11-8:「それから」
<大魔女>ソフィア。
300年前、まさに<侵略者>との戦いの犠牲となった少女。
以来300年間、仲間達の意思を次いで壁を築き、<侵略者>からアナテマを守り続けてきた女。
そして300年の後、ティエルの「塔」で消滅したはずの存在だった。
『こんなはずじゃなかったと、そう思っているね』
その<大魔女>が今、再びリデルの前に現れていた。
実体は無い、半透明の幽霊のような状態だった。
「あ、アンタ。何で……」
『ボクは300年間力を溜め続けていたんだ。キミの一念で消し飛ばされる程、柔じゃ無いよ』
1年前のあの時、<大魔女>は断末魔の絶叫を上げて消滅した。
しかし実際は、消滅などしていなかった。
ずっとずっと、リデルの奥底に潜んでいたのである。
もちろん宿主としていた<アリウスの石>を砕かれた以上、自由に出来るわけでは無い。
魂よりも幽霊よりもなお脆弱な存在として、このままリデルの中で真なる死を迎えるのかと思っていた。
しかし今、リデルの精神は激しく動揺している。
心が、弱くなっている。
そのために、こうして<大魔女>が表に出てこれたのだ。
『まぁ、そんなことは良いんだ。ボクのことは、大した問題じゃ無い』
<大魔女>は、ぐるりと視線だけを周囲に向けた。
彼女が何よりも恐れていた<侵略者>達と、アナテマの連合軍の死闘がそこかしこで展開されている。
<大魔女>の「壁」が失われたがための、戦い。
彼女の立場からすれば、許し難いものであったろう。
『これが、キミの選んだ世界なのかい?』
目を、見返せなかった。
<大魔女>の視線に耐えられずに、俯いてしまう。
自分の選んだ世界。
納得は出来ないが、そう言われても仕方が無かった。
『その子のこともそうだけれど』
岩の下、そんな状況では魔術も摩擦も無かった。
だが、彼だけでは無い。
この戦場で倒れた者達は、もう数百ではきかない。
1秒進むごとに1人の命が消える。
戦場とは、戦争とは、どこまで行っても世界の「資源」を消耗する行為でしか無い。
『他の子達も、そうだ』
そう、彼だけでは無い。
目を閉じ、吐息を漏らしながら、<大魔女>は言った。
『皆、失われていくよ――――』
それは、怒りと哀しみに満ちた声だった。
◆ ◆ ◆
投石機が、破壊されていた。
それはクロワの大剣を足場に、言葉通り「飛んで行った」ノエルによって蹴り砕かれたからだ。
黒曜石とも違う、不思議な輝きの金属だった。
『不覚……!』
クロワの口惜しそうな声が、聞こえてきそうだった。
ノエルもまた、苦りきった表情を隠していない。
しかし、誰も彼らを責められない。
誰よりも最前線で戦い続けてきた彼らを、誰が責められるだろう。
『ヤ、ヤレアハ!』
『どうしたセーレン。らしくも無く慌てているじゃあないか』
一方で、先に投石機を発見したヤレアハ軍もまた、責められない。
先に見つけておきながら投石機を破壊できなかった、だが誰が彼らを責められるだろう。
50万の敵に対して、僅か2000で攻めかかる勇敢な彼ら。
生きている者も死んでいる者も、誰ひとりとして敵に背中を見せた者はいない。
そして彼らの王ヤレアハは、さらに勇敢だった。
倒れた仲間を1人として見捨てず、進む時は先頭で、退がる時は最後尾に彼の姿はあった。
