくれぐれもお気をつけください。
では、どうぞ。
――――その大半島は、アナテマ大陸と呼ばれている。
北方を果ての見えぬ大山脈が広がり、残る三方を広大な海に囲まれた半島だ。
山脈や海の向こう側に何があるのかを知る者はおらず、実質的に、このアナテマ大陸が世界の全てだった。
人間の世界、人類の生存圏の、全てだった。
この限られた世界で、人々はすでに数千年の歴史を歩んでいる。
時に争い、時に手を取り合い、時に分裂し、時に統合されながら、歩んできた歴史だ。
そしてこの時代、アナテマ大陸には3つの国家が割拠していた。
300年の歴史を持ち、12年前まで大陸の全てを支配していた老大国――アムリッツァー大公国。
アムリッツァー大公国から独立し、聖樹教と言う宗教で繋がる国家連合――バルロップ連合。
その何れにも属さぬ中立の地であり、独自の文化に生きる者達の王国――統一ミノス王国。
三国が覇を競い合う、微妙なバランスが世界を成り立たせていた時代。
戦乱の、時代。
この時代、この年の春、世界は何も変わらないように見えた。
三国が睨み合う硬直した世界で、人々は生まれ落ちた土地に根を下ろし、それぞれに見合った生活を営んでいた。
昨日も今日も明日も何も変わらないと、諦めにも似た気持ちを抱いて生きていた。
もしも未来を知る人間がいたならば、彼らを見てこう言っただろう。
違う、と。
変化はすでに起こっている、今この瞬間にこそ起こっていると、そう言っただろう。
何故ならば、彼ら――未来の人々のことだ――は、良く知っているから。
この時代に、この春に、この瞬間に、世界のどこから変化が起こり始めたのかを知っているから。
それは、南からやってくる。
アムリッツァー大公国の勢力圏、その南端に位置する海上の孤島。
その島で今から起こる事件、それこそが世界の、そして歴史の。
変化の、兆だ。
◆ ◆ ◆
アナテマ大陸の片隅に、ヘレム島と言う島がある。
大陸でも南部に位置する島で、上空から見るとひしゃげた台形のような形をしている。
外周2キロ弱と小さく、唯一ある山の標高も400メートル程度、面積の85%を森が占めている緑豊かな島だ。
人の生活感は無い、一見無人島のようなこの島に。
「ふぅ……こんなものでしょ、っと!」
少女が1人、いた。
高い木々に囲まれる森の中、しゃがみ込むようにして何かを縛っているようだった。
ぎっ、と少女の手元で鈍い音を立てたのは、植物の蔓で縛られた何十本もの薪だ。
両側に輪が出来るように縛られたそれに腕を通して、背中に背負って立ち上がる。
背中に手指を差し込み、薪と背中に挟まれた髪を外へと放った。
木々の隙間から漏れる日の光が、薄い金の髪をキラキラと輝かせる。
菫色の瞳に満足の色を浮かべて、少女――リデルは、森の中を歩き始めた。
一歩を踏みしめる度に、地面を覆う卵形の葉が硬い音を立てる。
「ふん、ふふん……♪」
葉を踏みしめる音は、足音と言うには楽しげだ。
そしてその気持ちを表現するかのように、少女が鼻歌を歌い始めた。
盛り上がった土をジャンプして越え、やがて鼻歌は陽気な歌声へと変わる。
15メートルを超える木々が屋内ホールのような効果をもたらし、リズム感のある戦慄を反響させていく。
「ふん、ふん、ふふん♪」
すると、どうしたことだろう。
リデルの歌声に呼ばれでもしたかのように、木々や茂みの中から声が聞こえてきた。
人の声では無い、もっと小さな存在。
あるいは小鳥、あるいは齧歯類が、リデルの周りに集まって来た。
ちゅんちゅん、ききききっ、かちかちかちっ。
思い思いの鳴き声が、リデルに挨拶をするように響く。
