11-4:「駆ける先」
アリウス=ニカエア大山脈は、大公国にとって様々な意味で重要な地だ。
魔術協会の聖地であり、戦略資源<アリウスの石>の唯一の鉱床であり、大公国の北を守る天然の要塞でもある。
山中への鉱床の入り口はいくつかあるが、そのどれもが氷雪に閉ざされた場所にある。
「う、うわあああぁっ!?」
「な、何だコイツはぁ!」
だが何箇所かの入り口の周囲は、雪が溶けて山肌が見え始めていた。
採掘場で働く者達は――資源の重要さから、労働者は全てソフィア人――過ごしやすくなったと喜んでいたが、気候の変化は別のものをも呼び寄せていた。
獣か? それもある、だがそれだけでは無かった。
「ぎゃあああぁっ!?」
肉がすり潰されたかのような嫌な音と共に、濁った叫び声が山中に響き渡った。
僅かに残った雪に、赤い染みが散った。
山肌に穴を開け、木材で補強した坑道の入り口は、今や1つの惨状と化していた。
敵などいるはずの無いこの場所で、何者かに襲撃されたのである。
まず、坑道の入り口で一服していた男性が襲われた。
何かに叩き潰された彼の叫び声に、中にいた作業員達が何事かと飛び出してくる。
そししてそんな彼らもまた、坑道の柱となっている木材ごと横薙ぎに殴られた。
下半身だけを残し上半身が木材と共に飛び散る――正常な光景では無かった。
「おい、何をしている!」
敵襲を想定していないとは言え、そこは魔術協会の施設。
常駐している魔術師が凶行を止めるべく飛び出し、立ち向かう。
魔術とは超常の力であり、魔術師1人で100人の兵に匹敵すると謳われる。
だからその「黒い何か」の脅威もこれまでだと、作業員達は思った。
次の瞬間、その魔術師は頭を何かに踏み潰された。
一瞬、何が起こったかわからなかった。
だが次の瞬間には、作業員達は蜘蛛の子を散らすように山中へと逃げた。
魔術師と言う信仰が潰された以上、彼らにはもうそれしか残されていなかった。
『――――!』
しかし、「黒い何か」がそれを許さなかった。
それは凄まじい勢いで――この時になってようやく作業員達はそれが人間の形をしていることに気付いた――何事か、アナテマでは聞かない言葉で叫び声を上げたようだった。
まさに、獣の咆哮に等しい。
「ぎゃっ」
「ぐぇっ」
幼子が蛙を潰すように、人が撲殺されていった。
「黒い何か」は手に人の身長よりも大きな黒い金属製の棍棒を振り回し、人を、木を、山を薙ぎ倒した。
「な、何なの、あれは……」
最初に散った内の何人かは茂みの中に飛び込んだ、この女性もその1人である。
今は、余りに凄惨な光景に足が竦み、動けずにいる。
「ば、化け物」
人間の形をしているが、人間だとはとても思えない。
自分達の倍は大きいし、言葉も話さず、ただ襲いかかってきた獣としか思えなかった。
いつもと同じ日だった。
同じように働き、食べ、語り、眠る。それが一瞬で崩れてしまった。
「た、助けぐぇ」
「ひっ」
その時、棍棒で頭を殴り潰された同僚の肉片と血が周囲に飛び散った。
それは彼女のいる茂みにも及び、頭から被る形になった彼女が小さな悲鳴を上げた。
口を押さえたが、もう遅かった。
「黒い何か」がこちらを見た、反射的に茂みから立ち上がり、駆け、足がもつれて転んだ。
もがく、動けない、焦りが呼吸を乱し、余計に動きを鈍くしてしまう。
「い、いや、こないで」
何とか身を起こしたところで、「黒い何か」が目の前まで来ていることに気付いた。
頭上に棍棒を振り上げ、まさに次の瞬間には振り下ろされるだろう。
何かに祈りを捧げて目を閉じ、身を竦めた。
それ以外に出来ることが無かったからだ。
そして、無慈悲に彼女の身体を叩き潰す――――。
「伏せろ!!」
――――無かった。
女は、自分が誰かに庇われたことを知った。
『――――ッ!?』
黒い何かが、悲鳴を上げていた。
女が見たものは2つ、混血の特徴を持つ男女だ。
男が自分を抱いて膝立ちになり、盾のように水晶の剣を地面に刺し、「黒い何か」の棍棒を受け止めていた。
そして、赤く輝くブーツを身に着けた女。
こちらは「黒い何か」の頭部に蹴りを放っていた、ちょうどカウンターの形になっている。
相手の頭部が棒が折れるかのように揺れ、その巨体がどうと地面に倒れた。
倒れた「黒い何か」が手を伸ばす、それが何かを掴むよりも速く、許さぬとばかりに女が赤いブーツで頭部を踏み潰した――――ぐしゃり、同僚達と同じ死に方、皮肉と言えばそうだった。
「……侵攻が始まったのでしょうか?」
「いや、これははぐれだろう」
男女――クロワとノエルは、傷ついた人々と崩れた坑道の入り口、そして足元で絶命している「黒い何か」を見下ろしながら、そんな言葉を交わした。
庇われた女は、助かったとわかった途端に気を失ってしまった。
「しかし、これで1つわかった」
「何がでしょう?」
「<侵略者>は、魔術で殺せる」
大地を砕く力で<侵略者>の先兵を蹴り殺したノエル。
師のそんな気の無い、冗談なのか本気なのかわからない言葉に、クロワは強張った顔に僅かな笑みを浮かべるのだった。
まったく、この人には敵わない。
◆ ◆ ◆
公都での交渉は、結局まとまらなかった。
連合側が態度を軟化させなかったためで、その後の1ヶ月間は大公国とフィリアリーンの呼びかけを無視し続けた。
一時は、交渉の継続すら危ぶまれた程だった。
「それが一転してこれとは。いったい、連合はどう言うつもりなんでしょうね」
「さぁね。流石にここまで振り回されると、いっそ何を考えてたってどうでも良くなるわね」
――――連合、三国同盟案に同意。
その連絡が旧市街にもたらされたのは、もう幾許もしない内に年末に入り、人々が忙しくなる、そんな時期のことだった。
交渉が翌年に持ち越されるかと思った矢先の報せに、各国の首脳部――民衆は知らない秘密協定だ――が動揺するのは、むしろ当然と言えた。
それだけ連合の翻意が意外で、そして不可解だったからだ。
今は秘密協定だが、<侵略者>を打ち払った後は表立って友好条約を結ぶことが前提だ。
それを承認したと言うことは、連合――聖都が、大公国との和解を認めたと言うことだ。
理不尽な領土要求も取り下げて、従来の援助だけで良いと言ってきている。
「何にせよ、同盟を認めてくれるって言うなら良いことには違いないわ。この1ヶ月は何だったのって気はするけど、まぁ、連合の内情なんて探りようが無いしね」
「アレクセイさん達も頑張ってはくれていますが……」
「大公国や連合に比べるとね。下手なことは出来ないし。まぁ、仕方ないわ」
旧市街の地下、レジスタンスのアジト。
リデルは、旧市街が発展しても何故かここを好んだ。
最初は好きでは無かったと思う、湿っているし空気も悪いが、落ち着ける狭さだった。
上では数万人の人々が何かしかの生活を営んでいる、そう思えるのも良かった。