それ故に彼は、敵中で孤立している……。
『モタモタするんじゃ無いよ!』
あれはアレクフィナか。
<魔女>や王だけでは無い、普通の兵卒達にとってもここは地獄だった。
先程までは前進していたが、それは一瞬、それも最後の力を振り絞ったに等しい。
徐々に、しかし確実に、各所で同盟軍は押され始めている。
イレアナは、戦線を維持するだけで精一杯だろう。
前に進めないとなれば、退がっていくしか無い。
だが全体が一斉に後退するのは至難で、中には当然、遅れる者もいる。
体力のない者、身体能力が劣る者、そして負傷している者だ。
『ブラン! ほら歩きな、自分の足で歩けない奴は置いてかれちまうんだよ!』
『んがぁ~……! だからダイエットしろって言ったろブラ~ン……!』
『ふ、ふひひ、今はお腹が半分なくなってるん、だなー……』
『この馬鹿、それで上手いこと言ったつもりかい!』
失われていく。
この世界を構成している、大切なものが失われていく。
消耗であり、損耗である。
それは、耐え難い苦痛だ。
古の軍師が「戦は国の大事」と言ったわけは、ここにある。
戦争とは、少なくともその場においてはマイナスしか生み出さない。
それがプラスになるように見えるのは、政治の結果でしか無い。
まして個人の主観においては、なおさらだった。
今まさに、アナテマ大陸は消耗し続けているのだった――――。
◆ ◆ ◆
がっかりだと、<大魔女>は言った。
あれだけ啖呵を切っておきながら、この体たらく。
彼女にしてみれば、面白くないことこの上無いだろう。
『実に、腹立たしいよ。こんなもののためにボクが否定されたのかと思うと、うんざりする』
言葉の返しようも無かった。
俯いて唇を噛み、無言のまま時が過ぎていく。
いや、頭では今もこの状況を好転させる方法を考え続けている。
そうしてもなお、策を作れない。
<聖女>フィリアはフィリア人を助けず。
そして今、<大魔女>ソフィアはソフィア人を救うことが出来ない。
現代を生きる人間達も、<侵略者>の前に膝を屈さんばかりだ。
将は討たれ兵は斃れ、軍師の策も潰える。
『本当に、気に入らない』
静かだ。
何もかも上手く行かなくなると、胸中はかえって静かになるのだろうか。
誰かが何かを教えてくれるわけでは無い。
教えられるものでも、無かった。
(パパ)
頼ろうにも、父は何も言ってはくれない。
聖樹教は死者の魂は聖樹に還る――土に還ると同じ意味だろう――と教えているが、この世に「聖樹」と呼ばれる樹はもう存在しない。
死者の魂がどこに行くのか、知っている人間は誰もいない。
だから、問いかけても父は答えてはくれない。
いや、そもそも父が答えてくれたことなど無かった。
父は死んだ、もういない。
だから、問いかけても意味は無いとわかっていた。
(……ダメなの?)
負けるのか。
潜り抜けて、耐え抜いて、勝ち抜いて。
ここまで来て、最後の最後で敗れるのか。
いや、敗れるのは良い。
問題なのは、全てを失うと言うことだった。
(もう、ダメなの?)
ここまで来れば、起死回生の策は無い。
いや、正確に言えば1つだけある。
たった1つだけ、リデルは小さな可能性を見つけている。
だが今、それは遠のきつつある。
『諦めるのかい?』
諦める?