リデルが歩を進める先々で、それはどんどんと増えていった。
リス達がリデルの足元を駆け抜けるように跳ね、小鳥が肩や頭に乗って歌うように鳴く。
そんな少女の姿はまるで、春の到来を喜ぶ森の妖精のようだった。
「おはよう皆、今日も良い天気ね!」
元気良くそう言うリデルに、動物達が鳴き声で応える。
それは、この島ではいつもの光景だった。
リデルは毎日お昼ご飯の前に、この道を通って、薪や食料を採取している。
それから森を抜けて、さらに島唯一の山を抜け、海岸へと散歩をするのだ。
余談だが西側には沼地がある、危ないのでリデルもあまり近付かないが。
彼女達の散歩道は、いつも賑やかなものだ。
少女の歌と動物達の鳴き声が絶えない、楽しい行進だ。
歩き、歌い、笑って、木々の間から漏れる日の光の中、踊るように練り歩く。
邪魔をする者など誰もいない、それは少女達の楽園だった。
「…………おはよう」
不意に、楽園の喧騒が消えた。
リデルが歌を止めると動物達の鳴き声も止まり、代わりに静寂が訪れた。
いつの間にか、景色も変わっている。
それまでは大きな木々に囲まれていたが、今、頭上は葉で遮られていない。
木々は半円の形で後ろと横に広がっていて、頭上には透き通るような青空が見えている。
「今日も、良い天気ね」
先程と同じ台詞は、だが同じ言葉とは思えない。
雑草に覆われた地面にしゃがみ込んで、背負っていた薪も下ろす。
肩に止まっていた鳥達も離れて、他の動物達も座るなり立ち止まるなりしていた。
流れてくる風には潮の香りが混ざり、広がる視界には水平線が見えている。
そこは、海岸だった。
海岸というよりは崖や岩場と言った方が良いだろう、この島には一ヶ所を除いて砂浜は無い。
リデル達がいるのは、そう言う場所だった。
海と森の境界線、そんな場所。
「……………………」
そんな場所で、リデルは祈りを捧げていた。
胸の前で手を組み、顎を少し引くようにして目を閉じる。
気のせいで無ければ、周りを囲む動物達も同じように頭を下げているように見えた。
祈りの先にあるのは、僅かに盛り上がった地面だ。
自然にそうなったのでは無い、誰かが土を掘り、そして改めて土をかけたのだろう。
手入れでもされているのか、そこにだけ雑草の類が生えていない。
盛り上がりの頂きに、小綺麗な白い石が積まれていた。
「…………良し」
それから、5分程はそうしていただろうか。
満足そうに頷いてリデルが顔を上げる、そして同時に薪に手をかけた。
後はこのまま家に戻り、一日の作業をするだけだ。
昨日までと何も変わらない、いつもの時間だ。
「――――!」
「え……え、何? なになに!?」
その時、俄かに森が騒がしくなった。
周りの動物達が急に騒ぎ始めて、今まで以上にリデルの傍に集まって来たのだ。
鳥達が飛び立ち、動物達も警戒するような鳴き声を上げる。
いきなりのことに、リデルも慌てる。
そして右横の茂みから、新たに数匹の動物が飛び出してきて……。
――――世界が動き出す時が、来た。
◆ ◆ ◆
さて、ここで少し時間を遡る必要がある。
ヘレム島は大陸でも南部に位置しているが、大洋の中で孤立しているわけでは無い。
いわゆる湾の中にある島の一つで、古くから「ゾイデル湾」と呼ばれる海域に存在している。
そして当然、湾の沿岸部には多くの漁村があり――――……。
「……行ってしまうのですね」
哀しげな声が、少年の動きを止めた。
まだ日も昇っていない早朝だ、水平線近くの空も、まだ白み始めたばかりと言う時間帯。
朝の冷気が、少女の声の寂しさを伝えようとしているかのようだった。
2人がいるのは、人気の無い海辺だった。