「とりあえずは、それぞれの首都で仮調印。それから国境で正式な調印ね。<侵略者>を追い払った後は、公都で友好条約の調印。筋書きとしては、まぁ、そんな感じね」
「そう簡単に進むでしょうか?」
「ファルグリンは嫌な奴だけど、やると言ったことは必ずやる女だわ。それがアイツを連合の頂点に立たせてる」
そしてアーサーと話す時、リデルは言葉を飾ることが無かった。
思ったことを素直に言うし、感じたことはそのまま伝える。
特に他国の人間と折衝する時等は、最近はそうしない方が良いことも学んだが、アーサーの前でそれをするつもりにはならなかった。
「どうですか?」
「ん?」
「ここ1年ずっと関わっていた問題が解決して、どうです?」
「ああ、そう言うこと。正直、特に何もって感じね。同盟することが目的なんじゃなくて、目的を果たすために同盟するんだから」
北の山脈からは、<侵略者>の先兵の姿が何度か目撃されている。
クロワによればすでに何度か戦闘にもなり、犠牲も出ているらしい。
斥候だとすれば、いよいよ時間が無い。
<大魔女>の予言が、現実味を帯びてきた。
だが、間に合った。
ギリギリのタイミングだったが、どうにか三国が<侵略者>に対する攻守同盟を結ぶ所まで来た。
<大魔女>との邂逅から1年余り、長いようで短かった。
ミノスのヤレアハ達も1週間前に旧市街に到着した、間に合ったのだ。
「ここからよ、アーサー。本当に大変なのは。そうでしょ?」
「……そうですね」
「任せてよね。この時に備えていろいろ考えて、準備してきたんだから」
「…………」
シュウシュウと部屋の隅で大蛇が舌を出している。
そんな中、努めて明るい調子で話すリデルを、アーサーは何とも言えない表情で見つめ続けているのだった。
◆ ◆ ◆
実際、この時期のリデルは多忙を極めていた。
最後の麦の刈り入れが終わると同時に食糧の配給を行い、警備隊の人員に屯田――兵士が農業を行うこと――をさせて、昨年の冬に山々で集めたり、交易で輸入した冬作物の種子を植えた。
収穫の中から冬を越すための備蓄も選ぶが、石油の輸出のおかげで昨年ほど食糧に困らずに済みそうだった。
「石油は、地下の岩盤から滲み出ています。今の所、勢いが衰える様子はありません」
「そう、良かったわ。下手に弄って何かあっても嫌だから、しばらくは漏れ出してくる石油を回収するだけにしましょう」
「わかりました」
石油事業は、今や旧市街の、いやフィリアリーンにとっては無くてはならない物だった。
特に魚油や種油しか無い連合では燃料として人気で、名のある商人が続々と旧市街を訪れていた。
商は旧市街の連絡会の面々がやっているが、石油事業の管理はウィリアムに任せている、大きな間違いは無いだろう。
食糧の目処がついたので、次に行うべきは軍の編成だった。
当然、<侵略者>との戦いのためである。
主力は警備隊、これは1年前から共に戦ってきた3000人、騎兵が500人いる。
とは言え、これではまだ他の2国に比べると見劣り感は否めなかった。
「まぁ、元々あんな奴らがいなくても新市街は問題ないからね。アタシらにとっちゃ、無駄飯喰らいが減って良いさ」
「アンタ達が連れて行ったんでしょうに」
「相変わらず五月蝿い小娘だね、憎たらしいったら無いよ」
目をつけたのは、未だ新市街に留め置かれていた旧属領兵――新市街が奴隷として連れて行った男達――だった。
フィリアリーンのソフィア人入植地は新市街を除いて撤収されているから、各地の属領兵を集めると数万人にもなった。
養える分だけの兵を残して、残りは故郷に返すか、土地を与えて農業をやらせた。
ここで得た旧属領兵の内、5000人を旧市街に集めた。
新市街のアレクフィナは旧市街に兵が増えることに良い顔はしなかったが、同盟のことは理解していたので、特に反対はしなかった。
元々、フィリア人奴隷の解放と返還についても話し合いを続けていたのだ。
一部が少し早まるだけのこと、そう思ったのかもしれない。
「イサーバ! イサーバはいる?」
「ここにいるよ! やぁやぁ、ちょっと見ない内にちっちゃくなったねぇ」
「アンタが大きくなったのよ。嫌味ね、ちょっと身長が倍になったからって」
「いや倍にはなってないよ、さすがに。倍近くさ」
それから、ミノスから来た2000人。
これらの面倒を見るのも、フィリアリーンの役目だった。
この頼もしくも喧しい同盟軍を合わせて、1万人。
旧市街の自立宣言の後、フィリアリーンが初めて万単位の軍を持った瞬間だった。
「マリア、マリアはどこ? 畑の方にはいなかったんだけど――!」
編成と調練、それだけで2週間はかかる。
さらに2週間をかけて北の大山脈まで行かなければならない、案内はアレクフィナがしてくれるが、最短のルートで行けるとしてもそれだけの日数が必要だった。
つまりあと1ヶ月、最低でもそれだけの時間、<侵略者>が来ないことを祈るしか無かった。
◆ ◆ ◆
何ヶ月か前ならクロワの定位置だった市壁の上に立つと、郊外で演習をしている軍の様子が良く見えた。
警備隊とミノスの軍の合同演習で、リデルの発案だった。
一緒に戦う以上、同じ軍として自在に動けなければ戦力が半減してしまうからだ。
今はぎこちないが、1週間もすれば、1つの生き物のように動けるようになるだろう。
「あのヤレアハって王様、相変わらずだったなぁ」
「そうですね」
アーサーがアレクセイを伴って会いに行った時、ヤレアハは女以外に困ったことは無いと言っていた。
英雄色を好むと言うが、あれは色が無いと死んでしまう性なのかもしれなかった。
水や食よりも先に女と言うあたりが、ミノスの男なのだろう。
(そう言えば、あのお嬢ちゃんもあの王様に嫁にされそうになってたな)
アレクセイ自身はあんなちんちくりん――実際に言うと殺されかねないので言わないが――に女としての興味など欠片も抱かないが、そこは好みと言うものであろう。
そのリデルも今は旧市街中、ともすれば新市街や郊外にまで駆け回っていた。
軍の編成と調練、物資の調達に産業の整備、北に向かった後の留守機構の準備から各地との連絡、その他諸々を、ほとんど1人でやっているようなものだった。
「なぁ、アーサー。あのお嬢ちゃん、大丈夫なのかい?」
「……今さら引っ込めと言って引っ込む人じゃありませんよ」
「そう言うこっちゃねぇよ」
剣戟と軍靴の音が聞こえる中で、アレクセイは頭を掻いた。
おそらくしつこく思われているだろうが、こうなってくるとこちらも意地である。
アーサーにも思う所はあるのだろう、生きていれば色々なことがあるものだ。
それに対して自分が遠慮するかと言うと、それはまた別の話である。
ふと、疑問に思った。
リデルのことは置くとしても、この1年と少し、アーサーには女性関連の噂1つ立ったことが無い。