その言葉が、妙に胸に刺さった。
今までだって、負けたこと、失敗したことは何度でもあった。
その度に挫折を感じて、挫けそうになったことも一度や二度では無い。
けれど、諦めたことだけは無かったつもりだ。
たとえ、どれだけ絶望的な状況であっても。
策が、何も無かったとしても。
それでも。
「……嫌よ」
諦めてなんか、やるもんか。
◆ ◆ ◆
叫べば、何とかなると言うものでは無い。
だが、言葉にしなければ何も始まらない。
自分はいつだって、言葉で全てを打開してきたのだから。
「私が諦める? 冗談じゃ無いわ!」
岩に、手を当てる。
力を込めて、崩れた岩を押す。
ルイナが砕いてくれたおかげでひとつひとつの大きさは小さくなっているが、それでも少女の手には余る大きさだった。
ぴくりとも動かないその岩は、まるで今の状況の象徴のようにも思えた。
だが手詰まりの時ほど、手元のことからしていくべきなのだ。
岩の下に伏せているアーサーを、まず助ける。
そうすることで、何もかもが動き始める。
『それは気のせいだと思うよ』
「五月蝿いわね、わかってるのよそんなことは!」
『そうやってまた、ありもしない可能性に懸けるのかい?』
ファルグリンのように強くは無く。
イレアナのように深くは無い。
夢見がちと言われればそれまでだが、これが自分だ。
自分と言う、軍師の形なのだ。
「諦めるんだったら、もっと前に諦めてたわよ!」
ルイナの村の時でも良かったし、旧市街の時でも、『施設』でも、聖都でも公都でも、諦めるタイミングなどいくらでもあった。
だが、諦めなかった。
諦めなかったらから、ここまで来れたのだ。
そして、これからも。
「ふんぎぎぎぎっ……!」
非力。
余りにも非力だった。
『ボクは、キミのそう言う所が嫌いだよ』
非力なくせに、1人では何も出来ないくせに。
自分の感情を喚き散らすばかりで、やっていることに現実が追いついて来ない。
力不足。
そのくせ諦めが悪く、さらに悪いことに多くの人間を巻き込んでいる。
そして巻き込まれる人間は、けして彼女のことが嫌いでは無いのだ。
<大魔女>は、300年前からそう言う人間が嫌いだった。
大嫌いだった、憎んでいると言っても良い。
何故ならば、<大魔女>は。
『けど』
<大魔女>も、また。
『ボクはキミよりも、<侵略者>の方がずっと嫌いだからね』
<大魔女>もまた、そうした人間達に「巻き込まれる」側の人間だった。
そうでなければ、300年前、初代公王と共に果ての無い戦いに身を投じたりはしない。
まして今の彼女は、「母親」だったのだから。
岩の下から、赤い輝きが漏れ始めていた。
◆ ◆ ◆
――――空を見た。
気配がしたのだ、胸の奥にストンと落ちてくる、懐かしい声が聞こえた気がした。
その声に、イレアナは呼応するように顔を上げた。
戦車の油と、汗と血と、泥に塗れた顔に、一滴の心を零して。
「ソフィア様あぁ――――っ!!」
その叫びは、鉄血と泥濘の戦場を引き裂くように響き渡った。
戦場が、嘘のように静まり返る。
だがそれはイレアナの叫びでそうなったわけでは無く、イレアナが聞いた「声」の方だ。
それは強力な魔術によって拡散された「声」で、誰しもの耳に届く程のものだった。
音として耳に届くのでは無く、どこか心に直接訴えかけるかのような。
ホールの中心で、反響する声を聞いているような心地だ。
それは、そう言うものだった。
「ふむ、どうやら静かになったようで」
「……ふん」
「何だ終わりか。なら、宴でも期待するとしようか」
敵中で戦っていたクロワとノエル、ヤレアハ達にとっては、その効果は顕著だった。
戦いが止んだ。
それまでまさに地獄が地上に現れたのかと思えるような状況だったのだが、今は全ての動きが止まっていた。
「これは、リデルか……?」
二の砦から続く崖の上、足場の崩れた場所で戦いを続けていたラタにも、その「声」は届いていた。
それが発する言語は聞き慣れぬものだったが、何故か意味は良くわかった。