少年は船の縁に手を置いていた、木造の小さな漁船だ。。
相当に古いのだろう、船体が日焼けと海水の染みで暗く変色していた。
船底には貝や藻がびっしりとついていて、それを前にする少年の足は脛までが海水に浸かっている。
船と足の間で、波に揺らされた海水が小さく音を立てた。
「こんなことなら、話さなければ良かった……そう思います」
「僕は貴女に感謝しています。貴女がいなければ、僕は次の目標も見つけられなかった」
哀しそうな少女を見兼ねたのか、少年が励ましともお礼とも取れるようなことを言う。
丁寧な声を受けて、しかし少女は悲しそうに首を傾げた。。
頭を覆うスカーフの間から茶色の髪がさらりと流れ、ゆったりとしたブラウスとスカートが海風に揺れた。
年の頃は10代も終わろうと言う頃か、身長が高いせいか少年より年上にも見える。
「あ……っ」
不意に少女が声を上げ、僅かだが片手を伸ばそうとした。
少年が海水を跳ね上げて、船に乗り込んだからだ。
湿った音を立てて着地した少年は、櫂を手に拾うと少女へと視線を向けた。
「これからどうするのか、聞いても良いですか?」
振り返る形になった少年の視界には、今は海辺の様子が全て見えていた。
そう遠くない時期に燃えてしまったのだろう、黒く焦げた数件の家が見える。
薄い木材で出来た粗末な家々だが、それでも人の営みがあったのだろう、燃え残った銛の刃先や漁具の網が散乱していた。
匂いも気配も海風に攫われてしまったその場所に、少年は僅かに顔を顰めた。
「親類を頼って、農作業でもしようかと思っています」
「そうですか……送ってあげられれば、良かったんですけど」
「謝らないで下さい、貴方の事情はわかっていますから。それに、父や皆のことだけで十分に……」
小さく首を振る少女の耳に、そうですか、と言う呟きだけが届く。
そこで、少女がクスリと笑った。
「と言うか、その口調。もう必要ないと思いますけど?」
「癖なもので」
最後が笑顔なのは良いことだ、だから少年は肩を竦めるだけで終わった。
それを見て、少女が口元に手を当ててまたクスリと笑う。
そしてその手を、そのまま胸元へと当てた。
さらにもう片方の手を重ねると、僅かに膝を折った。
どこか、礼をするように目を閉じて。
「貴方に、『聖女フィリアの加護がありますように』」
「……貴女にも、『聖女フィリアの加護がありますように』」
別れは、静かだった。
背中を向けた後、彼は後ろを振り返りはしなかった。
代わりに櫂の先を海面に突き刺して、腰と腕の力を使って船を前へと進める。
その時、水平線の彼方から白の輝きが見えた。
日の出だ。
太陽の輝きが海に反射して、世界を白く染め上げていく。
そんな中にあって、眩しそうに目を細めながらも、少年は顔を上げた。
正面、水平線の向こうからの輝きに照らされる存在を見つめる。
「…………あそこに」
青い海の中、孤立するようにポツンと存在する小さな島。
緑の木々に覆われているように見えるその島の姿を認めると、少年は眦を決した。
そして、櫂を動かす腕に力を込める。
力を込めて、漕ぎ出した。
そんな少年の周りを、白い羽根を散らしながら海鳥が舞い、鳴く。
朝の穏やかな海の上、少年が小さな船を懸命に漕ぐ。
それは何かを求めているようにも、何かに縋ろうとしているようにも見えた。
ただとにかく、少年は島を目指していた。
島を、目指していた。
◆ ◆ ◆
少年が目的の島に到着したのは、2時間後のことだった。
日はすっかり昇りきっていて、少年の姿もはっきりと見て取れるようになっていた。
170センチ代半ばの身を覆う衣服は古く傷んでいるが、元々の仕立ては良いようだ。