そう思うと、奇妙な考えが浮かんできたりもする。
事の真偽を確かめるのも自分の役目と、アレクセイは言った。
「なぁ、アーサー」
「はい」
「今夜あたり、どうだ。女でも買いに行くか?」
「……はい!?」
あまりと言えばあまりな言葉に、アーサーは吹き出してしまった。
いったい何を言い出すのだと睨めば、アレクセイはどこか緊張して。
「ま、まさか男の方か!?」
「何でそうなるんですか! だったら普通に女性のいるお店に行きますよ!」
「あ、女の買い方は知ってるんだな。ヒヤヒヤしたぜ」
「言っておきますが、行ったことはありませんからね……!」
「え、じゃあお前その年齢でまだなの? うっわマジでー?」
あ、これは殴っても許されるな。
アーサーがそう思って、実際にそうしようとした時だった。
「女を買うって、何?」
血の気が引くと言うのは、こう言う気分を言うのだろう。
別に後ろ暗いことは無いはずだが、それでも妙に良くないことをした気分になった。
引き攣った顔で振り向くと、思った通りの顔が不思議そうに首を傾げていた。
リデルである。
ただし、リデルよりその後ろにいるルイナの視線の方が、この場合は恐ろしかった。
「ねぇ、女を「リデル、急いでたんでしょ?」か……ああ、うん。わかってるわよ」
本当にわからないのだろう、重ねて聞こうとしたリデルをルイナが止めた。
この2人も、随分と仲良くなったものだ。
リデルも大分苦手意識を無くしたのだろう、人種は違うが、今では年の離れた姉妹に見られることも多かった。
「ねぇ、アーサー。マリア知らない? 畑の方にも市場の方にもいなかったんだけど」
「え? あ、ああ。いや、僕も今日は会ってないですね。アレクセイさ……って、あれ?」
アレクセイの姿は、霞のように消えていた。
(に、逃げましたね……)
後で殴ろう、そう思った。
自分がこれ程普通に殴っても良いと思ったのは、幼い頃から一緒だった幼馴染くらいのものだ。
あっと声を上げて、アーサーはマリアがいる場所に心当たりがあることに気付いた。
「もしかしたら――」
はたして、マリアはそこにいた。
◆ ◆ ◆
気が付くと、ここに来る。
旧市街の路地の一つ、焼け焦げた痕は風雨に晒されて薄くなってしまったが、それでも残っていた。
そうしたものの1つ1つを撫でていると、少し前の自分の弱さや愚かさを思い出せるようで、マリアはしばしばここに来るのだった。
「お前には1度、ちゃんと礼を言うべきだと思ってた」
「お礼を言われるようなことは、何もしていないわよ」
「そうかな、そうだな。……そうなのかもしれないな」
立ち上がって振り向くと、リデルが路地の入り口に立っているのが見えた。
この何でも無い路地がどう言う場所なのか、リデルは良く知っている。
ここは、この場所は、ディスが死んだ場所だからだ。
「それでも、言わせてほしい。お前が来てくれたから、ここは変わることが出来た。本当に感謝している」
「だからさ、前にも言ったと思うけど。それは皆が頑張ったからで、私がやったことなんてほんのちょっとのことよ」
「……そうかな」
「そうよ」
本人が何と言おうと、リデルは旧市街を変えた。
マリアはそう思っていたし、これからもそう思い続けるだろう。
実際、リデルが来なければ、旧市街はあのままダメになっていたかもしれない。
いや、なっていただろう。
ソフィアによる支配で搾取され続け、やがて絞れるものも尽きて、滅びるしか無かったはずだ。
食べ物も無く、人も消えて、街も潰れていただろう。
あと一歩でそうなっていた。
そうならなかったのは、リデルが「私は嫌だ」と言ったその瞬間があったからだ。
<私は嫌だ>。あの瞬間から、全てが始まった。
「お前はソフィア人だ。けれど、お前はこの街の恩人だ。だから」
リデルがこれからどんな戦いに挑むのか、マリアは知っている。
他の主だった仲間もそうだ、だが普通の者達は知らない。
教えることも出来ないからだ。
信じるとも思えない。
「だから私達は、お前が本気で頼むなら、理由なんてどうでも良いんだ」
そのことについて、リデルが悩んでいるのを知っている。
真実を知らされないままに戦わされる者達に、負い目があること、ちゃんと知っている。
負い目を持ってくれるリデルだから、従おうと言う気持ちになった。
「気にするな、やりたいようにやれば良い。他の誰でも無い、お前だからだ」
リデルは、戸惑っているようだった。
当たり前だ、急にこんなことを言われて戸惑わない方がおかしい。
それでも言っておきたかった、きちんと言葉にしておきたかったのだ。
アーサーに対しては情を、リデルに対して感謝と忠節を。
マリアがしてやれるのは、それくらいしか無かった。
「ああ、そうだ。それからアーサーのことだけどな」
「アーサー?」
「あいつのこと、よろしく頼むよ」
「……?」
アーサーも、もう自分が知っている頃のアーサーでは無かった。
あれもまた、リデルと出会って変わった1人だ。
本人がどう思っているかはわからないが、マリアはそう思っている。
あいつは、変わった。
子供の頃はお姉さんぶっていろいろ面倒を見てやったが、いつまでもそんな気分では良くないだろう。
そうは思うが、これもお節介と言えばそうだった。
案の定リデルは良くわかっていないようで、それがおかしかった。
「と言うか、アーサーはどうした。一緒じゃないのか?」
「え? ああ、うん。何か、女の人を買いに行くって」
「どういうことだ!?」
その後、旧市街に凄まじい誤解が流布されることになるが、それはまた別のお話。
――――敵の流言と言うことで、何とか収めておいた。
◆ ◆ ◆
旧市街でリデル達が慌しく準備を進めているのと同様に、他の2国でも動きが慌しいものになっていた。
特に他の2国の軍を迎え入れることになる大公国側でそれが顕著で、またこの国は<侵略者>の侵攻に直接晒されることになる。
それらは全て、大公国にとって「史上初」のことであった。
「ご苦労様です、同志ノエル」
イレアナがアリウス=ニカエア大山脈に入ったのは、同盟調印から3日後のことだった。
寒風吹きすさぶ中で――それでも、例年より遥かに過ごしやすい気候だ――それでも冷然とした表情は崩さずに、麓で先行していたノエルに会った。
傍らにクロワもいたが、そちらには一瞥をくれただけだった。
「状況はどうなっていますか。報告は定期的に受けていますが、現地でしかわからないこともあるでしょう」
「直近の報告から2度、敵兵らしきものと戦闘になりました。いずれも1人、はぐれです」
「なるほど。斥候と言うには聊か不自然ですが……」
彼女らの周囲には、すでに数千の協会兵がいた。
資材を山に運び込み、<アリウスの石>縁の兵器や道具も数多く姿を見ることが出来た。
その様子を見上げながら、イレアナが言った。