剣を、自然と下ろしていた。
見れば、彼女と斬り結んでいた<侵略者>も武器を下げていた。
その「声」に、聞き入っている様子だった。
「……軍師の役割は、戦を支配することです」
それは、ファルグリンの所にも聞こえてきた。
と言うか、50万の<侵略者>ことごとくに届くように響かせているのだろう。
こんな広範囲に及ぶ魔術、並の術師に出来ることではあるまい。
「戦を始める決断をすること。そして戦を終わらせる決断をすること」
そしてその決断は、軍師だけが出来るものだ。
特権と、そう言っても良い。
軍師と呼ばれる人間が自らの行為に快楽を覚えるとすれば、まさにその点だった。
「……あのお方に、最初に教わったことでしたね」
穏やかな表情を浮かべて、目を閉じる。
すると、その「声」がより鮮明に聞こえてくるような気がした。
病んだ心に、染み渡るように少女の言葉が届いた。
『戦いを、やめろ――――!!』
ここに、福音が成された。
戦いは、終わる。
◆ ◆ ◆
瞼の裏に赤い輝きを感じて、アーサーは目を覚ました。
身体が熱い、血が循環するのを直に感じているような感覚だった。
ただ、不快な熱さでは無かった。
どこか包まれるような、安心するような、そんな――――そんな。
「<侵略者>って言う名前が、そもそもの間違いだったのかもしれない」
ヴァリアスは魔術師だった、<魔女>だった。
だから手記にも当然、魔術の仕掛けを施していた。
アーサーの視界に手記のページが飛び回っているのは、そのためだ。
薄く赤く輝く紙が宙に浮かんでいるのは、なかなかにシュールだ。
この手記は特定の魔術を使用することでページが解け、術者の周囲に特定のパターンで配置される。
独特なのは、ページとページの間で文字が飛び交い、入れ替わることだ。
ヴァリアスはこの魔術を「翻訳」と記していた。
彼の造語で、意味を持つのはこれからだろう。
「<侵略者>は……あの人達は、予防戦争のために攻めて来たのよ」
予防戦争、その名の通り戦争の形態の一種である。
要は先制攻撃の理論であり、敵の脅威が看過できない、あるいは放置すれば攻撃を受けると言うような状況において行われる。戦争と言うよりは戦略・戦術の領域で語られるべき理屈だ。
その理屈に立てば、それまで謎にしか思えなかった<侵略者>の行動にも得心がいった。
「300年前は、いきなり山越えをした<大魔女>達に驚いた」
<大魔女>達からは突然の侵攻に見えたが、逆の視点で見れば彼女達の方が先に山を占拠したのだ。
「そして300年間交流が持てなかった山の南側への道が開けて、調査隊を出した。小競り合いになって争った所に、私達が砦を築いた」
リデル達は<大魔女>の視点で全てを見ていたから、防衛線を引こうと動いた。
だが相手の視点に立てば、逆に「侵攻の拠点」を造り始めたように見えただろう。
全ては、言葉による意思疎通が出来なかったが故の悲劇だ。
だがヴァリアスは知っていた。
山から出土する僅かな<侵略者>の手がかり、そこに描かれている彼らの文明が平和と繁栄を表していることを。
アナテマの億万の民の中でただひとり、北を見ていた彼だからこそ気付けたことだ。
「でもヴァリアスに助けられたなんて思いたくないわ。これはアレクセイの手柄、あいつのおかげで、相手もこっちに言葉が通じる相手がいるかもしれないって思ってくれたんだもの」
<侵略者>、いや、もはや彼らは<侵略者>では無い。
黒い鎧の彼らが自らを何と名乗っているのかはわからないが、ソフィアとフィリアに続く第3の人種であることは間違いない。
<大魔女>が残してくれたこの「翻訳」の魔術は、意思疎通の問題を解決する決定的な手段になるかもしれなかった。
実際、見てみれば良い。
あれ程の戦いが続いていた戦場が、今は静かなものだ。
<侵略者>達は皆一様にこちらを、つまりリデルの方を見ている。
様子を窺っているのだろう、自分達と対話できるかもしれない相手のことを。
言葉さえ通じれば、通じ合える相手であることの証左だった。