両手には赤い石を嵌め込んだ皮の手袋を嵌めている、衣服に比べると傷みなどは無い。
年の頃は17歳、ブラウンの髪にフォレストグリーンの瞳が日に映えて精悍に映る。
すっきりと通った鼻梁に形良く引き結ばれた唇、僅かに焼けた白い肌。
跳ねが強く男性にしては長めの髪は、部分部分で少し長さが異なっていた。
前髪は目にかかる程度、横髪は頬を撫でる程度、後髪は服の襟元を隠す程度……と言った具合だ。
丁寧な言葉遣いと比べて、外見はどこか粗野な印象を受けた。
「い……意外と、遠かったです、ね……」
船を島唯一の砂浜へと乗り付けて、少年は深く息を吐いた。
手を膝についた際、胸元から覗く物があった。
木製の首飾り、古い物なのか、磨耗して角が丸くなっていた。
そして首飾りには人の手でこう彫られていた、『アーサー・T・S・フィリア』。
どうやらこの少年は、アーサーと言う名前らしい。
「でも、この島にいるはずなんですよね……」
顎先の汗を拭うようにしながら、アーサーが上を見る。
緑に覆われた島の全容を、見ようとでもするかのように。
「――――「彼」が」
乗り付けた船をそのままに、アーサーは歩き始めた。
口ぶりから察するに、誰かを探しに来たのだろう。
でなければ、こんな何も無い孤島にやって来たりはしないだろうから。
しかし結論から言えば、彼の捜索は困難を極めた。
当然だろう、小さいとは言え島だ、「この島にいる」と言う情報しか持たずに探しても見つかるものでは無い。
それでも、アーサーは足を止めなかった。
何が彼にそうさせるのかはわからない、だが、足を止めずに歩き続けていたことは確かだ。
「……これは」
高い所から見下ろせば何か見えるかと思い、山を目指したのが不味かった。
森は思ったよりも深く、すぐに方角を見失い、地面に落ち重なった落ち葉のせいで足跡を追って戻ることすら出来ない。
聞こえる物と言えば、落ち葉を踏みしめる音と鳥の鳴き声くらいな物だ。
「少し、不味いかもしれませんね……?」
言うまでも無く、これは遭難と呼ばれる状況である。
外周2キロにも及ばない小さな島だからといって侮ってはいけない、世の中には街中で迷子になって命を落とす人間だっているのだ。
況や、文明的要素が皆無な孤島ともなれば。
それでも、やはり足は止めない。
それからさらに1時間が経ち、日がすっかり昇って、流石に空腹と喉の渇きを覚え始めた頃。
彼は、ようやく見つけることが出来た。
「あ」
休息を真剣に考え始めた矢先のことだった。
葉の棘や木の皮で傷だらけになった指先で茂みを掻き分けて、顔を出した。
そこは3方を森の木々に、1方を海に面した崖に囲まれた空間だった。
広くて、ちょっとした宴会が出来そうなスペースだ。
「…………」
アーサーは息を潜めて、茂みの中にその身を戻した。
枝葉が肌を刺すが、気にも止めていない。
息を殺して、見つけた空間をじっと見つめている。
そこにいたのは、少女だった。
◆ ◆ ◆
その少女はアーサーよりもずっと小柄で、太陽の光がまるで少女を彩るように薄い金の髪を輝かせていた。
彼女は手を組み目を閉じて、祈りを捧げている様子だった。
動物や鳥に囲まれているその姿は、どこか幻想的ですらある。
だから一瞬、見惚れてしまった。
「……誰かの、お墓……?」
髪は綺麗なストレートだが首の後ろで一本結びにしている、毛先は腰まで届いていた。
もしこの島で暮らしているのなら、不似合いに長い髪だなと思った。
肌の色はアーサーよりもずっと白い、だが不思議と虚弱そうな印象は受けなかった。
身体つきが平坦なことと、顔立ちに幼さが残っていることから、年下なのだろうと思う。