「私の職権で、山への人の出入りを許しました。もともと、聖地である、と言う理由以外に未踏の地にする理由は無かったのですから。公王陛下も了承済みです」
眼鏡に指を添えて、アリウス=ニカエア大山脈の山並みを見上げる。
自然、ノエルとクロワもそんな姿勢になった。
天を突くかの如き険しい山々が、雪化粧を剥ぎ取られつつあるのが良くわかった。
300年間、氷雪に閉ざされていた山だった。
イレアナは片手に金属製の本を抱えたまま、もう片方の手で山々を指差した。
右から左へ、指差した数は4箇所に及んだ。
それは今まさに、協会兵達が資材や物資を運び込もうとしている場所だった。
「雪が解けて、閉ざされていた道が開けたことでしょう。それに沿って、砦を築きます。北側に1つ、南側に1つ。そしてその中間の左右に1つずつ。この4つの砦を結ぶ線が、まず防衛線と言うことになります」
「なるほど」
「戦後には、関所として活用できるでしょう」
それについては、ノエルはただ頷くだけだった。
開戦前後の諸々については、イレアナの仕事と割り切っているのかもしれない。
混血と言うことで後ろ指を差されることも多い女だが、イレアナはそう言う竹で割ったような率直な性格は嫌いでは無かった。
砦を、要塞を築きつつ山狩りを行い、入り込んだ<侵略者>のはぐれを殲滅する。
ノエル――それから、クロワ――の力は、その時に使えば良い。
それ以外の仕事は、まさしく自分の仕事だった。
兵を増やし、食糧物資を蓄積し、さらに同盟軍を迎え入れる諸々の手配もしなければならない。
「同志キアには、公都を任せてきました。大きな間違いは無いでしょう」
7人の<魔女>も今や3人、国土を7つに分けたそれぞれの任地を治めることは、もはや出来ない。
だからキアは今、公都で事実上、大公国全土を掌握していることになる。
それについて左右から小五月蝿いことを言ってくる者もいるだろう、小賢しく言い寄ってくる者もいるだろう。
キアならばその全ての心を見透かした上で、上手くコントロールしてくれるだろう。
(ただ1つ、あの娘に読めないものがあるとすれば)
それはきっと、あの女のことだけだろう。
あの女だけは、人の心を拠り所とするキアの天敵のように思える。
何しろ、その相手は心を強く病んでいるのだから。
そして今、前言を翻して大公国との同盟に同意してきた女だった。
「しかし一度戦と決まったなら、そのようにしてみせましょう」
たとえあの女、ファルグリンにいかなる意図があったとしても。
イレアナのするべきことは、何一つとして変わらない。
それに少なくとも<侵略者>の侵攻を跳ね返すと言う点では、両者の意見は一致しているはずなのだから……。
◆ ◆ ◆
ラタは、やはり困惑していた。
ファルグリンの意図がまるで見えなかったからだ。
1ヶ月前には拒否した同盟を、今は積極的に進めている。
(それが政治なのだろう)
純軍事的な目しか無い自分には見えないものが見えていないのだろう、1度は、そう思った。
軍事は政治の一部だ、国の目的を果たすために軍事力を行使することだ。
だからきっと、ファルグリンは政治的な駆け引きに同盟案を使ったのだろう。
けれど、やはりわからなかった。
何故ならばこの同盟、連合にメリットが無いのである。
大公国を守るために――大公国が敗れた後は連合が襲われると、頭ではわかっていても――兵を出し、そして得られるものは僅かばかりの援助だけ。
おまけにファルグリンは、大公国との和解と言う政治的な爆弾を抱え込むことになった。
「モタモタするな! 遅れる者は軍令により処断だぞ!」
しかしそうした諸々を考えつつも、ラタは己のするべきことをした。
軍人だからだ。
軍人だから上の命令に従い、その完遂だけを考える。
聖都に集結させた10万の軍を、大公国の指定したルートで戦場まで運ぶことだ。
ルートししては、まず聖都から真っ直ぐ北上する。
そこから国境の川に沿って両国の北東境界へ向かい、アリウス=ニカエア大山脈の東端に達したら、西進して公都北方の開戦予測地点に向かう。
全部で4週間の行程、時間がかかるが、ほぼ真っ直ぐ北上すれば良いフィリアリーンと違い、10万ものフィリア人の軍勢を人目につけずに動かすには他に手が無かった。
「駆けろ! 前の者が足を止めるなら、そいつを斬り捨てて走れ。駆け続けるんだ!」
数万の歩兵を、駆けさせている。
理由は3つある。
第1に少しでも進軍を速めるため、第2に身体を鈍らせないため、そして第3に物を考えさせないためだ。
ラタ自身も常に馬上にあって、軍の先端から後方まで何往復もして兵を叱咤している。
馬で走ることは、地面を駆けるよりもある意味で疲労が溜まる。
先に言った3つの理由は、もしかすればラタ自身にも当てはまるのかもしれない。
その日は結局、22キロ程進んだ所で停止した。
脱落兵は、死んだ者も含めて50名程だった。
「――――そのまま進軍させなさい」
夜、そのことをファルグリンの帷幕まで報告に行くと、顔を合わせないままに中からそんな声が届いた。
帷幕の入り口に立つラタは、軍礼をしてそれを聞いた。
一言、言葉をかけてほしかった。
そう思ったが、口にすることは出来なかった。
「今のままのペースで進めば、ちょうど良い頃合に到着出来るでしょう」
自分よりファルグリンの方が多くを見ていて、悩んでいるはずだ。
ラタは、そう自分に言い聞かせた。
言い聞かせなければファルグリンを信じられなくなっている自分に、どうしようも無い嫌悪感を抱いた。
◆ ◆ ◆
光陰矢の如しとは良く言ったもので、あっと言う間に2週間が過ぎた。
明日はいよいよ北の戦地に向けて出発と言うことで、兵はもちろん、アーサーのように同行する幹部も含めて早めに休むようにしていた。
夕食も、いつもよりは良いものを腹に入れた。
「いや、別にそう言うお店に行ったりはしませんよ?」
誰にとも無くそう言って、アーサーは上着を椅子の背に投げつけるようにして置いた。
今日も1日良く動いた、とは言っても細かなことは全てリデルがやってしまうので、実際にやらなければならないようなことは何も無いのだが。
そう言う彼がいるのは、地上の、シーツを敷いたベッドのある部屋だった。
ちなみにこれは、旧市街では酷く貴重な部屋だった。
彼も普段は地下のレジスタンスのアジトで寝起きしているのだが、今日に限っては、やけに小綺麗な部屋に押し込められたのだ。
良く休むためとのことだったが、正直、地下の固い寝台の方が寝やすかった。
そもそも地面の上で眠ることが多いのだから、ベッドと言うのは慣れないのだ。
「……床で寝ますかね」
そんな哀しいことを呟いてみる、割と本気だった。
それにベッドがあると言っても、粗末な部屋であることには違いが無かった。
元々はホテルか何かだったのだろうが、壁は傷みカーペットは薄く擦り切れている。