「戦わずして、勝つ。けどそれは、きっと勝利って意味だけじゃないのね。きっと、もっと……何て言うか、上手く言えないけれど」
「……わかる、気がします」
「<大魔女>に、助けられたってことなのかしらね。私も、それにアンタも」
<大魔女>の存在は、アーサーにはわからなかっただろう。
だが彼もまた、<大魔女>によって救われていた。
崩れた岩の隙間にはまり込んでいた彼は、あのままでは抜け出せずに命を落としていただろう。
<大魔女>は岩を吹き飛ばし、また彼を癒していた。
今はまた、リデルの意識の奥深くに消えてしまっているのだろう。
「アーサー」
リデルの小さな腕と胸に抱かれながら、アーサーは思った。
――――嗚呼。
「私、上手くやれたかな?」
どうやら、終わったらしい。
今回も死ぬような思いをしたが、何とか生き残れたようだ。
そして、リデルを死なせずに済んだ。
「……お疲れ様です、リデルさん」
「うん」
そして、これが。
<国王>アーサーと<軍師>リデルが関わった、最初で最後の『戦争』。
その、全てであった――――。
◆ ◆ ◆
――――それから、時が進んだ。
極北のアリウス=ニカエア大山脈で勃発した北南戦争から、2年後。
あえてこの時期を切り取るのは、このタイミングで重要な出来事があったからだ。
「まったく!」
肩をいからせて、マリアは廊下を歩いていた。
2年後の世界、聖都エリア・メシアの大聖堂の廊下を歩いていた。
白亜の建物とガラス張りの庭園が臨める廊下は旧市街には未だ無いものだが、今はそんな物に気を奪われる気持ちにならなかったようだ。
そもそも何故マリアが聖都にいるかと言えば、彼女の現在の肩書きによる。
現在、マリアの肩には「フィリアリーン『共和国』政府主席」と言う役職が乗っている。
北南戦争から2年が経ち、いろいろと変わったことが窺える。
だから首脳交流のために聖都を訪問するのも、実はこれが初めてでは無かった。
「こんな時に遅れるだなんて、何を考えているんだ!」
だが、今は少し様子が違うようだ。
マリアは控えめだが上質な礼装に身を包んでいて、それは政治とはまた別の衣装に見えた。
足早に廊下を歩いていた彼女は、やがて1つの部屋に辿り着く。
古めかしい木材で造られたその扉は両開きで、重厚な造りの蝶番が目の高さにあった。
マリアはすぐに扉を叩こうとしたようだが、思い直したようで、少し手を止めた。
それから何事かをブツブツと――「まぁ、こういう時はナイーブになるものだしな」「あまり強く言うのも可哀想だな」――呟いた後、改めて、控えめにノックをした。
返事は無かったが、少ししてから、扉を開けた。
「あー」
そこは、化粧室だった。
着替えのためだけに用意された部屋で、優しい色合いの絨毯や家具が揃えられていた。
マリアの求める人物は、鏡台の前に座っていた。
白銀の糸が編み込まれた白いベールの裾が、たっぷりと床に広がっているのが見えた。
「リデル、そろそろ時間だ。皆、待って……」
花嫁衣裳、だった。
身じろぐ度に光の粒を零す最高級の絹で織られ、ふわりとした肩口は着る者をたおやかに見せる。
さらに宝石の装飾品とレースで彩られ、また銀糸で編み込まれた花々が美しい。
純白のそれは、まさに紛うことなき花嫁衣裳であった。
聖都の大聖堂で着るには、かえって違和感の無いものであったかもしれない。
「……あ?」
むしろマリアにとって問題だったのは、第一に花嫁が返事をしてくれなかったこと。
そいて第二に、花嫁――もとい、花嫁衣裳を纏った女性の姿だった。
何しろ花嫁は金髪で、彼女のように茶色の髪ではなかったからだ。
もちろん、今日ここで結婚式を挙げるのはルイナでは無い。
「おい、何でお前がそんな格好でここにいるんだ?」
「あ、あはは?」
「あははじゃ無い! リデルはどこに行ったんだ!?」
「えぇーっとぉ、そのぉ」
この2年で女性らしさを増したルイナの花嫁姿は、それはそれで確かに美しいものだったが、マリアにとってそこはまるで重要では無かった。