色合いが全体的に暗く、パンツとスカートを同時に着用する独特の衣服に身を包んでいた。
袖幅の広い白いシャツの上に、赤で縁取られた臙脂色の大襟の上衣、踝までを紺色の長いパンツで覆い、その上から膝までの帯付き巻きスカートを身に着けていた。
森に生きる少女……お墓らしき石と土の前で祈る少女を見て、アーサーはそんな印象を持った。
そしていつまでも隠れていても仕方が無いと決意して、腰を上げようとしたその時だ。
「……ッ、痛ッ!?」
痛みを感じて、アーサーはその場で声を上げ、立ち上がってしまった。
何かと思い足元を見れば、リスがいた。
いつの間にそこにいたのだろう、数匹のリスがいて、しかもその内の1匹が靴の爪先に噛み付いていた。
分厚い生地であったことが幸いして、歯は肌に触れるかどうかと言う所までしか噛んでいないが……だから良いというわけでは無い。
足を振り回して踏みつけにする前に、リス達はさっさと逃げ出してしまう。
それを追いかけて顔を上げれば――――目が、合ってしまった。
「あ」
「え?」
菫色の、どこか我の強そうな、ツリ目気味の瞳がアーサーを見ていた。
驚きに真ん丸と見開かれた菫の瞳と、そしてそれ以上に間抜けに見開かれた緑の瞳がお互いを認識した。
地面に座り込んでいる少女と、茂みの中で立ち上がっている少年。
彼我の距離は僅か十数メートル、障害物は、無い。
「えっと……その」
だからだろうか、アーサーが取り繕うような声を上げた。
だが結果だけ言えば、それは逆効果だったようだ。
何故なら少女――リデルは、アーサーが声を発した次の瞬間には立ち上がっていて、そして。
「あ、ちょ……!」
脱兎の如く、逆方向の茂みの中へと身を躍らせた。
同時に何事かを叫んだようだったが、上手く聞き取れなかった。
今度はアーサーの方が驚いた、その証拠に彼はすぐには追いかけられなかった。
逡巡するように口をパクパクとさせた後、動物や鳥達が散り散りになるのを見送ってなお動かず。
「ま、待ってくださぁ――いっ!」
それからようやく、彼は駆け出すことが出来たのだった。
◆ ◆ ◆
――――なに!?
リデルは混乱していた、混乱しながらも走っていた。
通り慣れた森の道を駆け、後ろを確認するために首を回す。
するとそこに、必死の形相の「彼」がいた。
「ま、待ってください――――!」
それを聞いて、足を速めた。
全力疾走では無く8割走と言った所か、そうで無ければすぐに疲れてしまうことを彼女は知っていた。
そこまで冷静に思考を進められても、やはり混乱は収まらない。
理由は、大きく2つある。
「に、人間が、島に来るだなんて……!」
自分も人間だろうに、そんなことを言った。
だが彼女は信じていたのだ、何の根拠も無く。
今日も昨日と、あるいはずっと以前の日々と同じ、何も変わらない時間が過ぎていくとばかり思っていた。
信じていたのだ、本当に。
だからそれは、リデルにとって――まさに不意打ちだったのだ。
この島に自分以外の人間がいるだなどと、思わなかったから。
例外の1人を除き、リデルは生まれてからの14年間で……誰とも、会ったことが無いのだから。
「……パパ……!」
そしてその例外の1人とは、彼女の父だった。
だから辛うじて、自分を追いかけている存在が「人間の男性」だと言うことはわかった。
だがそれは何の助けにもならない、少なくとも今の状況を何とかすることの出来る情報では無いからだ。
ならば出来ることは一つ、「父の教えを守って」逃げることだ。
すなわち、古代から受け継がれる「言葉」を守ること。
「スンシ曰く、『走ぐるを上と為すべし』……!」