数年間風雨に放置されていた部屋を、急遽掃除して整えた、そんな感じだった。
2階部分に当たるから、窓はある。
ただカーテンは無い、元々あったのだろうが、今は代わりに麻布かかけてあった。
灯りも油皿に入った小さな蝋だけ、薄暗かった。
何を出来るでも無いが、何かを考えることは出来る、そんな環境だった。
(まぁ、自分の人生でこれほど話の種に困らないと言うのも、珍しいでしょうし)
庶民に生まれ、気が付けば王族になり、そして亡国の王子となった。
そして今、今度は王として祭り上げられている。
しかも今度は自ら望んでそうしているのだから、不思議と言えばそうだ。
変わるものだと、そう思った。
その変化の中心にいるのが1人の少女だと思うと、それこそ不思議だった。
「リデルさんとは、どうなのか、ですか」
ポツリと、呟いてみる。
ここの所、やけに周囲からそう言われるので、嫌でも考える。
むしろそうやって、その気になるのを待っているような節すらあった。
余計だしお節介だが、そう口に出したことは無かった。
「そもそもリデルさんに、そう言う考えが無いじゃないですか」
それを言い訳にしてやいないかと、自分に問いかける声があった。
まさか、と笑う。
それではまるで、リデルにそう言う考えがあれば良いようでは無いか。
確かに自分はリデルのために大陸中を駆け回ったが、それは島から連れ出した責任から来るものだと思っていた。
仮に、そうなったとして。
どうなると言うのだろうか、と言う思いがあった。
一緒になって、子供でも作れと言うのだろうか。
そうなった時、自分とリデルがかつての自分の両親のようになっていないと、どうして言える。
「王族の、僕の子供になんて生まれるものじゃありませんよ」
「――――あら、どうして?」
不意に声が聞こえて、振り向いた。
驚いたが、焦りは無かった。
噂をすればと言うが、最近の彼女は自分が話題にしたり考えたりすると現れる所があった。
だから落ち着いて振り向き、そしてぎょっとした。
「呼んでも返事が無かったから、勝手に入ったわよ」
そこにはリデルがいた。
気のせいで無ければ、いつに無く綺麗に磨き上げられた姿で。
普段より薄手で頼りなげな衣装に身を包んでいて、それが勝気な少女をたおやかに見せていた。
髪と肌も、艶やかに整えられているように見える。
アーサーはかつてない程に危機感を覚え、ごくりと喉を鳴らすのだった。
◆ ◆ ◆
危険だ。
今の自分の状態はかつて無い程に危険だ、と、アーサーは思っていた。
背中に嫌な汗が流れていくのを、こんなにも自覚したことは無い。
「り、リデルさん」
「何よ」
「べ、別にベッドに並んで座る必要性は、無いんじゃないですかね」
さほど広くない部屋とは言え、椅子の1つはある。
にもかかわらず1人用のベッドの、しかも真ん中に2人で身体を寄せ合って座っているのは、リデルの方がそれを望んだからだった。
なのでそれとなく――それとなく?――指摘してみたのだが、リデルは首を傾げて。
「……嫌なの?」
「え?」
「私と座るのは、嫌なの?」
「い、いや、嫌とか言うわけでは無く。むしろリデルさんの方が嫌なのではと」
「私は別に嫌じゃないけど」
「そ、そうですか」
「うん」
「……」
「…………」
沈黙が、痛かった。
いつもなら何かしらの動物なりが出てきて噛み付いてくるのだが、今日に限ってそう言うことは無い。
まぁ、今のリデルは小動物を仕込めないくらい薄い格好をしているのだが。
ちら、と視線を横に向ける、横と言うか身長の関係で斜め上から見下ろす形になるが。
余り詳しくは無いが、おそらくネグリジェ、の部類に入るのだろう。いや、シュミーズだったか?
両者の違いが定かでは無いが、珍しいことに、細い肩紐で支えているだけの白いワンピースだ。
普段の服装に比べると酷く頼りない、白く薄い肩が目の前にあった。
やや大きめの服なのか、胸元の布がたわんで……。
「……!」
「どうしたの?」
「いえ、特に何も」
努めて平静にそう言うが、危なかった。
リデルがいわゆる女性らしい丸みに乏しい――華奢なだけである――ので、何と言うか、衣服を押し上げる力が弱かった。
つまり隙間が出来るわけだが、押し上げるものが無いその隙間に目を向けるのは極めて危険だった。
「ねぇ、アーサー」
顔を背けたそのタイミングで、逆にリデルがぴたりと身をくっつけてきた。
これはいったい、どう言うことなのか。
少女の体温が直に伝わってきて、心の中で悲鳴を上げた。
普通なら喜んでも良さそうなものだが、このあたり、誠実なのか不器用なのか。
「アーサー。私、怖いわ」
ただ、そう言われた時だけ、汗が引いた。
そして、自分を叱咤した。
いったい何をしていると、自分を詰らずにはいられなかった。
すぐ傍にいながらにして、気付けないなどと。
(怖れを抱かないわけが、無い)
ここ1年の奮闘振りを見ていて、忘れていた。
それこそほんの1年前には、孤島で1人過ごしていたただの少女なのである。
それが今、1国を、いや世界の人々の命運を懸けた戦いに赴こうと言うのだ。
不安で無いはずが無い、恐怖が無いはずが無い。
こう言う時こそ、自分が支えなければならないのに。
今、アーサーは恥じていた。
くだらないことを考えていた自分が恥ずかしく、また悔しくもあった。
そして意を決して視線をリデルへと戻す、すると、彼女は何やら紙片を覗き込んでいて。
「えーと、次は『抱き締めて、お願い』、と」
「……あの、リデルさん。何をしているんですか?」
「え? あ」
アーサーが見ていることに気付いたのだろう、リデルは紙片を手の中に折って隠すと、ぎゅっとしがみついてきた。
当然のことながら、アーサーの心は1ミリも動かなかった。
「抱き締めて、お願い」
「いえもう何もかもが遅いですよ」
「そんなこと無いわ、何事にも遅いと言うことは無いのよ」
「だとすれば、これが最初の事例だと思います」
急にどっと疲れを感じて、溜息を吐く。
結局の所、振り回される運命にあるのかもしれない。
アーサーの吐息をどう感じたのか、ばつの悪そうな顔でリデルが離れた。
女性に対して失礼だったかもしれない、と、そんなことを考えた。
「ごめん、悪かったわよ」
「いえ、別に怒ってるわけじゃありませんよ」
「怒ってる?」
「怒ってませんよ。まぁ、気にはなりますが。その紙は?」
これ? と掲げて見せる紙片には、やはりと言うか、いくらか文字が書かれていた。
先程の言葉は、それを読み上げていたのだろう。
で、その紙片を誰が用意したのかと言えば。
「アレクセイが」
「なるほど」
やはり、あの男は殴らねばならないようだった。
脳裏に思い浮かんだアレクセイが「素直になれよ!」と親指を立てていたので、2回殴ろうと思った。
「あと、ルイナとか」
「ああ……って、とか?」
「うん、あとは」