そしてこれからやらなければならない諸々を思い浮かべてうんざりして、苛立ち紛れに頭を掻いて、やはり色々なことに思いを寄せて、そして。
「まったく、本当に思い通りにならない奴だ」
そう言って、笑った。
◆ ◆ ◆
いつものことだが、これで良かったのだろうかと思った。
そんな心配は3年前の時点で通り過ぎたと思ったが、こんなことになっても湧き起こるようだ。
それはもしかしたら、アーサーにとって人生の命題なのかもしれない。
一言で言えば、心配性と言うことだろう。
「なぁーに? アンタ、もしかしてまだ気にしてるの?」
「いや、まぁ」
かぽかぽと、荒地ながら整備された街道を一台の馬車が進んでいる。
馬の頭にはリスが寝そべっており、幌の中には大蛇がしゅーしゅーと舌を出して、空に鳥に姿があった。
御者台には2人の人間が乗っていて、彼らの後ろには聖都の白亜の建物が見える。
青年と少女、2人とも動きやすそうな旅装姿だった。
「良かったのでしょうか、勝手に出てきて」
「だって、あんな堅苦しい儀式なんて嫌よ。教皇の部屋見た? あの子、今日のために何百年も前の文献引っ張り出して勉強してたわよ? 昔は結婚式って1ヶ月も続いたらしいけど、アンタやりたいの?」
「それは流石にやりたくないですねぇ」
「でしょ?」
リデルは自分以上に乗り気だった公王と教皇の姿を思い出して、げんなりとしていた。
2人には悪いが、そこまで付き合ってはいられない。
「フロイラインとラタには事前に言っといたから、まぁ、何とかするでしょ」
「ちなみにマリアさんには?」
「そこはアンタの領分でしょ」
「えぇ――……」
帰ったら口うるさく言われるだろうな、アーサーは今から憂鬱な気分になった。
何しろ、結婚式から逃げ出して来たのである。
結婚式、そう、結婚式だ。
誰と誰の結婚式かと言えば、それは自分とリデルの結婚式である。
とんとん拍子に話が進んで、目を白黒させている内に今日に至ってしまったのだが。
「……えーと、ところでリデルさん」
「何よ」
「その、どうして僕とリデルさんが結婚式なんてすることになっていたんでしょう?」
「何でって、結婚するからでしょ?」
「そうですね、結婚式は結婚するから挙げるんですものね。じゃあ、あのですね、何で僕とリデルさんが結婚することになったんでしょう?」
質問をしてこんなに罪悪感を感じたのは、実は初めてかもしれない。
それだけ、こちらを振り向いてきたリデルの目が純真だったためだ。
ちなみにアーサーが手綱を握っていて、リデルはアーサーに背中を預けている形になっている。
アーサーが後ろから抱きすくめているようにも、見えなくも無い。
「そ、そもそもですね。確かお父様に結婚はダメだと言われていたのでは?」
「確かにパパは結婚しちゃダメって言ってたわ」
「でしょう?」
「うん。でも良いの」
父がリデルに結婚を禁じていたのは、おそらく、自らとリデルの血筋のためだ。
公王家の血筋が絶えて行く中、リデルが血を残せば、内戦の種になりかねない。
そのあたりはフロイラインがかつて抱いた懸念と同じだ。
だが今、アナテマ大陸とリデルの状況は父が生きていた頃とはまるで違う。
それに、父はもういない。
いもしない父に問いかけることは出来ない、だからリデルは自分の意思で決める。
自分の生き方は自分で決める。
もはや、何かにつけて父を頼るだけだった少女では無いのだ。
何故ならば、すでにリデルは決めているのだ。
「アンタの子供、作ってあげたいの」
ぴくりとアーサーの手が震えたのは、驚愕か動揺か。
手綱を握るアーサーの手に、リデルの手が重ねられていた。
「アンタ、前に言ってたじゃない? 自分の子供になんか生まれちゃいけないって」
「それは……」
「でも、この世に生まれちゃいけない命なんて無いわ」
大体、許されない命と言うならリデルもそうだろう。
特に大公国から見れば叛逆者の娘だ、先程も言ったが内戦の種でしか無い。
他にもドクターの人体実験やファルグリンの狂気など、アナテマ大陸の情勢に影響を与えている。