要するに、危険を感じたら逃げの一手に徹するべしと言うことだ。
第一に驚きと恐れ、そして第二に父の教え。
この2つを守って、今、リデルは逃げていた。
呟いたその言葉に、気持ちの全てが込められている。
不意に、彼女の逃走に同道する存在が現れた。
空と足元に現れたそれらは、例の鳥と小動物達だ。
リデルは、ぎょっとした。
「な、何してんの。逃げなさいよ、アンタ達!」
口調は乱暴だが、本当に心配そうな声で言った。
けれど返って来たのは、動物達の陽気な鳴き声だった。
それはまるで、「心配するな」とでも言うかのようで。
普通の人間が聞けば、何を馬鹿なと失笑するだけだろう。
だが、リデルは違った。
頭の上から聞こえてくる「声」に、周りを併走する「声」に、彼女は確かに安堵を覚えたのだ。
そして、勝気そうな菫の瞳に光が戻った。
「そう、そうよね。この島で私達が負けるわけ無いわよね!」
彼女は本当に勇気付けられていた、動物達の鳴き声で奮起したのだ。
それが伝わったのか、駆ける彼女の周囲で動物達が一際大きな声で鳴く。
頼もしさすら感じて、リデルは口元に笑みを浮かべた。
「そうよ、私は、パパの娘。そして……!」
何事かを続けて、そしてリデルは走る速度を上げた。
落ち葉に覆われた地面は足跡を隠してくれる、生い茂る木々は姿を隠してくれる、そして何より自分には動物達がついている。
すなわち、この島の全てが味方だ。
「……策を作るわ!」
家族の声に、動物達が歓声を上げた。
◆ ◆ ◆
追いかける最中、アーサーが気付いたことが3つある。
第一にリデルの足が速いこと、第二にリデルの周りにいた動物達が姿を消したこと、そして第三にリデルの髪に光が見えたことだ。
比喩では無く、首の後ろ、髪を縛っているあたりに宝石の輝きを見たのだ。
「……って、いやいや、そこは気にするポイントじゃなくて!」
そう、今はとにかくリデルを追わなければ。
この島に来た目的、そして生存――道案内と言う意味で――のためにも、ここで見失うわけにはいかないのだ。
だと言うのに、リデルはどんどんと道が険しい方へと入り込んでいるようだった。
「あ、足腰の強い人ですねぇ!」
疲れているとは言えアーサーは年上の男性だ、だと言うのに距離が全く縮まらない。
と言うのも、時々相手を見失うためだ。
見失って、少しして距離が開いた所で見つける、その繰り返しだ。
何しろ落ち葉が邪魔で足跡を追うことも出来ず、木の幹や茂みは少女の身を隠すには十分なのだ。
追いかけても近付けず、近付けても見失う。
それを何度も繰り返されては、焦るなという方が無理だろう。
しかも距離を詰めた時には、当然のように脇から動物達が襲い掛かってくるのだ。
決まって、あと少しで追いつけると言うタイミングで。
「ききっ、ききき――――っ!」
「うわっ!? って、またですか……!」
急ブレーキで止まり、追い払うように手足を振るえばその間から動物達が擦り抜けて逃げる。
顔を上げた時には、決まってリデルはギリギリ追いつけるような微妙な位置にいるのだ。
鳥の糞で足止めされた時は本気でうんざりしたが、それでも意地で追いかけ続けた。
もしかしたら、目的を一瞬見失っていたかもしれない。
「この……っ!」
彼は気が付いていなかったが、彼らが今いる位置は、島全体で言えば西側にあたる。
砂浜とは真逆の位置にいる、それだけ小さい島なのだ。
なのに追いつけない、苛立ちにも似た感情がアーサーの背を押した。
再びの登り道を駆け上がる最中、リデルが茂みの中に姿を消したのだ。
アーサーは全力で駆け、茂みを飛び越えるようにジャンプした。