「あ、いや良いです。それ以上は何か聞きたくないです」
前々から思っていたことだが、自分の周囲の人間は外堀を埋めることに真剣すぎる。
いや、もはや総出で内堀まで埋めにきているとしか思えなかった。
そうでなければ、何も知らないリデルにこんなことをするよう仕向けるはずが無い。
そう言う意味では、少しだけ怒りを覚えなくも無かった。
そんなアーサーを見てどう思ったのか、リデルは頭を掻いていた。
ベッドに腰かけるのではなく、内股でお尻をぺたりとシーツの上に乗せるようにして、座っていた。
それから、いくらか何事かを考えているようだった。
持っていた紙片をくしゃくしゃに丸めて捨てると、膝立ちになった。
「リデルさん?」
返事が来る前に、アーサーの目の前は白く覆われた。
それがリデルの衣服であり、彼女に頭を抱き寄せられていることに気付いた。
温もりと柔らかさを鼻先に感じて、突然の事態にアーサーは。
「……怖いのは、本当」
するりと、リデルの言葉が入り込んできた。
◆ ◆ ◆
リデルは、怖かった。
だがそれは、これから起こる戦いに対する恐怖では無い。
他人の命を左右する判断をしなければなたないと言う恐怖でも、無い。
何故か、アーサーにはそれがわかった。
「ねぇ、アーサー」
実の所を言えば、リデルがそう言う風に悩んでいるのでは無いかと、気にかけてくれる者は他にもいた。
それは例えばルイナであり、マリアであり、あるいはアレクセイ達のような人々だった。
けれどそれはリデルの一側面を映してはいるが、本質では無かった。
「私、ちゃんとやれてるかな?」
リデルの本当の恐怖は、つまるところ、そこにしか無かった。
「私、アンタの軍師として、ちゃんとやれてる?」
「……とても」
そしてアーサーは、やはり自分を恥じた。
見るべきものを見ていなかったと、そう思ったのだ。
王になると決めた以上、それは自分が目を配らなければならない部分だった。
「とても、良く。リデルさん以外に、僕の軍師は務まらないと思います」
「どうして? イレアナみたいに何でも知っているわけでも、ファルグリンみたいに強いわけでも無いのに」
「能力だけで言えば、そうかもしれませんね」
「自分でもわかってるもの。あの2人みたいには、どうやったってなれないって」
「なる必要は、無いと思います」
伊達に何年も大国の舵取りをやっているわけでは無く、経験でも能力でも、リデルはあの2人には及ばないだろう。
父のようになりたいと願うリデルにとって、それは途方も無い焦りを生むだろう。
そう言うことにも、自分は気付けていなかった。
「だって僕達は、僕は、リデルさんだから。貴女だからこそ、ついて行こうと思えたんです」
イレアナだろうとファルグリンだろうと、旧市街の人間は1人としてついて行こうとは思わなかっただろう。
世に軍師や参謀と呼ばれる人間は、それこそ星の数だけいるのだろう。
それでも彼らはリデルだけに従う、ついて行く、その言葉に耳を傾ける。
例えリデルが、どんなに無謀で愚かな策を示したとしても、自分達はそれに懸けるだろう。
その先に勝利があると、信じられる。
それはきっと、多くの軍師が求めてやまないものだ。
「あまり、1人で抱え込まないで下さい。リデルさん」
いつかも言った言葉を、今度は別の意味で言った。
「考えるのは、私の仕事だわ」
「そうですね。軍師なんですから、そうしてもらわないといけません」
「うん。だから」
「だから、考え終わったら、きちんと言って下さい」
「…………」
「そうでないと、王様甲斐がありませんからね」
議論は、皆で出来る。
相談は、2人で出来る。
しかし決断は、1人でしか出来ない。
その決断をするのは、軍師では無く、王であるべきだった。
つまり自分だと、アーサーは思った。
「そうね」
一つ頷いて、リデルが言った。
「軍師は、王様のものだものね」
「はい」
「スンシ曰く……ううん、やっぱり良いわ。アーサー」
「何でしょう、リデルさん」
「アンタは私の王様よ。だから、普段から王様らしくしていなさいよね。そうでないと、私が困るんだから」
「善処します」
権力が、嫌いだった。
だから今一つ、王として振る舞うことに躊躇していた。
それがリデルを不安にさせていたことに、改めて気付いた。
腹を据えよう、と思った。改めて、そう思った。
この少女のために腹を据えるのなら、悪くは無いと思えた。
「アンタが私の王様で、良かった」
その言葉を受けるには、まだ早い。
そう思いながら、アーサーは目を閉じた。
頭はまだ抱かれていて、そうしていると、小さな鼓動を聞くことが出来た。
不思議と、心地良い音だと思った。
「……」
「…………」
「………………」
「……………………あの」
その姿勢のまま、数分もしただろうか。
流石に疲れを感じて――あと、体勢のいただけなさに恥ずかしくなって――声をかけると、リデルは「なに?」と応じてきた。
声の震動も、頬に直に感じることが出来た。
「いつまで、この体勢は続くのでしょうか……?」
「え? 朝までだけど」
「何故」
「ルイナが」
「離れましょう」
この場にいない者の策謀を感じて、リデルの身を押すようにして離れた。
不満そうに唇を尖らせているように見えたのは、おそらく気のせいだろう。
「ルイナが、こういう時は男女が一夜を明かすのがセオリーだとかって」
「そんなセオリーはありませんよ。あったとしたら溝に捨てるべきセオリーです」
「そんなこと言ったって、そのために貴重な水まで使ってお風呂まで作ってたわよ?」
「ああ、どうりで良いに……」
「に?」
「いえ、何でもありません。とにかく、そう言うセオリーは無いです」
やや顔を赤らめて、咳払いをしつつ、そう言った。
「それに、例えルイナさんに言われたからといって、やりたくも無いことをしなくても良いんですよ」
「いや、ルイナが何でそんなこと言ったのかは私もわからないけど」
「けど?」
「私、やりたく無いと思ったことはやらないわよ。いくらなんでも」
むしろ淡々とした様子で、あっさりとそう言ってきた。
また誤解を受けそうなことをと思ったが、この場合、その誤解とやらをするのは自分だけだった。
眉間の間を揉むようにして、考え込んだ。
そして考え込んでいる内に、リデルは何やらベッドのシーツをばしばしと叩き始めた。
どうやら寝る準備をしているようで、聞いてみると、実際にその通りだった。
何だか、頭痛がしてきた。
ちなみに「一夜を明かす」と言うことの意味について、どのように理解しているのか聞いてみた。
すると、こんな答えが返って来た。
「良くわからないけど、明かすって言うんだから、朝までってことでしょ? 朝までお喋りしてれば良いって言うなら、前にもやったことがあるから大丈夫よ」
再び眉間の間を揉むアーサー。
む、待てよ、前にも?