けれどリデルは、だからと言って泣き寝入りするつもりは全く無かった。
「証明してみましょう、アーサー。アンタの子供が本当に不幸になるのか」
何故なら、リデルは幸福であったからだ。
軍師として人を生かし、そして殺し、これからもそうして歩み続ける。
それでも幸福だと、リデルは思う。
思い出も、仲間も、全てが己の内にあり、またそれが人生と言う名の織物の欠かすべからざる一部なのだから。
「私は、アンタの子供を見たいわ。アンタの子供が欲しいの、だから結婚するの」
「……リデルさん」
「アンタはどう? アンタは自分の……ううん、私の子供を見たくない? 私の子供が欲しく無い?」
アーサーは、息を深く吸った。
1人用の御者台で密着しているから、良くわかる。
リデルの胸が早鐘のように打つ鼓動の感覚が、そして見た目以上に不安に思い、緊張しているだろうリデルの心がわかる。
自分を癒そうとしてくれる、その深い慈愛が、良くわかる。
男女の機微にはまだまだ疎くとも、それでも、己の感情を誤魔化すようなことはしない。
それは、どんなに言葉を尽くすよりも誠実に聞こえた。
本当は、誰よりも愛情深い少女なのだ。
そんな少女が、自分だけにこう言う提案をしてくれると言う幸福。
「……そうですね」
息を吐くように、リデルに身を寄せた。
手綱を握る手をそのままに、もう片方の手をリデルのお腹に回した。
そうして、ぎゅっと力を込めた。
少し苦しかったのだろう、リデルが眉根を寄せた。
「貴女の子供なら、さぞや元気な子なのでしょうね」
「当然でしょ」
嬉しげな声に、苦笑を覚える。
自分はきっと、この先もこの少女にこうして引っ張られていくのだろう。
情け無い気もするが、それで良いと思えた。
ルイナなどがそんな考えを聞けば、激怒するかもしれない。
「あ、ところで、これからどこへ?」
「決まってるじゃない、北よ!」
「北? 公都にでも?」
「違うわ、北の山脈の向こう側よ!」
北南戦争後、アナテマ諸国は北の<侵略者>……いや、極北国との間で修好関係を持った。
目の前の敵を倒すだけでは解決しない、アレクセイの言う通りになった。
まだお互いの言葉を介する人材が少ないために、意思疎通には苦労しているが、ヴァリアスの手記を頼りに人材を育てていくだろう。
一応、リデルはこの2年でそのあたりの差配は整えてきたのである。
北の山脈を中立地帯として、人の往来を管理するための関所を建てた。
こちらに北への侵攻の意図は無いと説き、山脈付近に軍事施設を置かないことを約束した。
<大魔女>の残した魔術のおかげで、リデルが相手の言語を理解することが出来たことが大きかった。
後はもう、両者がどれだけ力を注げるかにかかっている。
その点、リデルは公都と聖都、旧市街の指導部を疑っていなかった。
「だから、私達は北に行くのよ!」
ある程度事情に明るく、旅慣れていて、異国への偏見が少ない。
そう言う意味で、アーサーとリデル程に適任はいないだろう。
上にも下にも顔が効くと言う意味では、まさに適任だった。
スンシ言う所の『敵を知り、己を知れば』だ。
そして、それ以上に。
「きっと北には、面白いものがたくさんあるわ!」
まだ見ぬ世界に、リデルの胸は高鳴る。
<侵略者>との戦いは過酷なものだったが、その中でさえも、アナテマには無いものを彼らは持っていた。
それらを知るためには、直接行って目で見て耳で聞くしかない。
子供のようにはしゃぎ始めたリデルを見て、アーサーは苦笑した。
先程まで、子供云々の話をしていた少女と同一人物だとは思えない。
これから先に何があるかはわからないが、退屈だけはしないですみそうだ。
アーサーは、そう確信していた。
「ねぇ、アーサー。ところでなんだけど」
「はい、何でしょうか」
「子供って、どうやったら出来るの? 動物の交尾と同じで良いのかしら?」
「…………ええと」
ただし、前途は多難であった。
◆ ◆ ◆
これ以後、アナテマ大陸は激動の時代に突入した。