それが間違いだった。
何故なら、飛び越えた先に道が無かったからだ。
いや、無いわけではない。
ただ、急だった。
角度にして60度以上、そんな急勾配がそこに広がっていた。
「な……!?」
「――――スンシ曰く」
静かな声が、下から聞こえた。
古くから伝えられ続けている言葉――と言って、アーサーは知らないが――が、聞こえた。
視線を下げれば、急斜面に寝転ぶリデルの姿があった。
蔓に捕まって、身体を支えながら。
菫色の瞳が静かに自分を見上げていることに、アーサーは気付いた。
「『吾の与に戦う所の地は、知るべからず』」
着地したアーサーは当然のように足を踏み外し――と言うより、虚を突かれてバランスを崩し――倒れて、そして、落ちた。
どうすることも出来なかった、リデルと同じように斜面に生えている木を掴もうにも、咄嗟のことに混乱して反応出来なかったのだ。
視界が、回転した。
◆ ◆ ◆
「ぐっ……が、だっ……!?」
急斜面を転がり落ち、身体の至る所を打ちながら、アーサーは思った。
何故、こんなことになっているのかと。
そもそも自分は「彼」に会いに来ただけだと言うのに、少女を追いかけ動物達に攻撃され、挙句の果てに嵌められて斜面を転げ落ちている。
どうしてこうなったと、思わざるを得ない。
「……ぐぁっ!?」
次の瞬間、アーサーは生暖かい何かに包まれた。
身体の回転も止まった、が、今度は凄まじい匂いと不快感に包まれた。
十数回以上も回転して目を回していたのだが、それを無視しても余りある苦さが口の中に広がった。
唾を吐くようにそれを飛ばし、身を起こすべく手をついた。
ぐにゅり、と言う嫌な感触がして、その手が沈んだ。
「な……!?」
濁った緑色の液体、汚泥が蓄積したかのような手応え、鼻を突く腐敗臭。
沼だった。
そこは、沼だった。
転がり落ちた勢いのまま飛び込んだため、すでに身体の半分が沼の下に嵌まり込んでしまっていた。
「い、いやいやいや、これは不味……ッ」
一言で言えば、生命の危機だった。
これには慌てた、いくらなんでも沼に落ちるのは不味い。
見る限りそれ程大きい沼でも無いようだが、だからと言って浅いなどと言う都合の良い話になるわけでは無い。
だがもがけばもがく程に身体は沈んで行く、それにより焦りが増して、さらに沈むと言う悪循環。
衣服の中に沼の泥が入り込んできて、その不快さが嫌でも危機感を煽る。
もはや、アーサー1人ではどうすることも出来ない状況だった。
「うわっ……うわぁっ!?」
何か掴む物、と思っても、そうそう都合良くはいかない。
何も無い、その事実がアーサーの心にある種の絶望感を育ててくる。
しかし、そこではいそうですかと諦めるわけにもいかない。
ならばどうするか、と言う所で。
「助けて欲しい?」
そんな時だ、斜面の上からリデルが降りて来たのは。
いつの間にか沼の岸に動物達も集まっていて、肩には数匹の鳥を乗せている。
沼の異臭は嫌だろうに、動物達がリデルの傍を離れる様子は無かった。
よほど好かれているのだろう。
菫色の瞳が、アーサーを見下ろしていた。
小柄な少女に見下ろされる程に、彼の身体は沼に沈み込んでいたのだ。
恐ろしく、飲み込みの早い沼だった。
「助けて欲しいなら、すぐに島を出て行くって誓いなさい! それを講和の条件に、貴方を沼から出してあげるわ!」
むんっ、と薄い胸を逸らすリデル。
どことなく自慢げだ、鼻の頭がピクピクと動いている。
ただ、そんな少女の様子を見ていると……不思議と、焦らなくても良いような気さえするから不思議だ。
そしてリデルの腕にはどこから調達して来たのか、木の蔓があった。