「前にもと言うと?」
「ヤレアハの時」
「ああ……」
「アイツも同じこと聞いてきたから、同じことを答えてやったわ。そうしたら、何でかはわからないけど、爆笑してたわ」
そう言えば、そんなこともあった。
あの時はうやむやになったが、なるほど、そう言うことか。
「ちなみに、どんなことを話したんですか?」
「良く覚えてないわ。かなりどうでも良いことだった気がする。あんまりアイツが爆笑して腹が立ったものだから、明け方にアイツの置いてったお酒を全部飲んでやったわ。頭が痛くなって死にそうになったけど」
「はぁ」
「アイツはアイツで話すだけ話したらどっか行ったから、何しに来たんだか、結局わからなかったけど」
何だかどうでも良くなって来て、アーサーは適当に相槌を打った。
もうどうにでもなれと言う気分になって、アーサーはリデルの整えたベッドに横になった。
ベッドは苦手だが、それすらもどうでも良い気分だった。
ふっと灯りが消える、リデルが火の消えた油皿をチェストに置く音が聞こえた。
当然、ベッドは1つしかない。なのでシーツがめくられても特段に驚くことでは無かった。
しかしリデルがシーツに潜り込んでくると、流石に色々と考えた。
触れることも触れてくることも無い、が、狭いベッドである。
互いの温もりは、黙っていても伝わった。
「それで」
沈黙と暗さに苦しさを覚える前に、アーサーが口を開いた。
「何の話を、しましょうか」
「そうねぇ……じゃあ、アンタの子供の頃の話が良いわね」
「僕の子供の頃の話?」
少し考えた後に来た答えを、不思議に思った。
「アンタ、自分の子供に産まれない方が良いって言ってたじゃない」
「ええ、まぁ」
「だから、そんなアンタの子供時代がどんなだったのかなって。そう思っただけよ。嫌なら話してくれなくても良いわ」
「……本当に嫌なことなら、しませんよ。僕は」
自分の子供時代か、とアーサーは思った。
楽しい話題では無いと、思う。
貧しさ、幼馴染との別れ、権力に堕落していく両親、そう言う話しか無い。
それと、僅かの思い出だ。
「そのままで良いわ。嫌なことも苦しいこともそのままに、話してくれれば」
胸中を測られたように、そんなことを言われた。
1度、深く息を吐いた。
吐息に形があるのなら、それはきっと、雲のように広がっただろう。
広がり、思い起こせば、記憶はいくらでも広がりを見せた。
「そうですね、では……」
それから、アーサーは己の半生を明け方まで話し続けた。
嫌なことも苦しいこともそのままに、話した。
リデルは、時折感想を言う以外には、口を挟まなかった。
つまらないことだったような気もするし、救われるようなことだった気もする。
話の内容は、実の所は、どうでも良かったのかもしれない。
実際、明け方にまどろみを覚えて、すぐに覚めた一時で話の内容はほとんど忘れてしまった。
けれど、リデルと一夜を語り明かしたことは忘れないだろうと、そう思った。
リデルもそうであってくれれば良いと、思った。
◆ ◆ ◆
そして、とうとうその日がやってきた。
世界の人々は何も知らず、今日と同じ明日がやってくるものと信じているだろう。
いやもしかしたら明日は来るかもしれない、だが明後日は、その先は?
それがわかる者達にとって、その日はやはり特別な日だった。
「公王陛下。そろそろ、フィリアリーンと連合の同盟軍が山に入る頃かと」
「……そう」
公都宮殿の、ベルフラウのお気に入りの中庭。
玉座の間よりも、彼女はそこにいることが多かった。
壁に囲まれて切り取られた絵のようになっている空を、花畑の中から見上げるのが、ベルフラウの日課のようになっていた。
側の小道まで、キアは車椅子で近付いた。
花畑の中に寝転んでいるため、ベルフラウの表情は見えなかった。
ドレスが皺になるだろうに、と、そんなことを思った。
「敵の手が伸びて来ないとも限りません。どうか宮殿の中へお入り下さい」
花畑の中――実は、ベルフラウがこれを許す人間は少ない――で傍に膝をついて、フロイラインが心配そうにそう言うのが聞こえた。
この女性はいつもベルフラウのことを心配している、心配していない時が無いと思える程だ。
盲目ゆえに見えはしないが、キアも空を見上げた。
「公王陛下、中へ」
「もう少しだけ、このままでいさせて頂戴。フロイライン」
ポカポカとした太陽の熱が、肌に心地よかった。
しかし彼女の眼には、いつだってあの星空を映している。
そんな彼女の眼には、北の空はどう見えているのだろうか――――。
――――聖都では、珍しい光景が広がっていた。
教皇が、司祭達を連れて広場にやって来ていた。
普段は何か式典でも無い限り大聖堂の外に出てこない教皇の姿に、人々はざわついた。
そのざわつきの中で、教皇は広場に膝をつき、胸の前で両手の手指を組んだ。
「なぁ、今日って何かあったか?」
「いや、特に何かの日ってわけじゃないはずだけど……」
祈りを、捧げていた。
それがどんな、また誰に向けられた祈りなのかはわからない。
だが聖都の人々は、彼女が健気に平和を祈っていることを知っていた。
何をしてくれたでも無い、貧しい自分達のために、祈っていたことを知っていた。
例えば戦場で、彼女を守って死のうとする者はいないだろう。
彼女は祈るばかりで、民に何かをしたことが無かったからだ。
だがその祈りが常に、自分達が安んじられるようにと、そう言う祈りであったことは知っていた。
「ま、まぁ、じゃあ」
「ああ」
「なぁ?」
だから、いつしか教皇の周りには人々が集まり、同じように祈り始めた。
何の祈りかもわからぬまま、平和であれ、安らかであれ、健やかであれと祈った。
<聖女フィリア>の加護がありますように、と、異口同音に祈りを捧げた。
人の輪は10になり、20になり、その数を増していった。
集まった民の数に驚いた兵達がやってくるまで、それは続いた。
「どうか、無事で――――……」
それでも、教皇の祈りが途切れることが無かった。
はたしてその祈りは、北の彼方まで届くだろうか。
◆ ◆ ◆
わかっていたことだが、2週間は短い。