戦争は無く平和ではあるが、歴史上最も大きな変化を経験した時代であった。
後世、アナテマの歴史家達は好んでこの時代の人々について研究した。
そこから、この時代の人々の生涯について垣間見ることが出来る。
――――公王ベルフラウとフロイライン。
大公国史上最年少の公王、それも女王と言うことで、大公国の長い歴史の中で最も多くの注目を集める王である。
その治世は連合、フィリアリーン等諸外国との融和路線に終始し、在任期間中にアナテマ南部の諸国と戦火を交えることは無かった。晩年は、教皇と協力していわゆる<合同>政策を進める。
フロイラインは政治的に何かを成すことは無かったが、常に傍人として信頼を受けた。
――――<魔女>イレアナとキア。
イレアナは北南戦争から10年間に渡り国政を担った後、引退を表明。
引退後は魔都ティエルに戻り、<大魔女>を偲ぶ日々を過ごした。
キアはその後を継いで大公国の国政を担当。
人心を良く掴み、公王ベルフラウの治世を支えた。
専ら、政より占いの相談相手としてベルフラウに重宝されたと言う逸話が残っている。
――――ノエル・ゲマインデ。
北南戦争の後、<魔女>として魔術協会に残留。
公王ベルフラウとイレアナ・キアにより混血児の公民権が認められる――通称「混血法」――と、人知れず姿を消した。
一説では、アリウス=ニカエア山脈に居を構えていたとされる。
――――魔術師アレクフィナとその部下スコーラン。
北南戦争で戦死した部下・同僚であるブランを埋葬した後、配属を別として分かれる。
その後しばらくの間は離れ離れになっていたが、7年後に結婚した。
――――教皇。
歴史書にその名前は残されていない。
しかし彼女の在任中、大公国との和解が進んだことへの評価は高い。
大公国の経済支援を受ける一方、公王ベルフラウとの間で<合同>政策――大公国が聖樹教を認め、連合が魔術を受け入れる――を進めた。
――――ファルグリンとラタ。
ファルグリンは北南戦争以前に国内の反対派を粛清し、強硬派を自分の下に組織化した。
戦後もフィリアリーンの少女軍師を自陣営に引き込もうと様々な工作を行うが、3年目に病を得、そのまま還らぬ人となった。
その直後、ファルグリンの後を継ぎ軍を掌握したラタが国内の強硬派を逮捕・捕縛した。
後世この行為は教皇―ラタのラインで行われたとされていたが、後の研究でファルグリンの遺命であったことが判明、後世におけるファルグリンの評価が定まらない要因となった。
――――<代王>ヤレアハ。
北南戦争後は再びミノスに戻り、大陸の行く末には関わらずに過ごす。
その治世は40年に及び、遺した子は100人を越したと言う。
一方で側近であり様々な憶測が飛ぶ女性、セーレンとの間には子を成さなかった。
なお、彼の後はイサーバと言う名の男性が継いでいる。
――――マリアとウィリアム。
共にフィリアリーンの重鎮として貢献する。
マリアはフィリアリーンの第一共和制を代表する政治家として活躍し、大公国・連合・ミノスそして極北国との修好に努めた。
旧市街の石油事業の成功から巨万の富を得たウィリアムは「石油王」と呼ばれ、その資金を基にフィリアリーン復興を目的とする財団・基金を創設した。
――――クロワとルイナ。
クロワは大公国の<魔女>招請を固辞し、旧市街に移住。
有事の際以外には家族と穏やかに過ごし、生涯を終える。
ルイナもまた旧市街に移住し、能力を活かして開墾事業に従事した。
――――そして、今ふたり。
<フィリアリーン最後の王>アーサー。
<五軍の軍師>リデル。
彼らは――――……。
最後までお読み頂き有難うございます。
これにて本編終了、今までお付き合い頂き、有難うございました!
まだエピローグを残していますが、事実上、今回で終わりです。
正直、もう少し上手くまとめられたらなと思う部分もありましたが、それでも最後まで投稿できたのは皆様のご支援があればこそです。
本当に有難うございます。
それでは最後になりますが、また次回。