見るからに頑丈そうで、それでいて長い。
ロープの代用品としては問題ない、確かにあれがあればアーサーを引き上げることも不可能では無いだろう。
「…………」
だが、アーサーはリデルの言葉に頷かなかった。
顔の右半分を泥で汚しているが、リデルが望んでいるであろう「わかった、島を出て行く」の一言が無かった。
こうしている間にも身体は沼に沈んでいると言うのに、だ。
むしろ、慌てたのはリデルの方だ。
「ちょ、ちょっと、聞いてるの? 貴方、そのままじゃ3分もしない内に……」
その時だ、アーサーの周囲の沼の表面が爆ぜた。
アーサーの体重で空気が抜けて、その分だけ下に空間が開いたのだ。
そしてその空間は、アーサー自身の身で埋めることになるだろう。
ガクンッ、と肩まで沼に沈むアーサーに、リデルが言った。
「ほ、ほら、今のは沼の下の空気が抜けた音よ。早くしないと本当に沈んじゃうんだから。だから早く、島から出て行くって誓いなさい! 早く!」
「……それは、出来ません」
グズグズと音を立てて沈んでいく身体、すでに顎にまで沼の感触がある。
それでも、アーサーは「島を出て行く」と言う言葉を告げなかった。
その眼光に、リデルがたじろぐ。
「な、何よ……こんな何も無い島、いたって意味無いじゃない」
「いや、まぁ……島自体には、僕も大して感心は無いのですが」
「……? だったら、アンタ何しに来たのよ」
「あ、会いに来たんですよ……人にね」
実際、ヘレム島には何も無いのだ。
珍しい動物がいるわけでも、観光地になるような絶景が見えるわけでも無い。
本当に何も無い、何の変哲も無いただの孤島なのだ。
だから彼女には、アーサーがどうしてこんな島に拘るのかがわからなかった。
だがアーサーにも、引けない理由があった。
それは彼がこの島に来た目的、すなわち「彼」に会うという目的のためにだ。
目的の「彼」の本名は知らないが、通り名は知っている。
「し、知っているなら……ぷはっ……教えて、く、ください」
そんなに時間は無い、だから急いで言う。
それまでの丁寧な口調とは少し違う、焦ったような声。
沼の下でもがきながら、しかし良く通る声で彼は言った。
「<東の軍師>を、知っていますか……?」
「……!」
<東の軍師>。
その単語にリデルが眉を動かした直後、再び空気の抜ける音が響いた。
「うわ……ッ!?」
今度は深い場所の空気が押し出されたのだろう、アーサーの顔が沼の下に消えた。
驚いたのはリデルだ、彼女は逡巡した。
沼からはもはや少年の右手しか出ていない、開閉する掌、それを見て迷う。
「東の、軍師……?」
呟いたのは、先ほど聞いた通り名。
沼の下に消えた少年の掌を見つめながら、何事かを考えるような表情を見せる。
逡巡、迷い、悩み、思考するリデル。
蔓を持つ手に、僅かに力が込められた。
そして。
「…………ええい、もうっ!」
彼女は、次の行動を選択した。
『走ぐるを上と為すべし』(兵法三十六計・南斉書からの出典)
意味は「三十六計逃げるに如かず」、です。
『吾の与に戦う所の地は、知るべからず』(孫子からの出典)
実はまだ続きがある言葉ですが、意味は「こちらがどこで戦うつもりなのか、知られないようにしましょう」です。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
まだまだ続・プロローグと言う感じなので、説明は少なかったかもしれません。
と言うか、いろいろ悩んだ一話でした。
最初からこんなことで、はたして大丈夫なのでしょうか……?
それでも、始めた以上は完結まで進めたい所です。
ではでは、またお会いしましょう。