気が付けば行軍の途上にあり、大公国領内深くにまでやって来ていた。
とは言え1万人もの味方の兵に囲まれての行軍など初めての経験であって、アーサーは少し落ち着かない気分を感じた。
「おいヘタレ王子、そろそろ北の山が見えてくるってよ」
だがそれも、すぐ横でこんなことを言われることに比べれば大したことは無かった。
「もう何発か殴っておいても良かったかもしれませんね」
「何だよ、2週間ぶりに会った人間にそんなこと言うなよ。哀しくなってくるだろ」
「はいはい。それで、今度はどこに行ってたんですか?」
「ティエルさ、ヴァリアスの野郎の研究室をもう1度見直して来た」
ヴァリアス、1年前に大公国を乗っ取ろうとした<魔女>だった。
今さら彼の研究室に、何の用だろうか。
逆さまの地図を始めとする研究資料なら、すでに目を通した。
それによれば、ヴァリアスは大山脈の北側に別の「国」があると考えていた。
それがいわゆる<侵略者>の国であることは、何となく想像できた。
「調べ直して見ると、奴さん、もう一歩踏み込んでその「国」とやらについても調べていたんだと」
「どんな「国」があるのか、と言うことですか?」
「いや、どんな文化があって、言葉があって、みたいな」
国、文化、言葉か。
思い返してみれば、<大魔女>の記憶の中で見た<侵略者>は、アナテマのどの文化・文明とも異なる存在のように思えた。
ただ黒く、そして異質で、違うもののように思えた。
「まぁ、ヴァリアスがどう言うつもりでそんなことを調べてたのかは、今となってはわからんよ」
「……気にはなりますね」
「ま、聞く所によれば言葉も通じない奴ららしいから、どこまで意味のある研究だったのかは不明だな」
「勝てますかね」
「王様がヘタレだからな、負ける可能性は大だな」
一言余計だ、睨んでもアレクセイはどこ吹く風と言った風だが。
「ま、これで負けるようなら、そりゃあもう何やってもダメってこったろ」
「そう、ですね。そうなのかもしれません」
「なぁに。いざとなれば、お前とお嬢ちゃんだけは逃がしてやるよ」
「……そう言うことを言うと、またリデルさんが怒りますよ」
アーサーは馬に乗っていた。
緩やかに駆けている、馬に乗っていない歩兵にとっては七分駆けと言った所だろうか。
1万人が駆ける姿は壮観だった。
こんな数の味方の中にいるのは、何度も言うが初めてだ。
1万人の兵達は実戦と調練を経た兵であるから、体力面では問題は無さそうだった。
あるとすれば、旧市街警備隊、元フィリア人兵、ミノス軍の混成軍である所だろうか。
今も、駆け方やペースに幾分かバラつきが見える。
装備も、軽装・重装備・部族衣装とまるで違う。
上手く嚙み合わなければ、見た目よりも弱い軍となるかもしれない。
「まぁ、やりようによるわよ」
リデルはアーサーより前、いわば先鋒とも言うべき位置にいた。
この位置の兵は後続よりも速く駆けている、先頭が遅いと後続が込むからだ。
兵の様子は、悪く無い。
ただアーサーも懸念するように、兵の質にバラつきがあるのは仕方無かった。
「それにしても、アンタとこうして並んで走ってると、何だか妙な気分だわ」
「アタシだって、何たってお前らなんかを案内してるんだかわからないよ」
いくら許しがあると言っても、1万もの軍勢で大公国の領内を自由に動けるわけでは無い。
なるべく人目が少なく、それでいて軍勢の移動に適した場所を通らなければならない。
だから、監視を兼ねた案内人がつくのが当然だった。
そして大公国の人間の中で、リデル達と少なからぬ関係がある者は多くなかった。
アレクフィナが選ばれたのは、そう言う意味ではむしろ当然だった。
「砦はもう完成してるんだぜ!」
「ふひひ、急ぐんだぞ~」
ブランもスコーランも、相変わらずだった。
馬の上で、背筋を伸ばした。
元々、馬術の心得が無くとも馬が運んでくれる。
魔術も無しに動物に好かれるのは、島育ち故だろうか。
馬の頭に乗った鳥とリスを見て、クスリと笑う。
背筋を伸ばしたのは、遠くを見るためだった。
具体的にはアリウス=ニカエア大山脈、すでに遠目に山の連なりが見えていた。
聞く所によると、イレアナはあの山中に防衛用の砦を築いたらしい。
流石に手回しが早い、そう思って目を細めていたのだが。
「……うん?」
「何だ、どうしたんだい」
「んん――? いや、何か変じゃない?」
まだ遠いので、リデルの視力でははっきりとは見えなかった。
一方で同じように奇妙さを感じる者はいるのか、近くにいる何人かが不思議がっているのがわかった。
「ルイナ!」
「は~い」
軽く応じて、馬を凌駕する速度で傍まで駆けて来たのはルイナだ。
今やフィリアリーン1番の兵士になっている彼女だが、調子は村娘のままだった。
「ルイナ、山の方に何か見えない?」
「うーん、そうねぇ……」
額の上に手を置いて、ルイナは遠くを見た。
視力も、常人の3倍はある。
じっと遠くを見つめた後、彼女は言った。
「……燃えてる?」
「何?」
「山の上、何か燃えてる。何かはわからないけど、1つじゃない」
「何ですって!?」
つい先日まで閉鎖されていた山、山中にあるものはイレアナの砦以外に無い。
氷雪に閉ざされている以上、他に燃えるものは無い。
そこが燃えている。
火の手が上がっているとなると、事故――いや、イレアナに限ってそれは無い。
攻め寄せられている。
だが、このアナテマ大陸にあんな北端の砦を攻めるような勢力はいない。
いるとすればそれは、1つだけ。
「――――ッ!」
世界の外にいる者。
遥か北方より来る者達。
<侵略者>の他に、いるはずが無かった。
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
決戦前と言うことで、雰囲気出してみようと思いました。
今作では、男女の機微について認識の差がある男女、と言うのを描いてようと思ったのですが、なかなか難しいですね。
やはりこう言う場合は、そう言う意識のある方がリードしないとですよね。
頑張れアーサー(え)
一方で、純真だからこそ素直に好意が出ることがあるのかも、とか思ったり。
それでは、また次回。